相馬氏惣領 相馬義胤

相馬氏
代数 名前 生没年 父親 母親
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳)
7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤
8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■二代惣領■

相馬義胤 相馬氏二代 (????-????)

<正室> 不明
<通称> 相馬五郎
<名前> 能胤(実名?)
<父> 相馬次郎師常
<母> ――――――
<官位> ――――――
<官職> 兵衛尉
<役職> 相馬御厨地頭職・越後国(蒲原庄)守護代、大和国宇野庄地頭職
<法号> ――――――

●相馬義胤事歴●

 父は相馬次郎師常。母は不明。千葉介常胤の孫にあたる。通称は五郎。官職は兵衛尉。譲状や下文など公的な書状には「能胤」と署名がなされており、「能胤」が実名か

●元久二年正月一日埦飯(『吾妻鏡』)

埦飯 遠州(北条時政)
御剣       小山左衛門尉(小山朝政)
御弓征箭 三浦兵衛尉(三浦義村)
御行騰沓 足立左衛門尉(足立遠元)
御馬五疋 佐原太郎(佐原景連)、長井太郎(長江景義か)
筑後六郎(八田知重)、筑後九郎(八田知氏)
足立八郎(足立元春)、春日部次郎(春日部実高)
長沼五郎(長沼宗政)、結城七郎(結城朝光)
相馬五郎(相馬義胤)、東平太(東重胤)

 元久2(1205)年正月1日の埦飯の儀に、従兄弟の東平太重胤とともに馬を献じているが、これが義胤の初見である。

 父・師常の最後の奉公として名が見えるのが、建久6(1195)年5月20日の頼朝の上洛供奉にともなう天王寺参詣で、師常はこののち出家して法然の弟子となった。師常の出家の時期は不明だが、建久10(1199)年正月の頼朝死去の頃、または建仁元(1201)年3月の千葉介常胤の死去に関係があるのかもしれない。その後、父・師常についての記事はなく、同年11月15日に没していることから(『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条)、これ以前に師常は家を義胤に譲っていたと考えられる。

 元久2(1205)年6月22日、北条時政・牧ノ方(時政後妻で駿河国大岡牧を知行する大舎人允宗親女子。平清盛入道義母の弟、諸陵助宗親ともされるが、全くの誤り)畠山次郎重忠を討つため兵を挙げた。「畠山重忠の乱」と呼ばれるが、これは牧ノ方の娘婿・平賀武蔵守朝雅と重忠の子・畠山六郎重保の対立が激化し、牧ノ方は時政を篭絡して、朝雅の知行国・武蔵国に強大な力を持っていた畠山重忠を討ち、秩父一党の勢力を殺ぐ目的もあったと思われる。

 6月22日、謀叛人追捕を命じられて由比ヶ浜に繰り出した畠山重保が北条時政の命を受けた三浦介義村によって討たれた。さらに、父・畠山重忠も従兄弟の稲毛重成入道に武蔵国から呼ばれて武蔵国二俣川横浜市旭区鶴ヶ峰本町まで進んだときに鎌倉将軍家に対する叛逆の罪を突きつけられ、相模守義時率いる鎌倉方の軍勢と合戦。親友愛甲三郎季隆の矢に斃れた。享年四十二。

 義胤はこの合戦に出陣しているが、千葉一族は頼朝の挙兵以来、鎌倉勢の後陣を勤める慣例があり、このときも叔父の大須賀四郎胤信国分五郎胤通、従兄弟の堺平次兵衛尉常秀東平太重胤とともに後陣を固めた。畠山重忠は父・師常の従兄弟に当たる人物である。

○畠山重忠追討軍

大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣葛西兵衛尉清重
後 陣境平次兵衛尉常秀大須賀四郎胤信国分五郎胤通相馬五郎義胤東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、
    宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、中条藤右衛門尉家長、
    中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、
    土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、河越三郎重員、江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、
    下河辺庄司行平、薗田七郎、大井兵衛次郎実春、品川三郎清実、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、
    兒玉、横山、金子、村山党

◆畠山・相馬氏系図◆

     千葉介常胤 +―千葉介胤正―+―千葉介成胤
    (千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       ∥   |       |
       ∥   |       +―堺常秀
       ∥   |        (平次兵衛尉)
       ∥   |
       ∥―――+―相馬師常――――相馬義胤
秩父重弘―+―娘   |(次郎)    (五郎)
     |     |
     |     +―大須賀胤信
     |     |(四郎)
     |     |
     |     +―国分胤通
     |     |(五郎)
     |     |
     |     +―東胤頼―――――東重胤
     |      (六郎大夫)  (平太)
     |
     +―畠山重能――畠山重忠――――畠山重保
      (畠山庄司)(畠山庄司)  (六郎)

 義時は鎌倉へ戻ると時政のもとを訪れ戦況を報告した。このとき時政の質問に対して、

「重忠弟親類、大略以在他所、相従于戦場之者僅百余輩也、然者企謀反事已為虚誕、若依讒訴逢誅戮歟、太以不便、斬首持来于陣頭、見之不忘年来合眼之眤、悲涙難禁」

と憤懣を伝えたことが『吾妻鏡』に伝えられている。これに時政は「無被仰之旨」だったという(『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条)

 この直後、畠山重忠を讒訴した稲毛重成入道とその弟・榛谷重朝らが三浦介義村らによって誅戮される(『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条)。おそらく義時の指示を受けての追捕であったのだろう。その後、姉の尼御台とともに父・時政と専横甚だしかった牧ノ方を鎌倉から追放する。

 7月8日、将軍家幼少のため、尼御台の計らいとして参戦の御家人等へ重忠与党の所領を勲功として給わった。ただし、のちの相馬家領の中に畠山重忠領由来と思われる地はみられない。

 承久3(1221)年5月15日、後鳥羽上皇は三浦平九郎判官胤義をはじめとする在京武士らを語らって鴨川の西、東京極高辻の守護所へ攻め寄せ、京都守護の伊賀判官光季を討ち、鎌倉将軍家家司の「陸奥守平義時追討」の宣旨を下して公然と反北条義時の姿勢を鮮明にする(承久の乱)。三浦胤義は在倉の兄・三浦義村へ京都と同調するよう急使が届けられるも、19日、義村が胤義の書状を義時に渡したことで京都の兵乱が発覚する(『承久記』)。義時はただちに軍容を固めると、翌21日には公称十九万の軍勢が三手に分かれて京都へ進軍した。信頼性に欠ける『承久記』の内容だが「相馬次郎」が従軍中に見える。後述の通り「相馬小次郎」は勲功により淡路国炬口庄地頭職を得ており、「相馬次郎」とは義胤の子・小次郎胤綱の可能性があろう。

●承久の乱での鎌倉勢三手(『承久記』)

大将軍 従軍御家人
海道
(十万余騎)
一陣 相模守時房 陸奥六郎、庄判官代、里見判官代義直、城介入道、森蔵人入道、狩野介入道、宇都宮四郎頼仲、宇都宮大和入道信房、宇都宮太郎左衛門(信房子)、宇都宮次郎左衛門(信房子)、宇都宮三郎兵衛(信房弟)、宇都宮やくそ冠者(信房孫)、三浦駿河次郎泰村、三浦三郎光村、佐原次郎兵衛、佐原又太郎(次郎兵衛甥)、天野三郎左衛門政景、小山新左衛門朝直、長沼五郎宗政、土肥兵衛丞、結城七郎左衛門朝光、後藤左衛門朝綱、佐々木四郎信綱、長井兵太郎秀胤、筑後六郎左衛門友重、小笠原五郎兵衛、相馬次郎、豊島平太郎、国府次郎(国分次郎)、大須賀兵衛藤兵衛尉(東兵衛尉)、武次郎(武石次郎)、武平次(武石平次)、澄定太郎、澄定次郎、佐野太郎三郎、佐野小太郎、佐野四郎、佐野太郎入道、佐野五郎入道、佐野七郎入道、園左衛門入道、若狭兵衛入道、小野寺太郎、小野寺中書、下河辺四郎、久家兵衛尉、佐貫兵衛太郎、佐貫五郎入道、佐貫六郎、佐貫七郎、佐貫八郎、佐貫九郎、佐貫十郎、江戸七郎太郎、江戸八郎太郎、北見次郎、品川太郎、志村弥三郎、寺島太郎、下次郎、門井次郎、渡左近、足立太郎、足立三郎、石田太郎、石田六郎、安保刑部、塩屋民部、加地小次郎、加地丹内、加地源五郎、荒木兵衛、目黒太郎、木村七郎、木村五郎、笹目三郎、美加尻小次郎、厩次郎、萱原三郎、熊谷小次郎兵衛直家、熊谷平左衛門直国(直家弟)、春日刑部、強瀬左近、田五郎兵衛、引田小次郎、田三郎、武次郎泰宗、武三郎重義、伊賀左近太郎、本間太郎兵衛、本間次郎、本間三郎、笹目太郎、岡部郷左衛門、善右衛門太郎、山田兵衛入道、山田六郎、飯田右近丞、宮城野四郎、宮城野小次郎、松田、河村、 曾我、中村、早川人々、波多野五郎信政、金子十郎、勅使河原小四郎、新関兵衛、新開弥五郎、伊東左衛門、伊東六郎、宇佐見五郎兵衛、吉川弥太郎、天津屋小次郎、高橋大九郎、龍瀬左馬丞、指間太郎、渋河中務、安東兵衛忠光
二陣 武蔵守泰時
三陣 足利武蔵前司義氏
四陣 駿河守義村
五陣 千葉介胤綱
山道
(五万余騎)
一陣 小笠原次郎長清 小笠原次郎子七人、武田五郎子八人、
二陣 武田五郎信光
三陣 遠山左衛門長村
四陣 生野右馬入道
軍監 諏訪小太郎
具右馬允入道
 
北陸道
(四万余騎)
  式部大夫朝時  

 鎌倉勢の東海道軍は5月30日遠江橋本駅、6月2日遠江国府(磐田市)に到着した。鎌倉勢が遠江国府に入った報告は、飛脚によってただちに京都に伝えられた。公卿達はただちに詮議に入り、防戦のために軍勢を出陣させることとなり、6月3日早朝、官軍が京都を発った。

●承久3(1221)年6月3日出陣の後鳥羽上皇方の将士

北陸道 宮崎左衛門尉定範・糟屋右衛門尉有久・仁科次郎盛朝
大井戸渡(美濃加茂市太田本町 平賀大夫判官惟信・筑後左衛門尉有長・糟屋四郎左衛門尉久季
鵜沼渡(各務原市鵜沼 美濃目代帯刀左衛門尉・神地蔵人入道
池瀬(各務原市鵜沼大伊木 朝日判官代・関左衛門尉・土岐判官代・関田太郎
摩免戸(各務原市前渡東町 能登守藤原秀康・佐々木山城守広綱・下総前司盛綱・三浦判官胤義・
佐々木判官高重・鏡右衛門尉久綱・安芸宗内左衛門尉
食渡(各務原市内か?) 山田左衛門尉・臼井太郎入道
洲俣(大垣市墨俣町か?) 河内判官秀澄・山田次郎重忠
市脇 伊勢守光員

 6月5日、鎌倉勢は尾張国一宮(一宮市)に到着した。一宮の北をながれる木曽川の対岸には官軍が陣を張っていたため、ここで鎌倉勢は軍議を開き、軍勢を分けて攻撃をしかけることとなった。

 こののち、鎌倉勢は木曾川の官軍を駆け散らすと、14日には京都最後の防衛線・宇治川の戦いに勝利し、15日京都になだれ込んだ。宇治川の戦いでは千葉一族と思しき人名としては「二番に打入輩」として「臼井四郎」「白井太郎」が、「四番」に激流に飛び込んだ輩に「相馬三郎子共三人」が見える(『前田本承久記』)。ただ四番に飛び込んだ「相馬三郎子共三人」を含む人々は「こゑごゑに名乗てわたしけるが一騎もみえず失にけり」(『前田本承久記』)と、宇治川の流れに飲み込まれたという。当時の師常系相馬氏は義胤のみが確認されていることから、この討死した相馬氏は上総氏系の相馬九郎常清の子・三郎常平(『神代本千葉系図』)と子の可能性があるか。

 こののち、鎌倉勢は京都に攻め入り、兵乱を鎮定。後鳥羽院の側近を捕縛して斬刑に処した。また後鳥羽院らは京都から「遷幸」という形で他国へ移され、承久の乱は終結する。そしてこの「承久の乱」によって、官軍に加担した人々の所領は収公され、尼御台の指示により「三千余箇所」にも及ぶ「件没収地」を「隨勇敢勲功之浅深、而賞充之」られ、義時がこれを執行している。義時は将軍家別当であり将軍家政所を差配しており、鎌倉将軍家が没収地の配分管理を任され、実務者として御家人へ分与したとみられる。この承久の乱によって付された地頭職を「新補地頭」と呼び、扱いがそれまでの本補地頭とは異なっている。

 なお、この「叛逆卿相雲客并勇士所領等」の「件没収地」を、なぜ関東が「隨勇敢勲功之浅深而賞充之」ことが可能であったのか。当然ながら、京方に加担した御家人の地頭職解任であれば可能であるが、「叛逆卿相雲客」の所領に関しては、朝廷から関東に対して何らかの官宣旨等により担保されなければ執行は不可能であることから、この官宣旨は遺されていないが、宣旨の発給があったと想定される。

●承久3(1221)年8月7日条(『吾妻鏡』)

七日戊午 世上属無為、是符合二品禅尼夢想仍奉寄所於二品太神宮所謂、内宮御料後院領、伊勢国安示村、井後村、外宮御分、同国領、葉若、西園両村也、祭主神祇大副隆宗朝臣、藤原朝臣、定帯彼寄附状等、重為報賽使節云云、此外諸社同有奉寄鶴岡八幡宮御分、武蔵国矢古宇郷司職五十余町諏方宮御料、越前国宇津目保云云叛逆卿相雲客并勇士所領等事、武州尋註分、凡三千余箇所也、二品禅尼、以件没収地、隨勇敢勲功之浅深而賞充之、右京兆雖執行、於自分者、無立針管領納世以為美談云云

 承久の乱後、「相馬小次郎」が淡路国御家人「刑部丞経実」から没収された「八幡宮御領」「炬口庄洲本市炬口「新補」されており(「淡路国大田文」『柏市史』)、当時相馬家の家督は五郎義胤であったが、鎌倉方として上洛したのは、子息の小次郎胤綱と推測される。しかし、貞応2(1223)年4月までの間に領家の石清水八幡宮が「地頭、領家御沙汰」と炬口庄地頭職の任命権を持ったため、「相馬小次郎」は「依領家訴」って地頭職を改替させられたと思われる。

●淡路国大田文(『皆川文書』)


庄分

八幡宮御領
  炬口庄   前地頭刑部丞経実 国御家人
   田四十丁 新地頭相馬小次郎雖賜、依領家訴
               地頭領家御沙汰也

 義胤が承久の乱に加わっていないのは、元仁2(1225)年2月11日の越後国蒲原庄の港湾使用税についての『関東下知状』の中に「前守護代相馬五郎」とあるように、元仁2(1225)年以前に義胤は越後国守護代(承久の乱当時は義時が守護か。貞応2(1223)年辺りから名越朝時が守護)として越後国に赴任し、留守居を任された事が想定され、その在任が承久の乱当時であった可能性もあろう。また、後年、越後上杉家の被官相馬家があった。この相馬家は「越後御譜代」の家柄であるように土着勢力で、諱にも「胤」字が用いられていることから、相馬家は越後国との関わりがあった可能性がある。

●名越北条氏周辺略系図(赤字:越後守護職)

      +―北条時房―――――娘
      |(修理大夫)    ∥―――――名越教時
      |          ∥    (遠江守)
・北条時政―+―北条義時 +――名越朝時 
(遠江守)  (陸奥守) | (遠江守) 
         ∥   |   ∥―――+―江馬光時江馬時親
         ∥―――+ 大友能直娘 |(越後守)(右馬助)
         ∥   |(豊前守)  |
・比企朝宗――――娘   |       +―名越時章名越公時名越時家
(内舎人)        |        (尾張守)(尾張守)(美作守)
             |            
             +――極楽寺重時
               (陸奥守)          
                 ∥―――――赤橋長時―赤橋義宗―赤橋久時―+―赤橋守時
               平時親卿娘  (武蔵守)(駿河守)(越後守) |(相模守)
                                      | 
                                      +―平登子
                                       (足利尊氏正妻)

 安貞2(1228)年7月23日、四代将軍・藤原頼経三浦義村別邸へ渡御した際には、義胤は頼経の駕籠の後ろに「東六郎」とともに従った。叔父の「東六郎大夫胤頼」はすでに「千葉六郎大夫入道法阿」と号して京都にあり、同安貞2(1228)年に七十三歳で没したと伝わっている。嘉禎元(1235)年正月26日条には「東六郎行胤」が見えるが、東胤頼の孫・海上弥次郎胤方の子の「船木六郎行胤」であろう。

○東氏系譜

・千葉介常胤―+―相馬次郎師常――――相馬五郎義胤―――+―相馬小次郎左衛門尉胤綱
       |                    |
       |                    +―土用御前
       |                      ∥
       |                      岩松遠江守時兼
       |
       +―東六郎太夫胤頼―+―東平太兵衛尉重胤―+―東中務丞胤行(東素暹)
                 |          |
                 |          +―海上弥次郎胤方―――船木六郎行胤
                 |  
                 +―木内次郎胤朝―――+―虫幡六郎氏胤
                            |
                            +―中須賀余一行胤

 嘉禄3(1227)年9月12日付『高野山福智院文書』によれば、大和国宇智郡の「宇野庄」は福智院の古くからの所領であったが、関東がおそらく承久の乱後に新補地頭を「始被補地頭」(嘉禄三年九月十二日「澄尊慶春行縁連署請文案」『高野山福智院文書』)したとみられ、「為大愁」であり、その上、地頭職が「相馬五郎之時」に関東より「円叡(当時の福智院主か)并栄成入道之妨」の介入を停止すべしという関東下知状が下されている(実際には円叡は宇野庄を知行していない)。その後、「木内次郎之代官山河太郎」(嘉禄三年九月十二日「澄尊慶春行縁連署請文案」『高野山福智院文書』)が「令入部庄家之剋」に宇野庄に入部した際には、以前円叡が知行していたころの約二倍の六十三石の上分米を納める謂れはないと返答している。ここに見える「相馬五郎」とは義胤であり、義胤は大和国宇野庄の新補地頭だったことがわかる。また、その後任の「木内次郎」とは、義胤の従兄弟にあたる木内次郎胤朝であろう。

●嘉禄3(1227)年9月12日「澄尊慶春行縁連署請文案」(『高野山福智院文書』)

「嘉禄三年」
御牒送之趣、畏以承候畢、抑宇野庄者、当山往古之旧領也、始被補地頭之条、為大愁之上相馬五郎之時、関東状云、可停止円叡并栄成入道之妨云々、爰円叡不知行彼庄之由、令書進撫状畢、既地頭与円叡之沙汰、各別之旨、分明也…

 嘉禄3(1227)年12月、義胤は「ねうはうのさた」として、女子「とよこせん(土用御前)に対し、行方郡内千倉庄加北草野、定、相馬御厨内手賀、布瀬、藤心、野毛崎を譲る旨の譲状(嘉禄三年十二月「相馬能胤譲状写」『新田岩松文書』)を発給した。

●相馬義胤(能胤)から土用御前への譲り

国郡 経緯
下総国相馬郡
(相馬御厨)
手賀(柏市手賀 土用御前⇒岩松経兼
(手賀郷半分)土用御前⇒とち御前(尼真如)⇒土用王御前⇒岩松直国
柳戸(柏市柳戸東側)
※これは義胤譲状には 含まれていないが、「泉村上柳戸」は相馬岡田氏に伝えられているので、柳戸村の西側の「上柳戸」は相馬氏に残され、半分になった上柳戸は泉村に吸収されたとみられる。
(東方柳戸村半分)土用御前⇒とち御前(尼真如)⇒土用王御前⇒岩松直国
岩井(柏市岩井
※これは義胤譲状には 含まれていない
土用御前⇒とち御前(尼真如)⇒土用王御前⇒岩松直国
布瀬(柏市布瀬土用御前⇒とち御前(尼真如)⇒土用王御前⇒岩松直国
藤心(柏市藤心土用御前⇒とち御前(尼真如)⇒土用王御前⇒岩松直国
野毛崎(守谷市野木崎土用御前⇒岩松経兼⇒女房(得川氏)⇒岩松政経
陸奥国行方郡
(千倉庄)
北草野(南相馬市鹿島区鹿島周辺?) 土用御前⇒岩松経兼⇒岩松政経
定(南相馬市鹿島区鹿島周辺?) 土用御前⇒岩松経兼⇒岩松政経

 この譲状を発給する頃には義胤は体調が悪化していたのではなかろうか。譲状の管理に関して「ねうはうのさた(女房之沙汰)」としている。

 安貞2(1228)年8月23日、「相馬五郎殿」に対して相馬御厨の伊勢に対する年貢奉納についての差異の確認と確定した数量を裁決した『関東御教書』(安貞二年八月廿三日「関東御教書」『鏑矢伊勢方記』)が下されているので、この時までは鎌倉は義胤の生存を確認していたのだろう。ただし、これ以降の義胤の活動はみられない。

 義胤の没年については伝わらないが、将軍家政所は貞永元(1232)年11月13日に「平氏子字土用」に対して「任父能胤嘉禄三年十二月譲状、可領知」という政所下文を発給しており、譲状は義胤亡き後しばらく「ねうはう」が沙汰していたが、貞永元年に女房が土用御前を地頭職に据えるために政所へ譲状を提出したか。ただし「亡父能胤」ではないことから、義胤はまだ生存していた可能性はある。

土用御前から新田岩松氏への所領の継承

 嘉禄3(1227)年12月、義胤は「ねうはうのさた」として、行方郡内千倉庄加北草野、定、相馬御厨内手賀、布瀬、藤心、野毛崎女子「とよこせん(土用御前)に譲る旨の譲状(嘉禄三年十二月「相馬能胤譲状写」『正木文書』)をしたためた。この譲状は、貞永元(1232)年11月13日に「平氏子字土用に対して、将軍家政所より所領安堵されている(貞永元年十一月十三日「将軍家政所下文案」『正木文書』)

      得川頼有――――娘
              ∥
相馬義胤土用御前    ∥―――――+―岩松政経――+―岩松経家―+―岩松直国==岩松満国
(五郎)    ∥     ∥     |(下野太郎) |(兵部大輔)|(土用王)
        ∥     ∥     |       |      |
        ∥―――+―岩松経兼  +―とよ御前  ?      +―岩松泰家――岩松満国
        ∥   |(遠江五郎) |       |
 足利義純――岩松時兼 |       |       |
(太郎)  (遠江守) +―とち御前  +―あくり御前 +―新田経政
             (尼真如)           (遠江又五郎=左馬亮?)
              ∥
              ∥―――――――土用王御前===岩松直国
              ∥      (尼妙蓮)   (土用王)
              藤原某

 その後、土用御前はこの相馬郡内・千倉庄内の地頭職として新田遠江守時兼に嫁し、土用御前を通じて相馬郡内および行方郡千倉庄の所領が新田岩松氏へと移ることとなった。

 土用御前は弘長3(1263)年2月頃に病死したと思われ、時兼は嫡子・五郎経兼へ武蔵国春原庄内万吉郷熊谷市万吉を譲るにあたり、そのうち佃五段を「故女房の墓所堂ニ永寄進」している(弘長三年三月二日「岩松時兼覚智譲状」『正木文書』)。また、経兼に譲られた所領以外の一部が、妹の「とち御前(尼真如)」へ継承されたとみられる。

 そして、また、弘安元(1278)年10月3日、土用御前から嫡子・岩松下野守経兼へ継承されたうち「陸奥国千倉庄加北草野 定は経兼から嫡子の「太郎政経(下野太郎政経)へ譲られ、「下総国相馬御厨内野毛崎村」は経兼の「女房(一期分)へ譲られている(弘安元年十月三日「岩松経兼道覚譲状」『正木文書』)

 一方、五郎経兼の妹・とち御前(尼真如)は、弘安5(1282)年11月12日、「ふち心の郷、■■かうハんふん、東方やなとのむらハんふん(藤心郷、手賀郷半分、東方柳戸村半分)」を女子「■■■■とよわう御せん(藤原土用王御前)」に譲り渡した。

 藤原土用王御前は婚姻せず、建武元(1334)年12月21日、従兄弟の岩松下野太郎政経の孫「土用王(岩松直国)」を養子として、自分が地頭職を務める「みなみさうまのうちふちこヽろかう、おなしきてかハんふんひんかしかた、い■ひむら、ふせのむら」を譲った。

 翌建武2(1335)年7月22日、岩松経家(新田兵部大輔経家)は、北条時行(北条高時入道次男)率いる中先代勢を迎え撃つも、武蔵国女影原の戦いで敗れて自刃した。その後、建武4(1337)年4月16日、相馬家庶流の相馬小次郎胤家(相馬岡田氏)は、父・胤康が「最前馳向、鎌倉片瀬河討死訖」と勲功を述べて「下総国相馬御厨内泉郷手賀、藤心新田源三郎跡、奥州行方郡内岡田村、八兎村、飯土江狩倉一所、矢河原、同国竹城保内波多谷村」の吹挙状を提出した。しかし、これは誓文がなく不審とされたため、重ねて注進するよう命じられ、「祐賢」を代として申状を再提出した(『相馬胤家代祐賢申状案』)。さらに、胤家は「妙蓮」を代として、「相馬郡内手賀、藤心」は先祖の本領であり「相馬五郎胤康軍忠所預給地」として「下総国相馬郡内手賀、藤心新田源三郎跡、已下所々事」であるとその知行を重ねて主張した(『相馬胤家代妙蓮申状案』)。これは、岩松経家の討死による新田岩松氏の所領継承に絡み、胤家が新田岩松氏に移っていた相馬郡内の所領を取り戻そうと図ったとみられるが、新田岩松氏の跡は相馬氏側に戻ることはなかった。

 その後、応永2(1395)年閏7月5日の岩松左馬助満国の所領として「手賀郷内布施村 二階堂山城知行」「藤意郷 山名知行」とあり(「岩松左馬助満国所領注文」『正木文書』)、さらに応永2年閏7月以前の同時代と思われる文書からも「藤意村 さうおう寺料所、今度刻奉公山名入部」「野毛崎村 円城寺豊前守知行、今度刻北相馬守谷入部」「手賀 布施 彼両村之事同闕所、泉治部大輔、原将監知行とみえる(「上総国幷下総国内岩松氏本知行分注文」『正木文書』)

 さらに、年代不詳ながら「岩松右京大夫(岩松持国)本領」として、「下総国 藤意郷 手賀郷 同郷内布施村 野毛崎村 菊田庄内家中郷」が挙げられ(「岩松右京大夫持国本領所々注文」『正木文書』)、新田岩松氏は十五世紀にあっても相馬郡内に所領を有していたことがわかる。

 また、建武3(1336)年3月3日の『相馬光胤着到状』には北畠顕家に備えるために小高城籠城に参じた相馬一族が記され、その中に「新田左馬亮経政が見られるが、代官として田嶋姓の人物も見られるように、千倉庄に所領を有した「新田岩松時兼」の子孫であろう。観応2(1351)年11月26日に吉良貞家が発給した文書に「陸奥国行方郡千倉庄内闕所分 新田左馬助当知行分除之」とある(観応二年十一月廿廿六日「吉良貞家奉書」)。経政の系譜上の位置は定かでないが、新田小太郎義貞と岩松下野五郎経家による鎌倉攻めの際に、新田勢大将の一人として「新田遠江又五郎経政」が見え、極楽寺坂から霊山下で活躍している。おそらく彼は左馬助経政と同一人物と思われ、相馬氏の親族ゆえに相馬勢の支援に入ったと思われる。


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