中村藩十三代藩主 相馬誠胤

相馬中村藩主

●陸奥国中村藩六万石●

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女(長松院殿)
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬敍胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬敍胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 不明
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 神戸氏
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 大貫氏(千代)

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■十三代藩主(相馬家二十九代)

相馬誠胤 (1852-1892)

<名前> 吉太郎→秊胤(ともたね)→誠胤(ともたね)
<正室> 京子姫(戸田光則三女。清性院殿)
<側室>繁子(東明たけ長女)
<父> 相馬大膳亮充胤
<母> 大貫千代(真明院)
<官位> 従五位下→正五位→従四位
<官職> 因幡守→子爵(明治14年)
<生没>嘉永5(1852)年8月5日~明治25(1892)年2月22日
<就任> 慶応元(1865)年4月24日~明治4(1871)年7月14日
<法名>慎徳院殿恭山智謙大居士
<墓所>青山霊園

●相馬誠胤事歴●

相馬中村藩居城・中村城
中村城

 十二代藩主・相馬大膳亮充胤の次男。母は御内証・千代の方(大貫氏)。嘉永5(1852)年8月5日、中村城に誕生した。幼名は吉太郎。安政5(1858)年7月23日、世子に定められ秊胤(トモタネ)と改めた。

 充胤には嫡男・虎丸がいたが、嘉永4(1852)年3月24日、早世して以来男子がなく、このとき生まれた吉太郎(秊胤)が嫡男と定められた。

洞雲寺 相馬誠胤兄・相馬虎丸墓
相馬虎丸墓(左から二つ目)

 秊胤の実兄・虎丸は、嘉永3(1851)年5月23日に誕生したが、病弱だったようで、翌嘉永4(1852)年3月初めから病が篤くなり、16日には差込や痙攣、白目を剥くなど症状が悪化。24日午前1時、中村城に亡くなった。享年二。法名は英山智光大童子長松寺(現在の洞雲寺)に葬られた。

 長松寺は主に藩公夫人や子女が埋葬されており、藩主は鎌倉以来の相馬家故地である小高城のふもと、同慶寺に葬られている。

■十三代藩主となる

 元治元(1864)年、相馬中村藩は幕命により、常陸・上野で発生した天狗党を追討すべく出兵し、鎮定に功績があった。そして慶応元(1865)年3月15日、江戸城に初登城し、将軍・徳川家茂に拝謁。4月24日、充胤の隠居にともない、十三代藩主に就任した。5月1日、先般の天狗党鎮定の功績を賞された。

 10月1日、老中連名の奉書によって江戸城に登城。将軍・家茂が上洛した際の警衛について賞され、12月25日、登城の上、従五位下に叙され、因幡守に任じられた。

 文久3(1863)年、異母弟・亀五郎が誕生した。明治に入り、秊胤のあとを継いだ相馬順胤である。

 慶応2(1866)年5月、幕府は西洋銃隊調練を推奨する達しを行うが、「筒袖陣服引之類異様之仕度並華美之品一切相止都テ陣服類稽古之外平常猥ニ着用候儀、不相成候」と装束については相変わらず保守的な考えであったことがうかがえる。

 12月5日、徳川刑部卿慶喜は二条城において征夷大将軍に就任した。江戸幕府最後の将軍である。25日、公武合体を願い続け、幕府にも深い理解を示していた孝明天皇が崩御。これにより、慶応3(1867)年正月9日、皇太子睦仁親王践祚の儀が執り行われた。明治天皇である。

 秊胤は2月18日、孝明天皇崩御を受けて江戸留守居・藤田又右衛門を上京させ、21日、親類の伝奏・野宮宰相中将定功を通じて、天機伺と香典白銀三枚を奉献した。

堺町御門
京都御所堺町御門

 当時、京都においては倒幕派の岩倉具視らが倒幕の密勅を作り上げ、討幕を図ろうとしていたが、その先手を打って、10月13日、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に奉還(大政奉還)し、さらに24日には征夷大将軍職も辞した。これにより「討幕」の対象が消えてしまうことになり、その大義名分を失わせることに成功する。しかし、大名家を名分上統率する征夷大将軍職は消え、その征夷大将軍の政府「幕府」も瓦解した今、相馬家は名分上は徳川家とは縁が切れたことになる。

 10月21日、秊胤は登城の命を受けて江戸城にのぼり、老中・稲葉美濃守正邦より大政奉還の事実を伝えられた。23日に登城した際には、白書院において武備を整えることがつたえられた。屋敷に戻った秊胤は、留守居・西市左衛門に命じ、中村表の泉内蔵助胤富泉田豊後胤正相馬靱負胤就熊川兵庫胤隆石川助左衛門昌清佐藤勘兵衛俊信ら在国家老に対して大政奉還などについて伝える早馬を出した。

中村藩 京都屋敷跡
中村藩京都屋敷跡(現京都地裁)

 相馬家は朝廷より上洛を命じられていたが、京都の情勢が不確定の今、藩主の上洛は見送ったほうがよいとの判断からか、11月12日、病気を理由に秊胤は上洛を取りやめ、中村表の家老・熊川兵庫を名代として上京させることとし、江戸に向かわせた。相馬家は譜代大名の栄誉を受けているが、徳川家に臣従していたわけではなく(譜代扱)、二百年の徳川家との情義に連綿として、尊王の大義を忘れてはならないと、熊川兵庫の上洛を決めた。

 

 11月18日、熊川は江戸に到着。藩邸の錦織四郎太夫坂地権左衛門とともに上洛の途についたが、熊川は京都で病に倒れ、錦織らが主に活動していたが、12月9日、熊川が京都にて病死。錦織は熊川の死を江戸に報告し、ただちに熊川に代わる藩主名代を上洛せしめるよう要請した。しかし熊川の死に江戸藩邸でも慌て、中村に諮る時間もなく、藩主・秊胤は江戸家老・西市左衛門を上洛させることとした。しかし、京都ではすでに薩長勢と旧幕府軍の間で戦闘の気配が漂い始めたことが京都から伝えられたため、西の上洛を中止させている。

■戊辰戦争~会津藩追討と中村藩の去就~

 慶応4(1568)年正月下旬、中村城の前藩主・大膳大夫充胤は京都伏見街道にて薩摩勢が旧幕府軍に発砲したことによって勃発した「鳥羽伏見の戦い」の書状を受け、勤王を貫くべしとしたものの、これは国家の一大事であることから、家老・泉内蔵助胤富泉田豊後胤正相馬靱負胤就の三名の御一家衆を同席の上、客僧・静慮庵慈隆大僧都(千葉一族・亀卦川氏出身)ほか在地の重臣を集めて協議を行った。ここで、

「相馬中村藩は勤王の家柄ではあるが、藩主の秊胤は江戸にあって危うい位置にある。また、会津藩は今回の事変での罪はなく、これはすべて天皇の側近くで蠢動する君側の奸が行った盲動である。」

とした。また、仙台藩にはすでに会津討伐の命が下っているようだが、旧来絶交の藩であるため様子はわからない、とし、重臣一同で中村藩の対応として三策を建てた。

◆中村藩三策◆

(1) 中村藩は承平以来、一旦徳川氏の譜代に列したとはいえ、大義に依って勤王に一決した上は、まずは重臣を上京させて、藩の状況を上申すべきこと。
(2) 藩主・秊胤は当時、江戸にて病にかかって臥せっていたが、直ちに帰国させて軍事の指揮をとること。たとえ江戸にて嫌疑がかけられたとしても、脱出してでも直ちに中村へ帰国すること。
(3) 伊達家は昔からの親類であるといえども、祖より数百年仇敵の国である。しかし、彼の藩はすでに会津討伐の王命を蒙っており、この上は私仇を忘れ、旧怨を解いて同心協力すべきである。しかしながら、積年の不和の人心は軍陣の間に確執があろう。和を結ぶには、我々より和を請えば、小国が大国に随従すると思われる嫌がある。佐竹は我々とは兄弟の国であり、伊達にあってもまた親戚である。このことを佐竹に図れば佐竹も必ず勤王となろう。両国遠隔の地ではあるが、ともに協力して朝廷のために勤めることを約すべきこと。

 この三策に基づいて、老公・充胤ほか家老の泉内蔵助・泉田豊後・相馬靱負らは、さっそく京都へ重臣の派遣を決めたが、中村には家老は三名しか残っておらず、とはいえ、江戸在勤の家老を上京させれば、幕府から嫌疑をかけられたり、東海道道筋にて留められることがあるかもしれない。そのため、番頭の杉本覚兵衛清親秊胤名代として上洛させることとし、岡部正蔵綱紀高力民蔵宣元の二名を副使として、2月2日、北陸道を使って京都へ向かわせた。

 さらに(3)の策に基づいて伊達家と講和をすすめるべく、用人・石橋兵太夫義恭出羽久保田藩に派遣した。久保田藩主・佐竹右京大夫義就、岩崎藩主・佐竹壱岐守義諶はいずれも老公・充胤の異母弟にあたり、血縁の藩であった。そしてこの周旋は成功し、佐竹義就から仙台藩主・伊達陸奥守慶邦へ使者が遣わされ、中村藩と仙台藩は講和を結ぶに至った。

 この年、秊胤は朝廷より上洛の命を受けていたが、脚気と称して上洛に応じず、江戸家老・佐藤勘兵衛俊信と用人・村津貞兵衛の二名を藩主名代として上洛させた。一方、秊胤は2月19日、江戸を発して中村へ向かった。

 一方、2月28日、京都へ到着した佐藤勘兵衛らは、弁事御伝達所へ秊胤の書状を提出した。

 私儀、御用被為在候ニ付被為召候段、御達之承知奉畏候、依之早速上京仕之処、去秋中ヨリ脚気之症相発、長々難義罷在候付、長途之旅行難相叶、今以快気不仕追々遅延仕、奉恐入候、然処今般慶喜為御追討官軍自東海東山北陸三道御進発被仰出候付而者、奥羽之諸藩宜知尊王之大義相共謀援六師征討之勢旨御達之趣謹承知仕候処、既ニ北陸道エモ御進発相成候ニ付而者、弊邑之儀ハ御猶予奉願度依之為名代重臣為差登申候、宜御差図可被成下候、此段御請旁申上候、以上

   二月十五日               相馬因幡守
   御付札御聞達相成候事

 3月2日、佐藤俊信は参与へ提出する書状をしたためて朝廷に提出した。

 私儀、此程申上置候通、因幡守名代登京罷在候処、奥羽筋鎮撫使九条殿、今日御下向之由奉拝承候、右ニ付於彼地願済上ハ、人数等召連罷出御警衛向相勤候様、仕度奉存候、依之御当地之義ハ用人村津貞兵衛ト申者、差出置候間、御用向被仰付被成下、私儀者御暇頂戴仕急速罷下諸事手配仕度奉存候、右之趣御聞届被成下候者難有仕合奉存候、
 以上
    三月二日   相馬因幡守名代家老佐藤勘兵衛
     御付札願之通御暇被成下候事、

 3月22日、奥羽鎮撫総督府九条道孝総督は、大山格之助綱良世良修蔵砥徳の下参謀を従えて仙台寒風沢港に船で到着。翌23日、秊胤は佐藤勘兵衛からの知らせを受け、その書状のとおり、守衛のための兵を遣わしたいという文書を仙台の総督府に提出した。

奥羽鎮撫総督府
総督 九条道孝 正二位・左大臣、藤氏長者
副総督 沢 為量 正三位
補翼 鍋島茂昌 8月より参加
上参謀 醍醐忠敬 従四位上・右近衛権少将
下参謀 大山綱良 大山格之介
世良砥徳 世良修蔵
前山長定 前山清十郎、4月より参加

 そして翌日の24日、総督・九条から、

    相馬因幡守

 今般守衛兵差遣可之段申出候得共、不及其儀候間、応援出兵之手宛精々可有之候、期限之処追而可相達候事

     三月廿四日      鎮撫使総督

と、守衛兵の派遣には及ばないという返報があり、秊胤は4月3日、総督府からの書状に基づいて、天機として秊胤自ら中村を発して北上し、仙台城の総督に謁見したのち、4日の逗留ののち4月7日に中村へ帰還した。この逗留中、下参謀・世良修蔵より書状が秊胤に渡されている。

  乗馬三疋 但属具別当一人宛
 右、奥羽征討中、総督府御用ニ付、公卿方乗馬ニモ相成候分、早々可差出候事、

     四月六日

 世良は、藩侯・秊胤に目通りなどとてもかなわない長州の下輩であるが、曲がりなりにも彼は「官軍」を称する総督府付参謀であった。秊胤は帰国後に彼の指示通り三匹の馬(鞍付)を総督府に提供した。そして4月9日、総督・九条道孝より「応援出兵之手宛」を受けた出兵が求められ、秊胤は会津藩攻めの援軍として二本松城に部隊の派遣を決めた。

     相馬因幡守
 兼而討会応援申付候ニ付テハ、速ニ二本松迄出兵可致候事、 
     辰四月九日       鎮撫総督

     相馬因幡守
 其方儀、手勢出兵之上ハ総督府本陣エ相詰指揮可相受候事、
     辰四月九日

 秊胤は4月14日、二本松攻めの援軍として御一家・岡田監物泰胤を隊長とする二百余名の一隊を派遣した。

◆4月14日派遣の岡田監物隊◆

地位 名前 名前 隊など
隊長 岡田監物泰胤 1,336石 家臣二十二名
番頭 木幡甚五左衛門俊清 225石  
岡部求馬保隆 500石  
小隊長 池田八右衛門直行 600石 銃卒一小隊
金谷平左衛門顕実 200石
都甲伊右衛門良綱 250石 銃士一小隊
中妻伊兵衛軌永 80石
大悲山要人重一 100石
砲隊長 鈴木弥五郎芳清   附属十二名
軍司 草野半右衛門正意 200石  
多々部藤蔵直信 150石  
軍目 桜井次左衛門高箸 150石 附属二名
富田彦太夫武重 100石
輜重 大越八太夫光寛 100石 附属十名
戦士     二十名
相図     二名
鼓手     二名
書記     一名
器機     二名
医師     二名
夫卒     二百五名

 4月16日午後12時ごろ、岡田監物隊は二本松城下の松岡寺に着陣し、岡田監物はただちに配下の金谷顕実都甲良綱の二小隊を二本松城の南側・玉之井村に派遣して、方成口の応援とした。

 19日、十九歳の参謀・醍醐少将忠敬が戦地の検分と称して福島から二本松へ着陣し、嶽口の巡見を行ったが、このとき、この気まぐれ少将のために二本松藩・中村藩に一小隊づつの守衛の命令が下り、岡田監物は少ない手勢のうちからやむなく池田直行隊を派遣せざるをえなかった。

 この日、会津藩の国境警備兵と仙台藩の討会兵が会津国境の土湯峠で接触したが、会津藩と仙台藩に遺恨は全くないため、お互いに戦いを仕掛ける事はなく、会津藩軍事方・野村監三郎と仙台藩大隊長・瀬上主膳は土湯峠で会談を開き、戦闘の意思のないことを伝え、翌20日には、仙台藩軍監・姉歯武之進が会津藩隊長・一柳四郎左衛門を訪ねて、やむなく発砲の際は、空砲を撃つことを申し伝えている。

 そして、仙台藩は若生文十郎横田官平を会津若松城に派遣し、仙台藩が出兵したいきさつを説明し、会津藩存続のための道を模索することを求めた。

 若生文十郎からは、

(1)所領の削減
(2)藩主・松平容保の蟄居謹慎
(3)鳥羽伏見の戦いの首謀者の首級
 

の要求があり、これを飲めば仙台藩は責任をもって総督府に進言することを約束したが、結論は出ず、4月26日に行われた七ヶ宿会談(仙・米・会三藩会談)へ持ち越された。

 

 4月20日、醍醐忠敬が本営に移り、池田直行小隊が守衛。会津藩兵が中山口に出陣したため、午後6時、岡田監物隊は松岡寺から玉之井村相応寺へ陣を移し、金谷平左衛門顕実都甲伊右衛門良綱中妻伊兵衛軌永の三小隊を会津藩への備えのために七瀬八沢各地に派遣した。このとき、前記のような会津藩と仙台藩との密約が成立している。

 4月23日、総督府は仙台藩に対して、中山口に砲台を築くことを命じ、監物隊にその応援の命が下った。そのため、池田直行隊を半分に分け、半分を砲台建設の応援に、半分を高玉村の護衛に充てた。閏4月1日、仙台藩士二名が総督府参謀局からの達章を持って岡田監物のもとをおとずれ、宇都宮城の勝利を注進した。

   相馬因幡守

 兵隊  今般、庄内宇都宮官軍大勝利ノ注進有之、就中宇都宮官軍ハ不日ニ白川口エ相向候趣報知有之候間、明二日早天ヨリ速ニ可進撃段、大松沢掃部介エ令沙汰候間諸事申合成功可有之事、但中山口モ同時ニ進撃候間危急之場合ハ互ニ応援可有之事

  辰壬四月一日

 20日に行われた仙台・会津藩の会談の続きとして、4月26日に行われた七ヶ宿会談のなかで、会津藩家老・梶原平馬は首謀者の首級については受け容れ難いとして断った。これに対して仙台藩筆頭家老・但木土佐は、「かくの如なれば総督府への注進は受けかねる」として翻意を求めたが、梶原は意思を変えなかったため、薩長に内心加担していた仙台藩若年寄・真田喜平太幸歓が強い口調で「早々に軍備を固められよ、我が藩と戦場でまみえん、もとより臣子の過ちは君父の罪であり、京都伏見の一件は前将軍家の過ちにあらず、貴藩公の罪なり、さらには貴藩においては、藩公の罪にあらずして、足下等の罪なり」として梶原に迫った。このため、ついに梶原も嘆願書をしたためて仙台・米沢藩に提出した。しかし、この嘆願書には伏見の首謀者の首級については載せられなかった。

■戊辰戦争~奥羽越列藩同盟~

 閏4月2日の明け方、会津藩警戒のため、岡田監物隊は益田峠へ陣を移し、池田直行・中妻軌永の二小隊を唐沢村へ派遣したが、このとき仙台藩の砲台が火を噴いている。これはもちろん空砲であった。会津藩の侵攻は午後にはいったんやみ、金谷顕実・都甲良綱の二小隊に益田村を、中妻軌永の一小隊を坂下村へ進駐させ、監物本隊は玉之井村へと退却をした。

 閏4月11日、仙台藩・米沢藩は奥羽各藩に回覧状を出し、会津藩に関する取り決めをまとめるとして、仙台藩領・白石城に列藩の代表者に招集をかけた。

 閏4月17日、岡田監物のもとに、鎮撫総督府参謀・醍醐忠敬より、仙台藩が築いた石筵砲台への応援は仙台藩の人数だけで事が足りたので、早々に引き上げ、泉藩・本多家と磐城平藩・安藤家の兵が到着するまで滑水を守ることが命じられた。この前日の16日、白石城に奥州各藩の代表者が集って会議が行われているが、ここに中村藩からは相馬靱負佐藤勘兵衛、志賀治右衛門が出席している。

◆白石会議に出席した各藩代表◆

石高 藩主 代表
出羽米沢 18万石 上杉彈正大弼斉憲 千坂太郎左衛門高雅
竹俣美作久綱
木滑要人政愿
中里丹下
大滝新蔵
片山仁一郎
陸奥仙台藩 62万5千石 伊達陸奥守慶邦 坂英力秀通
但木土佐成行
横田官平
玉虫左太夫誼茂
陸奥盛岡 20万石 南部美濃守利剛 野々村真澄雅言
江幡五郎
出羽久保田藩 20万6千石 佐竹右京大夫義堯 戸村十太夫義効
陸奥弘前藩 10万石 津軽越中守承烈 山中兵部泰靖
陸奥二本松藩 10万1千石 丹羽左京大夫長国 丹羽一学富穀
丹羽新十郎
陸奥守山藩 2万石 松平大学頭頼誠 岡田彦左衛門宣忠
三浦金八郎
柳沼正介
出羽新庄藩 6万8千石 戸沢中務大輔正実 舟生源右衛門成定
陸奥八戸藩 2万石 南部遠江守信順 吉岡左膳政喜
陸奥棚倉藩 10万石 阿部美作守正静 梅村覚兵衛次立
平田弾右衛門
陸奥中村藩 6万石 相馬因幡守秊胤 相馬靱負胤就
佐藤勘兵衛俊信
志賀治右衛門
陸奥三春藩 5万石 秋田万之助映季 大浦帯刀忠恒
小堤広人
出羽山形藩 5万石 水野真次郎忠弘 水野三郎左衛門元宣
笹本藤馬
陸奥磐城平藩 3万石 安藤理三郎信勇 三田八弥宜隆
蝦夷福山藩 3万石 松前志摩守徳広 下国弾正季定
陸奥福島藩 3万石 板倉甲斐守勝尚 池田権左衛門邦知
高橋吉三郎
出羽本荘藩 2万石 六郷兵庫頭政鑑 六郷大学政影
陸奥泉藩 2万石 本多能登守忠紀 石井武右衛門美質
出羽亀田藩 2万石 岩城左京大夫隆邦 大平伊織観成
吉田権蔵
陸奥湯長谷藩 1万5千石 内藤長寿麿政養 池田彦助通理
茂原肇
陸奥下手度藩 1万石 立花出雲守種恭 小山外記継篤
屋山内記
陸奥一ノ関藩 3万石 田村右京大夫邦栄 佐藤長太夫時教
森文之助
陸奥上ノ山藩 3万石 松平伊豆守信庸 渡辺五郎左衛門
増田武兵衛
陸奥天童藩 2万石 織田兵部大輔信敏 長井広記季吉
陸奥矢島領 8千石 生駒大内蔵親敬 椎川嘉藤太
陸奥盛岡新田藩 1万1千石 南部美作守信民 池田覚之進
出羽米沢新田藩 1万石 上杉駿河守勝道 江口俊蔵
越後長瀞藩 1万1千石 米津伊勢守政敏 根本策馬
奥羽越列藩同盟加盟諸藩
奥羽越列藩同盟

 このとき会議では、仙台藩・米沢藩から、先日に梶原平馬より出された会津藩の嘆願書が披露されて、会津藩は降伏・謝罪をすべきだという意見が出され、中村藩もこれに同意した。しかし相馬靱負は、会津藩がはたして恭順の意を示すかどうかは不明であるとして、一旦席を辞して、

「会津藩を愍諒称賛することに似て、すこぶる我が藩論に反するが如し。これまったく仙台・米沢両藩が会津藩の情実を取って恭順の厚恩に至らんことを欲するためである」

という一書をしたためて仙台・米沢両藩に掲示した。この会議の模様は中村の藩主・秊胤のもとに届けられ、秊胤はただちに重臣を集めて議論をしているが、

「当藩既に討会応援の王命を奉ず。然るに忽ち会津謝罪周旋事に及べり。抑会の真情、且つ仙・米の処置等、その実いまだ図るべからず。然れども会津すでに謝罪といい、仙・米もまた真に恭順の実功を尽くさしむれば、また或いは生民塗炭の苦しみを免るるに至らん。然らば、すなわち天下の大幸、またこれ藩の幸い、謝罪周旋もその理なきにあらず。要するに、奥羽の存亡、仙・米らの処置奈何にあり。これ実に各藩の大事、出張の重臣、よろしく忍ぶべからざる所なり」

という書状を相馬靱負・佐藤勘兵衛の両家老に遣わし、深くこの意を体せよと命じた。そして、会議に出席した各藩会議の結論は、16日、九条道孝総督のもとに代表連判という形で提出された。

 此度会津征討被仰付、各藩出兵、既ニ仙台先手勢及接戦候処、容保家来共降伏謝罪之儀申出仙台国境於陣門糾明相遂候処、伏見暴動ノ儀者、全異心等有之筋ニハ無御座候得共、事皆卒然ニ相発リ奉驚天聴候段深恐入、其節ノ先手隊長等、別テ謹慎申付置奉、待御沙汰何様共処置仕候由ニ御坐候処、畢竟容保兼テ指揮不行届之所致有之段至極恐縮仕、当時城外ニ於恭順謹慎相尽、先非悔悟罷在、家来共嘆願書ヲ以降伏謝罪仕候上者幾重ニモ寛大ノ御処置被成下候ハヽ、至仁ノ聖恩奉感戴候様奉仰望候、尤当時王政一新ノ御場合ニモ被成在候得者、何分不被為動干戈人心ノ向背ヲモ 深ク可被為在御汲量御時節ト奉存候、勿論春夏ノ間者農事ノ甚急務トスル処ニ有之自然明命大ニ所関係御坐候間、是等ノ儀ヲモ篤ト御諒察被成下、今日ノ事ハ只々会津孤国耳ノ御処置ト不被為思召寛大ノ御沙汰被成下候ハヽ、実以奥羽御鎮撫ノ道赫然被為立候様偏ニ存込、列藩衆議相尽奉懇願候、猶又連名外ノ輩ハ馳附次第可奉申上候、恐々謹言

   慶応四年閏四月
                伊達陸奥守家来  坂英力
                         但木土佐
                上杉彈正大弼家来 千坂太郎左エ門
                         竹俣美作
                南部美濃守家来  野々村真澄
                丹羽左京大夫家来 丹羽一学
                松平大学頭家来  三浦金八郎
                阿部美作守家来  平田彈正右エ門
                相馬因幡守家来  相馬靱負
                         佐藤勘兵衛
                秋田万之助家来  大浦帯刀
                水野真次郎家来  水野三郎左エ門
                藤井伊豆守家来  渡辺五郎左エ門
                板倉甲斐守家来  池田権左エ門
                岩城左京大夫家来 大平伊織
                田村右京大夫家来 佐藤七太夫
                生駒大内蔵家来  椎川喜藤太

 閏4月18日、奥羽列藩は総督府に宛て、もし謝罪の取り扱い中に合戦が起これば会津藩の謝罪もできないので、仙台・米沢藩が先日提出した書状のとおり、奥羽諸藩の総意として合戦の中断を申し入れた。この上申書は、平田弾正右衛門(棚倉藩)・相馬靱負(中村藩)・大浦帯刀(三春藩)・三田弥八(磐城平藩)・石川武右衛門(泉藩)の連名で出されている。

 しかし、16日に提出された会津藩救済の嘆願連署状に対して、

 今般、会津謝罪降伏歎願書并ニ奥羽各藩添願書被差出熟覧ノ処、朝敵不可入天地罪人ニ付、難被及御沙汰、早々討入可奏成功者也

    壬四月            鎮撫総督局

とあるように、総督府下参謀・世良修蔵は文書の受け取りを拒否した。さらに総督府が白河城へ転陣する意向を示したことから、各藩代表はふたたび白石城で会議を行って、以下の文書を再び総督府へ上申した。

 今般、白河城エ御転陣被成旨被仰出候処、会庄二藩之儀ニ付奥羽之人心恟々、既ニ所々一揆等相起リ、被為遊御転陣候テハ弥衆民不知所向朦昧之儀、追々如何様ノ暴動相発候哉難計深心痛仕候間、早速仙台エ被為遊御帰陣、億兆致安堵奥羽瓦解不致様御鎮撫被成下度、一同奉懇願候、恐々謹言

    壬四月            奥羽重役連名

 会津・庄内両藩の追討のために奥羽の民衆の人心が恐々として一揆も起こっていて、いつ一揆の者が襲ってくるかもわからず、御転陣の儀はおとりやめになって仙台城に御帰陣され、奥羽の瓦解などは致されないよう御鎮撫をされることが我々一同の願いであるという内容だが、早い話が、奥羽のことは奥羽の諸藩で行うから、早々に仙台へ引っ込んで、民を苦しめたり奥羽の秩序を崩さないでくれ、という内容である。

 また、先に上申した会津藩の謝罪嘆願書の受け取りを拒否し、総督府下参謀という威をかさに暴虐な振る舞いを続けていた世良修蔵であったが、彼が出羽に出陣中の同僚・大山格之助綱良に出した密書が仙台藩士の手に落ち、そこには「奥羽皆敵」とあったため、激昂した仙台藩大隊長・瀬上主膳姉歯武之進らは、世良が宿泊する福島藩内・金沢屋という宿屋を福島藩の兵とともに急襲。世良を逮捕し、翌20日、阿武隈川で斬首した。

 同じく閏4月20日、仙台・米沢藩は会津藩討伐の兵を解くことを一方的に総督府に提出した。

 今般、会津容保降伏謝罪之儀、家来共歎願申出候ニ寛典ノ御沙汰被成下候様過日奉懇願候処、朝敵不可賀入天地罪人ニ付、雖被為及御沙汰旨御達ノ趣承知仕候、然処猶又衆議相尽太政官エ奉伺候外他事無御座候間、是迄出兵ノ口々解兵仕候旨、仙台米沢両藩ヨリ昨十九日御届申上候通同意申談仕候間、各藩為応援出兵ノ儀モ右両藩同様解兵仕候、此段御届申上候 以上

              丹波左京大夫家来 飯田 唱
              阿部美作守家来  平田彈正右エ門
              相馬因幡守家来  相馬 靱負
              秋田万之助家来  大浦 帯刀
              安藤理三郎家来  三田八弥
              本多能登守家来  石井武右衛門

 22日、仙台・米沢藩は列藩代表を白石城に集めると、23日に会議を行い、奥羽列藩同盟の締結軍事局を福島城に置くことが決められ、会津藩とともに薩長ら官軍を名乗る奸賊との対決を決議した。このとき身の危険を感じた九条道孝総督はひそかに仙台を脱出して盛岡へ逃れるが、盛岡藩は受け容れを拒否し、久保田藩に援けられるまで浪することになる。同盟の成立と同時に、会津藩は西郷頼母近悳・横山主税常忠の両家老を奥羽の関門・白河城へ派遣してこれを固めている。

 一方、白石城の列藩会議から解兵の知らせが届いた玉之井村の岡田監物隊は、ただちに陣を解いて中村へと帰陣。29日、中村藩は仙台藩から白河城守備の援軍催促を受けた。

「白河城、接戦已に急なり、棚倉もまた唇歯の地勢甚だ危し、故に今、数隊を率へ出兵せり、中村藩も速やかに兵隊を出し、応援すべきこと」

 白河城には西郷頼母を総督、横山主税を副総督とする会津藩兵一千余が送り込まれ、仙台藩からも瀬上主膳・佐藤宮内を隊長とする二大隊(参謀:坂本大炊、軍監:姉歯武之進)一千余が派遣され、さらに旧幕府軍の義集隊新撰組純義隊に加え、棚倉藩からの応援を加えた二千七百余が白河城を固めていた。

この書状をうけた中村藩は、ただちに重臣等が集まって衆議している。

「会津の謝罪、御許容なきものは悔悟の実、いまだ明瞭ならざるがためか。まして恭順謹慎の誠を積むにいたらば、何ぞ容れられざることがこれあらん。各藩もまた天下蒼生のために君臣の大義を示し、ともに至忠をつくし、幾十百度といえども歎訴すべし。何ぞ、一度の歎願容れられざるをもって、直ちに会津に党し、官兵に抗衝するの理あらんや。前日、白石会議において既にこれを論ずといえども、大藩の威権をもって聴かざるにて、すでにあらず。異議の藩は言下に大兵をもってこれを撃砕せんとするの威を示し、これを要して異論なからしむ。この時にあたり、小藩微力といえども、断然天下の大義、君臣の大倫を明弁し、挙国これと奮戦し、倒れても而後止むは固まるよりその分なり。しかるといえども、名義においては正し。たとえれば、卵をもって石に投ずるがごとく、天下においてはいささかもその益あるを見ず。且つ、累年撫恤愛憐を加ふる所の天民無罪にして、兵刃弾丸に斃れ肝脳地に塗れ、残酷の苦しみに陥るを忍ばんや。一旦、汚名を蒙るもしかず、しばらくこれに陽従し、時を待ちて而後、勤王の素志を達し、永く力を王室に尽くさん」

「会津藩の恭順が受け入れられなかったのは、その反省の心が明瞭でなかったためであるとし、ただ一度の訴えが受け入れられなかったからといってあきらめるべきではなく、それがために我が藩が会津に組して官軍に抵抗する理由はない。」

 中村藩は先日の白石会議でこう訴えたが、仙台藩など大藩の威をもって封殺されたという。かつて相馬家は列藩同盟に組みするとき、家老会議において「会津藩は今回の事変での罪はなく、すべて天皇の側近くで蠢動する君側の奸の盲動が起こしたもの」と議決して参加しており、まったく一貫性のない主張である。奥州の関門である白河城が危機を迎えた今日、列藩同盟のみに肩入れする危険性を感じ取った上での発言かもしれない。相馬家としては、わずかに六万石の小藩が列藩に囲まれた中で抵抗することは滅亡を意味する。国土はたちまち蹂躙されて、罪のない民衆を塗炭の苦しみに陥れてしまう。それであれば一旦は汚名を蒙ってもしばらくは同盟軍の一員となり、時期を見て官軍に恭順することとした。そして、棚倉藩から援軍の要請があったことから、岡和田忠左衛門伊重を番頭とした一隊を白河城へ派遣することとした。

■戊辰戦争~白河城攻めの失敗と同盟の揺らぎ~

◆閏4月29日派遣の岡和田忠左衛門隊◆

地位 名前 隊など
隊長 な し  
番頭 岡和田忠左衛門伊重  
小隊長 松本五郎太夫威重 銃士一小隊
西甚内義陣
佐々木藤左衛門治綱
羽根田兵右衛門永清
砲隊長 上野庄蔵利重  
軍司 多々部藤蔵直信  
軍目 佐藤与右衛門邑信 3名
軍使 岡田惣兵衛健長  
輜重 志賀三左衛門直道 16名
戦士   10名
相図   1名
鼓手   1名
書記   1名
器機   5名
医師   1名
夫卒   125名

 5月1日、白河城の戦いで、会津藩は横山主税(副総督)はじめ、海老名右衛門(軍事奉行)・小松十太夫(軍事方)、一柳四郎左衛門(寄合組中隊頭)、鈴木作右衛門(青龍一番士中隊頭)、日向茂太郎(朱雀一番足軽隊中隊頭)などの並居る指揮官が戦死。仙台藩も坂本大炊姉歯武之進が斃れ、白河城は薩長勢の手に落ちた。

 5月3日、奥羽列藩会議は、越後の6藩(村上・黒川・三根山・村松・新発田・長岡藩)を会議に加え、ここに「奥羽越列藩同盟」が成立した。

 会津藩からは永岡敬次郎安部井政治諏訪常吉神尾鉄之丞らが仙台城に派遣され、仙台藩の玉虫左太夫若生文十郎らと薩長戦略を策定、薩長による欺瞞政権を認めず、独自の政権樹立をめざすことが決められた。こうして、薩長軍と奥羽列藩の本格的な戦闘が開始されることとなる。

 5月19日、薩長軍は白河城に集結し、奥羽各藩はこれに備えて守りを堅くした。しかし、薩長方に進撃の気配がなかったため、岡和田忠左衛門隊は仙台・会津・棚倉藩隊とともに金山に兵を進め、他は釜ノ子へ進軍。番兵を置いて薩長の動静をうかがいつつ、進軍のときを待った。そして23日、岡和田忠左衛門は、松本威重小隊を夜襲部隊として派遣、会津・棚倉両藩隊と合流して薩長軍を急襲した。これにおどろいた薩長軍は退却したが、懲りずに中ノ村を攻撃し始めた。このため各藩兵は中ノ村へ駆けつけ、薩長勢を殲滅した。

 26日午前0時、白坂駅を攻めるため、会津・棚倉藩兵が金山を出立するが、岡和田忠左衛門は羽根田兵右衛門小隊を派遣して会津・棚倉勢と合流させ、ひそかに白坂駅の東山手にまわって陣を布き、翌朝7時頃、白坂駅の西軍陣地に向けて砲撃を開始した。この突然の砲撃に西軍は慌てふためき、同盟軍は白坂駅を占領した。しかしこの戦いで銃士・佐藤四郎兵衛宗清と人夫・卯吉が討死、軍司・多々部藤蔵直信、戦士・佐藤富吾一信、高玉務・志賀源三郎が負傷するなど、中村藩はこの戦い始まってはじめての死傷者を出した。

 またこの日、会津・仙台・二本松藩連合軍が、仙台藩士・細谷十太夫のゲリラ部隊を先鋒とした白河城総攻撃の軍勢を催して、一気に白河城を攻め取ろうと画策。会津藩の高橋権太輔(砲兵二番隊頭)・木本内蔵丞(朱雀四番寄合組中隊頭)らは、白河城を見下ろす金勝山に大砲を設置して白河城に砲撃を開始した。さらに中嶋兵衛介(仙台藩)・大谷鳴海(二本松藩)が援軍として加わり、西からは上田八郎右衛門(朱雀三番士中隊頭)・相馬直登幸胤(正奇隊頭)が攻め懸け、北からは小森一貫斎(朱雀一番士中隊頭)が砲撃を始めた。

 しかし、薩長軍は白河城の兵員を増強していたため、ついに白河城を抜くことはできず、仙台藩の伊達将監邦寧石川大和邦光は「本藩は本末を誤れり」と言い残して戦線を離脱してしまう。

 29日、白河城進軍についての会議が開かれ、中村藩は西甚内小隊・羽根田右衛門小隊の二小隊を派遣、会津・棚倉藩兵と合流して、坂・十文字の戦いで薩長勢に砲撃を加えた。しかし白河攻めは利あらず、西・羽根田両小隊は追いすがる西軍兵に容赦なく砲撃を加えながら退却した。

 6月2日、仙台藩は海道筋の情勢を憂うと称し、古田山三郎率いる三百名が中村城下へ入った。仙台藩は以前から中村藩の去就を疑っており、古田は中村藩の目付として送り込まれた人物である。そして、岩城平への援軍として出兵を求めた。しかし、中村藩は「海岸警備の兵は少ないため兵は割けない」と称し、水谷長左衛門を仙台藩勢に加えた。

◆6月7日派遣の泉田豊後隊◆

地位 名前 隊など
隊長 泉田豊後胤正 家臣12名
番頭 堀内覚左衛門興長  
四本松大右衛門鄰義  
砲隊長   附属7名
軍目 猪苗代清太夫純盛  
軍使 小倉七郎兵衛精宗  
戦士   10名
輜重   附属6名
器機   附属1名
医師   1名
夫卒   61名

 その後も仙台藩による出兵要請があり、7日には泉田豊後胤正隊を派遣したが、中村藩としては、薩長主体とはいえ曲がりなりにも勅命を奉じている「官軍」に抵抗する事に反対の立場であり、秊胤は泉田豊後自身の出兵は許可しなかったという。敗色濃い列藩同盟に愛想を尽かし、自領の安堵を模索し始めていたというところが実際のところかもしれない。

 ところが奥羽各藩から、「相馬家からはなぜ隊長が出陣しないのか」と疑念をもたれた上、部下からも「隊長なきをもって、異論紛糾止めるを得ず」との訴えがあり、秊胤はやむなく泉田豊後に出陣を命じた。

 6月12日、列藩同盟軍による白河城惣攻めが泉田豊後隊に報告され、13日早朝、関山の号砲六発を合図に各藩隊は道を別れて白河城へ進み、泉田豊後隊は「大沼口」を担当することになった。薩長軍は月見山・月待山の山頂に砦を構えてわずかに応砲するのみで、目立った攻撃はなかったため、豊後は部隊を二分して両山麓に陣を張って山頂の薩長軍とにらみ合いとなった。ここで泉田隊と薩長軍は銃砲の撃ちあいとなったが、山麓の泉田隊は次第に圧され、銃卒・佐藤伝左衛門が戦死するなど苦戦をしたが、会津藩の応援で救われ、金山へ退却した。

■戊辰戦争~平城の陥落と相馬将監の戦死~

 6月16日、常陸国平潟湊に西軍が軍艦数隻にて上陸したという報告をうけ、秊胤は金山の兵を磐城平方面に廻しているが、「金山の兵員益減少、要地の戌兵に充つるに足らず」という嘆きが伺える。

 24日、前日から吹き荒れた暴風雨のため中村藩兵は警戒を怠っており、郷戸・小松・仁井田に奇襲をかけてきた西軍に敗れ、さらに関山も攻め取られてしまった。その上、中野番沢・畑宿の西軍が泉田豊後隊を挟み撃ちしたため、豊後は支え難くついに敗走。西軍はそのまま岡和田忠左衛門隊の守る金山へ迫った。

 金山を守っていた岡和田忠左衛門は、西軍に備えて松本五郎太夫威重羽根田兵右衛門永清の二小隊を金山の北へ進め、残りの部隊を西台場へ駐屯させ、仙台・会津・棚倉三藩の援軍を加えて防戦するが、西軍は金山宿に侵入して放火したことから、やむなく岡和田忠左衛門は兵をまとめて簗森へ、さらに堤村まで退却した。

そころ、西軍は逆川を越えて棚倉へ迫っており、守兵が少なかった棚倉城は抵抗をあきらめ、藩兵みずから城に放火して自落した。関山・金山を落とされた泉田豊後岡和田忠左衛門両隊も石川宿へ退き、敗残兵の到着を待った。すると、白河攻めに失敗した各藩隊も集まったため、ここで会議が行われ、

「今日の瓦解兵もっとも散乱し、再戦を謀る事あたわず。むなしく潰兵をもって爰に拒まんよりむしろ、一度兵を各領地に収め、更に後挙を図らん」

と決定され、各藩隊は別れて各藩へ戻っていった。この一連の戦いで泉田豊後隊の番頭・堀内覚左衛門興長をはじめ、農民の重左衛門・兵太が死亡、銃士・古市子之助が負傷した。戦死した堀内興長の家「堀内覚左衛門家」は、御一門・堀内大蔵家の庶流で、家老にも就任した一家であった。

◆6月中旬、磐城平へ派遣の堀内大蔵隊◆ 

地位 名前 隊など
隊長 堀内大蔵胤賢 家臣10名
番頭 立野与次右衛門孚長   
富田五右衛門正実  
小隊長 大亀弥左衛門信義 銃卒一小隊
森武兵衛栄治
武野半兵衛方保 銃士一小隊
小田切伝兵衛安栄
木幡源左衛門易清
半野嘉左衛門義重 農兵一小隊
富田重之丞高照
軍司 草野半右衛門正意  
軍目 富田彦太夫武重 附属1名
軍使 山岡左太夫隆剛  
原伝右衛門由信  
戦士   20名
大砲   附属5名
輜重 池田喜左衛門栄綱 附属20名
書記   附属1名
合図   附属1名
医師   1名
夫卒   34名

 さらに常陸平潟湊に上陸した西軍は、すでに勿来の関に至り、泉・磐城平・湯長谷藩といった小藩は危くなったため、仙台藩は中村藩にふたたび援軍派遣の要請をした。これを受けた中村藩はやむなく堀内大蔵胤賢を隊長とする一大隊を派遣し、6月24日、磐城平城に入城した。

 7月2日、笠間藩の陣屋に西軍が駐屯しているという報告を受けた堀内大蔵は、他藩兵とともに夜襲をかけたが敵勢はすでに遁走していたため、陣屋に火を放って帰陣した。

 しかし3日、平潟口総督・四条隆謌が平潟に上陸し、浜街道を平城に進軍してきたため、堀内大蔵は諸藩へ兵員増強要請の文書を発した。これに米沢藩、福島藩、三春藩が直ちに応じ、援兵の派遣を通達した。中村藩庁もこの知らせを受けて、5日、相馬将監胤眞に出兵を命じ、7月7日、将監隊は平城に入城して堀内大蔵隊と合流した。

 しかし、このような中で、仙台藩は中村藩の真意を疑い、兵を仙台藩・中村藩の藩境である駒ヶ嶺まで進め、使いを中村城に送り、秊胤自ら出兵するよう依頼してきた。秊胤はこの使いを受け、やむなく軍勢を集め12日、原ノ町まで兵を出した。

地位 名前 隊など
藩主 相馬因幡守秊胤  
家老 相馬靱負胤就   
用人 石橋兵太夫義恭  
脇本喜兵衛正明   
軍司 多田部藤蔵直信  
軍目 桜井次左衛門  
岡源右衛門  
軍使 西健之助  
小隊長 氏家右門 銃卒一小隊
小河清記
草野平右衛門    〃
田村助右衛門    〃
輜重 須江三郎兵衛  

 7月13日明け方、西軍の平城総攻撃が始まった。相馬将監は城外西の新川のほとり、長橋町に陣を張り、小畑又兵衛高徳の一小隊を南の湯本口の援兵として派遣するが、西軍の勢いを止めることができず退却して長橋町(いわき市平長橋町)の中村藩陣に戻った。仁井川町(いわき市平新川町)の各藩兵も破れ、城内へ退却した。長橋町の相馬将監はひとり抗戦したが、折からの雷雨で旧式の火縄銃が役に立たなくなり、稲荷山いわき市平揚土)に退いて西軍を待ち構えたが、西軍が城の西に通じる八幡小路に迫ったため、止むを得ず城内に退き、六間門いわき市平六間門)を閉じて守った。

 このとき相馬将監のもとにあったのは野坂小隊、西内小隊の二小隊のみで、西軍は六間門にこれに倍する兵力で押し寄せてきた。西軍の新式鉄砲や大砲は雨も問題なく、六間門には大小の砲弾が雨のように降り注ぎ、楼門に当たって門も砕け散らんとするところに、相馬将監は兵を叱咤し、いつでも突貫できる体勢を整えて門の左右に兵を配して鉄砲を応射して門を守った。

 しかし、兵は少なく各所を防ぐことはできず、相馬将監は黄昏時に平藩家老・上坂助太夫と謀り、決死の兵を集めて六間門から突撃しようとしたが、敵勢はすでに退いていたため、城外の家屋敷を焼いて西軍の拠るところを潰した。

隊長 相馬将監胤真
番頭 幾世橋作左衛門裕経
村田半左衛門一隆
小隊長 野坂源太夫直長
西内重郎左衛門安豊
小畑又兵衛高徳
軍使 花井七郎太夫信祥
岡田富助長泰
軍目付 下浦源左衛門暁清
輜重 富田又左衛門辰実

 夜も更けたころ、平城本丸に各隊長が集まって明日の戦いのための軍議を催した。ここで残った弾薬を調べたところ、弾丸は一人当たり十発に満たないことがわかった。各隊長からは「弾薬も尽き、何で城を守ればよいのか」との意見が出、城を撤退する方針が固まった。そして二更(午後十時)、守備兵たちは城の各所に火を放ち、城の北西の門より密かに脱出。間道を通って夏井川を渡り、四倉村に援兵としてきていた中村藩の藤崎源太左衛門義重富沢源之助安明の二小隊と合流。四倉の長友いわき市四倉町長友)で遭遇した西軍の兵も、背後の仙台藩兵と挟撃して追い散らし、久駅(いわき市久之浜町)まで退いた。この戦いでの相馬将監の奮戦は敵味方に称えられ、「鬼将監」の異名をとった。しかし、この日の戦いで中村藩は二十四人もの戦死者を出した。

◆7月14日下河内村派遣の岡田監物隊◆

地位 名前 隊など
隊長 岡田監物泰胤 家臣二十二名
番頭 岡部求馬保隆  
門馬弥惣右衛門英経  
小隊長 池田八右衛門直行 銃卒一小隊
金谷平左衛門顕実
都甲伊右衛門良綱 銃士一小隊
中妻伊兵衛軌永
太田清左衛門
軍司 小河清記  
湯沢長左衛門  
軍目 猪苗代清太夫  
富田彦太夫武重  
輜重   一名
相図   一名
鼓手   一名
書記   一名
器械   一名
医師   二名
夫卒   三十五名

 7月14日、山手間道の備えとして秊胤は岡田監物隊に命を下し、棚倉藩領下河内村(東白川郡棚倉町大字富岡字下河内)に派遣した。 

 また、平城から引揚げてきた相馬将監隊は北上し、7月17日、援兵として平に派遣されていたが間に合わなかった泉田豊後隊堀内大蔵隊熊駅双葉郡大熊町熊)で合流。守りの薄い山手側に堀内大蔵隊が配され、泉田豊後隊が街道筋の本隊となり、相馬将監隊は遊軍として援護隊となった。

 7月18日、西軍は四倉を占拠し、広野駅双葉郡広野町)を目指して進軍を開始していた。このため、泉田隊は富岡駅(双葉郡富岡町)まで兵を進めて浅見川の前に陣地を築き、中野卯右衛門重軏源太左衛門義重富沢源之助安明の三小隊を山手の間道を押さえるために、二本椚亀ヶ崎の二か所に派遣し、増援の今村吉右衛門秀栄木村庄次郎重西内善右衛門重興の三小隊が追加で派兵された。この日、詔があり、江戸は東京と改称された。

 7月19日、各藩は磐城平以来の奥羽列藩の不利な状況に、原ノ町に駐屯していた秊胤に出兵を促し、これを受けた秊胤は大堀村双葉郡浪江町大堀)まで兵を進めた。また、平藩前藩侯・安藤対馬守信正(前老中)が逃れてきたため、相馬家の菩提寺である幾世橋村の大聖寺を仮館として提供。馬場俊助の屋敷を旧平藩の仮本営とし、兵糧弾薬を提供した。

大聖寺
幾世橋村の大聖寺山門

 7月22日、西軍は末次村いわき市久之浜町末続)にまで兵を進めた。これに亀ヶ崎に駐屯していた木村庄次郎重光隊、西内重郎右衛門重興隊が夜襲をかけて壊滅させることに成功。陣所には火を放って亀ヶ崎に帰陣した。さらに翌23日には浅見川まで進んだ西軍本隊と中村藩・仙台藩の連合軍が激突。日が暮れても戦いは収まらず、木村庄次郎隊猪狩勘右衛門隆辰隊の二小隊と仙台藩兵が西軍本隊の左翼に奇襲をかけ、ついに勝利を収めた。しかし、中村藩・仙台藩ともに弾薬が足りず、24日、弁天坂に退いた。また、秊胤はこの日、相馬将監に平城での勇戦を賞して白銀五十枚を下賜した。

 7月24日、泉田豊後隊は木戸駅双葉郡楢葉町大字山田岡)に軍を進めた。一方、相馬将監隊も仙台・米沢両藩兵および、春日左衛門率いる旧幕府陸軍隊と合流し、26日に広野に布陣する西軍を討つことを決した。そして軍議の通り26日早朝、山手および本道西を中村藩兵(泉田豊後隊・相馬将監隊)、本道東を仙台藩(伊達藤五郎邦成隊ら)・幕府陸軍隊(春日左衛門隊)、浜手を米沢藩兵がそれぞれ担当することとし、木戸駅を発して広野に向けて進軍した。

 26日、広野に向けて進軍中の相馬将監は本道東の松林の中を進んだが、本道の激戦とは裏腹に兵が現れず、本道の仙台藩を救援して広野駅の敵陣所に迫った。しかし、西軍は広野駅前に土壇を設けて狙撃してきたため、将監隊にも多数の死傷者が出た。相馬将監はただちに胸壁を築いて飛弾を避けながら戦うこと数刻、味方も援軍に現れてともに戦った。その後、敵陣からの砲声が鎮まったたが、西軍が松林の中から突如現れ、将監隊の左翼に銃撃を浴びせた。この銃撃で相馬将監は重傷を負い、中村藩兵もまた多数の死傷者を出して退き、陣所に運び込まれた後に亡くなった。また、仙台藩隊長・中村権十郎も戦死、米沢藩も大敗して退いた。一方、七曲に布陣していた中野卯右衛門、猪狩勘右衛門は仙台藩兵と合流し、広野に進んだが西軍と遭遇して進めず、大谷村(楢葉町大字大谷)の高台に布陣していた堀内大蔵隊も発砲して広野の救援に向うがついに果たせず、兵を引いた。この戦いでは御一家・相馬将監が戦死、重臣の村田半左衛門一隆佐々木藤左衛門治綱今村吉右衛門秀栄藤田又兵衛宗昌らが重傷を負った。  

■戊辰戦争~浪江陥落~

 7月27日、各藩の諸隊長は相馬藩南境の熊駅に入って守りを固めた。しかし西軍の物量に任せた砲弾の雨は夜ノ森富岡町大字本岡)、手岡を守る諸藩兵を蹴散らし、ついに相馬藩領に西軍が侵入した。山手の間道を守っていた岡田監物は五小隊を率いて棚倉藩領河内村を守っていたが、退いて大堀村浪江町大字大堀)に布陣する秊胤のもとに参じ、「本路の敵、已に中村を距る遠からず、宜しく勢を集中して防戦の策を定めざるべからず」と諌言、秊胤はこれを受けて堀内大蔵泉田豊後の二隊を浪江宿に派遣し、熊駅から敗走してきた仙台・米沢二藩の兵を浪江に置いた。 

金性寺
小高金性寺

 7月28日、秊胤は各藩兵が退却した頃合を見て、大堀村から中村城に本陣を移すことと決め、小高村金性寺まで退いて宿陣した。このとき脇本喜兵衛が精鋭を率いて来援したため、士気は大いに上がり進軍せんとしたが、佐藤勘兵衛が小高に到着し、「此地防戦に不利なり、宜しく原町に退くべし」と秊胤を諫めた。これを聞いた兵たちは「今や邦家危急存亡の秋に際し、進んで敵を拒ぐ不能、退て社稷を保つ事を得ず、一死君国に奉ずるあらんのみ」と訴えた。このような中で、西軍は高瀬村(浪江町大字高瀬)に迫った。秊胤は浪江宿の防備のため、浪江宿樋渡村、幾世橋村(浪江町樋渡、幾世橋)に兵を派遣して、高瀬川を前衛高野村に布陣した西軍と対した。

 高野村の西軍は、浪江宿に向かって砲撃を開始し、中村藩兵もこれに応じて数刻、激戦が繰り広げられた。しかし、中村藩側の兵数は西軍に及ばず、さらに援兵もないため次第に敗色が濃くなっていった。そこに岡田監物が浪江の危機を聞いて大堀村から進軍し、高野村の西軍の左翼に抜刀して突撃。猛烈な突貫は西軍をたちまち壊走させ、無数の敵を討ち取った。西軍は壊乱する中で腹いせに高瀬村の民家に放火して退却していった。

 しかし、翌29日には西軍は隊を立て直してふたたび浪江に進軍。藩兵も必死にこれを防いで戦うこと数刻、勝敗は決しなかった。このため、西軍は主力を西方に集め、右翼から藩隊に突っ込んだ。西軍はさらに退路を奪う行動に出たため、幾世橋に布陣していた中村藩兵は浪江宿を放棄して小高に退いた。中村藩境の浪江宿の陥落は、中村藩の玄関口を攻め落とされたことになり、士気の低下は避けられなかったと思われる。 

■戊辰戦争~中村藩の降伏~

 秊胤は一連の敗走にすでに西軍への降伏を考えていたと思われる。しかし、仙台藩は中村藩の真意を疑って中村藩を監視し、列藩同盟の総意として秊胤自らの出陣も指示した。こうして中村藩の本拠・中村城には老公・充胤と御付の人数十人のみが控え、政庁には泉、西、大浦、富田の四老臣と郡代、会計吏数十人のみがいるだけだった。これにひきかえ、米沢藩兵八百名は相馬領の北、駒ヶ嶺にあって軍務を総括し、仙台藩兵数千人は城下向町の長願寺(正西寺)に駐屯、城下では遊撃隊の林昌之助忠崇(旧上総請西藩主)人見勝太郎寧伊庭八郎秀穎らが大手前の熊川左衛門邸を陣所とし、すでに中村城下は同盟軍の最前線基地となっていた。

 ちょうどこのころ、京都で小栗下総守政寧(京都町奉行)に仕えていた岡部正蔵綱紀が中村に帰国した。政寧は老公・充胤の従兄弟にあたる人物である。京都の情勢を見てきた岡部は、帰国するや富田久助高慶と面会して降伏について相談するが、富田は「降伏を謀る、慈隆の同意を得るを要す、卿宜しく戦地に赴き之に会し、京師の状情を述べて帰順に尽力せしめよ」と岡部に話し、岡部はただちに原町に布陣していた秊胤を訪ねると、従軍していた慈隆和尚に西軍への降伏を説いた。 

「今や奥羽の反跡天下に顕然たり、官軍の英気奮興、西国、中国一致合同之を剿絶して朝憲の振起を計らんとす、これ当今廟議の決する処、而して二州何の名ありて官軍に抗するか、仙米其力を計らず、小藩を擁して逆賊に陥らしむ、其意悪むべし、吾藩今にして改めんずば、社稷の必滅眼前にあり、師早く一藩をして初志に帰り、逆を去りて順に帰するの策を講ぜよ」 

 これに対して慈隆和尚は、

「卿が言是なり、然と雖も、当今の形成斯くの如し、尚、熟考を重ねんのみ」

と、中村城下に同盟軍の軍勢が屯している状況での同盟離反、また西軍に対しての徹底抗戦をした過程など、急に降伏することが得策ではない状況下にあって、熟考が必要な事を説いた。

 一方その頃、熊川、浪江での敗戦、藩侯秊胤の原町への退陣の報告は中村城にも届き、家臣たちは愕然として会所に集まっていた。軍者次席・門馬孫太夫守経は会所に出席すると、

「事已に斯くに至れり、我が藩の官軍に抗するやむを得ざればなり、猶降るべからざるか」

と降伏論を発言すると、富田久助高慶も、

「隆師軍陣に臨み、士気を鼓舞し力を尽くさる、而してその期を察し降るべきの時を待たるるなり、是において其意に任せ其報知を待つ、今已に邦境破れ、君臣兵を原町に引き上げ危急存亡旦夕に迫る、あに他日を待たんや、不肖直ちに原町に行き、順逆の道を論じ謝罪のことを成さんとす」

と応じ、泉内蔵助胤富大浦庄右衛門栄清の二老も富田に同調したため、富田は馬を馳せて原町の秊胤の本陣に駆けつけ、藩侯・秊胤に謁して、心ならずも加わった同盟軍であり、官軍に降ったことによって同盟軍に攻められ、藩が滅んだとしても、官軍の一員としてあれば必ず復興できると説いた。しかし秊胤は、

「素志もとより然り、然れどもやむを得ざるに出づると雖も、官兵に敵すること十有余度、天威震怒、今に至って降伏事情を達するも豈許可あらんや、奥羽各藩の盟を棄て、天朝また是を容れざる時は、万世天下の笑いを取たんのみ、父君の思召しはいかが」

といまさら降伏を申し出たところで許されるはずもないと悲観的な事を述べる。これに富田は、大君充胤公は始終官軍に属する深慮は動かず、先日も謝罪の道に尽力するべしとの命を受けていることもあり、朝廷はこれから新しい国づくりをする上で、降る者を受け容れない理由は無いとし、今仙台と同調して官軍に抵抗すれば、朝敵の汚名は永遠に消えないとして、「速やかに意を決し給ふべし」と説得した。しかし、やはり秊胤は降伏することに躊躇していたようで、

「なお熟考すべし」

と言うに留まり、富田もそれ以上は何も言えず退いた。

 この後、富田は慈隆和尚に面会し、秊胤を説くよう依頼した。これに応じた慈隆和尚は、富田とともに秊胤に諌言した。しかし秊胤は、

「順に附きて逆を棄つ、何の論かあらん、然れども今進退すでに窮せり、なお厚く重臣に諮れ」

と、官軍に帰順することが道理であることは議論の余地もないことはわかっているが、進退窮まったこの状況では、重臣たちとさらに相談するよう命じた。富田は秊胤の前を退くと、陣中に控えていた家老・相馬靱負とも相談するが議論は固まらず、本陣を訪れた同志の岡部正蔵に相談した。岡部は、

「官軍進撃必ず急ならん、一日遅々せば邦家必ず立つべからず、速やかに決すべし」

と、急いで伏帰順をしなければ、官軍のために滅ぼされることを説く。これに富田も、

「事前日より決せりといえども、今日君侯および重臣の意、いまだ決せず、なお再言すべきなり」

と説明した。富田と岡部の二人は慈隆和尚に再び面会して説得を依頼するも、

「道理もとより疑うべからず、然と雖もこれは邦家の大事一言の下に決す、豈深く諮らざるを得んや」

と、相変わらず切迫感のない返答のみであった。まだ十七歳の若い藩侯・秊胤はまだしも、それを支える相馬靱負、慈隆和尚など側近の意見があまりにのんきであることにあきれた岡部はため息をつき、

「大事に臨み決すること不能、何を以って国家の政を執らんや」

と怒りを含んで詰め寄るが、富田は、

「これを重臣に諮らずして余の一決に処するを得ず」

と言ってなだめた。ちょうどこのとき、重臣の佐藤勘兵衛が浪江を退いて原町の本陣に合流してきた。富田は佐藤に面会してともに降伏について語り合った。佐藤は富田の説得に応じ、

「可也、国まさに傾かんとす、何の時を待たんや、速やかに歎訴するに如かず」

というや、相馬靱負も説得して秊胤のもとに走った。このとき、秊胤は原町の陣所を引き払って中村へ戻るところであった。秊胤は富田を召すと、

「今日の議、決するや」

と聞いた。これに富田は、

「重臣と議して謝罪に決せり」

と言うと、秊胤はようやく、

「果たして然らば降伏のこと汝に委任す、宜しくこれを処せよ」

と、降伏について許可を出し、8月1日、慈隆和尚、相馬靱負、岡部正蔵らを伴って中村への帰城の途に着いた。秊胤は中村城に戻ると、三ノ丸の充胤を訪問して、藩論は降伏に決したことを伝えた。

 一方、秊胤が帰国の途につくと富田は浪江へ使わす使者の選定を始めたが、このとき小高金性寺住職の智印北郷宝蔵寺住職某末永才助(末永再之助か)が富田の前へ現れ、

「国の大事に及べり、某輩不肖といえども、願わくは一死を以って官軍に使いせん」

と歎願した。これに富田も感じ入り、秊胤の勤皇の志と、やむなく同盟軍に加わって敵対したことの謝罪、中村城下を仙台藩兵が占拠しているために秊胤以下重臣たちはすぐに軍門に降ることができないことなど、累々と相馬家の窮状を伝えさせ、「君臣の素志を憐れみ、寛大のご処置を蒙らば何の幸か是に如かん」と降伏・恭順の意思を伝えることを指示した。

 富田の意向を受けた三名は、浪江に至ると、津藩の若き隊長・藤堂監物に歎願の旨を示した。

 そのころ富田は秊胤を追って中村に向っていたが、途中で岡部正蔵、馬場某と行き会うと、彼らから、藩侯・秊胤らは北行して仙台に避難することとなったことが伝えられた、これに富田は、

「昔日已南行の議決して三人を使わす、今また何の故をもって北行に変ずるや」

と怒り、馬を飛ばして中村城に登城して重臣たちに、

「往時すでに過ぎる、今南方哀訴すでに達し、報告まさに至らんとし、忽然北行の議有や何ぞや、ひとたび君臣仙領に入らば、社稷永く滅せん」

と、重臣たちの節操の無さと状況を見る目の無さを避難した。

 8月2日、仙台藩の重臣である古内近助遠藤主税が中村城を訪れて秊胤に謁見し、

「官軍すでに邦境に入る、老臣家族とともに仙台に赴き給うべし、これ寡君より臣に命ずる処、速やかに発駕すべし」

と、秊胤や隠居の充胤を何とか仙台に連行するために説得をしていた。

これに秊胤は、

「城を枕に斃るるは武門の本分なり、誓って此城を去らず」

と、これを拒否したが、彼らは一両日中の返事を待つといい、城下の長願寺に戻っていった。この寺は仙台藩が軍事局として接収していた。彼らが退出すると、富田は群臣に向かい、

「今彼来て君を促すものは他なし、我官軍に付かば彼の不利なり、今老君を要し奉り、我が兵をして死力を尽くして官軍に当たらしめんとするの謀なり、もし是を諾せずんば、直ちに大兵を出し中村を撃破するの威を示さん、終始我を撃つの事を唱えて以って我を威せり、侮慢悪むべきの至りにあらずや」

と、仙台藩の意図は、藩侯・老公を人質に取り、中村藩兵を官軍に当たらせようとする策略だと説く。仙台藩にそのような意図が仮に無かったとしても、富田は藩論を恭順に統一させるためには、こういった危機感をあおることが必要だと思ったのだろう。しかし、藩論はいまだ揺れ動いていた。ちょうどこのとき、浪江に使いしていた宝蔵寺の住職が中村に戻って登城し、状況を報告した。それによれば、

「謝罪の歎願は受け容れられない事は無いが、国の大事に僧侶らをして請うべきことではなく、速やかに重臣を遣わして謝罪すべきである」

ということだった。これを聞いた秊胤は、直ちに岡部正蔵を召すと、浪江で謝罪恭順の哀願を命じた。岡部は勇躍して、

「謹んで命を奉ぜり、今や国家危急存亡の秋に際し、近隣大藩の逼迫を排し、勤王のために一身を官軍斧鉞の下に擲って厭はせられず、一に無辜の民命に代わらせ給ふはその誠忠仁恤、いずれか感動せざる者あらん、仰ぎ願はくは、ますます精忠を奮起し給へ」 

と、降伏状を手にすると、2日夜、闇にまぎれて仙台藩兵のたむろする中村城下を脱出。死を覚悟しての浪江行きとなった。浪江へ下る最中の道に滞陣していた岡田監物堀内大蔵泉田豊後ら隊長には、君命として帰順の旨を伝えると、三名は謹んで秊胤の命に応じてこれに従う旨を約束した。

正西寺
正西寺(長願寺)

 この日、仙台藩は列藩協議の上で、相馬家に対して「挙動甚ダ怪シムベキモノアルヲ認メシ為」、古内可守・遠藤主税・木村又作の三名を中村へ派遣した(『仙台戊辰史』)

 翌8月3日、古内可守・遠藤主税は藩庁に書状を遣わして、急談があるので中村藩重臣は軍務局(長願寺)に出頭せよと命が伝えられた。富田は、これは藩侯一家を仙台に移すための返事を求めてきたと察し、重臣たちの議にかけるが、これまたなかなか議論が定まらない。このため、富田は相馬靱負大浦庄右衛門とともに慈隆和尚が住持の金蔵院にこもって議論を重ねた。富田が主張したことは、(1)官軍に対抗して仙台藩に味方すれば、相馬家の社稷は滅ぶ (2)たとえ仙台藩に滅ぼされようとも官軍に味方していれば相馬家は再興することができる、という大きな二点であった。しかし相馬靱負と大浦庄右衛門は、

「時、後れたり、行かざるべからず」

と、軍務局に赴かなければならないと、席を立った。このような状況に際し、富田は、

「存亡旦夕を待たず、而してなお南北の方向も定まらざるはなんぞや、今すでに岡部官軍に赴き、謝罪の状を述べん、然るに挙国北国せば、ひとり岡部官軍を欺くの罪、必ず煮らるるを免れんや、某今より南行、彼とともに残りに当たらんのみ、舌論千万また何の益かあらん」

と、降伏の使者を送っているという、この期に及んでなお官軍、同盟軍のどちらに尽くか去就に迷っている彼ら重臣たちを非難。慈隆和尚もまたため息をつき、

「富田まさに南行せんとす、謂らく相馬、大浦、仙の古内、遠藤に対し、談論如何、もし彼追って老君を北方に誘ふことあらば、後難計るべからず、今その危急を捨てて南行せば、我が道いまだ尽きざるところあり」

 こうして、富田は長願寺に赴いたが、なんと先に席を立った相馬靱負と大浦庄右衛門は来ておらず、佐藤勘兵衛ひとりが古内、遠藤と対して談判していた。富田は席に着くと、古内らは、

「寡君臣らに命じて老君および家族を迎えしむ、これ仙の為にあらず、当君臣を全うせんが為なり、昔日登城し、寡君の意を告ぐ、今日なおその報を得ず、南方はなはだ危うし、兵を出してこれを防がんとし、兵隊すでにしたくせり、然れども老君、家族仙地に入るの報を得ざれば、空しく発するを得ず、今直ちに即答を聞いて以って兵を発すべし、如何」

と強い調子で、佐藤、富田らに藩侯一家の仙台行きを勧めた。これは脅しでもあり、寺の内外には兵が配置され、今にも攻撃ができる体制が整えられていた。これに富田は、

「仙君の厚志、何の辞かこれを謝せん、貴邦に入りて永く厚意を請うもの昨今にあらず、小藩の亡滅すでに迫れり、まさに何の地に依らんや、君臣の意、始終然り、而して今日速やかに駕を発せざるものは、此れに憂ふる所あればなり、故如何となれば棚倉の戦より昔日の戦いに至るまで、南軍に抗するもの幾十度、然してついに国境破れ、兵疲れ力窮す、然れども敵いまだ当城に迫らず、もし今日迫らば守城防戦尽力せんのみ、これ君臣の分に非や、然るに敵十里外の浪江にあり、遽然として去り、いまだ一砲も発せずして隣国に至らば、恐らく天下後世の笑ひを取らんのみ、ひとり官軍に愧づるに非ず、また仙君侯にも恥じるところなり、これ懇請厚しと雖も老君決せざる所以なり、然りといえども今、子輩の言ふ所もっとも切なり、老君および寡君に告げ、後刻来て命を奉ずべし」

と、一旦戻って、のちほど北行の旨を伝えることを伝えたしかし、古内らは勃然として、

「子輩の答ふる所、その理ありといえども、我輩命を受け今兵隊を南に出さんとす、而して昨今報を待ってこれを得ず、今また子の往復を待つを得んや、およそ国の重臣急に当たりては、君に告げずして処置よろしきを得るものその常なり、この席にて即答を聞き、兵を南に発せん、某、老君および家族の今日中に仙地に入るるの答えを聞かん」

と、あくまで充胤、秊胤家族の仙台行きの即答を求めた。佐藤、富田は彼らの横暴振りを憤然と聞いていたが、今ここであえて抗することもないと思い直し、

「子の言、是なり、然りといえども一言せずして今日発駕せしむる事、甚だ惑う所なり」

と、一旦城に帰って返答することを告げた。すると頃合を見計らったかのように、仙台藩軍目付・森又作が会談場に現れて遠藤主税に、

「論談無用なり、事すでに決せり、君侯よりの命あり、羽檄今達せり」

と、一書を開いて遠藤に示した。遠藤はこれを一読してうなずいた。その文書は中村藩討伐の檄文であると見せかけ、富田、佐藤らを脅す策略と感じた彼らは、とりあえず翌8月4日、充胤・秊胤の発駕を約束し、ただちに登城した。

 富田は登城すると、家老重臣たちを前に、仙台藩の横暴無礼さを訴え、かつ老公、藩侯を人質にとって同盟軍の先鋒として中村藩を用いようとする策略があると訴えた。仙台は城下の長願寺を軍事局に勝手に定め、中村城を攻める計画を度々彼らの口から聞いていたこと、仙台藩は中村藩とは先祖代々の仇敵であり、かの藩のために討死したもの幾多を知らず、さらにかの藩は今また我が藩を滅ぼそうと画策している。このような藩を頼む道理がどこにあるのか、速やかに降伏を決するべし、と説いた。慈隆和尚も、仙台の曲事に陥ることなく速やかに降伏を周旋すべきことを述べた。ここで慈隆は各々の役割を定め、速やかに実行すべきことを説き、浪江への使者は富田久助、佐藤勘兵衛両名が担当、藩侯一家を仙台藩の手から守る役を石橋兵太夫、ほか重臣たちは中村城の守りを固めることとして、早速今晩実行に移すことと決した。

 富田、佐藤は老公・充胤、藩侯・秊胤の前に出ると、浪江への使いとして我々両名が赴く旨を伝えた。両君も、

「事すでに今夕に迫れり、予もまた南行すべし、なんじ浪江に行きて歎訴せよ」

と、仙台藩兵が夕方に迎えに来る前に自らも中村城からの脱出を考えていることを伝えた。富田、佐藤は城をあとにすると仙台藩兵の目を盗んで城下を離れ、浪江に急行。津藩の陣営を訪ねた。すでに岡部正蔵がこの地に来ていたが、ちょうど四條総督が浪江駅に着陣するところであったため、岡部は陣外の農家にあった。佐藤らも陣中に入ることはできず、農家にいったん待機した。その後、総督府御使番・磯部鹿之進(久留米藩士)が陣中に来たれとの使者を農家に派遣したため、三人は陣中に入り磯部に面会した。磯部は、

「前非を悔い、君臣ともに降伏の條、なお評議によって沙汰あるべし、ただ謝罪とあれども何の実行を以って官軍に抗衝するの罪を償うや」

と、なぜ官軍に弓を引いたかと詰問した。これに富田らは、相馬家は君臣ともに勤皇の志厚いものの、隣する大藩が強いて同盟を起し、盟を結ばざるものは打倒するとしたため一旦は同盟に組した。しかし、藩の破滅のみを憂いて同盟に組したわけではなく、無罪の民衆が被害を被ることを恐れ、時機を見て土地人民を奉還して重罪を謝し奉るためであるとし、仙台藩はすでに領内とごとくに兵隊を配備して抗戦を無理強いし、その尽力が不足であると見ればただちに中村城を攻め落とすと脅されていたことを訴えた。磯部も、このことはすでに承知しており、富田は、今後は命のままに官軍の先陣として賊を討ち、その罪を償うことを誓った。

 磯部は参謀へ評議をかけ、総督府へ言上するのでしばし待つよう三人に指示して退席た。しらくののち、小役人が現れて、参謀・河田佐久馬景與が面会する旨が伝えられ、富田、佐藤、岡部の三人は刀を預けて陣中に入った。河田佐久馬は鳥取藩の上級武士で尊攘過激派の残党である。河田は、

「大藩に逼迫せられやむを得ずして官軍に抗するの情実は総督・四條殿にも照察あり、然る上は実効を立つべし、各藩の中、王師に抗し、帰順ののち実効を立て、却って恩賜を蒙る者あり、今実効を立てんとするもその策如何」

と官軍の為に戦って功績を立てるべきことを述べる。富田らも、先ほど磯部氏に申し述べた通り、王師の前駆として賊を討つ覚悟であると申し述べた。河田は、

「平潟着岸以降、何をもって降伏の心事を達せざるや」

と、平潟に鎮撫総督府が上陸してから時間も経っているにも関わらず、なぜこれまで降伏の心を連絡してこなかったかを問い糺した。これに富田らは、仙台藩兵は応援と称して城下領内に駐屯し、城を望む長願寺に軍事局をにわかに設置し、日ごろから城下の人々を監視し、官軍に通じようとすれば城を攻め落とそうとしていたことを訴えた。もとより仙台藩は中村藩を疑うこと深く、藩侯・秊胤の叔父である出羽久保田藩主・佐竹右京大夫義就も同盟軍を離脱して官軍として戦っていることに、中村藩はますます疑われ、監視は強まった。このような中では総督府に情実を伝えることなど無理なことであると述べた。

 しかし、河田の追求はさらに続き、

「然らばやむを得ず戦ふといへども、世子自ら出て一族ともに戦ふ、浪江の一戦、各藩の兵皆退く、独り御藩のみにて敵するは如何、勤皇の志ある者、もとよりこれの如きか」

と、秊胤自らの出師、岡田監物堀内大蔵・泉田豊後ら御一家の出陣、さらには浪江では米沢藩、仙台藩などは退いたにもかかわらず、なぜ中村藩のみ兵を退かずに抗戦した事を問い質した。

 富田は、「秊胤の出陣は、仙台藩世子が駒ヶ嶺まで出兵し、中村藩でも世子自ら兵を率いて戦うべしと指示があり、拒めば中村を撃つと脅され、やむなく秊胤は自ら兵を率いて中村を出陣したが、相馬領南境・熊川宿が破れると、仙台藩は相馬家は二心を抱いているために敗れたのだろうと邪推し、兵を引いて中村城下に集め、中村城を攻める様相を呈した。このため進退窮まった我が藩は涙をのんで浪江に戦った。幸いにも米沢藩兵は前日に米沢藩侯からの命で帰陣していたため、その間隙をついて降伏を奏することができたが、仙台藩は重臣二名を急に中村に派遣して、老公・充胤、藩侯・秊胤と家族を仙台藩領に移すことを図り、返答が遅くなれば中村城を攻めると脅した。もともと仙台伊達家とは三百年来の仇敵であり、充胤、秊胤は死を賭して仙台藩領への移動を拒んでいる。官軍に急ぎ中村に入ってもらえば、中村城はつつがない。これを察せよ」と訴えた。

 河田もこれを聞いてようやく納得し、急ぎ戻って充胤・秊胤両君を速やかに連れてくるよう指示し、河田不肖といえども両君を預かり奉り、総督・四條殿にともに伏してお詫び申し上げる。そうすれば仙台藩がいかに謀計を使うとも容易く奪い取ることはできないから安心するようにと富田らに述べた。こうして、相馬中村藩は降伏が認められた。

■戊辰戦争~仙台藩攻撃~

 中村藩降伏が認められ、大役を果たした富田、佐藤、岡部の三人は急ぎ中村に戻ろうとした所、参謀・河田佐久間は仙台藩兵はどこにいるのか聞いてきたため、仙台藩兵は中村にあり、鹿島に至るまで二百を数えること、中村藩兵も逗留していることを告げた。河田は、

「然らば我が軍直ちに鹿島に進まん、軍行かば中村の兵、仙兵と混同せずして進み、官軍に近づき旗を振って伏すべし、我また旗を振ってこれに応ぜん、これ降伏の例なり、然してともに仙兵を討たん、而して中村兵隊の印は如何」

と聞いてきたため、富田は、

「黒白班々のキレを用ゆ、いわゆる小六形なり」

と教えた。

 河田は鹿島の敵を討った後は、その勢いで中村城を救い、総督府を迎えるよう指示して三人を帰した。

 帰途、小高村に立ち寄った富田は岡部に、

「君上、今や中ノ郷深野(南相馬市原町区深野)に来たり給ふべし、子行きて降伏の成るを陳じ、君を奉じ行き、河田の指揮を受けよ、我等これより鹿島に至り、諸隊長と軍議し、中村に帰りて後事を計らん」

 これを受けた岡部は鶴谷村(南相馬市原町区鶴谷)に馬を馳せて、従者を四方に走らせて秊胤の行方を捜した。また中村に向った佐藤、富田は鹿島まで来たとき、すでに仙台兵たちは陣所を引き払って中村城下に退いており、残っていたのは中村藩兵のみであった。佐藤、富田は隊長たちと面会し、降伏がなったことを告げ、謀議したのち中村城に帰還した。しかし、中村城下にはすでに仙台藩兵の姿は無く、立ち去ったあとであった。両名はこれを怪しんで、藩士に問うと、3日の夜半、城内の兵具倉で失火があり、貯蔵の火薬が爆発。その音に驚いた仙台藩兵は、中村藩側に謀略があると疑い、慌てて駒ヶ嶺まで退いたという。一方、仙台藩側の文書に依れば、4日、相馬家の背反が明らかになったため総軍退却を命じたという。

 仙台藩兵は駒ヶ嶺まで退くと、兵を整え、黒木まで進軍してきているという。急ぎ官軍を入れるべしと、使いを総督府に残っていた岡部正蔵を通じて四條隆謌総督に歎願した。

洞雲寺(現在は同慶寺)
洞雲寺(現在は同慶寺)

 一方、秊胤は近臣四、五人とともに中村城を逃れて南行しており、5日夕刻、鶴谷村まで迎えに来ていた岡部と合流。さらに小高村に至り、河田率いる鳥取藩の陣所に入ったのち、菩提寺・洞雲寺(現同慶寺)に入った。一方、老公・充胤も中村を脱して深野村に宿しており、洞雲寺に入って命を待った。

 そして夜、総督府御使番・太田桂太郎が洞雲寺を訪れ、秊胤と面会。秊胤は、

「只今御軍門に降伏し、及び昨日謝罪の願書、ならびに重臣らをして哀訴せしむる所を総督府へ深く執奏せられんこと」

を請うた。

 翌6日、総督府は秊胤の降伏を受け入れ、秊胤には洞雲寺にて謹慎を命じ、明日7日に中村城へ入城することとした。

                      相 馬 因 幡

 右ハ致悔悟、軍門ニ参上、歎願御聞届ニ相成候、追テ御沙汰可有之ニ付、菩提所ニ謹慎罷有候様御沙汰候事、但、降伏ノ上ハ、寛大ノ御沙汰モ可有之候條、家中ノ者共動揺不致、降伏ノ実効速ニ相立、前罪ヲ償ヒ候様可致候事、

 また、諸軍へは、中村城は相馬家の降伏があったとはいえ、仙台藩兵が周辺に屯していることもあり、このことを心得て、入城進軍は厳戒態勢を敷くべしと通達した。

 7日、総督府は徴兵隊、柳川藩兵を中村城請け取りに向かわせ、中村城下・歓喜寺へ進駐する軍勢として、柳川藩、萩藩、福岡藩、津藩、広島藩がそれぞれ担当し、中村城下入口にて諸藩整列し、城中へ入り、諸門を固めた。そして洞雲寺の秊胤を召すと、参謀の指揮に従い、かつ藩兵を仙台藩追討の嚮導として徴発した。

 そして7日午前七時、号砲を発し、官軍の先鋒として中村を発った中村藩兵は黒木相馬市黒木)に布陣する仙台藩兵に向けて進軍した。中村城から北西にわずか2kmほど、仙台藩兵は黒木駅外に出て発砲した。しかし、仙台藩先鋒・安田竹之助はなぜかすでに駒ヶ嶺へ退いていて、伊達藤五郎邦成の手勢は狼狽して動かず、古内近助はぐずぐずして動かず、中村藩兵が三方から攻撃を加えたため、仙台藩兵は退却。ひとり遠藤主税のみ三小隊を率いて合戦したが、それを追った中村藩兵は伏兵の砲撃にあうが、地の利に長けた中村藩兵は隊を二分してこれを撃滅。萩藩兵、津藩兵の援軍の力も得て、仙台藩兵を国境外に追い出すことに成功した。

 午後1時、中村城に控えていた佐藤、富田の両重臣が総督・四條隆謌を出迎え、総督府は中村城に入城した。中村城は10月までの三か月にわたり総督府として使われることとなる。

洞雲寺
両殿が謹慎した長松寺(洞雲寺)

 8月9日、総督府は老公・充胤に隠居を命じた。秊胤はすでに謹慎を命じられており、充胤にも同様の措置を取るべきとの沙汰があったための措置である。8月10日、勅使・平松時厚が中村城に至り、諸軍をねぎらい、且つ人民を虐使することなきよう勅旨を伝えた。仙台藩勢の奥山永之進は大坪村に来襲した。中村藩勢はあらかじめ敵襲に備えてはいたものの、地形の利が悪く、少し退いて諸藩の援軍とともにふたたび進軍し、仙台藩兵を破った。

 8月11日、総督府は駒ヶ嶺新地までの進撃を沙汰し、諸藩兵は山手・浜手・本道の三方向から駒ヶ嶺に迫った。そして激戦の末に午後4時、仙台藩は退却。仙台藩参政・遠藤主税、大隊長・大立月下総らが負傷するなど仙台藩兵は大敗を喫した。また、謹慎中の身であったが、秊胤は岡田監物泉内蔵助泉田豊後相馬靱負西市左衛門、佐勘兵衛、大浦庄右衛門の重臣連名で藩兵をして官軍の嚮導役とすることを請う一方、仙台藩には事の順逆を述べて早々に恭順の道を計るべきこと、しかし「御謝罪之道無之上」は、王命を奉じて、やむを得ず決戦あるのみとの書簡を、標葉郡受戸浜(浪江町請戸)に漂着して保護していた伊達家臣に持たせて送り届けた。

 8月12日、総督府は中村藩を各攻め口の斥候とし、別の一隊を熊本藩隊、柳川藩隊を嚮導に差し出すことを命じ、この日は駒ヶ嶺にて全軍休息となった。また、総督府は大僧都慈隆和尚に対し、中村藩を恭順に導いた功績を賞するとともに、農商撫育に尽力するよう命じた。

駒ヶ嶺城
駒ヶ嶺城遠景

 8月16日、仙台藩兵は駒ヶ嶺奪還を図って諸道より進軍してきた。中村藩はじめ駒ヶ嶺に宿陣の諸藩兵が応じて、熊本藩兵、柳川藩兵が援軍に駆けつけたが、もと仙台藩領の南境という要衝の地であり、仙台藩兵にとっては手に取るようにわかる地理であった。林の間から銃撃を受けた中村藩兵は苦戦し、佐藤数衛菅野藤司高橋清阿部捨次郎荒嘉右衛門の五人が負傷した。岩国藩兵が間道を通って背後より仙台藩兵を突いたことから仙台藩兵は壊走したが、20日夜明けと同時に仙台藩兵は大挙して駒ヶ嶺に押し寄せ、各藩との間で大戦となった。 

 仙台藩兵には旧幕府軍の敗残兵も加わっており、中村城へ迫るほどの勢いを見せていた。中村藩は各藩の番兵と連携して防ぐが、仙台藩から飛来する弾丸は雨の如く降り注ぎ、苦戦を余儀なくされていた。午前8時、各藩の援軍がようやく到着し、各口で激戦となり、砲声は天に轟いた。鈴木直記茂庭三郎率いる仙台藩兵は海岸沿いの今泉村(相馬郡新地町今泉)にまで攻め寄せてきたため、中村藩兵は津藩兵、大洲藩兵と合流して防戦につとめたが、仙台藩兵は多く、今泉台場まで退いて砲撃、午後4時ごろ、街道沿いの仙台藩兵が瓦解したため、萩藩兵が今泉村の援軍に駆けつけて背後を突き、ようやく仙台藩兵は兵を退いたが、中村藩では佐藤勇助佐藤吉五郎渡部勇助、夫卒幸吉助次郎の五人が戦死、小隊長・村田与左衛門以下、二十六人の重軽傷者を出した。

 8月21日、謹慎を命じられていた相馬秊胤は中村藩兵の連日の奮戦の功績が認められ、謹慎御免の沙汰を受けた。

 8月23日、熊本藩陣営に伊達藤五郎邦成の家臣鷲尾右源太が出頭した。彼は去る8月14日、今泉村に布陣していた中村藩重臣・多々部藤蔵直信のもとに届ける恭順周旋の書状を農民二人(亘理郡山下村の長左衛門、彦左衛門)に託したが、彼らは誤って中村藩ではなく熊本藩の陣所にこの書状を届けてしまった。彼らは多々部に面会を請うが、もちろん多々部がいるはずもなく、熊本藩は事の次第を総督府に届け出た。総督府は鷲尾の出頭を指示したため、熊本藩は農夫一人を留め置き、一人を鷲尾のもとに戻して自ら出頭するよう命じた。

 しかし、仙台藩と軍との戦が激しくなったため鷲尾は動けず、ようやく23日、今泉村の熊本藩陣営に出頭した次第だった。彼の訴えた要旨は、仙台藩は藩士による奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵殺害は、会津藩作成の偽書を信じた故によるもので、初めに真偽を確認せずに大義を誤ったことは今更ながら慙愧恐懼に絶えざることであり、伝を頼って中村藩に書簡を送ったが、具体的な知人も無いことから農夫に手紙を託し、図らずも熊本藩陣に届けてしまった次第であり、仙台藩の情実を察せられ、藩の進退は命のままに従う旨を陳述した。これを受けた津田山三郎は周旋を約束した。 

艦名 艦将
回天 甲賀源吾秀虎
開陽 榎本釜次郎武揚
長鯨 柴 誠一
長碕 古川節蔵
蟠龍 松岡政吉
千代田形  
神速  

 8月26日、仙台湾に旧幕府海軍の軍艦七隻が集結した。彼らは官軍に屈することなく、新天地北海道に渡り、新たな共和国を創ることを理想に、仙台藩など官軍に抗する藩を味方につけるべく仙台に上陸した榎本釜次郎は、たびたび仙台城に登城し、

「味方数度敗軍に及ぶといえども、あえて屈すべからず、いよいよ仙台落城に及びなば、闔藩の士を合一し、我が軍艦に航し、函館に拠り、機会を待ち再挙すべし」

と、戦闘継続を訴えた。しかし、すでにこのとき藩主・伊達慶邦は降伏帰順の意が固まっており、うなずくことは無かった。そして9月4日、抗戦派の仙台藩執政らは慶邦、宗基父子の出兵を強行しようとしたため、慶邦らは断然決意し、 

「進軍は成り難し」 

という厳命を藩士一同に下した。これにより、もはやこれまでと仙台藩を味方にすることをあきらめた旧幕府軍は列藩同盟の瓦解の中で行き場を失っていた旧幕府軍の遊撃隊(隊長・人見勝太郎)、陸軍隊(春日左衛門)、新撰組(土方歳三)、彰義隊(澁澤精一郎)、大砲隊(関広右衛門)、伝習隊(滝川充太郎)、神木隊(酒井良輔)、歩兵隊(本多幸七郎)、聯隊(松岡四郎次郎)と合流し、軍艦をまとめて10月12日、仙台を出帆して北海道へ向った。 

中村藩の戊辰戦争配置図
中村藩の戊辰戦争配置図

 しかし、藩主の厳命が届かなかったのか、8月27日、仙台藩兵は相馬領の北西端、川平に攻め込んできた。放火を繰り返して侵攻してきたため、猪狩勘右衛門小島万之助二小隊を派遣して防ぐが、攻め立てられて草野村(相馬郡飯舘村草野)まで退いた。

 翌8月28日、午前八時、仙台藩兵は玉野村相馬市玉野)に侵攻してきた。これに南の二枚橋に布陣中の半野嘉左衛門が一小隊を率いて援軍に駆けつけ、本道に布陣して仙台藩兵に備える一方、小島万之助鳶惣右衛門猪狩勘右衛門の各隊が展開し、夕刻までの激戦でついに撃退した。

■戊辰戦争~仙台藩の降伏~

 8月29日、慶邦は氏家兵庫石田正親らと計り、帰順謝罪の方針を決定。氏家兵庫(執政)、堀省治(近習目付)を熊本藩陣営に遣わして、熊本藩隊長の津田山三郎米田虎之助、中村藩隊長・岡部正蔵多田部藤蔵に恭順の旨を奉った。ここで氏家らは津田、米田らに尋問を受けるが、うまく切り抜けることに成功。降伏するにあたっては「邪論ノ有司ヲ掃除シ、正論ノ重役ヲ抜擢アッテ可然」と告げられ、慶邦は和平派の重臣、遠藤文七郎後藤孫兵衛執政に抜擢し、蟄居を命じていた大條孫三郎を召して降伏について専務させた。戦争を主導した奉行の但木土佐・坂永力らは失脚することになる。 

 しかし、9月9日になっても仙台藩から総督府に降伏の文書は届くことなく、総督府は相馬藩境の旗巻峠を攻める決定を下し、同夜、諸藩兵を出陣させた。旗巻峠には仙台藩隊の高泉左覚村上軍之丞細谷十太夫各隊が展開しており、9月10日、仙台藩兵と官軍は大激戦となった。旗巻峠の戦いである。中村藩も命を奉じて各藩隊とともに黒木村に整列。旗巻峠を南北より挟み撃ちにする形で、一小隊は萩藩、館林藩隊とともに北の椎木村から、一小隊は南の鳥取藩隊とともに小野口より潜行して近づき、途中の防塁に籠もる仙台藩隊に奇襲をかけて蹴散らすと、椎木隊、小野口隊、本道隊の三方から旗巻峠に突撃し、激戦の末に仙台藩隊は自陣を自焼して退いた。  

 12日、仙台藩主・伊達慶邦はようやく各口に展開していた藩兵を退く命を発したため、総督府も各藩隊に進軍の中止を通達。9月15日、伊達慶邦は伊達将監石母田但馬遠藤文七郎宇多郡今田村(相馬市今田)に派遣。嘆願状を総督府に提出し、降伏を請うた。総督府からは御使番の榊原仙蔵と熊本藩・木村十左衛門が今田村に出張し、嘆願書を受け取った。  

 16日、総督府参謀・河田佐久馬伊達将監遠藤文七郎桜田春三郎の三名を今泉村鳥取藩軍陣に招き入れると、降伏謝罪の嘆願書を受け取った上は、慶邦・宗敦父子は自ら亘理館まで出頭し、降伏の礼を尽くすべきことを命じた。また、降伏の上は、寛大の沙汰もあるべきことにつき、「家中ノ者共心得違無之様」心することが付された。実は15日、藩校・養賢堂で戦備を整えていた交戦派の額兵隊は、隊長の星恂太郎忠狂が降伏論に反対して、取締の参政・葦名靱負の引き止めにもかかわらず出兵を強行。謹慎していた藩侯・伊達慶邦自ら槻木村柴田郡柴田町槻木)まで馬を駆って兵を制する一幕があった。星恂太郎はこののち配下二百五十名とともに榎本艦隊に乗って北海道に渡って函館戦争に参戦している。  

 20日、仙台藩降伏につき、総督府は先鋒隊(広島藩全隊、柳川藩全隊、福岡藩一中隊、鳥取藩二中隊、宇和島藩一中隊、大洲藩全隊、萩藩二中隊、館林藩全隊、熊本藩一中隊)を亘理まで進めた。中村藩は旗巻峠に百人、椎木に百人、天明に五十人、原釜に百人、長老内に一小隊をそれぞれ展開して不慮の事故に備えた。 

中村城大手先門
中村城大手一ノ門

 22日、総督府は仙台藩世子・伊達宗敦中村城に召し、仙台藩額兵隊の暴動について詰問した。また、先鋒隊は亘理館に入ると、参謀は諸藩隊に仙台藩所有の鉄砲弾薬の押収を命じ、各藩隊にそれぞれ管理を命じた。そして24日、伊達慶邦は亘理館に入り、総督府参謀より所領ならびに兵器の没収が伝えられ、当座として藩老臣を民生に当たらせるよう命じた。

 こうして仙台藩が降伏したことにより、仙台城下に謹慎していた本多能登守忠紀(泉藩主)、内藤長寿麿政養(湯長谷藩)、安藤鶴翁信正(旧老中・平藩老公)が降伏謝罪嘆願書を提出。続けて板倉甲斐守勝達(福島藩主)、織田兵部大輔信敏(天童藩主)が降伏、仙台藩支藩の田村右京大夫邦栄(一関藩主)も仙台藩重臣・石母田但馬を通じて投降した。

 また、去る9月5日には仙台と並ぶ列藩同盟の盟主・米沢藩が降伏しており、越後国長岡藩主・牧野駿河守忠訓も米沢の総督府に重臣・三島宗右衛門を遣わして降伏謝罪を述べた。そして23日、徹底抗戦の末にさまざまな悲劇を残しつつ会津藩も降伏。白河口総督府参謀の伊地知竜右衛門正治板垣退助正形が総督府に報告の手紙を送った。こうして会津藩を救うために結ばれた奥羽越列藩同盟は名実ともに瓦解。幕末の奥州に吹き荒れた戊辰戦争も収束を迎えた。  

仙台城
仙台城

 9月28日午前6時、平潟口総督府先鋒軍は仙台に入った。仙台藩一門の石川大和伊達藤五郎伊達将監伊達数馬伊達弾正伊達主殿白川上野三沢信濃、奉行の大條孫三郎片倉小十郎中島外記石母田但馬古内可守遠藤吉郎左衛門が出迎え、仙台城内において城地受取の命が伝えられた。こうして総督府は中村城から仙台城へ移されることとなり、10月1日、平潟口総督・四条隆謌中村城を発し、亘理館に向かい、2日、亘理館に入った。また、総督府は仙台城の各城門を封鎖し、官軍の兵がみだりに城内を歩き回ることを禁じた。

 10月5日、世子・伊達宗敦が総督出迎えのために岩沼に到着し、翌6日、四条隆謌総督は仙台城に入城。10月10日、相馬秊胤は総督府より「御用之儀候條、早々仙台城ヘ可罷出旨 御沙汰候事」と、仙台城に呼ばれたことから、秊胤は佐藤勘兵衛と一小隊を随えて仙台に向かい、12日、仙台に到着。13日、仙台城の総督府本営に登り旧領安堵の朝命を賜った。

                         相 馬 因 幡
 奥羽諸賊 官軍ニ抗候折柄、大藩ニ被凌逼、不得止一旦賊徒ニ当與候得共、王師封境ニ臨ミ、速ニ降伏帰順、官軍ヲ迎へ仙賊ヲ掃攘候段被 聞食届、出格之 御仁恤ヲ以テ城地、所領是迄之通被下置候條、爾後 天裁ノ厚ヲ奉戴シ、闔藩 王事ニ勤労可相励旨 御沙汰候事、
  十月

 中村に帰城した秊胤は、相馬家再興を祝してただちに家臣全員を城内へ召し出すと、祝杯を彼らに授け、藩の万歳を祝った。今回の奥羽越列藩同盟の敗北は、相馬家にとっては南北朝時代の陸奥守・北畠顕家に本拠の小高城を攻め落とされた事件、慶長の乱(関が原の戦い)で中立を守って所領没収の憂き目を見た事件に続く、三回目の相馬家滅亡の危機であったが、鎌倉以来の層の厚い家臣団の活躍により、断絶の危機を免れることができた。 

 10月18日、秊胤は総督府に対し、軍資金として一万両を献上した上で、「戦死者賊名御取消歎願」を提出し、菩提を弔うことを言上し、許可を得た。その後、秊胤は天機伺と本領安堵の天恩を拝謝するため、相馬靱負、岡部正蔵を伴って10月30日、東京へ到着。11月4日、御参内届を提出して参内を果たした。11月7日には早くも「藩内海岸防衛且ツ戦後人民撫育ノ為」に中村帰国を朝廷に提出。中村へ戻った。また、四条総督も10月30日に仙台を発し、11月14日、東京に凱旋している。 

■戊辰戦争の終結 

 12月12日、大奥様(太田綺。充胤正室)と亀五郎(秊胤弟)を三ノ丸へ引き移させ、12月15日、御一家の相馬靱負が東京に赴くに当たり、息子の亀次郎を伴って登城した際には、秊胤は靱負には引き出物として短刀一腰を与え、亀次郎には表御座間に召して「胤」字を給い、亀次郎は「相馬胤紹」を名乗った。 

 明治2(1869)年正月26日、秊胤は、下命されていた福島城受け取りにつき、鈴木武右衛門を派遣して準備を整えさせ、2月20日、家老・泉田豊後藩主名代とする部隊二百六十一人を福島に派遣した。 

●福島城番・泉田豊後胤正隊 

本陣 泉田豊後胤正(執政・隊長)
草野半右衛(参謀)
鈴木武右衛門(軍務掛)、門馬治郎右衛門(軍目)、伊東廉蔵(軍使)、鈴木惣八・門馬猛(喇叭)
錦織緝蔵・秩父辰之進(太鼓)、玉置源蔵(祐筆)、深谷頣仙(番医)、田中與惣右衛門・鹿山舎人(徒歩目付)
二番小隊 大越八太夫(小隊司令士)、村田半左衛門(半隊司令士 )
小畑 基(右嚮導)、佐藤直衛(左嚮導)、牛渡譲助(押伍)
四番小隊 金谷平左衛門(小隊司令士)、般若源右衛門(半隊司令士)
遠藤精蔵(右嚮導)、川村儀助(左嚮導)、井戸川恭助、中里勉(押伍)
大砲隊 井戸川仁平太(指図役)
下役 渡部又左衛門、荒源太郎(兵器方)
賄方 門馬 亘(賄奉行)、山田半左衛門(勘定奉行)、鈴木 糺・佐藤富蔵・山田惣右衛門(賄方)
渡部六右衛門・木幡孫六・桑折喜代治・木村孫三郎・大内治太郎(小荷駄警固)

 2月22日、受取りの諸事務が終了すると、泉田豊後は秊胤からの指示ということで、慰労の酒を振舞った。しかし、在番として日々を過ごしているうちに知らず知らずのうちにたるんでしまうものであるから、注意するようにとの諭告も与えている。 

 2月26日、秊胤は先に下命のあった通り「阿部基之助(正功、棚倉藩)、安藤対馬守(信勇、平藩)、板倉教之助(勝尚、福島藩)、久世順吉(広業、関宿藩)、丹羽長国(二本松藩)、元松平容保(会津藩)旧領等」を、牧野金丸(笠間藩主?)と分割して治めることとし、官員をさっそくに派遣したことを政府の弁事御役所に提出した。

 3月29日、福島在番のうち二百三十八名を交代、5月18日、執政・岡田監物隊二百五十七名を福島に派遣し、泉田豊後隊と交代した。

●福島城番・岡田監物泰胤隊  

本陣 岡田監物泰胤(執政・隊長) 
水谷長左衛門(参謀)
小倉七郎兵衛(軍使)、坂本金助(太鼓)、脇本重治(祐筆)、高本良三(番医)
牛渡万左衛門・武澤忠蔵(御徒歩目付)
長風隊 田井廉助(雇・小隊司令士)、河村周蔵(雇・半隊司令士)
大谷惣五郎(右嚮導)、木幡源六(左嚮導)、草野留蔵・小沢酉治(喇叭)
木幡要蔵・牛来昌蔵(太鼓)
神機隊 荒井伊助(雇・小隊司令士)、岡村力之助(雇・半隊司令士)
渡辺縫右衛門(右嚮導)、志賀善太郎(左嚮導)、草野留蔵・小沢酉治(喇叭)
木幡要蔵・牛来昌蔵(太鼓)、西茂(大砲隊・指図役)
志賀甚左衛門・宇佐美文左衛門(兵器方)、木幡弥惣兵衛(勘定奉行)、河村雄八(賄方)

 4月15日、秊胤はさきに参内して誓約を交わした家政改正、民政取締、兵隊変革などにつき、惣家中に藩政改革についての意見の提出を求めるべく、申渡書を発布した。先日も諸役人はもとより、家中一同、農工商にいたるまで意見書を藩庁に出すよう命じていたが、五、六人からの上書が提出されたにとどまり、まったく衆議を尽くすことすらできない状況に、いまだこの改革の重要性を家中が認識していないと痛感。朝廷より御下げ渡しの「政体書」1冊を閲覧すること、人材についても有用の人物を在野の人物でも登用するので遠慮なく申すこと、これまでの藩政を「弊政」とし、新たな政治体制を確立するため、どんなことでもよいので建言するよう藩内に触れを出した。家中の者については、来月5月11日午前8時から正午までの間に登城して建言書を提出することが命じられた。  

真明院殿 
真明院殿墓所(洞雲寺藩侯家墓所)

 5月18日、秊胤の母・千代ノ方が日ごろから煩っていた病が癒えず、養生かなわず、午前8時半、逝去した。これにより、五日間の鳴物禁止の触れが出された。千代方は相馬充胤の側室で、長男・虎丸と次男の秊胤を産んでいる。虎丸が早世したことから、秊胤が嫡子となり、充胤の家督を継承している。千代ノ方は長松寺(現洞雲寺)に葬送され、歴代藩侯妻子の墓所に埋葬された、法名は真明院殿心月浄円大姉。 

■版籍奉還と廃藩置県

 6月、秊胤は版籍奉還の上表を朝廷に提出した。これは6月17日、全国諸藩主に対し版籍奉還が命じられ、全国諸侯の領地を国有とする勅命に応じたものである。これにつき行政官から版籍奉還が認められたが、秊胤は藩知事としてそのまま藩政を担当するよう命じられた。朝廷は「支配地総高並ニ現米惣高免五ヶ年平均」をもって藩の高を取り調べ、調べた現米十分の一を家禄として定め、御一家はじめ家臣たちはそれぞれの割合で、家禄を割り出すこととなった。 

 8月10日、約八か月に及んだ福島城在番役は「福島縣、白河縣支配」となるに及び、「知縣事着次第」引渡しを行う通達が太政官より通達され、19日、知縣事への事務引渡しが終了。20日、在番を勤めていた岡田監物隊一行は中村へ向けて出立した。 

 そして9月、朝廷は秊胤の福島での治績、兵乱後の人心の鎮撫に多大なる功績を賞し、位を一級進めて正五位に叙された。 

 民政ハ国家ノ基本至重ノ要務ニ候處、其藩年来治教撫育隣藩ニ抽テ、先般福島辺取締被仰付候節モ兵乱後人心紛擾之處、鎮静向格別ニ行届候段、神妙ニ被思食候依之位一級被進候事 

    太政官
     九月          従五位 中村藩知事平朝臣秊胤
  叙正五位

      右大臣従一位藤原朝臣実美 宣
   明治二年己巳九月二日  大弁従三位藤原朝臣俊政 奉行

 12月2日、秊胤は中村藩従来の階級であった「家中、給人、郷士、足軽、百姓、町人」の呼称を廃し、太政官布告第百二十七号の、士族及び卒と称する旨を適用して、中村藩においても家中・給人を士族、郷士・足軽を卒、百姓・町人を平民と呼称する旨の触れを出した。のち、卒を廃止して家中・給人・郷士を士族とし、足軽・百姓・町人を平民と改めた。 

 明治3(1870)年2月1日、秊胤は昨年の凶作(冷害、長雨による不作)の民情視察のため、旧領内の村々の巡検に出かけた。しかし、殿様自らの巡検であることから各郷方はもてなしのために走り回ることを察し、秊胤はこれは農民の労りのための巡検であり万端質素にするため、郷役人を召すともてなしについての心得を告げた。まず賄いについては華美にならぬよう、朝は黍・大根のご飯に、一汁、香の物、昼は米飯、一汁、香の物、夜は黍・大根のご飯に、一汁、香の物、野菜とするよう注文。供廻については三食とも農家の者と同様でよいこととした。また酒については一切無用と厳命している。ただ、寝具については持参していないので、郷役人から供出してもらうこと、ただしその代金は支払うこと、また献上物については一切無用と触れている。 

●藩知事相馬秊胤巡検供方  

御供方 大浦庄右衛門栄清・富田久助高慶(権大参事)、木村精一郎(御用人)、伊東軍左衛門(郡代)
木幡道陸(御伽医)、門馬良助(御小納戸)、藤田蝦蔵・室原克己(御小姓) 
室原治兵衛(勘定奉行)

 2月28日、軍資金として三千六百両を大蔵省に上納した。これは禄高に応じて政府が献納させたものであったが、相馬家は六万石で、五月、九月、正月と一年間に三回、六百両を上納する指示を受けていたと思われるが、さまざまな理由があって明治元年5月より六回に渡って不納であった。そのため、2月になり目処がついたのか六期分の大金上納となった。 

皇居
皇居

 5月7日、老公・充胤はにわかに参内の命を受けて、御所に参内。明治天皇の天顔を拝し、天杯を賜った。その後、大広間に戻った充胤は、右大臣・三条実美と面会。世の中の世相について何らかの意見があるものがあれば、9日までに副奏するよう指示を受けたが、充胤はとくに意見はなかったようで、その後意見なき旨を奏した。 

 6月3日、戊辰戦争で供出した糧食の代金のうち、米二千俵、人馬の賃銭六千七百両余を献納することを上奏し、これを認められた。

 7月1日、秊胤は二宮尊徳の子・弥太郎尊行が日光から相馬に移り住み、石神村原町区石神)で住居を探していることを聞き、尊徳の功徳に応えるべく、米三百俵を子孫に給与する墨付を与えた。

 閏10月、藩庁は藩政改革の骨子を発表した。全部で十七カ条に及ぶもので、ほかにも税金について、官吏についてなどの発表がなされた。

1 中村城を藩庁とすること。知事家族は本丸外に移転する。
2 城の門や郭、番所などは廃止する。
3 知事の登庁などに家族ほか三名の供がつく制度は廃止。旧臣についても臣下の扱いは廃止。
4 これまで民政・会計・刑法を扱っていた会所を廃止。すべて藩庁にまとめる。
5 これまでの御一家、諸士の格式は廃止し、すべて「士族」にまとめ藩庁のもとに列する。
6 給人を士族とし、郷士は卒とする。
7 官員ほか非役の士族らはそれぞれ組合をつくり、互いに切磋琢磨して勉励に取り組むこと。
8 これまでの代官職などは廃止し、すべての訴えは藩庁庶務が執り行う。
9 士族卒給録改正にともない、隠居扶持や加扶持は廃止。戊辰戦争での新知については適宜決めること。
10 非役の士族卒などで長く無勤の者は、割合に応じて軍資金を取り上げる。
11 本官のほかに臨時出仕を命じられた場合は、本官の準席とする。
12 これまで士族卒に与えていた知行については、すべて現米にて支給する形に変更する。
13 神社の社領については、すべて現米にて支給する形に変更する。
14 修験の知行については、すべて現米にて支給する形に変更する。
15 寺院の知行については、すべて現米にて支給する形に変更する。また、寺を合併させて百余りから四十七寺に緊縮する。
16 陪臣については農業や商業に従事させる。
17 諸職人に知行を与えていた分については、現米三斗を支給する形に改める。

●藩政改革

 
正税 現米34,525石4斗4升3合3勺 現米34,616石8斗2升1合7勺
雑税 現米91石3斗7升8合4勺
知事家禄 3,461石6斗8升2合1勺
31,155石1斗3升9合6勺 3,115石5斗1升4合 1,557石7斗5升7合 海軍費
1,557石7斗5升7合 陸軍費
28,039石6斗2升5合6勺 13,664石8斗8升 士族卒給録
14,374石8斗8升 公庁入費
藩債金 14万9,144両 

●録政改革  

士族 中村在住 現米30石 18人(旧高1,336石~400石)
現米23石 137人(旧高100石以上)
現米13石 187人(旧高100石以下)
現米12石8斗 113人(旧扶持米取)
在郷 現米7石 23人(旧高100石以下)
現米3石8斗 95人(旧高15石以上) 
現米3石2斗 1,048人(旧高15石以下)
在郷 現米3石2斗~2石6斗 794人(旧10石以下)
2人扶持取 76人(旧高10石以下)

 旧藩士たちは禄高が激減したことになる。1,336石を知行していた御一家筆頭・岡田監物ですら、一般の士族と同様の扱いとなり、30石の現米取りとなる。実に97.8%の収入減である。このような状況は中村藩だけに限らず、全国の士族が同様に生活に窮し、慣れない商売に手を出して失敗するような「士族の商売」が各地で見られた。 

大参事 岡田五郎(岡田監物泰胤)
泉田文庫(泉田豊後胤正)
権大参事 相馬靱負(相馬靱負胤就)
西市左衛門(西市左衛門喜治)

 12月4日夜、東京より飛脚が中村に到来。元武家の華族については、以降東京に居住するよう通達が伝えられた。そして12月19日、藩庁の行政高官について定められ、大参事以下が任命された。

 明治4(1871)年正月16日、福島藩にて百姓騒動が起こったため、中村藩へも援兵の依頼が届き、政庁は一小隊を派遣。さらに2月5日には、昨年末に太政官通達として東京市取締のための兵半隊の出兵依頼があったため、軍監・大越慎八郎隊の小長・佐藤荘左衛門に半小隊をつけて上京させた。 

 2月18日、福島藩より増員兵の要請が中村藩庁に届いた。暴民の活動がますます活発になってきたためで、藩庁は小幡孝左衛門、般若源左衛門の二小隊を派遣している。その後叛乱は鎮静したため、3月19日、小隊は縣境警固のために引き上げさせた。 

 また、18日には中村において秊胤の元服式が執り行われた。理髪役は泉藤右衛門、加冠役は相馬靱負が務め、中村妙見神前において加冠式を行うとともに、名も「秊胤」を「誠胤」と改め、22日に東京府に届け出て即日認められた。誠胤このとき二十歳。家督を継いですぐに戊辰戦争の混乱に巻き込まれ、この日、ようやく加冠式を執り行うことができた。 

                秊胤事 誠 胤

 一 私実名前書之通、相改度、此段奉願候以上

     辛未二月廿二日        中村藩知事 相馬誠胤
     弁官御中

 7月14日、廃藩置県の詔勅が発せられた。これにより藩という行政区分は消滅し、中央政庁から県知事が選ばれて赴任することとなるため、誠胤の藩知事職は免ぜられることとなった。翌15日、知事名代の参朝が命じられたため、大参事・大浦庄右衛門が出頭して、諸藩代表たちとともに天顔を拝し、ここで「藩を廃し、県を置」くことが伝えられた。

 免本官                中村藩知事 相馬誠胤

 辛未七月    太政官

 その後、大浦大参事は中村表に駆けつけ、20日、中村政庁に誠胤出席のもと惣官員を集し、廃藩置県の詔勅のことならびに、誠胤の藩知事免官を通達した。そして、これまでの中村藩という名称は廃され「中村縣」と称する旨と、士族卒たちは相馬家の家臣ではなく、中村縣の役人であることを心得るよう一同に沙汰した。

家令 富田 斉
家扶 木村精一郎
家従頭取・家令参与 青田剛三

 7月23日、廃藩置県後の旧藩主家の家政を取り仕切る家宰として、富田斉(家令)、木村精一郎(家扶)、青田剛三(家従頭取)がそれぞれ定められた。

■相馬家の東京移住

 明治4(1871)年8月3日、誠胤の東京移住の沙汰が到来。6日、住み慣れた故郷、中村を発って東京へと向かった。鎌倉時代末期から五百四十年余り、この地を一所懸命の地として守り、戦い、生活した相馬家はついに奥州を離れることとなる。各郷に散った旧臣たちも陣屋に詰めて、東京へ向かう旧主誠胤一行を見送ったという。8月15日には仙齢院(松平高。誠胤祖母)、大奥様(太田綺。誠胤義母)、奥様(戸田京。誠胤妻)、大叔母の、妹の、弟の亀五郎が中村を出立して東京に向かった。誠胤は8月16日東京に到着し、家族は8月28日、東京着。9月8日、老公・充胤も東京へ向かった。

 明治5(1872)年3月、中村縣は守山縣泉縣棚倉縣などとともに廃されて平縣に合併され、旧中村藩は完全に姿を消すこととなる。その後、平縣は磐前縣に改められ、明治9(1876)年、福島縣若松縣と合併されて福島縣となる。

 東京に移り住んだ相馬家は、財政危機を打開するため、二宮尊徳の直弟子であり、尊徳の子・弥太郎尊行に従って日光神領復興に従事した経験を持つ元藩中老・志賀直道(中村縣権大参事)を抜擢した。直道は明治5(1872)年の中村縣統合にともなう権大参事免職にともない、相馬家の依頼を受けて相馬家家令に就任。家政立て直しのため尽力することとなった。志賀もこの期待によく応え、二宮報徳仕法の精神を家政建て直しに応用し、経費の節減と定められた事柄を厳格に守らせる体制を作り上げ、財政を立て直すことに成功。さらに相馬家の財政基盤の安定を図って、知己の古河市兵衛と共同で足尾銅山経営に乗り出し、大きな資産を相馬家にもたらした。

 明治8(1875)年1月、誠胤は慶應義塾に入塾するが、翌明治9(1876)年ごろから体調が悪化する。わずか13歳にして家督を継ぎ、16歳で戊辰戦争の戦乱に巻き込まれて心ならずも「賊」に加担し、謝罪謹慎に追い込まれるなど、幕末から明治にいたる激動を体験し、心身ともに休まることなくストレスが重なったことが急病の原因かもしれない。誠胤は北条氏恭ら宗族・親族の要請により、華族部局長の許可のもと、屋敷内の一室に「私宅監置(自宅内保護)」されることとなった。しかし、相馬家は志賀直道の家政立直しによって相当な資産華族となっており、当主の自宅内保護が資産をめぐる疑惑となって騒動が大きくなってしまう。

 明治11(1878)年、錦織剛清という「相馬誠胤旧臣」を称する人物が、家令・志賀直道らが誠胤の弟・相馬順胤を擁して相馬家乗っ取りを画策していると訴え、裁判沙汰にまで発展する。相馬家をはじめ、佐竹家、織田家、土屋家など親族華族は直道らを支持していたが、錦織は岡田五郎相馬靱負ら一部の旧御一家、さらに世論をも巻き込んで、行動が次第にエスカレートし、同姓の錦織家を通じて公家華族にまで手を回して誠胤を相馬邸から奪い取ろうと画策した。さらに剛清は内務省衛生局の後藤新平をも説得して、医学的見地からも誠胤開放が妥当であるとの証言を得る。このように相馬家側と錦織側の訴訟合戦が繰り広げられることとなり、華族、警視庁、裁判所までをも巻き込んだ大事件になってしまった。

 このような中、明治17(1884)年3月21日、誠胤の妻・京子(戸田氏)が三十二歳という若さで亡くなってしまう。京子も病がちだったようで、騒動の最中の凶報であった。法名は清性院殿

■相馬誠胤、子爵叙爵その後

 7月7日には「華族令」の発布があり、華族へは公・侯・伯・子・男の五爵を授けることとなり、7月8日、相馬家は万石以上の旧大名家であるため、当主の誠胤に「子爵」が下されることとなった。また12月、天皇は老公充胤と誠胤に対し、困窮していた旧藩士のために士族授産の法を尽くし、三万五千円もの私財を投じて農業奨励を追求し、旧藩士たちが一町歩ほどの田畑を有するまでになった功績を賞され、特旨をもって充胤に花瓶一対を賜い、誠胤へは一級進めて従四位へ叙された。

 こうした中、誠胤の弟・順胤は、錦織の起こしたこの一連の騒動につき、旧臣総代五十人を中村から東京の相馬邸に呼んで意見を求めた。ここで旧藩士総代は旧藩総意として家令職の免職を求める意見書を出した。これは家令が免職すれば錦織が批判する対象がなくなるという対症療法であるが、執拗な錦織の行動にうんざりしていたと思われる順胤はこの意見を容れる。

 そんな矢先の明治20(1887)年1月31日夜、錦織は誠胤を開放するためと称し、入院先の巣鴨病院(文京区本駒込)へ押し込み、睡眠中の誠胤を拉致して衛生局長・後藤新平宅に赴き、診察を依頼した。新平は錦織に協力的であり、錦織は誠胤の病気はそれほど重いものではないという診断書を手に入れる。さらに錦織は誠胤に「錦織を相馬家の総代理人とする委任状」を作成させ、相馬家政を取り仕切ろうと画策した。一方、後藤新平も錦織・誠胤を警視総監・三島通庸に会わせることで、誠胤の病状が邸内保護に値しないことを認めさせようと、三島が出張中の熱海まで馬車を工面して向わせたが、すでに三島は東京に戻っており、その計画は崩れた。ただ錦織はあきらめず、今度は伊藤博文首相へ直訴するため京都へ向った。しかし2月6日、静岡の旅館に滞在していたところを警察に発見され、錦織は逮捕され、誠胤は無事に保護された。誠胤保護の報告を受けた相馬家からは、志賀直道石川栄昌が身柄受取に向かい、2月10日、誠胤は巣鴨病院へ帰院。19日、誠胤は同院を退院して相馬屋敷に戻った。

家令 志賀直道
家扶 青田剛三
宗族 北条氏恭、東胤城、織田信親
親族 佐竹義理、柳沢光邦
旧臣 岡部綱紀、大槻吉直、岡田泰胤、堀内胤賢、泉胤仙、泉田胤正、相馬胤真

 3月2日、相馬家では家令・家扶、宗族・親族はじめ、主だった旧藩士七名が出席の会議が行われ、相馬家の家事は宗親族委員で行うことが決定する。この席に誠胤から「総代理人の委任状」を受けた錦織が呼ばれていないのは、相馬家はじめ宗族親族がこれを正当なものと認めていなかったためだろう。そして相馬家の後見人として正二位・浅野長勲侯爵が選ばれる。

 3月9日、誠胤は医科大学第一病院に入院して診察を受け、自宅療養が適当との診断を受け、継続入院することなく相馬邸で療養することとなる。

 明治22(1889)年初頭には、誠胤の病状はすっかり回復し、かつての健康体を取り戻した。8月5日には、妾の(東明氏)との間に嫡男・相馬秀胤を儲ける。さらに8月12日には、妹・於忠相馬胤紹(旧相馬主税家)との間に女の子が誕生。8月14日には、弟・順胤に嫡男・相馬孟胤が誕生するなど、相馬家には慶事が続いた。

 明治23(1890)年、家令に旧御一家・泉田胤正を任命して相馬家政は元の通りに運営されるはずであったが、ここにふたたび錦織剛清が介入する。錦織はかつて誠胤から受けた「総代理人」としての権利を主張し、総代理人として相馬家の財産を差し押さえる訴訟を起こし、ふたたび相馬家と錦織の訴訟合戦となる。錦織の異常なまでの誠胤崇拝の理由はわからないが、剛清は志賀直道らが誠胤を監禁して虐待しているという一部の報告を盲信していたためかもしれない。 

 このような訴訟合戦の中で、明治25(1892)年2月22日、誠胤は四十一歳の若さで急死する。法名は慎徳院殿恭山智謙大居士。錦織はこの誠胤の急死が不自然であり、家令らによる毒殺であるとして三度騒ぎを起こす。これに対して相馬家は錦織を誣告罪で逆告訴し、これを発端として華族、政府高官、財閥らを巻き込む大騒動に発展した。最終的には誠胤の毒殺は科学的見地からも否定されたうえ、錦織が裁判担当判事を買収していたことも判明し、錦織の有罪が決定。重禁固四年、罰金四十円の判決を受け、騒動も終わりを迎えた。 

 誠胤のあとは異母弟の相馬順胤が相馬子爵家を継承し、誠胤の嫡子・秀胤は、親族の織田信敏(天童藩侯家)の婿養子となって織田信恒と改め、政治家、実業家として多方面に活躍している。 

◎相馬誠胤代の中村藩重臣◎

年代 藩主 重臣
慶応2(1866)年 相馬吉太郎秊胤 【一 門】岡田帯刀智胤・堀内大蔵胤賢・泉藤右衛門胤富・泉田勘解由
     泉田豊後胤正・相馬将監胤真・相馬靱負胤就
【家 老】熊川兵庫祥長・脇本喜兵衛正明・石川助左衛門昌清
【中 老】野坂仲
【若年寄】村津義兵衛
【用 人】西市左衛門喜治・佐藤勘兵衛俊信・大浦庄右衛門栄清
     堀内覚左衛門興長・石橋兵太夫義恭

◇幕末の中村藩一門~用人◇

名前 知行ほか
相馬胤就 通称は靱負。一門。知行は700石。妻は相馬長門守益胤の娘。戊辰戦争の際、白河城での奥羽越列藩同盟の会議では中村藩代表として出席した。その後、藩主・相馬因幡守 秊胤に従って出陣している。
相馬胤真 通称は将監。一門。知行は800石。妻は相馬長門守益胤の娘。戊辰戦争では中村藩隊長として出陣。
岡田泰胤 通称は監物。一門。知行は1,336石。相馬長門守胤の実子で田監物清胤の養嗣子。出羽久保田藩20万5,800石の藩主・佐竹義尭の弟にあたる。戊辰戦争では中村藩隊長として会津若松城などに出陣している。
泉 胤富 通称は内蔵助。一門。知行は700石。戊辰戦争では隊長として出陣。
泉田胤正 通称は豊後。一門。知行は772石。戊辰戦争では隊長として出陣。
掘内胤賢 通称は大蔵。一門。知行は1,100石。妻は相馬益胤の伯父・縫殿仙胤の娘・俊姫。戊辰戦争では隊長として出陣。
熊川祥長 通称は兵庫。一門で「御頼家老」を務める。知行は1,242石。
西 喜治 通称は市左衛門。筆頭家老。知行は400石。
佐藤俊信 通称は勘兵衛。次席家老。知行は200石。
大浦栄清 通称は庄右衛門。三席家老。知行は250石。
石橋義恭 通称は兵太夫。用人。知行は150石。戊辰戦争では藩主・相馬秊胤に従って、相馬靱負とともに出陣する。
脇本正明 通称は喜兵衛。用人。知行は600石。戊辰戦争では藩主・相馬秊胤に従って、相馬靱負とともに出陣する。

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相馬氏について相馬惣領家下総相馬氏中村藩相馬家相馬中村藩相馬岡田相馬大悲山

■中村藩御一家■

中村藩岡田家相馬泉家相馬泉田家相馬堀内家相馬将監家相馬主税家

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