代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■十五代惣領家■
(1508-1549)
<正室> | 伊達稙宗娘(屋形御前)法号:月林秋公大禅定尼。天文17(1548)年10月5日、43歳。 |
<幼名> | 不明 |
<通称> | 孫次郎 |
<父> | 相馬大膳大夫盛胤 |
<母> | 西右衛門尉胤信娘 |
<官位> | 不明 |
<官職> | 兵部大輔、讃岐守 |
<法号> | 崇国院殿雄山英公大居士(延宝中、院号大居士を諡) |
<墓所> | 行方郡小谷村寶光寺。廟所は平田山新祥寺。 |
●相馬顕胤事歴●
父は相馬大膳大夫盛胤。母は西右衛門尉胤信娘。幼名は不明。通称は孫次郎。正妻は伊達稙宗娘。官途は讃岐守。
父・盛胤はもともとからだが弱く病気がちであり、正妻・葦名氏に子が生まれないうち、側室の西氏に顕胤が誕生したことに、乱世に一日たりとも大将がいなくなっては領地を保つことは難しいと、顕胤を嫡子とした。顕胤は生まれつき体が大きく、成長してからは身の丈六尺余りという恵まれた体躯となった。相馬家重代の「信田身の太刀」を帯すが、あたかも脇差のように見えるほどだったという。義兄・伊達晴宗と謀略戦を展開した智謀を備え、鉄軍配を自由自在に操って指揮をとったという剛力無双の人物でもあった。また、諸士を慈しみ、民衆を愛し、広く公平な心を持っていたため、上下から崇敬の念を持って見られたと伝わる。
大永元(1521)年、父・盛胤から家督を譲られて十四歳で相馬家当主となった。同年代に「顕」の字を持った留守顕宗があり、ともに「顕」を通字とする田村氏と関わりがあるのかもしれない。父・盛胤は日ごろから一族や家臣に、顕胤について「顕胤成長せば祖父高胤に似んずる心操ぞ、各我に不替存て養育し守り立てよ、左らば、当家は失ふまじきぞ、我今まで何の仕出したりし功作もなし、父高胤の積功の余慶によってなれば、必ず顕胤の父なればとて必ず我を似するな、高胤の業績を学ばしめ、各用捨を加えて家を保たしめよ」と、私が顕胤の父だからといって私に似させようとするな、祖父の高胤を模範とさせよと説いていたという。
●相馬・留守・伊達・田村・葦名氏略系譜
葦名盛高―葦名盛舜―+―葦名盛氏
(遠江守) |(修理大夫)
|
| +―堀内近胤
| |(上野介)
+―娘 |
∥―――+―相馬胤乗
∥ (三郎)
∥
相馬高胤――相馬盛胤―――相馬顕胤
(治部少輔)(大膳大夫) (讃岐守)
∥―――――+―相馬盛胤―――相馬義胤
伊達持宗――伊達成宗―+―伊達尚宗―+―伊達稙宗――+―娘 |(弾正大弼) (長門守)
(大膳大夫)(大膳大夫)|(大膳大夫)|(左京大夫) | |
| | | +―娘
| | +―娘 ∥――――――愛姫
| | | ∥―――――――田村清顕 ∥
| | | ∥ (右京大夫) ∥
| | | 田村隆顕 ∥
| | |(右京大夫) ∥
| | | ∥
| | +―娘 +―伊達輝宗―――伊達政宗
| | |(葦名盛氏妻)|(左京大夫) (陸奥守)
| | | |
| | +―伊達晴宗――+―留守政景
| | (左京大夫) (上野介)
| +―留守景宗 ↓
| ∥―――――――留守顕宗====留守政景
+―留守郡宗―――娘
相馬顕胤はこの当時、岩城郡の岩城左京大夫重隆入道明徹と交戦しており、大永4(1524)年、十七歳になった顕胤は岩城氏の楢葉郡富岡城(双葉郡富岡町)を攻め落とすと、さらに敗走する岩城勢を追って木戸城(双葉郡楢葉町木戸)を襲い、「標葉六騎」の下浦常陸介泰清が先陣として攻め落とした。岩城氏との確執は、顕胤と重隆の間に伊達晴宗の妻に重隆の娘・久保姫を斡旋する約定があったにも関わらず、重隆は突如、白河義顕に嫁がせようとしたことから起こったためという。面目を失った顕胤は激怒して岩城領に攻め込んだという(『東奥標葉記』)。ただし、これらの合戦は天文の大乱の余波だったという説もある。
さらに顕胤は軍を進めて岩城郡鎌田川において岩城勢と激戦を繰り広げた。重隆は相馬勢の乱入を聞くと、別働隊を派遣して相馬勢の側面を突いたことから相馬勢は大混乱に陥り、顕胤はただちに軍をまとめて、重臣・青田左衛門尉常久が守る標葉郡新山城に引き揚げた。
この敗戦で相馬勢は「標葉六騎」の井戸川大隅守清則ら二十八騎が討死を遂げる痛手を負うこととなった。しかし、顕胤はこののちも岩城郡に攻め入ったため、重隆は本格的に兵を動かしてこれに抵抗。相馬勢の約二倍の兵力・四百騎を二隊に分けて相馬勢の壊滅をはかった。これに対して顕胤は精鋭を派遣して一隊を壊走させると、七里ヶ浜の激戦でついに岩城勢を壊滅させた。この戦いでは、重臣・金沢右馬助胤重とその子の金沢主水・金沢大学が敵に囲まれて討死を遂げている。金沢氏は相馬氏の奥州下向以来の重臣で、その断絶を嘆いた顕胤は、胤重の弟・存入を還俗させて金沢石見守胤清と名乗らせ、金沢家を復興させた。胤清も武勇に秀でた人物として知られ、天文中(1532-1555)の古小高帯刀俊胤の謀反の際には相馬勢先陣をつとめ、激戦の末に討死した。
顕胤は大永5(1525)年8月、久浜(双葉郡広野町久浜)、四倉(広野町四倉)を攻略。続いて仁井田城(広野町上仁井田)に攻め寄せたものの、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず、義弟の西右衛門尉胤次が討死を遂げた。この苦戦に、顕胤は手勢を迂回させて岩城氏のもっとも重要な拠点のひとつ、白土城(いわき市南白土)に攻めよせた。さすがに岩城氏の抵抗は激しく、相馬家大将の一人・青田孫四郎常義(新山城主)が討死をするほどの激戦だった。
しかし防戦空しく白土城は陥落。岩城氏の本拠地・大館城(いわき市好間)は丸裸となったため、岩城重隆はあわてて和睦を申し出た。重隆は顕胤の要求を受け入れ、当初の約定通り娘の久保姫を伊達晴宗の妻として入輿させることとし、顕胤へ託した。面目を施した顕胤は、攻め取った四倉城を岩城家に返還し、岩城領との境・富岡城には末弟の相馬三郎胤乗(母は葦名盛舜娘)を入れて守らせ、青田常義戦死後、闕所となってしまった新山城には標葉七人衆の樋渡摂津守隆則を城代とし、新山西城には酒井将監忠興を城代とした。
●相馬・田村・岩城氏略系図
標葉隆重――標葉隆豊
(小四郎)
∥――――藤橋胤高
+―娘 (紀伊守)
|
西胤信――+―娘
∥――――相馬顕胤
相馬盛胤
(讃岐守)
(大膳大夫) ∥
∥―――+―相馬盛胤―――相馬義胤
+―娘 |(弾正大弼) (長門守)
| |
伊達稙宗―+―娘 +―娘
(左京大夫) ∥ ∥――――――愛姫
∥―――――田村清顕 ∥
田村義顕 ∥ (右京大夫) 伊達政宗
(右京大夫) ∥ (中納言)
∥――――田村隆顕
岩城常隆―+―娘 (右京大夫) +―石川昭光
| |(大和守)
| 伊達稙宗――伊達晴宗 |
| ∥―――+―岩城親隆
+―岩城由隆―岩城重隆―+―娘 ∥――――岩城常隆
| | +―娘 ∥
| +―娘 | ∥
+―娘 ∥―――+―佐竹義重―――娘
∥――――佐竹義篤――佐竹義昭
佐竹義舜
●陸奥国守護職・伊達左京大夫稙宗●
顕胤のころ、奥州は伊達左京大夫稙宗を中心に動いていた。稙宗は永正14(1517)年、将軍・足利義稙からの偏諱を受けて「稙宗」を称し、左京大夫に任官した。そして大永2(1522)年12月、曾祖父・持宗以来の念願であった「陸奥国守護職」の補任を受けることに成功した。こうして名実ともに奥州の「守護職」として外交・軍事面で中心人物となって活躍、子沢山でも知られる稙宗は、子どもたちを奥州の諸大名の養子に送り込むことによってさらなる影響力を持った。このことが奥州を戦乱に巻き込んだ天文の大乱の原因ともなる。
享禄元(1528)年9月、葛西左京大夫稙清が没すると、稙宗は陸奥守護職として会津黒川領主・葦名遠江守盛舜とともに葛西領に侵入。葛西氏に自分の六男・猿若丸を押しつけた。この葛西猿若丸が「葛西晴胤」になったとの説もあるが、稙宗と晴胤の生年を比較すると矛盾が生じる。
天文元(1532)年、稙宗は田村庄に攻め入って田村右京大夫義顕と争い、天文3(1534)年には二階堂晴行・葦名盛舜・石川稙光とともに田村氏の縁戚である岩城重隆・結城晴綱を攻めた。この結果、重隆の娘・久保姫が稙宗の嫡男・晴宗に嫁ぐことになったともいわれている。このときの約定と思われるが、久保姫の最初の男子は岩城家の養嗣子とすることと決められ、実際に、誕生した長男・鶴千代丸は天文16(1547)年、岩城家に入り岩城左京大夫宣隆となった。
天文5(1536)年2月、大崎左京大夫義直が密かに伊達郡西山城の稙宗のもとを訪れて、大崎領内で起こった新井田頼遠、氏家直継(岩手沢城主)、古川刑部大輔持煕(古川城主)らの反乱鎮定の協力を訴えた。これに応えた稙宗は5月下旬、三千騎を率いて志田郡師山に出陣。二千騎を擁する反乱軍を相手に持久戦を余儀なくされたものの、9月、氏家直継の降伏を請け入れて叛乱は収束。稙宗は子の小僧丸(のち大崎義宣)を大崎義直の養子に押しつけ、大崎氏をも手中に握ろうと企てた。
天文10(1541)年4月、稙宗は娘婿の相馬顕胤を通じて対立していた田村義顕と和睦。稙宗は娘を義顕の嫡子・隆顕の妻とし、田村氏とも縁戚関係を結んだ。同年5月、稙宗は葦名盛氏と猪苗代盛国の確執を仲裁。須賀川城の聟・二階堂輝行が白河城に結城義顕を攻めた際には、直ちに軍を引くよう指示した。
このように、稙宗は陸奥守護職として奥州の諸大名に大きな影響を与える存在であった。しかし、天文11(1542)年6月の嫡男・晴宗の反抗によって稙宗は西山城に幽閉された。この対立が奥州の「親戚」たちを巻きこみ、大きな戦乱へと発展してしまう。この大乱を「天文の大乱」という。
●天文の大乱と顕胤の戦い●
伊達稙宗と伊達晴宗の父子間でおこった「天文の大乱」は伊達家と縁戚関係にある奥州諸豪族を巻き込んだ大内乱に発展した。
天文11(1542)年6月20日、晴宗は父・稙宗を捕らえて西山城内に幽閉した。これは稙宗が義理の息子であり孝行心の厚かった相馬顕胤、そして外孫・相馬盛胤のかわいさのあまり、伊達郡内の所領数ヶ村を相馬家に譲渡するといいだしたこと、さらに、晴宗の弟・藤五郎真元(のち実元)を越後守護職・上杉定実の聟養子として、伊達家より精兵百騎をつけて差し出す約定を結んだためによるものとされる。晴宗は「所領の分散は伊達家の存亡に関わる」として猛反発、また一族・桑折景長も「精兵百騎が上杉家へ向かえば、伊達家は蝉の抜殻同然となる」として反対した。しかし稙宗は強引に話を進めようとし、晴宗は実力行使に出た。
この稙宗幽閉はすぐに奥州の大名たちに知れわたり、相馬顕胤(小高城主)・二階堂輝行(須賀川城主)・葦名盛氏(黒川城主)・石川晴光(石川城主)らが晴宗の非道を責めた。顕胤は義理の弟・懸田義宗(掛田城)から知らせを受け、晴宗に対して稙宗を解放するよう使者を送ったが、晴宗はこれを拒否。稙宗はこの直後、小梁川宗朝(伊達尚宗の従弟)によって救出されたが、晴宗は稙宗に荷担する懸田義宗を討つために、舅・岩城重隆に援兵を求めて掛田城に攻め寄せた。これに対して義宗は顕胤に救援を求め、顕胤は掛田城へ駆けつけて岩城勢と合戦。晴宗も相馬軍を警戒して信夫郡大森城に入城した。
天文12(1543)年2月、晴宗と相馬顕胤は阿武隈川で合戦し、顕胤は晴宗勢を壊滅させて掛田城に入った。5月には晴宗はふたたび阿武隈川に兵を繰り出して顕胤と対陣。このとき顕胤は手勢の一部を伏せて晴宗を待ち受けた。一方、晴宗は斥候を出して相馬勢の手勢の少なさを確認。しかし伏兵には気がつかず、一気に阿武隈川を渡って相馬勢の本陣めがけて攻め寄せた。顕胤は川を渡ってくる伊達勢をひきつけると、伏せていた兵とともに伊達勢に乱入。不意をつかれた伊達勢は壊乱し二百余名が戦死。這々の体で引き揚げていった。
しかし、この一連の掛田の戦いの最中、相馬家の家臣、黒木弾正正房・中村大膳義房・東郷治部胤光らが晴宗と内通し、ひそかに相馬勢から脱けた黒木弾正らは行方郡へ戻ると兵を挙げ、田中城(南相馬市鹿島区台田中)を攻めた。黒木正房らは以前にもに反旗を翻しており、もともと顕胤とは仲が悪かったようである。このとき田中城主・桑折久家は顕胤の陣中にあったため、弾正挙兵の報を受けた顕胤は、久家に田中城の死守を命じて派兵した。居城を守るべく久家は黒木らと激戦を繰り広げたがついに討死を遂げた。一方、伊達勢を阿武隈川に壊滅させた顕胤は、小高城に戻ると手勢を二手に分け、顕胤率いる本隊と岡田右兵衛大夫直胤・堀内次郎大夫近胤を主将とした別働隊の二手で田中城の救援に駆けつけ、真野川北部の広野原で黒木勢を破ると、顕胤は改めて小高城に凱旋し、戦死した桑折久家の甥・桑折清家を田中城代に任じた。
黒木大膳の叛乱に加わった東郷胤光は、相馬家と同族の武石一族で、竜迫城主・木幡尾張守胤清の娘婿であった。顕胤の兵に敗れたのち胤清の屋敷に招かれた胤光は、屋敷に臥せてあった顕胤の兵に襲撃された。しかし胤光は郎従のはたらきで脱出に成功して山中に逃れた。これに顕胤は執拗をきわめた追跡を行い、浮田(鹿島町浮田)の山中に隠れていた胤光ももはや逃げ切れないと察して自害し東郷家は滅びた。
顕胤はその直後、宇多郡黒木城に黒木正房・中村義房兄弟を攻めて降伏させ、顕胤は二度も反旗を翻した彼らを許した。しかし、顕胤は内心怒りを含んでいたと思われ、宇多郡に亘理氏を攻めている最中、駒ヶ峰の陣中でひそかに江井河内胤治・青田太郎左衛門尉胤清を呼んで黒木兄弟の暗殺を命じた。顕胤は黒木正房・中村義房・黒木左馬允知房をねぎらいのためとして陣中に呼び出して酒を勧めた。そして彼らが顕胤の面前へ進み出たとき、顕胤の傍に控えていた胤治・胤清は太刀を振りかぶって正房の首を一瞬のうちに打ち落とした。義房、知房も謀られたと察して抵抗したが、義房はたちまち斬り伏せられ、末弟・知房のみが陣中を斬り開いて伊達晴宗のもとへと逃れた。
そんなとき、顕胤の末弟で富岡城代の相馬三郎胤乗は、顕胤の命に背いて富岡城の留守を怠り城の外に出て遊興することしばしば、幼い盛胤の守る小高城に参行することもなくなった。顕胤は黒木弾正の乱を平定して小高城に戻るが、胤乗は病を理由に富岡城から出ようとしなかった。そのため顕胤は富岡城を密かに訪ねると胤乗を竹駕籠に囲い込み、下総以来の累代の老臣・牛来伊賀に預けた。そして胤乗の家臣たちを追放処分とし、室原伊勢守を富岡城代に任命した。しかし、この室原伊勢守の婿養子(のちに室原伊勢を称する)は胤乗に加担する人物だった。彼は胤乗の実母・葦名氏より胤乗宛ての小袖を頼まれていて、彼はその中に小刀を隠して酒とともに胤乗の警護の士に贈った。彼らは酒を飲んで泥酔し、小刀を振るって暴れ、その刀が胤乗の竹の牢舎を壊した。この隙を突いて胤乗はすばやくその場を脱し、田村氏のもとへ逃れ去り、さらに、会津の葦名盛氏は外戚の叔父に当たるため、会津を訪れてしばらく逗留したという。ここで胤乗は「相三」と名を変え、しばらくののち関東に赴いて武者修行に明け暮れたという。下総国結城、下野国小山、壬生のあたりで暴れまわったようで、結城氏、小山氏らの麾下にあったのかもしれない。彼はその後、永禄年中まで十年以上相馬に戻ることはなかった。この胤乗の脱走劇に、胤乗を預かった牛来伊賀は面目なしと岩城氏を頼った。伊賀はその後許されて、相馬へ戻っている。伊賀の嫡男は京都へ逃れたが、盛胤が弾正大弼任官の際、その官途状を奉じて相馬へ帰った。
これら天文の大乱は、天文16(1547)年、葦名盛氏が田村隆顕・二階堂輝行と対立して晴宗方についたことから、次第に晴宗有利の形となり、さらに小浜の四本松大蔵大輔尚義、三春の田村一族らも晴宗に荷担したことから、稙宗の勢力は急速に衰えていく。そして天文17(1548)年3月、田村隆顕が将軍・足利義藤(のち義輝)に伊達父子の和睦の要請をしたことから、5月、義輝は父子に和睦を命じ、葦名盛舜に調停を命じた。
9月、稙宗、晴宗父子は和睦し、稙宗は伊具郡丸森城に隠居、晴宗が正式に伊達家家督を継承した。晴宗は居城を西山城から米沢城へ移し、以降、孫の伊達政宗の代まで伊達家の本拠地として発展した。こうして足掛け7年に渡って続いた天文の大乱は収束していく。
顕胤はこの大乱が収まった直後の天文18(1549)年2月2日、小高城に没した。享年四十二歳。法名は崇国院雄山英公。遺骸は小谷村如意山宝光禅寺に葬られた。
●伊達稙宗血縁図《■:稙宗方、■:晴宗方》
最上義淳――最上義定
∥ +―――娘
+―娘 | ∥―――――田村清顕―――愛姫
上杉定実―+――娘 | | 田村隆顕 (伊達政宗妻)
| ∥―――+―留守景宗 |(父子の和睦を将軍家に要請)
| 伊達尚宗 | |
| +―伊達稙宗――+―――娘
| ∥ | ∥―――――二階堂盛義――葦名盛隆
| ∥ | 二階堂輝行
| ∥ |
| ∥ +―――娘
| ∥ | ∥―――――掛田義宗―――娘
| ∥ | 掛田俊宗 (相馬義胤母)
| ∥ |
| ∥ +―大崎義宣(養父・大崎義直。小僧丸)
| ∥ |
| ∥ +―葛西晴清(養父・葛西晴重。牛猿丸)
| ∥ |
| ∥ +―亘理元宗(養父・亘理宗隆。乙松丸)
| ∥ |
| ∥ +―桑折四郎(養父・桑折貞長)
| ∥ |
| ∥ +――娘
| ∥ ∥――――相馬盛胤――相馬義胤
| ∥ 相馬顕胤
| ∥
| ∥ 岩城重隆――娘
| ∥ ∥―――――岩城親隆
| ∥ ∥
| ∥ ∥ +―伊達輝宗―伊達政宗
| ∥ ∥ |
| ∥ +――――――伊達晴宗―+―娘
| ∥ | ∥――――伊達成実
| ∥――――+―――――――――――伊達実元
+――娘 ∥ |
∥―――+―台心院 +―娘
葦名盛高 | ∥―――葦名盛興
+―葦名盛舜――葦名盛氏