~原氏歴代当主~
当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤信 |
通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 主水助 | |||
官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | ||
法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 |
■原氏の庶流■
大野原氏
◎原光胤の系図と「豊前守」の系図
原胤親―+―原胤房《1389-1479》
(孫次郎)|(越後守・昇岳)
|
+―孫二郎光胤《1466》―――胤宗《1502》――胤清―――胤吉===胤家
(豊前守・荘覚) (内匠助・蓮寿)(豊後守)(豊前守)(豊前守)
◎「豊前守」「大蔵丞」原氏…「本佐倉原氏」
□□□
∥―――――――伝照《1526本土寺で没》―?―日立《市川平殿子息》
法照尼《1505》 (豊前守)
∥ 松室妙椿《1585》
? ∥―――――――――――胤長
∥――――――――――□□□――胤安《1550妙見神事》 (豊前守)
妙孝禅定尼《1545寄進》 (大蔵丞) ∥―――――――邦長
妙行尼《1593》 (大蔵丞)
◎「大蔵丞」原氏
□□□―+―大蔵《1459》
|(八幡で戦死)
|
+―右馬助
|
+―少輔公《1484》
◎「蓮」を法名に使っている原氏
原蓮秀 +―原蓮意《1458》
∥――+(彦次郎)
妙意 |
+―原妙秀
|
+―法意尼
◎桐ヶ谷の原氏(流山市桐ヶ谷=高城氏の支配下の所領)
《桐谷殿》原駿河殿―原五郎《1472》
原右衛門佐永岳
原光胤(????-1466)
原甲斐守胤親の子。通称は孫二郎。官途は豊前守、豊前入道。法号は荘覚院。
寛正7(1466)年2月7日、吉川(埼玉県吉川市)での戦いで討死した(『本土寺過去帳』)。一説には2月6日とも。
原左衛門二郎(????-1470)
大野原氏の一族か。法名は蓮教。実名は不明。
文明2(1470)年4月16日、大野(市川市大野町)で没した(『本土寺過去帳』)。
原胤宗(????-1502)
大野原氏の一族か。法名は蓮寿か。官途は内匠助。
文亀2(1502)年正月、桐谷(流山市大字桐ヶ谷)で「誅殺」された。
原豊前守(????-1526)
大野原氏の一族か。法名は伝照。官途は豊前守。実名は不明。
大永6(1526)年正月、市川から本土寺に正月の参賀に来たとき急死した(『本土寺過去帳』)。
■原氏の庶流■
小西原氏
◎小西原氏の想像系図◎
□□□―+―原胤継《1458・1471没》――+―原入道行源――原日陽《1541?》――原日源《1570》――原遊源
|(肥前守、能登守、入道行朝)|(肥前守) (能登守) (肥前守)
| ∥ ? ∥
| 妙上尼 +―原友胤――――原虎胤《1497-1564》 ?
| (能登守) (美濃守) ∥
| 法行尼《1584》
|
+―原道安《1450頃》…「小西殿舎弟」
(大和守)
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―――:行源 小西原肥前守 成等正覚(『本土寺過去帳』) |
1541?:日陽尊位 辛丑四月 原能登守法名光信(『本土寺過去帳』) |
1584年:法行尼 天正十二甲申正月 原肥前殿ノ上 辺田ニテ(『本土寺過去帳』) |
1588年:妙蓮尊位 臼井御谷ノ上 小西殿御老母 天正十六戊子九月(『本土寺過去帳』) |
→「臼井御谷」の奥方で、「小西殿」の老母ということであれば、天正年中の小西城主は臼井原氏の子か。さらに、「妙蓮尼 己巳十月 ナツカリ 日悟伯母」という記述の「妙蓮尼」と「妙蓮尊位」が同一人物だとすれば、臼井原氏からは娘二人が、小西原氏と弥富原氏に嫁いでいたことになる(下記系図)。 臼井原氏の原胤栄の母は「高城氏娘」といわれ、下記系図の妙蓮尼・蓮頂尼なども地名からして高城氏と関わりがあると思われ(名都借=高城氏の支配下)、妙蓮尼=妙蓮尊位であるとするならば、胤栄の弟が小西原氏の当主「小西殿」だったのかもしれない。 |
●妙蓮尼=妙蓮尊位だとした場合の系図●
+―弥富原出雲守朗暁《1585》
|
+―□□□
∥
∥―――日悟上人《1551-1614》…本土寺15世住持
∥
高城氏か?―+―蓮頂尼《1591没:本土寺》
|
+―妙蓮尼《1569没:ナツカリ》
|(妙蓮尊位…臼井御谷ノ上・小西殿御老母)
| ∥――――――――――――――――――――+―原胤栄(母は高城氏とされる)
| 臼井原胤貞?《????》 |
| +―「小西殿」
+―遠浦印公《1581没:名都借広受寺》
⇒現在の千葉県流山市名都借
原胤継(????-????)
原壱岐守胤武の子。小西原氏の祖。官途は左馬頭、肥前守。能登守。法名は行朝。上総国山辺郡小西郷(山武郡大網白里町小西)に所領を持ち、子孫は原氏の一族として活躍した。
長禄2(1458)年、平賀本土寺(松戸市平賀)の妙高院日意上人を妙高山正法寺(大網白里町)の開山として招いた。同じく長禄2(1458)年正月20日、禅寺を廃寺として、やはり妙高院日意上人を開山に迎えて日蓮宗寺院、高應山実相寺(茂原市高師)を建立した。同寺に残る日意上人供養塔には「…当院開基大檀那原左馬頭平朝臣胤継法号行朝大居士…」とある(『原氏と平賀本土寺日意その二』:松浦善亮氏)。
『本土寺過去帳』によれば「原大和守」という人物が見え、「小西殿舎弟」との記載がある。また、妻の「妙上尼」は金谷山妙上寺(山武郡森字殿内)の開基となり、夫と同じく日意上人を開山とした。
永正14(1517)年10月14日の武田如鑑・足利義明の小弓城攻撃には、惣領家の原胤隆とともに小弓城に籠り、総大将として義明軍を迎え撃つが敗れて逐電。根木内城(松戸市根木内)の高城氏を頼ったという。
胤継の子とも言われる「原能登守友胤」はこのとき甲斐に逃れ、太守の武田信昌に仕えた。彼の子は武田信虎の武将となり、偏諱を受けて「原美濃守虎胤」を称し、武田信玄の代には侍大将として活躍。武勇に優れ「鬼美濃」と呼ばれた。
原友胤(????-????)
胤継の子? 官途名は能登守。
永正14(1517)年10月の小弓落城時に下総を逃れて、甲斐の武田信昌を頼った。そこで足軽大将として召し抱えられ、嫡男は武田信虎の偏諱を受けて「虎胤」と称し、武田信玄の重臣となった。
原虎胤(1497-1564)
原能登守友胤の子。官途名は美濃守。武田信玄配下の「甲陽の五名臣」として、横田備中守高松、多田摂津守満頼、小幡山城守虎盛、山本勘助晴幸とならび称された名将。
永正14(1517)年10月の小弓落城の時、父の原能登守友胤とともに、甲斐に逃れて武田氏に仕え、信虎から偏諱を受けて「虎胤」を称した。『甲斐国志』によると、友胤は武田家足軽大将の身分で召し抱えられ、虎胤もその麾下として活躍したと思われる。
虎胤は父の跡を継いで足軽大将となり、天文10(1541)年、武田晴信(のちの信玄)が家督を継ぐとその麾下として活躍。三十八回の大きな戦いに参戦し、全身五十カ所にも及ぶ傷を受けた豪傑として近隣に名を轟かせた。また、官途名の美濃守から「鬼美濃」と呼ばれた。一方で、彼は猛将であるだけでなく、情にもあつい武将として知られ、合戦場で傷つき倒れていた敵将を見つけると、自ら肩をかして敵陣まで送り届け、再び戦場でお目にかかろうといった話も伝わる。
天文20(1551)年10月、信州の名将、村上義清(葛尾城主)・小笠原長時(深志城主)との前哨戦として、彼らの重要拠点であった小笠原長時の一族、平瀬八左衛門の居城・平瀬城を攻め落とし、平瀬城代に任じられた。深志城・平瀬城は信州の中心にある城であり、信玄の信州覇権の足場を固めた。
しかし、天文22(1553)年、甲斐国内で日蓮宗と浄土宗の宗教論争があったとき、虎胤は下総国以来の家の宗旨であった日蓮宗側についた。実は、信玄は「甲州法度之次第」で国内において法論を行うことを禁じていた。禁を破ったものは罪科に問うと明記していたにも関わらず、虎胤が法論に加わったことに信玄は激怒。たちまち平瀬城代職を解かれて追放された。
虎胤は追放されると甲斐を離れて北条氏康のもとに身を寄せた。氏康はじめ、北条氏の家中は虎胤の勇名を聞き及んでいたため、この訪問を心から喜んで「古の渡邊綱に勝れり」と彼を丁重に扱った。その後、天文23(1554)年2月、武田信玄の娘(黄梅院)と北条氏政の婚儀が調った際に虎胤は信玄からの許しを得たと思われ、氏康もまた虎胤を甲斐へ送り届けた。
甲斐に帰った虎胤はその後、再び信州攻略の陣頭に立って活躍したが、割ヶ岳城を攻めている際に負傷し、上杉家との信濃国川中島の戦いでは信玄から養生を命じられて出陣せず、甲斐国に留まっていたが、永禄7(1564)年に六十四歳で病死した。
虎胤が病死した翌年の永禄8(1565)年、信玄は子飼いの将・教来石民部少輔景政に対して、虎胤の武勇にあやかるためにと「美濃守」を称することを許し、断絶していた馬場家を継がせた上、偏諱を与えて「馬場美濃守信春」を称させた。信春は信玄家中で原虎胤に並ぶ名将・小幡虎盛から軍略を学び、信玄の在世中は深志城代をつとめ、信玄亡きあとは跡を継いだ武田勝頼・信勝を内外にわたって支え、武田家の支柱となる。しかし、織田信長・徳川家康連合軍との「長篠の戦い」で武田家が敗れたとき、勝頼を逃がすために奮戦。勝頼が戦場を離れたことを確認すると、単騎で織田勢の中に突撃して、射殺された。信長も彼の壮絶な戦いを賞賛し、織田方の書物にも「其の働比類無し」と記されている。
■原氏の庶流■
弥富原氏
○弥富原氏の想像系図○
妙中善尼
∥―――――――妙勝尼《1508》→「弥富大方」
∥
∥ 行真比丘尼
∥ ∥――――――――朗伝・朗典《1535》―――孫次郎《1535》
∥ ∥ (左衛門尉・信濃守?)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥―――――――朗純胤凉《1518-1554》
∥ ∥ 妙伝比丘尼 (左衛門尉)
∥ ∥
+―原朗珍胤氏《1455》 +―朗真景広《1499》――+―朗久《1510?・1517?》
|(信濃守左衛門尉) |(左衛門尉) |(孫九郎)
| ∥ | |
| ∥――――――――+―孝景《1494在》 +―胤行―――――胤家――胤則――胤時――胤春
| ∥ |(左京亮) |(九郎左衛門)(若狭)(遠江)(山城)(近江)
| 院勢尼 | |
原道儀胤良 | +―忠継《1494在》 +―朗瑞《1515》
∥――――+ |(万五郎) (弾正忠殿)
理教尼 | |
| +―珍清《1444-1457》
| (小六)
|
+―原朗嶺胤致《1455》――胤久
|(右京亮) (宮内)
|
+―原助景《1456・1470没》
|(信濃入道左衛門)
|
+―原妙朗景家?《1494》――彦三郎
○日悟の周辺系図○
+―原出雲守朗暁《1585》
|
+―□□□
∥
∥―――日悟上人《1551-1614》…本土寺15世住持
∥
+―蓮頂尼《1591》
|
+―妙蓮尼《1569》
|
+―遠浦印公《1581》
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――― | :道儀 原信州父 七月 |
――― | :理教尼 原信州悲母 七月 |
1455年 | :原信濃守、根古谷の円城寺氏と闘う。 |
:原左衛門朗珍 康正元乙亥十二月 兄弟東方ニテ打死(『本土寺過去帳』) :原左衛門朗珍 応仁元年十一月十三日 ヒノキ原ニテ討死(『長福寺過去帳』) :朗珍霊儀原左衛門 十二日(『教蔵寺過去帳』) :朗珍原左衛門殿 十一月十二日(『法宣寺過去帳』) |
|
:原右京亮朗嶺 康正元乙亥十二月 兄弟東方ニテ打死(『本土寺過去帳』) :原右京亮朗嶺 応仁元年十一月十三日 ヒノキ原ニテ討死(『長福寺過去帳』) :朗嶺霊儀原右京亮 十二日(『教蔵寺過去帳』) |
|
1467年 | :原信濃守胤良が弥富城の城主。(『法宣寺過去帳』) |
1470年 | :原左衛門尉景広、長福寺を建立する。 |
1479年 | :原左衛門尉景広、太田図書の臼井城攻めで、臼井城に駆けつけて功績あり。 |
1483年 | :原左京亮孝景、本土寺に法華経を奉納。「悲母院勢御持経也、孝子左京亮奉持之 文明十五年癸卯四月廿八日 日瑞」 |
1488年 | :原左衛門尉景広、飯塚長国寺を建立。 :妙行尼 イヤトミ スルカ母 長享二己酉十二月(『本土寺過去帳』) →《桐谷殿》原駿河殿―原五郎《1472》 原右衛門佐永岳 |
1494年 | :妙朗善位 明応三甲寅四月 原右京亮弟(『本土寺過去帳』)―弥富彦三郎 :原左衛門尉景広・原左京亮孝景・原万五郎忠継・設楽彈正継長ら、日瑞の結縁会に参加。 |
1499年 | :原左衛門尉景広 当寺建立大檀那 法号朗真 明応八年十月卒(『教蔵寺過去帳』) |
1506年 | :原蔵人丞殿法名朗寿 永正三丙寅八月(『本土寺過去帳』) |
1508年 | :弥富大方妙勝尼、本土寺に華皿を奉納。 :朗真源左衛門 同息女妙勝尊尼 明応八年巳未八月十五日 |
――― | 1510年:弥富大方 マスウ(『本土寺過去帳』) |
:原孫九郎朗久 永正十年六月十五日 坂戸ノ押合デ討死(『長福寺過去帳』) | |
1515年 | :朗瑞尊位 原弾正忠殿 永正十二乙亥五月(『本土寺過去帳』) |
1517年 | :朗久 原孫九郎殿 ヤトミ打死 永正十四丁丑五月(『本土寺過去帳』) |
1535年 | :朗典位 弥富殿 小弓ニテ打死 天文四乙未六月(『本土寺過去帳』) :左衛門尉朗伝 子息孫九郎 小弓野田ニテ :原左衛門尉朗伝 天文四年六月廿日 小弓ノ野田ニテ討死(『長福寺過去帳』) :原左衛門尉朗伝 小弓野田合戦ノ時、子息孫治郎巨下三十 朗伝共討死 天文四乙未四月(『教蔵寺過去帳』) |
1538年 | :原九郎左衛門胤行、国府台の戦いで功績あり。 |
1550年 | :原九郎左衛門胤行、千葉妙見遷宮式に馬を献納。 |
1554年 | :原左衛門尉胤凉朗純 天文廿三年甲寅七月十日卒 三十七才(『長福寺過去帳』) :当所城主 大檀那原信濃守御子息 法名朗純公 皈依ニ因テ再建立有之焉(『教蔵寺過去帳』) :朗純 岩富原左衛門尉殿 十日卒(『法宣寺過去帳』) :朗純尊霊 弥富殿 七月(『本土寺過去帳』) |
1585年 | :朗暁 天正十三乙酉六月 ヤトミ原出雲守 日悟伯父(『本土寺過去帳』) |
1591年 | :蓮頂尊位 日悟聖人 御悲母 天正十九辛卯八月於当寺(『本土寺過去帳』) |
1592年 | :朗円霊 弥富角右衛門殿 天正廿壬辰十一月(『本土寺過去帳』) |
1593年 | :朗意尊霊 文禄二癸巳七月 弥富原信州(『本土寺過去帳』) :原信濃入道法名朗意儀 武州水ハツニテ逝去 □□二□□八月(『本土寺過去帳』) |
1614年 | :日悟聖人 慶長十九卯月 当山十五世在世三十六年 六十四才 於野呂午刻甲寅(『本土寺過去帳』) |
――― |
:妙伝比丘尼 弥富朗純 御母儀(『本土寺過去帳』) :行真比丘尼 弥富朗伝 御母(『本土寺過去帳』) :妙中善尼 弥富大方ノ御母儀(『本土寺過去帳』) :遠浦印公尊位 名都借広受寺 日悟母方伯父 天正九辛巳正月(『本土寺過去帳』) :妙蓮尼 己巳十月 ナツカリ 日悟伯母(『本土寺過去帳』) |
●弥富原氏と本土寺について
弥富原氏は、弥富城(佐倉市岩富町)を本拠とする原一族で、原氏の中でも本土寺にもっとも接点があった氏族と思われ、『本土寺過去帳』には、弥富原氏や「イヤトミ」についての記述が多い。
弥富原氏の当主・原景広は文明2(1470)年3月、本土寺の日意上人を招いて勝興山長福寺の開山としている。それ以降も本土寺と弥富原氏の関わりが続いたと思われ、それが本土寺周辺を治めていた高城氏との結びつきともなって、弥富原氏・高城氏の血を引くと思われる日悟上人が本土寺の十五世住持として天正6(1578)年に就任し、以来三十六年にわたって同寺の貫首をつとめた。
原胤良(????-????)
原四郎胤高の子。弥富原氏の祖。官途は信濃守。法名は道儀。妻は理教尼。某年7月16日に亡くなった(『本土寺過去帳』)。
彼の妻・理教尼についての伝記は伝わっていないが、彼の子・原左衛門尉某(朗珍)の母として、『当門徒系図次第』に平賀本土寺(松戸市)の初めての御堂供養の導師であった「日壽聖人」の母・理哲(狩野ノ修理進入道叡昌息女)の妹として伝わっている(『弥富原氏の研究』)。
原胤氏(????-1470)
弥富原氏二代当主。原信濃守胤良の子。官途は信濃守。法名は朗意。
兄の原左衛門尉(朗珍)、原右京亮胤致(朗嶺)が康正元(1455)年11月13日に千田庄内での戦いで戦死した(『本土寺過去帳』)ため、家督を継いだのだろう。このころ千葉家内では、ともに千田庄を本貫地とする千葉家重臣、原氏と円城寺氏の対立が激化し、この年、原越後守胤房は千葉宗家一門の長老、千葉馬加陸奥入道常義(馬加康胤)を担いで、円城寺氏を重用する千葉介胤直入道に謀反を起こした。馬加陸奥入道は親古河公方派である一方で、千葉介胤直入道は古河公方・足利成氏と対立しており、千葉家は真っ二つに分裂した。
戦いは亨徳4(1455)年8月12日、千田庄志摩城において千葉介胤宣が自刃し、円城寺下野守尚任をはじめとする円城寺氏一党が討死、15日には千田庄妙光寺に追い詰められた千葉介胤直入道が自刃して果て、馬加陸奥入道・原越後守勢の勝利で終わった。
しかし、幕府は千葉宗家の内紛について上杉氏からの報告を受けていたものか、古河公方に加担する馬加陸奥入道・原越後守追討のために、10月ごろ、幕府奉公衆で千葉一族の東左近将監常縁を下総国に派遣した。常縁は歌人として著名だが、武人としても有能であり、下総に着くとまず東氏発祥の東庄に移り、東大社で戦勝祈願を済ませた。そして、大須賀左馬助・国分五郎ら千葉一族の協力を得て、原氏の本拠・千田庄に馳せ向かい、11月13日に「東方」「ヒノキ原」において原左衛門朗珍・原右京亮朗嶺を討ち取った(『本土寺過去帳』『長福寺過去帳』)。
常縁は千田庄を攻め落とすと、11月24日には馬加陸奥入道の居城・馬加城(花見川区幕張)に攻め寄せ、城から討って出た原越後守胤房の軍勢を一両日の戦いののち破った。こののち、胤房は千葉へ逃亡して姿を消した。胤氏がその戦いに参戦していたかは不明だが、彼は生き延びた。
文正元(1466)年6月3日、「原信濃入道」は幕府より「松渡城郭」の守りを命じられた(『足利義政御内書案』)。「松渡」とは「松戸(千葉県松戸市)」のことであり、「松渡城郭」とは松戸城(松戸市松戸)か。このあたりはのちに原氏の家老・高城氏が繁栄した地である。
文明2(1470)年某月12日、「武州水ハツ」において亡くなった(『本土寺過去帳』)。
弟の原妙朗(景家?)は、明応3(1494)年4月19日に「クリカサワ」にて亡くなっているが、「クリカサワ」とは現在の松戸市栗ケ沢のことと考えられ、兄の原信濃守胤氏とともにこの地に移ってきたのだろう。栗ヶ沢の字名に「高木」があるが、原氏の家老となる高城氏はこの地の地方豪族だったのかもしれない。
原景広(????-1499)
弥富原氏三代当主。原左衛門尉(朗珍)の子。通称は左衛門尉。法名は朗真。
叔父の原信濃守胤氏(朗意)の跡を受けて弥富原氏の家督を継いだと思われる。
文明2(1470)年3月、本土寺(松戸市平賀)の日意上人を弥富に招き、弥富城の北に勝興山長福寺(佐倉市岩富)を建立して彼を開山とした。長福寺にある梵鐘銘には「当時開基本山九祖日意聖人焉 大檀度原左衛門景広矣建立文明二庚寅祀也…」とある(『岩富原氏の研究』)。
明応8(1499)年8月15日、娘(妙勝尊尼)とともに亡くなっている。
原胤行(????-????)
原左衛門尉景広の子。通称は九郎左衛門尉。
天文19(1550)年11月23日、千葉妙見宮の遷宮式が執り行われた。大檀那・千葉新介親胤は馬場又四郎胤平に御馬を、原大蔵丞胤安に御太刀を持たせて臨席し、もうひとりの檀那・原式部大夫胤清は原九郎左衛門尉胤行に神馬を曳かせ、牛尾左京亮胤道に太刀を持たせて列した(『千学集抜粋』)。
●天文19年11月23日妙見御遷宮式の寄進衆(『千学集抜粋』)
寄進者 | 持参供 | 寄進物 | 請取 |
千葉新介親胤 | 馬場又四郎胤平 | 御馬 | 本庄新六郎胤里 |
原大蔵丞胤安 | 御太刀 | ||
原式部太夫胤清 | 原九郎左衛門尉胤行 | 神馬 | 金親兵庫政能 |
牛尾左京助胤道 | 太刀 | ||
牛尾孫次郎胤貞 | 原隼人佐胤次 | 神馬 | 小河外記助政俊 |
齋藤源太左衛門尉清家 | 太刀 | ||
椎崎 | 小河大膳 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
宍倉与三郎 | 太刀 | ||
成戸 | 三谷下野守 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
小河新蔵 | 太刀 | ||
公津 | 円城寺源五郎 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
湯浅源三郎 | 太刀 | ||
寺台 | 高千代大膳亮 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
瀬村惣九郎 | 太刀 | ||
鹿島 | 三谷右馬助 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
宍倉惣九郎 | 太刀 | ||
牛尾右近太夫 | 牛尾平右衛門 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
牛尾兵部少輔 | 太刀 | ||
大須賀、助崎(大須賀氏)、小見川(粟飯原氏)、海上殿、相馬殿、府馬、鏑木、米井(木内氏)、井田、山室、三谷、椎名、粟飯原、三幡谷、神崎殿、野手、押田、神能 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
原胤家(????-????)
原九郎左衛門尉胤行の子。通称は若狭守。
原胤則(????-????)
原若狭守胤家の子。通称は遠江守。
原胤時(????-????)
原遠江守胤則の子。通称は山城守。
原胤春(????-????)
原山城守胤時の子。通称は近江守。
◎千葉宗家の直臣となった2つの原氏◎
■原氏の庶流■
本作倉原氏
◎本佐倉原氏・想像系図
□□□ 妙行尼《1593》
∥―――――――□□□《1526》 松室妙椿《1585》 ∥―――――――――邦長
法照尼《1505》 (豊前守) ∥―――――――――――胤長 (大蔵丞)
∥――――――――□□□――胤安《1550妙見神事》 (大蔵丞・豊前守)
妙孝尼《1545寄進》 (大蔵丞)
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1505年:法照尼 永正二乙丑六月 市河平殿母儀(『本土寺過去帳』) |
1526年:平豊前伝照 大永六丙戌正月 寺中客殿市河ヨリ礼ニ来テ死去ス(『本土寺過去帳』) |
1545年:妙孝尼 「天文十四年乙巳三月二十日 原大蔵丞胤安祖母」が文殊寺に仏龕を奉納(『房総金石文』) |
1585年:松室妙椿 天正十三乙酉年四月 サクラ原豊前守殿老母(『本土寺過去帳』) |
1593年:妙行尼 文禄二癸巳十一月 サクラ 原豊前守御上(『本土寺過去帳』) |
原胤安(????-????)
通称は大蔵丞。本佐倉原氏当主。千葉宗家の直臣となっている。
天文19(1550)年11月23日の妙見社遷宮式では千葉親胤の太刀を奉納した(『千学集抜粋』)。年未詳の5月15日付文書では、香取大禰宜から千葉介への贈り物を披露したとの返書を送っている(『香取文書』)。
胤安の祖母・妙孝禅定尼は天文14(1545)年3月廿日、佐倉城下の文殊寺(佐倉市大蛇)に仏龕を奉納している。
原胤長(????-????)
原胤安の嫡男。通称は大蔵丞、のち豊前守。
原邦長(????-????)
原胤長の嫡男。通称は大蔵丞。
◎千葉宗家の直臣となった2つの原氏◎
■原氏の庶流■
森山原氏
原親幹(????-????)
通称は若狭守。森山原氏当主。千葉介親胤の家老で、親胤の偏諱を受けて「親幹」を称したと考えられる。
●天正3(1575)年カ?3月13日『条目』
原邦房(????-????)
通称は大炊助。親幹の嫡男で森山原氏当主。衰退期の千葉宗家を父とともに必死に支えた人物。千葉介邦胤からの偏諱によって「邦房」を称したと思われる。
原平左衛門(????-????)
通称は平左衛門。諱は不明。邦房の子か? 越前福井藩主・松平忠直に仕え、大坂の陣に従軍した。
原正房(????-????)
通称は平左衛門。平左衛門の子。
寛永元(1624)年より越前福井藩主・松平忠昌に仕え、父とともに大坂の陣に従軍した。
原正武(????-????)
通称は平左衛門。島田清左衛門重季の三男で正房の養嗣子となった。
万治2(1659)年より越前福井藩主・松平光通に仕えた。正武は先祖が「千葉家由緒有之間」であったことから、光通の代参として千葉妙見社を参詣し、太刀一腰を奉納している。
原富正(????-????)
通称は平左衛門。彦坂又兵衛重庸の子で武蔵国に生まれ、正武の養嗣子となった。
正徳2(1712)年より越前福井藩主・松平吉邦に仕えた。
●諸書に見える原氏●(『本土寺過去帳地名要覧』・『房総史料』本土寺過去帳)
年号 | 名前 | 場所など |
建武3(1336)年 | 原四郎 | 多古の土橋東禅寺で原四郎の母の四十九日の法要● |
応永20(1413)年 | 妙邇入道 | ハラ(原か) |
永享13(1441)年 | 妙長尼 | 原孫二郎女 |
嘉吉元(1441)年 | 原入道道盛原入道道盛 | 結城陣で戦死 |
嘉吉4(1444)年 | 原筑前守 | |
文安6(1449)年 | 妙実 | ハラ |
康正元(1455)年 | 原左衛門朗珍 | 弟・右京亮朗凱とともに戦死 |
原右京亮朗嶺 | 兄・原左衛門朗珍とともに戦死 | |
享徳5(1456)年 | 原胤房 | 弘法寺に寺領安堵状発給。享徳年号を使うのは反幕を表すか● |
康正3(1457)年 | 原小六珍清 | 14歳で没する |
長禄2(1458)年 | 原菊御蓮意 | 年号不明で「原彦次郎蓮意」が見える |
長禄3(1459)年 | 原大蔵 | 八幡(市川市八幡?)にて戦死。右馬助の兄。 |
寛正5(1464)年 | 妙経尼 | 原三郎左衛門の母 |
寛正7(1466)年 | 原豊前入道光胤 | 大ノ(市川市大野か)。吉川で戦死 |
妙日尼 | 寺中 原太郎女母 | |
文明2(1470)年 | 原左衛門二郎蓮教 | 大ノ(市川市大野か)。 |
原信濃入道朗意霊 | 武蔵国水ハツで逝去 | |
文明3(1471)年 | 原越前入道道喜 | 小弓城で戦死 |
原肥前入道行朝 | 『本土寺過去帳』には「文明十三辛卯」とあるが、「辛卯」は文明3年であり、誤記と思われる。 | |
文明4(1472)年 | 原五郎 | 桐谷。駿河殿の子● |
文明16(1484)年 | 少輔公 | 大ノで没。原右馬助の舎弟。 |
長享2(1488)年 | 原若狭 | タカノハラ |
長享3(1489)年 | 童心童子 | 原弥五郎の子息 |
明応3(1494)年 | 妙朗善位 | 原右京亮の弟 |
永正2(1505)年 | 法照尼 | 市川平殿の母。市川平殿とは平豊前伝照のことか |
永正3(1506)年 | 原蔵人丞朗寿 | 千葉亥鼻城で東六郎とともに討死 |
永正12(1515)年 | 原弾正忠朗瑞 | |
永正14(1517)年 | 原孫九郎朗久 | ヤトミ(印旛郡弥富か)で討死 |
永正18(1521)年 | 原蔵人丞玄意 | |
大永6(1526)年 | 平豊前伝照 | 原氏か?市川から本土寺に礼に来て死去 |
天文4(1535)年 | 弥富朗典 | 弥富城主で、小弓城で討死 |
天文5(1536)年 | 不二庵全覚 | 原宮内少輔胤隆のこと |
永禄13(1570)年 | 小西能登守日源 | 千葉寺の下で戦死 |
天正2(1574)年 | 妙慶 | 原弥二郎の母 |
天正12(1584)年 | 法行尼 | 原肥前守の妻 |
天正13(1585)年 | 朗暁 | ヤトミの原出雲守日悟の伯父 |
原越前守 | 臼井台の浄行寺(現在は廃寺)に日蓮像を奉納● | |
天正17(1589)年 | 原弘岳 | 臼井原殿=胤栄のことか |
天正18(1590)年 | 原孫十郎日景 | |
文禄2(1593)年 | 妙行尼 | 原豊前守の妻 |
以下は某年 | 妙行 | 原大夫太郎の父 |
原大夫太郎 | ||
蓮秀 | 原彦次郎の父 | |
原山城守日信 | ||
原光覚 | 原豊前入道光胤のことか | |
原遠江守善岳 | 原遠江守胤平のことか | |
原道珠禅門 | ||
原朗真 | 原左衛門尉景広のこと | |
道儀 | 原信濃守の父 | |
原能登守日陽 | 法名は光信 | |
理教尼 | 原信濃守の母 | |
道朝 | 原金吾の母方の祖父で龍崎殿 | |
妙本 | 原玉林の父 | |
原隼人日永 | ||
原肥前守行源入道 | 小西原氏 | |
妙意 | 原彦次郎の母 | |
経祐 | 原彦八の父 | |
花峰 | 原典厩(右馬助か)の父 | |
妙秀 | 原彦次郎の弟 | |
原右衛門佐永岳 | 桐谷。「岳」という字が法名にあることから本家の一流か | |
寿信 | 原孫太郎の母 |
■原氏の庶流■
八王子原氏
原胤歳(????-1584)
武田信玄に仕えた侍大将。通称は新七郎。官途名は大隅守。
その出自は不明だが、「原公先祖書」によれば「本国下総」「家紋九曜」とあり、甲斐国に移った千葉支流原氏の子孫であろうと考えられる。下総原氏の流れは大きく分けて三流ある。
1.原 常途 | 鴨根常房(三郎)の弟で養子。肥前千葉氏の家老である岩部氏・仁戸田氏は彼の子孫。 |
2.原 光氏 | 千葉介氏胤の次男で初名は満氏。子・常光は「原二郎」として原氏を再興した。子孫は甲斐国に移った。 |
3.原 胤高 | 千葉介満胤の子といわれ、子孫は千葉氏筆頭家老となる。 |
→1.2.3.のいずれの系統も「甲斐国」に移住している。
1.原 胤勝 | 承久3(1221)年5月以降、信濃国へ移住。南北朝時代に甲斐国へ移る一族あり。 |
2.原 胤重 | 15世紀頃、甲斐国へ移住する。 |
3.原 虎胤 | 永正14(1517)年に起こったといわれる小弓合戦で、甲斐国へ逃れる。武田24将のひとり。 |
胤歳は、永禄4(1561)年9月の「第四次川中島合戦」で、上杉政虎入道謙信の武田本陣突撃に対し旗本で応戦し、謙信の馬の尻を槍で突いて信玄の危機を救った人物といわれる。
天正10(1582)年、武田家の滅亡後、嫡男・半左衛門胤従とともに家康に召し出されて駿府城へ赴き、徳川家の家臣となった。
天正12(1584)年3月25日、病死した。
原胤従(????-1599)
武田勝頼に仕えた目付役鎗支配。父は原大隈守胤歳。通称は半左衛門。官途名は刑部。八王子千人頭原家の祖。
天正10(1582)年の武田家の滅亡後、父・大隈守胤歳とともに徳川家康に召し出されて駿府城へ赴き、徳川家の家臣となった。同年8月30日、配下の同心衆が胤従へ返される旨の御朱印状が発給され、翌日の9月1日、成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門が上使として胤従のもとへ赴いて同心衆の支配が認められた。
しかし、こののち御朱印状が焼失したことから、12月9日、家康の側近・井伊兵部少輔直政のもとへ焼失の旨を届け出たところ、新たに「甲州本領九拾八貫文」の御朱印状が発給された。その三日後の12月12日、遠江国秋葉寺において成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門に誓紙を提出、翌年4月、胤従など甲州衆九人は遠江浜松城へ召され、井伊直政をもって甲斐一国の仕置が任せられると告げられ、九人へ一紙の御朱印状が下された。
その後、胤従は甲斐国へ戻り、諸公事・御仕置などを国中へ触れ回り、翌天正12(1584)年4月の「小牧・長久手の戦い」では家康の旗本として活躍。戦後、秀吉と講和して大坂にあった家康から、長久手の戦いでの恩賞が下されている。
翌天正13(1585)年12月、武田家国法軍令などの記録を提出するよう命じられ、元亀元年・元亀3年(三方ヶ原の戦い)の武田信玄の備立数ヶ条を差し出したところ、家康は非常に喜んだと伝えられている。畏怖していた信玄の陣立てを得たことは無上の喜びだったのだろう。
天正17(1589)年11月19日、甲斐国内「千七百十二俵一斗一升五合二勺」の知行が家康と伊奈熊蔵(関東郡代)の両判の書立で下され、甲州へ帰国した。
天正18(1590)年8月、秀吉の命によって家康が関東へ国替えが命じられると、甲斐国は秀吉の股肱の家臣・浅野弾正少弼長吉(長政)の知行国となったため、胤従も知行地を浅野長吉へ引渡し、家康の命によって甲州衆九人は武蔵国八王子へ移されることとなった。この八王子は秀吉によって自刃させられた北条陸奥守氏照の本拠地であり、家康は彼らに、八王子はいまだ不穏の地ゆえ、用心のために八王子城(元八王子)の向かいの城あたりに在陣するよう指示した。これに八王子甲州衆は甲斐国の知行地の替地を家康へ願い出たところ、家康は本多佐渡守正信を使者として八王子へ送り、彼らに人数書きを提出し、それに沿って扶持を与える旨を伝えた。
天正19(1591)年、胤従は家康に従って奥州御仕置のために出陣したが、そのとき八王子にあった胤従と同役の十名は、同心として五十人を充てられ、八王子衆は都合で五百人の兵力となった。
天正20(1592)年2月、秀吉の朝鮮出兵に際しては、家康に従い文禄2(1593)年の春まで肥前国名護屋城に出陣。帰国後は四年にわたって元八王子周辺の民政を行って、治安回復のために尽力。八王子へ屋敷を拝領し、慶長3(1598)年に隠居を願い出て許され、翌年慶長4(1599)年3月15日に亡くなった。
本来は甲斐国に知行を与えられた代官であった甲州衆は、秀吉によって甲斐国が徳川家から押収されたことによって、やむなく着の身着のままで武蔵国と甲斐国の境・八王子へ同心とともに移り住み、家康は彼らをそのまま国境警備隊・治安維持部隊として八王子を任せた。胤従ら甲州衆の面々もその期待によく応え、北条氏の残党が隠れ住む八王子の治安を回復させた。
原胤虎(????-1627)
父は原刑部胤従。通称は権左衛門、半左衛門。
慶長3(1598)年、父・胤従の跡をついで原家の家督を継承。慶長5(1600)年9月の「関ヶ原の戦い」の際には、家康は胤虎ほか十名の八王子衆各々に浪人五十人を新たに支配させ、八王子衆は都合千人の同心を率いる大部隊となった。八王子衆は徳川秀忠の中山道軍に加わって関が原に向かったが、秀忠勢は途中で真田昌幸の軍勢に阻まれて関が原に参戦することはできなかった。
胤虎は慶長19(1614)年10月の「大坂冬の陣」、慶長20(1615)年4月の「大坂夏の陣」にも供奉し、夏の陣では真田信繁(真田幸村)の軍勢によって徳川家御先手が切り崩された時、胤虎は家康の槍を持って陣中に踏みとどまり、胤虎が防いでいる間に先手衆は陣を立て直すことができた。この功績は安藤対馬守重信によって家康に伝えられ、胤虎は陣中の家康に召され、褒賞金として二十両が下された。
こののちも、家康の近習として伏見城、駿府城などに詰めているが、元和8(1622)年、病のため隠居を願い出、寛永4(1627)年9月24日、亡くなった。
原正胤(1598-1662)
父は原半左衛門胤虎。通称は金兵衛、権左衛門。
元和8(1622)年、父・胤虎が隠居したため、家督を継承。寛永8(1631)年3月4日、武蔵・上総両国に三百四十二石の御扶持方の御朱印状が下された。寛永13(1636)年4月、家光は秀忠が造営した日光東照社をより荘厳なものとして完成させ、日光社参を行った際、正胤は家光に供奉して日光へ赴いた。
慶安3(1650)年9月、家光の江戸城西丸御移徒の際、これに供奉。そのほか江戸城内の御普請御用を奉書にもとづき、同心らを召連れて勤めている。この御用のたびに金・時服などを拝領し、賜った奉書も代々原家に伝えられていった。
慶安5(1652)年6月、四代将軍・徳川家綱の日光社参の際には火消役に任命され、老中列座の中、松平伊豆守信綱から、同役の窪田善九郎・志村又左衛門とともに前の火消役であった谷大学・片桐半之丞と交代する旨が伝えられた。そして16日、交代が行われ、12月2日、酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱・阿部豊後守忠秋ら重職連名の下知状が正胤ら火消役の面々に下された。
明暦2(1657)年、隠居願を提出し、寛文2(1662)年正月11日に65歳で亡くなった。
原勝正(1611-1696)
養父は原権左衛門正胤。実父は石坂忠兵衛正勝。通称は半左衛門。
原正弥(1648-1719)
通称は半左衛門。官途名は刑部。
原正芳(1684-1722)
通称は半左衛門。
原正喜(1706-1733)
通称は半左衛門。
原正峰(1716-1776)
通称は半左衛門。
原胤敦(1749-1827)
通称は半左衛門。
原胤広(1770-1835)
通称は半左衛門。
原胤禄(1792-????)
通称は半左衛門。
◆千人同心頭原家系図◆
原 胤歳―――胤従――――胤虎――+―正胤―――+=勝正
大隅 刑部 半左衛門 |権左衛門 |半左衛門
武田家臣 慶長3年卒 正保3年卒|寛文2年卒 |実は石坂正勝の2男
後、家康の御家人 79歳 |65歳 |
|320石 +―将守
| |善次郎
| |三田守秀養子
| |
| +―重一
| 惣兵衛
| 浦野重展養子
|
+―胤定――――宣久
|伊兵衛 小左衛門
|延宝元年追放 榊原宣経養子
|
+―親胤――――某――――
半左衛門 長右衛門
綱吉に附属 館林藩士
館林藩士 後、御家人160俵
●参考資料●
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館