千葉介胤繁(1493-1511)
西千葉氏三代目。千葉介胤朝の娘・尼日光明胤の養子。通称は千葉介。実父は不明。
胤繁花押 |
明応6(1497)年4月19日、大内勢に晴気城を攻められた千葉肥前守胤資は、正室千葉氏(尼日光明胤)を城から落として自刃した。おそらく次代の千葉胤治もこの時ともに城から逃れたと思われるが、胤治と父・胤資はわずかに十二歳の年齢差であることから、胤治は胤資の実子ではなく養子だろう。
胤資没後は、十三歳の胤治ではなく、胤資の後家・尼日光明胤が一時的に千葉家の惣領代的な立場となって千葉家を守っていたと思われ、胤繁・胤勝(横岳家より)を自らの養子として育てている。胤繁・胤勝は胤資の養子ではなく「尼日光養子」である。
晴気城を攻め取った大内氏だったが、大友氏との戦いで惨敗し周防国山口へと引き上げた。これを見届けた千葉勢は晴気城の南東、小城郡甕調郷(小城市三日月町)の高田城に入ったが、翌明応7(1498)年2月24日、大内方に寝返っていた少弐一門の筑紫満門・東尚盛らに高田城を攻められ、佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。千葉氏はここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに対して援を求めた。
この当時の龍造寺家当主・龍造寺豊前守胤家は、千葉胤資に協力的だった龍造寺康家の嫡男である。胤家はもともと「家弘」 と称していたが、千葉介胤朝の偏諱を受けて「胤家」と改め、文明5(1473)年、康家から家督を相続して龍造寺家の当主となった。龍造寺胤家はこれまでの千葉家との交誼を重んじて援兵を出そうとしたが、弟の龍造寺家和が自重論を述べたため出陣は見送られたものの、胤家はその晩、密かに成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行。そして同日、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、この大内勢の敗戦を聞いた牛頭山の千葉介興常が筑紫・東勢を救うべく兵を率いて駆けつけたため、戦勝に油断していた胤繁勢は不利になり、尼日光、胤治、胤繁らは龍造寺胤家とともに筑前へ落ち延びた。晴気千葉家の追放に成功した大内義興は、自らの配下である千葉介興常を取り立てた。
★肥前関係図14★―明応7(1498)年ー
少弐氏 | 大内氏 |
少弐氏は滅亡していて当主なし | 大内義興 |
千葉胤繁→興常に敗れて筑前へ逃亡 | 千葉興常 |
龍造寺胤家(康家嫡男)→筑前へ逃亡 | 陶興房(大内氏家宰) |
成富胤秀(少弐氏旧臣) | 筑紫満門(少弐一族) |
木塚直喜(少弐氏旧臣) | 東尚盛(少弐一族) |
さらに明応9(1500)年8月、大内義興は没落していた渋川刀禰王丸(九州探題渋川家)を擁立し、山口に庇護していた前将軍・足利義尹のもとで元服させて渋川尹繁と名乗らせ、肥前国基肄郡園部城(三養基郡園部町)に置いて九州探題を復活させた。こうして九州北部一帯は大内氏の支配下となる。
一方、筑前に逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(太宰府官吏)のもとで密かに肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡みやき町)城主・横岳資貞(胤勝実父)に養育されていた少弐政資の遺児が将軍・足利義高の赦免を得て少弐資元を名乗り、大友親治・大友義親の後援を得て大内氏に反旗を翻した。
この騒動に乗じて、胤家は肥前に帰国し、弟・家和に迎えられて大財端城に入城した。龍造寺家惣領は、筑前に逃れた胤家ではなく弟の家和が継承していたという。胤家が家和に迎えられるのと同じく、胤繁らも肥前に戻ったと思われる。
少弐資元は挙兵すると、大内方の肥前国神埼郡城原の勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を追放して占領。さらに胤繁と龍造寺胤家の力を借りて、大内方の九州探題・渋川尹繁の居城・白虎山城を攻めて、尹繁を筑後へ放逐し、白虎山城には重臣・馬場頼経を入れて守らせた。
★肥前関係図15★―永正元(1504)年ー
少弐氏 | 大内氏 |
少弐資元(少弐氏の再興が認められる) | 大内義興 |
千葉胤繁(筑前から小城郡高田城へ帰還) | 千葉興常 |
馬場頼経(少弐氏家宰) | 陶興房(大内氏家宰) |
龍造寺家和(胤家弟) | 筑紫満門(少弐一族) |
龍造寺胤家(前家督) | 東尚盛(少弐一族) |
江上興種(資元に追放される) | |
渋川尹繁(九州探題。筑後へ追放される) |
しかし、永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らに居城の高田城を攻められたため、胤繁らは再び城を捨てて龍造寺氏を頼った。高田城は水濠に囲まれた平城と思われ、それほど高い防御力を持つ城ではなかったようだ。
翌永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛の軍を起こすことになり、義興は後顧の憂いを取り除くため、前将軍・足利義尹の命と称して、少弐資元との和睦を持ち掛け、和睦が成立した。これにより、資元は肥前守に任官し、尼日光、胤治、胤繁らは晴気への帰還が許可された。
一方、義興に味方した牛頭山の千葉介興常は「屋形」号を許可されたという。屋形号は一国の国主クラスに与えられる称号であり、東国では千葉氏・小山氏・宇都宮氏・武田氏・小笠原氏・佐竹氏などに許されていた。
永正4(1507)年6月14日、胤繁は「持永大蔵丞」に対して「舊地今河領小城郡大楊、乙牟礼廿四町」を「今度差戻」ので、ますます忠貞を尽くすべきとの書状を与えている。持永大蔵丞は千葉氏に降伏した今川治部大輔秀秋の子で持永大蔵丞秋景のことである。秋景には伯父にあたる今川伊予守胤秋は応仁元(1467)年6月に千葉介教胤に反抗して敗れ、その所領は悉く千葉氏に奪われていた。胤繁はそのときに千葉家領となった旧今川家領を秋景に戻した。
今川範国―+―今川範氏―…―今川氏親――今川義元――今川氏親
(上総介) |(上総介) (上総介) (治部大輔)(上総介)
|
+―今川貞世
|(了俊入道)
|
+―今川仲秋 +―今川貞秋――今川持貞 +―持永秋秀――持永秋景――持永景秀――持永盛秀
(右衛門佐)| |(治部大輔)(大蔵丞) (右衛門佐)(治部少輔)
∥ | |
∥―――+―今川国秋――今川国治―+―持永秋弘
∥ |(相模守)
千葉介胤泰―+―娘 |
(刑部大輔) | +―持永胤秋――持永義秋
| (伊予守)
|
+―千葉介胤基―千葉介胤鎮―千葉介教胤
永正5(1508)年6月、大内義興は足利義尹を擁して上洛の途につき、少弐氏からは横岳資誠、千葉介興常、龍造寺家和らが供奉したという。この足利義尹・大内義興の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れたため、足利義尹は将軍に返り咲いた。義尹はこののち、名を義稙と改める。
こうした中、永正7(1510)年3月13日、胤治は「於高田城討死」とあるように、高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、義弟・胤繁との戦闘での討死の可能性もあろう。なお、胤繁も翌永正8(1511)年9月25日、十八歳の若さで亡くなった。戦死の可能性もあろう。
胤繁の二人の娘は鴨打筑前守胤宗と龍造寺孫九郎家晴に嫁ぎ、家晴妻は亡くなったのち諫早の小江鏡円寺に葬られた。その子・諫早石見守直孝の娘(彦宮)は、千葉鍋島家の鍋島玄蕃常貞に嫁いでいる。
少弐氏 | 大内氏 |
少弐資元 | 大内義興 |
千葉胤繁→高田城を陥されて逃亡 | 千葉興常 |
=龍造寺家和を頼る | 筑紫・東(少弐一族) |
千葉介胤連―――娘
(千葉介) ∥
∥――――+―千葉常成
龍造寺家門―+―龍造寺家純――龍造寺周家――龍造寺隆信 ∥ |(太郎助)
(和泉守) |(豊後守) (六郎次郎) (山城守) ∥ |
| 鍋島常貞 +―鍋島常治
+―龍造寺鑑兼――龍造寺家晴 (玄蕃允) (玄蕃)
(左衛門佐) (兵庫助) ∥ ∥
∥ 【諫早家】 ∥ ∥――――――+―鍋島常範
∥――――――諫早直孝 +―彦宮 ∥ |(玄蕃)
千葉介胤繁――娘 (石見守) | ∥ |
(千葉介) ∥ | ∥ +―鍋島常長
∥ +―娘 ∥ (玄蕃)
∥ | ∥――――+―娘
∥ | ∥ |(桃源院)
∥ | ∥ |
∥ | 鍋島茂里 +―鍋島茂春
∥ |(志摩) (志摩)
∥ |
∥――――+―諫早茂敬
∥ (豊前守)
∥ ∥――――――諫早茂眞
鍋島直茂――+―娘 +―娘 (豊前守)
(加賀守) | |
|【佐賀藩主】|
+―鍋島勝茂―+―鍋島忠直―――鍋島光茂
(信濃守) (肥前守) (丹後守)