(????-1299?)
沼闕東氏初代。海上弥次郎胤方の七男。通称は七郎。官途は左衛門尉。東中務丞胤行の養子。
故あって伯父の東中務丞胤行の養子となり、東庄小南沼闕村(東庄町小南字城山)に館を構えた。その後、盛胤は三崎庄本庄郷(銚子市本城町字妙見)へ屋形を建てて移ったため「本庄殿」とよばれた。
盛胤には東七郎太郎胤世・辺田六郎朝胤・高上弥七資胤・松本九郎胤基・馬場十郎胤文の五人の子息がおり、三崎庄内各地を領して発展していく。
正安元(1299)年7月ごろにはまだ存命だったが、正和2(1313)年4月25日、幕府が長男の東七郎太郎胤世に対して「亡父左衛門尉平盛胤 正安元年七月日 連券状」に基づいて「相模守平朝臣(=北条熈時)」の名で安堵(『正和2年4月25日付所領安堵状』)していることから、この年に亡くなったか。
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沼闕東氏二代。東七郎盛胤の嫡男。通称は七郎太郎。官途は不明。法名は良円。
正和2(1313)年4月25日、橘庄(東庄)粟野郷内の田二十町・三崎庄(海上庄)本庄内の田六十町の所領が「亡父左衛門尉平盛胤 正安元年七月日 連券状」に基づいて「相模守平朝臣(=北条熈時)」の名で胤世に安堵された(『圓福寺文書』:『正和2年4月25日付所領安堵状』)。
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沼闕東氏三代。東七郎太郎胤世の嫡男。官途は下総守。号は実阿弥陀仏。
胤世の跡を継いで、沼闕東氏の家督を継いだ。高胤は父・胤世が盛胤から継承した東庄粟野郷内田二十町・三崎庄本庄内田六十町と本領の東庄小南郷を領した。
長男・東七郎左衛門有胤を叔父の高上弥七資胤の養子として高上氏を継がせてその所領を併合。次男・東掃部助秀胤は伝来の粟野郷(香取郡東庄町粟野)を継承して粟野氏の祖となった。
●東・高上関係図●
東胤行=東盛胤―+―胤世――――高胤――+―高上有胤―――――――+―胤俊
(七郎)|(七郎太郎)(下総守)|(七郎左衛門尉) |(左馬助)
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| +―粟野秀胤――胤香 +―●胤秀カ
| (掃部助) (弥七) (二郎左衛門)
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+―高上資胤==有胤――――――胤俊
(弥七) (七郎左衛門尉)(左馬助)
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沼闕東氏四代。高上七郎左衛門尉有胤の嫡男。官途は左馬助。はじめ父の跡を継いで高上氏の当主となったが、その後、沼闕東氏の当主となった。
祖父の東下総守高胤が没すると沼闕東氏の家督を継承した。しかし胤俊は早いうちに没したようで、嫡男・東七郎広胤が早世したが、彼には子がなかったため、胤俊の弟・東二郎左衛門胤秀が家督を継いだ。
●東・高上関係図●
東胤行=東盛胤―+―胤世――――高胤――+―高上有胤―――――――+―胤俊―――広胤
(七郎)|(七郎太郎)(下総守)|(七郎左衛門尉) |(左馬助)(七郎)
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| +―粟野秀胤――胤香 +―胤秀
| (掃部助) (弥七) (二郎左衛門)
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+―高上資胤==有胤――――――胤俊
(弥七) (七郎左衛門尉)(左馬助)
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沼闕東氏五代。東左馬助胤俊の嫡男。幼名は弥陀犬丸。通称は七郎。
早くに亡くなったため、叔父の東次郎左衛門尉胤秀が沼闕東氏の家督を継いだ。
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沼闕東氏六代。東遠江守胤顕の長男。幼名は幸満丸。通称は二郎。官途は左衛門尉。東左馬助胤俊の弟で、兄の子・東七郎広胤に子がなかったことから、沼闕東氏六代となった。