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代数 | 名前 | 生没年 | 略歴 |
初代 | 高城胤忠 | ????-???? | 治部少輔、 下野守。高城氏初代といわれている人物。 |
2代 | 高城胤広 | ????-1517? | 越前守。原氏の家老。小弓合戦で、嫡子・左五右衛門とともに討死。 |
3代 | 高城胤正 | ????-1546 | 小弓合戦で逃れた高城越前守の子・下野守か。 |
4代 | 高城胤吉 | ????-1565 | 下野守。千葉介勝胤の娘・桂林尼を娶る。 |
5代 | 高城胤辰 | ????-1582 | 下野守。千葉介昌胤の甥。原氏から独立、小田原北条氏他国衆となる。 |
6代 | 高城胤則 | 1571-1603 | 下野守。小田原の役で敗れ、小金大谷口城の開城を指示して下野する。 |
7代 | 高城重胤 | 1599-1659 | 清右衛門。後見人・佐久間安政の推挙で旗本となる。700石。 |
8代 | 高城貞胤 | 1645-1709 | 清右衛門。御書院番士、のち小普請。 |
9代 | 高城清胤 | 1665-1734 | 清右衛門。 |
10代 | 高城元胤 | 1693-1700 | 権六郎。 |
11代 | 高城胤精 | 1697-1756 | 清右衛門。 |
12代 | 高城胤従 | 1722-1779 | 清右衛門。 |
13代 | 高城胤清 | 1752-1793 | 孫四郎。 |
14代 | 高城胤親 | 1772-???? | 清右衛門。 |
15代 | 高城胤蕃 | ????-1858 | 孫次郎。 |
16代 | 高城孫之丞 | ????-???? | 孫之丞。 |
○高城氏歴代当主○
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高城胤忠(????-????)
「初代小金城主」としてあらわれる高城氏初代当主。官途は治部少輔、下野守。父は二階堂山城守胤行とも、千葉新介高胤ともいわれているが、いずれも裏付けるものはない。
寛政11(1799)年に子孫の旗本・高城清右衛門胤親が幕府に提出した系譜に拠れば、以下のとおり(『諸家系譜』)。『諸家系譜』には人名の欠落があるが、ほぼ同じ内容の『高城家系図』には『諸家系譜』では欠落している人名が記載されている。
●『系譜』(『諸家系譜』所収より略譜)
藤原維幾―藤原為憲―藤原景隆―工藤景光――工藤資光――工藤行長――工藤景正――工藤行祐―+
(工藤庄司)(三郎) (山城守) (和泉守) (三郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―工藤景信―――二階堂行広――二階堂胤行――高城胤忠―+―高城胤広――高城胤正――高城越前守
(三郎左衛門)(山城守) (山城守) (治部少輔)|(越前守)
|
+―高城胤辰――高城胤時―+―高城胤則―+―娘
|(下野守) (下野守) |(源次郎) |
| | |
+―高城蔵人 +―権助 +―高城胤次
(清右衛門)
●『高城家系図』(『小金城主高城氏』所収より略譜)
藤原維幾―藤原為憲―藤原時理――藤原時信――藤原維永――藤原景任――藤原行景――藤原景隆―+
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―工藤景光――工藤資光――工藤行長――工藤景正――工藤行祐――工藤景信―――二階堂行広――
(工藤庄司)(三郎) (山城守) (和泉守) (三郎) (三郎左衛門)(山城守)
―二階堂胤行――高城胤忠―+―高城胤広――高城胤正――高城越前守
(山城守) (治部少輔)|(越前守)
|
+―高城胤辰――高城胤時―+―高城胤則―+―娘
|(下野守) (下野守) |(源次郎) |
| | |
+―高城蔵人 +―権助 +―高城胤次
(清右衛門)
伝承では、胤忠は正長元(1428)年5月に紀州から根木内へ来たとする(『八木原文書』)。また、別説では、胤忠は寛正元(1460)年に紀伊国熊野新宮から、功臣の「安蒜、鈴木、座間、田嶋、血矢・池田、田口之七騎」を率いて栗ケ沢に移住してきたという(『高城家略伝』)。馬橋の万満寺に残る古文書にも、高城氏はもと二階堂氏で、寛正3(1462)年壬午歳、紀州から根木内城(松戸市根木内)を構えて移り住んだという。また、高城家末裔の旗本・高城清右衛門胤親が幕府に提出した系譜にも寛正年中に紀伊国熊野新宮から移住したと記されている(『諸家系譜』)。とくに安蒜氏、鈴木氏、田嶋氏の家紋は稲穂紋であり、熊野との関わりをうかがわせる。
●「裔」は「■:二階堂氏とする」「■:原氏の末裔」
書名 | 裔 | 説明 |
『高城家世譜』 | 「小金城主元祖 高城治部少輔胤忠 法名玄東大居士」 | |
『高城家略伝』 | ■ | 「小金城主高城治部大輔胤忠公者、二階堂清政公之後胤也」 |
『本土寺過去帳』 | 「高城治部少輔殿 番匠面ニテ被被 永正十四乙丑四月」(1517年) | |
『胤次提出由緒書』 | ■ | 「胤忠 玄東」 |
『寛政重修諸家譜』 | ■ | 「胤忠 治部少輔」 |
『八木原文書』 | ■ | 記述なし |
『総州大谷口城主高城氏傳』 | ■ | 「越前守胤忠」:新介高胤の子と伝わる |
『高城家位牌』 | 「玄東大居士 高城下野守胤忠」 |
これらを見ると、高城氏の祖・高城胤忠は寛正年中に栗ケ沢に落ち着いたという伝承があったことがわかる。しかし、信憑性のある文書で高城氏の具体的な人物名が確認できるのは、永享9(1437)年6月19日に「クリカサワ(栗ケ沢)」で没した「高城四郎右エ門清高」が初見となる(『本土寺過去帳』)。過去帳上段に記載されていることからも、本土寺と関わりが深かった有力者だったことが察せられ、少なくとも高城氏は永享年以前にはすでに栗ケ沢周辺に地盤を持っていたことがわかる。しかし、これ以前の高城氏に関する記述がないことから、十五世紀初頭に他所から移り住んだ可能性はある。
■『本土寺大過去帳』に見られる高城氏
人名 | 法名 | 死亡年月 | 死亡地 | 現在地 | 続柄 | その他 |
高城四郎右エ門清高 | 永享9(1437)年6月19日 | クリカサワ | 松戸市栗ヶ沢 | |||
高城四良右衛門 | 某年某月20日 | 高城清高と同一? | ||||
高城周防入道悲母 | 妙林尼 | 文明6(1474)年6月16日 | アヒコニテ | 我孫子市我孫子 | 高城周防入道の母 | |
高城六郎左衛門 | 文明7(1475)年閏7月28日 | |||||
高城安芸入道 | 文明8(1476)年3月7日 | 間橋 | 松戸市馬橋 | |||
高城孫八 | 文明8(1476)年3月21日 | マハシ | 松戸市馬橋 | |||
高城彦四郎 | 文明8(1476)年4月2日 | |||||
高城和泉守御内方 | 妙泉尼 | 文明8(1476)年10月17日 | 高城和泉守の妻 | |||
高城新右衛門 | 延徳2(1490)年閏7月19日 | 高城彦九郎父 | ||||
高城彦九郎 | 高城新右衛門の子 | |||||
花井六郎左衛門 | 流山市花野井 | 高城彦六の父 | ||||
高城六郎左衛門 | 某年某月28日 | 花井と同一? | ||||
高城彦六 | 延徳4(1492)年6月17日 | 花井六郎左衛門の子 | ||||
高城安芸入道 | 道友 | 明応4(1495)年4月1日 | マバシニテ | 松戸市馬橋 | ||
高城周防守 | 雪叟入道光霊 | 弘治10(1497)年2月29日 | ||||
高城彦四郎 | 春谷霊位 | 永正10(1513)年1月9日 | ||||
高城周防守 | 実山宗真 | 永正11(1514)年7月27日 | ||||
高城和泉守 | 祖翁性高位 | 永正12(1515)年2月25日 | ||||
高城治部少輔 | 永正14(1517)年4月28日 | |||||
高城彦三郎 | 享禄4(1531)年9月1日 | 小屋島ニテ | 不明 | |||
高城下野守 | 関相玄酬居士 | 天正10(1582)年12月16日 | ||||
高城源次郎殿老母 | 妙星 | 慶長5(1600)年10月25日 | 高城胤則の母 | |||
高城源二郎 | 玄白霊位 | 慶長8(1603)年8月17日 | 伏見ニテ | 京都府伏見区 | ||
高城下野守 | 輝叟玄楊 | 天文15(1546)年4月25日 | ||||
高城源左衛門成幸 | 某年7月5日 | |||||
高城民部少輔 | 某年某月11日、12日 | フカイニテ打死 | 流山市東深井 | 討死同家風五十余人 | ||
高城下野守 | 玄心居士伝昭 | 某年某月12日 | ||||
御内室 | 桂林尼日庵 | 某年某月12日 | 高城下野守の室 | |||
高城新左衛門 | 家中親父 継仙聖霊 | |||||
高城勘三郎 | 宗光 | 某年某月23日 | ||||
高木刑部左衛門 | 道清入道 | 某年5月4日 |
推論だが、高城氏はもともと熊野社との関わりのある紀州の国人または御師で、鎌倉末期から室町期にかけて千葉宗家の被官となり、さらに原氏に付けられて原氏領の代官として下総北西部に移り、原氏の勢力拡大とともに高城氏の勢力も広がっていったのではなかろうか。
人名 | 死亡年月 | 場所 |
高城周防入道悲母・妙林尼 | 文明6(1474)年6月16日 | アヒコニテ |
高城六郎左衛門 | 文明7(1475)年閏7月28日 | |
高城安芸入道 | 文明8(1476)年3月7日 | 間橋 |
高城孫八 | 文明8(1476)年3月21日 | マハシ |
高城彦四郎 | 文明8(1476)年4月2日 | |
高城和泉守御内方・妙泉尼 | 文明8(1476)年10月17日 | |
高城彦四郎 | 永正10(1513)年1月9日 | |
高城周防守 | 永正11(1514)年7月27日 | |
高城和泉守 | 永正12(1515)年2月25日 | |
高城治部少輔 | 永正14(1517)年4月28日 |
高城氏は近隣の各地に勢力を拡大し、我孫子(我孫子市我孫子)、花野井(流山市花井)、馬橋(松戸市馬橋)、深井(流山市深井)にその支族が見える(各地の高城氏)。高城氏の一族は、文明年中、永正年中に死亡している人名が多く、東葛地方で大規模な戦闘があったことがうかがわれる。とくに永正年中、高城一族は『本土寺過去帳』に書かれているだけで4人が没しており、永正10年代に高城氏は戦乱の中にいたことがうかがえる。このころ、足利義明・真里谷武田氏が小弓城主原氏と戦っており、その余波であろう。さらに延徳5(1493)年9月13日、高城氏の重臣と思われる「田嶋左京亮」が没しているが(『本土寺過去帳』)、「其外諸人成等正覚」とあることから多くの人が亡くなっており、討死であろう。東葛地方の動乱は数十年にわたって続いていた様子がうかがわれる。
『千学集抜粋』中山原氏系譜によれば「原越後守胤房」の末子に「中山八郎太郎胤宜」という人物がおり、その嫡子に前述の「下野守胤タダ」がいて、次男に「治部少輔胤義」という人物が見える。さらに胤義の四男は「原九郎兵衛胤広」とある。この「下野守胤タダ」と芹澤氏へ書状を書いた「下野守胤忠」に関係があるかは不明。
下の系図は、『千学集抜粋』からみた中山原氏と、諸書からみた高城氏との比較である。同じような名前・官途名を持つ人物がいる(色別)うえ、中山(下総国八幡庄中山:市川市中山)と高城氏の関係から見て、「下野守胤忠」は「出雲守胤宜」の長男であったのかもしれないが、原胤宜の実在を裏付ける文書等は伝わっていない。
原胤房《1389-1479》――胤宜――+―胤タダ(胤忠?)
(越後守) (出雲守)|(下野守)
|
+―胤義――――胤広――――胤相―――――平左衛門―四郎右衛門
|(治部少輔)(九郎兵衛)(刑部左衛門)
|
+―胤次――――胤友
(石見守) (左衛門尉)
●高城家当主の各文書の比較
高城下野守胤忠(『高城家位牌』『芹澤家文書』) |
高城治部少輔(『本土寺過去帳』)…1517年、番匠面(三郷市番匠免?)で戦死。 |
高城治部少輔胤忠(『高城家世譜』『寛政重修諸家譜』) |
高城越前守胤広(『高城家世譜』 『高城家位牌』『寛政重修諸家譜』 ) |
●各地の高城氏の系図(『本土寺過去帳』の記述をもとにして作成)
高城氏 | 地域 |
高城周防守 | 我孫子高城氏…千葉県我孫子市 |
高城和泉守 | 我孫子高城氏…千葉県我孫子市 |
高城彦四郎 | 我孫子高城氏…千葉県我孫子市 |
高城六郎左衛門 | 花野井高城氏…千葉県流山市花井 |
栗沢高城氏 | 栗沢高城氏…千葉県松戸市栗ケ沢 |
馬橋高城氏 | 馬橋高城氏…千葉県松戸市馬橋 |
■:永正10年代に没している人々
妙林尼(1474.6.16)
∥
∥――――――――――高城周防守(1497.02.29)――■高城周防守殿(1514.07.27)
∥ 【雪叟入道光霊】 【実山宗真】
高城周防守?
高城和泉守――――――――■高城和泉守殿(1515.02.25)
∥ 【祖翁性高位】
妙泉尼(1476.10.17)
高城彦四郎(1476.04.02)―――■彦四郎殿(1513.01.09)
【春谷霊位】
+―高城六郎左衛門(1475.閏07.28)―――彦六(1492.06.17)
|
(?)
|
+―花井八郎左衛門―――――――――――鶴子童女(1479.11)
高城四郎右エ門清高(1437.06.19)――(?)――新右衛門(1490.閏07.19)―彦九郎
●マハシ高城氏系図:馬橋高城氏(『本土寺過去帳』)→高城孫八と木内下野守との関係
+―蓮上坊
|
+―高城孫八(1476.03.21)―(?)―高城安芸入道(1483.03.07)―高城安芸道友入道(1495.06.17)
永正14(1517)年4月28日、「高城治部少輔殿」が「番匠面ニテ被打 永正十四乙丑四月」とある(『本土寺過去帳』)。これが「治部少輔胤忠」ではないとしても、「高城治部少輔」という人物が実在し、下河辺庄内「番匠面」(埼玉県三郷市番匠免)で討死していることが伝わる。法名は玄東大居士。
高城胤忠花押 |
『芹沢文書』の「高城胤忠書状」は某年「卯月十七日」に「高城下野守 胤忠」が「芹澤殿」に宛てた文書である。この文書の年代は不明だが(一説に天文15年とあるが、根拠不明)、芹澤氏は行方郡芹澤村発祥の常陸大掾一族・多気氏の一族で医術が家伝の家柄であった。初代小金城主とされる胤忠が、はるかに離れた常陸国行方郡の芹澤氏と「抑御先代亡父ニハ蒙御懇切由申候」の間柄だったことが注目される。もし、この文書が天文15年であれば、実名不明の天文期の「高城下野守」(胤吉と記述されることが多い)の諱は「胤忠」だったことになる。
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高城胤広(????-1517?)
高城治部少輔胤忠の子(『高城胤次提出文書』『高城胤親提出文書』)。官途名は越前守(『高城胤次提出文書』『高城胤親提出文書』)。
高城氏の本拠・根木内城が築城されたのは永正5(1508)年とされていることから、胤広の代に築城されたことになる。
大永4(1524)年、「原次郎」の居城「上総国小弓城」に「真里谷三河守」が攻め寄せたため、その加勢として向い、大永7(1527)年、「足利左衛門佐」との合戦で討死したという(『高城胤親提出文書』)。これは幕府に提出された文書の記述で、『寛政重修諸家譜』とも一致する。
しかし、小弓合戦については当時の鶴岡八幡宮寺の相承院住僧・快元僧都が認めた日記に拠れば、永正14(1517)年10月の足利義明による小弓城攻撃のとき、「原二郎」とともに「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」とある(『快元僧都記』永正十四年十月十五日条)。この「高城越前守」が胤広とされ、越前守の子も討死を遂げた様子がうかがえる。この越前守の子は「左五右衛門」とも(『里見系図』)。
法名は玄安大居士。小金の菩提寺・広徳寺に葬られた(『高城胤親提出文書』)。
『快元僧都記』 | 原二郎の家郎・高城越前守父子は滅亡、同下野守は逐電 |
『里見系図』 | 原ガ家司小金城主高城越前守・同左五右衛門父子ヲ討チ、同下野守ヲ追ヒ落ス |
『寛政重修諸家譜』 | 越前守胤広 越前守 小金城主 大永7(1527)年 小弓合戦で原二郎胤栄を援けて戦死 |
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高城胤正(????-1517?)
高城越前守胤広の子(『高城胤親提出文書』)。官途名は不明(『高城胤親提出文書』)。
永正14(1517)年、足利義明による小弓城攻撃のとき、「原二郎」とともに「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」とあり(『快元僧都記』永正十四年十月十五日条)、小弓原氏の家老であった「高城越前守」父子が討死を遂げたとあることから、伝に従えば高城越前守胤広とその子・高城胤正が討死したことになる。
しかし、高城家の文書によれば、胤正の法名は「輝叟玄楊」となっているが(『高城胤次提出文書』)、『本土寺過去帳』によれば、この「輝叟玄楊」は「高城下野守当地頭 天文十五丙午四月」とあり、天文15(1546)年4月25日に没したことになっていることから、高城家の伝書と本土寺過去帳の記述は食い違うことになる。
永正18(1521)年3月27日、「畔蒜彦五郎、田嶋図書助、鈴木太郎右衛門 其外打死諸人出離生死」とあり、畔蒜(安蒜)氏、田嶋氏、鈴木氏はいずれも高城氏の重臣であることから、この頃も高城氏は合戦を繰り返していたことがわかる(『本土寺過去帳』)。
胤正についての具体的な活躍は伝わっていないが、天文15(1546)年4月25日に没した「高城下野守当地頭」は(『本土寺過去帳』)が胤正のこととすると、小弓合戦の後三十年にわたって小金領を支配。根木内から巨大城郭・大谷口城へ本拠を移したと思われる。
法名は輝叟玄楊。小金の菩提寺・広徳寺に葬られた(『高城胤親提出文書』)。
『快元僧都記』 | 原二郎の家郎・高城越前守父子は滅亡、同下野守は逐電 |
『胤次提出文書』 | 胤忠(玄東)・胤広(玄安)・胤正(玄楊)・下野守胤辰(玄心)・下野守胤時(玄酬) |
『里見系図』 | 原ガ家司小金城主高城越前守・同左五右衛門父子ヲ討チ、同下野守ヲ追ヒ落ス |
『本土寺過去帳』 | 輝叟玄楊 高城下野守当地頭 天文十五丙午四月(1546年)
玄心居士 伝昭 高城下野守 月庵 桂林尼同御内方 ※上記の二人はともに「高城下野守」だが、法名も異なり別人である。 |
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高城胤吉(????-1565)
高城胤正の子か? 官途は下野守。諱は「胤吉」と伝わるが実際は不明。
高城氏は天文19(1550)年11月23日に行われた妙見宮遷宮式で、原胤清の一門・家風の筆頭にあげられており、原氏の重要被官であったことがわかる。
黒印 |
諱を「胤吉」としているのは『八木原文書』のみであり、彼が署名した書状は確認されていない。「胤吉」と読める「黒印」が捺された書状は現存するが、この黒印は高城胤辰が用いたものである。
『芹沢文書』の「高城胤忠書状」は某年「卯月十七日」に「高城下野守 胤忠」が「芹澤殿」に宛てた文書であるが、この文書は天文15年とされている。その根拠は不明だが、芹澤氏は行方郡芹澤村発祥の常陸大掾一族・多気氏の一族である。胤忠がはるかに離れた常陸国行方郡の芹澤氏と「抑御先代亡父ニハ蒙御懇切由申候」の間柄だったことが注目される。もし、この文書が天文15年であれば、実名不明の天文期の「高城下野守」の諱は「胤忠」だったことになる。
『寛政譜』では「胤辰―胤時―胤則」とあるため、「胤辰」と「胤時」の諱を混同していることがわかる。また、「胤辰」の伝は胤吉のものである。高城家でも由緒書を幕府に提出した重胤の代には胤辰の父(重胤の曽祖父)については実名が伝わっていなかった様子がうかがわれ、「胤吉」という諱も、実名が不明な胤辰の父について、胤辰が用いた黒印から『八木原文書』を作成するときに作り出したものであろう。
永禄8(1565)年3月12日、亡くなった。法名は伝照玄心大居士。小金城下の菩提寺・広徳寺に葬られた。没年月日については、「胤辰」の伝として永禄8(1565)年2月12日ともされる(『寛政重修諸家譜』)。
胤吉の活躍も、正式には伝わっておらず、『本土寺過去帳』には永禄8(1565)年乙丑3月12日、「玄心居士 伝昭 高城下野守 同御内方 月庵 桂林尼」が記載されている。これは胤吉の妻・桂林尼(千葉介昌胤妹)のことで、嫡男の「胤辰」が建立した慶林寺に葬られた。
◆千葉・高城氏系譜◆
高城治部少輔―?―+―高城越前守
|
|
+―高城下野守―――高城下野守
(関相玄楊) (玄心伝昭居士)
∥――――――――高城下野守胤辰
∥ (関相玄酬居士)
千葉介勝胤―+―月庵桂林尼 ∥
(千葉介) | ∥
| ∥――――――――高城源次郎胤則
| 妙城尼 (庭室玄拍居士)
|
+―千葉介昌胤――――千葉介胤富――――千葉介邦胤
(千葉介) (千葉介) (千葉介)
**********************************
◎『八木原文書』をもとにした胤吉の伝承
永正3(1506)年、下野守胤吉は一族近臣百人を引き連れ、原氏の所領・小金栗ヶ沢へ移り、千葉氏代々の妙見社を奉って勧進し、匝瑳・海上・戸辺・新井・相馬・日暮・斉藤・渋谷・佐々・綿貫・和田・大井・梅澤・林・吉田・花島ら諸将から足軽に至るまでの家臣たちと主従の盟約を交わした。
根木内城址 |
永正5(1508)年で胤吉二十五歳の時、根木内城に一城を構えて移った。そして栗ヶ沢の金竜山広徳寺開基として大路和尚を招き、高城氏の菩提寺とした。また、根木内には栄秀法印を招き、真言宗寺院・遠矢山大勝院の開基とした。根木内城が完成したことで千葉介勝胤は大いに喜んで娘を高城胤吉に娶せて一族に列せさせ、その吹挙によって従五位下・朝散太夫に任じられた。
永正14(1517)年10月、足利義明によって、原氏の居城・小弓城が攻め落とされた。原氏の家老で胤吉の父・高城越前守と、胤吉の兄・高城大隅守胤朝は討死し、下野守胤吉は、小弓城が陥落したことを聞くと「もはやこれまで。父や兄と同地で死んで、九泉の下で倶せん」と敵陣に突入しようとしたが、家臣の安蒜日向守が「生きて仇を報ずるこそ孝行の第一」と諌めたため、敵陣の一方を破って臼井城へ逃れた。
金杉口遠望 |
享禄3(1530)年、胤吉は根木内城の西・二十余町にある交通に便利で、守りにも適した高台に新城を築くことを決め、阿彦丹後入道浄意に縄張りを命じて小金大谷口城を築城した。これを築いたとき、根木内にあった遠矢山大勝院を城の鬼門に移築し、菩提寺である金竜山広徳寺を栗ヶ沢から金杉村に移した。そして天文6(1537)年9月、大谷口城は完成し、その祝賀のために、佐倉城の義兄・千葉介昌胤が訪れた。
天文7(1538)年10月、足利晴氏・北条氏綱連合軍は、足利義明・里見義堯連合軍と下総国府台で激突した。第一次国府台合戦である。この戦いに、胤吉は父や兄の仇を報ずるべく、北条氏綱と結んで足利義明と合戦に及び、嫡男・治部少輔胤辰、二男・源六郎、一族の高城四郎右衛門・高木丹後守らとともに一族の仇を報じた。
永禄8(1567)年3月12日に没した。享年八十三。
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高城胤辰(1557?-1582)
父は高城下野守(玄心)。母は千葉介勝胤娘(月庵桂林尼)。官途名は下野守。千葉介昌胤の甥にあたる。「胤時」ともされる(『寛政重修諸家譜』『略譜』『諸家系譜』)。
◆千葉・高城氏系譜◆
高城胤吉
(下野守・玄心伝昭居士)
∥
∥―――――――――――高城胤辰
千葉介勝胤―+―月庵桂林尼 (下野守・関相玄酬居士)
(千葉介) | ∥
| ∥――――――――――高城胤則
| 妙城尼 (源二郎・庭室玄拍居士)
|
+―千葉介昌胤――――――――千葉介胤富―――――――千葉介邦胤
(千葉介) (千葉介) (千葉介)
本土寺 (1470年?) | 東漸寺 (1566年) |
高城氏には胤辰以前の発給文書はなく(年代は不詳”高城下野守胤忠”発給文書は現存)、それ以前の高城氏の歴史は『八木原文書』などの伝承にとどまる。
胤辰の代になってから書状が見られるようになり、その初見は永禄7(1566)年2月16日の、家臣・吉田氏に宛てた文書である。この書状にみられる花押は、文明2(1470)年5月朔日に本土寺に対して発給された「高城某」の書状の花押と完全に一致しており、本土寺に伝わる文明2年の発給文書は、何らかの理由によって文明二年の年季として胤辰から発給された文書ということになる。
●高城胤辰と諸勢力との関わり●
永禄4(1561)年正月ごろから始まる北条氏康と長尾景虎の争いでは、「関東幕注文」(景虎方に加わった諸将の名前が列記された文書)のなかの「下総衆」として「高成下野守 井気多ニ九よう」とみえ、北条氏から長尾氏に鞍替えしていることがわかる。この「高成下野守」は「胤辰」のことで「井気多ニ九よう」は高城氏の「井桁に九曜」の紋である。高城氏は井桁に橘、井桁に九曜など、井桁紋を基本としている。九曜紋は千葉氏との関わりの中で用い始めたと考えられ、高城氏のもともとの紋は井桁紋であったと推測される。
永禄4(1561)年、古河公方・足利義氏が大谷口城に御座所を一時的に移していることが氏康の書状にあることから、このころには高城氏は古河公方とも接触を持ちはじめたと思われる。
●船橋と高城氏の関わり●
舟橋大神宮 |
元亀2(1571)年11月26日、胤辰は船橋の大神社・船橋大神宮に対して判物を発給している。これは、船橋大神宮内に於いて騒動が度々起こっていたため、高城氏がその紛争をしずめるために裁判権者として介入することになったことを宣言し、裁判には禰宜を出頭させること、神社でみずから掟を作って互いに話し合い、紛争を自力で解決することを指示している。この書状の冒頭で、「舟橋天照大神宮、我々従先祖奉信仰候間」と、高城氏は舟橋大神宮を先祖から代々信仰していると強調している。
舟橋大神宮に対して「祈願」をしている人物として、文亀4(1504)年2月27日、「舟橋神主富殿」に対して「為末代祈願」の文書を発給している氏不明「胤縁」なる人物がいる。彼は「臼井・印西於両庄」の供物を寄進していることから、臼井・印西庄の支配権を持っていた人物と思われる。臼井氏の一族・大村氏に「胤縁」が見えるが、同一人物かどうかは不明。⇒【大村氏】
天正4(1576)年4月21日、胤辰は本土寺の新しい住持に対し、関係は以前と変わらないことを証する判物を発給している。
「千葉介後見 原豊前守」が天正5(1577)年3月16日に高野山御庵室に宛てた下総国の宿坊に関する文書のなかで、「栗原は臼井より高木家に付けられる旨これありといえども、猶旧例に違わずなり」とある(「原胤長判物」『戦国遺文』房総編一五九九)。つまり、高城氏は臼井(原氏のこと)から「栗原六ヶ郷」(船橋市本中山周辺)を与えられており、さらに、天正5年の時点でも、「栗原郷は高城氏に与えたとはいえ、以前と同じように宿坊を安堵する」というように、間接的に高城氏領に影響力を持っていたことがわかる。
天正10(1582)年12月16日に小金において亡くなった。享年二十六(『寛政重修諸家譜』の注釈)。法名は関相玄酬居士。小金広徳寺に葬られる。なお、「胤時」は天正14(1586)年に四十五歳で亡くなったとするが(『寛政重修諸家譜』『高城胤次覚』)、天正10(1582)年12月14日、北条氏直より「高城龍千世殿」へ宛てた「其方父下野一跡」の相続を認めた判物が残されており(『高城家所蔵文書』)、幼少の龍千世が継いでいることを考えると、天正10(1582)年12月16日前後に亡くなったとする伝は妥当だろう。
●永禄4(1561)年7月15日『北条氏康書状』
●元亀2(1571)年11月26日『高城胤辰判物』
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高城胤則(1571-1603)
高城下野守胤辰の嫡男。母は某氏(妙城尼)。幼名は辰千代。通称は源二郎。
天正10(1582)年12月、家督を相続した(『諸家系譜』)。12月14日、北条氏直より「高城龍千世殿」へ宛てた判物が遺されており、「其方父下野一跡」の相続を認めたものである(『高城家所蔵文書』)。「父下野」は高城下野守胤辰のことで、小田原北条氏の被官「他国衆」として、千葉氏や原氏から半ば独立した勢力となっていたことがうかがえる。
天正18(1590)年の小田原合戦では胤則は小田原城に詰め、居城の大谷口城は老臣・安蒜備前守や吉野縫殿助、平川若狭守らに任せていたという。そして大谷口城には豊臣方の浅野長吉(のちの浅野長政)・木村常陸介らの大軍が押し寄せ、城を取り囲んだ。北条氏の敗北が濃厚になると、胤則は大谷口城に使者を派遣して開城を命じ、大谷口城は浅野長吉らに接収された。開城した具体的な時期は不明だが、天正18(1590)年5月には大谷口城の北、馬橋万満寺に浅野長吉の制札が出されており、この頃に開城したのだろう。城の将兵はそれぞれ所縁の落ち、高城家は所領を失うこととなった。
広徳寺高城氏墓所 |
一報、小田原で豊臣方に降伏した胤則は、浅野長吉の仲介によって蒲生氏郷に預けられることとなり、信濃国に蟄居した。このとき、ともに蒲生家に預けられていた旧知の佐久間安政が、自分の従姉妹(柴田勝家養女)と胤則の間を取り持ったとみられ、婚姻関係となる。
その後、文禄5(1596)年3月、浅野長政(長吉改名)の斡旋によって豊臣家に仕官が許され、京都伏見に赴いたが、直後に病に倒れてしまう。さらに秀吉が慶長3(1598)年8月に病死してしまったことから、胤則は豊臣家に仕えることはなかった。
秀吉亡きあとは、旧知の加々爪氏を頼って徳川家康に仕官を申し出て家康もこれを認めたものの、ふたたび病に倒れ、慶長8(1603)年8月17日、伏見で亡くなった。享年三十三。法名は玄白。大谷口城下の金竜山広徳寺に葬られた。
胤則の死の三年前、慶長5(1600)年10月、胤則の母(妙城)が信濃国で没している。おそらく胤則とともに蒲生氏郷に預けられ、胤則が仕官のために上洛したときもそのまま信濃国に残っていたのだろう。
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高城重胤(1599-1659)
高城源次郎胤則の嫡男。母は柴田修理亮勝家養女。幼名は辰千代。通称は清右衛門。はじめ政次、のち胤次、胤重。妻は織田主水昌澄娘。
―高城氏略系図―
佐久間盛次 +―佐久間盛政 |
慶長4(1599)年、信濃国で誕生と伝わる。慶長8(1603)年8月に父・高城下野守胤則が亡くなったため、五歳で家督を継承した。おそらく徳川家に仕える元和2(1616)年までは、伯父の佐久間久右衛門安政が補佐していたと思われる。
佐久間安政は重胤の父・高城胤則とは小田原合戦でともに戦い、戦後は胤則同様、蒲生氏郷に預けられており、安政が従姉妹と胤則の間を取り持ったと考えられる。安政は弟・佐久間大膳亮勝之や甥の柴田三左衛門勝重とともに徳川家康に仕え、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに従軍して功績を挙げ、大坂の陣では自ら首級を捕る活躍を見せた。こうして元和元(1615)年、信濃国飯山藩三万石の藩主となる。
慶長10(1605)年7月、五歳の胤則から旧臣の吉野縫殿助に宛てて「官途状」が発給されている。その署名は「高城辰千代 政次」とあり、諱の「政次」は後見人の「佐久間安政」からの偏諱かもしれない。
十六歳になった元和2(1616)年、元服して「清右衛門胤次」と称し、飯山藩主・佐久間安政の推挙によって二代将軍・徳川秀忠に拝謁し、二百俵で召し出された。胤次は秀忠の妻・於江与(崇源院)の母・於市が嫁いだ柴田修理亮勝家の養女を母としており、胤次は於江与の義理の甥ということになる。また、勝家の甥・佐久間安政(於江与の義従兄弟)の推挙という点からも、柴田勝家の縁故による召抱えと思われる。
佐久間盛次 +―佐久間盛政
(久右衛門) |(玄蕃允)
∥ |
∥――――――+―佐久間安政
+―姉 |(備前守)
| |
| +―柴田勝政
| |(三左衛門)
| |
| +―柴田勝之
| (源六郎)
|
+―柴田勝家=====娘
(修理亮) ∥――――――高城胤次(重胤)
∥ 高城胤則 (清右衛門)
∥ (源次郎)
∥
於市―――――――於江与
(崇源院)
∥――――――徳川家光
徳川秀忠 (左大臣)
(太政大臣)
胤次はこの仕官のため幕府に「由緒書」を提出したが、その由緒書きには先祖を「藤原氏」とし「二階堂胤忠」を高城氏の祖としている(南家藤原氏二階堂氏説)。
●『寛政重修諸家譜』より
二階堂行政―…―二階堂胤行――高城胤忠―+―高城胤広
(民部大夫) (山城守) (治部少輔)|(越前)
|
+―高城胤辰―――高城胤時―――高城胤則
(下野:玄心)(下野:玄酬)(源次郎:玄柏)
元和4(1618)年12月、御書院番となり、寛永10(1633)年2月7日には采地として武蔵国賀美郡・下野国足利郡内に二百石を加増された。
高城家拝領屋敷の地図 |
寛永元(1624)年10月17日、旧臣家・吉田四郎左衛門に「官途状」を発給した。寛永5(1628)年12月5日、「高城主膳」が旧臣家・「成嶋大膳」に対して「受領状」を発給、慶安2(1650)年10月8日には旧臣家・「吉野庄五郎」に対して「縫殿介」の官途を与える「官途状」を発給している。主従の関係が解消されて半世紀以上過ぎているにも関わらず、旧臣家に「官途状」や「受領状」を発給する例は、帰農した千葉宗家、水戸藩士となった国分氏や井田氏、小山氏にも見ることができるが、中世からの伝統的主従関係は、習慣として継承されていたことがうかがわれる。
寛永9(1632)年に丹波福知山三万四千石を没収されていた稲葉淡路守紀通が慶安元(1648)年に自害。御書院番の重胤は8月27日、新見七右衛門正信とともに福知山に赴き、領内の監視にあたった。そして翌慶安2(1650)年、三河国刈谷藩主・松主殿頭平忠房が三万二千石で入封したため、城引渡役を務めたのち江戸に戻った。
慶安3(1651)年、目付に昇進、慶安4(1652)年8月16日、布衣を許された。同年11月21日、三百俵を下賜された。
万治元(1658)年8月28日、目付を辞して隠居。翌年の万治2(1659)年4月4日、五十九歳で没した。法名は日観。江戸芝の妙福寺に葬られた。
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高城貞胤(1645-1709)
高城清右衛門重胤の嫡男。通称は源三郎、清右衛門。実父は谷甚九郎衛利(丹波山家藩世子)。妻は高城清右衛門重胤娘。
重胤の嫡男・大助が早世し、その後に生まれた辰千代も早世。重胤は丹波山家藩世子・谷甚九郎衛利の次男・源三郎を娘と娶せて養嗣子に迎えた。万治2(1659)年12月25日、十五歳で家督を相続し、寛文3(1663)年11月19日、御書院番士に就任。寛文7(1667)年8月、御書院番を辞して、小普請になった。
元禄7(1694)年7月10日、隠居。宝永6(1709)年7月16日、六十五歳で没した。法名は日遁。
●江戸期の高城氏●
⇒高城重胤―+―娘 +―高城政胤 +―高城元胤 +―高城万之助
(清右衛門)| ∥ |(源三郎) |(権六郎) | 野沢義忠娘
| ∥ | | | ∥――――――高城胤親===高城胤蕃
| ∥――――+―高城清胤―――+―娘 |下曽根信一娘 ∥ (清右衛門) (孫次郎)
谷衛利――+=高城貞胤 (清右衛門) | ∥ | ∥――――――――高城胤清
(甚九郎) (清右衛門) | ∥ | ∥ (清右衛門)
| ∥ | ∥
| ∥―――――+―高城胤従―――――久保勝胤
伊勢貞良―――娘 | ∥ (清右衛門) (源左衛門)
(作十郎) ∥ | ∥
∥――――――+=高城胤精――――伴政胤
∥ (清右衛門) (九十郎)
伊勢貞数
(伊勢守)
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高城清胤(1665-1734)
高城清右衛門貞胤の次男。母は高城清右衛門重胤の娘。妻は朽木市左衛門元綱娘)。幼名は八之丞。通称は孫四郎、清右衛門。はじめ宗胤を称したが、おそらく将軍・徳川吉宗の諱と重なるため、清胤に改名したと思われる。兄の高城源三郎政胤が貞胤に先だって病死したため、嫡子とされた。
元禄7(1694)年7月10日、父・高城清右衛門貞胤の隠居にともなって家督相続。8月12日、将軍・徳川綱吉にはじめて謁見した。元禄10(1697)年3月18日、御書院番となり、7月26日、蔵米取を改めて下総国豊田郡に三百石を賜り、あわせて七百石となる。
宝永3(1706)年、信濃国上田城を松平伊賀守忠周に給うこととなり、5月15日、久永内記信豊とともに上田に向かい、城引渡しを勤めた。11月26日、江戸城西ノ丸詰となる。
享保元(1716)年7月18日、奥州筋の諸国御巡検を仰せ付けられた(『相馬藩世紀』)が、ふたたび享保2(1717)年2月28日、奥州筋の諸国御巡検を仰せ付けられている。おそらく、巡検使と決定していた御使番・曾我平次郎長祐の屋敷が正月に火災に遭ったため免除されたことによる再度の人選と思われる。
3月25日、有馬内膳純珍、小笠原三右衛門信重とともに奥州巡見使として江戸を出立。東北諸藩の巡見を行った。その道中の巡見記『奥州出羽松前巡見覚』が遺されている。麻布の屋敷を出立して千住を経由し、越谷、幸手、古河などを通って会津若松、二本松、山形、久保田、弘前、海を渡って北海道まで巡見を行っている。
帰途、浜通りを通って江戸に向って上ることになる。8月14日、「梨崎村」に立ち寄ったが、この地は「二階堂治部少輔古館在 高城先祖」とあり、8月25日、仙台の北、景勝地松島の近くの「高城本郷」を通過した際、この地は「古館高城外記山城之カミ館と云」とある(『奥州出羽松前巡見覚』)。「高城郡 先祖御家所」ともあり(『陸奥出羽並松前蝦夷巡見記並名所旧跡陸海道法細見』)、高城家では「二階堂治部少輔」は奥州梨崎村(宮城県栗原市金成梨崎)に住んでいた人物との伝があった様子がうかがわれる。
その後、松島の景勝を見て、石巻、角田、坂元、駒ヶ嶺を通って、9月1日に相馬中村藩領に入った。中村藩領へ入る際、仙台藩境の塚野邊村まで相馬中村藩の重臣、守屋八太夫真信、岡田又左衛門長保(郡代)、田村助右衛門、佐藤源右衛門(宇多郷代官)が出迎えに出ている(『尊胤朝臣御年譜』)。黒木村、小泉村を経て中村城下に到着すると、御一家・岡田靱負知胤、堀内玄蕃胤近の両名が出迎えた(『尊胤朝臣御年譜』)。相馬中村城下に入った際には、大町の本陣「市左衛門」宅に藩公「讃岐守(相馬讃岐守尊胤)」が挨拶に訪れている(『尊胤朝臣御年譜』『奥州出羽松前巡見覚』)。
9月2日、中村藩重臣・石川助左衛門昌弘が藩境・熊川宿までの案内を勤めることとなり、中村を発った一行は、原町で「野馬」を家中五百人が出て追う「妙剣大明神」の祭礼(野馬追)について記載している。高城家の祖地「小金原」が発祥という伝承のある相馬野馬追いだが、清胤はこの事についてとくに触れていない。
続いて9月3日の小高村では「小高村内妙見館相馬孫九郎重胤籠城」の跡を廻った。ここは、藩主のご休息所として利用されていると伝える。また、「西林山常光院」の「千葉妙見堂」も参詣している。小高村の西、小谷村(南相馬市小高区小谷妙見平)にあったと思われるこの妙見堂につき、清胤の従者は、
「千葉妙見堂南向二間四面、北斗星祭礼五月中申吉日、新田原エ讃岐守御出、有家中千五百騎陣装速ニテ出ル、妙見堂庭前杉林ノ内横廿五間立十五間有之、是ヘ野馬押籠五疋程取手綱ヲ付又放■ヨシ、尤具砌落馬セシ手杯ノ者、妙見ノ水呑セ早速本覆スル」
と紹介している(『陸奥出羽並松前蝦夷巡見記並名所旧跡陸海道法細見』)。
9月14日、先祖の地・小金に入った清胤は「御先祖高城下野守古城跡」にある「禅宗慶麟寺御先祖取立之寺」に立ち寄り参拝した。「子ギ内ト云處ニ家老屋鋪跡有」と伝があるため、当時、根木内に戦国期の高城家の家老屋敷跡というものが残っていた様子がうかがえる。
享保7(1722)年5月9日、御書院番組頭に進み、12月18日、布衣を許される。享保12(1727)年8月28日、六十三歳にも関わらず武官の御先手弓組頭に抜擢された。老練な清胤の手腕が買われたものか。
享保19(1734)年7月16日、七十歳で亡くなった。法名は行山。
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高城胤精(1697-1756)
高城清右衛門清胤の三男。実父は伊勢伊勢守貞敕。母は伊勢作十郎貞良娘。通称は頼母、孫四郎、清右衛門。号は石山。清胤の娘を娶って養嗣子となった。後妻として堀田源右衛門通右娘、次いで芦屋郡次郎利勝養女、次いで山村十郎右衛門良考娘を娶った。
実父・伊勢伊勢守貞敕の家は、室町幕府の政所執事を勤めた伊勢家の流れである。遠縁では駿河守護・今川家や小田原北条家にもつながる。伊勢家と高城家は、伊勢十太夫貞政の前妻が高城清右衛門重胤に嫁いだことから関係が始まっている。
【政所執事】
伊勢貞行―+―伊勢貞経――伊勢貞国―+―伊勢貞親―――伊勢貞宗――伊勢貞陸―+―伊勢貞忠
(伊勢守) |(伊勢守) (伊勢守) |(伊勢守) (伊勢守) (伊勢守) |(伊勢守)
| | |
| | |【小田原北条家親族】
| | +―伊勢貞運
| | |(備中守)
| | |
| | |【小田原北条家親族】
| | 今川義忠 +―伊勢貞明
| | (治部大輔) (備後守)
| | ∥
| +―娘 ∥―――――今川氏親―――今川義元――今川氏真
| ∥――――+―娘 (治部大輔) (治部大輔)(上総介)
| ∥ |
| ∥ |【小田原北条家】
| 伊勢盛定 +―伊勢盛時――北条氏綱―――北条氏康――北条氏政――北条氏直
| (備中守) (新九郎) (左京大夫) (左京大夫)(相模守) (左京大夫)
|
+―伊勢貞清――伊勢貞安―――伊勢貞弘―――伊勢貞光――伊勢貞末―――伊勢貞晴――伊勢貞政
(備前守) (上野介) (上野介) (上野介) (左京亮) (作十郎) (作十郎)
∥―――――伊勢貞利―+
織田信秀―+―織田信長 ∥ (十大夫) |
(備後守) |(右大臣) ∥ |
| ∥ |
+―織田信勝――織田昌澄――娘 |
|(勘十郎) (主水) ∥―――?―娘 |
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ |
+―市 高城重胤==高城貞胤 |
∥ (清右衛門)(清右衛門)|
∥ |
∥―――――督 |
浅井長政 (崇源院) |
(備前守) ∥―――――徳川家光 |
∥ (左大臣) |
徳川家康―――徳川秀忠 |
(太政大臣) (太政大臣) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―伊勢貞敕―+―伊勢供貞――伊勢貞恒―+=伊勢貞慶===伊勢貞正
(伊勢守) |(内蔵丞) (平八郎) |(平八郎) (十三郎)
| | ∥ ∥―――――伊勢貞一
| | ∥ ∥ (角之助)
| | ∥――――――娘
| +=娘
| ↑
+―高城胤精――高城胤従―+―娘
(清右衛門)(清右衛門)|
|
+―高城胤清―――高城胤親
(孫四郎) (清右衛門)
享保19(1734)年7月16日、10月9日、家督を相続。12月28日、はじめて将軍・徳川吉宗に謁見し、元文2(1737)年2月4日、御小姓組番士となる。
宝暦3(1753)年4月19日、御小姓組番士を辞し、宝暦5(1755)年9月6日、五十九歳で隠居する。
宝暦6(1756)年9月5日、亡くなった。享年六十。法名は霜山。
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高城胤従(1723-1779)
高城清右衛門胤精の嫡男。母は高城清右衛門清胤娘。幼名は八之丞。通称は頼母、孫四郎、清右衛門。のち清雲と号した(『諸家系譜』)。妻は堀三左衛門直達娘。後妻は下曾根三十郎信一娘。
兄の高城万之助は早世し、庶兄の九十郎政胤は伴善大夫政方の養子となっている。娘は従兄弟の伊勢平八郎貞恒の養女となっている。
享保8(1723)年生まれ。宝暦5(1755)年9月6日、父・高城清右衛門胤精の隠居にともなって、老中・本多伯耆守より家督相続の許しが伝えられ、小普請組石河主税組に入った(『諸家系譜』)。9月28日、将軍・徳川家重に謁見した。
宝暦6(1756)年4月10日、御小姓組大久保豊後守組に番入し(『諸家系譜』)、その後、岡野備中守組へ移る(『諸家系譜』)。安永5(1776)年4月、将軍・徳川家治の日光社参に扈従した。
安永8(1779)年2月10日、五十八歳で亡くなった。法名は玄妙。
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高城胤清(1753-????)
高城清右衛門胤従の嫡男。母は下曾根三十郎信一娘。妻は野沢半之丞義忠娘、のち川口能登守恒壽養女と再婚する。通称は八之丞、孫四郎。号は雪山。
宝暦3(1753)年8月22日生まれ(『諸家系譜』)。
安永8(1779)年5月6日、老中・板倉佐渡守より父・清右衛門胤従の遺跡を継ぐべきことが伝達され、小普請久保主水組に番入した(『諸家系譜』)。8月21日、はじめて将軍・徳川家治に拝謁。10月22日、御書院番戸田駿河守組に番入し(『諸家系譜』)、天明3(1783)年12月13日、酒井紀伊守組に移る(『諸家系譜』)。
天明4(1784)年9月、駿府在番を勤め(『諸家系譜』)、天明5(1785)年12月7日、進物役となった(『寛政重修諸家譜』)。
天明7(1787)年8月25日、御書院番松平下野守組に番入するが、寛政3(1791)年10月20日、病気につき小普請組への番入を願い出て、12月29日、願いの通り御書院番を病免され(『寛政重修諸家譜』『諸家系譜』)、小普請八木十三郎支配、さらに戸田内蔵助支配へ移り、寛政5(1793)年3月8日、病免されて隠居願いを提出(『諸家系譜』)。4月6日、阿部大学支配へ移され、8月9日、願いの通り隠居が許されて家督を子息・清右衛門胤親へ譲った(『諸家系譜』)。
寛政9(1797)年3月、剃髪して「雪山」と改めた(『諸家系譜』)。
庶兄の源左衛門勝胤は久保弥三郎吉勝の養子となった。娘は入戸野乙蔵門用の後妻となっている。
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高城胤親(1772-????)
高城孫四郎胤清の嫡男。母は野澤半之丞義忠娘。通称は孫之丞、清右衛門。妻は余語久賀直隆娘(『諸家系譜』)。
寛政5(1793)年8月9日、父・高城孫四郎胤清の隠居にともない、老中・松平伊豆守より胤親へ家督相続の許しが伝えられ、七百石の知行を相続した。8月11日、将軍・徳川家斉に初めて謁した。その後、小普請阿部大学組に入る。のち西丸御書院番士となる。
寛政11(1799)年5月22日、小普請組小笠原若狭守支配となる。
文政10(1827)年正月11日、書院番より御使番へ移り、天保4(1833)年6月2日、大坂御目付代となる。天保7(1836)年12月8日、御持筒頭まで進み、天保13(1842)年6月8日、将軍・徳川家慶の思召しにより、御役御免となった。時に胤親七十一歳だった。
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高城胤蕃(????-1858)
高城清右衛門胤親の養嗣子。実父は高城伊三郎。通称は孫次郎。
父の高城伊三郎は「西丸御書院番」を勤めた人物だったが、「部屋住に而病死仕候」とあることから(『明細短冊』)、家督者ではなかったことがわかる。世代から推測して先代・高城清右衛門胤親の弟と思われる。
安政2(1855)年、小普請大嶋組に入り、その三年後、安政5(1858)年に亡くなった。
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高城孫之丞(1834-????)
高城孫次郎胤蕃の子。母は不明。通称は孫之丞。
天保5(1834)年生まれ(『明細短冊』)。万延元(1860)年12月27日、「跡目被仰付旨」を老中・久世大和守より将軍の意向として伝えられ、正式に家督を継いだ(『明細短冊』)。
元治元(1864)年3月27日、御軍艦奉行支配から、御書院番五番組・平岡石見守組に配属された(『明細短冊』)。この年三十一歳(『明細短冊』)。
■幕末の旗本高城家知行高(『旧高旧領取調帳』)
国 | 郡 | 村 | 石高 | 現在地 |
下総国 | 豊田郡 | 三坂村 | 4.2435 | 茨城県常総市三坂町 |
小島村 | 70.8928 | 茨城県下妻市小島 | ||
古沢村 | 117.5797 | 茨城県下妻市古沢 | ||
柳原村 | 72.1630 | 茨城県下妻市柳原 | ||
福崎村 | 58.0970 | ? | ||
武蔵国 | 加美郡 | 八町河原村 | 103.1860 | 埼玉県児玉郡上里町八町河原 |
下野国 | 足利郡 | 上羽田村 | 110.5140 | 佐野市上羽田町 |
計 | 536.676 |
●高城氏の家臣●
安蒜・鈴木・田嶋・日暮・高木・高城・坂巻・染谷・平川・血脇・血矢・佐藤・高柳・座間・石戸・藤川・松丸・小野塚・成嶋・吉野・鶴岡・洞毛・阿孫子・匝瑳・田口・秋山・新井・藤谷・海上・戸邊・池田・梅澤・布施・花島・綿貫・斎藤・林・高橋・渋谷 |
●永禄7(1564)年1月2日の第二次国府台の合戦に参戦した高城氏の武士
高城和泉守胤吉 | 高城式部少輔胤辰 | 高城源六胤正 | 高城四郎右衛門 | 安蒜但馬守 | 田嶋兵部少輔 |
安蒜伊予守 | 安蒜備前守 | 血矢次郎右衛門 | 座間遠江守 | 鈴木新右衛門 | 田口因幡守 |
匝瑳牛五郎 | 吉野縫殿助 | 日暮又左衛門 | 秋山大学 | 新井郷左衛門 | 藤谷修理 |
海上隼人 | 戸邉靱負 | 池田雅楽助 | 梅澤兵庫 | 布施美作守 | 花嶋勘解由 |
斎藤大隅 | 林彈正左衛門 | ||||
都合で1000騎 |
●天正18(1590)年の小田原合戦で小田原城に詰めた高城氏の武士
高城源次郎胤則 | 高城筑前守胤正 | 高城播磨守胤知 | 田嶋刑部少輔時定 | 座間遠江守 | 安蒜兵庫 |
匝瑳出羽守 | 梅澤兵庫 | 海上隼人 | 林彈正左衛門 | 我孫子但馬守 | 布施美作守 |
花嶋勘解由 | 藤谷修理 | 新井郷左衛門 | 秋山久左衛門 | 秋山大学 | 吉田四郎左衛門 |
鈴木新右衛門 | 池田雅楽助 | 戸邉靱負 | |||
都合で500騎 |
●天正18(1590)年の小田原合戦で小金城を留守した高城氏の武士●
安蒜備前守 | 吉野縫殿助 | 平河若狭守 | 血矢次郎右衛門 | 日暮又左衛門 | 高橋次左衛門 |
都合200騎と兵卒300名 |