【大須賀氏について】
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●大須賀惣領家想像系図
千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介) (四郎) (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
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+─時朝──────宗朝──+
(次郎左衛門尉)(下総守)|
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+───────────────────────────────────────────────+
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+─宗時 +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎) |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
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+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
(越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)
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大須賀家6代当主。父は大須賀二郎左衛門尉時朝。母は不明。通称は太郎(『香取田所家蔵千葉系図断簡』)、孫次郎(『宝応寺蔵大須賀系図』)。官途は左衛門尉、下総守(下総前司)。
元徳3(1331)年、多田彦四郎が香取神宮と相論した際、「千葉駿河守範真」が書を「大須賀下総守・結城六郎入道」へ発給してその対応をさせたというが、文書を確認していないため不明。
幕府が滅んだ翌年の建武2(1335)年7月、最後の得宗高時入道の次男、相模二郎時行が挙兵して鎌倉に攻め寄せた。このとき鎌倉を守っていたのは足利尊氏の弟・足利直義であったが、彼は時行の軍勢に大敗して鎌倉から逃れた。その後、時行は鎌倉を占拠し、一時的に北条氏による鎌倉奪還が成功した(中先代の乱)。
この報告を京都で受けた足利尊氏は、弟直義の救援と鎌倉奪還のため、後醍醐天皇に鎌倉下向を希望するが、尊氏はこれを拒否した。そのため、尊氏は勅許を得ることなく、在京の諸大名に鎌倉奪還に従軍するよう指示し、多くの大名が尊氏に従って鎌倉に攻め下った。そして、8月17日の「筥根合戦」の葦河上で「凶徒大将三浦若狭判官」の軍勢に先駆けをして高名を挙げた「大須賀左衛門尉」が見えるが、時代から見て宗朝か(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)。
また、8月19日の辻堂、片瀬原合戦で清見関の足利方に降伏してきた人物として、千葉一族では「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」「海上筑後前司」が見える(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)。
| 千葉二郎左衛門尉 | 千葉二郎左衛門尉胤朝 | 元徳2(1330)年に「殺害の咎に依」って所領を没収された | 神崎流千葉氏 |
| 大須賀四郎左衛門尉 | 大須賀四郎左衛門尉宗常? 大須賀四郎左衛門尉胤連? |
元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄に関する書状 ──────────────────────── |
大須賀氏 |
| 海上筑後前司 | 海上筑後守師胤 | 海上氏 |
元亨元(1321)年12月7日には「大須賀四郎左衛門尉宗常」が陸奥国好嶋庄の一方地頭であったが(『飯野文書』:『福島県史』資料編中世所収)、このときに降伏した「大須賀四郎左衛門尉」と同一人物であるとすればかなりの高齢となるため不明。ただし、大須賀氏が新政府方と中先代方に分かれていた事が察せられる。
●建武2(1335)年『足利宰相関東下向宿次合戦注文』(『神奈川県史』所収)
康永3(1344)年2月9日、 足利家執事の高武蔵守師直は、千葉介氏胤に対して香取社の末社造営を早く進めるよう、「大須賀下総前司相具令催促」すべきことを命じている。
宗朝は観応2(1351)年4月3日に亡くなったとされるが疑問。康永4(1345)年の『造営所役注文』には「一宇 北庁 大須賀保役所」として「地頭大須賀下総前司入道跡」と見え、「跡」とあることから、すでに宗時・宗信ら子息等に所領は継承されており、宗朝は康永4(1345)年にはすでに亡くなっていたのだろう。法名は大清院殿禪曜信宗大居士。
■大須賀家想像略系図■
大須賀胤信──通信──────朝氏───+─宗胤
(四郎) (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
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+─時朝──────宗朝──+─宗時
(次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
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+─宗信───憲宗
(越後守)(左馬助)
元亨元(1321)年12月7日、好嶋荘八幡宮の供僧職に関わる相論へ対する『関東下知状』に、一族の「大須賀四郎左衛門尉宗常」が陸奥国好嶋荘一方預所であったことが記されている。好嶋荘は承元元(1208)年に大須賀胤信が東西に二分し、長男・通信に東荘二郷(大野郷・紙谷郷)を、四男・小四郎胤村へは西荘一郷を分与する。
〔好嶋東庄預所〕
大須賀胤信─+─通信─────+─胤氏───────朝氏─────+─宗胤
(四郎) |(太郎左衛門尉)|(左衛門尉) (左衛門尉) |(太郎)
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| | +─時朝──────宗朝──+─宗時
| | (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
| |〔好嶋東庄預所〕 |
| +─信康───────宗常 +─宗信───憲宗
| (五郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (越後守)(左馬助)
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+─多部田胤秀────時綱───────胤連
|(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
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|〔好嶋西庄預所〕
+─荒見胤村─────朝胤─────+─朝村
(小四郎) (太郎) |(又太郎)
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+─泰胤
(孫四郎)
西荘預所はそれからわずか三年後の建暦元(1211)年には小四郎胤村の手を離れて三浦義村が有するようになる。胤村の弟・七郎重信と八郎範胤はいずれも義村の「家子」となっており、また胤村の「村」が義村から受けているとすれば、胤村は義村烏帽子子と考えられ、大須賀一族と三浦氏との間には深い関わりが見えてくる。
西荘預所職はその後、義村の子・三浦資村へ継承されたが、宝治元(1247)年の宝治合戦で三浦一族が滅んだ後は、北条義時の義兄・伊賀式部丞光宗へ与えられ、伊賀氏が継承していく。
好嶋東庄のうち「陸奥国好嶋荘紙谷郷」は、胤氏が「神四郎法師了義」へ沽却した「大須賀保内毛成・草毛両村」の替地として弘長3(1264)年、神四郎法師了義へ改めて与えている。この契約以前に胤氏が両村を「本間四郎左衛門尉」に二十年を限って質入していた事実が発覚し、これを知った法師了義が異議を申し立てたための措置だった。
しかし、約束の二十年が過ぎると、本間四郎左衛門尉は、毛成村を大須賀家にではなく胤氏が沽却した相手・了義へ返却した。了義はすでに替地として「紙谷郷」をもらっていたにも関わらず、両村を大須賀家へ戻すことをせず、自らの所領として正応2(1289)年、毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)。このことがきっかけで、宗朝の父・時朝は、延慶元(1308)年、円覚寺を相手に所領返還の訴訟を起こしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで続く。
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| 飯野八幡宮 |
元亨元(1321)年12月7日の『関東下知状』によれば、好嶋庄八幡宮は自ら供僧職を定め置く権限を持っていたことは、好嶋庄預所・千葉介常胤が建久3(1192)年8月3日に八幡宮に出した奉書によって明らかであるにも関わらず、「預所(好嶋西庄)」の伊賀前司頼泰は(おそらく供僧職の任免を巡ってトラブルがあり)八幡宮に乱入して家人を追い出した上、資財もすべて略奪したと主張した。一方、今は亡き伊賀前司頼泰の子・伊賀次郎左衛門尉光貞の代官「義直」は、「千葉介常胤発給の建久状は偽物である」と決めつけたうえ、供僧職を任命するのは預所の権限だと主張した。しかし、八幡宮の僧(と思われる)行勝と、東荘預所・大須賀四郎左衛門尉宗常は「常胤の建久状は本物である」と訴えた。
こうして10月29日、幕府問注所において預所伊賀氏と八幡宮の裁判が執り行われた結果、八幡宮の源俊等を「濫訴」として預所伊賀氏の訴えが認められることになった。勝訴した伊賀氏は北条得宗家の家人であり、北条得宗家の後押しがあったと考えられる。
康永3(1344)年4月19日、奥州探題・石塔義房入道秀慶が「対治凶徒天下泰平家門繁衍昌」のために「陸奥国岩城郡飯野八幡宮」に「同郡中平窪村三田彦四郎入道跡」を寄進しているが、これについて「海道七郡検断職」である相馬出羽権守親胤は4月26日、27日の両日にわたって伊賀三郎左衛門尉盛光の代官に三田彦四郎入道跡の打渡状を発給している(『相馬親胤打渡状』)。伊賀氏と八幡宮が争論した「好嶋庄八幡宮」は「岩城郡飯野八幡宮」のことであることから、伊賀氏はこの相論から20年後、鎌倉幕府が滅んだ後もまだ同地を支配していたことがわかる。
| 書名 | 生年 | 没年 | 通称 | 法名 |
| 『宝応寺過去帳』 | 観応2(1351)年 | 下総前司 | 大清院殿 禪曜信宗大居士 | |
| 『寶應寺大須賀系図』 | 下総前司 | 信宗 | ||
| 『大須賀家蔵系図』 | 19歳 | 無官 | 善信居士 |
●元亨元(1321)年12月7日「関東下知状」(『陸奥飯野文書』:『千葉県史料』所収)
●康永4(1345)年「造営所役注文」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)
●応永3年4月26日『出羽権守親胤打渡状』(『飯野八幡社古文書』:『大日本史料』所収)