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千田瀧楠 (?-?) |
千葉胤清 (?-?) |
日音 (?-?) |
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千葉俊胤 (1419-1430) |
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千葉政胤 (????-1455) |
千葉胤将 (?-?) |
日住 (?-?) |
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千田瀧楠(????-????)
『金沢文庫古文書』に「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」とあり(『金沢文庫古文書』紙背文書)、千田孫太郎胤平の嫡男と思われる。「瀧楠」が実名か法名かは不明。
父・千田孫太郎胤平の死後、叔父・千田大隅守胤継(胤平弟)が千田千葉氏の惣領となっていたため、不満を抱いた「千田孫太郎殿子息瀧楠」が「千葉介殿と一味同心」して千田庄内の大島城(千葉県香取郡多古町船越)を攻める企てをした(『某書状断簡』)。このとき、千田庄内の千葉介家臣の竹元氏・岩部氏が、瀧楠に「定合力仕候」というように、千葉介が瀧楠に合力を約束して千田胤継の勢力を千田庄から追い出そうと謀っていた。竹元氏は「(某年某月)二十一日、千田庄大原城に入り、軍勢を集めているが、いまだ大きな戦いにはなっていない」という内容が読みとれる。その後の「瀧楠殿」がどうなったのかは資料にない。
しかし、千葉氏の諸系譜にも他の文書にも「瀧楠」という名を見ることはできない。『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代が並べられているが、「直胤・胤直」の継承は文書では確認できない。
なお、ここに見える「高胤」は某年8月13日に「肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町」を「中山殿(下総国八幡庄中山本妙寺の日祐上人か)」に進上した「平高胤」のことで、胤平の兄にあたる人物と思われる。
ただし、胤貞から高胤に対しての譲状はなく、高胤は早世したのであろう。一方、胤平は建武元(1334)年12月1日、父・胤貞から譲状をもって所領を継承している。しかしその後の胤平の活躍は見られず、『岩蔵寺過去帳』の胤平のあとにみえる「直胤」「胤直」についても活躍はない。
「胤直」のあとの「■継」は「胤継」のことと考えられ、そのあとの「胤泰」の甥にあたる(胤泰は胤貞弟で養子となった)。このうち「胤継」が胤貞の家督を継ぎ、下総国千田庄の千田千葉氏の祖となり、「胤泰」は九州にとどまって肥前千葉氏の祖となった。胤継は、観応元(1350)年7月11日、下総国千田庄内の土地を中山本妙寺(のちの法華経寺)に寄進しており、このころには胤継が千田庄の領主であったと考えられる。
◇『岩蔵寺過去帳』・『某書状断簡』・『千葉胤貞譲状』をもとにした想像系図
⇒千葉新介宗胤―+―胤貞――――+=日祐 +―直胤
∥ |(大隈守) |(本妙寺貫主)|
∥ | | |
明恵 +―胤泰 +―胤平――――+―胤直
(刑部大輔) |(孫太郎) (=瀧楠?)
|
+―高胤――――――胤親―――→《千田原氏》
|(原四郎?) (式部少輔)
|
+―胤継――――――胤氏―――→《千田千葉氏》
|(大隈守)
|
+=胤泰――――――胤基―――→《肥前千葉氏》
(刑部大輔) (右京大夫)
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千葉胤清(????-????)
肥前千葉氏の一族。官途名は右京大夫。下総千田庄の千葉胤清と同一人物か? もしくは同時代の千葉右京大夫胤基と同一人物か。
正平14(1359)年7月、征西将軍宮・懐良親王率いる南朝の大軍が大宰府に押し寄せた。このときの大宰府の前少弐武藤頼尚は諸将を率いてこれに対抗した。その交名の中に「千葉右京大夫胤清」の名が見える。また、懐良親王の麾下には「千葉刑部大輔」がおり、これは当時、南朝に荷担していたとみられる胤泰のことか?
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尼日音(????-????)
千葉胤泰の娘。
初代九州探題として九州に下向した今川了俊の弟・今川仲秋の妻となり、今川貞秋・国秋を産んだ。国秋の子孫は持永氏を称し、龍造寺氏の家臣となったのち、鍋島氏の家臣となった。
→千葉胤泰――日音 +―貞秋
∥ |
∥―――+―国秋
+―今川仲秋
|
+―今川貞世
(今川了俊)
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尼日光(????-????)
十代・千葉介胤朝の娘。晴気千葉氏を支えた女性。実名は不明。
文明18(1486)年10月3日の夜、父・胤朝は叔父の胤将によって「国府(牛頭山か)」において暗殺された。この報を得た少弐政資は、騒乱を惹起した「彼悪党次郎胤将以下の輩誅罰すべし」と激怒するが、胤将や同類はすでに逐電し、胤将与党は散々に消えていた。少弐政資は千葉家断絶を嘆き、12月3日に胤朝娘と自らの弟(千葉肥前守胤資)を娶わせ、胤朝の跡を継がせた(『九州治乱記』)。実は胤朝にはかつて惣領職を争った胤盛という弟がおり、この暴挙ともいえる少弐氏の介入に激怒。胤盛は「兄討死之後赴于中国頼大内介」と、大内氏を頼って長門国へと落ちていった。
その後、胤盛は大内義興に属して、明応6(1497)年正月、大内義興が筑前に攻め入って少弐勢を駆逐すると、同月23日、「平胤盛」は「河上山唯真坊律師」に対して「河上社座主職」と「往古神領」である佐嘉郡内の社領を安堵した。胤盛が大内勢とともに九州へ攻め入り、少弐政資・高経親子を追って肥前国へ侵攻したものと思われる。
同年4月8日、少弐政資は大内勢に敗れて、胤朝娘の夫で弟の千葉胤資の居城・晴気城に迎え入れられる。ところが4月13日、従兄弟にあたる千葉興常(胤盛の子)が大内勢として晴気城に攻め寄せると、兄・政資の身を案じた夫・胤資は、政資に多久梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資は晴気城から多久へと移った。しかし、翌19日にはすでに政資が多久に逃れた報が大内義興に届いており、義興は軍勢を梶峯城へ派遣している。
そして19日夜半、政資は梶峯城下の泉称寺で自刃。弟・少弐高経は晴気から別行動をとっていたが、こちらも21日に市ノ川の山中で自害した。そして、晴気城に残って大内氏を迎え撃った夫・千葉胤資も19日、決死の出撃をして討死した。享年二十四。
胤朝娘は、晴気落城前に夫・千葉胤資によって嫡男・胤治とともに晴気城から脱出しており、難を逃れることができた。その後、出家して尼日光と号したと思われる。なお、嫡男・胤治は文明18(1486)年生まれだが、胤資が千葉家に入った年が文明18(1486)年12月であることや、当時、夫の胤資がまだ十三才であることから、胤治は胤資の実子ではないこととなる。尼日光の連れ子の可能性もあるが、彼女も胤資とさほど年齢が変わらないとすれば、十代前半での出産となるため現実的ではない。胤治も養子ではなかろうか。
胤資亡き後、十二歳の胤治を擁する晴気千葉氏は存亡の危機を迎える。この危機に、尼日光はみずから晴気千葉氏を継ぐ形で晴気千葉氏を支えたと思われる。
その後、大内勢が大友氏との戦いに敗れて主力が豊前国から長門国に引き揚げるのを見届けると、身を隠していた尼日光、胤治らは晴気城の南東にあった小城郡甕調郷(小城市三日月町)の高田館に入った。
しかし、翌明応7(1498)年2月24日、大内方の筑紫満門・東尚盛らが高田館に攻め寄せたため、尼日光、胤治らは城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに援けを求め、これに応じた龍造寺豊前守胤家が、援兵に反対する弟の龍造寺家和を振り切り、夜陰に紛れて成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行し、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、晴気千葉家の胤治(少弐方)と敵対する牛頭山城の千葉興常(大内方)が筑紫・東の援軍として駆けつけてきたため、晴気千葉・龍造寺勢は敗れ、尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃れていく。こうして祇園山城に居した惣領家の千葉介興常が大内義興の後援のもと肥前国守護代となる。
筑前へ逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(大宰府官吏)のもとで肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡みやき町)城主・横岳兵庫頭資貞に養育されていた少弐政資の遺児・少弐資元が大友頼治の後援を得て挙兵した。この騒動の中、龍造寺胤家も肥前に戻り、弟・龍造寺家和に迎えられて大財端城に入城した。尼日光たちも同道したのかもしれない。
少弐資元は勢いに乗じて大内方の神埼郡勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに晴気千葉氏と龍造寺氏の力を借りて九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて、筑後国へ放逐した。その後、資元は白虎山城に重臣・馬場頼経を入れて守らせ、尼日光らは高田館へ戻った。しかし、永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らに攻められて、尼日光らは再び高田館を捨てて龍造寺氏を頼る。
少弐貞頼―+―少弐満貞――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経
|(太宰少弐)(太宰少弐)|(大宰少弐)|(大宰少弐)
| | |
| +―千葉胤資 +―少弐資元―――少弐冬尚
| (肥前守) (肥前守) (大宰少弐)
| ∥
| 千葉介胤朝―+―明胤―――+=千葉介胤繁
| |(尼日光) |(千葉介)
| | |
| +=千葉胤治 +=千葉介胤勝――千葉介胤連
| (満童丸) (千葉介)
|
+―横岳頼房――横岳資貞―+―横岳資誠
(孫次郎) (兵庫頭) |(讃岐守)
|
+―千葉介胤勝
(満童丸)
ところが、永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することになり、義尹の命によって義興と少弐資元は和睦した。さらに資元は肥前守に任じられ、尼日光らも晴気への帰還が許されたという。同年6月14日、千葉胤繁が「持永大蔵丞」に対して「舊地今河領小城郡大楊、乙牟礼廿四町」を「今度差戻」ので、ますます忠貞を尽くすべきとの書状を与えており、帰還に及んで、尼日光の養子・千葉胤繁が晴気千葉氏の家督を継承した可能性があろう。
こうして、永正5(1508)年6月、大内義興は足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からは横岳資誠、龍造寺家和らが将軍家の供奉として従った。この前将軍・義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹はふたたび将軍に返り咲いた。義尹はその後、名を義稙と改める。
このような中、永正7(1510)年3月13日、尼日光の子・千葉胤治が高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、当主で義弟の千葉胤繁との間での討死の可能性もあろう。さらに翌永正8(1511)年9月には、胤繁もまた十八歳の若さで卒している。その後、尼日光(胤朝娘、胤資室)は横岳兵庫頭資貞の子・満童丸(胤勝)を養子に迎え、晴気千葉家はこの胤勝を当主として続くことになる。ただし、千葉氏の重臣である原氏・円城寺氏らは、胤勝の系統の千葉氏を「横岳千葉」と呼び、その下知に従わずに離れていったという。
尼日光の没年は不明。法名は明胤。
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千葉俊胤(1419-1430)
千葉介胤鎮の嫡男。
永享2(1430)年8月、十二歳で病死した。
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千葉胤氏(????-????)
文明元(1469)年6月、兄の千葉介教胤と大村家親との戦いに従軍し、彼杵郡に向かって出陣したものの、大町江(杵島郡大町町)で嵐におそわれ、船が転覆。兄・教胤は溺死してしまった。胤氏は無事帰り着いたものの、敵対関係にあった叔父・千葉胤紹の系統から出た千葉胤朝が当主となり、胤氏の子・義胤は「徳嶋」を称して千葉氏の家臣となった。義胤の子としては「徳嶋胤秀」が見られる系図もある。
永禄6(1563)年3月、島原半島の名将・有馬晴純は龍造寺隆信・千葉介胤連との戦いで杵島郡まで攻め寄せた。千葉介胤連はただちに龍造寺隆信と連絡をとり、配下の鴨打胤忠(陸奥守)・徳島胤時(甲斐守)・持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠まで出陣した。
さらに天正4(1576)年、龍造寺隆信は、鍋島信房・信生兄弟をはじめ、犬塚鎮家、徳島信盛、横岳家実を率いて宿敵・有馬氏の東肥前の前線基地である藤津郡横造城を攻め落とした。攻めとった横造城は鍋島信房(鍋島直茂の兄)が守将となり、徳島信盛は藤津郡松丘城主となった。
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千葉政胤(????-1455)
文安2(1455)年8月17日に父・千葉胤紹とともに伯父・千葉介胤鎮に討たれた。
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千葉胤将(????-????)
八代・千葉介胤紹の四男。通称は次郎。十一代当主・千葉介胤朝の弟。
幼少時に佐嘉郡妙法院で出家していたが、千葉介胤朝と仲違いした家老・岩部常楽に擁立されて文明2(1470)年10月19日に還俗し、「胤将」を称した。その後は少弐政資の援けを得ながら、岩部軍の旗印として胤朝と戦火を交えた。そして胤将はついに胤朝を牛頭山城に追い込んだが、九州の戦乱を心配した将軍・足利義政が少弐政資に千葉家内訌を鎮めるよう命じ、政資から胤朝・胤将に停戦を命じたことから、やむなく胤将は胤朝と和睦し、城攻めは中止された。
しかし、12月には和睦を一方的に破った胤朝に攻められ、宗貞国とともに筑前国の山岳伝いに大宰府へ逃れて行った。胤将は怒って少弐政資に胤朝追討を請うが、政資は幕命を盾にこれを認めなかった。
これ以降、胤将はしばらく雌伏するが、文明18(1486)年10月3日、刺客を放って胤朝を暗殺した。この報を受けた少弐政資は激怒し、12月23日、胤将を謀反人として追討の兵を差し向けたが、いち早くこれを察知していた胤将はすでに大宰府から姿を消し、配下の諸将もこつぜんと姿を消した。以降の消息は不明。
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千葉胤誠女(????-????)
小城千葉氏十七代当主・千葉胤誠の一人娘。神代大炊助長良の養女。佐野右京亮茂美、のち佐野右衛門茂久の妻となるが、離別した。神代伯耆守常親は義姉にあたる姫を「千葉姉様」と呼んでいる。
父・千葉胤誠は永禄2(1559)年、父・胤頼が討死を遂げると、家臣たちに護られて城を脱出し、川久保領主・神代大和守勝利を頼って落ち延びた。そして、文禄2(1593)年9月13日、胤誠が川久保で亡くなると、神代大炊助長良の「養子」として引き取られ、鍋島直茂の計らいによって、佐野右京亮茂美(龍造寺隆信孫)へ「合宿」することとなった。しかし、男女とも子が無いままに元和5(1619)年5月28日に茂美が死去。「彼姫右京方へ縁深之儀」を察した藩侯・鍋島勝茂の命により、十三歳で佐野家名跡を継承した「佐野右衛門(茂久。鍋島和泉守忠茂三男)方内儀」となった。しかし十五歳以上の年の差があったためか「煩差出候」につき離別。神代伯耆守常親が引き取って、常親の母(神代長良娘)と同居させ、常親は姫を「姉分」として敬っている(『神代家文書』)。常親との年の差は七~八歳程度と推測される。
「千葉姉様」は父の胤誠から、神代家から「千葉胤頼御屋形様」へ宛てられた起請文ほか所領等にかかわる文書十四通を受け継いでおり、「千葉姉様」を保育した小柳自鑑が預かり、子孫と思われる「小柳源次兵衛」まで受け継がれていたようである。元禄4(1691)年4月25日、神代直利は小柳源次兵衛にこれらの文書を陣内神兵衛に受け取るよう命じ、中島二右衛門へ納めている。
「千葉姉様」は寛文元(1661)年7月に亡くなり、父・胤誠と同じ屋形山に葬られた。法名は眞如院殿妙光日住大姉。「姉様」に仕えていた平田左馬助胤家ら千葉家旧臣たちはそのまま川久保神代家の家臣となっている。