(1304?-1371?)
郡上東氏庶家二代。『故左金吾兼野州太守平公墳記』によれば東下総守氏村の子。官途は中務丞、下野守。
●『故左金吾兼野州太守平公墳記』『円覚寺蔵大般若経刊記』を基本とした想像系譜
+―行氏―――時常―――貞常―――素[舟光]====益之
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東胤行―+―氏村―――常顕―+―師氏―+―泰村
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+―常長 +―江西派公
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+―益之――――正宗龍統
後醍醐天皇(大覚寺統)による「建武の新政」は武士と貴族との軋轢や訴訟関係の停滞等から、次第に武士のみならず貴族からも失望され、北条氏の遺臣たちによる中先代の乱をきっかけに、足利尊氏を首領とする派閥と朝廷方の対立の構図が生まれてしまう。尊氏は後醍醐天皇(大覚寺統)と対立する皇統・持明院統の光厳上皇の院宣を奉じて朝廷に対抗した。
常顕は建武3(1336)年8月には、足利方の土岐頼春に属して弾正尹宮と戦っている。この一連の戦いに関する文書が建武3(1336)年9月26日『鷲見忠保軍忠状』に残されている。郡上郡の豪族・鷲見藤三郎忠保が9月3日の合戦で「飛騨殿」に属して戦い、24日には八代城内に攻め入って首を一つ獲った上、一族の林孫三郎が右手と首に負傷するほどの働きを見せたことを「軍忠状」として奉行所に提出した。その際、ともに戦い、自分の働きを知っている人物として「東中務丞」「佐竹太夫」の名を挙げている。
貞和元(1345)年8月の足利尊氏の天竜寺供養の際には、一族の粟飯原下総守清胤とともに先陣をつとめた。また、観応2(1351)年1月、千葉介貞胤が没して嫡男・千葉介氏胤が千葉介を継承したが、彼はまだ十五歳と若かったため、常顕は他の一族とともに後見をつとめたという。とくに氏胤は常顕の影響を受けたか「素英」と号した歌人でもあり、『新千載和歌集』に歌が掲載されている。常顕自身も勅撰集の『新續古今和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』に計七首が選ばれている。
延文3(1358)年12月に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資した人物名として「東下野八郎平常長」の名が見える(貫達人「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」/『金沢文庫研究』)。その通称から、東常長は下野守常顕の八郎と思われる。
建徳2(1371)年6月11日、六十八歳で亡くなったという。また、別説に応永元(1394)年10月3日没ともいう。号は伍阿弥陀仏。法名は劉瑜院済慰常閑。
●建武3(1336)年9月26日『鷲見忠保軍忠状』(『長善寺文書』:『岐阜県史』史料編 古代・中世一所収)
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※暦応2(1339)年12月18日、「東有義」が発給した「美濃国君城郡(郡上郡)山田庄内阿多木名郷」の年貢に関しての寄進状が残されている。この「東有義」がいかなる系統に属する東氏かはわからないが、「義」を通字とする東義行系の一族(上代東氏。下総・上総に所領を有した)が知られ、同年頃の東胤義(弥六)・重義(七郎)の兄弟が武蔵国称名寺と下総の寺領などをめぐって争いを起こしている。有義の名は上代東氏の系譜には見られないが、胤行が山田庄の地頭職を賜っていることから、四男・義行にも山田庄内に土地が譲られた可能性もある。
●暦応2(1339)年12月18日『東有義寄進状』(『楓軒文書纂』:『岐阜県史』中世編4所収)