千葉胤平(????-1335?)
小城千葉氏四代。千葉大隅守胤貞の二男。通称は孫太郎。鎌倉時代末期、兄の高胤が肥前小城郡の地頭職を継承したが、おそらく早世したため弟・胤平が嫡子とされたと思われる。
『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国に関する古文書によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代が記載されている。
建武元(1334)年12月1日、胤貞から小城郡・下総千田八幡の所領を譲渡された(建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』:『中山法華経寺文書』)。 同年9月27日、胤貞は後醍醐天皇の加茂神社行幸に際して隨兵を勤めていることから、当時、胤貞は京都にあったものと思われるが、10月の護良親王の捕縛など世情の混乱が大きくなってきたことから、「そうりやう職」を「嫡子」の「孫太郎胤平」に永代譲り渡したと思われる。胤平がこの当時どこにいたのかは不明だが、胤貞は正安3(1301)年頃から鎌倉在であって、おそらく胤平自身も鎌倉または千田庄で成長したものと思われる。
建武2(1335)年8月2日、足利尊氏が「中先代の乱(北条氏の与党による挙兵)」を鎮圧するために京都から鎌倉へ下った際、父の胤貞もこれに加わって鎌倉へ下向。8月9日の遠江国橋本の合戦で、「千田太郎、安保丹後権守等両人懸先高名之間、則浴恩賞了」(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)と、先駆けして高名を挙げている。
ところが、尊氏は中先代軍から鎌倉を奪還しても京都に戻らず、さらに帰還の勅命を無視して居座ったため、謀反人として追討されることとなり、11月、新田義貞を総大将とする尊氏追討軍が鎌倉に派遣された。胤貞と対立していた千葉介貞胤は、尊氏に従わず京都に残っており、朝廷方として行動していた。この両者の対立は建武2(1335)年中に貞胤の「守護使」が胤貞の所領である千田庄に乱入している。『戒本見聞集』によれば、千田庄土橋(香取郡多古町)の東禅寺で行われていた講義の最中、にわかに守護使が乱入したという。
12月、新田義貞を箱根竹之下に打ち破った尊氏は、そのまま京都に攻め上ったが、建武3(1336)年1月、京都の戦いで大敗し、九州へと逃れる。父・胤貞は尊氏に同道して九州へ渡っており、このとき、田中行祐入道と小城郡砥河保内得久名田地をめぐって争っていた納所三郎が、相論の地は自家相伝であるとの文書を胤貞に見せている。小城郡地頭職と惣領職は二年前の建武元(1334)年12月に胤平に譲られているはずだが、継承して以降胤平が記載された関係文書は一切なく、胤貞も建武3(1336)年11月に帰国途中の三河国で病死する。そして、翌建武4(1337)年、田中行入道が土地相論で訴え出たのは胤平ではなく「胤泰」であった。つまり、胤平は建武元(1334)年12月から建武3(1336)年1月までの間、具体的には建武2(1335)年中に卒しているのだろう。康安元(1361)年9月17日『日祐筆文書目録』には、「孫大郎御労之時御寄進田ノ坪付一通」の書状について記載があるが、ここに記された「孫大郎」とは「孫太郎胤平」のことと思われ、おそらく建武2(1335)年、胤平は「御労=病」となっており、その平癒を願って父・胤貞が土地を寄進していたと推測される。
胤平亡き後、下総国八幡庄・千田庄を継承したのは、胤平の弟・胤継であった。これはおそらく建武3(1336)年初めごろに、胤貞が「胤泰、胤継御方への譲状」をそれぞれに渡し、胤泰には小城郡を、胤継には下総国千田八幡庄の地頭職を譲ったものと推測される。ところが、胤平には「瀧楠」という子がおり、千田庄地頭職を求めて千葉介貞胤と結び、叔父の胤継と抗争したと思われる。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
●胤平・直胤・胤直・瀧楠について
『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国に関する古文書(現在は焼失)によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代が記されている。ここに見える「高胤」は某年8月13日に「肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町」を「中山殿(下総国八幡庄中山本妙寺の日祐上人か)」に進上した「平高胤」のことと思われ、胤平の兄にあたる。ただし、胤貞から高胤に対しての譲状などはなく、高胤は早世したのだろう。
胤平は建武元(1334)年12月1日、父・胤貞から所領を継承した。しかし、その後の胤平の活躍は見られない。これは胤平も早世したと見るべきか。胤平の跡は「直胤」「胤直」が見られるが、両名は系譜上でも見ることはできない。ただし「直」と「貞」は誤記される傾向が(15世紀初頭に先過去帳がまとめられた焼失前の史料によれば明確に字体が異なるが、先過去帳における際の誤写の可能性)ため、胤平死後は「貞胤(千葉介貞胤)」が地頭職を主張したものの、建武3(1336)年11月までに「胤貞」が取り戻し、その死後、「■継」が継いだ可能性もある。
なお、「胤直」のあとの「■継」は「胤継」のことと考えられ、そのあとの「胤泰」とともに胤貞の子である(胤泰は胤貞の弟だが、養子となる)。この両名は惣領家である「胤継」が下総八幡庄・千田庄などの胤貞の本領を支配して下総千田氏の祖となり、庶流(次男家)の「胤泰」は肥前にとどまって肥前千葉氏の祖となった。胤継は観応元(1350)年7月11日、下総国千田庄内の土地を中山法華経寺に寄進しており、このころには胤継が八幡庄・千田庄を支配していたと考えられる。
「胤平・直胤・胤直」の継承は文書では確認できないが、胤平の子と思われる「瀧楠殿」と胤継(カ?)が下総千葉介を巻き込み、千田庄内で大紛争を演じていた形跡が残されている(『某書状断簡』)。
この文書によれば「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」が「千葉介殿と一味同心」して千田庄内の大嶋城(香取郡多古町)を攻める企てをしている。「千田孫太郎殿」は「孫太郎胤平」のことと思われ、「瀧楠殿」はその子息ということになる。
◇『岩蔵寺過去帳』・『某書状断簡』・『千葉胤貞譲状』をもとにした想像系図
⇒千葉太郎宗胤――千田胤貞――+=日祐
∥ (大隅守) |(本妙寺貫主)
∥ |
明恵 +―千田胤平――――瀧楠
|(孫太郎)
|
+―千田高胤
|
|
+―千田胤継――――千田胤氏―――→《千田千葉氏》
|(大隅守)
|
+―千葉胤泰――――千葉胤基―――→《肥前千葉氏》
(刑部大輔) (右京大夫)
●建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)
●康安元(1361)年9月17日『日祐筆文書目録』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)