大須賀氏

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千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族

●大須賀惣領家想像系図

 大須賀胤信――通信――――――胤氏――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                           |
                           +―時朝――――――宗朝――+
                            (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正――――政常――――政朝―――政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――朝胤――――朝宗――――胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀宗正(????-????)

 大須賀家10代当主。父は大須賀左馬助憲宗。官途は左馬助。妻は香取社録司代慶海娘か?

 応永16(1409)年11月14日の『録司代慶海譲状写』(『香取文書』)には、譲与する人物が「香取社録司代慶海女子大須賀御方であることから、香取社の録司代慶海の娘が大須賀氏の妻となっていたことがうかがえる。慶海女子が嫁いだ人物は具体的には不明だが、時代的には憲宗にあたるか。

 応永23(1416)年10月4日、上杉氏憲入道禅秀と鎌倉公方・足利持氏との関係が破綻し、禅秀は足利満隆を奉じて、「六本松(化粧坂)」に攻め寄せる事件が勃発した。禅秀方には「千葉大介満胤、嫡子修理大夫兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下野守」をはじめとする八千騎が「米町表」に駐屯し、ほかにも三浦氏、佐竹氏、結城氏ら有力大名が加わっている(『鎌倉大草紙』)。「大須賀」とは時代的に宗正に相当するか。

 持氏は馬廻勢で防戦するも敵わず、鎌倉を脱して駿河国の今川範政を頼って逃れ、幕府に救援を願った。これに応じた幕府は、翌年には今川範政を大将とする軍勢を鎌倉に派遣し、千葉大介満胤、佐竹氏、小山氏らの禅秀方は箱根足柄山に布陣して今川勢を迎え撃った。しかし、千葉勢は戦局の不利を悟って持氏に降伏している。大須賀氏も満胤の催促で出陣していると思われるため、ともに降伏したのだろう。

 永享2(1430)年8月13日に亡くなったとされる(『宝応寺過去帳』)。法名は廓震院殿大英雄機大居士

-上杉禅秀方-

            手勢 在陣
新御堂殿 足利満隆         馬廻一千余騎 若宮小路
禅秀勢 上杉右衛門佐氏憲入道禅秀         二千余騎 鳥居前より東
上杉中務少輔憲顕 上杉修理亮氏顕 千坂駿河守 岡谷豊前守 千坂孫六
千坂弥五郎 千坂式部大輔 塩谷入道 塩谷平次左衛門 蓮沼安芸守
石河助三郎 加藤将監 矢野小二郎 長尾信濃守 長尾帯刀左衛門
坂田弾正忠 小早川越前守 矢部伊予守 矢部三郎 臼井
小櫃 大武 沓係 太田 榊田
秋元 神崎 曾我 中村  
渋川左馬助 舞木太郎 木戸内匠助伯父甥 二階堂 佐々木一類    
長尾出雲守憲景 安房勢         先浜面法界門
上杉憲方 上杉憲春 長尾氏春        
佐竹左馬助           甘縄口小路
結城弾正           薬師堂面
上杉蔵人大夫憲長           無量寺
氏定勢 上杉弾正少弼氏定 上田上野介 疋田右京進       扇谷
千葉勢 千葉大介満胤 千葉修理大夫兼胤 千葉陸奥守康胤 相馬 大須賀 八千余騎 米町
国分 円城寺下野守    
岩松勢 岩松治部大輔満純入道            
武田勢 武田安芸守信満入道            
佐竹勢 佐竹上総介入道 佐竹刑部大輔 依上三郎 佐竹尾張守 土佐美濃守 百五十騎 浜大鳥居
極楽寺口
三河常陸介 河合淡路守 長瀬 河西  
小笠原勢              
伊豆勢 狩野介一類            
相模勢 曽我 中村 土肥 土屋      
常陸勢 名越一党 小田太郎治朝 府中大掾満幹 行方 小栗    
下野勢 那須越後守資之入道            
陸奥勢 葦名盛久 白河結城満朝 石川 南部 葛西    
海道四郡              
児玉党 大類 倉賀野          
丹党              
その他 荏原 蓮沼 別府 玉井 瀬山    
甕尻            

-足利持氏方-

鎌倉公方 足利持氏                 五百騎
関東管領 上杉憲基                
馬廻 一色兵部大輔 一色左馬助 一色左京亮 一色讃岐守 一色掃部助 龍崎尾張守 龍崎伊勢守 早川左京亮 早川下総守
梶原兄弟 印東治郎左衛門 新田田中氏 木戸将監満範 那波掃部助 島崎大炊助 海上筑後守 海上信濃守 江戸遠江守
三浦備前守 高山信濃守 今川三河守 今川修理亮 板倉式部丞 香川修理亮 畠山伊豆守 筑波源八 筑波八郎
薬師寺 浄法寺 佐野左馬助 二階堂 小滝 宍戸大炊助 宍戸又四郎 小田宮内少輔 高滝次郎
椎津出羽守 園田四郎 飯田小次郎 梶原但馬守          

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時       +―宗正
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)
                                   |          |
                                   +―宗信―――憲宗――+―宗幸
                                    (越後守)(左馬助) (越後守)

●応永16(1409)年11月14日『録司代慶海譲状写』(『香取録司代家文書』:『千葉県の歴史 資料編中世』)

 譲与

  香取社録司代慶海女子大須賀御方江、ゆつり与屋敷田畠の事

 右、畠ハ天神のうしろ内まつのみき之畠、田ハかミやこの田、
 かわむかへのほまちともに、屋敷分ハ八日市ハの二郎太郎作の畠半分を、
 としよりとゆいあわせ候へば、この所々を一期分にゆつる也、但シ、
 元三の御頭の時分、用途五十文、十月中にあいすけ候へく候、
 其外の社役ハ先例にまかせて、つとめ候へく候、仍為後日ゆつり状如件、
 
   応永十六年十一月十二二日
 
            録司代慶海(花押影)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   永享2(1430)年 左馬助 廓震院殿 大英雄機大居士
『寶應寺大須賀系図』     左馬助  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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大須賀宗幸(????-????)

 大須賀家11代当主。父は大須賀左馬助憲宗。幼名は薩摩丸(『宝応寺大須賀系図』)。官途は越後守。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時       +―宗正
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)
                                   |          |
                                   +―宗信―――憲宗――+―宗幸
                                    (越後守)(左馬助) (越後守)

 応永27(1420)年4月27日、「越後守宗幸」が領内の大寺院・雲富山大慈恩寺に対して、「津富良郷内寺領公事銭之事」として、新たに大慈恩寺に寺領を寄進するにあたり、「大須賀信蓮(胤氏入道)」が寄進した地と同様に、公方公事銭以外の私公事銭課賦の停止を定めた(応永廿七年四月廿七日「大須賀宗幸寄進状」『大慈恩寺文書』室:1879)

 「大須賀越後守」は永享年中(1429-1441)、円覚寺と大須賀保内毛成・草毛村をめぐって争い、関東管領・上杉憲実は持氏の上意を得たとして、

「円覚寺領下総国毛成、草毛両村事、得 上意候之処……任寺家證文等明鏡之旨、被止大須賀越後守競望候」

と、円覚寺に大須賀越後守の領有は認めないという『上杉憲実書状』を発給した。これは応永26(1419)年12月17日に足利持氏(鎌倉公方)が下総・上総・武蔵・上野・常陸国内等の円覚寺領を安堵した際、「下総国大須賀保内毛成、草毛両村」が含まれている事に基づいていると考えられる。もともと、この「大須賀保内毛成・草毛両村」は大須賀氏の所領だが、弘長3(1263)年に「大須賀胤氏(信蓮入道)」が「神四郎法師了義(諏訪氏か)」へ沽却し、これが了義によって円覚寺へ寄進されたものであった。

 しかし、胤氏は了儀へ沽却する前、「本間四郎左衛門尉」に20年を限って質入していた。これを知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏は文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。そして、約束の20年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉は毛成村を了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)。両村の替地として好嶋荘内紙谷郷を与えたにも関わらず、了義は両村をみずからの所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、大須賀時朝と円覚寺雑掌が相論をし、これが代々の大須賀家当主に引き継がれていったと思われる。

 応永33(1426)年1月10日、「左衛門尉朝信」が大慈恩寺に対して、寺領に関する紛失状(五年前の応永28年正月7日、大慈恩寺が燃亡のため)を発給しており、「越後守宗幸」はこの頃にはすでに「左衛門尉朝信」へ家督を譲っていたのだろう。

 永享12(1440)年、関東において新たな鎌倉公方の座をめぐり、親幕府派と鎌倉公方派の対立が表面化。故足利持氏の遺児、足利春王・安王を奉じた結城氏朝結城城に籠もって挙兵した。これに対し、幕府は出家隠棲していた上杉憲実入道長棟にその追捕を命じた。やむなく憲実は弟の上杉清方らを大将に結城城を攻めて陥落させた(結城合戦)。この戦いに、結城方の武士として「大須賀越後守」が参戦し、幕府方の「中條判官」によって討ち取られた(『鎌倉大草紙』)。この「大須賀越後守」が宗幸と同一人物とは断定できないが、活躍の時期から可能性は高いと思われる。

 過去帳では康正2(1456)年12月24日に亡くなったと伝わる(『宝応寺過去帳』)。法名は瑞雲院殿鷹岳全祥大禅定門

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   康正2(1456)年 左馬助 瑞雲院殿鷹岳全祥大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     越後  
『大須賀家蔵系図』 応永13(1406)年 永享2(1430)年 25歳 越後守 姓存居士

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大須賀朝信(????-1440?)

 大須賀家12代当主。父は大須賀越後守宗幸とされる(『寶應寺大須賀系図』『大須賀家蔵系図』)。官途は左衛門尉(『宝応寺過去帳』)下総守(『寶應寺大須賀系図』『大須賀家蔵系図』)

■大須賀家想像略系図■

 大須賀朝氏―+―宗胤
(左衛門尉) |(太郎)
       |
       +―時朝――――――宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康
        (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助)
                     |          |
                     +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝
                      (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)

 応永33(1426)年4月10日、「左衛門尉朝信」大慈恩寺に対して、寺領に関する紛失状を発給した。応永28(1421)年1月7日、大慈恩寺は火災に見舞われ、大須賀信蓮(胤氏入道)以来の寄進状や寺領安堵状など一切が焼失してしまった。朝信はこれらを保証するために、この紛失状を発給したと考えられる。同時に「左衛門尉平朝信」『大慈恩寺当知行領坪付』を発給している。

 応永33(1426)年8月22日、鎌倉府から遣わされた「前備中守満康(町野満康?)」「国分三河守」「海上筑後守」の両名に、大慈恩寺が火災で紛失した書状のとおりに寺領が実際に支配されているか、年貢高などを調べて事実を起請文にしたためて注進すべきことを命じた。

 これ以降、文書の中に朝信の名は見えない。朝信以降、大須賀氏の系譜はますます錯綜しており、松子大須賀氏、助崎大須賀氏の分離や関東の混乱にともなう結果と思われる。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   延徳2(1490)年 左衛門尉 見性院殿 月慶道鑑大居士
『寶應寺大須賀系図』     下総  
『大須賀家蔵系図』 応永17(1410)年 亨徳元(1452)年 43歳 下総守 姓俊居士

 

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大須賀憲康(????-????)

大須賀氏墓所
伝大須賀氏墓所(松子城南の宝応寺内)

 大須賀家13代当主。父は大須賀左馬助宗正(『寶應寺大須賀系図』)。官途は左馬助(『宝応寺過去帳』『寶應寺大須賀系図』)

 康正元(1455)年、下総国において千葉大介胤直原越後守胤房千葉陸奥守入道常義が合戦を起こしていることを聞いた将軍・義政は、千葉一族の東左近将監常縁に鎮定を命じ、常縁浜式部少輔春利(土岐一族)を副将として下総国へ下向。下総国香取郡東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願した。

●常縁の歌

 静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす

 献歌を終えた常縁「国分五郎、大須賀相馬」ら下総の千葉一族と合力して、原胤房の本拠である千田庄に馳せ向かい、11月13日、千田庄内で原一族の「原左衛門朗珍」「原右京亮朗峯」を討ち取った。このとき常縁に味方したという「大須賀相馬」は、「大須賀・相馬」と、独立した二氏と捉えられる向きもあるが、「相馬」はしばしば「左馬(サウマ)」と同意に用いられることや、「国分五郎」という通称名を用いた呼び方との並びから考えて、「大須賀左馬」とすべきだろう。

 これ以降、大須賀氏の活動は文書中からしばらく見られなくなる。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀朝氏―+―宗胤
(左衛門尉) |(太郎)
       |
       +―時朝――――――宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康
        (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助)
                     |          |
                     +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝
                      (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天文8(1539)年 左馬助 寛祥院殿 月峯道三大居士
『寶應寺大須賀系図』        
『大須賀家蔵系図』        

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大須賀常康(????-????)

 大須賀家15代当主。父は大須賀左馬助憲康(『寶應寺大須賀系図』)。官途は左馬助(『宝応寺過去帳』『寶應寺大須賀系図』)

 詳細な伝はない。法名は「大應徹公」だが(『宝応寺過去帳』)、別の系譜(『大須賀家蔵系図』)にある同法名異名の人物「大須賀左馬助宗朝(大応居士)」の伝によれば、千葉介孝胤に従い、文亀3(1503)年4月10日に小田原勢が下総へ攻め入ろうとした際に武蔵・下総の境で迎え撃ち、松田備中守を討ち取ったという。この伝は太田道灌の下総攻め、または国府台の戦いのことと思われるが、いずれも時期に矛盾があるため、事実かどうかは不明。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝―宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正―――政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――宗朝――+―胤朝―――兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +―政朝
                                              (尾張守)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   永禄2(1559)年 左馬助 月潤院殿 大應徹公大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     左馬助  
『大須賀家蔵系図』         

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大須賀朝宗(????-????)

 大須賀家16代当主。父は大須賀左馬助常康(『寶應寺大須賀系図』)。官途は左馬助(『宝応寺過去帳』『寶應寺大須賀系図』)

 詳しい伝はない。大須賀左衛門尉朝信の次男として「大須賀安芸守朝宗」の名が見える系譜もあり(『大須賀家蔵大須賀系図』)、詳細は不明。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝―宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正―――政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――宗朝――+―胤朝―――兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +―政朝
                                              (尾張守)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天正4(1576)年 左馬助 大梁院殿 銀雙浄金大居士
『寶應寺大須賀系図』      左馬助  
『大須賀家蔵系図』     安芸守 道了

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大須賀常正(????-????)

 大須賀家17代当主。父は大須賀左馬助朝宗(『寶應寺大須賀系図』)。官途は左馬助(『寶應寺大須賀系図』)尾張守(『寶應寺過去帳』)。詳細な伝はない。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝―宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正―――政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――宗朝――+―胤朝―――兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +―政朝
                                              (尾張守)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   永禄10(1567)年 尾張守 觀樹院殿 莱翁久榮大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     左馬助  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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大須賀政常(????-????)

 大須賀家18代当主。父は大須賀尾張守常正(『寶應寺大須賀系図』)。官途は尾張守

松子城
大須賀氏の居城・松子城遠景

 「政常」の「政」は北条氏政からの偏諱か。北条氏政は永禄2(1559)年12月に氏康より家督を譲られており、その後に氏政から偏諱を受けたのかもしれない。

 永禄5(1562)年6月29日、里見方の小田喜城主・正木源三郎信茂は叔父にあたる勝浦城主・正木大膳亮時忠に、小見川で占領した「大須賀一跡」について、「房王丸(正木憲時)」の進退についての意見交換をしている。大須賀氏は香取海の港(津)の関銭を取っていたことが知られており、小見川にもそのような所領を持っていて、その権益をめぐって両正木氏が話し合っていて、千葉介胤富も正木信茂との間で「卯に至る(丁卯:永禄十年)」まで、何らかの「仰合(相談)」がなされたことが、書状から読み取れる。

 永禄3(1560)年、千葉介胤富は小見川富田台に攻め寄せた「房州勢」への対抗のため、b派遣したものの敗れ、正木氏が「下総悉本意候者(下総国はことごとく思いのままになった)」と言わしめるようになった。この「大須賀薩摩丸」は次代の尾張守政朝か?

 両正木氏はこののち仲違いを起こし、永禄7(1564)年、正木左近大夫時忠(勝浦正木氏)は北条氏へ子・頼忠を人質に出して帰服。里見家へ忠誠を尽していた小田喜正木氏との対立は決定的となった。正木時忠は北条氏の後援を受けて上総一宮の正木信茂の居城を攻め、信茂の義弟・憲時(房王丸)を追い落としている。同年6月27日、上杉謙信は里見義弘に宛てて「先ニ正木左近大夫以逆心、正木大炊助没落絶言語候、御力落於此方同前候」という書状を送っている。

 永禄9(1566)年、上杉謙信勢の房総侵攻を小田原で見守っていた北条氏政は、山多弾正忠を千葉介胤富へ遣わしたと思われ、3月24日、胤富は大須賀尾張守へ人衆を集めて出陣をすることを指示した。同日、佐倉城のすぐ東にある原上総介胤貞の居城・臼井城へ上杉謙信を総大将とする結城晴朝・水谷勝俊・佐竹義重らの軍勢が襲いかかったが、これに対して、原上総介胤貞は臼井城を死守。3月25日、上杉勢は退却せざるを得なかった。胤富もみずから兵を率いて上杉勢を追撃している。

 政常は二男・常久をともなって伊能城へ移って隠居し、元亀元(1570)年7月6日に没したと伝わる(『宝応寺過去帳』)。法名は陽盛院殿春宗浄光大居士(『宝応寺過去帳』)。『宝応寺過去帳』には「前齋殿御父也」とあるが、「前司殿」の誤りか。

●正木家略系図

              〔小田喜城主〕
 正木時綱―+―正木時茂――+―正木信茂
(大膳亮) |(大膳亮)  |(源三郎)
      |       |
      |       +=正木憲時
      |        (大膳亮)
      |
      |〔勝浦城主〕  〔三原城主〕   〔紀伊藩家老〕
      +―正木時忠――+―正木時通   +―正木為春――――正木為時
      |(左近大夫) |(左近将監)  |(勝兵衛)   (長門守)
      |       |        |
      |       +―正木頼忠―――+―養寿院―――+―徳川頼宣
      |        (左近大夫)   (徳川家康室)|(紀伊藩主) 
      |                        |
      |〔金山城主〕  〔一宮城主〕          +―徳川頼房
      +―正木弘孝――――正木憲時            (水戸藩主)
       (弾正左衛門尉)(大炊助) 

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝―宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正―――政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――宗朝――+―胤朝―――兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +―政朝
                                              (尾張守)

●永禄5(1562)年6月29日『正木信茂書状』

 房王丸進退、殊ニ小見川可被引明付而大須賀一跡之事承候、下総悉本意候者
 猶其上納得可申候、其方子向成共身之見当候人ニ出可申候、其内ニも大須賀方忠信被申候者、
 不然者所、去々年千葉介殿至卯于被仰合可為相違候、為後年一筆進之候、恐々謹言、

  永禄五年壬戌六月廿九日     信茂(花押)     左近大夫殿
 

●永禄9(1566)年6月24日『千葉介胤富書状』

 氏政麦秋之調儀被催候、付而様躰、彼者今度於小田原、能々致見聞、
 今日山多彈正忠差越申候、此度者必可遂用件候之條、有例之様者、
 曾以不可然候、人衆之事一途被及其催、臨于時不移■日、即可有出陣候、
 将亦別而口上之一事者、能々御尋尤候、恐々謹言、

  三月廿四日  胤富(花押)
   大須賀尾張守殿  

 

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   元亀元(1570)年 尾張守 陽盛院殿 春宗浄光大居士
『寶應寺大須賀系図』     左馬助・信濃守  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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大須賀政朝(1552?-1590?)

 大須賀家19代当主。父は大須賀尾張守政常(『寶應寺大須賀系図』)または大須賀左馬助宗朝(『大須賀家蔵系図』)。幼名は薩摩丸? 通称は孫次郎? 官途は尾張守。妻は月窓院殿玉林芳桂大姉

 次代の「尾張守常安」が天正18(1590)年の小田原戦役に出陣して戦死したと伝えられるが、そのわずか16年前には尾張守政朝が活躍しており、さらに『大須賀本』系譜を見ると「尾張守政朝」の法名は「常安大居士」となっている。また、系譜上で「常安」の子である弥六政氏には、天正16(1588)年正月に亡くなった奥方がおり(『宝応寺過去帳』『本土寺過去帳』)、時代・世代的に見ても政朝は常安と同一人物と考えてよいのではないだろうか。

大慈恩寺
大須賀氏ゆかりの大慈恩寺

 大須賀薩摩丸=政朝だとすれば、永禄3(1560)年、千葉介胤富の命によって小見川富田台へと出陣していることになる。しかし、薩摩丸がどのような活躍をしたのかはわからず、正木氏が小見川の「大須賀一跡」を占領して「下総悉本意候者(下総国はことごとく思いのままになった)」と言っているところを見ると、薩摩丸は敗れてしまったのだろう。こののち、北条氏政の偏諱を受けて「政朝」を称し、松子大須賀家の家督を相続して「尾張守」を称したのだろう。

 元亀4(1573)年3月4日、「尾張守政朝」は祖・大須賀左衛門尉朝信が150年ほど前に発給した応永33(1426)年4月10日の『紛失状』とほぼ同文の『大慈恩寺当知行領坪付』を発給して、大慈恩寺の知行を安堵した。

 この文章は前半は大慈恩寺が知行する郷村が列記され、後半は子孫に対する置文という形をとっていて、大須賀朝信が記した紛失状と同じ形態を踏襲している。この置文の中に「依被定置、一百五十餘年、今全相違無者也」=「定め置かるるにより、一百五十餘年において、今まったく相違なきものなり」と読むところまでまったく同一であるというのは、朝信胤氏入道信蓮以来、およそ150年後に発給した『紛失状』に倣って、朝信が発給してから147年後の政朝が、同一の文章を改めて発給したと考えられる。

大須賀胤氏(入道信蓮)
・建治2(1276)年没とされる
   |
《150年》
  ↓
大須賀朝信
・応永33(1426)年紛失状発給
   |
《147年》
  ↓
大須賀政朝
・元亀4(1573)年書状発給

 天正15(1587)年12月28日、北条氏政は豊臣秀吉からの「京勢陣用意」の通達を受け、おそらく麾下の諸大名・諸将に兵を小田原に集める書状を送ったと思われる。「大須賀尾張守」のもとにもこの氏政通達が届けられており天正15(1587)年12月28日『北条氏政判物』「尾州(尾張守政朝)」は「其地ニ然与御在城尤候」ことを指示した上で、「先段申合人衆、一騎一人無不足」いように、「御息孫二郎殿」へ附けた上で、来年1月15日までに小田原へ到着させることを命じた。「孫次郎」については伝がないが、弥六政氏のことか。

 政朝は天正8(1580)年11月29日に没したとされるが(『宝応寺過去帳』)、『宝応寺大須賀系図』の「千葉重胤」の項目のなかに、小田原の役の際に小田原城へこもった千葉一族が列記されているが、「原式部大夫胤栄・相馬次郎胤高・酒井左衛門佐胤治・酒井伯耆守康治・国分与市胤相・国分三河守胤朝」に続いて、「大須賀尾張守政朝・大須賀弥六常安」が記されている。政朝=常安であるとすれば、天正18(1590)年12月2日に没したことになる(『宝応寺過去帳』)

 また、「大須賀尾張守政胤」が天正18(1590)年の小田原合戦に参戦したが、「大須賀伊豆守」の表切によって千葉勢は壊滅。政胤も小田原城で討死したという。享年三十九(『大須賀家蔵系図』)。この「政胤」と「政朝」はおそらく同一人物を指す。同系図には、「大須賀左馬助宗朝(法名は大応:大須賀左馬助常康と同じ)」の長男に「大須賀伊豆守胤朝」、次男に「大須賀尾張守政朝(常安大居士)」が記載されており、小田原合戦で表切したのは兄の伊豆守胤朝で、討死したのは弟の尾張守政朝(尾張守政胤)ということになろう。

 そして、他の伝によれば、「尾張守常安」は一族を率いて小田原に参陣するが、松子に帰陣するよう命じられた帰途に佐倉で亡くなったともされる(『大須賀家記』)

 政朝の弟・大須賀丹波守常久は父・大須賀尾張守政常が隠居するとともに伊能城へと移り、天正18(1590)年5月、伊能城の落城とともに千田庄出沼へ移り住んだと伝えられている(『宝応寺文書』)。そして、常久の嫡子・大須賀伊織員胤は家宝の甲冑刀剣などをすべて宝応寺と東光寺に寄進して帰農した。

 その子孫・親胤は浅山一伝流の剣術家で、「本城一観斎」と称した。その子・大須賀恒右衛門知胤も父の跡をついで剣術家となり、弟・中里半兵衛胤直、嫡子・大須賀常五郎胤久、門人・伊能平左衛門令貴ら36名とともに文政13(1830)年8月21日、宝応寺に御厨子を寄進している。

 室町時代後期から小田原の陣に至るおよそ百五十年の間の大須賀氏はまったく伝承の中にあり、史実としての歴史は捉え難い。

■大須賀家想像略系図■

 大須賀時朝―宗朝――+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正―――政常===政朝
(左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守)(尾張守)(尾張守)
           |          |
           +―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――宗朝――+―胤朝―――兼朝
            (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(左馬助)|(伊豆守)(左衛門大夫)
                                             |
                                             +―政朝
                                              (尾張守)

●元亀4(1573)年3月4日『大慈恩寺等知行領坪付』(『大慈恩寺文書』)

 
 雲富山大慈恩寺当知行領事
  合 伊能郷内 本願寄進
并新寄進
奈土郷内 本願寄進
并新寄進
    津富良郷内 本願寄進
并新寄進
西雲富村内 本願寄進
并新寄進
    臼栗村内 本願寄進
并新寄進
物木村内 本願寄進
并新寄進
    久士崎村内 本願寄進
并新寄進
古山村内 本願寄進
大椎代并新寄進
    横山村内 本願寄進
大椎代
青木村内 小松郷内
    滑河村内   水懸村内 一坪田村内 本願寄進
并新寄進
    猿山村内 前林村内 本願寄進 柴村内 本願寄進
并新寄進
    大室村内   矢田山 中野 本願寄進
    雨尾 助崎 遠山方 南城
    上畠 柴田 上総国大椎郷内

 右本願胤氏法名信蓮御寄進代々寄附等文書依紛失、子細為後證到判形者也、
 然而本願置文者、京都鎌倉大番役并役夫工米以下公方私之諸公事等、
 一切被停止畢、縦雖劫石尽斯願不可違失、若背此旨致違乱於子々孫々者為不孝、
 彼所領為未所分地、当寺信仰無為之一族等、可分知行之由、依被定置、
 既於一百五十餘年、今全相違無者也、是以限未来際為守本願置文旨、
 加判形者也、仍為後證状如件

   元亀ニニ年癸酉三月四日  尾張守政朝(花押)

●某年5月17日『原胤栄書状』

 其以来者、依無指題目不申過候之處、預御書中候、如蒙仰候、
 先日上総口ニ手切之郷御座候ニ付而、不時ニ人数被相遺、
 於彼村敵衆廿四人討取候、定而為可御満足候、殊更於当口珍物両種送給候、
 誠ニ賞翫申達候、何様自是御礼之儀可申述候、恐々謹言、

               原式
     五月十七日      胤栄(花押)
 
     大孫
         御報
 

某年某月18日『海上胤保書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

   尚々、尓御家所海上山城守其許如何様ニも御談合あつて、
  上意すみやかなる御取成、畢竟孫次郎を任入斗候、急候之間、
  拾之弐恐入候、以上、

 態申進候、仍今度屋形様孫次郎を御立腹之由、御餘儀なく奉存候、因茲、
 若狭守、丹波守へも申断候、其節御談合被成、上意無相違様ひとへに奉憑候事候、
 令期後音候、

   ■四日牛刻申候     胤保(花押)

      大右馬助殿
     (大須賀右馬助)

天正15(1587)年12月28日『北条氏政判物』(『大道寺文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

一、京勢陣用意之由告来儀、顕先書候、猶条々模様申届間、好々可有御分別事、

一、其表之儀敵前雖隔大海候、覚候間、尾州者其地ニ然与御在城尤候、万端手前之儀者、不及申立、
  其口之儀能様ニ、無油断御取成之事


一、先段申合人衆、一騎一人無不足、御息孫二郎殿へ被指添、来正月十五日小田原迄御着肝要候事、

一、以前申合候武具之品々、日数無程候間、定出来申間敷歟、於此度手前之御越度ニ有間敷候、
  可成様ニ御計可然候、畢竟人衆之處をハ、上下共ニ可然者を被撰、用ニ立様ニ相極事、
  右、能々御勘弁専一候仍如件、

 追而普請道具、被為持尤候、

   丁亥
     十二廿八日           氏政(花押)
      大須賀尾張守殿

天正16(1588)年?8月22日『岡見治広書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 御来書披見、誠々御面上心地一段本望存候間、■之敵■■違候、然者、井因昼夜御窮屈、
 御辛労不及是非候、自身御在番ニいり候、手前心静令安心候、如蒙仰因州少も不存隔意、
 万端申合候、可被御心安候、御大途方弥説も候者、則可令御為知候、北筋事者、追而遅々之躰、
 御当方御吉左右迄ニ無別当国御出張猶念願候、委曲先書ニ申達候之條、及疎報候、恐々謹言、

                  岡治
     八月廿二日          治広(花押)
   大須賀殿
        御報  

 

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天正8(1580)年 尾張守 大陽院殿 綱叟胤公大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     尾張守・信濃守  
『大須賀家蔵系図』     尾張守 常安大居士

●「常安」についての過去帳

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   天正18(1590)年 尾張守 文明院殿 泰盛常安大居士
『寶應寺大須賀系図』     尾張守  
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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大須賀政氏(????-????)

 大須賀家20代当主。父は大須賀尾張守政朝。母は月窓院殿玉林芳桂大姉。通称は弥六郎。妻は矢作国分氏の娘・荘観院殿花林春公大禅定尼。妻の花林春公は天正16(1588)年に亡くなった。

 小田原の戦いの際、父・政朝とともに小田原へ入ったとされるが、実は松子城の守りにあったとも伝えられ、徳川勢が松子城を囲んだ際にはその勧告に従って城を明け渡して浪人となり、常陸国府中へと移り住んだ。その後、ふたたび松子へ戻り、菩提寺・宝応寺内に居住し、寛永2(1625)年7月11日に没したという。法名は眞廣院殿大顕養樹大禅定門(『宝応寺過去帳』)

 母の玉林芳桂は、寛永8(1631)年7月17日に亡くなり(『宝応寺過去帳』)、妻の花林春公(華林幽春)は天正16(1588)年正月8日に亡くなっている(『宝応寺過去帳』『本土寺過去帳』)の両方に記されている。華林幽春は「矢作殿息女」で矢作妙真寺の開山であった(『本土寺過去帳』)。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   寛永2(1625)年 弥六郎 眞廣院殿 大顕養樹大禅定門
『寶應寺大須賀系図』 ----- ----- ----- -----
『大須賀家蔵系図』 ----- ----- ----- -----

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