『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
(1534-1597)
葛西氏十七代。葛西左京大夫晴胤の子。官途は左京大夫。母は黒川景氏娘。兄・親信の死後、家督を継いだ。
永禄3(1560)年4月24日、「葛西壱岐守平晴信」が報恩山永徳寺に「亡親石見守平親信」のために「伊澤郡永徳寺一村」を寄進したという文書がある(『報恩山永徳寺文書』)。ただし、晴信は壱岐守に任官していないため疑問が残る。
慶長2(1597)年10月9日、身を寄せていた大納言前田利家のもと、加賀国尾山(石川県金沢市尾山町か)において六十四歳の生涯を閉じた。法名は長徳院殿智山宗慧(『龍源寺葛西氏過去帳』『登米龍源寺系譜』)、または通山道融。久昌院と号す。
子に長三郎清高(『平葛西末永両家系』)、源三郎信秀(『葛西真記録』)、正次郎(『登米龍源寺系譜』)が見える。
長三郎清高は上杉家に仕官して「葛西大和」と改め、慶長5(1600)年8月11日、伊達勢との戦いの最中に捕らえられ、白石城において討たれた。法名は嘯雲院殿威山道虎大居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。子孫は磐井郡に土着し、名家として代々伝わった。子孫の葛西茂左衛門栄延は礼法の大家と知られ、仙台藩重臣の遠藤文七郎成信、桜田九左衛門らをはじめ、門下千人を数えたという。
源三郎信秀は天正18(1590)年4月、佐々木玄蕃という人物のもとで匿われ、文禄末年、玄蕃が秀吉からと思われる赦免状を奉げてきたため、秀吉に仕える事になったようである。
正次郎は「鼬澤掃部允」を供に加賀へ上り、その後、「江刺舎人(市左衛門)」を供に南部氏のもとへ赴き、その後、葛西正兵衛勝延と改め南部家客分となる。一説には正兵衛が南部へ下ったのは慶長3(1598)年とされる。慶長6(1601)年、和賀郡浮田村(和賀郡東和町下浮田)に五百石、同郡毒沢村(和賀郡東和町毒沢)に二百石のあわせて七百石を知行した。そして同年、和賀郡旧領主の和賀忠親が岩崎城(和賀郡和賀町岩崎宿)にて起こした「和賀忠親の乱」では、南部勢の先陣として参戦。功績を挙げた。
慶長15(1610)年、正兵衛は知行を二百石減らされ、稗貫郡久野目村・膝立村五百石に転封となった。慶長19(1614)年の「大坂冬の陣」では乗掛供衆として従軍。剃髪後は清心と号した。寛永6(1629)年、三戸にて亡くなり、跡は嫡男の正兵衛晴易が継承して南部家家臣となる。子孫は南部盛岡藩士として続いた。
また、姉は長江月鑑斎の妻となっている。長江月鑑斎晴清は伊達政宗に従って大崎氏などとの戦いに活躍した勇猛な人物であるが、大崎氏に敗れて降伏したことが政宗の怒りを買い、天正19(1591)年に豊臣秀吉によって大崎氏が滅ぼされたとき、政宗の意向を受けていた秋保摂津守定重に囚われて自害させられた。同年12月13日、伊達政宗が定重に宛てた「月寒事」についての書状の中で「月鑑妻子者、葛西晴信之姉ニ候間…」とある(『政宗君治家記録』)。
⇒伊達稙宗―+―晴宗―――――輝宗――――――政宗 +―重利――――+―重矩―――+―清香
(左京大夫)|(左京大夫) (左京大夫) (中納言) |(壱岐) |(三郎兵衛)|(壱岐)
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+―葛西晴胤 +―晴信――――+―清高 +―富塚重友 +―清敬 +―清章
(左京大夫)|(左京大夫) |(長三郎) |(宇兵衛) (彦左衛門)|(八郎)
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葛西晴重―+――娘 | +―信秀 +―重信――重常 | +―清雄
(陸奥守) | | (源三郎) | | |(十郎)
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+=葛西晴胤―+―胤重――――――重俊―――+―俊信==重常―+ +―清長
(左京大夫) (右衛門) (式部) (紀伊)(壱岐)|
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+―重安――――+=重敬――――村田宗茂
|(彦左衛門) |(万六郎) (酉之助)
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+―長谷重長 +=清敬
(三郎左衛門) (彦左衛門)