相馬将監家 中村藩御一家

相馬将監家

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相馬将監家とは

相馬将監家は中村藩初代藩主・相馬大膳大夫利胤の実弟、相馬左近及胤を祖とする藩公一門である。及胤の孫・熊之助は一時は藩公・相馬義胤の嗣子に定められるほどであったが、義胤の跡は土屋家から忠胤が入ったことで、立ち消えとなった。清胤が「逆心ノ心入」として討たれたが、その後は代々藩公の「御由緒」として重んぜられ、御一家筆頭の岡田家でさえ許されなかった繋駒幕紋の使用が許された。

■中村藩御一家■

岡田家泉家泉田家堀内家相馬将監家相馬主税家

       【中村藩主】
 相馬義胤―+―相馬利胤――相馬義胤===相馬忠胤―――相馬昌胤―+=相馬敍胤―――相馬徳胤―――相馬恕胤―+―相馬祥胤
(長門守) |(大膳大夫)(大膳亮)  (長門守)  (弾正少弼)|(長門守)  (因幡守)  (因幡守) |(因幡守)
      |                          |                    |
      |                          |                    +―彜姫
      |                          |                     (相馬胤慈妻)
      |【相馬将監家】                   |【相馬主税家】
      +―相馬及胤――相馬安胤―+―相馬胤久        +―相馬福胤―+―相馬穂胤―――相馬胤綿―――相馬胤貞―――相馬胤就
       (左近)  (刑部)  |(勘右衛門)        (主膳)  |(主膳)   (主税)   (主税)   (靱負)
                   |                    |
                   +―相馬胤高 +―相馬胤賢        +―娘
                   |(主水)  |(将監)          (相馬胤豊妻)
                   |      |
                   |      +―――姉
                   |      |   ∥――――伊東久祐
                   |      |   ∥   (傳右衛門)
                   |      |   ∥     ∥―――+―伊東寿祐
                   |      |   ∥     ∥   |(太兵衛)
                   |      |   ∥     ∥   |
                   |      |+―伊東義祐 久米依時娘 +―相馬胤寿
                   |      ||(又七)         (将監)
                   |      ||
                   |      |+―伊東重祐==伊東久祐
                   |      | (太兵衛) (傳右衛門)
                   |      |
                   +―相馬胤充―+―相馬胤英===相馬胤寿―+―相馬胤豊―――相馬胤慈―+=相馬胤武
                    (将監)   (将監)   (将監)  |(将監)   (将監)  |(将監)
                                        |             |
                                        +―娘           +―相馬胤宗――相馬胤真――相馬胤真
                                        | ∥            (将監)  (将監)  (瀧之進)
                                        | 泉田胤精
                                        |(掃部)
                                        |
                                        +―娘
                                          ∥――――+―娘
                                          池田直方 |(岡部雅綱娘)
                                         (八右衛門)|
                                               +―娘
                                                (熊川奉重妻)

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相馬及胤(1592-1660)

 相馬将監家の祖。父は相馬長門守義胤。母は長江紀伊守盛景娘(大慧山定林寺蔵『三分一所氏系図』)。妻は久米左平次時尚の長女。通称は左近。文禄元(1592)年に誕生した。中村藩初代藩主・相馬利胤の実弟である。

相馬及胤墓
小高同慶寺の及胤墓

 父・相馬長門守義胤や、兄の相馬大膳大夫利胤、弟の相馬越中尚胤とともに大坂夏の陣に出陣した。このとき、及胤は人質として徳川家に召されており、家康・秀忠の小姓、御膳番として出仕していたという。しかし、及胤は「其中悪事多ク立置ク立直ル儀成難ク」、召し放たれて行方郡橲原村(南相馬市鹿島区橲原)に押し込めとされた。

 及胤は橲原村で蟄居している間、田畑を荒らす熊を郎党とともに討ったという話が伝わっている。 

 慶安2(1649)年10月25日、甥の相馬大膳亮義胤からの招きを受けて中村に登城したときには、義胤から手厚い出迎えを受けた。及胤の子の相馬主計清胤は藩公・大膳亮義胤とは仲がよかったが、義胤と及胤はこのときが初対面であった。

 万治3(1660)年9月10日、橲原村で亡くなった。享年六十六。法名は仏性院殿銕山関公大居士小高山同慶寺に葬られ、貴山元尊和尚が導師となり、石碑を建立した。また、南屋形南相馬市鹿島区南屋形)にある阿弥陀寺にも及胤の五輪塔が残る。 

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相馬清胤(????-1678)

 相馬左近及胤の嫡子。母は久米左平次時尚娘。通称は伊豆、刑部主計。妻は旗本・進藤三左衛門正成娘。一名「安胤」。赤穂義士の奥田孫太夫重盛は又従兄弟にあたる。

                       相馬義胤 +―相馬利胤―――相馬義胤
                      (長門守) |(大膳大夫) (大膳亮)
                       ∥    |
                       ∥――――+―相馬及胤
              長江盛景―――――娘     (左近)
             (紀伊守)            ∥
                              ∥――――――相馬清胤
      【尾張沼館主】                 ∥     (刑部)
       久米時家―――久米時玄   +―久米時尚―――娘
      (江左衛門) (六郎左衛門) |(左平次)
              ∥      |
              ∥――――――+―久米重安―+=久米時治
 荒尾善次―+―荒尾成房――娘       (半右衛門)|(忠兵衛)
(美作守) |(但馬守)                | ∥――――――久米時英
      |                     +―娘     (半右衛門)
      |                     |
      |                     |
      |                     +―娘     【赤穂浪士】
      |                       ∥――――――奥田重盛
      |                       奥田孫太夫 (孫太夫)
      |                      
      |
      +―善応院          【岡山藩主】
        ∥―――――池田輝政――――池田光政
       池田恒興  (参議)    (侍従)
      (勝三郎)    

 寛永初年ごろ、中村城南部の南小路南側半分から川原土橋にかけて、清胤の屋敷地として与えられた。このとき清胤は父・左近及胤が隠居していた行方郡橲原村にあった。

 寛永10(1633)年正月の『古支配帳写』によれば、「相馬主計(相馬清胤)」の知行は「千三百四石八斗七合」とある。知行高筆頭は「泉内蔵介(泉胤衡)」で二千五百八十三石余である。

 寛永11(1634)年4月8日、江戸へはじめて上府し、藩邸の相馬虎之助義胤に謁見し、太刀と馬代を献上した。25日には御前を献じ、義胤からは刀一腰と巴金鍔が下賜された。義胤はこの清胤と従兄弟同士であり、年齢も近かったことから友人のような感覚で付き合っていたのかもしれない。

 閏7月29日、義胤が川越城在番を命じられると、清胤もこの行列に供奉した。

 寛永12(1635)年4月18日、義胤内藤伊賀守忠重の姫との婚礼が行われたとき、内藤家家老・奥田主水が引いてきた御輿を請け取り、城まで案内した。翌19日、包利の太刀一腰が義胤より清胤へ下賜された。この包利は11日に執政・泉内蔵助胤衡より義胤に献上されたものか。

 寛永14(1637)年11月、旗本・進藤三左衛門正成の娘と婚礼を挙げた。寛永15(1638)年正月24日、義胤から泉内蔵助胤衡を使者として加増の報告があり、都合千三百二十四石の知行となった。

中村城
中村城中ノ門跡と長友(南二ノ丸)

 寛永18(1641)年、堀内十兵衛胤重が改易されたとき、城中長友の堀内屋敷が清胤に与えられた。

 延宝2(1674)年2月2日、藩主・相馬出羽守貞胤の生母が女の子(お蘭の方)を出産したが、その後容態が悪化。河野了意、井関玄説ら侍医が呼ばれて手当てにあたったが、その甲斐なく2月10日昼過ぎに亡くなった。享年三十四。翌11日、江戸下谷正燈庵にて荼毘にふされ、正燈庵の崇山和尚より圓照院殿月堂桂春の法号が与えられた。翌12日、清胤守屋図書信重福島三郎右衛門星利兵衛大越四郎兵衛正光野坂忠兵衛が遺骨の供として江戸藩邸を出立。27日、行方郡小高の同慶寺に到着し、正説和尚を導師として葬礼が執り行われた。

 延宝4(1676)年正月、清胤は「主計」から「刑部」に改めるよう仰せ付けられた。しかし、この頃からあまり体調が思わしくなかったようで、8月21日、病の保養のため相模国塔沢(箱根の塔ノ沢温泉)へ湯治に赴くため中村を発して、29日、江戸藩邸に到着した。

 延宝7(1679)年7月13日、藩老の堀内十兵衛胤重佐藤長兵衛昌信が清胤の「誤之儀」を貞胤に披露した。貞胤は暮れ時になって評定役人を中村城の二ノ丸に呼び、相談に及んだ結果、翌14日、清胤一族を逮捕した。清胤は堀内胤重へ、嫡子・主水高胤本山久左衛門安通へそれぞれ預けられ、次男・胤充(外記)は閉門。清胤、主水の妻女は御預けとされ、刑部屋敷は没収となり徒歩の番士によって固められた。清胤一党の「誤之儀」がどのようなものだったかは、記録では「誤之次第、委難記、逆心ノ心入と評定相済」とあるが、どうやら村田與左衛門俊世不久と席次を六度にわたって争ったことによるものらしい。この争いは清胤側に非があったようで、貞胤は清胤・主水父子を切腹に処することに決めた。

 7月16日、貞胤谷六左衛門宗盈を江戸に発した。これは土屋家、佐竹家など「御家門」に清胤一党に「不儀有之段」のために「切腹」を命じる旨を伝えるためであった。そして17日夜、貞胤は清胤、高胤父子に切腹を命じ、父子は従容として腹を切った。法名は大龍院殿堅室榮固大居士小高山同慶寺に葬られた。

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相馬久胤(????-1668)

 相馬主計清胤の嫡男。通称は熊之助、勘右衛門。系譜では「胤久」とされる。

相馬勘右衛門母
相馬勘右衛門母信受院墓

 慶安3(1650)年3月、相馬大膳亮義胤が江戸に上った際、藤田佐左衛門を中村の清胤のもとに遣わし、「熊之助」を養嗣子とする旨を伝え、清胤が「今度江戸へ登候ハハ、御老中様江右之段(養子とすること)御訴訟可申上」ることを命じた。しかし、熊之助を養嗣子とすることに反発していた家老が二名いた。熊川左衛門泉縫殿助である。彼らの行動によって、幕府の重鎮・土屋家より土屋式部を養嗣子とすることに決定。血筋が絶えることに藩士、百姓たちは困惑し、「熊川左衛門、泉縫殿助両人之謀計」とされている。

 その後、松平周防守の家臣・岡田竹右衛門の娘が長松院(相馬大膳大夫妻。岡田竹右衛門姉で徳川秀忠養女)の養女となって、久胤との婚姻が整えられた。

 しかし、竹右衛門はこのことを知ると姉の長松院に「久胤ニ婦縁所存ノ外ナリ、早ク取返シ給ハレ」と伝えてきた。これに長松院は「養女ニ頼まる時、縁組ノ事何レニモ任スルト憑ミ、今更久胤ヲ嫌フ事、久胤ハ相馬ノ分流不遠一家也、何ゾ不足有ランヤ」と竹右衛門をたしなめている。結局、久胤と岡田氏の婚姻は成立した。

 寛文8(1668)年7月19日、亡くなった。法名は寿光院殿即岩全心大居士。久胤の母親と思われる信受院殿心圓宗清大姉は、元禄5(1692)年7月15日に亡くなり、小高山同慶寺の藩公墓所内に葬られた。また、妻の岡田氏は久胤、長松院殿の死去ののち、岡田家に戻り、旗本・加々爪次郎右衛門に嫁いだ。

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相馬高胤(????-1679)

 相馬主計清胤の次男。通称は主水。系譜では「胤高」とされる。

 延宝7(1679)年7月13日、藩老の堀内十兵衛胤重佐藤長兵衛昌信が清胤の「誤之儀」相馬出羽守貞胤に披露した。貞胤は暮れ時になって評定役人を中村城の二ノ丸に呼び、相談に及んだ結果、翌14日、清胤一族を逮捕した。清胤は堀内胤重へ、嫡子・主水高胤本山久左衛門安通へそれぞれ預けられ、高胤の弟・胤充(外記)は閉門。清胤、主水高胤の妻女は御預けとされ、刑部屋敷は没収となり徒歩の番士によって固められた。清胤一党の「誤之儀」がどのようなものだったかは、記録では「誤之次第、委難記、逆心ノ心入と評定相済」とあるが、どうやら村田與左衛門俊世不久と席次を六度にわたって争ったことによるものらしい。この争いは清胤側に非があったようで、貞胤は清胤・主水父子を切腹に処することに決めた。

 7月16日、貞胤谷六左衛門宗盈を江戸に発した。これは土屋家、佐竹家など「御家門」に清胤一党に「不儀有之段」のために「切腹」を命じる旨を伝えるためであった。そして17日夜、貞胤は清胤、高胤父子に切腹を命じ、高胤も父・清胤とともに腹を切って果てた。法名は一超直心居士小高山同慶寺に葬られた。

●相馬高胤周辺略系図

 相馬義胤―+―相馬利胤―――相馬義胤―――亀姫
(長門守) |(大膳大夫) (大膳亮)   ∥―――――+―相馬貞胤
      |               ∥     |(出羽守)
      |               ∥     |
      |        土屋利直―――相馬忠胤  +―相馬昌胤
      |       (民部少輔) (長門守)   (弾正少弼)
      |
      +―相馬及胤―――相馬清胤―+―相馬久胤
       (左近)   (主計)  |(勘右衛門)
                    |
                    +―相馬高胤
                    |(主水)
                    |
                    +―相馬胤充―+―相馬胤賢
                     (将監)  |(将監)
                       ∥   |
               熊川長治――――娘   +―相馬胤英
              (兵庫)          (将監)

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相馬胤充(????-1740)

 相馬主計清胤の三子。通称は外記勘右衛門、将監。初名は「胤延」。隠居の後は「尚綱」と号した。妻は熊川兵庫長治二女。藩公・相馬昌胤の信任を得て藩政に参画し、相馬将監家として「御一家」に列せられた。

 延宝3(1675)年4月7日、新知三百石が下された。

 延宝7(1679)年7月13日、藩老の堀内十兵衛胤重佐藤長兵衛昌信清胤「誤之儀」相馬出羽守貞胤に披露した。貞胤は暮れ時になって評定役人を中村城の二ノ丸に呼び、相談に及んだ結果、翌14日、清胤一族を逮捕した清胤堀内胤重へ、嫡子・主水高胤本山久左衛門安通へそれぞれ預けられ、次男・外記胤充は閉門。清胤高胤の妻女は御預けとされ、刑部屋敷は没収となり徒歩の番士によって固められた。清胤一党の「誤之儀」がどのようなものだったかは、記録では「誤之次第、委難記、逆心ノ心入と評定相済」とあるので具体的には不明だが、「逆心ノ心入」とのことから、清胤は江戸に生まれ育ち、国許を知らない二十歳の藩公・貞胤を廃し、自分の子・高胤を相馬家の家督につけようと、国許で画策していたのかもしれない。貞胤清胤高胤父子を切腹に処することに決めた。一方、父や兄とは離れて貞胤に加担したと思われる胤充については閉門のみで許されている。

 延宝8(1680)年正月、胤充は「父兄ヲ離忠節」を尽くしたことが評価され、閉門が免ぜられた。さらに6月16日、胤充妹と旗本・榊原小兵衛との縁組願いが幕府に提出された。

 天和元(1681)年3月25日、胤充は組頭役を仰せつかり、百石を加増された。新知の三百石とあわせて都合四百石となる。27日、昌胤の初めての御国入りに随って江戸から中村へ下向した。

 貞享2(1685)年2月5日、妻・熊川氏が亡くなった。法名は浄水院海印知性

 貞享3(1686)年2月27日、家老職に就任。翌貞享4(1687)年5月22日、家老の熊川清兵衛長治が老齢のために隠居が認められると、6月4日、熊川清兵衛組は西惣左衛門直治が引継ぎ、6月7日、西直治が統括していた御旗本組を胤充が引き継いだ。

 元禄元(1688)年4月1日、胤充は侍大将に任じられ、昨年11月に江戸屋敷留守居となっていた家老・西與惣右衛門直治の組を引き継いだ。

 元禄5(1692)年7月15日、母の信受院が亡くなった。法名は信受院殿心圓宗清大姉。小高山同慶寺の藩公墓所内に葬られた。

 元禄6(1693)年正月15日、百石が加増され、都合五百石となる。10月には御一家筆頭・堀内玄蕃辰胤の補佐として、政治に老練で家柄も申し分ない胤充が選ばれ、ともに家老・城代の職務を務めるよう命じられた。

八幡宮
涼ヶ岡八幡宮赤門

 元禄8(1695)年5月6日、坪田村(相馬市坪田)の八幡宮遷宮式が執り行われ、御一家・重臣が石灯籠を寄進しているが、右側の石塔の三番目に「老臣 相馬勘右衛門胤充」と見える。

 元禄9(1696)年正月、百石が加増され、都合六百石となる。2月21日には昌胤は胤充の屋敷を訪ねて食事をしているが、ここで「御一家之者共」「自分親類」のことばかり考えているが、御一家はそれぞれお互いを「親類」と心得るべきであるとした上で、相馬勘右衛門家は御一家ではないが、「御末葉之事ニ候間、親類与心得可申」と、御一家に準じることを告げられている。

 4月4日、昌胤は参勤交代のために江戸へ向かった際、胤充も同道。4月9日、江戸屋敷に到着した。しかし到着早々、北条氏朝於亀の方「不縁」として離別するとのことが決まり、5月1日、胤充が土屋相模守政直米倉丹後守昌尹に内々に報告を済ませた。そして、14日、於亀と北条氏朝は離婚し、於亀は麻布の相馬家屋敷に戻っていった。15日には、氏朝への引き出物であった品々が返却された。

 6月9日、相馬勘右衛門胤充は「将監」の通称を与えられた。6月23日、久保田藩主・佐竹右京大夫義處の次男・佐竹求馬義珍が婿養子に決まった際には、昌胤の返礼の使者として久保田藩邸に赴いた。

 元禄11(1698)年3月1日、三春領との論争についての裁判のため江戸へ到着。2日、山田村五左衛門に訴状を持たせ松平志摩守重栄へ提出している。その後も昌胤の使者として、各大名・旗本の間を走り回った。9月晦日、相馬将監胤充に野屋敷二万坪が下された。城代としての役職を評価したものだろう。

 元禄12(1699)年8月24日、三春領と相馬領の裁定のため、三春領の百姓と相馬領の百姓それぞれ二名ずつを、御用掛の人物とともに江戸へ出立した。9月19日、胤充は藩公・昌胤に召され、御一家の家格に列せられ、百石を加増され都合七百石を知行した。翌20日、胤充は御礼として太刀折紙を献じている。

 元禄13(1700)年に入ると、藩公・昌胤は養嗣子の相馬図書頭敍胤に家督を譲ることを決めたようで、藩主としての権力を磐石のものとするために、さまざまな手を打ちはじめた。その中に、これまで御一家中で用いられていた「繋ぎ駒」の幕紋の使用を禁じ、相馬の苗字を名乗る家にのみ用いることが定められた。相馬将監胤充については、「相馬」を苗字としているので、繋ぎ駒紋の使用が認められている。相馬将監家は藩公家と血縁的にも「御由緒」のある家として他の御一家と一線を画す処置がなされたようである。また、8月1日には胤充の次男・武岡外記延充蔓九曜紋を直々に下賜し、9月21日には新知二百石が下された。

 宝永元(1704)年10月10日、胤充は病気のため家老職を辞する旨、藩庁に申し上げて許された。そして翌宝永2(1705)年4月3日、胤充は隠居し、金五郎胤賢への家督相続が認められた。隠居したのち、胤充は「尚綱」と号した。

 元文5(1740)年8月27日に亡くなった(『相馬藩世紀』『覚日記』)。曾孫にあたる相馬外記胤豊は「相馬尚綱死去、外記へ三十五日法事、御香典」が下されている(『覚日記』)

 娘は伊東太兵衛信祐の長男・伊東又七義祐に嫁いだ。義祐は伊東家の長男だったが、病身のために家督を継がず、弟・伊東太兵衛重祐が家督を継ぐ。その跡は義祐と胤充娘との間に生まれた伊東源五郎久祐が継いでいる。

        久米依時――+=久米暉時
       (半右衛門) |(半右衛門)
              |
              +―娘    +―伊東寿祐
                ∥    |(治大夫)
                ∥    | ∥――――――+―伊東見祐
                ∥    | 愛澤包高娘  |(司) 
      +―相馬胤賢    ∥    |        |
      |(将監)     ∥    +―娘      +―伊東喜八郎
      |         ∥    | ∥      |
      +―相馬胤英    ∥    | 熊川長盈   |
      |(将監)     ∥    |(勘解由)   +―娘
      |         ∥    |          ∥
 相馬胤充―+―娘       ∥――――+―相馬胤寿     ∥
(将監)    ∥―――――――伊東久祐  (将監)      ∥
        ∥      (伝左衛門)  ∥――――――――相馬胤豊
        ∥              ∥       (将監)
 伊東信祐―+―伊東義祐    田原口敬貞――娘
(太兵衛) |(又七)    (吉左衛門)
      |
      +―伊東重祐====伊東久祐
      |(太兵衛)   (伝左衛門)
      |
      +―中嶋行正
      |(太左衛門)
      |
      +―伊東友祐
       (宗右衛門)
        ∥―――――――娘
 大久重房―+―娘      (大久重房養女)
(兵右衛門)|
      +=娘
      |(実伊東友祐娘)
      | ∥
      +=大久重行
       (文内)

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相馬胤賢(????-????)

 相馬将監胤充の嫡子。幼名は千次郎。通称は金五郎、将監、伊織

 元禄10(1697)年12月20日、初めて藩公・相馬昌胤に拝謁し、「胤」字を給わり「胤賢」を称した。御一家の惣領がはじめて藩主に謁見する際には、今後太刀折紙を献上して御礼し、盃を賜ることが定められた。相馬将監家はまだ御一家に列していなかったが、一字を賜る栄誉に浴した。

 元禄12(1699)年9月19日、父の相馬将監胤充は御一家の家格に列せられ、七百石を知行した。

 元禄16(1703)年5月11日、藩公・相馬図書頭敍胤は参勤交代のために江戸を発って中村へ下向した。供は岡田監物知胤水谷長左衛門堯宣ら侍十七人。19日朝、幾世橋隠居御殿の昌胤を訪問し、夕方、中村城に入城して、供をしてきた岡田監物知胤と留守居の泉内蔵助胤和に対面。両名の苦労をねぎらった。

 宝永2(1705)年4月3日、父・相馬将監胤充の隠居に伴い、相馬将監家の家督を相続した。宝永6(1709)年正月、藩公代々の家督相続の際、御礼のために将軍家に謁見するとき、藩公とともに岡田家・相馬将監家の両家が謁見することが定められ、岡田監物知胤相馬金五郎胤賢にその旨が命じられた。4月24日、「金五郎」を「将監」に改めた。

 宝永6(1709)年6月5日、敍胤は隠居し、嫡子・相馬民部清胤へ家督相続された。そして6月12日、将軍に家督相続の御礼を述べに登城する清胤に随い、岡田監物知胤堀内大蔵胤近相馬将監胤賢がともに登城した。

 享保4(1719)年11月15日、胤賢は家老職を仰せ付けられた。享保5(1720)年12月、胤賢は「将監」を「伊織」と改めた。

 享保10(1725)年5月6日、病のため、組支配を免除される。6月24日、相馬将監組は岡田監物春胤が引き継いだ。そして享保12(1727)年7月7日、弟の武岡次郎左衛門延充を養嗣子とし、9日、武岡延充に「胤」字が与えられ、「胤英」と称する。8月16日、胤英に家督が譲られ、胤賢は隠居した。

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相馬胤英(????-1734)

 相馬将監胤充の次男。母は熊川清兵衛長治娘か。通称は小六郎次郎左衛門将監。妻は熊清兵衛安宣養女(実は桑原運治安利娘)。はじめ分家して「武岡」を称したが、兄・相馬将監胤賢の願いにより、胤賢の養嗣子となり、相馬将監家を嗣ぐ。

●相馬将監家周辺系図

 相馬胤充―+―相馬胤賢   久米依時娘 +―伊東寿祐
(将監)  |(将監)     ∥    |(太兵衛)
      |         ∥    |
      +―――姉     ∥――――+―相馬胤寿
      |   ∥――――伊東久祐   (将監)
      |   ∥   (傳右衛門)
      |+―伊東義祐       
      ||(又七)        
      ||
      |+―伊東重祐==伊東久祐
      | (太兵衛) (傳右衛門)
      |
      +―相馬胤英
       (将監)

 元禄11(1698)年7月12日、児小姓となる。その12日後の7月24日、分家して「武岡」の名字を与えられ、二百石を給された。その後、「外記」の通称を給わる。元禄13(1700)年8月1日、蔓九曜の紋を下賜された。21日には新知二百石が加増となった。

 享保12(1727)年7月7日、兄・相馬将監胤賢の養嗣子となり、本家を相続。「相馬将監胤英」を称した。

 享保17(1732)年5月7日、病によって家老職・組頭を辞した堀内覚左衛門重長に代わって侍大将に任じられ、組支配仰せ付けられる。家老職は泉田掃部胤重が継承した。

 享保19(1734)年2月25日、病死した。

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相馬胤寿(1727-????)

 相馬将監胤英の養嗣子。実父は伊東傳右衛門久祐。母は久米半右衛門依時娘。妻は田原口吉左衛門敬貞娘。通称は十五郎外記、将監。隠居後は木工、希及を名乗った。

●相馬将監家周辺系図

相馬胤充―+―相馬胤賢
(将監) |(将監)
     |
     +―――姉                 +―伊東見祐
     |   ∥――――伊東久祐         |(司)
     |   ∥   (傳右衛門)        |
     |   ∥     ∥―――+―伊東寿祐――+―娘
     |   ∥     ∥   |(太兵衛)    ∥
     |   ∥     ∥   |         ∥
     |+―伊東義祐 久米依時娘 +―相馬胤寿――――相馬胤豊
     ||(又七)         (将監)    (将監)
     ||               |
     |+―伊東重祐==伊東久祐    |
     | (太兵衛) (傳右衛門)   |
     |                ↓
     +―相馬胤英==========相馬胤寿
      (将監)          (将監)

 享保19(1734)年2月3日、相馬将監胤英は大病のため、姉の孫にあたる伊東十五郎「相馬将監養子」に迎える願いを藩庁に提出。願いが認められ、十五郎は相馬将監家の養嗣子となり、「相馬将監御役御免、一、同跡式」を継承する(『覚日記』)。25日に養父・胤英が亡くなると家督を相続。3月21日、正式に跡式が認められた。

 享保20(1735)年5月15日、「相馬十五朗、願之通、外記ニ改名被仰付、初而御目見」(『覚日記』)と、十五郎は「外記」と改め、初めて藩公・相馬弾正少弼尊胤にまみえて「胤」字を賜り、「胤寿」と称した(『相馬藩世紀』『覚日記』)

 元文4(1739)年5月22日の妙見正遷宮に列した中に相馬外記として名が見える。

 寛保3(1742)年5月19日、「相馬外記」侍大将を仰せ付けられ、前月12日に病気により組支配を辞した岡田監物春胤組を引き継いで組支配を命ぜられた(『相馬藩世紀』『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。胤寿がいつから「将監」を称したかはわからないが、明和2(1765)年5月には、相馬将監が家老職に就任しており、このころにはすでに将監と号していた。同年7月は胤寿が御用番であり、政務を取り仕切った。この月、新藩公・相馬恕胤が藩主となって初入部があり、7月22日、城内妙見堂において恕胤の元服式が執り行われた。このとき恕胤三十一歳。胤寿は入念に準備を行っており、滞りなく儀式は終了した。恕胤一行は妙見社から西の円蔵曲輪に赴き、円蔵社に社参したのち、本丸御殿に戻った。

 明和7(1770)年8月中、「相馬将監胤寿」が泉田掃部胤守組の組士を引き受けた。しかし明和8(1771)年5月、体調を崩して5月25日、組支配を免ぜられた。そして5月29日、隠居願いと嫡子・相馬外記胤豊への家督相続依頼を藩に届出を提出。認められて7月7日、外記胤豊が家督相続の御礼に参上した。しかし、将監組の相続は許されず、相馬主膳穂胤が組支配を命じられた。

 天明5(1785)年正月2日、御一家隠居、岡田直衛泉了圓相馬希及が年頭伺のため登城している。

 天明6(1786)年11月22日、「相馬木工」は藩公・相馬因幡守祥胤の長男・相馬内膳樹胤が中村に初入国した際、泉了圓とともに名代を派遣して入部祝いをしている。

 寛政3(1791)年8月14日、「屋形様(相馬因幡守恕胤)の病が重篤となると、百石以上の士が中村城に総登城が命じられ、「相馬木工」「相馬鍋五郎」も登城して見舞っている。

 寛政9(1797)年12月21日、家中七十歳以上の男女への長寿の祝いとして、藩公より下賜されているが、七十一歳の「相馬木工」は白鳥の切身が下賜された。そして、享和2(1802)年2月3日には「七十四歳 相馬希及」が白鳥の切身を賜った。逆算すると、相馬木工は享保12(1727)年の生まれ、相馬希及は享保14(1729)年の生まれとなり、2年の差があるが、同一人物で胤寿のことか? ただし、天明5(1785)年当時、すでに相馬希及を称しているのに、翌年には相馬木工が名を見せているため、二人が同一人物とは断定できない。 

 享和4(1804)年1月3日、年頭の賀を申上げるため、御一家隠居の泉右橘(胤傳)、相馬左織(胤豊)、相馬希及の三人が登城している。こののち相馬希及の名は見えなくなる。 

 娘は石川助左衛門品昌妻(離縁)、池田八右衛門直方妻

 川窪寅信―――娘
(貞右衛門)  ∥―――――――池田胤直
        ∥      (八右衛門)
        池田直方
       (八右衛門)
        ∥ 
        ∥―――――+―娘
 相馬胤寿―+―娘     | ∥
(将監)  |       | 岡部雅綱
      |       |(求馬)
      |       |
      +―相馬胤豊  +―娘
      |(将監)     ∥―――――+―石橋義恭
      |         ∥     |(兵太夫)
      |         ∥     |
      +―娘       熊川奉重  +―猪苗代純盛
        ∥      (清兵衛)   (辰五郎)
        ∥
        石川品昌
       (助左衛門)

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相馬胤豊(????-????)

 相馬将監胤寿の嫡子。母は田原口吉左衛門敬貞二女。妻は相馬采女福胤次女お福、伊東土佐寿祐長女守屋八郎左衛門昆重娘。通称は外記将監左衛門。隠居後は左織を称した。

 宝暦2(1752)年、江戸屋敷住の相馬采女福胤の次女・お松との縁組が整い、お松は4月16日に江戸を出立。道中は「采女様御台所役人遠藤長左衛門御同道」し、4月23日に「将監方へ御下着」している(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。彼女はまだ幼女であり、形式ばかりの婚姻であった。

 明和3(1766)年正月2日、御一家嫡子岡田和多理直胤相馬外記胤豊が江戸藩邸御座ノ間にて御目見えした。

 明和6(1769)年9月23日、堀内主水胤脩相馬外記胤豊に鑓目録が下された。

 明和8(1771)年5月29日、父・胤寿の隠居願い相馬外記胤豊への家督相続依頼を藩に届出を提出して認められ、7月7日、外記胤豊が家督相続の御礼に参上した。しかし、将監組の相続は許されず、相馬主膳穂胤が組支配を命じられた。

 明和9(1772)年11月27日、相馬外記胤豊侍大将に任じられた。

 安永2(1773)年正月、胤豊の妻相馬采女福胤次女お松)が男子を出産した。幼名は儀十郎。そして、7月7日には胤豊の妹と御一家・泉田掃部胤精が婚姻する慶時が続いた。

 安永4(1775)年12月4日、胤豊は家老職に任じられた。その後、辞している。

 安永8(1779)年6月6日、「相馬外記(胤豊)」は藩公・相馬尊胤より命じられていた相馬家系譜を完成させた。

 天明3(1783)年5月15日、嫡男・儀十郎がはじめて藩公・相馬祥胤に拝謁。「胤」字を与えられて「胤慈」を称した。それにともない、外記胤豊は5月25日に家老となった。「外記」から「将監」に改めたのはこのあたりか。

 8月23日、相馬因幡守恕胤の隠居と讃岐守祥胤の家督相続御礼を恕胤・祥胤とともに将軍に御目見えするため、相馬将監胤豊岡田監物恩胤堀内覚左衛門が江戸に向かって出立した。そして11月5日、恕胤五十歳の祝いが江戸屋敷で行われ、泉田掃部胤精相馬将監胤豊らが和歌を献じた。

相馬将監
 君かへす千年の友をかねてより植えてミそのゝ松や木高き
                         胤豊

 天明4(1784)年正月1日、中村城三の丸にて新年の賀儀が行われ、胤豊の嫡子・相馬外記胤慈が昆布一箱を献じた。この日、恕胤祥胤の「両殿様」の「御改名御祝」も行われ、岡田監物恩胤泉内蔵助胤殊泉田掃部胤精相馬将監胤豊相馬主税胤綿村田仲、堀内勘解由養長、伊東司見祐がそれぞれ干鯛などを献じている。

 天明5(1785)年6月18日、祥胤が藩公となってはじめて入部した際、6月18日、御一家・相馬主税胤綿、家老・泉田掃部胤精が熊川宿に出迎え、中村城に入ると、相馬将監胤豊がこれを出迎え、晩餐を相伴した。翌19日、祥胤は南の涼ヶ岡八幡宮に参詣したが、その後、中村城帰城の途次、城門の手前にあった相馬将監宅に寄り、その後城へ戻った。

 天明16(1786)年6月22日、相馬恕胤は中村妙見社において元服。因親は岡田監物恩胤、烏帽子親は胤豊が務めた。その後、胤豊は「左衛門」と改めたと思われる。

 6月26日、胤豊の妹・伊代が、屋形様(相馬恕胤)の養女となり「於齢」と改名。堀内千松へ配することが決められた。8月1日、千松は「胤」の御一字を賜り、堀内大蔵胤久と称し、12月7日、於齢の方は堀内家に移った。

 寛政元(1789)年12月5日、「屋形様(相馬因幡守恕胤)」「相馬左衛門(胤豊)」に鑓を伝授した。

 寛政3(1791)年11月、相馬左衛門胤豊は執権職を免ぜられ、御家老職に任じられた。

 寛政7(1795)年6月11日、家督を嫡男・外記胤慈に譲る願いが認められて隠居し、百石が与えられた。同時に外記胤慈は家老職に任じられた。7月28日、胤慈と胤豊は家督御礼ならびに隠居御礼のため登城し、藩公・相馬樹胤に謁した。8月には歓喜寺麓に造営された新宮につき、歌ならびに詩が奉納されたが、「相馬左衛門胤豊」相馬外記胤慈相馬主税胤綿泉典膳胤陽らとともに歌を詠んで奉納した。妹は熊川兵庫長福の養女となって熊川兵庫奉重の後室に入った。

 享和4(1804)年1月3日、藩公・相馬樹胤に年頭の賀を申上げるため、御一家隠居の泉右橘(胤傳)、相馬左織(胤豊?)、相馬希及(胤寿?)の三人が登城している。

 文化7(1810)年10月15日、同慶寺供養に際し、藩公・相馬樹胤の代香として「相馬左織」が赴いた。このころ隠居ながら家老職に任じられていたと思われ、文化8(1811)年4月1日、「相馬左織」は家老職を免じられた。そののち、左織胤豊の名は見えなくなる。

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相馬胤慈(1773-1813)

 相馬将監胤豊の嫡子。幼名は儀十郎。通称は外記将監。母は相馬采女福胤次女お松。妻は彜姫相馬恕胤娘)。弟には泉内蔵助胤陽太田清左衛門佳治がいた。

●相馬将監家周辺系図

 相馬胤豊―――相馬胤慈
(左衛門)  (将監)
        ∥
 相馬恕胤―+―彜姫
(因幡守) |
      |
      +―相馬祥胤
       (因幡守)

 安永2(1773)年正月、中村に誕生。安永8(1779)年11月15日、七歳の儀十郎は、藩公・相馬恕胤の娘である彜姫との婚約が成立した。彜姫はこの年の2月28日、中村城内で誕生し、御一家・堀内十兵衛胤陸の養女となっていた女の子で、数えでまだ一歳である。

 天明3(1783)年5月15日、十一歳ではじめて藩公・相馬祥胤に拝謁。それにともない、父・外記胤豊は2月25日に家老となった。

 天明4(1784)年正月1日、中村城三の丸にて新年の賀儀が行われ、相馬外記胤慈が昆布一箱を献じた。

 寛政2(1790)年秋、「相胤慈子勇」「北山八景」の歌を詠んでいるが、「子勇」は胤慈の号か。

 寛政6(1794)年10月22日、胤慈は藩公・相馬祥胤より十文字鑓を伝授した。

 寛政7(1795)年6月11日、父・相馬左衛門胤豊が隠居し、胤慈が家督を継承。家老職に任じられ、7月28日、胤慈と胤豊は家督御礼ならびに隠居御礼のため登城し、藩公・相馬祥胤に謁した。8月には歓喜寺麓に造営された新宮につき、歌ならびに詩が奉納されたが、「相馬外記胤慈」「相馬主税胤綿、脇本簡助基明、尾崎修平毅、村津貞兵衛章」らとともに詩作、歌を奉納した。

 12月23日、叔母の於齢相馬恕胤養女)が堀内大蔵胤久に嫁ぐが、先例とは異なり、相馬外記家より堀内大蔵家に輿入れとなった。相馬外記家と堀内大蔵家は斜向かい同士にあり、そちらのほうが手順がよかったものか。

 寛政8(1796)年1月24日、岡田監物恩胤が家老職・侍大将を辞したため、岡田監物組支配を命じられ、侍大将となる。

 寛政11(1799)年11月1日、胤慈正室の於彜相馬恕胤娘)は男子を出産した。嫡子の儀十郎か。

 享和元(1801)年、相馬樹胤家督相続の御礼のため、相馬祥胤樹胤は将軍に謁見することとなり、先例の通り、御一家より三名が同伴することとなった。そのため、岡田監物恩胤相馬将監胤慈相馬主税胤綿が江戸に出府。4月18日、相馬祥胤樹胤とともに将軍・徳川家斉に謁見した。その後、樹胤は初めて国元に下り、6月3日、堀内大蔵胤久泉内蔵助胤傳泉田左門胤保が中村城内にて謁見。太刀折紙を献上した。泉典膳胤陽も箱肴を進上している。

 享和3(1803)年5月15日の野馬追神事では、藩公・相馬樹胤が病気気味であったことから、名代として胤慈が総大将を務めた。さらに5月28日、胤慈は家老職に就任した。

 文化元(1804)年6月、嫡男の儀十郎が病死した。文化2(1805)年10月21日、胤慈は病のためか家老職を免ぜられた。

 文化8(1811)年1月16日、家老職内定のため城内に召され、2月1日より再び家老職に就いた。しかし、文化10(1813)年4月13日、家老職に就いたまま亡くなった。四十歳の若さであった。

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相馬胤武(????-????)

 相馬将監胤慈の養子。実父は花井七郎太夫信以。母は泉内蔵助胤寧。義母は相馬因幡守恕胤娘・彜姫(圓寿院)。初名は花井勘大夫。通称は将監。隠居ののちは左織。娘は門馬徳右衛門治経妻。娘は門馬本右衛門忠経の嫡男・門馬徳右衛門治経と、佐藤仁左衛門寛重に嫁いだ。

●相馬将監周辺想像系図

 相馬胤豊―――相馬胤慈―+―相馬儀十郎
(左衛門)  (将監)  |
             |
             +=相馬胤武――+=相馬胤綿娘
             |(将監)   |
             |       |
             +―相馬小六郎 +=相馬小六郎
                      (将監)

 文化10(1813)年4月13日、相馬将監胤慈が四十歳の若さで亡くなったため、花井家より花井勘太夫胤慈の末期養子として迎えられ「相馬将監」を称し、10月1日、侍大将に任じられた。この年の5月、藩主・相馬因幡守樹胤は隠居の意思を幕府に示しており、先例によって隠居・家督御礼に藩公に同伴するため、胤武は江戸に登った。

 11月15日、御隠居御家督御礼のため、隠居・相馬樹胤、新藩公・相馬吉次郎益胤に従い、岡田監物恩胤泉左衛門胤陽とともに江戸城に登城。将軍・徳川家斉に拝謁した。

 12月15日、胤武は相馬徳三郎とともに藩公・相馬益胤に拝謁し、それぞれ跡式相続の御礼を述べた。胤武は約半年前に花井家より相馬将監家に入っており、胤慈の跡式を継承することとなった。

 文化11(1814)年1月16日、相馬徳三郎叔母(相馬主税胤綿娘)養女とする旨が藩公より決められ、この日、胤武と相馬徳三郎は御礼のために登城した。相馬徳三郎は相馬主税胤綿の孫に相当するが、胤綿は明和7(1770)年生まれであり、やや世代的な疑問が残る。

 3月15日、胤武は弟・小六郎を養子とした。「小六郎」の通称は相馬将監胤英の通称であり、おそらく胤武の養父・相馬将監胤慈の実子であろう。これは天保2(1831)年9月15日、小六郎(改め相馬外記)に家督を譲る際、胤武は養子の成長と養家への義理を重んじたことが、「其元跡御年来にも無之御筋目柄、御養子御成長ニ付御隠居之御内含有之段、被及御聴御残念ニは候得共、御養家へ之御義理含尤之御次第ニ思召…」と記されていることからもうかがえる。

坪田亀齢社
坪田亀齢社

 5月19日、「相馬将監妹」が病死し、義母の於彜殿(相馬因幡守恕胤娘。相馬胤慈妻)に報告がなされている。6月21日、将監は坪田村の亀齢社に藩主名代として参詣した。亀齢社は義理の祖父にあたる相馬因幡守恕胤が祀られており、こうした理由で胤武の代参となった可能性が高い。

 9月9日、半年ほど前の小六郎との養子縁組の御礼を登城にて行なうが、胤武小六郎四本松勘解由義詮を名代として登城させ、御礼を申し上げた。

 文化12(1815)年5月25日、野馬追が行われ、出陣した。

 文化13(1816)年12月26日、相馬主税胤綿が再度家督を継承することとなったため、胤武の養女(胤綿娘)が実家に戻ることとなり、主税家の家督者であった相馬徳三郎胤綿の養嗣子となる旨が仰せ出された。

 文政6(1823)年10月18日、胤武の次男・邦十郎が誕生した。おそらくこの邦十郎の母と思われる「相馬将監殿御内室」が文政11(1828)年正月26日亡くなった。御内室は16日から病気に臥せっていたことが記されている(『江戸在番日記』)「相馬将監殿」「大殿様御従弟の御続」ということで、藩主・相馬益胤は江戸藩邸にて一月の忌に服した。邦十郎は胤武の実子ではあるが、小六郎が養嗣子であるため、次男としての扱いとされたのだろう。なお、邦十郎がその後どのような扱いになったかは不明である。

 6月23日、胤武の後室として西市左衛門修治の姉との縁談が圓寿院より仰出され、7月17日、胤武は西氏と再婚した。7月24日、将監と西氏は圓寿院に御礼に訪れている。

 文化14(1817)年6月20日、先代・相馬祥胤の一周忌に際し蒼龍寺にて執り行われた法事につき、前日夕方5時ごろから相馬将監組・泉田掃部(胤周か)組の組士が祈祷することが定められた。

 文政11(1828)年2月1日、侍大将に就任し、組支配を命じられた。

 天保2(1831)年9月15日、胤武は養子の外記(小六郎か)が成長したので、筋目の通り家督を譲りたい旨を藩庁に提出。藩公の許しも得て、胤武は隠居して「左織」を、外記は「将監」をそれぞれ称した。

 天保15(1844)年8月13日、老職の中に「相馬左織」の名が見える。

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相馬胤宗(1813-1878)

 相馬将監胤慈の長男か。通称は小六郎、外記、将監。諱は胤長とも。妻は堀内玄蕃胤久次女・美作(ミサ)

 文化11(1814)年3月15日、相馬将監胤武「弟小六郎」を養子とした。しかし、相馬将監胤武は花井氏からの養嗣子で、実弟は立野助太夫儀房のみであることから、小六郎は相馬将監胤慈の実子と思われる。養子の小六郎が成長の暁には、自分に実子があるなしに関わらず、筋目を通して小六郎に家督を譲る気持ちを持っていたようである。

 天保2(1831)年9月15日、相馬将監胤武は養子の外記(小六郎改め)が成長したので、家督を譲りたい旨を藩公に伝えた。養子の成長と養家への義理を重んじたことが、「其元跡御年来にも無之御筋目柄、御養子御成長ニ付御隠居之御内含有之段、被及御聴御残念ニは候得共、御養家へ之御義理含尤之御次第ニ思召…」と記されていることからもうかがえ、藩公・相馬充胤は義理を重んじる相馬将監胤武の態度に感銘を受け、「後々鑑共可相成」と賞賛した。これにともない、外記は侍大将・組支配となり、同時に相馬将監胤武は隠居して「左織」を、外記は「将監」を称した。そして、堀内玄蕃胤久次女・美作(ミサ)を正室に迎えた(『福島県士族相馬胤真祖母ミサ綬褒章授与孝貞』)。ミサは文化14(1817)年生まれの十五歳、胤宗は十九歳のときだった。

 天保5(1834)年正月に藩が藩士の屋敷地と知行高を調べた『御家中屋鋪並知行覚』には「相馬将監」「会所前西側北」に屋敷を持っていたことが記載されている。

 天保9(1838)年6月、幕府巡見使が来た際に巡見使より質問されたときの模範解答『御巡見様御尋之節御答書集帳』「御一家重立候役人」「高八百石 家老頼相馬将監」と見える。

 天保12(1841)年5月23日の野馬追では、岡田帯刀智胤とともに出陣した。

 天保15(1844)年9月29日、胤宗は病のため家老職・組頭を免ぜられた。これより以前にすでに胤宗の家老職・組頭御免は認められていたと思われ、9月21日には堀内大蔵胤賢家老職に就任。相馬靱負胤就組頭を拝命している。

 明治維新を迎えると、相馬将監家は子爵相馬家の一門ではあるものの大名家ではないため、岡田家や泉家らと同様に「士族」に編入されて宇多郡中野村黒木田百三十一番地相馬市中野)に住んだ。

 明治6(1873)年に病に倒れ、明治11(1878)年9月に亡くなった(『福島県士族相馬胤真祖母ミサ綬褒章授与孝貞』)。享年六十六。

 妻のミサは、祖母や舅姑に対して孝道を尽くし、また夫の胤宗に対してもとても協力的な女性だった。胤宗が仕事のために屋敷を出立する際には、その準備を小姓や侍女に任せず、毎回自分で着物から帯刀、そのほか細かいものまですべて取り揃えるという、当時の高級武士の正室としては異例の女性だった。さらに、胤宗の出立帰宅の際には自ら必ず出迎え、欠かすことがなかった。また、家臣や侍女に対しての情も厚く、諸芸修行から品行に至るまで自ら教え諭し、以降不都合から処分を受ける家臣はなくなった。

 長男・将監胤真の配偶の際、相馬長門守益胤の四女・圓姫を迎えた際にも、新婦に対して武庫兵器の修繕保護の方法まで懇々と伝えている。そして慶応4(1868)年、長男・将監胤真平城の救援のため、中村藩大隊長として出陣する際には、父・胤宗の教戒を伝え、忠勇に励む事のみを送別の辞として贈っている。その後、胤真の戦死が伝えられると、忠義を重しとする情と愛子を思う情の発言をし、人々の感動を誘ったという。

 将監家の家督は、嫡孫・胤真が継ぐこととなるが、版籍奉還を経て廃藩置県が行なわれた結果、家禄も十分の一ほどとなり、ミサは将監家の家政改革を断行、薪水のことなど家事も手伝いに任せず自ら行った。

 明治6(1873)年に胤宗が病に倒れた際にも、亡くなるまでの六年間、献身的に介護し、日夜その傍らを離れず、神仏に胤宗の快復を祈祷する毎日を送っていた。時折、背負ったり手を引いたりして邸内や門前を散歩したり、胤宗の旧詩友らを招いて病床の無聊を慰めたり、庭に盆栽や庭木を植えるなど、胤宗のために尽くした。

 ミサにとっては当たり前だったその献身的な生活が人々の推薦によって賞せられることとなり、明治14(1881)年12月、行方・宇多郡長の大須賀次郎や中野村戸長・木幡誓清(旧藩士)より「貞婦美作行状具申」福島県令・山吉盛典に提出されている。

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相馬胤真(1834-1868)

 相馬将監胤宗の嫡男。通称は信太郎、勘右衛門、将監。母は堀内玄蕃胤久次女・美作(『福島県士族相馬胤真祖母ミサ綬褒章授与孝貞』)。妻は相馬長門守益胤の四女・圓姫。「鬼将監」の名で知られた剛毅な人物。

 天保8(1837)年8月25日、藩公・相馬長門守益胤に娘の於圓が生まれた。於圓は10月5日には、相馬胤宗の嫡男・信太郎との婚姻が決められ、大手門脇の相馬将監邸に引き移った。

 天保13(1842)年12月27日、「相馬勘右衛門」が例年の通り「蕎麦粉二袋」を献上。天保15(1844)年12月24日、やはり「相馬勘右衛門」が例年の通り、小豆二袋を献上している。

 嘉永3(1850)年3月20日、巴陵院二百回忌と田中院様二百五十回忌の法要が同慶寺にて行われ、藩公・相馬充胤より、巴陵院殿(相馬長門守義胤)の代に仕えていた重臣たちの末裔にそれぞれ酒が振舞われた。岡田帯刀泰胤(当時:岡田長胤)、熊川左衛門長基(当時:熊川左衛門長貞)、花井七郎太夫信祥(当時:泉縫殿成信)、藤田七郎兵衛(当時:藤田佐左衛門胤清)の面々である。また、岡田帯刀泰胤相馬将監胤宗が焼麺を霊前に献じた。

 10月16日、「相馬将監」「相馬外記」「相馬靱負」「泉田掃部」「脇本喜兵衛」は武功の家柄として酒が下された。

 嘉永5(1852)年閏2月4日、侍大将を拝命した。

 嘉永6(1854)年2月1日、胤真の妹と、佐藤惣太夫嫡子・佐藤久助の縁組願が両家から藩庁へ提出された。

 弟・武岡勉は元治元(1864)年12月25日、新知として二人扶持下され、別家を立てた。彼は馬術の名手であった。

 もう一人の弟・臼井礼次郎は、「相馬将監様御弟、礼次郎様臼井礼次郎様御事、此度下手渡立花様御家中、平塚新兵衛様へ聟養子に相成申候ニ付、明四日、先へ引移申候由、為御知有之」(『吉田屋源兵衛覚日記』安政五年二月三日条)と見え、下手渡藩士平塚新兵衛の女婿として移っていることがわかる。下手渡藩の平塚家は藩内の名家であり、文久2(1862)年当時は用人を務め、明治2(1869)年9月当時は百石取「平塚進士兵衛」の養子である「平塚庄三郎」が寺社奉行を務めている(「御家中分限録」『大牟田市史』)。ただし彼は明治4年(1871)当時「三拾壱歳(1840生)」で、「実父参河国重原県士族勢田善之進、三男、養父進士兵衛亡」(「明治四年七月三池県管下士卒戸数人員調」『川俣町史))であるため臼井礼次郎ではない。もう一人、八十石の「平塚惣右衛門」がいるが、彼の出自は不明。明治5(1872)年10月当時では、高十四石「平塚次郎」、高十石の「平塚平」(「旧三池県士族禄高姓名表」『大牟田市史』)が見えるが、彼らの出自もまた不明である。

        相馬益胤―――円姫
       (長門守)   ∥―――――相馬胤真
               ∥    (将監)
               ∥
        相馬胤宗 +―相馬胤真
       (将監)  |(将監)
        ∥    |
        ∥――――+―武岡勉
        ∥    |
        ∥    |
 堀内胤久―――美作   +―女子
(大蔵)         | ∥
             | ∥
             |佐藤久助
             |
             +―臼井礼次郎
              (平塚家へ)
               ∥
       【下手渡藩士】 ∥
        平塚新次郎――女子

 戊辰戦争で中村藩は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦っており、慶応4(1868)年7月2日、各藩と議した中村藩兵は他藩兵とともに笠間藩の陣屋に駐屯していた西軍を夜襲で打ち破った。しかし、集結した西軍の攻撃を受けた奥羽軍はその兵力と調練、近代化した兵器に敗れ、奥羽各藩は中村藩への兵員増強をしきりに訴えた。このため止むなく中村藩庁は相馬将監組の出兵を命じ、7月7日、将監胤真率いる将監隊は奥羽越同盟の最前線基地・平城(安藤家)に着陣した。

隊長 相馬将監胤真
番頭 幾世橋作左衛門裕経
村田半左衛門一隆
小隊長 野坂源太夫直長
西内重郎左衛門安豊
小畑又兵衛高徳
軍使 花井七郎太夫信祥
岡田富助長泰
軍目付 下浦源左衛門暁清
輜重 富田又左衛門辰実
六間門跡
高麗橋の向こうが六間門跡

 7月13日明け方、西軍の平城攻撃が始まった。胤真は城南の湯本口の援兵として、小畑又兵衛の一小隊を派遣するが、西軍の勢いを止めることができず、小畑隊は本隊と合流することはできなくなった。西軍はさらに各口を突破し城下町になだれ込んだ。

 このため胤真はいったん城南の稲荷山から眼下の西軍に射撃を加えたが、折からの雷雨のため旧式の火縄銃は役に立たなくなってしまった。さらに、城の西に通じる八幡小路にも西軍が迫ったため、止むを得ず城内に退き、六間門を閉じて守った。

六間門より
六間門跡より西軍陣地を望む

 このとき将監胤真のもとにあったのは野坂小隊、西内小隊の二小隊のみで、西軍は六間門にこれに倍する兵力で押し寄せてきた。西軍の新式鉄砲や大砲は雨も問題なく、六間門には大小の砲弾が雨のように降り注いだ。

 中村藩は絶えず軍事調練を怠らなかったが、歴史の古い藩の気風からか、西洋の進んだ兵器や技術を積極的に取り入れることはなく、新式軽装で調練を受けた敵の銃隊には苦戦を強いられた。それでも将監胤真は兵を叱咤し、いつでも突貫できる体勢を整えて門の左右に兵を配して門を守った。

 しかし、すでに兵は疲れ果てており、各口も破られ篭城も厳しい状態の中、胤真は平藩家老・上坂助太夫と謀り、夜更けになって本丸に各隊長を召集、軍議を催した。ここで残った弾薬を調べたところ、弾丸は一人当たり十発に満たないことがわかった。各隊長からは「弾薬も尽き、何で城を守ればよいのか」との意見が出、ついに城を捨て撤退する方針が固まった。二更(午後十時)、守備兵は城の各所に火を放ち、北西の城門より密かに脱出。間道を通って夏井川を渡り、四倉村に駐屯していた中村藩の藤崎源太左衛門義重富沢源之助安明の二小隊と合流した。こうして力を得た胤真は、長友いわき市四倉町長友)で遭遇した西軍の兵を、背後の仙台藩兵と挟撃して追い散らし、久駅いわき市久之浜町)まで退いた。この戦いでの胤真の奮戦は敵味方に称えられ、「鬼将監」の異名をとった。

平城門
城門(性源寺移築)の弾痕

 その後、胤真隊はさらに北上し、7月17日、援兵の泉田豊後胤正堀内大蔵胤賢の部隊と熊駅双葉郡大熊町熊)で合流。ここで西軍の進軍を阻止するべく、守りの薄い山側に堀内大蔵隊、泉田豊後隊が街道筋を固めることとなり、相馬将監隊は遊軍となった。

 7月18日、西軍は占領していた四倉から広野駅双葉郡広野町)を目指して進軍を開始していた。このため、泉田本隊は富岡駅(双葉郡富岡町)まで兵を進め、浅見川の前に陣地を築き、中野卯右衛門重軏源太左衛門義重富沢源之助安明の三小隊を山の手の間道を押さえるために、二本椚亀ヶ崎の二か所に派遣し、増援の今村吉右衛門秀栄木村庄次郎重光西内善右衛門重興の三小隊が追加で派兵された。

 7月19日、各藩は平以来の奥羽列藩の不利な状況に、原町に駐屯する公子・相馬秊胤に出兵を促し、秊胤は大堀村双葉郡浪江町大堀)まで兵を進めた。

 7月22日、西軍は末次村いわき市久之浜町末続)にまで兵を進めた。これに亀ヶ崎に駐屯していた木村重光隊、西内重興隊が夜襲をかけて壊滅させることに成功。陣所には火を放って亀ヶ崎に帰陣した。さらに翌23日には浅見川まで進んだ西軍本隊と中村藩・仙台藩の連合軍が激突。日が暮れても戦いは収まらず、木村重光隊、猪狩隆辰隊の二小隊と仙台藩兵が西軍本隊の左翼に奇襲をかけ、ついに勝利を収めた。しかし、中村藩、仙台藩ともに薬が足りず、弁天坂に退いた。 

戊辰の碑
小高城内戊辰戦争碑

 7月24日、泉田豊後胤正木戸駅双葉郡楢葉町大字山田岡)に軍を進めて陣を張った。一方、将監胤真は兵を率いて仙台藩、米沢藩の兵と合流し、26日に広野に布陣する西軍を討つことを決した。そして26日早朝、泉田豊後隊、相馬将監隊、仙台藩陸軍隊、米沢藩兵はそれぞれ軍議の通り木戸駅を発して広野に向けて進軍した。胤真は本道東の松林の中を進んだが、本道の激戦とは裏腹に兵が現れず、広野駅の陣所に迫った。しかし、西軍は広野駅陣所に砲台を築いており、胤真隊はここからの砲撃に晒されたため、にわかに胸壁を築き、砲弾を避けながら戦うこと数刻、本道からの援兵が到着して、この砲台に攻撃を加えた。 

 しかし、砲台からの砲声も小さくなったとき、松林の中から突如現れた敵の一隊から銃撃を受け、中村藩兵は多数の死傷者を出して退いた。そしてこの襲撃で胤真は重傷を負い、陣所に運び込まれた後、亡くなった。

 この平城の戦いで、中村藩相馬将監隊は隊長の相馬胤真を喪い、高級将校の村田半左衛門一隆佐々木藤左衛門治綱今村吉右衛門秀栄藤田又兵衛宗昌が重傷を負ってしまい、さらにこののちの戦いでも将校たちの負傷が相次ぎ、8月1日の浪江高瀬村の戦いでは、中村藩用人・脇本喜兵衛正明が官軍に捕らえられて斬首されている。 

 この日、中村城内では降伏について話し合われており、さらに浪江での敗戦の報がもたらされたことで、謝罪恭順で藩論が統一された。こののち、相馬家は西軍に加わり、仙台藩を降伏に導いた。

 小高神社境内にある戊辰戦争の碑には、戊辰戦争で戦死した相馬中村藩の相馬将監胤真、村田半左衛門一隆、臼井章喜邦、田村五郎太夫純顕、岡田三郎庸重、佐藤市兵衛元春、斎藤市兵衛実定、菊地庄左衛門春茂、末永英助直重、紺野正八公重、佐藤喜右衛門正信、佐々木清左衛門清廣、片草村の農民久兵衛のほか、徴兵隊、中村藩、広島藩、熊本藩、萩藩、福岡藩、鳥取藩、柳川藩、津藩、館林藩、大洲藩の戦死者二百四十四名を祀っている。

 8月15日夕方、「相馬将監様御葬式」が執り行われ、菩提寺である中村永祥寺に葬られた。享年三十五。法名は英知院殿誠譽良雄仁道居士

 なお、永祥寺は相馬将監家、相馬靱負家の菩提寺で由緒のある寺院だったが、明治に廃され、墓地のみが遺された。その中には歴代の相馬将監家、相馬福胤以降の相馬靱負家の墓碑もあって、昭和五十年代に北山史跡のひとつに数えられていたが、それ以降は所在不明となってしまう。同地には現在、幹線道路や住宅が建っていることから、道路拡張、宅地開発にともなって廃棄されたと思われる。

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相馬胤真(1858-????)

 相馬将監胤真の嫡男。通称は瀧之進将監。母は相馬長門守益胤の娘・圓姫。妻は相馬靱負胤就娘。諱は父と同じ胤真。「大坪當流」の免許皆伝者。最後の藩主・相馬因幡守胤誠の従弟にあたる。

 相馬益胤―+―相馬充胤―――相馬胤誠
(長門守) |(大膳亮)  (因幡守)
      |
      +―圓姫
      | ∥――――――相馬胤真
      | 相馬胤真  (将監)
      |(将監)    ∥
      |        ∥
      +―壽姫     ∥
        ∥――――+―娘
        相馬胤就 |
       (靱負)  |
             +―相馬胤紹
              (亀次郎)

 長松寺の名僧・慈隆の門下生となり、報国二番隊七十一人の筆頭に名を連ねた。

相馬将監胤真の馬術碑
中村城内相馬胤真先生碑

 慶応2(1867)年正月、中村藩馬術師範・馬場忠雅の門下となり、修行に明け暮れたが、戊辰戦争の戦乱が東北に荒れ狂った慶応4(1868)年7月、父・将監胤真が戦傷死したため、わずか十一歳にして家督を継ぎ、おそらく「将監」を称したと思われる。

 明治元(1868)年12月23日には戊辰戦争の功績により百石を加増される。

 明治4(1871)年10月頃の帰農した藩士たちの一覧(『今般親土着侍居所村付』)によれば、「相馬将監」雫村中野村向井将監屋敷に住んでいた。 

 その後も文武の修練を怠らず、とくに将監家から名人を輩出している馬術についても訓練を欠かさず、明治10(1877)年4月、二十歳にして大坪當流の免許を受けた。免許後もその技量はますます高まり、弟子は数百人にも及んだという。また、相馬野馬追でも総大将を務め、数百騎の騎馬武者を統帥して進退動止は一糸みだれず、祭儀を完整した。また、この年、従姉妹に当たる相馬靱負胤就の娘と結婚している。

 人となりは謹厚方正、国風の歌をよく詠み、相馬神社に奉仕する傍ら、相馬子爵家の嘱託を受けて庶務を執り行うなど、中村の留守を預かる国家老的な立場で相馬家のために尽くした。また、明治初期の子爵家人と旧藩士層との対立につき、旧藩士千余人の結社・旧懐社の社長に就任するなど、富田高慶ら子爵家執行部とは対立していたようである。

 彼の弟子である陸軍第二師団長・赤井春海(陸軍中将)は胤真を讃える碑を弟子の代表として昭和3(1928)年、中村城大手先門内に建立した。 


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