大須賀氏

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●大須賀惣領家想像系図

 大須賀胤信――通信――――――胤氏――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                           |
                           +―時朝――――――宗朝――+
                            (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正――――政常――――政朝―――政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――朝胤――――朝宗――――胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


大須賀

 大須賀氏は二つの出自がある。発祥地は下総国香取郡大須賀保(大栄町・下総町・成田市東北部)。

(1)平 常長流大須賀常継…房総平氏の総領家・上総氏に従う。広常が謀反の疑いで誅殺されると所領を没収。
(2)千葉常胤流大須賀胤信…上総流・大須賀常継の遺領を相続し、天正18(1590)年まで約400年間支配。

大須賀家墓所
宝応禅寺にある伝大須賀氏墓所

 平安時代末期、下総平氏の勢力拡大政策の中、当主・平常長の七男・常継が下総国香取郡大須賀保を領して、大須賀を称した。初期の大須賀氏は上総氏に従い、頼朝の挙兵時には広常の軍勢に名を連ねた。しかし、のちに上総権介広常が謀叛の疑いで誅殺されたため、大須賀常継も広常と同類として大須賀保は幕府に没収され、所領は千葉介常胤に与えられた。常胤はその後、四男の多部田四郎胤信に大須賀保の地頭職を譲り、胤信は「大須賀」を称した。

 多部田四郎胤信は、平安時代末期には千葉庄多部田郷千葉市若葉区多部田町)の在地領主として「多部田」を称していた。このころ兄弟で名字を持っていたのは武石三郎胤盛国分五郎胤通の二人で、六男の六郎胤頼は上洛していて下総には不在だった。次男の二郎師常は千葉を称しているが、彼は常胤の子息の中で異彩を放っており、ただひとり「胤」字をもたない。のちの相馬氏の祖であり、常胤相馬御厨について源義宗(源頼清流)と争っていた永暦2(1161)年から長寛元(1163)年ごろ、相馬郡にあって、上総氏系の相馬九郎常清と何らかの関わりをもっていたのかもしれない。

 胤信は奥州藤原氏との戦いでは父・常胤にしたがって東海道を攻め上り、その功績で正治2(1200)年、陸奥国好島庄(福島県いわき市)を賜った(実際は父・常胤が頼朝から賜った所領を譲られた)。承元元(1208)年には「好島庄預所職」を東西に二分して、「好島東庄」を嫡子・通信「好島西庄」は4男・胤村にあたえた。他の子供たちも大須賀保内の土地をゆずられて、その地名を「名字」として称した。また、「和田義盛の乱」の鎮圧後に、その功として甲斐国井上庄を賜った。

●大須賀保相続の図●

大須賀常継――<没収>―→頼朝――<恩賞>―→常胤――<譲与>―→胤信

●奥州好嶋庄相続の図●

源頼朝――――<恩賞>―→常胤――<譲与>―→胤信――<分与>―+―(東庄)→通信
       
                         |
                                |
                                +―(西庄)→胤村

 胤信の嫡子・通信は父の惣領職を継いで、弟たちとともに大須賀保の開発につとめた。在所は大須賀郷の名字地「大菅(成田市大菅)」に近い助崎館成田市名古屋)であったと考えられる。香取海の浜辺を有し、水運の便が非常によい立地であったことが想像できる。

 通信の弟の中で、次弟・胤秀千葉庄多部田庄を継いで、多部田次郎をなのっている。多部田庄は千葉市内であり、大須賀郷とは少し距離がある。通信のあとは次男・胤氏が惣領家を継いで、将軍・九条頼経・頼嗣に仕えた。宝治元(1247)年6月7日の「宝治合戦」では、同類とされた上総権介秀胤(三浦泰村の妹聟)を、東素暹入道とともに上総国一宮の上総介館を囲み、その間に秀胤一族は自害して上総氏は滅亡した。

 戦後、寄せ手の東胤行は、外孫にあたる上総泰秀(上総秀胤の三男)の子ら秀胤一族の助命を求めて許されている。翌年、泰秀の子が2歳になると、陸奥国五戸郷鹿内に流すことになり、その護衛として大須賀景氏国分行泰らが従っていき、末裔の方は青森県内にお住まいとも。

 その後も大須賀氏は鎌倉歴代将軍に仕えた。「時」「宗」などの諱字は得宗家との関わりもうかがわせる。康永4(1345)年の『造営所役注文』には「一宇 北庁 大須賀保役所」として「地頭大須賀下総前司入道跡」の名が見えるが、この「下総前司」とは大須賀下総守宗朝と考えられる。大須賀宗朝の所領を受け継いだ女子も含めた人々が所役の対象となっている。

 元弘2(1332)年9月、大須賀左馬助憲宗は得宗・北条高時の命により、河内で蜂起した楠木正成討伐のために千葉介貞胤に従って京都へ向かったとされる。こののちの大須賀家は「受領名(下総守・信濃守など)」を冠した人物と「官職名(右馬助・左馬助など)」が現れており、受領名のほうが官途名よりも格が上である事から、のちに官途名を関するほうが大須賀惣領家であったかもしれない。

 鎌倉幕府滅亡後、憲宗貞胤とともに足利尊氏と対立。しかし、すぐに足利方に降伏して家名を守った。憲宗の子・大須賀左馬助宗正は、貞治4(1365)年の千葉介満胤の家督相続のとき、満胤がまだ幼少であったため、鎌倉公方・足利氏満の命を受け、その後見人となる。その子・大須賀左馬助憲康は、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」のときには千葉介胤直に従って戦功を挙げた。

 室町時代後期の大須賀家は、新しく築城された松子城成田市松子)に移った「松子大須賀氏」と、そのまま助崎城にとどまった「助﨑大須賀氏」の二流に分かれ、それぞれが独立した領主として室町時代末期まで続いた。このころから系図上での相違が見られるようになっており、二流に分かれたことが何らかの影響を与えたと思われる。天正年中の北条氏の支配下にある領主のなかに「大須賀殿 助崎殿」と書かれている。

 なお、大須賀家や国分家、奥州千葉一族など、とくに下総や奥州の千葉一族の系譜はいずれも錯綜が大きく、これが正しいという系譜は残念ながら存在しない。真実は歴史の中に埋没しており、現代においては法名ならびに官途名、古文書、伝承から人物名を同定する以外に方策はない。つまり考え方によって無数の組み合わせが存在するわけだが、ここに載せる大須賀惣領家の伝はその一つの考え方に過ぎない。

松子大須賀氏

 大須賀氏は本来、助崎に屋敷を構えており、香取郡大須賀保松子成田市松子)に主流が移ったのは室町時代中期と考えられる。

 小田原北条氏からは「大須賀殿」と呼ばれており、「助崎殿」と呼ばれる大須賀氏とはべつに把握されていることがわかる。惣領家が松子へ移ったのか、支族が松子へ移り勢力を拡大したのかは不明。

助崎大須賀氏

 大須賀氏は、鎌倉時代に多部田四郎胤信が入部したと思われる香取郡大須賀保助崎成田市名古屋)から発展した。室町時代中期、惣領家が松子成田市松子)に移った後も助崎には大須賀一族の有力支族が展開し、「助崎殿」と呼ばれて発展した。

 永禄12(1569)年5月8日の『北条氏康書状写』「大須賀信濃守」が見え、武蔵国岩付城の在番を転じて瀧山城番を命じられており、北条氏の支配下にあったことがわかる。元亀3(1572)年8月には神崎の利権を巡ってか、「神崎上総介」と「大須賀信濃守」が「遺恨之儀」によって戦っている(元亀3年8月15日『千葉胤富書状写』)。おそらく大須賀信濃守は地理的関係から助崎大須賀氏と推測できる。

 天正5(1577)年3月16日の『原豊前守書状』「大須賀介崎殿」、天正15(1587)年正月22日の『北条氏直書状』「大須賀尾張守」とあり、またその他にも北条家の文書には大須賀氏に関わる書状が数多く残されている。

 大須賀氏は大慈恩寺(律宗)や宝応寺(曹洞宗)を菩提寺としているが、助崎大須賀家はその後、日蓮宗に改宗したようで、室町後期の大須賀伊豆守胤朝は子細あって清隆寺(清龍寺?)を建立し、兄弟ともに日蓮宗に改宗したという(『大須賀家蔵大須賀系図』)。そして、胤朝の子に「大須賀左衛門大夫兼朝」が見え、法名は「日慶」とある。

 なお、「大須賀伊豆守」については、本土寺(松戸市平賀)に残る『本土寺過去帳』に「日曉慈父」の「大須賀伊豆守(常顕日道)」が見える。この「日曉」がいかなる人物かは不明ながら、彼の兄に「大須賀左衛門胤俊(日慶)」が見え、「日曉父」として「左衛門」が見える。

●『本土寺過去帳』の大須賀氏●

 日暁兄
 
日慶 大須賀左衛門胤俊
    天文十四 三月

 日暁父 左衛門 
 華林幽春 大須賀殿御台
      天正拾六戌子正月
      矢作妙真寺開山 矢作殿息女(⇒松子大須賀政朝=常安妻)
 ■蓮信位 大菅与三右衛門女
      丙午十二月
 常顕日道 日暁慈父 
      大須賀伊豆守

 この『本土寺過去帳』をもとにした系図と『大須賀家蔵大須賀系図』を比較すると、

『本土寺過去帳』

大須賀左衛門――――――+―大須賀左衛門胤俊
(大須賀伊豆守、常顕日道)|(日慶
             |
             +―日暁

『大須賀家蔵大須賀系図』

⇒大須賀伊豆守胤朝―――――大須賀左衛門大夫兼朝
(日清)         (日慶

 この両者は同一人物を指しているのかもしれない。ただし、『本土寺過去帳』では「左衛門」は天文14(1545)年に亡くなったとあるのに対し、「大須賀伊豆守胤朝」は弘治2(1556)年の卒去とされ、約十年の開きがある。

奥州大須賀氏

 奥州仙台藩の藩士の大須賀氏は、大須賀胤信の子・大須賀太郎左衛門尉胤綱を祖とする。

 胤綱の子・大須賀次郎左衛門尉公胤の子・大須賀修理大夫氏胤は弘安8(1285)年11月19日の霜月騒動(安達泰盛と平頼綱の権力争い)で城三郎頼繁を討ち取ったが、25日に由比ガ浜で戦死したとされる。ただ、大須賀胤信の嫡子は大須賀太郎左衛門尉通信であり、大須賀太郎左衛門尉胤綱という人物は系譜上見えない。

 もう一流、大須賀通信の七男・大須賀七郎左衛門尉景氏は、宝治合戦のときに自害した上総泰秀(上総秀胤の三男)の子が2歳になって流罪となり、陸奥国五戸郷鹿内に流された際、国分行泰とともに従ったという。

 また、大須賀氏は岩城郡好島庄の地頭職を得ており、元亨元(1321)年12月7日には「大須賀四郎左衛門尉宗常」が好嶋庄の一方地頭であることがわかる。この「大須賀四郎左衛門尉」と同一人物かは不明だが、建武2(1335)年8月19日、足利尊氏と中先代軍(北条時行勢)との辻堂・片瀬原の戦いでは「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」「海上筑後前司」が尊氏に降伏していることが『足利尊氏合戦注文』(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)に記されている。

千葉二郎左衛門尉 千葉二郎左衛門尉胤朝 元徳2(1330)年に「殺害の咎に依」って所領を没収された 神崎流千葉氏
大須賀四郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉宗常?
大須賀四郎左衛門尉胤連?
元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄に関する書状
――――――――――――――――――――――――
大須賀氏
海上筑後前司 海上筑後守師胤   海上氏

 建武4(1337)年正月16日、伊賀式部三郎盛光石川松河四郎太郎の手に属して小山駿河権守の館を攻め立て、同日に湯本館を攻めて湯本少輔房を生け捕ったことを、「大須賀次郎兵衛入道」の若党・野辺九郎右衛門と、「同駿河守(大須賀駿河守)」の若党・新妻次郎左衛門尉佐竹彦四郎入道代頴谷大輔房が証明しているとした軍忠状を提出している(『飯野文書』:『福島県史』資料編中世所収)。この大須賀次郎兵衛入道大須賀駿河守は、時代的に見ても大須賀四郎左衛門尉宗常と同時代の人物であり、血縁的にも近い人物と考えられる。

 こののちも奥州に大須賀氏の一族がいた可能性は大きく、その子孫が伊達家に仕えたと考えられる。仙台大須賀家の伝承によれば、大須賀胤次が室町幕府の滅亡後に下総から岩城に移り住んだことが伝えられている。好嶋大須賀家の一族は、岩城家の家老となり、江戸時代も代々老職を務めていた。

 大須賀胤信の嫡子・大須賀太郎左衛門尉通信の長男に「大須賀又四郎胤継」なる人物がおり、彼と「胤綱」は同一人物か。系譜では胤継の子は「大須賀又四郎胤重」で、その後は載せられていない。

 室町時代中期の岩城下総守親隆が発給した文書に、大須賀隠岐守猪狩左衛門尉猪狩土佐守の名が見える。この当時、岩城氏は陸奥国南部、佐竹氏と国境を接する平城(福島県いわき市平)を本拠地に勢力を持ち、北は行方郡を統一して安定した地盤を築いていた相馬氏と対立していた。相馬氏はたびたび岩城領に攻め込んでおり、大永5(1525)年8月、18歳の若い相馬家当主・相馬顕胤は平城に迫り、当主・岩城重隆から和睦の使者が遣わされている。この岩城重隆の曽祖父が岩城親隆で、文中の「川内」とは楢葉郡川内村のことを指していると考えられることから、嘉吉2(1442)年、標葉氏当主・標葉清隆と一族・新山隆重(新山塁主)の対立が関係しているのかもしれない。戦いに敗れた隆重は岩城氏を頼って岩城郡に逃走している。

◆某年11月12日『岩城親隆書状写』(『大栄町史』所収)

 
 其以来者依無音意外候仍其口境中静候之哉、無御心許候、然者於川内兎角雑意等申廻候之條、大須賀隠岐守、猪狩左衛門尉、同土佐守、彼口へ相越候、自十三日其地へ入番之由承候為
御心得申届候、其口珍敷仔細も候者、早速可告承候、恐々謹言
 
   霜月十二日                親隆(花押)
 
    和州へ

 さらに慶長5(1600)年の「関が原の戦い」に際して、東北地方では相馬家と岩城家が佐竹家と図って中立の立場になったことから、戦後に家康の心象を害して所領を没収されて、佐竹家の一族扱いで出羽国久保田へ転封を命じられてしまった。この時、相馬家は嫡男・相馬蜜胤(利胤)と家臣たちが江戸へ出てさまざまに工作したことから、旧領行方郡を安堵されるが、岩城貞隆も工作を行うべく江戸へ出て、浅草で浪人していた。このとき、貞隆に随従して浅草にあった旧家臣たち42名の中に「大須賀織部」の名を見ることができる。

◆寛永2(1625)年10月吉日『岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚』
(『小川家文書』:『大栄町史』所収)

 貞隆公浅草御浪人中、随身之諸士名元覚、義隆公より御黒印被下候衆中、
 
  好間兵部大輔  佐久間総右衛門  大館帯刀     高橋五郎右衛門
  大塚内蔵頭   鵜沼主馬     服部監物     新妻久左衛門
  中山采女    佐藤右近     加瀬太郎兵衛   古宇田新助
  秋山采女    中山主殿     八嶋宮内     諸橋玄蕃
  大館備前    駒木根茂兵衛   志賀八左衛門   小泉九郎左衛門
  小河甲斐守   白土右馬助    鵜沼彦右衛門   戸嶋重右衛門
  同九郎兵衛   同 右衛門    半田佐左衛門
  塩 左馬助   大平新左衛門   駒木根七郎右衛門
  田中蔵人    四倉下野     富岡伝七     
  白土孫七    鵜沼図書     白石又右衛門
  大須賀織部   志賀内記     斎藤兵左衛門
  長谷左門    三浦七兵衛    志賀太郎左衛門
 
   寛永二乙丑年十月吉日
 

■仙台藩士大須賀家■

⇒大須賀胤信―胤綱――――――公胤――――――氏胤――――実胤―胤尊―守胤―胤茂―元胤―胤顕―胤国―胤久―胤虎―+
(四郎)  (太郎左衛門尉)(二郎左衛門尉)(修理大夫)                            |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―胤仁―胤影―胤次―+―胤兀―胤重―胤治―胤親―胤郷―胤之―胤教―胤淑
           |
           +―胤永
            (庄兵衛)

寛正5(1464)年10月6日『熊野御師檀那売券』(『熊野那智大社文書』:『米良文書』所収)

 売渡申檀那之事   合拾貫文

 右件之檀那ハ、依有要用、酉年より午年まて奥州於東海道大すかの一族を一ゑんに十年季売渡申候所実也、彼之やくそくハ、十年季過候ハヽ本銭かゑしニ沙汰申へく候、その時相違なく御わたしあるへく候、仍為後日如件、

    寛正五年十月六日           うりぬし 橋爪六郎(花押)
 

三河大須賀氏

 大須賀胤信の八男・成毛八郎範胤を祖とする一族で、範胤は下総国香取郡成毛村(成田市成田町成毛)を領して成毛を称していた。しかし、鎌倉時代の北条氏と三浦氏の合戦「宝治合戦」で、縁戚の三浦泰村に荷担したため下総を逐電し、宇都宮氏を頼って下野国君島村に逃れた。この子孫が甲斐国を経て三河へ入り、三河国洞里へ土着したともされる。また、鎌倉幕府滅亡に伴い、甲斐国井上庄に逃れた一族があり、その末裔とも。

 一方、上総国久留里城主となった大須賀家に伝わっていたと思われる系譜(『大須賀根元記』内閣文庫:君津市史所収)によれば、成毛八郎範胤の兄で三浦合戦でともに三浦氏に加担した大須賀七郎重信の末裔と伝わっている。系譜間にやや錯綜が見られるが、他の大須賀家の系譜には見られない人物名を見ることができる。

 大須賀道信―重信―――――胤氏―――――朝氏―――胤高――朝胤――高道―――――朝重―――――胤重――――+
(太郎)  (七郎左衛門)(次郎左衛門)(左衛門)(五郎)(六郎)(弾正左衛門)(五郎左衛門)(六郎太夫) |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―高門――――康高――――――忠吉―――胤高――――榊原忠次
 (六郎五郎)(五郎左衛門尉)(出羽守)(五郎兵衛)(式部大輔)

 大須賀六郎太夫胤重は三河東条城主・吉良左衛門尉義照に仕えていたが、その子・大須賀六郎五郎高門は酒井党の重鎮・酒井将監忠尚に仕え、三河国幡豆郡野場村に屋敷を構えた。

 その子・大須賀五郎左衛門尉胤高は大永7(1527)年に生まれ、松平広忠に仕えた。その後、広忠の嫡子・松平元康(徳川家康)が今川氏のもとを離れて三河岡崎城へ帰国するとその麾下に加わり、「康」字を受けて「康高」を称した。

 康高は元亀元(1570)年6月28日、「江州於姉川、信長公、朝倉浅井御一戦之砌、権現様御加勢御出馬之刻、大須賀五郎左衛門ハはや一個之大将ニ而候」と、姉川合戦では德川勢の大将の一人として合戦に加わり、「一番合戦数多被仰付候内、五郎左衛門、小笠原与八郎、両手之人数にて越前衆を切くつし、其日の御合戦御勝ニ罷成、信長公も御威被成、諸軍手柄之由申儀、其隠無御座候事」(『大須賀記』)という軍功を挙げる。

 元亀3(1572)年10月10日、武田信玄が遠江国に侵攻し二俣城を攻め落とし、12月22日に三方ヶ原で合戦となった際には、「五郎左衛門、一番合戦を被仰付、無比類手柄之由、承候事」(『大須賀記』)の期待を受けている。

 天正元(1573)年8月、長篠城攻めでは「大須賀五郎左衛門、榊原式部大輔、石川日向守、久野三郎左衛門、小笠原与八郎、柴田七九、此外遠州侍残し被為置候」と、女婿榊原康政らとともに遠江国の警衛をしている。ところが、遠江国に「長しの之為後詰、甲州より山形、馬場、内藤、穴山、武田しゃうようけん、同右衛門大夫、小山田を先として、壱万五千積ニ而、八月廿日ニ遠州へ発向す、味方小勢ニ付て、面々の城ニ引■居候所、敵山梨之奥、森と申在所ニ山ニ付、しけの内に陣とり申ニ付て、何も城をはなれ、袋井のならび小野田と申所に、七頭之人数居申候」、山縣三郎兵衛、馬場美濃守、内藤修理亮、穴山梅雪斎、武田逍遥軒(信綱。信玄の弟)、一條右衛門大夫、小山田備中守らが攻め込んでくると、9月10日、遠州諸将と「堀越と申在所」に武田勢と対峙し、「五郎左衛門一番合戦、其内より抽五六町つきくつし、頸数百余討捕申候」という戦功を挙げる。ところが、ここに「敵二ノ前、山形三郎兵衛、鑓を入、又味方敗軍いたし五六拾討れ申候」と、先手二番手の山縣三郎兵衛昌景の隊による突撃により、遠州勢は敗走する。武田勢も警戒して「其より互間隔相引に引申候、袋井より森まては二里之内外にて御座候」という。その後、康高は「物見之衆、参見申候」すると、武田勢は長篠城の奥平貞能・貞昌の德川家降伏によってすでに退いていた。

 天正2(1574)年3月の駿河国平定戦ではそのしんがりを勤め、武田勢の追撃を防いでいる。さらに、翌年5月21日の「長篠の合戦」では、徳川勢の先鋒として武田勢に突っ込んで大功をあげた。

 天正9(1579)年3月22日の高天神城の戦いで大功をあげ、この功績によって遠江国城東郡三万石を与えられ、横須賀城主となった。さらに甲斐国平定戦や小牧長久手の戦いでも女婿・榊原康政とともに奇襲攻撃を行い、池田恒興入道ほか、森武蔵守長可を討ち取るなど羽柴秀吉の大軍を退けている。

 康高には男子がなく、天正17(1589)年、榊原式部大輔康政に嫁いだ娘の子で外孫にあたる国千代を養嗣子として家督を継承し、天正19(1591)年6月23日に死去した(『横須賀根元歴代明鑑』)。ただし、実際には康高には信高という男子があったが、彼はすでに出家して慶長8(1603)年に横須賀城下に善福寺を建立している。

 天正18(1590)年3月、大須賀国千代は坂部三十郎・久世三四郎らの老臣の後見のもとわずか十歳で小田原戦役に出陣(「大須賀家伝」:『久留里市史』)。鉢形城主・藤田安房守氏邦(北条氏政弟)の軍勢五百騎が小田原城中の加勢として入ろうとした際、久世三四郎、坂部三十郎、筧助太夫、渥美源五郎が酒匂菫野に伏せたが、これより早く故康高の女婿・阿部左馬助正吉(忠吉。忍藩祖)が筧竜之介、加藤平二郎、鈴木角右衛門の四名を伴って菫野に伏せており、藤田氏邦勢が近づくや、阿部左馬助は名乗りを上げて突撃。狼狽する藤田勢の中を麾下の四名とともに戦い、左馬助は敵一人を突き伏せ、一人に手傷を負わせた。そして、逃れる三名の藤田勢に追いすがった筧、加藤、鈴木の三名が彼らを突き伏せた。この四首を秀吉に献じた左馬助は賞され、家康も左馬助以下五名を召して賞した(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 同年、家康の関東入部に伴い、国千代は上総国久留里城を与えられ、三万石を領することとなる。また、坂部三十郎、久世三四郎、阿部左馬助、筧助太夫、渥美源五郎は「家中之事成敗之」を命じられる(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 国千代は、慶長元(1596)年2月、主君・徳川秀忠を烏帽子親として元服。偏諱を受けて「忠政」の名乗りを与えられ、慶長4(1599)年4月17日、「叙従五位下、任出羽守」となる(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 慶長5(1600)年秋の慶長の役(関ヶ原の戦い)の際には、忠政は上野国館林城の守りに遣わされたが、忠政は館林城は家臣に守らせ、自らは家康に供奉することを請うた。家康もこれを許し、関ヶ原の戦いでは、坂部三十郎らとともに戦功を挙げた。このとき忠政二十歳であった(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 慶長6(1601)年、本領を故地・遠江国横須賀に移されて五万五千石に加増され、さらに「松平」の号を給わる(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 慶長8(1603)年2月、家康の将軍宣下の参内においては騎馬で扈従する(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 慶長10(1605)年の秀忠上洛に際しては、秀忠が忠政の居城・横須賀城に立ち寄り、坂部ら老臣が召されて褒賞を受ける(「大須賀家伝」:『久留里市史』)

 しかし、忠政は慶長12(1607)年に病気となり、養生のため有馬温泉へ向かうべく上洛したが、9月11日、洛南伏見において二十七歳の若さで亡くなってしまった。忠政の遺骸は横須賀撰要寺に送られ葬られた。法名は華馨院殿前羽州泰巌叟安大居士

 その子・国千代はまだわずかに三歳であり、家督を継ぐも「為御後見、五郎左衛門殿御舎弟、大須賀五郎兵衛殿、其の頃同国久能の城主、五千石にて御入候を被仰付、横須賀へ御出仕置被成候」(『横須賀根元歴代明鑑』)と、幼少の国千代の後見として、当時久能城主(袋井市)だった大須賀五郎兵衛(康高弟。康純または康胤のどちらか)が任じられ、横須賀城出仕が命じられた。

 松平国千代は将軍秀忠の一字を与えられ「忠次」を称し、慶長19(1614)年の「大坂冬御陣」において十一歳で出陣し、翌元和元(1615)年5月の夏の陣でも天王寺陣中に久世三四郎、坂部三十郎が戦功を挙げている(「大須賀家伝」:『久留里市史』)。ところが、伯父にあたる榊原式部大輔康勝が「大阪夏御陣」の攻口で「痔御煩、馬上にて痔潰れ大分血はしり馬上にて死去」(『大須賀記』)してしまったことから、急遽国千代忠次が「榊原の養子として彼の家相続可仕旨、被仰付」られた。このとき、国千代忠次は「伯父の後と申、其上大身に罷成候事、雖有奉存候へ共、横須賀家中の者共不便に御座候えば、御免可被下申■■■■御心安の存候、横須賀家中の者共■■■■■御陣場より直に榊原へ入也、近習七人給り■■作田十左衛門、大石彦右衛門、村野三之丞其外六七人也」(『大須賀記』)という。闕文があってはっきりしないが、自分の榊原家入嗣で大須賀家が断絶し、家中が浪人となってしまうことを危惧した国千代はこれを断ろうとしたが、家康は横須賀衆をそのまま榊原家に移すことを了承したようである。しかも、夏の陣の戦場で家中替えが行われるという異例の対応となった(『大須賀記』)。忠次には榊原家中から作田十左衛門以下六、七人が近習として召し出された。

 一方、榊原康勝には大坂御陣前に側室との間に平十郎という男子があったが、榊原家の家老・中根吉右衛門原田権左衛門村上彌右衛門の三名が、幼君であっては武功を立てるのも難しく、立身も成り難しと、あえて「榊原家には嗣子無し」と訴え出たという。これを聞いた家康が国千代を召し出し、「大須賀家をそのまま相続させたいところではあるが、実家の榊原家を相続する気持ちはないか」と聞くと、国千代は「榊原の名跡を継ぎ申したい」と答えたことから、国千代は榊原家を相続したともされる。のちにこの三家老は密謀が発覚して家康の怒りを買い、流刑に処されたという。

 横須賀城は徳川常陸介頼宣が入封するが、頼宣の正室・加藤氏(瑶林院)が榊原式部大輔康勝の正室の姉という続柄にあったことによる由緒か。

                徳川頼宣
               (常陸介)
                ∥
         加藤清正―+―娘
        (肥後守) |
              +―娘
 大須賀康高―――娘      ∥
(五郎左衛門)  ∥――――+―榊原康勝===榊原忠次――榊原政倫===榊原勝乗
         ∥    |(式部大輔) (式部大輔)(式部大輔) (式部大輔)
         ∥    | ∥                    ↑
         ∥    | ∥――――――平十郎―――榊原伊織―――榊原勝乗
         ∥    | 側室某氏               (式部大輔)
         ∥    |
        榊原康政  +―大須賀忠政――榊原忠次
       (式部大輔)  (出羽守)  (式部大輔)

「欠川の御城主安藤帯刀殿御下知にて、武田万休斎、大須賀一徳斎、松下助左衛門殿郡代替に相勤、元和五年に常陸助様紀州中納言に被為成、紀州へ御越の節、横須賀の家中、不残紀州へ御供申引越申候」(『横須賀根元歴代明鑑』)という。掛川城主安藤直次のもと郡代替として地域政務を執り行った。この郡代のひとり「大須賀一徳斎」は下総大須賀氏の一族で、偶然ながら宝治合戦以来分流した三河大須賀氏と出会うこととなった。

 享和年中(1801~4)の紀伊和歌山藩士の御弓之衆「大須賀右衛門次郎」(八十石)、大番衆五番「大須賀九郎右衛門」(二百石)、大番衆八番「大須賀五六左衛門」(三百石)は横須賀の大須賀氏の末裔であろう。

 なお「大須賀一徳斎」は、『大泉叢誌 巻七十三』(「致道博物館蔵」)によれば、出羽国庄内藩士の大須賀氏の祖となっており、大須賀何某は『由緒古扣写』と題する「大須賀氏扣写」「拙者迄四代、曾祖父大須賀一徳斎儀、本国下総一類ニ御座候ニ付、原美濃父能登与申合、下総を立退甲州へ来り罷候、栗田左衛門尉、山縣三郎兵衛、別而懇意を請、住所其信濃善光寺近所ニ罷在候、然所二勝頼御代ニ家康公、甲州信濃御手ニ入、栗田跡を御立不被成、依之、右一徳、栗田御厚情を請候故、何卒栗田跡無相違立申度、古左衛門尉忠次様栗田美濃守住所、往古ヨリ之段々申上候、忠次様、信濃へ為御仕置御越被遊候砌、山縣三郎兵衛息女、栗田左衛門尉皇室を御引取被遊候時分、御取次をも仕候為于や、別而被懸御目ニ付、弥善光寺代々住所之旨申上候、御取成を以、栗田左衛門尉子息栄寿丸を左衛門尉に被成、栗田跡目無相違被仰付、左衛門尉を 家康公へ被召出候」(坂入陽子氏「酒井忠次と大須賀一徳斎」『戦国史研究』81号 2022年)といい、大須賀一徳が恩顧のあった信濃善光寺の別当家で旧武田家に属した栗田家を酒井左衛門尉忠次に斡旋していた。

榊原忠次寄進灯篭
榊原忠次奉納灯篭

 右の灯篭は、日光東照宮に寄進された榊原式部大輔忠次(大須賀忠次)の銅灯篭である。

 なお、これら東照宮に寄進された銅塔を造った人物は、「江戸鋳物御大工 椎名兵庫頭吉綱」で、同様に日光東照宮に寄進された「従四位下會津侍従加藤式部少輔明成」の銅塔〔寛永18(1641)年8月寄進〕も彼が鋳造している。

●大須賀・榊原家略系譜

 大須賀掃部――+―康高―――――+―信高
        |(五郎左衛門尉)|(善福寺開基)
        |        |        【播磨姫路藩主】
        +―康純     +―娘     +―榊原康勝===忠次――――――政房
        |          ∥     |(式部大輔) (式部大輔)  (式部大輔)
        |          ∥     |        ↑
        +―康胤       ∥―――――+―松平忠政   |
                  榊原康政    (五郎左衛門) |
                 (式部大輔)      ∥    |
                             ∥――――忠次
                  久松俊勝       ∥   (式部大輔)
                 (佐渡守)       ∥
                   ∥―――松平康元――娘
           水野忠政―――伝通院
                   ∥
                   ∥―――徳川家康
                  松平広忠

吉良家大須賀氏

 また、江戸時代の高家・吉良家に仕えた大須賀氏があった。室町期の東條吉良家の被官であった三河大須賀家の末裔であろう。

 元禄14(1701)年3月に起こった浅野内匠頭長矩が幕府高家・吉良上野介義央に江戸城内で刃傷に及んだ事件で、吉良家にはなんのお咎めもなかったことに怒った赤穂藩の浪人たちは、翌年12月14日、旧赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄を筆頭とする四十七人で徒党を組み、吉良邸に討ち入った。

 吉良義央はこのとき隠居しており、隠居付近習として清水一学(七両三人扶持、二十五歳)をはじめ、大須賀次部右衛門(六両、三十歳)があった。赤穂浪士が邸内に討ち入ってきた際、次部右衛門は書院番をしていたが、台所で斬り合いののち討ち死にした。法名は宗誓。新宿区市ヶ谷の真言宗寺院・常敬院に葬られた。

岡山藩大須賀氏

 岡山藩医師の大須賀道雲は万治元(1658)年6月、岡山藩と所縁のあった旗本の久世三四郎の口利きで江戸藩邸に召し出され、百五十俵二十人扶持を扶持された。そして万治3(1660)年9月、三百石の知行取となり、江戸藩邸詰めとして仕えた。道雲がどこの出身かは不明だが、三河に領地を持つ久世三四郎家とゆかりがあることから三河大須賀氏か。

小田原藩大須賀氏

 小田原藩に仕えた大須賀家も三河大須賀家の流れ。享保9(1724)年、相模国小田原藩の家中に御広間詰の藩士として大須賀政直清六)の名が見える。石高は六十二石六斗九升(『享保九年小田原藩順席帳』)

 小田原藩大須賀家はその後、家督の相続に問題が生じたのか、文政8(1825)年の分限帳で大須賀鉄五郎の知行高は、享保9年当時の大須賀家の知行高のちょうど半分の三十一石三斗四升五合とされている(『文政八年小田原御家中知行高覚』)。鉄五郎は文政8(1825)年8月21日に高齢を理由に隠居を許され、同年10月20日、小田原で亡くなった。

 その養子・吉治は鉄五郎の家督を継ぎ、御広間席三十一石余を相続した。吉治は小田原藩士・森左宮の二男で、森為右衛門の弟。文化11(1814)年3月4日に鉄五郎の養子となっていた。翌年4月24日、箱根御関所御番となるが、翌文政10(1827)年7月18日、病気のために箱根御番の免除願いが許され、文政12(1829)年6月18日に小田原にて亡くなった。

 その養子・善次郎は文化6(1809)年12月25日、川添市兵衛の子として生まれた。文政12(1829)年6月18日、大須賀家の吉治が亡くなったため、家督を継ぐものがいなくなった大須賀家は断絶の憂き目を見るところ、10月1日、川添家から善次郎が迎えられ、11月22日、善次郎は吉治の家督を継いで、御広間席三十一石余を継承した(『御家中先祖並親類書』)。弘化2(1845)年11月4日、中島流砲術小目当免許を許された。その後は異国船への備えのためにたびたび真鶴岬の警固に出兵している。嘉永6(1853)年6月4日、名を善次郎から善左衛門へと改めた。安政3(1856)年4月16日、不調法を犯したため、一石余を削られ三十石とされたうえ、蟄居を命じられた。

 その子・保之助は天保10(1839)年8月19日に小田原で生まれた。安政3(1856)年5月1日、父・善左衛門の家督を継ぎ、御広間席三十石となる。元治元(1864)年6月、幕府は、挙兵した「諸国浪人(長州藩のことか)」たちの押さえのため、小田原藩に箱根の守りを命じたが、このとき保之助が出陣している。

高松藩大須賀氏

 高松松平家の重臣に大須賀家がある。もともとは水戸藩士であったが、寛永17(1640)年7月26日、徳川頼房(権中納言)は長男で下館城主の松平八十郎頼重のために、大須賀久兵衛重信(のち郷右衛門)を付けさせ、五百石の下館城代とした。重信の「重」はおそらく松平頼重よりの一字拝領と思われる。

 寛永19(1642)年3月5日、石井仁右衛門、大須賀重信を加増の上、家老に任じた。重信は五百石の加増で都合千石を領することになる。5月28日、頼重の讃岐国高松就封が決まり、頼房は6月、御礼言上のため重信を登城させ、将軍・徳川家光に絹などを献じて、これを謝した。

 正保3(1646)年2月26日、大須賀重信が薨去したため、嫡男の大須賀小兵衛重定が跡を継いだ。明暦2(1656)年5月4日、重定は家老職に任じられ、藩政に参画。延宝8(1680)年4月28日に隠居するまでの実に24年にわたって藩政を見続けた。重定は延宝3(1680)年、次男・庄之助三百石を分知し、七百石取となる。

 その子・小兵衛は家督相続して三百石を知行して大番頭に就任した。その子・小兵衛書院番だった明和4(1767)年8月21日、罪を犯して御暇となり、在宅謹慎を命じられた。知行は召し上げとなったのだろう。その子・久兵衛は香西浦に住んでいたところ、召しを受けて藩庁に出頭すると、二十二人扶持中寄合職を与えられた。その子・久米之助は四人扶持、惣領組並となる。子孫の米太夫新太郎は代々番町(現在の工芸高校の西側)の藩邸に居住していた。

 小兵衛重定より分知された大須賀庄之助の子・貞右衛門は船奉行職に就任。その子・最仲は御遣番となった。しかし、彼には子がおらず、本家の大須賀小兵衛の三男を養子に迎えて郷右衛門を称し、小姓頭に就いた。その子・郷右衛門は側小姓となり、のち用人、馬廻番頭、大番頭となる。子孫には大須賀主殿大須賀波江らがいた。幕末、土佐藩家老・深尾丹波重愛率いる土佐藩兵が高松に入って来た際、土佐藩使者・乾三四郎と高松藩家老・大久保飛騨白井石見尹凝が会談した屋敷が大須賀波江邸である。

 大須賀家祖の大須賀久兵衛重信の弟、大須賀小左衛門は兄・重信が年寄職となった寛永19(1643)年、大番頭に就任して二百石を与えられた。その子・忠左衛門寄合番頭、その子・忠左衛門も同じく寄合番頭となる。その子・左内馬廻番頭、その養嗣子・左内は永滝助六の三男で物頭となる。左内にも男子がなく、吉川六左衛門の四男・茂吉を婿養子として迎えた。しかし茂吉は家督を継ぐ前に亡くなり、茂吉の子・左五郎が祖父・左内の跡を継いで書院番頭となる。子孫の大須賀源太左衛門大須賀隼人らは番町藩邸に居住し幕末に至った。

大須賀歴代当主

●赤『寶應寺過去帳』を参考。
●青『大須賀家蔵系図』を参考…宝暦11(1761)年
●緑『寶應寺大須賀系図』を参考…元文3(1738)年(千葉小太夫祥胤が奉納)
没年のあとの数字は没年齢。

当主 没年 通称 法名 文書に見える
名前
大須賀胤信 ????-建保3(1215)年
25歳にて無官で没する
????-????
四郎左衛門尉
四郎
四郎左衛門
寶應寺殿 全雄英信大居士
英眞幽儀
英眞幽喜
 
大須賀通信 ????-嘉禎2(1236)年
長寛2(1164)年?-建保3(1215)年 52歳
????-????
太郎左衛門尉
刑部大輔
太郎左衛門尉
通信院殿 如覺浄意大居士
道眞大居士
不明
 
大須賀胤氏 ????-建治2(1276)年
元久元(1204)年-安貞元(1227)年 24歳
????-????
次郎左衛門尉
次郎
左衛門尉
次郎左衛門尉
修福院殿 實性信蓮大居士
信蓮
居士
信蓮
弘長3(1263)年、「入道信蓮」
大須賀朝氏 ????-正安2(1301)年
仁安元(1166)年-仁治元(1240)年 75歳
建仁元(1201)年-建治元(1275)年 75歳
新左衛門尉
式部
大輔
式部大夫
透玄院殿 徹心朝公大居士
善山居士
信圓
建長2(1250)年1月16日「大須賀左衛門尉朝氏」
文応元(1260)年7月6日「大須賀左衛門尉朝氏」
大須賀時朝 ????-嘉暦3(1328)年
文永8(1271)年-正和元(1312)年 42歳
????-????
二郎左衛門尉
下総守
次郎左衛門尉
義雲院殿 忠覺禪信大居士
信宗
居士
禅信
延慶元(1308)年、時朝と円覚寺雑掌が相論
大須賀宗朝 ????-観応2(1351)年
????-???? 19歳
????-????
下総前司
無官
下総前司
大清院殿 禪曜信宗大居士
善信
居士
信宗
元弘2(1332)年6月「大須賀左馬頭」
康永3(1344)年2月9日「大須賀下総前司」
康永4(1345)年「地頭大須賀下総前司入道跡」
大須賀宗時 ????-永和3(1377)年
正応4(1291)年-観応2(1351)年 61歳
????-????
下総守
下総守
下総守
浄妙院殿 心覺宗源大居士
信性居士
不明
 
大須賀宗信 ????-明徳4(1393)年
貞治3(1364)年-応永元(1394)年 31歳
????-????
越後守
越後守
越後守
大榮院殿 感契生應大居士
姓應
居士
生應
貞治4(1365)年12月26日「大須賀越後守」
貞治7(1368)年3月2日「沙弥聖応」
応安4(1371)年4月15日「大須賀聖応・大須賀左馬助」
大須賀憲宗 ????-応永17(1410)年
至徳3(1386)年-応永20(1413)年 28歳
????-????
左馬助
右馬助
左馬助
憲章院殿 明應聖哲大禅定門
聖哲
大居士
聖哲居士
応安4(1371)年4月15日「大須賀聖応・大須賀左馬助」
応安5(1372)年11月14日「大須賀左馬助」
応安7(1375)年4月25日「大須賀左馬助」
応安7(1375)年6月5日「大須賀左馬助」
応安7(1375)年8月9日「大須賀左馬助」
応永4(1397)年12月23日「大須賀左馬助憲宗」
大須賀宗正 ????-永享2(1430)年
 な し
????-????
左馬助
な し
左馬助
廓震院殿 大英雄機大居士
な し
不明
応永24(1417)「大須賀左馬助」
大須賀宗幸 ????-康正2(1456)年
応永13(1406)年-永享2(1430)年 25歳
????-????
左馬助
越後守
越後
瑞雲院殿 鷹岳全祥大禅定門
姓存居士
不明
応永27(1420)年1月27日「越後守宗幸」
永享年中(1429-1441)「大須賀越後守」
永享12(1440)年「大須賀越後守首」
大須賀朝信 ????-延徳2(1490)年
応永17(1410)年-亨徳元(1452)年 43歳
????-????
左衛門尉
下総守
下総
見性院殿 月慶道鑑大居士
姓俊居士
不明
応永33(1426)年1月10日「左衛門尉平朝信」
大須賀直朝 ????-大永元(1521)年
亨徳年中(1452-1454) 25歳
????-????
左馬助
左衛門尉
孫四郎
永昌院殿 喜山賀公大居士
姓悦居士
不明
 

大須賀朝之
な し
正長元(1428)年-康正2(1456)年 29歳
な し
な し
中務少輔
な し
な し
玉山居士

な し
 

大須賀勝朝
な し
応永30(1423)年-長禄元(1457)年 35歳
な し
な し
民部少輔
な し
な し
茣芳居士

な し
 

大須賀明朝
な し
永享8(1436)-長亨元(1487)年 52歳
な し
な し
左衛門大夫
な し
な し
喜山居士
な し
 
大須賀則安(憲康) ????-天文8(1539)年
な し
な し
左馬助
な し
な し
寛祥院殿 月峯道三大居士
な し
な し
 
大須賀常康 ????-永禄2(1559)年
な し

な し
左馬助
な し
な し
月潤院殿 大應徹公大禅定門
な し
な し
 

大須賀宗朝
な し
????-永正2(1505)年
な し
な し
左馬助
な し
な し
大應居士
な し

大須賀朝宗 ????-天正4(1576)年
????-????
????-????
左馬助
安芸守
左馬助
大梁院殿 銀雙浄金大居士
道了  
不明
 
大須賀常正 ????-永禄10(1567)年
な し
????-????
尾張守
な し
左馬助
觀樹院殿 莱翁久榮大禅定門
な し
不明 
 
大須賀政常 文明18(1486)年-元亀元(1570)年
な し
????-????
尾張守
な し
左馬助・信濃守
陽盛院殿 春宗浄光大居士
な し
不明
 
大須賀政朝 ????-天正8(1580)年
????-????
????-????
尾張守
尾張守
尾張守・信濃守
大陽院殿 綱叟胤公大禅定門
常安大居士
不明
永禄3(1562)年10月24日「大須賀薩摩丸殿」
永禄9(1566)年6月24日「大須賀尾張守殿」
元亀4(1573)年3月4日「尾張守政朝」
天正15(1587)年12月28日「大須賀尾張守殿」
           「御息孫二郎殿」
大須賀常安 ????-天正18(1590)年
な し
????-????
尾張守
な し
尾張守
文明院殿 泰盛常安大居士
な し
不明
 
大須賀政氏 ????-寛永2(1625)年
な し
な し
弥六郎
な し
な し 
眞廣院殿 大顕養樹大禅定門
な し
な し
 

■官途名、法名で同定

●赤が『寶應寺過去帳』
●青は『大須賀家蔵系図』
●緑は『寶應寺大須賀系図』

当主 官途 法名
大須賀直朝 な し
左衛門尉
喜山
な し
大須賀明朝 左衛門大夫 喜山居士

 「直朝」「明朝」は同一人物と思われる。

当主 官途 法名
大須賀常康 左馬助 大應
大須賀宗朝 左馬助 大應

 「常康」「宗朝」は同一人物と思われる。

当主 官途 法名
大須賀政朝 尾張守
尾張守
尾張守・信濃守

常安
大須賀常安 尾張守 
な し
尾張守
常安

 「政朝」と「常安」は同一人物と思われる。「常安」はおそらく法名だろう。

●大須賀氏想像系図

 大須賀胤信――通信――――――胤氏――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                           |
                           +―時朝――――――宗朝――+
                            (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――常正――――政常==+―政朝―――政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守)|(尾張守)(弥六郎)
|          |                            |
+―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――朝胤――――朝宗――+―胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守)|(伊豆守)
                                        |
                                        +―稲葉朝重
                                        |(安芸守)
                                        |
                                        +―鍛冶作朝満
                                         (宮内少輔)

 『大須賀系図』の胤信の項では25歳で亡くなったとある。胤信の活躍が見られる和田義盛の乱が建保元(1213)年のことであり、もしこの直後に没したとしても、逆算すれば文治5(1185)年生まれとなる。

 しかしながら、胤信はこの年に起こった奥州藤原氏との戦いに従軍しており、すでに矛盾が生じており、さらに頼朝の挙兵時には弟の東胤頼がすでに京都に大番役として上洛しているため、胤信もすでに壮年となっていたはずである。通信の没年の項に見える「建保3(1215)年」とは他系図では「胤信」の没年であり、一世代ずれていると思われる。つまり、何らかの要因で世代がずれたものを辻褄あわせのために早世等の理由をつけたものであると考えられる。

=大須賀家一族略系図=

大須賀氏系譜

●大須賀氏の家臣●

小城成戸・前斉・塙・吉岡・池之作・馬洗・貝保・長岡・一坪田・根古屋・神崎・森戸・津富浦・山臺・木浦・椎木・中野・近長岡・木浦戸田・屋津・松子・名古屋・荒見・成毛・幡谷・高崎・小浮・水掛・小菅・七沢・小泉・大竹・飯島・諏訪・田部多


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