江戸時代の下総相馬氏1

下総相馬氏

○旗本相馬氏○

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●下総相馬氏の一族

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相馬家
小田原藩
相馬家
彦根藩
相馬家【一】
彦根藩
相馬家【二】
沼田藩
相馬家
笠間藩
相馬家

 下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。その後は下総国佐倉城の千葉宗家の一族衆の立場にあったようだが、同じ一族衆の大須賀氏、国分氏らほど密接な関わりを持ってはいなかった。室町時代後期、鎌倉公方・足利成氏が鎌倉を追放されて下総国古河に入ると、一族はその奉公衆となった。さらに古河公方が小田原北条氏の支配下に入ると、下総相馬氏も北条氏の支配下に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。

 戦後、相馬家は徳川家康に召し出されて大坂の陣などで活躍して五千石の高禄を与えられ、子孫は旗本となった。しかし、江戸時代中期に故あって知行地を没収され、蔵米取にかわり幕末にいたった。一族では一橋徳川家に仕えた人物もあった。

◆下総相馬氏の当主たち◆

代数 当主 通称 同時代人物名
初代 相馬師常 千葉介常胤 相馬二郎  
2代 相馬義胤 相馬師常 相馬五郎兵衛尉  
3代 相馬胤綱 相馬義胤 相馬五郎兵衛尉  
4代 相馬胤村 相馬胤綱 相馬孫五郎左衛門尉  
5代 相馬泰胤 相馬胤継 相馬民部大夫 相馬胤氏相馬師胤相馬胤継相馬胤顕
6代 相馬親胤 相馬泰胤 相馬民部次郎  
7代 相馬高胤 相馬親胤 相馬左衛門尉 相馬胤経相馬胤村相馬氏胤
8代 相馬胤基 相馬氏胤 相馬左衛門尉 相馬忠重
9代 相馬胤忠 相馬胤経 相馬上野介  
10代 相馬胤長 相馬胤忠 相馬小次郎  
11代 相馬胤宗 相馬胤長 相馬左衛門尉  
12代 相馬資胤 相馬胤宗 相馬上野介  
13代 相馬胤儀 相馬資胤 相馬左衛門尉  
14代 相馬胤高 相馬胤儀 相馬上野介  
15代 相馬胤実 相馬胤高 相馬左衛門尉  
16代 相馬徳誕蔵主 相馬胤実 相馬小次郎  
17代 相馬胤広 相馬徳誕蔵主 相馬因幡守 相馬胤行
相馬胤直彦根藩士相馬氏の祖。
18代 相馬胤貞 相馬胤広 相馬小次郎   
19代 相馬胤晴 相馬胤貞 相馬小次郎   
20代 相馬整胤 相馬胤晴 相馬小次郎   
21代 相馬治胤 高井氏 相馬左近大夫 相馬胤房
相馬胤永…小田原藩客分相馬氏の祖。
相馬親胤
相馬因幡守…喜連川藩相馬家

◆旗本相馬氏◆

22代 相馬秀胤 相馬治胤 相馬小次郎 相馬師胤相馬胤吉
23代 相馬胤信 相馬治胤 相馬小三郎  
24代 相馬盛胤 相馬治胤 相馬小次郎  
25代 相馬政胤 相馬治胤 相馬小次郎  
26代 相馬貞胤 大岡貞惟 相馬小次郎  
27代 相馬要胤 相馬貞胤 相馬小次郎  
28代 相馬信胤 小笠原貞信 相馬小平太  
29代 相馬重胤 相馬信胤 相馬小平太  
30代 相馬保胤 相馬信胤 相馬小源次  
31代 相馬矩胤 相馬保胤 相馬小太郎 相馬多宮正胤(一橋相馬家)
32代 相馬是胤 相馬矩胤 相馬左兵衛  
33代 相馬敏胤 相馬是胤 相馬左近  
34代 相馬繋胤 相馬敏胤 相馬左近  
35代 相馬将枝 相馬繋胤 相馬邦三郎  
36代 相馬祚胤 相馬将枝 相馬左衛門  

●旗本相馬家歴代●



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相馬秀胤(????-1597)

 二十二代当主。旗本相馬家初代。父は相馬左近大夫治胤。母は不明。通称は小次郎。任官して信濃守(『相馬当家系図』)

 天正年中(1573-92)、守谷城の西に香取神社(守谷市野木崎)を勧進したという。

 父・治胤の活動は天正11(1583)年以降見られなくなる。これは最後の古河公方・足利義氏の死と関係している可能性がある。義氏の死後、治胤は弔問を行うことなく過ごしており、さらに古河公方家領の「下幸嶋知行分」を手に入れようと偽計を画策したことが発覚しており、そのことを北条氏に咎められ、隠居に追い込まれたのかもしれない。

 天正18(1590)年の小田原戦役に際しては、秀吉方の毛利家の調査によれば「惣馬小次郎 百騎」とあり(『北条氏人数覚書』:「毛利家文書」取手市史所収)秀胤が守谷城を百騎余りの軍勢で守っていたことがわかる。

 その後、秀胤は徳川家康に仕えて相馬郡内に五千石を宛がわれ、信濃守に任官した。豊臣秀吉の命により鮮半島への出兵が決定すると、天正20(1592)年3月、徳川家康に従って肥前国名護屋城に入っている。この朝鮮の役では、三百年前に奥州にわかれた奥州相馬家の子孫・相馬長門守義胤が一軍を率いて名護屋に参陣している。

 『相馬当家系図』によれば慶長2(1597)年正月15日に亡くなった。法号は春山。子はなく、弟・小三郎胤信が跡を継いだ。

「小田原一手役書立写(作倉御旗本)」
人物 具体名 城名
七郎殿 千葉介直重 さくら(作倉)
原殿 原胤義 うすい(臼井)
高木 高城胤則 こかね(小金)
豊嶋新六郎 豊嶋貞継 ふかわ(布川)
土岐殿 土岐治綱 江戸崎
岡見治部 岡見宗治 牛久
岡見中務 岡見治広 足高
相馬殿 相馬秀胤 もりや(守谷)
やなた殿 簗田持助 せきやと(関宿)
助崎殿 大須賀信濃守 助崎
大須賀殿 大須賀政朝 矢作
伊田殿 井田胤徳 さかた(坂田)
酒井伯耆守 酒井康治 とけ(土気)
酒井左衛門尉 酒井政辰 とうかね(東金)
「北条家人数付」
人物 具体名 城名 兵力
千葉介 千葉介直重 作倉 3000騎
原大炊助 原 邦房 臼井 2000騎
高木 高城胤則 小金 700騎
小窪五郎 国分胤朝 矢作 500騎
十嶋 豊嶋貞継 布川 150騎
惣馬小次郎 相馬秀胤   100騎
       
       
       
       
       
       
       
       


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相馬胤信(????-????)

 二十三代当主。旗本相馬家二代。父は相馬左近大夫治胤相馬小次郎胤晴とする系譜もある(『相馬之系図』)。幼名は御丸。通称は小三郎(『寛政重修諸系譜』)小次郎(『相馬当家系図』)。官途は従五位下・信濃守(『寛政重修諸系譜』)

「天正十七年より東照宮に仕えたてまつる」『寛政重修諸家譜』に記されてあるが、天正17(1589)年にはまだ北条氏は関東に大きな力を持っているので疑問。おそらく天正18(1590)年の誤りか。

 秀胤亡きあと、相馬家の家督を継ぎ三千石を継承した。相馬家は本来五千石の知行地があったが、秀胤は急養子ということもあったのだろう。遺領のうち二千石は収公されたようだ。その後、従五位下に叙せられ、信濃守に任じられた。

 『相馬之系図』によると、小田原合戦で居城を失った相馬治胤を庇護していることがうかがえる。その記述には、

「属相州北條家勤仕、北條滅却之後、欲事関白秀吉公雖訴訟不叶、流浪之後、請信濃守胤信扶持、旁遺恨難散、於武州江戸山手思死云々、子孫断絶

 相馬胤晴―+―相馬整胤
(小次郎) |(小次郎)
      |
      +―娘
      | ∥――――――相馬秀胤
      | 相馬治胤  (小次郎)
      |(左近太夫)
      |
      +―相馬胤信
       (小三郎)

 とあり、治胤は北条氏の滅亡後は秀吉に旧領安堵などを訴えたものの認められず、流浪したのち、「信濃守胤信」に扶持を請うたとされている。胤信は『寛政重修諸家譜』においては治胤の次男とされているが、自分の子であるはずの胤信の世話になるまで流浪を続けていたことや、「子孫断絶」とあるところから、胤信は治胤の子ではなく、『相馬之系図』のように胤晴の子ということも否定できない(つまり、治胤と胤信は義兄弟の可能性)

 『相馬当家系図』によれば長三郎という長男があったが、早世したのだろう。系譜上では弟の相馬盛胤が跡を継いだ。法名は中岩



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相馬盛胤(????-????)

 二十四代当主。旗本相馬家三代。父は相馬左近大夫治胤? 相馬信濃守胤信 母は谷上和泉永久娘。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』)小三郎(『略譜』)。官途は従五位下・信濃守(『寛政重修諸家譜』『略譜』)

 「某年はじめて東照宮に拝謁」(『寛政重修諸家譜』)とあり、また「東照宮へ月日不知初見(『略譜』)ともあり、家康が没する元和2(1616)年4月までに家康に目通りしていると思われる。その後、二代将軍・徳川秀忠の代に仕え(『略譜』)従五位下信濃守に任じられた(『寛政重修諸家譜』『略譜』)

 盛胤がいつ亡くなったかは不明だが、跡を継いだ「幼稚」小次郎政胤(盛胤の弟)は、慶長19(1614)年からはじまった大坂の陣に加わっているので、それ以前のこととなる。

 盛胤は下総相馬氏の菩提寺のひとつ、下総国相馬郡高野郷茨城県守谷市高野)の海禅寺に葬られた(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。法名は天崇(『寛政重修諸家譜』)



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相馬政胤(????-1655)

 二十五代当主。旗本相馬家四代。父は相馬左近大夫治胤? 相馬信濃守胤信 母は谷上和泉永久娘。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』)小三郎(『略譜』)左近(『寛政重修諸家譜』『略譜』)

 兄・盛胤が跡継ぎがないままに急死したため、相馬家は改易処分とされた。しかし、徳川秀忠下総相馬家が右大将頼朝以来の「旧家たること」を理由にその断絶を惜しみ、盛胤の弟・政胤「幼稚たりといへども」と家督を継がせ、「旧知相馬郡のうち」に一千石が与えて再興させた(『寛政重修諸家譜』)

 なお、より詳細に「兄盛胤継なく家絶し處、母政胤を養育して二三年蟄居」していたところ、「東照宮、台徳院殿へ上聞に達」し、おそらく政胤の母から「相馬の家相続乃儀」酒井雅楽頭(忠世と推測)に願い上げたところ、(秀忠の指示を受けたと思われる)雅楽頭より、相馬家の「譜代の長臣谷上忠政」へ、相馬家に所領を下さる旨が伝えられたが、「幼稚」のため、しばらくは「馬の飼領」として千石が下されたとする伝もある(『略譜』)。ここに見える「譜代の長臣谷上忠政」とは、おそらく政胤の母方・谷上家の縁類の者だろう。

 慶長19(1614)年からはじまった大坂の陣では秀忠の陣中にあり(『寛政重修諸家譜』『略譜』)「成長ののち大番となり」とあるが、「台徳院殿御代大御番」とあり(『略譜』)、寛永9(1632)年正月24日までの間で仕官したことになる。

 明暦元(1655)年正月5日没した(『寛政重修諸家譜』(『略譜』)。法名は宗金。葬地は盛胤と同じく下総国相馬郡高野郷海禅寺

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 『寛政譜』では相馬左近太夫治胤の子は秀胤・胤信・盛胤・政胤であると記されているが、

●秀胤⇒胤信⇒盛胤の兄弟は、後継ぎがないときでも弟を継嗣として認められている。
 ↓にもかかわらず……
●盛胤には子がなくて没すると弟(とされる)政胤には家督の継承が許されずに断絶。

 となっている。

 これは、政胤が実際は盛胤とは兄弟ではなく、他家から入った人物である事を示していると思われ、これの傍証しているのが『相馬之系図』の盛胤の項の自是以下、自他家継名字、本知減少領千石餘」の記述で、まさしく『寛政譜』の政胤の項にある「旧地相馬郡のうちにをいて千石の地を賜ひ」と合致する。また、『相馬当家系図』では政胤の名は見えず、盛胤の次代は貞胤である。この貞胤の没年月日は『寛政譜』の政胤・貞胤の没年月日が合わさったものであることから、政胤と貞胤(大岡貞惟の子)は同一人物かもしれない。

『相馬当家系図』

秀胤―胤信―+―盛胤―――貞胤
      |      ・小次郎
      |      ・明暦二年正月五日没
      +―長三郎

『寛政重修諸家譜』

秀胤―胤信―――盛胤―――政胤―――――――――――貞胤
             ・小次郎         ・小次郎
             ・明暦元年正月五日没   ・明暦二年八月晦日没

 この賜った一千石については、安永5(1776)年に下総国猿島郡弓田村茨城県坂東市弓田)の百姓・金右衛門(谷上勘兵衛甥)が相馬家再興(六十六年前の宝永7年に相馬家は領内不届の為、本知召上、蔵米取りとされていた)を願って公儀へ提出した歎願状からうかがえる。

「……右小次郎四代以前子孫断絶仕り、家取潰し罷在候處、有難も日光御社参の節、私先祖五代以前の者、継図訴状差上げ候ば、高家の筋目故にて、知行千石下し置かれ……」

 と歎願状にはあるが、宝永7(1710)年当時は相馬小次郎保胤が当主であり、彼の四代前が系譜上では政胤である。つまり盛胤の代に断絶した相馬家を、他家より養子に入った政胤が継承し、谷上勘兵衛の祖が相馬家の系図・訴状を公儀に差し出し、幕府は「高家の筋目」として家督相続を認め、いったん断絶した相馬家は復興したのだろう。しかし知行地はすべて認められたわけではなく、一千石に減知されたのだろう。

 『寛政譜』によれば、盛胤亡きあと、政胤は相馬家を継ぐが、その後、養子・貞胤が跡をついで元和9(1623)年11月22日には将軍・家光に謁見しており、「政胤」としての家督期間は僅かであったと思われる。

(1)秀胤(政胤の三代前)は慶長2(1597)年に没している
(2)政胤は慶長19(1614)年の大坂の陣に参加している

 胤信―盛胤―政胤の三代の間はわずかに十七年である。政胤は家督を継いだ際「幼稚」で、成長の後に「大番」となったのち、大坂の陣に加わっているとされていることから、秀胤が慶長2(1597)年に亡くなったのち、家督を継いだ胤信・盛胤は相次いで没したことになる。

 『寛政譜』では、元和9(1623)年11月22日には家督は「貞胤」とあるので、政胤はわずか二十歳半ばほどの年齢で隠居したことになる。前述であるが『寛政譜』の政胤の没年月日は明暦元(1655)年正月5日であるが、次代の貞胤の没年月日は翌年の明暦2(1656)年8月晦日とされている。一方、『相馬当家系図』では、政胤の記述は無く、貞胤は明暦2(1656)年正月5日に没したとある。この没年月日は『寛政譜』の政胤の没年と貞胤の没月日を合わせた形であること、さらに『相馬之系図』では、先に書いたように盛胤のあとは「自是以下、自他家継名字」とあるので、盛胤のあとの政胤は他家から迎えられた人物と考えられ、政胤は大岡氏より養子に迎えた貞胤と同一人物であったとすると、政胤から貞胤に改名したと推測できる。

 盛胤の母方の祖父とされる谷上和泉永久がいかなる人物かはわからないが、相馬家の家臣であろう。寛永10(1633)年に相馬家領・印旛郡滝村印西市滝)の代官を任命した「谷上和泉」「谷上忠左衛門」猿島郡馬立村茨城県坂東市馬立)の代官を任命した「谷上忠左衛門」、元禄6(1693)年、猿島郡弓田村茨城県坂東市弓田)の年貢割付状を発給した「谷上勘兵衛」はいずれも下総相馬氏の重臣と思われる。



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相馬貞胤(????-1656)

 二十六代当主。旗本相馬家五代。大岡権兵衛貞惟の二男(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。母は相馬左近大夫治胤次女(『寛政重修諸家譜』)。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』『略譜』)小伝次郎(『略譜』)。先代の政胤と同一人物である可能性も(詳しくは)。

 先代の相馬小次郎政胤から、「某年」に家督を譲られて相馬家を継ぎ(『寛政重修諸家譜』)、元和9(1623)年11月22日、三代将軍・徳川家光に拝謁した(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。貞胤が家督を継いだ年はなぜか「某年」とされていて詳細不明である。これは先代とされる政胤の家督時期との矛盾が解決しなかったための記述か。

 寛永4(1627)年に大番に列し(『寛政重修諸家譜』『略譜』)、寛永9(1632)年6月、台徳院殿(徳川秀忠)の御遺金五十両を拝領した(『略譜』)

 寛永10(1633)年2月7日、二百石を加増されて知行千二百石となる(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。加増された場所がどこなのかははっきりしないが、同年9月、下総国印旛郡滝村印西市滝)の代官を相馬家の谷上忠左衛門・谷上和泉が任命しており『肝煎代官任命状』、この地が新たな配領地かもしれない。また、承応3(1654)年11月、滝村の薬師堂灯明代として、薬師堂の別当寺・滝水寺に寺領を寄進安堵している『相馬貞胤寄進状』

 また、寛永10(1633)年、猿島郡馬立村茨城県坂東市馬立)の代官を任命した人物として谷上忠左衛門があり、この地も加増地の一つだったと思われる。また、元禄6(1693)年、猿島郡弓田村茨城県坂東市弓田)の年貢割付状に谷上勘兵衛の名で発給されており、この地も相馬氏の知行地であったことがわかる。

 これらに名が見える「谷上」氏は下総相馬氏(もしくは高井相馬氏)の重臣だったようで、相馬左近大夫治胤の妻は「谷上和泉永久娘」である。検地帳に見える「谷上忠左衛門」は谷上和泉の子孫と考えられる。

 明暦2(1656)年8月晦日に没し、江戸牛込長延寺(新宿区市谷長延寺町・左内町)に葬られた(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。一方、明暦2(1656)年正月5日に亡くなったとも(『相馬当家系図』)。法名は大昭院殿月庵宗明大居士。長延寺は明治に廃寺となり、跡地は都営長延寺アパートとなり、隣には自衛隊市谷駐屯地がある。

●貞胤周辺系譜●

⇒相馬治胤――娘
(左近太夫) ∥――――相馬貞胤
       ∥   (小次郎)
     大岡貞惟
    (権兵衛)

●寛永10(1633)年9月3日『肝煎代官任命状』(『下総古文書』:『房総古文書雑纂』所収)

 郷中取極之事

 一、肝煎代官ニ被仰付候間、急度万事可申付候事、
 一、郷中惣百姓とも、久兵衛申儀相背ニおゐてハ、可為曲事事、
   若相背者有之者、則可申上候、以上  

   寛永拾年酉九月三日   谷上 和泉(花押)  
                同 忠左衛門(花押)
    瀧村久兵衛殿

●承応3(1654)年11月『相馬貞胤寄進状』(『下総古文書』:『房総古文書雑纂』所収)

  奉寄進
 一、下総国印旛郡印西庄滝村之内
   田壱反二畝弐拾四歩
   畠三畝拾歩
 
 右者、同所滝村薬師江為灯明代奉寄進状、如件、

  承応三甲午年冬十一月  相馬小次郎平貞胤敬白(花押)

   滝村薬師別当
    滝水寺


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相馬要胤(1631-1690) 

 二十七代当主。旗本相馬家六代。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』『略譜』)小平次郎(『略譜』)。父は相馬小次郎貞胤。母は不明。妻は黒沢木工助定幸娘。初名は昌胤か。号は月単(『相馬当家系図』)

海禅寺の相馬要胤・相馬信胤の墓
海禅寺の相馬要胤・信胤墓所

 明暦2(1656)年12月21日に相馬家の家督を継ぎ、その翌日に四代将軍・徳川家綱に拝謁した。そして翌年10月10日、大番に列す。

 明暦4(1658)年2月28日、「相馬小次郎平昌胤」という人物が相馬家領の印旛郡瀧村印西市滝)の滝水寺に新田を寄進している『相馬昌胤寄進状』。おそらく、要胤ははじめ「昌胤」を名乗り、その後「要胤」に改めたか

 元禄3(1690)年3月28日に没し、江戸牛込の松源寺神楽坂六丁目)に葬られた(『寛政重修諸家譜』)。または寛文11(1671)年7月8日に没したとも(『相馬当家系図』)。享年は六十。法名は勝千院殿節巌良忠居士。相馬郡(茨城県守谷市高野)の海禅寺には要胤・信胤の墓が残されているが、松源寺の相馬家墓地には明治時代に要胤の墓碑はないため、海禅寺に葬られたのかもしれない(『墓地検査願』)

 相馬家菩提寺の松源寺は、現在は中野区上高田一丁目に移されていて、相馬家の墓石は継嗣が不在となったことですでに廃棄されている。背後にある白金公園は、水戸藩付家老・中山備前守の屋敷跡。要胤には子がなかったため、妹を養女として小笠原源四郎貞信の二男・昌信に娶せて養嗣子としていた。のちの小次郎信胤である。

●要胤周辺系譜●

⇒相馬治胤――娘                +=信胤――――重胤(保胤の異母兄)
(左近太夫) ∥――――貞胤          | ∥
       ∥   (小次郎)        | ∥
       ∥     ∥          | ∥―――――保胤――――正胤【一橋徳川宗尹側近】
     大岡貞惟    ∥―――+―要胤―――+=娘    (小源次) (多宮)
    (権兵衛)    ∥   |(小次郎)         ∥
             ∥   |              ∥―――――矩胤
             某氏  +―娘            ∥    (左近)
                 |(要胤養女)        ∥
                 |              ∥
                 +―娘            ∥
                   ∥――――――筧正直―――娘
                  筧正興    (新三郎)
                 (五右衛門)

●明暦4(1658)年2月28日『相馬昌胤寄進状』(『下総古文書』:『房総古文書雑纂』所収)

  寄進状
 一、下総国印西之庄滝村之内
   田壱反二畝弐拾四歩
   畠三畝拾歩

 右者、滝水寺開発ニ而、則令寄進者也、如件、

  明暦四戊戌年二月廿八日  相馬小次郎平昌胤(花押)

    滝水寺


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相馬信胤(1650-1715)

 二十八代当主。旗本相馬家七代。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』『略譜』)小平太(『略譜』)小笠原源四郎貞信の二男。母は不明。妻は相馬小次郎要胤養女相馬小次郎貞胤の娘)。号は秋月鉄砲玉薬奉行

●信胤周辺系譜●

                   【相馬長門守義胤重臣】
                    青田高治
                   (孫左衛門)
                    ∥――――――――赤沢常治
【相馬大膳大夫盛胤家臣】        ∥       (市郎左衛門)
 黒木修理進――娘         +―娘
        ∥         |
        ∥         |
        ∥―――――――――+―小笠原貞信
        ∥          (源四郎)
       赤澤貞経          ∥―――――+―小笠原景経
      (小笠原丹斎)        ∥     |(内蔵助)
                     ∥     |
                  +――娘     +―春日貞顕――――春日顕道
                  |        |(河内守)   (佐太郎)
                  |        |         ∥
             稲富正直―+?―娘     +―相馬信胤    ∥
            (喜大夫)    ↓        ↓      ∥
                     ↓        ↓      ∥
             黒沢定幸====娘        ↓      ∥
            (木工助)    ∥        ↓      ∥
⇒相馬治胤――娘             ∥        ↓      ∥
(左近太夫) ∥―――――相馬貞胤――+―相馬要胤――+=相馬信胤――――娘
       ∥    (小次郎)  |(小次郎)  |(小次郎)           【一橋徳川家臣】
     大岡貞惟          |       | ∥―――――――相馬保胤――――相馬正胤
    (権兵衛)          +―娘→→→→→+=娘      (小源太)   (多宮)
                   |        (実は要胤妹)  ∥
                   |                 ∥
                   +―娘               ∥―――――――相馬矩胤―+―相馬是胤
                     ∥―――――――筧正直―――――娘      (左近)  |(左兵衛)
                     ∥      (新三郎)   (仕一橋家)        |
                     ∥                            +―娘
                     ∥                              ∥
                    筧正興                             猪飼正倫
                   (新五左衛門)                         (三郎左衛門)

 寛文8(1668)年6月6日に四代将軍・徳川家綱に拝謁し、寛文12(1672)年5月26日、大番に列した。

 元禄3(1690)年8月6日、養父・小次郎要胤の跡を継いで千二百石を知行。元禄9(1696)年7月5日、新御番へ移り(『略譜』)、12月22日、これまで怠りなく務めてきたことを賞されて黄金を三枚拝領した。

 元禄11(1698)年3月、旗本衆にいっせいに知行替えがあり、相馬家もそれまでの弓田村・馬立村(いずれも坂東市内)から、葛飾郡山崎村野田市山崎)に所領を遷された。

 元禄12(1699)年4月15日、幕府より命を受けて、訴訟が起こっていた伊賀・美濃・但馬に下って検地を行っている。

 元禄15(1702)年5月22日、香取郡にある稲荷山樹林寺の夕顔観音に幌旗、日丸軍扇、烏帽子石を奉納している。これは二か月ほど前の3月29日、夕顔観音が霊験あらたなる事を聞いた将軍綱吉および桂昌院が江戸城内で拝覧したことを受け、由緒家の相馬家も進物を奉納したのだろう(『香取郡叢書』)

 宝永6(1709)年8月21日、鉄砲玉薬奉行に移る。ところが、同年11月、所領の山崎村民衆から幕府に領主悪政に関する訴状が届けられた。幕府はこれを受けて取り調べると、相馬家代官・谷上勘兵衛の悪事が露見した。そのため翌宝永7(1710)年2月25日、「知行所百姓と家来谷上勘兵衛出入之儀尓付、家来死罪仰付られ」たとあることから(『略譜』)、谷上勘兵衛は4月に病死したとあるが、おそらく責任を問われて切腹したと思われる。

 一方、主の信胤も「彼の悪事をも糺さずして、なお事を司らしむるの條、等閑の至りなり」と幕府からの譴責を受け、「御役召はなたれ、地方千弐百石めしあげられ」(『略譜』)改易処分の上、自宅にて謹慎が命じられた。 

 その結果、相馬家は知行取りから八百俵の蔵米取りに転落。役も外され小普請組に落とされることとなった。信胤は8月18日に許されるが、相馬家の知行地は戻らないまま幕末に至った。小普請では松平主計頭組に属した。

「鉄砲玉薬奉行相馬小次郎信胤采地の民ども、背き訴え出たるにより、その地を召しあげられ、三分一を減じて廩米八百俵になされ、小普請にいり逼塞を命ぜらる」(『文昭院殿御実紀』)

相馬要胤、相馬信胤墓
海禅寺の相馬要胤・信胤墓所

 正徳5(1715)年9月23日、六十六歳で亡くなり、江戸牛込の松源寺(神楽坂六丁目二十四番地)に葬られた(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。元禄10(1697)年3月8日に亡くなったとも(『相馬当家系図』)されているが、信胤は宝永7(1710)年時点での生存が確認できるため、正徳5年が妥当か。法名は嶺雲院殿閑翁全徹居士

 

 相馬郡の海禅寺茨城県守谷市高野)には要胤・信胤の墓が残されているが、牛込の松源寺が中野へ移転するにあたり、明治36(1903)年から明治40(1907)年にかけて、遺骨と墓石が順次檀家の手によって移された。このとき相馬家の墓石も移転されたが、本来十基あった墓石は、移転先では五基にまとめられている。海禅寺の墓石はこの際に松源寺から移されたものかもしれない。

●信胤の没年と法名

出典 俗名 没年月日 法名 享年
『寛政重修諸家譜』
『松源寺墓碑銘』
相馬信胤 正徳5(1715)年9月23日 全徹 六十六
『相馬当家系図』 相馬信胤 元禄10(1697)年3月8日 秋月  


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相馬重胤(????-????)

 二十九代当主。旗本相馬家八代。父は相馬小次郎信胤。通称は小平太。母は不明。

 貞享元(1684)年6月13日、五代将軍・徳川綱吉に拝謁し、元禄6(1693)年12月9日、大番職に就任したが、父に先だって没した。



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相馬保胤(1683-1736)

 三十代当主。旗本相馬家九代。父は相馬小次郎信胤。母は相馬小次郎要胤養女。通称は小次郎(『寛政重修諸家譜』)小源太(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。妻は筧新三郎正直娘

●保胤周辺系譜●

⇒相馬治胤――娘                +=信胤――――重胤(保胤の異母兄)
(左近太夫) ∥――――貞胤          | ∥
       ∥   (小次郎)        | ∥
       ∥     ∥          | ∥―――――保胤――――正胤【一橋徳川宗尹側近】
     大岡貞惟    ∥―――+―要胤―――+=娘    (小源次) (多宮)
    (権兵衛)    ∥   |(小次郎)         ∥
             ∥   |              ∥―――――矩胤
             某氏  +―娘            ∥    (左近)
                 |(要胤養女)        ∥
                 |              ∥
                 +―娘            ∥
                   ∥――――――筧正直―――娘
                  筧正興    (新三郎)
                 (五右衛門)

 異母兄・小平太重胤が早世したため、小次郎保胤が嫡子と定められ、宝永6(1709)年4月6日、大番に列し、大御番壱番・酒井下総守組士となっている。このとき二十七歳。同年8月21日には父・小次郎信胤鉄砲玉薬奉行に移っている。

 正徳5(1715)年9月に父・信胤が没すると、11月30日に遺跡を相続。元文元(1736)年5月14日に没した(『寛政重修諸家譜』)。ただし『松源寺墓碑』によれば5月12日に亡くなったとある。享年五十四。菩提寺の牛込松源寺に葬られた。法名は眞常院殿保叔良胤居士

 保胤の妻(筧新三郎正直娘)は保胤と離婚したのち一橋家に仕えており、父の筧正直は享保3(1718)年6月4日から享保11(1726)年6月9日までの8年間を将軍吉宗生母・浄圓院の用人を務めたのち、8月3日から同役・桜井九右衛門政英とともに吉宗庶子・松平小五郎(のちの一橋宗尹)の近習として出仕。享保14(1729)年8月5日に辞するまで3年間務めている。

 保胤の庶子・相馬多宮正胤は寛保元(1741)年12月19日、一橋宗尹の小姓として出仕しており、母(義母か)の筧氏が一橋家へ出仕していたことから、一橋家付とされたと思われる。また、筧氏の孫娘(長男・相馬矩胤の娘)は、一橋家用人・猪飼三郎左衛門正倫の妻となっている。



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相馬矩胤(1710-1786)

 三十一代当主。旗本相馬家十代。父は相馬小源太保胤。母は筧新三郎正直娘。通称は小太郎、左衛門、左近。諱は「利胤」とも(『海禅寺位牌』)。屋敷は四谷大木戸

 元文元(1736)年7月1日、八代将軍・徳川吉宗に拝謁し、8月2日、父の跡を継いで家督を相続した。家督相続に際し、矩胤は桜田の中村藩邸(藩主・相馬弾正少弼尊胤)を旗本相馬家として初めて 訪れ、中村藩用人の本山仁左衛門に面会。「亡父小源太」の跡式相続の由を伝えている。これは一族・血縁へ家督相続や任官などに際して行う「吹聴」の礼儀であろう。

 矩胤としては、中村藩との父祖以来の絶交関係を修復したい気持ちがあったのであろうが、中村藩側では、すぐによい顔もできなかったようで、翌日「一応之御礼」として使者を四谷の相馬邸に遣わした(『相馬藩世紀』)。しかし、この矩胤の吹聴がきっかけになったか、この頃から中村藩相馬家の記録に旗本相馬家の記載が増えてくるようになる。下総国守谷の相馬家菩提寺・海禅寺茨城県守谷市高野)の将門堂供養などを通じて、互いに交流を持つようになったのかもしれない。

 相馬家が十三世紀末に一族同士の争いによって分流してから五百年余、江戸時代初期に一度は顔を合わせた両家も再度対立して絶縁したが、矩胤の行為により関係の修復が始まったのだろう。

 元文元(1736)年12月23日、大番に列し、延享元(1744)年12月12日、新番に移り、明和5(1768)年3月8日、大番に戻った。相馬家は代々将軍家の直属下士官の家柄として認知されていたのだろう。

 宝暦6(1756)年6月、御三卿筆頭の田安右衛門督宗武(徳川吉宗の次子)が相馬家の屋敷のある四谷大木戸前に下屋敷を構えたが、相馬家の屋敷は所替えを命じられることなく、広大な田安家の敷地の中に埋もれるように半世紀もの間残った。

 安永4(1775)年8月22日、矩胤は六十六歳にして大番を辞して隠居した。しかし、隠居して早々の11月14日、「相馬左近殿御次男不慮之儀」があり、「町奉行所へ御渡仰付候」ことがあった(『相馬御実記』)。つまり、矩胤は次男が何か事件を起こして町奉行所へ出頭する羽目になった。このとき矩胤は中村藩主・相馬因幡守恕胤に合力を求め、恕胤も矩胤の意を受けてただちに五両を手配して矩胤に送金している。両相馬家の交流がこのときも続いていたことがうかがわれる。

 翌安永5(1776)年、相馬家が六十年ほど前に没収された山崎村野田市山崎)などの知行地の回復を願う願書が、猿島郡弓田村茨城県坂東市弓田)の百姓・金右衛門(谷上勘兵衛の甥)から幕府に提出されたが、知行地が回復したかは不明。おそらく不調に終わったと思われる。

 天明6(1786)年9月23日に没した(『寛政重修諸家譜』)。ただし、『松源寺墓碑』『海禅寺位牌』では「相馬左近平利胤」が天明6(1786)年10月11日に亡くなっている。享年七十七。法名は歸雲院殿了岳道機居士。菩提寺の松源寺に葬られた。

 「利胤」(『海禅寺位牌』)と「矩胤」(『寛政重修諸家譜』)は、いずれも天明6(1786)年に没し、その日付も9月23日(『海禅寺位牌』)と10月11日(『寛政重修諸家譜』)と近い。このため、両者は同一人物とも考えられるが、なぜ両者の名や命日が異なっているのかは不明。位牌は嘉永4(1851)年12月、相馬左兵衛祚胤による奉納であり、相馬家側の資料と寛政譜の提出資料で異なっていたのかもしれない。



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相馬是胤(1739-1804)

 三十二代当主。旗本相馬家十一代。父は相馬左近矩胤。母は不明。通称は左兵衛。妻は中村忠左衛門利恭娘。屋敷は四谷大木戸。家紋は「維駒」「丸ノ内三茶実」

相馬家菩提寺 松源寺跡
菩提寺の松源寺跡地

 天明6(1786)年11月7日、四十八歳で遺跡(八百俵)を相続して、12月22日に十代将軍・徳川家治に拝謁したとされる(『寛政重修諸家譜』)が、家治はこれより3か月半前の9月8日に薨去していること、また、是胤が将軍に拝謁する年齢が遅すぎることなど考えると、家治が将軍に就任した宝暦10(1760)年ごろにはすでに拝謁していた可能性があり、『寛政重修諸家譜』作成時の誤りかもしれない。

 享和4(1804)年正月24日、六十六歳で亡くなった(『寛政重修諸家譜』)。院号は法心院殿了覚一無居士。菩提寺は松源寺新宿区神楽坂6丁目)。

 一橋徳川家とは、叔父の正胤が一橋家に仕えて以来関係が続いており、是胤の弟・相馬主水胤勝は一橋中納言治済に仕えている。叔父・正胤の跡を継いだか? また、妹は一橋家用人の猪飼三郎左衛門正倫に嫁いでいる。

●矩胤周辺系譜●

⇒相馬保胤 +――――――――矩胤    +―是胤
(小源次) |       (左近)   |(左兵衛)
  ∥   |        ∥     |
  ∥   |        ∥―――――+―重胤
  ∥―――+  中村利恭――娘     |(右兵衛)
  ∥   | (忠左衛門)       |
筧正直娘  |              +―娘
      +―小源次          | ∥
      |              | 猪飼正倫【一橋徳川家家臣】
      +―娘            |(三郎左衛門)
      |              |
      +―小十郎          +―胤勝【一橋徳川家家臣】
      |              |(主水)
      +―小膳           |
      |              +―娘
      |【一橋徳川家家臣】     |(三沢信以妻)
      +―正胤           |
       (多宮)          +―娘
                     |(北山経久妻)
                     |
                     +―尚胤
                      (小伝次)



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相馬敏胤(????-1810)

 三十三代当主。旗本相馬家十二代。父は相馬左衛門是胤。母は中村忠左衛門利恭娘。通称は小太郎、左近。妻は長野善三郎業盛娘

 禄高は八百俵で先代と変わらない。元服して隠居するまで小普請(特定の役職のない旗本)のままであった。

 文化7(1810)年5月13日、亡くなった。院号は弓影院殿心境幻生居士。菩提寺の松源寺に葬られた。



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相馬繋胤(????-1819)

 三十四代当主。二十八代・相馬小太郎敏胤の嫡男。通称は小源太、左近。母は長野善三郎業盛娘。役職はなく、小普請組であった。江戸時代には「四谷大木戸片町北側相馬左近屋敷」で行われている「相馬家嘉例の黒塗り」が知られていた(『遊歴雑記』:十方庵大浄敬順著)

「……例年正月十五日は家例として、門前を通る往来の人を呼び入れ、酒を振舞い、飽きるまで無理強いして、その者がもはや飲みがたしといふを合図に、かねて用意し置きたる蘿蔔(=大根)の切り口を油墨に浸し、酒を飲みたる男女の額に押して、門前へ突き出し帰しむ。この戯れによって、門内わあわあ笑い声がしければ、往来の者が立ち止まり、何事かと門の潜りより顔差し出し覗くと、そのまま徒者を引き捕らえて玄関前にて、また、酒を強いてのち又額に墨を押す也。その者は額の墨を払わんと手で撫でるがゆえ、墨が顔一面に広がり、各々顔異人に似たり。また、一興と言うべし。いつごろより始まったか、これを相馬左近の家の吉例として、今も違わざる事、昔の如し」(『常総戦国誌』掲載)

 旗本相馬家では、こういった変わった家例が伝わっていた。相馬家内での何らか嘉例または、平将門関係の何らかの神儀がもととなっていると思われ、それが家の行事として定着したと思われる。

 文政2(1819)年6月24日、亡くなった。法名は霍林院殿仙曹智雄居士。菩提寺の松源寺に葬られた。孫の相馬祚胤が幕府に提出した履歴書によれば、「一生小普請」とあるため、役に付くことはなかったようだ(『明細短冊』)



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相馬将枝(????-1841)

 三十五代当主。二十九代・相馬左近繋胤の嫡男。母は不明。通称は金三郎、邦三郎。諱に通字の「胤」を使わず「將」を用いているのは、相馬家の祖と伝えられる平将門に由来するものだろう。禄高は八百俵。役職は新御番、甲府勤番。屋敷は四谷大木戸内、その後は甲府に移った(『旗本姓名高寄』:『常総戦国誌』より)

甲府城
甲府城

 文政2(1819)年、父・相馬左近繋胤の跡を継いで相馬家当主となり、小普請組・松平石見守の配下となる。まだ二十歳前後の若年だったと思われる。

 文政3(1820)年2月4日、「小普請の衆、甲府勝手小普請被仰付、同月五日ニ甲府山手御支配松平相模守殿表江戸表御在府中ニて、相模守殿へ勝手小普請の衆御引渡し有之」とあり、「小普請組 松平石見守支配 相馬邦三郎」甲府勝手小普請に移され、甲府山手支配・松平相模守に転属となった。

 4月20日、相馬邦三郎、宮村永庵、笹瀬権九郎、本多仁十郎、中村丈右衛門は江戸を出立して23日、甲府に着任した。いわゆる「甲府勤番」であるが、勤番士は主に百石取以下の旗本から選抜された役職であったが、その後、江戸に戻っても出世の見込めない役職であり、一種の左遷とされ「山流し」ともいわれていた。ただし邦三郎らについては、小普請衆の一部を転属という形で配されたようである。

相馬邦三郎将枝
相馬邦三郎甲府屋敷跡

 相馬邦三郎は当時の甲府勤番士の中では最も高禄で、蔵米取とはいえ甲府での屋敷は甲府城から最も近い一角を与えられていた(甲府市北口一丁目)。道を挟んで南隣には甲府勤番支配・牧野駿河守の役宅である「山ノ手御役宅」があった(甲府市丸の内一丁目)。

 天保9(1838)年3月10日、江戸城西丸が火災で焼失した。幕府は再建のために諸大名に御手伝普請を命じ、旗本には費用の上納を命じた。甲府勤番士も例外ではなく金子の上納が命じられ、12月、牧野駿河守支配の山手勤番士からは合わせて三百六十七両二分、銀十一匁一分の上納があった。旗本に命じられた上納金は五百俵未満は百俵当たり一両二分となり、五百俵以上は百俵当たり二両と定められていた。相馬邦三郎は八百俵で上納金は十六両となっている。

●天保9(1838)年の上納金負担割合(山手勤番士)

石高 上納金 主な人物
800俵 16両 相馬邦三郎
700俵 14両 村上朝次郎
600俵 12両 武嶋内蔵助
500俵 10両 石井清右衛門 他
450俵 6両3分 能勢兵庫
400俵 6両 馬淵英蔵
350俵 5両2分 柴田五郎左衛門
300俵 4両2分 大久保熊太郎 他
268石7斗3升 4両、銀1匁2分 服部太郎
267俵 4両、銀3分 諏訪荒三郎
250俵 3両3分 福島谷太郎 他
210俵 3両、銀9分 漆原芳作
208俵 3両、銀7匁2分 磯部金五郎
203俵1斗5升 3両、銀2匁7分 葉山織部
200俵 3両 三宅午五郎(山手組頭) 他
150俵 2両1分 内山斧太郎
100俵 1両2分 嶋田九十九 他
現米80石 3両1分、銀10匁2分 山崎久左衛門

 天保12(1841)年正月21日、邦三郎は新御番への御番替が命じられて河内采女正組への配属となったため、甲府から江戸に戻った。組頭となった「河内采女正」も千葉一族の旗本河内氏であろう。邦三郎はその後体調を崩したようで、同年9月10日に亡くなった。法名は深霜院秋岳元涼居士。菩提寺の松源寺に葬られた。



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相馬祚胤(1829-????)

相馬祚胤屋敷
牛込の相馬祚胤屋敷跡

 三十六代当主。三十代・相馬邦三郎将枝の嫡男。母は不明。通称は左衛門小三郎小普請組の旗本だった。「祚胤」の読みは「としたね」か。禄高は八百俵

  文政12(1829)年11月、父・相馬邦三郎將枝が甲府在勤中に誕生し(『相馬勘次郎平民編入願』)生国は「甲斐」となっている(『江戸幕臣人名事典』『相馬左衛門明細短冊』)

 天保12(1841)年9月10日、父・邦三郎が亡くなった。12月27日、祚胤の家督が認められ相馬家を継いで小普請となるが(『明細短冊』)、このとき祚胤はわずかに十三歳。妹・萬寿(ます)は五か月の乳児であり(『相馬勘次郎提出書類』)、しかも二十年にわたって甲府勤番士だった相馬家には「拝領屋鋪無御座候」とあるように(『明細短冊』)、すでに江戸の拝領屋敷はなく、小日向水道橋小普請・矢嶋叡太夫の拝領屋敷内(文京区小日向二丁目)に借地して住居を構えた(『明細短冊』)。その後、菩提寺・松源寺新宿区神楽坂六丁目)にほど近い牛込若宮光照院隣新宿区若宮町)に新たに屋敷を拝領した。

 なお、相馬家の四谷大木戸の屋敷は安政3(1855)年当時、須田家が入っている。須田家は五百俵取の旗本で、相馬家とも親類に当たる。相馬家が甲府へ移ったのちに拝領したのかもしれない。須田家の当主は本所石原片町墨田区石原二丁目15)におり、四谷屋敷は幕末には御書院番太田大太郎へ貸していた。

●猪飼氏周辺系図

 猪飼正忠―+―猪飼正高――+―猪飼正武―――――娘
(半太郎) |(五郎左衛門)|(孫助)      ∥
      |       |          ∥――――――猪飼正儔
      |【仕一橋宗尹】|【一橋治済用人】  ∥     (五郎左衛門)
      +―猪飼正表  +―猪飼正義―――――猪飼正通
      |(久右衛門) |(茂左衛門)   (鎌次郎)
      |       |
      |【仕一橋家】 |         【仕一橋家
      +―娘     +――――――――――猪飼正倫
              |         (三郎左衛門)
              |           ∥
              |+―相馬矩胤――+――
              ||(左近)   |
              ||       |
              ||【仕一橋宗尹】|【仕一橋治済
              |+―相馬正胤  +―相馬胤勝
              | (翁助)    (主水)
              |
              |
              +=猪飼正通―――――猪飼正儔 
              |(鎌次郎)    (五郎左衛門)
              |
              +――娘
                 ∥
        須田盛正――+―須田盛至―――+―娘
       (平左衛門) |(新太郎)   | ∥
              |        | ∥
              |        +=須田盛恒
              |         (粂次郎)
              |
              +―須田盛直【一橋家臣中嶋庄蔵正交養子
               (大八郎)

 

 嘉永4(1851)年12月、祚胤は相馬信濃守胤信から相馬邦三郎将枝までの歴代の位牌を建立し、代々の菩提所である下総国相馬郡守谷村の海禅寺に奉納した。中村藩相馬家との関係もこのころははっきりしなくなっている。自らの屋敷もなくなり、交流は絶えてしまったのかもしれない。

 慶応2(1867)年9月、長女・路具(ろく)が誕生している(『相馬勘次郎提出書類』)。祚胤の妻についての記録はないが、養孫・相馬勘次郎が明治8(1875)年に提出した書類には、連名で「同人養方由緒 小倉政晃」の名が見え、祚胤は小倉家から妻を迎えていた可能性もある。

 この小倉家は代々甲府勤番を勤める家柄で、その縁で相馬家と関わりを持ったのかもしれない。幕末当時は小川町広小路三百四十八坪の居屋敷、家禄は三百俵という中級の旗本だった。小倉政晃は「静岡縣士族」だが、旧主・徳川家達の静岡行きには従わずに東京に残り、浅草松清町四番地に住んでいた。

●旗本小倉家系譜

 小倉正直――小倉権兵衛―+―娘
(安右衛門)       | ∥―――小倉政五郎==小倉政房―+―小倉政休==小倉政芳―+―小倉政行――小倉内蔵允
             | ∥         (安右衛門)|(権兵衛) (安右衛門)|(新左衛門)
             +=小倉安右衛門          |            |
                               +―小林政久       +―小倉政邦
                               |(五郎三郎)       (武次郎)
                               |
                               +―小倉政秀
                                (源蔵)

 明治に入ると、祚胤は「小三郎」と名を改めた。男子はなかったと思われ、杉原鐵次郎の子を養嗣子として迎え、相馬胤正と名乗らせて家督を継がせて隠居し、明治8(1872)年2月には酒井龍之助方(市谷田町三街目十七番地)に住んでいた(『相馬小三郎提出書類』)。このころすでに酒井龍之助は旧小金牧の初富に開拓農として帰農しており、屋敷は貸家として相馬家へ渡したものだろう。酒井龍之助が相馬祚胤とどのように関わりを持って屋敷に住まわせていたのかは不明。

        杉原鐵次郎―+―杉原真造
              |
              +―相馬胤正
                ↓
 相馬将枝―+―相馬祚胤――+=相馬胤正===相馬勘次郎
(邦三郎) |(小三郎)  |         ↑
      |       |         |
      +―萬寿    +―路具      |
                        |
                井田九三―?―相馬勘次郎

 養嗣子・相馬胤正への具体的な相続年は不明だが、明治5(1872)年11月19日、浜松県在住東京府貫属士族として「相馬胤正」の名が登録されている(『華士族禄高牒』)。胤正は嘉永4(1851)年生まれなので、このとき胤正は二十二歳。「旧禄八百俵」とあるため、この時点ですでに家督だったことがわかる。なお、このときの相馬家「家禄」は「現米拾弐石六斗」。胤正は明治2(1869)年8月に旧主・徳川家達が府中藩七十万石の藩主として駿河国府中へ移った際には同行せずに東京に留まった。

 翌明治6(1870)年10月31日、胤正は神田同朋町十七番地の借店に住む実父・杉原鐵次郎と同居している(『相馬小三郎提出書類』)。このころ体調を崩していたようで、家督相続のために杉原家より勘次郎を貰い受け、明治8(1875)年2月25日までに隠居した。兄に杉原真造(湯島天神町一丁目五十六番地)がいる。

 胤正の家督を継いだ相馬勘次郎は、本郷三街目の井田九三宅に住んでいたが、この当時、勘次郎はわずかに七歳であり、井田家が実家かもしれない。井田家も士族のため、旗本井田家と思われる。旗本井田家は百五十俵取りの旗本で、本郷御弓町に屋敷を構えていた。その後、6月までに養祖父・小三郎の住む酒井龍之助方に移っている(『相馬勘次郎提出書類』)

●旗本井田家系図

 井田重政―…―井田光號――+―井田良幹―+―娘
(左衛門尉) (九郎左衛門)|(九蔵)  | ∥―――――井田九蔵――井田栄輔
              |      | ∥
              +―井田朕富 +=井田良定
               (三九郎)  (大助)

 その後の相馬一族の動向は不明。菩提寺の松源寺の墓碑も、明治36(1903)年当時には明治期のものは一橋徳川家へ仕えた相馬家以外のものはなく、平成に入って旗本相馬家の墓域は無縁墓として整理されている。

 なお、相馬家が身を寄せていた酒井龍之助は、明治元(1868)年10月10日、鎮守府支配として新政府に召し出され、翌明治2(1869)年12月2日、東京府貫属の士族となるが、明治4(1871)年7月、旧小金牧の初富の開墾・帰農を東京府へ申請し、7月29日、東京府から元開墾局出張所へ申請された(『酒井龍之介提出書類』)。このとき酒井龍之助は近藤力之助触下で、家禄は現米二十二石。年齢は三十五歳なので、弘化4(1847)年生まれとなる。初富西三番地の農業・伝左衛門方に同居して帰農した。龍之助の父もおそらく龍之助を称していたと思われ、四谷内藤新宿裏に三百坪の居屋敷渋谷宮益町裏通りに百二十六坪の拝領屋敷を持つ比較的裕福な旗本だった。安政5(1855)年当時、父・龍之助は小普請組となっている。

●旧旗本酒井家系譜

                +=酒井右馬之丞
  ゑ津     以久     |
   ∥      ∥―――――+―酒井良太郎
+―酒井龍之助   ∥     |
|  ∥―――――酒井龍之助  +―茂登
| 某氏            |
|               +―酒井半次郎
+―酒井松斎


一橋相馬家

●一橋徳川家相馬氏(『橋府分限帳』などより作成)

               山口万之助――山口杢左衛門―+
                             |
                             +――+
相馬保胤―+―相馬矩胤―+―相馬胤勝―――相馬胤恭======相馬靱負――――相馬貞之進
(小源次) |(左近)  |(主水)   (主税)      (猪兵衛)
      |      |
      |      +―娘                        前野利正
      |        ∥                       (権之進)
      |        ∥                        ∥
      |        猪狩正倫   青木勘次郎―――――娘     +―さだ子
      |       (三郎左衛門)           ∥     |
      |                         ∥     ?
      |                       +―相馬翁輔――+―娘
      |                       |         ∥
      |                       |         ∥
      +―相馬正胤―――相馬春胤―+―相馬胤永――――+―相馬てつ子   林半蔵
       (翁助)   (文左衛門)|(右近)     |
                    |         |
                    +―相馬半蔵    +―相馬胤富
                               (鉦吉)
                                ∥
                                みよ子
                                ∥―――――――久保喜三郎
久保喜七郎――久保次郎右衛門―久保喜三郎――久保安次郎―――――久保喜三郎

 

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相馬正胤(????-1787?)

 一橋家臣相馬家初代。父は相馬小源太保胤。通称は多宮(『寛政重修諸家譜』『御附人御附切』)茂之丞(『御附人御附切』)半左衛門(『御附人御附切』)翁助(『寛政重修諸家譜』)。号は左翁(『寛政重修諸家譜』)

 寛保元(1741)年12月19日、徳川吉宗の四男・徳川宗尹(一橋刑部卿)の「御小性」に新規に召し出され(『略譜』『御附人御附切』)役料二百俵を給された(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。ただ、この日宗尹は中野に鷹狩りに行っており、正胤が謁した記録は残っていない(『覚了院様御実録二』)

 正胤が一橋家へ召し出された理由ははっきりしないが、正胤の外祖父・筧新三郎正直が一橋徳川宗尹の近習だったことによるものか。享保11(1726)年6月9日、宗尹の祖母にあたる浄圓院(徳川吉宗生母。巨勢氏)が亡くなると、8月3日、浄圓院付用人だった筧新三郎正直、桜井九右衛門政英が宗尹の近習として出仕することとなった。この筧正直の母は相馬貞胤の娘(正胤曽祖父要胤妹)であり、さらに正直の娘が又従姉弟の相馬保胤に嫁ぎ、その末子が正胤である。

        小笠原貞信――相馬信胤
       (源四郎)  (小次郎)
               ∥―――――相馬保胤
 相馬貞胤―+―相馬要胤―――娘    (小源次)
(小次郎) |(小次郎)         ∥―――――+―相馬矩胤【旗本相馬家】
      |              ∥     |(左近)
      +―娘            ∥     |
        ∥――――――筧正直―――娘     +―相馬正胤【一橋相馬家】
        ∥     (新三郎)         (多宮・翁助)
       筧正興
      (五右衛門)

 延享3(1746)年10月3日、召抱えの形態がおそらく抱入から幕府直参の身分で専任となる「御附切」に切り替わっている(『略譜』)。実際に「御附切」への契約変更が仰せ付けられたのは10月15日のことと思われる(『御附人御附切』)。御三卿家が独自に召抱えた「抱入」の身分では役職に就くことができず、形式上でも直参となることで公儀からの許しも出たようだ。「御附切」の身分は公儀直参だが、幕府から出向している「御附人」よりも一橋家当主の裁量がはたらきやすかった。

 翌延享4(1747)年の「徳川刑部卿様於附衆」「御扈従衆」「相馬半左衛門」の名が見える(『袖玉武鑑』)が、正胤が通称を「多宮」から「茂之丞」「半左衛門」へ改めたのは、この年のことだろう。寛延3(1750)年まで「御扈従衆」にとして名が見える(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)

 隠居して左翁を号した。隠居時期は不明だが、天明7(1787)年2月7日当時、一橋家に御附切として仕えていた七人の一人に「相馬猶之丞」が見え、彼は次代の相馬文左衛門春胤と推測されることから、このころには隠居または亡くなっていたと思われる。没年不明。

 相馬家の菩提寺・松源寺には天明7(1787)年7月10日に亡くなっている人物がかつて墓碑に刻まれており(『松源寺墓地検査願』 寺院移転に伴う調書で墓碑は現存せず)、この人物が相馬左翁正胤であるとすると、法名は一法了心居士

 

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相馬春胤(????-????)

 一橋家臣相馬家二代。父は相馬翁助正胤。通称は猶之丞(カ)、文左衛門。屋敷は「うし込御かち丁新宿区北町

 天明7(1787)年2月7日、一橋治済が家老の林肥後守忠篤に、我が家で働く者たちは多くが公儀からの御附人で、新規に召抱えて御附切とした者がわずか11名に過ぎず、清水家の31人よりもかなり少ない。しかも、11人のうち4人はすでに御附切ではなく、残りは7人で大変に手不足であることを訴えている(『一橋治済状』)。この七人の中に「相馬猶之丞」の名が見える。おそらくのちの文左衛門であろう。また、この年、子の相馬右近胤永が生まれている(『橋府分限帳』上)

 父・相馬翁助正胤の隠居時期は不明だが、正胤の隠居後、家督を相続したのち、おそらくいくつかの役職を歴任して、享和元(1801)年までに「徒頭」に昇った。いつごろ「徒頭」になったかはわからないが、寛政9(1797)年、従兄弟の相馬主水胤勝「徒頭」を病免されているので、その後職になったのかもしれない。

●一橋相馬家周辺系図

 相馬保胤―+―相馬矩胤―+―相馬是胤――相馬胤敏【旗本相馬家】
(小源次) |(左近)  |(左兵衛) (左近)
      |      |
      |      +―相馬胤勝――相馬胤恭【一橋相馬家(二)】
      |       (主水)  (主税)
      |   
      +―相馬正胤―――相馬春胤――相馬胤永【一橋相馬家(一)】
       (翁助)   (文左衛門)(右近)

 享和元(1801)年10月、一橋斉敦は家老・田沼能登守を通じて「徒頭 相馬文左衛門」「目付助」とした(『相馬文左衛門御目付助可被仰付候儀』)。この書付には、「神田橋江も御相談申候」とあり、神田橋邸の隠居・徳川治済に人事についての相談をしていた様子がうかがえる。

 享和3(1803)年には「御目付」となった相馬文左衛門がみえる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。彼が「御目付助」から「御目付」へ昇進したのは、享和元(1801)年10月から2年の間だったことになる。また、同年には「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門弟」「相馬半蔵」が生まれている(『藤岡屋日記』より逆算)。この「相馬文右衛門」に比定できる人物は系譜や武鑑からはうかがえないが、年代から考えて、少なくとも文左衛門春胤ではない。実際はその子・右近胤永の弟が相馬半蔵ということになる。

 文化11(1814)年には「御広敷御用人」となり(『江戸幕役職武鑑編年集成』)、禄高は四百石御役料百俵を賜る。文化13(1816)年、斉敦が亡くなったため、寛政11(1799)年正月に隠居して神田橋邸にいた徳川治済付の御用人見習となった(『橋府分限帳』上)

 文左衛門が亡くなった年は不明だが、 文政4(1821)年の治済付御用人としての記録(ただし、名はなく維駒紋のみ掲載)を最後に見られなくなる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。この頃に隠居したか亡くなったのだろう。

●相馬主水胤勝

 相馬左近矩胤の子・相馬主水胤勝も一橋家に仕えている。相馬文左衛門春胤の従兄弟にあたる。

 相馬主水は宝暦9(1759)年9月4日、一橋御殿に一橋家嫡子・徳川豊之助(徳川治済)の「御相手」として召し出され、御合力金として「千五両」を賜った。

 明和元(1764)年閏12月26日、「小性見習」となり、切米十七石三人扶持を給わる。明和7(1770)年9月15日、「小性」に昇り、天明元(1781)年4月28日、「小姓頭取」、天明7(1788)年3月4日、「頭役」となり二百俵高となる。

 寛政元(1789)年3月24日には「徒頭」となった(『略譜』)。寛政4(1792)にも「相馬主水」が「御徒頭」として見える(『袖玉武鑑』)「相馬主水」は寛政9(1797)年まで御徒頭として見え(『袖玉武鑑』)、それ以降の武鑑に名前が見えなくなるが、同年3月7日、病のため隠居が許され、閏7月14日に亡くなっている(『略譜』)

 相馬保胤――+―相馬矩胤――+―相馬是胤―――――相馬敏胤―――――相馬繋胤
(1683-1736)|(1710-1786)|(1739-1804)  (????-1810)  (????-1819)
       |       |
       |       +―相馬胤勝―――――相馬胤恭=====相馬靱負――――相馬貞之進
       |        (????-1797)  (????-????)  (1812-????) (1833-????)
       |
       +―相馬正胤――――相馬春胤―――+―相馬胤永―――+―相馬翁輔
        (????-????) (????-1821頃)|(1787-1844頃)|(????-1868)
                        |        |
                        +―相馬半蔵   +―相馬胤富
                         (1803-????)  (1831-1896)

 主水胤勝の跡は、相馬主税胤恭が継ぎ、一橋家大番となっている(『略譜』)。なお、天保8(1837)年の「御右筆助」に二十六歳の相馬靱負の名が見えるが、彼の養祖父は相馬栄五郎、養父は相馬主水(『橋府分限帳』下)となっている。「相馬栄五郎」の名は見えないが、「相馬主水」は胤勝の通称であることから、靱負の家は相馬主水胤勝の子孫と推定される。

 系譜に当てはめると「養祖父相馬栄五郎」は「主水胤勝」「養父相馬主水」は「主税胤恭」に相当するが、通称がそれぞれ一致せず、系譜に謎が残る。

 天保13(1842)年、天保14(1843)年の武鑑に見える「御右筆」の「相馬猪兵衛」は靱負が改名したのちの名と思われる。俸禄は十七石三人扶持。祖の相馬主水胤勝と同じであり、これが相馬主水家の役高無しの俸禄だったのだろう。子は慶応3(1867)年に同禄高の御勘定所出役・相馬貞之進だろう(『銃隊御組合可相成人名取調書』)

 

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相馬胤永(1787-1844?)

 一橋家臣相馬家三代。父は相馬文左衛門春胤。通称は右近

 天明8(1787)年におそらく牛込御徒丁の屋敷で誕生(『橋府分限帳』上)。文化11(1814)年、一橋徳川民部卿斉敦の御小姓衆として召し出された(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』)。住所は文左衛門と同様「うし込御かち丁」である。諱については、一橋徳川斉敦が描いた『打毬御巻双紙』に打毬に興じる斉敦側近の一人に「相馬右近胤永」の名が見えることから、諱は「胤永」だったことがわかる。

 相馬右近は文化13(1816)年まで徳川斉敦の「御小姓」を勤め(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、9月4日に斉敦が亡くなると、跡を継いだ嫡子・徳川斉礼の「御小姓衆」に編入され(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、文化15(1818)年まで御小姓衆としてその名が見える。

 文政2(1819)年からは隠居の一橋治済に仕えて御徒頭となった。屋敷は「わせた明神横丁」とあるが、これまでの「うし込御かち丁」「中御かち丁」と同じ場所(新宿区北町19)だろう。

 その後、武鑑にはしばらく名を見せないが、文政7(1824)年に「御目付」として相馬右近の記載が現れる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。その後、天保13(1842)年まで御目付を勤め(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、同年中に「御書院番頭」へ遷った。さらに翌天保14(1843)年、「御書院番頭」から「御物頭」へ遷った(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)

 天保6(1835)年7月27日、「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門」の弟で無役の「相馬半蔵」の名が見える(『藤岡屋日記』)。半蔵は日ごろから虚無僧となって所々を放浪していたが、7月27日、かねてから懇意にしていた目白台の御賄方・伊沢八十吉の続新屋敷に飼犬を連れて訪ねた。半蔵は犬を屋敷の外に繋いでいたが、同じ組屋敷内で飼われていた犬と半蔵の犬が喧嘩になった。このとき、この長屋に住む金子建蔵の子息・金子金次郎がたまたま長屋に来訪したが、長屋の飼犬が半蔵の犬に噛み伏せられているのを目撃、半蔵の犬めがけて石を投げつけた。これを見た半蔵は激怒して金次郎に襲いかかり、手に持っていた尺八で金次郎の脳天を殴りつけた。金次郎は昏倒し、手当ての甲斐なく同日夜に亡くなった。金子家の親類は牛込神明横町の相馬家へ押しかけ、掛け合いに及んでいる(『藤岡屋日記』)。半蔵がその後どうなったかは記載がないためわからないが、評定所預けになったと思われる。

 天保8(1837)年時点で「相馬右近」が「御目付」であり、その2年前、天保6年に不始末を犯した相馬半蔵の兄「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門」はおそらく相馬右近胤永だろう(『橋府分限帳』上)

 相馬右近は天保13(1842)年に「御書院番頭」、翌年には「御物頭」となるが、弘化元(1844)年以降、記録がなくなる。このころ隠居したか亡くなったのだろう。菩提寺の松源寺にあった墓碑には、天保15(1844)年2月28日に亡くなった人物が記載されており(『松源寺墓地検査願』)、相馬右近かもしれない。法名は大円院鏡山了智居士

 

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相馬翁助(????-1868)

 一橋家臣相馬家四代。父は相馬右近胤永。通称は翁助。実名は不明。妻は八王子相原村郷士・青木勘次郎娘(『日記 番頭御用人』)

 弘化2(1845)年には一橋徳川家の御書院番・松倉平六組士として出仕している(『日記 番頭御用人』)。同年3月には「武州八王子相原村郷士 青木勘次郎娘」を娶った(『日記 番頭御用人』)

寛永寺黒門の弾痕
黒門に残る上野戦争の弾痕

 しかし、嘉永5(1852)年12月2日にはすでに弟の相馬鉦吉胤富を養子としており、翌年までに家督を譲って隠居。その後は、弟の相馬鉦吉とともに「彰義隊」に加わった。

 彰義隊はもともと徳川慶喜(もと一橋慶喜)の護衛のために、一橋家の武士を中心に結成された軍隊であったが、その後、幕府の旗本などを取り込むことによっていつしか過激な思想が生まれ、上野戦争という悲劇を生んだ。しかし、旧一橋家家臣の多くが、過激派と化した彰義隊に失望して、上野戦争以前に隊を去っていく。相馬兄弟のうち兄の翁輔は彰義隊に残っていることが確認できるが、弟の鉦吉の参戦は不明である。

 幕末当時、結城藩主は二本松藩丹羽家から養子に入っていた水野日向守勝知であった。慶応3(1867)年10月14日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政奉還し、江戸幕府は終焉を迎えた。しかし、旧幕府は依然として諸役人によって運営されており、勝知は12月18日、「江戸半蔵口門番」の命が下る。一方で朝廷からの上洛すべしとの命令には「病気罷在候」として「暫時御猶予」を願い出ていた。そしてこの願書は受理され、勝知の上京は「不及」との沙汰が下った。

寛永寺黒門
上野寛永寺黒門(南千住円通寺移築)

 しかし、勝知は内々に幕府に対して「上野山内警衛並ニ彰義隊付属指揮役」を願い出ていたようで、慶応4(1868)年3月1日、幕府はその願いの通り両役を勝知に命じた。このことに藩内は動揺する。勝知の行動は明らかに朝廷への反逆行為とみなされる。しかも、すでに慶喜追討の官軍が江戸にほど近くまで進軍しており、時間の猶予もなかった。

 このような中で、江戸詰家老の水野甚四郎をはじめとする佐幕派と、国元の執政・小川鈴之勝廉(勝知叔父)、家老・小場兵馬らを中心とする藩存続第一の新政府恭順派が対立していた。勝知が彰義隊指揮役を命じられたことを知った小場兵馬らは、幕府に「二職解任之願書」を提出し、勝知には帰国を懇願し続けたものの幕府からは音沙汰なく、勝知も帰国を無視したうえ、結城藩邸を出て実家の二本松藩邸へ移ってしまった。小場兵馬らは事ここに至っては、勝知を藩主としておくわけにはいかず、老君・水野摂津守勝進を藩主代行として擁立し、江戸藩邸に据えた。すると、勝知はにわかに藩邸に戻り、二本松藩士とともに結城藩邸を乗っ取り、佐幕派によって江戸藩邸はまとめ上げられた。

 この報告を聞いた国元の佐幕派藩士たちは、ついに藩主の交代を決行。老公・水野勝進の末子、水野禊之助(勝寛)を担ぎ出して藩公・勝知に反旗を翻した。これを知った勝知は帰国することを決意し、彰義隊士らを率いて帰国の途についた。

 3月17日、国元の小場兵馬らは勝知の側近・水野雅之助からの談判の申し出を受け、小山宿本陣小山市中央町二丁目)へ出向いた。ここで小場兵馬、稲場三鶴、三岡多治見は彰義隊・小泉高之進水野雅之助と会談するが、会談中、彰義隊士が本陣に押し寄せ、「種々強談王臣勤王抔ト申唱候者ハ此方共ノ所討也」などと声高に叫び、我々は勝知の頼みによって「結城鎮撫」のために罷り越しており、もし「不取用候節ハ大砲ヲ以テ一潰ニ可致」と脅した。そして、稲葉・三岡を結城へ差し戻して恭順派の執政・小川鈴之の謹慎と、三宅武兵衛ら十三名の逮捕を勝知の命として通達。さらに小場兵馬は本陣に監禁した。

 藩公・勝知はこの日、間々田宿小山市間々田)に着陣し、翌18日、小山宿本陣へ着いた。この報告を聞いた国元の藩士らは、勝知に「彰義隊ヲバ差戻候は為迎人数差出候間、早々入城致サレ候様申遣」したが、勝知からは「有無之返答無之」った。そして勝知は22日、自らの居城である結城城を攻め落とすための「兵器借用人数催促」を諸方に遣わした。

 もともと勝知は「戦争之用意無之、且鎮撫之為相頼候彰義隊故、器械等モ持参不致」かったため、至急兵器が必要となていたようである(『戊辰藩情録』:「結城市史」所収)。3月23日、古河藩から兵器を借用するため、水野又四郎、有馬豊之助、坂本源四郎(会津藩士)を差し向け、「某老臣(郡奉行・三浦次郎右衛門元徳とされる)」から十二斤カノン砲一門、弾薬百発を借用した(『史談会速記録』二四七:「結城市史」所収)

 一方、結城城側では逸早く勝知の兵器借用の報告を手にしており、忍廻の者を諸方に手配していたところ、「脱走西山半三郎外一人市内ニ於テ見受、早速手配致シ」たが、西山半三郎は逃げてしまった。しかし「一人ハ取押遂糺問処、彰義隊相馬翁輔ト申者」であった(『太政官日誌』:「結城市史」所収)

 翁輔は「廿二日諸方へ兵器借用人数催促等ノ風聞有之候ニ付諸方へ忍ノ者差出候処、大町新田問屋ニテ脱走、西山半三郎外ニ壱人見受候ニ付、手配中半三郎ハ逃去リ壱人捕押連来リ候…彰義隊相馬翁輔ニテ…」(『戊辰藩情録』:「結城市史」所収)と、結城藩の偵察者によって、脱藩した中小姓・西山半三郎とともに「市内」で発見されており、半三郎は偵察者が藩に捕縛の手配をしている間にうまく逃げ延びたが、翁輔は捕えられてしまった。捕縛されたところは「(結城)市内」と思われる。翁輔がどこへ遣わされる予定だったかは不明ながら、宛名の「坂本平馬」「人数等ノ義宜敷英断之程頼入」られるように、人数の手配ができる地位の人物と推測される。

 翁輔は逮捕時に暴行を受けたようで、結城藩は翁輔が「打身ニテ難義ノ様子ニ付、早速医療申付」た。そして姓名を訪ねたところ「彰義隊相馬翁輔」であると明かし「巨細之次第相咄シ」た。懐中からは「織田主膳ヨリ坂本平馬ヘノ書状懐中致居」り、その文には「此方我々共御内命蒙リ、且水野日向守ヨリ頼モ有之傍以出張候間、人数等ノ義宜敷英断之程頼入候」とあった(『太政官日誌』:「結城市史」所収)

 一方、江戸藩邸にいた恭順派の三宅武兵衛は、両派対立の解決を図るべく尾張藩の水野彦三郎邸を訪ねた。彦三郎の弟・水野仲四郎が同族・結城藩の藩校(秉彝館)の校長を務めていた関係で、結城藩と関わりを持っていたためと思われる。このとき二本松藩儒者・山田次郎八が当の仲四郎と会談中で、計らずも対面することになった。二本松藩は藩公・勝知の出身藩であり、武兵衛と次郎八は旧知の間柄であったのだろう。次郎八は結城藩士・高橋剛蔵から結城での事件を聞いて心配のあまり尾張水野家を訪問し「彰義隊ヲバ江戸表ヘ引揚候」ことを条件に戦争を回避させようと、仲四郎とともに結城へ行こうとしていた。そこに三宅武兵衛が訪ねてきたため三宅と結城へ行くこととし、24日、結城へ着いた。

 山田次郎八は結城城下の江戸屋に宿を取ったところ、たまたま小川鈴之(勝知叔父)らが江戸屋に出張してきたため対談となった。ここで次郎八は「彰義隊差戻シ早々入城有之候様致度旨一向ニ相頼」み、鈴之もこれを受け入れたようだ。

相馬翁輔の碑(円通寺)
相馬翁輔君之碑(円通寺)

 しかし翌25日早朝、彰義隊は「城下へ不意ニ押寄セ城内ヘモ脱人共彰義隊引連乱入、一時ニ発砲放火致サレ候」と、結城城に奇襲を仕掛けたが、城内の結城藩士たちによって排撃されてしまう。そして、城内の獄につながれていた相馬翁輔は、彰義隊の奇襲に怒った結城藩士・酒寄源内によっ引き出され、処刑された。享年不明。

 結城城下の合戦では午後過ぎまで結城藩が優勢だったが、「日向守出馬」が風聞されると、藩公と直接事を構えることはできないと衆議が決し、結城城は開城された。しかし、4月5日には新政府軍により結城城は攻め落とされ、水野禊之助の手に渡されることとなった。

 翁輔の遺体はその後、相馬家の菩提寺・牛込松源寺に葬られた。法名は長性院殿徳岸義昌居士(「松源寺墓地検査願」)。彰義隊士の荒川区南千住の圓通寺にも墓標がある。

 

 相馬翁輔には娘がおり、彰義隊士・林半蔵の妻になっている(林半蔵は上野戦争で戦死している)。翁輔は弘化2(1845)年3月24日に、「武州八王子相原村郷士」「青木勘次郎娘」と婚姻が許されており、その間に生まれた娘か(『日記 番頭御用人』)。 

 

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相馬胤富(1831-1896)

 一橋家臣相馬家五代。父は相馬右近胤永。通称は鉦吉

 弘化2(1845)年当時、鉦吉は小普請組に属し、山口仲次の馬術の弟子として、一橋邸の外庭馬場において乗馬を行い、当主・一橋慶壽がこれを「御覧被遊」っている(『日記 番頭御用人』)

 嘉永5(1852)年12月2日の時点で胤富は兄・相馬翁助の養子となっており(『日記 番頭御用人』)、翌嘉永6(1853)年12月21日には小十人組士・櫛渕弥市の剣術の弟子として当主・一橋慶喜が実見している。このとき鉦吉は小普請に属しており、嘉永6(1853)年中には兄の相馬翁助より家督を譲られていたことがわかる。安政5(1858)年正月14日の段階では小普請支配黒田兵庫組に配属されていた(『日記 番頭御用人』)。 

寛永寺黒門の弾痕
黒門に残る上野戦争の弾痕

 慶応3(1867)年、御書院番士として名が見え(『銃隊御組合可相成人名取調書』)、同族の相馬貞之進御勘定所出役に列している(『銃隊御組合可相成人名取調書』)。慶応4(1868)年当時も御書院番となっており(『日記 番頭御用人』)、鉦吉は御書院番士として幕末を迎えた。

 その後、鉦吉は兄で義父の先代・相馬翁助とともに「彰義隊」に加わった。彰義隊はもともと徳川慶喜(もと一橋慶喜)の護衛のために、一橋家の武士を中心に結成された軍隊であったが、その後、幕府の旗本などを取り込むことによっていつしか過激な思想が生まれ、上野戦争という悲劇を生んだ。しかし、旧一橋家家臣の多くが、過激派と化した彰義隊に失望して、上野戦争以前に隊を去っていく。相馬兄弟のうち兄の翁助は彰義隊に残っていることが確認できるが、弟の鉦吉の参戦は不明である。

 その後、相馬鉦吉がどのように幕末を迎えたかは不明。ただし、明治3(1870)年、一橋家解体後の旧臣禄高として「現米拾三石一斗」が与えられていた記録があり(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)、性格の変わってしまった新しい彰義隊と決別して一橋家に戻った一人だったのかもしれない。その翌年の明治4(1871)年には、「高現米拾六石宛」に加増されている(『九等割内訳姓名帳』)

多門信治屋敷跡 相馬胤富仮寓
多門信治屋敷跡(神宮外苑内)

 なお、相馬鉦吉は戊辰戦争を生き延び、明治初期の居住地は「青山西三筋町内藤駒次郎触下多門信治敷地之内港区北青山1丁目で、義理の息子と思われる久保喜三郎(彰義隊士)とともに住んでいた(『元一橋家来名札』)

 久保喜三郎は一橋慶喜の御奥詰小姓で、戊辰の戦争当時は宇都宮藩などへの使者を務め、慶応4(1868)年には振武隊士として多摩地方で薩長勢と戦った人物。鉦吉の妻・相馬みよ子の子である。連れ子ということになるか。ただし、鉦吉と喜三郎の年の差はわずかに五歳という義理の父子である。

 なお、弘化4(1847)年11月の徳川七郎麿(一橋慶喜)の「御稽古定日」で「二、七」の日に定められた「御素読」稽古の師として「久保喜三郎」が見えるが(『徳川慶喜公伝』)、彰義隊士久保喜三郎の実父か。

 

●久保喜三郎系譜(『橋府分限帳』)

久保喜七郎―久保次郎右衛門――久保喜三郎
               ∥
               ∥―――――久保安次郎―――久保喜三郎―――久保喜三郎
        【水戸藩士】 ∥
         小瀬氏―+―姉
             |
             +―小瀬助蔵
              (天保6年7月12日卒)

 一橋家臣の久保左十郎勝茂と久保喜三郎家との系譜上のつながりは不明。久保勝茂は享保13(1728)年2月11日に一橋宗尹の「近習番」となり、延享2(1744)年10月24日に四十三歳で亡くなったという(『寛政重修諸家譜』)。妻は佐脇伝十郎某の娘。おそらく享保10(1725)年11月1日に宗尹の近習番となった佐脇伝十郎安住の娘だろう。ただ、勝茂は延享4(1747)年に「久保左十郎」が「御近習番衆」として名が見える資料もあり(『橋府分限帳』)、一橋家臣久保家がその後どうなったかは不明。

 文化12(1815)年の「一橋家奥詰御儒者」として「久保喜三郎」が見え(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、以降、久保家は代々奥詰の右筆として仕えた。屋敷は「牛込王世多」とあり(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、一橋家の屋敷があった牛込早稲田町新宿区早稲田町)に住んでいたと思われる。

 また、相馬胤富が明治に入って身を寄せた多門信治が、胤富とどのような関係だったのかは不明だが信治の祖・多門正方は一橋徳川宗尹の御用人であり、さらに多門氏と久保氏には血縁関係があり、これがきっかけだった可能性もある。多門信治はもともと「青山権田原三筋町」に二百坪の屋敷地を有する二百俵の旗本であった。信治はその後、麹町区二番町五番地へ移り、警視庁に入庁。警部補まで昇進し、明治10(1877)年に西南戦争で鹿児島へ警視隊士として出兵する。しかし、この戦いで負傷して亡くなった。明治12(1879)年5月24日、信治の母・たかよへ恩給が下され、信治は7月2日、靖国神社へ合祀された。

●久保氏・多門氏系譜(『寛政重修諸家譜』)

                            【一橋宗尹御用人】 【青山西三筋町拝領屋敷】
                      多門正泰―+=多門正方    +―多門正包―――多門正長――多門正長――多門正清
                     (孫右衛門)|(孫七郎)    |(平兵衛)  (平兵衛) (平兵衛) (源吉郎)
                           | ∥―――――――+
                           +―娘       |
                                     +―久保勝見
 久保勝正―+―久保勝行―――久保勝宗―――久保勝政―――久保勝友=====(金蔵)
(平左衛門)|(甚五左衛門)(源左衛門) (権之助)  (頼母)
      |
      +―久保勝房―+―久保勝時―――久保政周―+―久保勝里======久保芳勝
       (平左衛門)|(和泉守)  (勘次郎) |(平左衛門)    (勘次郎)
             |             |
             |             +―久保勝峯――――+―久保勝交===久保勝徴
             |             |(平三郎)    |(金三郎)  (喜三郎)
             |             |         |
             |             +―久保芳勝    +―久保勝徴―――久保勝祥
             |              (勘次郎)    |(喜三郎)  (勝五郎)
             |                       |
             |                       +――――――――――――――娘
             |                                      ∥―――――久保勝範
             +―久保勝重―+―久保勝忠―+―娘         松平昌剛         ∥    (半次郎)
              (杢右衛門)|(七左衛門)| ∥        (藤蔵)          ∥
                    |      | ∥         ∥――――――久保成勝  ∥
                    |      | ∥―――――――+―娘     (七左衛門) ∥
                    |      +―久保正秀    |         ∥――――久保勝達
                    |       (伝左衛門)   |         ∥   (伝左衛門)
                    |                |【一橋宗尹近習番】
                    |                +―久保勝茂――――娘
                    |                 (左十郎)
                    |
                    +―久保勝親―――久保勝庸――――――久保勝意―――久保勝長
                     (喜三郎)  (十兵衛)     (弥太郎)  (十兵衛) 

相馬胤富
相馬胤富他寄進灯篭(谷中)

 相馬胤富は明治時代には商業の道を選んでいる。「浅草医王町三番地」に住み、明治7(1874)年7月31日、「博覧会事務局」から東京府へ相馬胤富ほか三名が翌8月1日に「礼服着用」の上で出頭する旨が伝えられている。博覧会に関わる仕事を行ったと思われる。

 明治17(1884)年、一橋家の旧臣有志が旧主家の一橋徳川茂徳(顕樹院殿)の墓所に燈籠を寄進することを計画し、その発起人として一橋家旧臣の秦武充、間野秀俊、大串保、櫛渕宣秀、内川義備、伊藤好之、安藤正幹が名を連ね、9月に内規を作成した(『献燈発起人申合内規』)

 彼らは、一橋家旧臣に対して燈籠寄進の寄付を募り、明治18(1885)年、谷中一橋家墓所に燈籠二基が建てられた。胤富も一橋家「旧藩」の「有志」として寄付者に名を連ねている。胤富のほかに柴山正富、柴田義広、糸賀従忠、鈴木鉄三郎、大井昌虎、三宅為勇、鈴木政正、井上正良、福田修身、大河内重恭らが見える。12月、発起人が寄付者について文書にまとめて一橋家へ納めた(『献燈事略并皆納受取証費用決算表配達請取帳』)。ここに胤富の名も見られるが、当時、胤富は「浅草区亀岡町七番地」へ移っている。なお、彼とともに灯篭を寄進した柴山正富は南多は南多摩郡東大久保村に生まれた一橋家家臣。明治18年当時も東大久保村二三六番地に住んでいて、園芸家としても名が知られた人物である。

 明治29(1896)年9月4日に亡くなった。法名は本性院実相真空居士

 姪(相馬翁輔娘)は彰義隊第一赤隊副長・林半蔵の妻になっているが、同隊伍長・前野権之進利正の妻・さだ子相馬鉦吉の姪に当たる。慶応4(1868)年5月15日の上野戦争で林半蔵は山王台に戦死を遂げ、翌16日、鉦吉の姉・相馬てつ子と鉦吉の妻・相馬みよ子はともに上野の山の戦場跡を訪ね、戦死していた林半蔵を発見。頭髪を切り取って、寛永寺塔頭護国院に葬り、碑を建てたという(『彰義隊戦史』)

 

●一橋相馬家の編年

寛保元(1741)年:一橋徳川宗尹仕官「相馬多宮正胤」(『寛政重修諸家譜』)
延享3(1746)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
延享4(1747)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『袖玉武鑑』)
寛延3(1750)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
【39年間不明】
天明7(1787)年:「相馬右近」誕生(『橋府分限帳』上より逆算)
寛政元(1789)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政2(1790)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政3(1791)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政4(1792)年:頭役「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
寛政5(1793)年:御徒頭「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
寛政6(1794)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政7(1795)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政8(1796)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政9(1797)年:御徒頭「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
享和元(1801)年:御徒頭→御目付助「相馬文左衛門」就任(『相馬文左衛門御目付助可被仰付候儀』)
享和3(1803)年:「相馬半蔵(相馬文右衛門弟)」誕生(『藤岡屋日記』より逆算)
   〃   :斉敦付御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
享和4(1804)年:斉敦付御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化元(1804)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』)
文化2(1805)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化3(1806)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』)
文化5(1808)年:御目付「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化6(1809)年:御目付、組頭「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化7(1810)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化9(1812)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :「相馬靱負」誕生(『橋府分限帳』下)
文化10(1813)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化11(1814)年:斉敦御広敷御用人「相馬文左衛門」(『江戸幕役職武鑑編年集成』)
   〃   :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』)
   ―   :「相馬右近胤永」(『打毬御巻双紙』)
文化12(1815)年:斉敦御広敷御用人「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化13(1816)年:治済付御用人見習「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上)
   〃   :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化14(1817)年:治済付御用人「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :斉礼付御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化15(1818)年:治済付御用人「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃  :斉礼付御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政3(1820)年:治済付御用人…維駒紋のみ掲載(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政4(1821)年:治済付御用人…維駒紋のみ掲載(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政7(1824)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政10(1827)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政13(1831)年:「相馬鉦吉」誕生(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』より逆算)
天保3(1832)年:御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』)
天保4(1833)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :「相馬貞之進」誕生(『一橋元家来目見以上士族俸給録』より逆算)
天保5(1834)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保6(1835)年:御目付「相馬文右衛門」(『藤岡屋日記』)
   〃  :「相馬半蔵(相馬文右衛門弟) 三十三歳」(『藤岡屋日記』)
天保7(1836)年:斉位付御目付、御番頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃  :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保8(1837)年:御目付「相馬右近 酉五十一歳」(『橋府分限帳』上)
   〃  :御右筆、御右筆助「相馬靱負 酉二十六歳」(『橋府分限帳』下『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保9(1838)年:御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保10(1839)年:慶壽付御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保11(1840)年:御目付「相馬右近(『袖玉武鑑』)
   〃   :御右筆「相馬靱負」(『袖玉武鑑』)
   〃   :御右筆「相馬猪兵衛」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保12(1841)年:慶壽付御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :御右筆「相馬猪兵衛」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保13(1842)年:御目付、御書院番頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :御右筆「相馬猪兵衛」(『袖玉武鑑』)
天保14(1843)年:御書院番頭、御物頭「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
   〃   :御右筆「相馬猪兵衛」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保15(1844)年:御物頭「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
弘化元(1844)年:御物頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』)
弘化2(1845)年:御書院番松倉平六組「相馬翁輔」(『日記 番頭御用人』)
   〃   :山口仲次馬術弟子翁輔弟 相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
   〃   :御書院番並「相馬翁輔」武州八王子相原村郷士青木勘次郎娘と縁組(『日記 番頭御用人』)
【7年間不明】
嘉永5(1852)年:御書院番「翁輔」養子「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
嘉永6(1853)年:櫛渕孫市剣術弟子「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
安政2(1855)年(編纂か):御目付「相馬右近」←高二百俵(『神門分限帳』)
安政4(1857)年:「相馬熊三郎」(『尾張屋清七版』)
安政5(1858)年:小普請組黒田兵庫支配「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
【6年間不明】
元治元(1864)年:御書院番並■人鉦吉隠居「相馬翁輔」(『日記 番頭御用人』)
慶応3(1867)年:御書院番「相馬鉦吉」(『銃隊御組合可相成人名取調書』)
慶応3(1867)年:御勘定所出役「相馬貞之進」(『銃隊御組合可相成人名取調書』)
慶応4(1868)年:御書院番「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
明治元(1868)年:「相馬翁輔」結城で殺害(『太政官日誌)
明治3(1870)年:「相馬鉦吉」←現米十三石一斗(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)
明治3(1870)年:「相馬貞之進」←現米十一石五斗(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)
明治4(1871)年:「相馬鉦吉」←現米十六石(『九等割内訳姓名帳』)
明治39(1906)年:「相馬輔五郎」←日本橋区村松町三十九(『旧一橋藩士血統出征人名調』)

●保胤までの系譜●

⇒相馬治胤――娘                +=信胤――――重胤(保胤の異母兄)
(左近太夫) ∥――――貞胤          | ∥
       ∥   (小次郎)        | ∥
       ∥     ∥          | ∥―――――保胤――――正胤【一橋徳川宗尹側近】
     大岡貞惟    ∥―――+―要胤―――+=娘    (小源次) (多宮)
    (権兵衛)    ∥   |(小次郎)         ∥
             ∥   |              ∥―――――矩胤――+―相馬是胤
             某氏  +―娘            ∥    (左近) |(左兵衛)
                 |(要胤養女)        ∥         |
                 |              ∥         +―相馬胤勝【一橋徳川治済に仕える】
                 +―娘            ∥          (主水)
                   ∥――――――筧正直―――娘
                  筧正興    (新三郎)
                 (五右衛門)

●徳川御三卿略系図:一橋家当主、:田安家当主、:将軍家・德川宗家、:老中または政治総裁職)

【八代将軍】 【九代将軍】 【十代将軍】
徳川吉宗―+―家重―――+―家治――――家基
      |      |      
      |      |【清水家】
      |      +―重好
      |       (宮内卿)
      |
      |【田安家】
      +―宗武―――+―治察====斉匡―――――――慶頼
      |(右衛門督)|(大蔵卿) (右衛門督)   (右衛門督)
      |      |
      |      +―松平定信――定永―――――+―定和
      |       (越中守) (越中守)   |(越中守)
      |                     |
      |                     +―板倉勝静
      |                      (伊賀守)
      |
      |【一橋家】        【十一代将軍】  【十二代将軍】 【十三代将軍】
      +―宗尹―――――治済――+―家斉―――――+―家慶――――+―家定
       (刑部卿)  (民部卿)|        |       |
                   |        |       |
                   |        |       +―慶昌
                   |        |        (刑部卿)
                   |        |【尾張徳川家】          
                   |        +―斉荘――――――昌丸=======慶喜
                   |        |(権大納言)
                   |        |
                   |        |【紀伊徳川家】 【十四代将軍】  【十五代将軍】
                   |        +―斉順――――――家茂=======慶喜
                   |         (大納言)
                   |【田安家へ】
                   +―斉匡―――――+―斉位
                   |(右衛門督)  |(民部卿)
                   |        |        【徳川宗家】
                   |        +―慶頼――――――家達
                   |        |(右衛門督)
                   |        |
                   |        +―慶寿
                   |        |(民部卿)
                   |        |
                   |        |【越前松平家】
                   |        +―松平慶永 
                   |         (越前守)
                   |
                   +―斉敦―――――――斉礼
                    (民部卿)    (兵部卿)


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●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『橋府分限帳 上』一橋徳川家文書
『橋府分限帳 下』一橋徳川家文書
『覚了院様御実録二』一橋徳川家文書
『徳川刑部卿従三位贈権中納言宗尹卿御伝記』一橋徳川家文書
『御伝記全』一橋徳川家文書
『日記 番頭御用人』安政2年7月、8月 一橋徳川家文書
『日記 番頭御用人』文久3年9月 一橋徳川家文書
『文昭院殿御実記』巻五 
『元一橋家来士族』一橋徳川家文書
『神門分限帳』一橋徳川家文書
『元一橋従来之家来共跡目取立高取調姓名帳上』一橋徳川家文書
『元一橋従来之家来共跡目取立高取調姓名帳下』一橋徳川家文書
『元一橋家来士族卒禄高名面帳』一橋徳川家文書
『旧一橋藩士血統出征人名調』一橋徳川家文書
『献燈事略并皆納受取証費用決算表配達請取帳』一橋徳川家文書
『家臣名札』一橋徳川家文書
『銃隊御組合可相成人名取調書』一橋徳川家文書
『献燈発起人申合内規』一橋徳川家文書
『略譜』内閣文庫
『松源寺墓地検査願』東京市文書
『相馬小三郎関係文書』東京市文書
『江戸幕府役職武鑑編年集成』深井雅海、藤実久美子編
『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著
『山梨県史』
『甲府市史』
『結城市史』
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
『彰義隊戦史』山崎有信著

●ご協力

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