須賀川東家 | 森山東家 | 苗木藩東家 | 土佐藩東家 | 小城藩東家 |
医官東家 | 郡上東家 | 郡上遠藤家 |
(????-????)
郡上東氏当主・東下野守常縁の子とされるが、実在不詳。通称は二郎。下総東庄の須賀山城跡に入って復興させたという。
須賀山城は東六郎大夫胤頼が築城したとされ、桜井城から移住して以来、東氏の居城だったという。しかし、胤頼の曾孫・泰行が建保6(1218)年に鎌倉から須賀川に帰ったとき、森山城を築いたために須賀川は廃城とされた。
(????-????)
郡上東氏十二代・東宮内少輔氏胤の子とされるが実在不詳。通称は二郎右衛門。
『千葉大系図』によれば、東教頼のあとを継いで須賀山城にいたとある。伝によれば、隣接する森山城主の兄・常数とともに、下総東氏の東六郎直胤をもり立てたが、直胤が幼少であることに目を付けた千葉介利胤が次男・胤富を森山城に入れてしまおうと企み、常綱に須賀川城を明け渡すよう命じた。しかし常綱はこれに応じなかったため、親胤の軍勢に攻められてしまったことから、城に放火して逐電した。
子に東右衛門秀胤、加雲という二人の子がいたという。
東 直胤(1546?-1590)
森山東氏。通称は六郎。官途は下総守。室は吉川左京大夫友春女(『千葉東氏系譜』)。系譜に拠れば東下野守常数の子。実在不詳。郡上東氏の流れをくみ、室町時代中期に武蔵国に駐屯していた「下総守尚胤」と混同されている可能性があるか。
伝承では森山城主だが、当時の森山城は海上氏、原氏、石毛氏が城将として見える一方で、東氏の名は未見である。「東直胤」の実在も含めて一切不明。
伝では、天文16(1547)年1月21日、祖父・氏胤(聖慶院殿知宝常元大居士)が六十九才で亡くなり、子の東常数が継承。元亀3(1572)年4月29日、常数が七十一歳で亡くなり(宝幢院殿眞徃知温大居士)、直胤が継承したとする。
永禄7(1569)年、正木大膳亮時茂が上総国大多喜城から東総へ攻め込み、9月18日、矢作城の国分氏を攻めた。このとき、国分氏の援軍として米野井城主・木内胤倫が駆けつけて正木勢を破ったが、翌年9月18日、正木氏に降っていた府馬左衛門尉時持と「東六郎」が米野井城を攻めて、20日に陥落させたと伝わる。しかし、10月24日、木内与七郎胤統が大須賀氏とともに富田台の戦いで府馬・東氏の軍勢を破ったという(『香取郡誌』)。この戦いは、千葉介胤富から大須賀氏に宛てた文書に見える。
天正12(1584)年の『東大社写経奥書』に「東小六郎胤清」「大檀那千葉法阿弥」の名が見える。「小六郎胤清」は「六郎直胤」と同一人物? 「千葉法阿弥」は千葉介邦胤のこと。
天正18(1590)年の小田原合戦に参戦した「東下総守平ノ直胤」は、「郎従数多相具小田原城中ニ被加勢」し、5月11日、湯本口で討ち死にしたと伝わる。法名は英勇院殿仙光義源大居士(『千葉東氏系譜』)。
東 棟胤(1551-1644)
東下総守直胤の養嗣子。実父は千葉介胤富。母は海上山城守常元の娘。通称は六郎。官途名は大膳大夫。妻は上総国長南城主・武田兵部大輔豊信娘。初名は宗胤とされる(『千葉東氏系譜』)。
東直胤の実子としては東政胤がいたが、天正18(1590)年5月11日の直胤戦死時にはわずか六歳だったため、千葉介胤富の子・大膳大輔宗胤が東直胤の養嗣子になり「東棟胤」を称したという。東直胤はじめ多数の家臣が小田原城で戦没したため、東氏の菩提寺・芳泰寺や樹林寺、西雲寺で戦没者の供養を行ったという。
なお、東棟胤は5月8日に森山城を徳川家の使者に明け渡したとされるが(『千葉東氏系譜』)、棟胤が東氏の家督を継いだのは5月11日の直胤戦死後とされていることや、当時の森山城は東氏の差配の下にあったわけではなく、森山原氏が統括していたことから、東棟胤の存在や森山城の伝承自体に矛盾があることになる。
文禄2(1593)年3月、美濃国郡上郡栗栖へ落居し、正保元(1644)年3月16日、九十四歳で亡くなったという。法号は盛順院殿了泰玄心大居士(『千葉東氏系譜』)。
妻の武田氏は寛永16(1639)年7月4日に七十七歳で逝去した。法号は浄光院殿寶岳妙曜大姉。
東 久胤(1585-1671)
東大膳大夫棟胤の子。通称は平太左衛門、六郎太。母は武田兵部大輔豊信女。妻は武田右衛門氏信女(『千葉東氏系譜』)。ただし、武田信玄に豊信という子の記録はないため、長南武田氏または上総武田氏の流れをくむ人物か。
●上総武田氏系譜(伝)
千葉介胤富――東棟胤
(大膳大夫)
∥
武田晴信―+―武田義信 ∥―――――東久胤
(大膳大夫)|(太郎) ∥ (平太左衛門)
| ∥ ∥
+―武田豊信―+―女 ∥――――――東鑑胤
(兵部大輔)| ∥ (平大夫)
| ∥
+―武田氏信――女
(右衛門)
父に随って美濃国郡上郡来栖郷に移り住んでいたが、正保元(1644)年3月16日、父・棟胤が亡くなると、正保5(1648)年4月、出羽国長井郷へと移り住んだという(『千葉東氏系譜』)。
寛文11(1671)年5月13日、八十七歳で亡くなった。
東 顕胤(1615-1696)
東六郎太久胤の子。通称は平大夫。初名は貞胤。母は武田右衛門氏信女(『千葉東氏系譜』)。妻は新野監物盛胤女。
父祖と同様に出羽国長井郷に居住し、元禄9(1696)年10月12日に亡くなった。享年八十二(『千葉東氏系譜』)。子孫は代々長井郷に住む。
なお、妻の新野氏は東氏庶流と伝わる新野氏に擬されるが、顕胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 光胤(1655-1716)
東平大夫顕胤の子。通称は彦之進、平太。母は新野監物盛胤女。妻は大須賀安朝女。
父祖と同様に出羽国長井郷に居住し、享保元(1716)年5月17日、亡くなった。享年六十二(『千葉東氏系譜』)。
なお、妻の大須賀氏は下総国香取郡の大須賀氏に擬されるが、光胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 治胤(1682-1742)
東平太光胤の子。通称は彦右衛門。妻は国分胤氏女。
寛保2(1742)年4月9日、六十一歳で亡くなった。
なお、妻の国分氏は下総国香取郡の国分氏に擬されるが、治胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 高胤(1688-1751)
東彦右衛門治胤の子。通称は伊右衛門。ただし、治胤と高胤の歳の差は六年のため、兄弟または養嗣子か。
宝暦元(1751)年3月21日、六十四歳で亡くなった。
東 景胤(1714-1789)
東伊右衛門高胤の子。通称は伊右衛門。初名は常則。
寛政元(1789)年11月13日、七十六歳で亡くなった。
東 慶胤(1733-1788)
東伊右衛門景胤の子。通称は伊右衛門。妻は木場八郎右衛門女。
天明8(1788)年6月20日、五十六歳で父に先だって亡くなった。
東 則胤(1781-1846)
東伊右衛門慶胤の子。通称は雅楽。妻は石毛吉右衛門行幹女。
則胤は文化3(1806)年4月、長井郷から江戸に上っており、長井郷には弟の胤顕が残った。則胤はその後、江戸から下総国匝瑳郡老尾神社(匝瑳市生尾)に入った。このとき「雅楽」と改称したのだろう。
弘化2(1846)年2月1日、六十六歳で亡くなった。
◇16世紀末期の森山城◇
天正15年(1587)中、北条氏政は秀吉の軍勢に対処する上で下総の支配を確固たるものとするため、自ら下総国へ出張し、香取郡から八幡庄の有力寺院に対して判物を与えた。これを奉行したのは、おそらく松子城主・大須賀尾張守と推測され、氏政は小田原へ帰城した12月24日、「大須賀尾張守」に対して「路地中無相違令帰府候」という文書を発給している。
12月12日、森山城将「海上山城守」に対し氏政は、「番衆以下厳重ニ可有之事肝要候、内々此度打越、地形可順見由、雖覚悟候、当地之仕置、昨今追申付候、為来春候、近日諸軍勢可相返候、明春二三月之時分、重而此表可見廻候」という書状を発給している(『下総旧事』)。
小田原に帰った氏政は、東総の要である森山衆が小田原へ在陣して、守りが薄くなることを心配し、佐倉千葉宗家の筆頭家老・原若狭守親幹に「眼病歴然之由候へ共、来正月十日ニ必々森山へ相移」って城将・海上山城守とともに守るよう命じた(『原文書』)。もともと原若狭守親幹・大炊助邦房父子は千葉宗家重臣の中でも反北条派の巨頭であり、親北条派である原豊前守胤長・邦長父子と対立。氏政も彼らの対立を収めるため、氏直へ仲介を指示するなど積極的に介入しており、天正13(1585)年8月27日、親幹に「海上孫四郎若輩に而苦労ニ候、大炊助も自元作倉ニ無之而不叶候、不行歩之躰候共、其方一両年も先森山ニ在城候而、万端孫四郎ニ助言候者、先無相違歟、如何」という書状を送るとともに、親幹の本心を糺した。結局、親幹は12月になって北条氏に降伏。千葉宗家は北条氏の支配下に組み込まれることとなった。
森山城の守りを北条氏政に託された原若狭守親幹入道は、氏政の指示を受け、森山衆の小田原参陣について、森山城に残す守備兵の書き立てを小田原に提出した。さらに千葉氏に対して出された法度の写しを届け、氏政からは万事を原豊前守胤長と相談する指示を受けている。このころ、千葉新介重胤は小田原城に入っており、氏政の子・直重が千葉家の家督を継承したようだ。実際に直重が佐倉にいたかどうかは不明で、実質的な千葉宗家政の運営は、森山城(原若狭守親幹入道)と佐倉城(原豊前守胤長、原大蔵丞邦長、原大炊助邦房)にゆだねられていたのだろう。
天正17(1589)年8月24日、氏政は原親幹に「城山之事、前々伐木儀、対海上山城守證文披見畢、於自今以後何時も、海上原若狭父子へ用所之時者、印判を可出候、向後無印判而一本も不可剪候、至于妄者、可處越度者也」という書状を、さらに同日、「森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也」という文書をもって、森山の直接支配をより強固なものとしようとしていることがわかる。
こののち森山城に関する文書は姿を消すが、海上氏はそのまま城を守って小田原合戦を迎え、浅野彈正少弼長吉・木村常陸介一によって接収されたのだろう。
一方、小田原合戦に参戦した「東六郎」は「郎従数多相具小田原之城中ニ被加勢之所」、湯本口で5月11日、徳川家康の軍勢と戦い討死にしたという。小田原に入った千葉氏は、粟飯原内匠頭(執事常番)・木内新左衛門(評定所)・森甚助・大垣但馬・金田権之助(記録所)・宮内城右衛門・名行勝兵衛・宮原兵一郎・海上山城守胤秀(執筆)ら「森山衆」355人を率いて入城したとされる。
ただし、過去帳などによれば、「海上胤秀」は「山城守」ではなく「筑後守」であること、さらに永禄3(1560)年に亡くなっていることを考えると、小田原城に入った「海上山城守」は筑後守胤秀の子「山城守胤保」のことか。
◇16世紀の東氏の動向、森山城について
年代 | 人物 | 書状や内容 |
永正3(1506)年8月23日 | 原蔵人丞殿法名朗寿
[東六郎殿] | 千葉井花(千葉亥鼻)ニテ打死諸人同証仏果(『本土寺過去帳』) |
天文16(1547)年10月16日 | 大檀那平胤富 | 本佐倉の文珠堂華鬘銘(『千葉県史料』金石文篇II) |
弘治3(1557)年5月2日 | [東大和守]
[東修理亮] | 西上総の秋元城での東修理亮の軍忠に氏康が恩賞を与える。 |
8月 | 千葉介胤富 | 千葉介親胤が討たれ、森山城から胤富が千葉宗家の家督を継ぐ。 |
永禄元(1558)年6月21日 | [東修理亮] | 北条康成が修理亮の「昨今之御高名」について賞賛する書状。(『川辺氏旧記』) |
同日 | [東修理亮] | 北条康成が、修理亮が伏兵を撃退したことを賞賛する書状。(同) |
6月27日 | [東修理亮] | 康成から修理亮の活躍を聞いた北条氏康が、修理亮を賞して太刀一振を進呈。(同) |
閏6月7日 | [東修理亮] | 北条綱成から、氏康の感状・金覆輪太刀を進呈する旨の書状。同内容二通。(同) |
永禄年中か | 平胤富 | 香取大禰宜に鏑木長門守胤義を遣わして祈祷を怠らぬことを指示(『旧大禰宜家文書』) |
永禄年中9月23日 | 海上蔵人
石毛大和守 | 船の徴発を命じる。船については厳しい審査がなされた。 |
9月27日 | 船を森山城などに集結させる。 | |
9月30日 | 常陸国に攻め入り、「三人討候」。 | |
10月2日 | 森山城将へ戦勝を賞した文書を送る。 | |
永禄13(1570)年6月2日 | [沼闕東氏] | 中島城下の廻船商人・宮内清左衛門尉に対して、乗船一艘の役を命じた。(『宮内文書』) |
天正13(1585)年5月 | [豊臣秀吉] | 九州で島津惟新入道を降伏させる=九州平定 |
8月27日 | 海上孫四郎 | 北条氏政、千葉宗家の側近・原若狭守親幹に森山加勢を指示。同時に親幹の本心を聞く。 |
9月8日 | [原胤長] | 北条氏直、下総仕置に出陣する旨を通達。胤長が加勢を望むなら直ちに兵を派遣する用意がある。 |
11月 | [北条氏政] | 下総国へ入り有力寺社に判物を与えて守りを固める。 |
11月25日 | [原親幹] | 親幹が山角紀伊守に降伏を申し出た文書を氏政が披見し、氏直へ取り成したことを通達。 |
12月12日 | 海上山城守 | 「番衆以下厳重ニ可有之事肝要候、内々此度打越、地形可順見由、雖覚悟候、当地之仕置、昨今追申付候、為来春候、近日諸軍勢可相返候、明春二三月之時分、重而此表可見廻候」(『下総旧事』) |
12月24日 | [大須賀尾張守] | 「路地中無相違令帰府候」 |
12月28日 | 原親幹 | 眼病がひどいと聞いているが、来正月十日には必ず森山城へうつり、海上山城守と相談すること。 |
天正17(1589)年8月24日 | 原親幹 | 「城山之事、前々伐木儀、対海上山城守證文披見畢、於自今以後何時も、海上原若狭父子へ用所之時者、印判を可出候、向後無印判而一本も不可剪候、至于妄者、可處越度者也」(『原文書』) |
原親幹
原邦房 | 「森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也」(『原文書』) | |
天正18(1590)年8月24日 | 東六郎 | 「郎従数多相具小田原之城中ニ被加勢之所」(『飯田家文書』) |
東 政胤(1585-1644)
成長ののち、典薬頭和気氏の門人となり、医官として幕府に出仕した。寛永21(1644)年9月5日、江戸にて亡くなった。法号は朗月實秀大居士。
子孫の東宗朔胤辰は本国が「近江」となっている。これは東氏が下総を追われたことによるものか、実際は東直胤の流れではないのか、不明である。
東 良胤(????-1706)
東左京亮政胤の嫡子。号は宗雲。妻は望月氏。
延宝8(1680)年12月15日、医術の名人として将軍・徳川綱吉に謁し、天和元(1681)年8月23日、召し出されて綱吉の子・松平徳松附となって西ノ丸に出仕。26日、二百俵を給わる。そして、天和3(1683)年、徳松逝去のにち、江戸城勤仕となり、元禄6(1693)年5月10日、奥医に列し、12月11日、百俵の加増で三百俵となる。元禄7(1694)年12月9日、法眼に任じられた。
元禄10(1697)年9月11日、綱吉養女・八重姫(鷹司輔信娘)附となり、元禄14(1701)年、月俸三十人扶持の加増に与った。
宝永3(1706)年7月27日、隠居。10月29日に亡くなった。法号は療響院殿法眼達翁義探大居士。墓所は谷中の長久寺(台東区谷中五丁目)。長久寺は東家の菩提寺となる。
東 貞胤(1698-1774)
東宗雲良胤の嫡子。号は宗民、宗祐、宗雲。母は望月氏。妻は須磨良川氏。
兄に東宗林がいたが、元禄9(1696)年4月23日に亡くなり、次男の貞胤が跡を継ぐこととなり、宝永3(1706)年4月14日、九歳のときに将軍・徳川綱吉に初めて謁見した。7月27日、家督を相続し、寄合に列した。
安永2(1774)年正月12日、七十六歳で亡くなった。法名は良覚。
東 邦喜(1717-1760)
東宗雲貞胤の三男。号は宗庵。母は某氏。妻は松下半六郎長儀娘。後妻は美濃部一左衛門貞庸娘。
長兄・東宗祐は享保20(1735)年12月11日、将軍・徳川吉宗に拝謁し、宝暦10(1760)年3月16日、四十四歳で亡くなった。父・宗雲がまだ家督であったため、家を嗣ぐことはなかった。そして、次兄・又吉も辻松次郎高賀の養子となって辻松高徴を称しており、三男の邦喜が継嗣とされた。
宝暦11(1761)年2月25日、四十五歳のとき、将軍・徳川家治に初めて謁見し、安永2(1774)年閏3月5日に家督を相続して小普請となり、天明7(1787)年9月29日、番医に列した。
寛政7(1795)年正月25日、五十七歳で亡くなった。法名は療泰。
東 胤辰(1769-????)
東宗庵邦喜の養嗣子。実は河野某の子。号は宗朔。母は豊藤氏。妻は東宗庵娘。
寛政元(1789)年8月19日、初めて将軍・徳川家斉に拝謁し、寛政7(1795)年4月5日、二十七歳で家督を継ぎ、寛政11(1799)年当時、小普請仙石弥兵衛支配九番士であった。
東氏の屋敷は裏二番町(千代田区一番町8)で、下屋敷は北本所三目四目の間にあった(『寛政呈書万石以下御目見以上国字分名集』)。また、文政10(1827)年当時には裏二番町、麹町二丁目に住んでいた(『幕士録』)。
東 宗民(????-????)
東宗朔胤辰の嫡子。母は東宗庵娘。
子孫は明治維新にて家禄を奉還し、東京府貫属士族となった。
東 行胤(????-????)
東丹後守行長の子。通称は弥次郎(『東次郎兵衛系図』)。古系譜の系統である『神代本千葉系図』には、行長の子に「弥次郎」の名が見え、これが行胤のことと思われる。
建武3(1336)年正月、足利尊氏は後醍醐天皇方に破れて九州へと落ちていった。その際、千田氏当主・千田太郎胤貞についても建武4(1337)年4月の『田中行祐申状』の中に「去年故殿鎮西御下向」という文言があることから、尊氏に従って九州へ赴いたと思われる。このとき、胤貞に従った一族の中に、行胤がいたという(『東次郎兵衛系図』:「小城家中系図」)。
―『神代本千葉系図』―
東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
| | |
| +―弥次郎 +―六郎
| |
| +―六郎
|
+―頼行――+―又次郎
|(五郎) |
| |
+―盛行 +―■■
|(六郎)
|
+―泰胤――+―七郎
|(七郎) |
| |
+―泰家 +―八郎
(八郎)
東 重行(????-????)
東弥次郎行胤の子。通称は又次郎、丹後守。
建武3(1336)年の筑前多々良浜の戦いでは、足利方の武士として後醍醐天皇方の菊池氏と戦った。そして九州に大きな影響力を持った足利尊氏ははやくも京都へ向けて船出した。そして5月、播磨国兵庫での新田義貞、楠木正成の後醍醐天皇方の軍勢との戦いで軍功をあげたという。
東 泰行(????-????)
東丹後守重行の養嗣子。実は肥前千葉介胤泰の子という。通称は彦二郎、丹後守。
東 泰常(????-????)
東丹後守泰行の子。通称は太郎、左衛門尉。
東 親常(????-????)
東左衛門尉泰常の子。通称は平二郎、主計允、左衛門太夫。
東 貞常(????-????)
東左衛門太夫親常の子。通称は丹後守。
東 親伯(????-????)
東丹後守貞常の子。通称は二郎兵衛。
東 貞親(????-????)
東二郎兵衛親伯の子。通称は又二郎、左衛門太夫。
東 胤親(????-????)
東左衛門太夫貞親の長男。通称は新二郎、左衛門太夫。
東 信胤(????-1584)
東左衛門太夫貞親の次男。通称は兵部少輔。
龍造寺山城守隆信に仕え、天正12(1584)年3月14日、島原半島での島津氏、有馬氏との戦いの中で討死した。弟の知斎も討死した。
東 加右衛門(????-????)
東兵部少輔信胤の養嗣子。実は土肥出雲守信安の子。母は鍋島駿河守清房娘。鍋島加賀守直茂の甥にあたり、藩公・鍋島信濃守勝茂の従兄弟。
土肥信安
(出雲守)
∥―――――東加右衛門
鍋島清房―+―姉
(駿河守) |(善譽妙香)
|
+―鍋島直茂――鍋島勝茂
(加賀守) (信濃守)
東 加右衛門(????-1631)
東加右衛門の養嗣子。実は江上太郎四郎の子。母は鍋島加賀守直茂姪(土肥出雲守娘)。
父・江上太郎四郎は江上家の家老で、鍋島直茂の次男・伊勢松(のちの佐賀藩二代藩主・鍋島丹後守勝茂)が、江上家種(龍造寺隆信次男)の養子となったとき、その斡旋に勉めた。その後、父は病のため家督を弟・八兵衛に譲り、知行地の岩田村に隠居した。
土肥信安 +―東加右衛門===東加右衛門
(出雲守) | ↑
∥ | |
∥―――――+―娘 |
鍋島清房―+―姉 ∥―――――――東加右衛門
(駿河守) |(善譽妙香) 江上四郎太郎
|
+―鍋島直茂――――鍋島勝茂――――鍋島元茂
(加賀守) (伊勢松) (紀伊守)
主君・鍋島直茂は、江上太郎四郎が鍋島家の縁者であることから、江上家中に解け込むことを拒否していた姿勢に感じ、その子を東家の養子とし、孫の鍋島紀伊守元茂の小城立藩に際し老臣として付属させた。総勢八十三人おり、「八十三士」という。東氏は加右衛門父子のほか、東太郎兵衛、甚五左衛門両名が記載されてるが、系譜上、加右衛門とどのように関わるかは不明。
●「八拾三人名付 直茂公御隠居附、紀伊守殿江御譲人数」より
肥前居住不詳 | 江上太郎四郎子 東 加右衛門 右同 同 助右衛門 |
右 同断 |
野副勘助子 東 太郎兵衛 右同 同 甚五左衛門 |
寛永8(1631)年4月10日に亡くなった。法名は高山宗忠居士。
東 助右衛門(????-1679)
東加右衛門の養嗣子。実は庄内藩士・長谷川氏の次男。
承応4(1655)年3月5日、小城鍋島加賀守直能家の主だった家臣たちは、鍋島勝茂・光茂、直能に対して忠誠を誓うこと、万一直能が本藩に対して背くことがあった場合などは異見を唱えることなどを誓う血判起請文を鍋島式部少輔、中野数馬助へ宛てて提出した。
●「鍋島加賀守直能家臣等連署起請文」
田尻宮内少輔 | 持永右衛門佐 | 犬塚将監 | 犬塚三郎右衛門 | 犬塚内匠助 | 三浦杢之助 | 千手外記 |
石井織部 | 水町采女助 | 南里大膳 | 大田六右衛門 | 園田善左衛門 | 村川伝右衛門 | 松崎五郎右衛門 |
河波久太夫 | 藤崎左衛門 | 西三郎兵衛 | 木村主馬助 | 宮地五左衛門 | 東助右衛門 | 安本源太左衛門 |
東嶋主馬允 | 富岡九郎左衛門 | 馬場又左衛門 | 大木権左衛門 | 相浦太郎兵衛 | 関 隼人佐 | 神代次兵衛 |
遠武源右衛門 | 遠武孫四郎 | 深江与惣兵衛 | 野口六左衛門 | 今泉伊兵衛 | 大木利兵衛 | 野口八郎右衛門 |
安住介左衛門 | 薬王寺伝九郎 | 川浪又兵衛 | 飼井四郎兵衛 | 小柳孫右衛門 | 秀嶋庄右衛門 | 犬塚伊織 |
西岡権之助 | 今泉安左衛門 | 水町杢左衛門 | 重松次郎兵衛 | 徳嶋忠兵衛 | 横尾内蔵允 | 横尾清五左衛門 |
野口十太夫 | 岡本八左衛門 | 永橋七郎右衛門 | 馬場八郎兵衛 | 小野源右衛門 | 角田伝兵衛 | 藤山弥平左衛門 |
綾部玄蕃 | 東嶋五郎左衛門 | 今泉兵左衛門 | 田中彦七郎 | 服部奥之助 | 留守五郎右衛門 | 綾部勘兵衛 |
葉弥五左衛門 | 富岡勘右衛門 | 野副弥太右衛門 | 村川市郎右衛門 |
延宝7(1679)年正月29日、亡くなった。法名は一雲宗閑居士。小城郡下栗原の正法山壽福寺(長福寺?)に葬られた。
東 頼全(????-????)
東助右衛門の子。通称は加右衛門。妻は水町作右衛門娘。
延宝4(1676)年11月16日、小城郡三日月郷に百二十二石を給わる。さらに元禄8(1695)年には十五石が加増となった。元禄11(1698)年には三十石が加増され、都合で百六十七石取となる。
東 助右衛門(????-1732)
東加右衛門頼全の子。妻は西造酒養女(持永與右衛門娘)。
享保17(1732)年9月21日亡くなった。法名は松岩浄宗居士。小城郡下栗原の正法山に葬られた。
東 尚喜(????-1776)
東助右衛門の養嗣子。実は松崎佐仲の嫡子。通称は十兵衛、十左衛門。妻は佐賀本藩の杉町孫助の伯母。
松崎佐仲嫡子として生まれたが、圓覚院の命により助右衛門の養子となる。その後、父・助右衛門の死後ほどなく尚喜の不調法の廉で享保17(1732)年10月18日、浪人となった。
元文3(1738)年8月25日、二十人扶持で帰参することが命じられ、寛延3(1750)年、切米四十石を給わった。
宝暦6(1756)年、十石加増となり、切米から知行取となる。明和4(1767)年にはさらに十石の加増があり、都合で六十石取りとなった。
嫡男・東善十は明和8(1771)年10月6日、父に先立って亡くなったため、孫の尚郷が家督を継いだ。
安永5(1776)年正月23日に亡くなった。法名は義牲浄立居士。小城郡下栗原の正法山に葬られた。
東 尚郷(????-1807)
東十善の子。通称は次郎兵衛。母は宮地新五右衛門妹。妻は今泉金兵衛娘。
父が明和8(1771)年10月6日、祖父・尚喜に先立って亡くなったため、尚喜の嫡子として東家の家督を継いだ。
文化4(1807)年10月14日に亡くなった。法名は天珠通冠居士。小城郡下栗原の正法山に葬られた。
東 尚昭(????-????)
東次郎兵衛尚郷の子。通称は左衛門。妻は七田治郎右衛門娘。
弘化5(1848)年、番頭を命じられ、三十石が加増された。先だって加増十石があり、都合で百石高となった。
美濃国苗木藩の藩士となった東家があった。出身は美濃国加茂郡黒川村(岐阜県加茂郡白川町黒川)。黒川村(631石)は苗木藩領に含まれており(『拝領之知郷村高辻』)、東家はこの伝手で召し出されたものと思われる。家紋は真向い月星。
正保2(1645)年、「東野権右衛門(六石五斗)」が六名の代官の一人となっており、このときには東家はすでに召抱えられていたことがわかる。伝によれば、東氏が遠山家に仕えたのは「友山代(遠山友春)」とされているが、それ以前にすでに東氏の名が遠山家の家臣中に見えていることになる。東権右衛門(法岫道雲信士)は延宝2(1674)年9月に亡くなる。
その子と思われる「東庄右衛門」は寛文4(1664)年当時七十石を食み、寛文11(1671)年当時、「東庄右衛門」は百石の郡奉行を務めていた。
寛文12(1672)年、苗木藩三代藩主・遠山信濃守友貞が駿河御加番について、「平中小姓」として「東源兵衛」の名が見える(寛文十二年『信濃守友貞公御勤之節御仕之面々名前』)。庄右衛門の弟であろうか。
東権右衛門―+―東庄右衛門――東正右衛門――東新五左衛門胤陸―+―東権右衛門常竹――千葉平太左衛門常贇
| |
+―東源兵衛 +―東八郎兵衛常紀
∥
岡本忠右衛門 ∥
∥―――――――女子
∥
市川氏
延宝3(1675)年7月6日、友春が藩主に就任したのち、二か月後の9月11日、郡奉行の「東庄右衛門」に対して、友春の藩政に対する五箇条の所信表明がなされている。
延宝8(1680)年8月晦日、志摩国鳥羽城主・内藤和泉守忠勝が改易されて、友春がその城地請取を命じられ、天和元(1681)年4月に、土井周防守利益へ引き渡した。このとき友春に従った供の一人に「東紋太夫」が見える(『苗木藩政史研究』)。
享保7(1722)年には家臣中の第二十三席に「東庄右衛門」が見えるが、これ以降、東家は家格を上げていく。享保18(1733)年11月8日、曾我郷右衛門、東正右衛門が年貢未納者に対して、「村々未進有之百姓共、普請一切致間敷旨被仰渡候」と「普請」を一切認めないとの触れを出している。役職は不明だが、「庄屋、与頭」へ達していることから、彼らは郡奉行であろう。宝暦9(1759)年、庄右衛門の子「新五左衛門(東胤陸)」に嫡子(のちの千葉権右衛門常竹)が誕生している。そして庄右衛門は明和4(1767)年3月に六十六歳で亡くなった。
安永4(1775)年の役職帳によれば「東新三郎」が近習として見える。おそらく18世紀までの墓碑には「東源兵衛尉常■」「東正右衛門恒照」「東庄右衛門常縄」「東庄右衛門■常」「東八良兵衛常昌」「東源兵衛常■」などが見える。
寛政4(1792)年12月23日、藩侯遠山友随の隠居並びに嫡子友寿の家督相続につき、友随の名代大田原飛騨守庸清、友寿名代片桐主膳正貞影が江戸城に登城し、城中波之間で老中列座のもと「隠居家督無相違」が戸田采女正より申し渡された。このときの遠山家「勤役重役之覚」として用人の一人に「東数馬常竹」が見える(『諸事之覚』)。寛政9(1780)年12月23日「用人東数馬常竹」は「病気ニ付依願退役」(『諸事之覚』)と用人職を辞している。
寛政12(1783)年2月27日、藩侯遠山友寿は十五歳(公辺十八歳)で元服し、「加冠河内正峯、理髪東八郎兵衛常紀」が務めている(『諸事之覚』)。常紀は常竹の叔父と思われ、当時納戸役を務めていた。その後、常竹は病が癒えたか9月13日、「東数馬常竹、用人江帰役申付候」という(『諸事之覚』)。こののち常竹は通称を数馬から「権右衛門」と改め、享和3(1803)年3月25日、藩侯友寿の江戸出府に「供 東権右衛門常竹」し、4月4日に江戸へ到着している(『諸事之覚』)。そして7月8日、「於苗木、用人東権右衛門常竹、家老職江申付、十石加増以書付遣之」(『諸事之覚』)という。当時常竹は江戸在府であり、国元苗木で常竹を家老職と決定し、江戸に書付を送ったということか。同年9月23日、駿府勤番のため駿府城に入った友寿に「家老 東権右衛門常竹、用人河内左中正峯」以下が不部している(『諸事之覚』)。
文化3(1806)年3月、常竹は藩侯友寿の帰国に供奉し、4月8日苗木に帰着する。翌文化4(1807)年2月6日、「於苗木那木別館、妾腹女子出生申ノ下刻、産母お由賀」し、2月15日の七夜の祝に際して「名お熊ト東常竹ヨリ上之」(『諸事之覚』)した。
文化7(1810)年正月28日、江戸藩邸の「奥向住居」の普請が始められ、担当役人として、「用懸用人鈴木靭負重賢、目付東八郎兵衛常紀、作事奉行佐々木半兵衛」(『諸事之覚』)が任じられている。
文政2(1819)年9月2日の亥刻、藩侯友寿の子(生母は於由賀)として男児が誕生し(『苗木藩終末記』)、9月11日の七夜祝の際に「名貞治郎与家老東常竹より」伝えられた(『諸事之覚』)。のちの最後の藩侯友禄である。用懸として「常竹忰 目付 東数馬常贇」、乳付の乳母として「同人 妻」が任じられている(『諸事之覚』)。
文政4(1821)年正月15日、家老常竹由緒の藩侯息女お熊が、戸田弾正達寿より「お熊事縁組被致度旨被申込候」こととなり、正月25日、「目付詰合東数馬常贇」は用人中原権佐師尹らとともに婚姻用懸りを命じられる(『諸事之覚』)。
文政5(1822)年4月23日、藩侯友寿は参勤交代のため江戸から苗木へと出立し、5月2日苗木城に到着。5月23日、友寿はおそらく苗木城に常竹を招くと「東権右衛門常竹、年来出精ニ付、本知百石ニ直し遣候」ことを通達し(『諸事之覚』)、長年の功労に報いたとみられる。
文政6(1823)年2月12日、前年より国元で起こっていた百姓等の山論につき、「江戸表より山論用向ニ付、河内左中立帰として苗木へ着」した。そして4月25日、河内左中と「郡奉行東数馬」が見分のために赤河村へ出役し(『諸事之覚』)、所々見分して回っている。
文政7(1824)年閏8月3日、「東権右衛門常竹六拾六才、老衰殊ニ近年病気ニ付、願之通隠居首尾能申付、五人扶持遣之、家督高百石、同性数馬へ遣之」ことが認められ、東数馬常贇が家督を継承する。
苗木東氏はこの東権右衛門の代に「千葉」へ改め、庶家は「東」を称するようになったとみられる。「千葉権右衛門常竹初称東氏」は文政11(1828)年に3月に亡くなった。
権右衛門の子が、文政10(1827)年の分限帳で百石取りの郡奉行「千葉平太左衛門(常贇)」である。平太左衛門は文政10(1827)年正月11日、「於苗木郡奉行、勝手用人政事懸り、千葉平左衛門常贇事、用人役、申付廿石之加増遣之」(『諸事之覚』)と見え、用人となっている。その後、天保2(1831)年正月18日、「用人役 千葉平太左衛門 常贇」は「家老職へ申付」け、十石加増されている(『諸事之覚』)。天保9(1838)年当時には小倉猪右衛門とともに家老職に在職し、その石高は130石であった。年齢は五十一歳(千早保之『苗木藩墓からみた歴史 : 「廃仏毀釈」以前』22世紀アート)であることから、天明8(1788)年生まれとなる。
弘化3(1846)年の分限帳では「千葉平右衛門」が家中第三席まで昇進し、安政5(1858)年6月17日、遠山友禄(信濃守)の代に行われた藩政改革で、「御武頭上席」として「千葉将監」の名が見える。「武頭」とは苗木藩の行政機構のうち、武官を統率する役職で、足軽小頭、中頭、供番、表門番、裏門番、麻布門番、在所大門番、表組足軽を支配した。ほかの行政機構としては主に行政を担当した「郡奉行支配」、役所内の諸役人を監視する「役所支配」があるが、これまで千葉(東)氏は郡奉行職を歴任していたことを考えると、行政から武官支配へと移されたことになる。
文久3(1863)年12月に「千葉與右衛門常恕初称東氏」が亡くなっているが、平右衛門の弟に相当し、のちの千葉権右衛門の兄か。その2年後の元治2(1865)年正月、千葉権右衛門は家老職となった。
そして幕末の動乱の中で、苗木藩は新政府に味方することと決し、慶応3(1867)年12月21日、藩主・遠山友禄は美濃国本巣郡美江寺宿(岐阜県本巣郡巣南町)の揖斐川沿いの本陣に岩倉具視を訪ねて、新政府に協力することを明言した。そして翌慶応4(1868)年1月7日、征東大将軍に任ぜられた尾張藩主・徳川慶勝は、朝敵と定められた会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬追討のために東海諸藩の出兵を命じた。実は慶勝は松平容保、松平定敬の実の兄にあたる人物である。
2月5日、苗木藩に尾張藩の勝野正太郎、杉邸寿目蔵、板野又三郎の三名が苗木藩重臣一名を尾張名古屋に出頭させることを求めて来訪した。翌6日、家老の伊藤木工丞、青山稲吉が対応して了承し、8日、伊藤木工丞と大目付・東侑之進(正贇)が名古屋に出立した。名古屋には苗木藩と同様に諸藩も重役を派遣しており、尾張藩は諸藩重役を藩校・明倫館に招き、ここで勤王への勧誘が行われ、13日、何事も尾張藩の下知を柱とし、たとえ幕命が下っても従うことなく勤王に徹せよとする大意書を示し、これについての「仮証書」の提出が命じられた。そして国元の藩重役の「連印之請書」の提出もあわせて命じられており、これについては、家老の小倉猪兵衛・千葉権右衛門の両名が連印して提出した。千葉権右衛門は、大目付・東侑之進の兄にあたり、このとき苗木藩筆頭家老であった。その後、7月29日、千葉権右衛門は幕府寄りの姿勢を咎められて「永蟄居」の藩命が下された (『苗木藩終末記』)。
●苗木千葉家想像系図
遠山友寿――――――+―遠山友禄
(美濃守) |(美濃頭)
|
+―女子
〔安政2(1855)年卒〕
∥
千葉平太左衛門常贇―+―千葉権右衛門―+―千葉武男
| |
| +―千葉鐐五郎
| ↓
+―東侑之進正贇===千葉鐐五郎
|
+―千葉平右衛門(長兄か)
|
+―千葉与左衛門常恕(次兄か)
こうして尾張藩のもと、無事に幕末の危機を乗り切った苗木藩であったが、明治2(1869)年11月2日、藩改革として、大参事に藩公・遠山友禄の側近だった青山直道が任じられ、彼のもとで改革が行われることとなった。青山直道は平田篤胤を祖とする平田国学を熱狂的に信奉する人物であり、さらに藩公・遠山友禄が平田国学に入門したこともあり、ますます権力を強くした。しかし、それまでの儒教教育を否定することや、藩内の寺院を徹底的に破却するなど、平田派国学を柱とする極端な政治は多数の藩士から強い反発を買い、青山の暗殺未遂や焼き討ちなどの事件も起こった。この徹底した廃仏の嵐は藩公の菩提寺すら破却し、個人の位牌も焼却される異常事態を招いた。そのため古くからの文化財も数多く灰燼となってしまった。そして、この青山藩政に反発する藩士たちとともに立ち上がったのが、永蟄居を命じられていた元筆頭家老・千葉権右衛門であった。千葉権右衛門は弟の東侑之進や子の千葉武男、千葉鐐五郎(東侑之進養子)、同志の神山健之進、中原央、八尾伊織らとともに青山景道の失脚を画策していたが、いつしか青山の知るところとなり、明治3(1870)年1月12日、千葉権右衛門らの家宅捜索が行われ、権右衛門はじめ十名が逮捕されてしまった。そして8月8日、権右衛門らの処分が決定し、権右衛門、千葉武男、中原央は終身流罪、弟の東侑之進は五年流罪、その他十四人もそれぞれ重い刑を受けることとなった。権右衛門は江戸に送られる最中の馬籠宿で病死する。菩提寺は大林寺。
青山直道はその後、大参事職を辞任。官吏として日本各地に勤務したが、それらも辞した。直道の弟・青山胤通は平田篤胤の孫にあたる平田延胤の養子となるが、延胤死去ののちは実家に戻り、医学を志す。北里柴三郎とともに香港で感染症の研究するが、ペストに感染して帰国し、一命は取り留めた。のち国立伝染病研究所所長となる。
東 重可(????-????)
土佐藩士か。通称は不明。
代々歌道の名門として知られていた公家・飛鳥井家の一族が土佐一条家の家臣となっていたが、その末裔である飛鳥井彌五七左衛門雅春が土佐藩士となり、祖父の飛鳥井侍従雅量にゆかりの幡多郡入野郷鹿持村にちなみ、鹿持を称した。その鹿持雅春は貞享4(1687)年2月8日に81歳で亡くなったが、その長女が東重可の妻となっている(『宮廷公家系図集覧』)。
●鹿持家系譜
飛鳥井雅世―+―雅親――――雅俊――――雅綱―――+―雅春――――【公家飛鳥井家】 +―正知――――正■―――+―雅房
(権中納言) |(権大納言)(権大納言)(権大納言)|(権大納言) |(仁右衛門)(六郎兵衛)|(三右衛門)
| | | |
| +―専修寺堯恵 | +―白川政平
| (足利義晴猶子) | |(左次兵衛)
| | |
+―雅康――――頼孝――――雅量―――+―雅■―――――――鹿持雅春―――+―娘 +―雅武
(権中納言)(少将) (侍従) |(右京進) (彌五七左衛門)|(東重可妻) (藤助)
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+―娘 +―柳村安治――…【土佐飛鳥井家】
(香宗我部親秀妻) (利兵衛)