| 須賀川東家 | 森山東家 | 苗木藩東家 | 小城藩東家 |
| 医官東家 | 郡上東家 | 郡上遠藤家 |
須賀川東家
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郡上東氏の東下総守氏数の子とされる(『香取郡誌』『千葉大系図』)。通称は二郎(『千葉大系図』)。「居于下総国東庄須賀山城」(『千葉大系図』)という。須賀山城は森山城に東接した城で、のち森山城が拡張されてその曲輪のひとつとなる。教頼の事績は一切不明。
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東宮内少輔常氏(寿星院東素山)の子。通称は二郎右衛門。 『千葉大系図』によれば、東教頼のあとを継いで須賀山城にいたとある。『下総旧事考』によれば以下の通り。
常綱は須賀山城に居住していた際に、千葉介昌胤が子息の胤富を遣わして常陸国からの敵を防がせんと謀ったが、常綱は城を明け渡さず、昌胤は怒って須賀山城に兵を遣わして放火して攻め落としたとする。その後の常綱については記されていないが、須賀山城は燃えて使い物にならず、西隣の舌状台地上に森山城を新たに築いてそこに胤富を置いたという。その後、胤富は佐倉へ戻って千葉介に就いたことから、森山城の対面にある小見川の城主・粟飯原胤次を森山城へ移し、小見川城は胤次の子・粟飯原光胤に守らしめたという(『下総旧事考』)。
なお、この説話については、天文15(1546)年正月7日の千葉介昌胤卒去(『本土寺過去帳』)以前の話となる。
森山東家
下総東氏の末裔と伝わる一族。同家に伝わる『千葉東氏系図』は東総史における貴重な系譜史料である。その原系譜は幕府医官となった東氏の記録と同一のものと推測され、少なくとも江戸初期には成立していたとみられる。ただし『千葉東氏系図』は中世部分においては、世代の乖離、室町政権内の記録に見る美濃東氏の官途及び東下野守常縁自身の記録、東常縁の異母弟・正宗龍統が著した『故左金吾兼野州太守平公墳記』との差異が顕然としているほか、美濃東氏が下総東庄との関わりを持ち続けた郡上側の記録もなく、さらに下記のような常陸佐竹氏が出所とみられる記述が取り込まれているように、系譜に記される中世期の記述は史実として捉えることは不可である。
(1)上杉安房守憲基の弟である佐竹右京大夫義仁を「佐竹義盛之嗣也」として系譜に取り込んでいる
(2)東師氏の子として記される「下総守胤綱─肥後守胤村」は、佐竹家被官前澤家の「下総守胤綱─肥後守胤村」として取り込んでいる可能性
(3)東氏胤の子として記される「東政義=東義堅」は、佐竹氏の「東政義─東義堅」を取り込んでいる
東行氏───東時常──+─東氏村──+─東常顕──東師氏──東胤綱─+─東氏数───+─東常縁───+─東縁数──────+
(中務少輔)(山城守) |(下野守) |(下野守)(下野守)(下総守)|(下野守) |(下野守) |(左近将監) |
| | | | | |
+─東胤時 +─佐竹義仁 +─東胤村 +─六崎胤氏 +─東元胤 |
|(縫殿允) |(大膳大夫) |(肥後前司) (三郎) |(下野守) |
| | | | |
+─女子 +─女子 +─海保村元 +─常庵龍崇 |
∥ (海保資保嗣) | |
∥ | |
岡本正長 +─東常和 |
(大蔵少輔) |(左京大夫) |
| |
+─遠藤盛胤 |
(八左衛門) |
|
+─────────────────────────────────────────────────────────────+
|
| 千葉介孝胤──女子
| ∥
+=東元胤──+=東常和────+─東氏胤─────+─東素縁──+─東直胤──+─東棟胤──+─森山久胤──東顕胤──東光胤
(大和守) |(大和守) |(大和守/素純) |(下野守) |(下野守) |(大膳大夫)|(六郎太) (平大夫)(彦之進)
| | | | | |
| | | | | +─東将実[居于美濃国]
| | | | | |(右門司)
| | | | | |
| | | | | +─女子
| | | | | (伊藤太郎作室)
| | | | |
| | | | +─東政胤──+─東良胤
| | | | (左京亮) |(宗雲法眼)
| | | | |
| | +─女子 +─東通胤────東信常 +─東胤貞
| | | ∥ |(次郎兵衛尉)(小次郎) (権之佐)
| | | 佐竹義重 |
| | |(大膳大夫)+─東素胤
| | | |(武蔵介)
| | | |
| | | +─女子
| | | |(大須賀信胤室)
| | | |
| | | +─女子
| | | |(木内三郎祐定室)
| | | |
| | | +────────────────────女子
| | | (東伊予守朝胤室)
| | | ∥
| | +─東政義====東義堅 ∥
| | (陸奥前司) (弾正忠) ∥
| | ∥
| +─海上常元────+─辺田常光 ∥
| |(山城守) |(四郎) ∥
| | | ∥
| +─女子 +─女子 ∥
| ∥ (海保資信室) ∥
| ∥ ∥
| 千葉介胤富 ∥
| (千葉介) ∥
| ∥
+─野田常慶─────東常堯 ∥
|(左近大夫) (七郎) ∥
| ∥
+─東尚胤──────東常氏 千葉介昌胤─女子 +─東兼朝──東朝胤──東時胤
|(下総守/素常) (下総守/素山) ∥ |(越前守)(伊予守)(主水)
| ∥ |
+─香取常顕───+─東常朝─────+─東兼資────東兼政─+─東兼胤───+─東胤綱
(三郎) |(太郎左衛門尉) |(兵部允) (陸奥守)|(上総介) (左馬助)
| | |
+─東常春 +─女子 +─女子
|(次郎) |(粟飯原左衛門尉輝常室)|(大須賀尾張守政常室)
| | |
+─女子 +─女子 +─東兼忠
(香取大宮司室) (武田源三郎益重室) (日向守)
東 直胤(1546?-1590)
森山東氏。通称は六郎。官途は下総守。室は吉川左京大夫友春女(『千葉東氏系譜』)。系譜に拠れば東下野守常数(常和に仮託か)の子だが実在不詳。郡上東氏の流れをくみ、室町時代中期に武蔵国に駐屯していた「下総守尚胤」と混同されている可能性があるか。
伝承では森山城主だが、室町末期の森山城は史実においては森山原氏を筆頭に海上氏、石毛氏が城将として警衛し、北条家との間に相当緊迫した対立関係があった。このような状況において東氏の名はまったく見えず、当然ながらのちに小田原へ相当な兵を率いて籠城し一角を守るような勢力であった形跡もない。「東直胤」の存在は多分に民間伝承によるものであり、実在も含めてその活動は一切不明である。
伝では、天文16(1547)年1月21日、祖父・大和守氏胤(聖慶院殿知宝常元大居士)が六十九才で亡くなり、子の東常数が継承。元亀3(1572)年4月29日、常数が七十一歳で亡くなり(宝幢院殿眞徃知温大居士)、直胤が継承したとする。
永禄7(1569)年、正木大膳亮時茂が上総国大多喜城から東総へ攻め込み、9月18日、矢作城の国分氏を攻めた。このとき、国分氏の援軍として米野井城主・木内胤倫が駆けつけて正木勢を破ったが、翌年9月18日、正木氏に降っていた府馬左衛門尉時持と「東六郎」が米野井城を攻めて、20日に陥落させたと伝わる。しかし、10月24日、木内与七郎胤統が大須賀氏とともに富田台の戦いで府馬・東氏の軍勢を破ったという(『香取郡誌』)。この戦いは、千葉介胤富から大須賀氏に宛てた文書に見える。
天正12(1584)年の『東大社写経奥書』に「東小六郎胤清」「大檀那千葉法阿弥」の名が見える。「千葉法阿弥」は千葉介邦胤のこと。
天正18(1590)年の小田原合戦に参戦した「東下総守平ノ直胤」は、「郎従数多相具小田原城中ニ被加勢」し、5月11日、湯本口で討ち死にしたと伝わる。法名は英勇院殿仙光義源大居士(『千葉東氏系譜』)。
東 棟胤(1551-1644)
東下総守直胤の養嗣子。実父は千葉介胤富。母は海上山城守常元の娘。通称は六郎。官途名は大膳大夫。妻は上総国長南城主・武田兵部大輔豊信娘。初名は宗胤とされる(『千葉東氏系譜』)。
東直胤の実子としては東政胤がいたが、天正18(1590)年5月11日の直胤戦死時にはわずか六歳だったため、千葉介胤富の子・大膳大輔宗胤が東直胤の養嗣子になり「東棟胤」を称したという。東直胤はじめ多数の家臣が小田原城で戦没したため、東氏の菩提寺・芳泰寺や樹林寺、西雲寺で戦没者の供養を行ったという。
なお、東棟胤は5月8日に森山城を徳川家の使者に明け渡したとされるが(『千葉東氏系譜』)、棟胤が東氏の家督を継いだのは5月11日の直胤戦死後とされていることや、当時の森山城は東氏の差配の下にあったわけではなく、森山原氏が統括していたことから、東棟胤の存在や森山城の伝承自体に矛盾があることになる。また、母方の祖父・海上山城守常元なる人物もその実在が確認できない。
文禄2(1593)年3月、美濃国郡上郡栗栖へ落居し、正保元(1644)年3月16日、九十四歳で亡くなったという。法号は盛順院殿了泰玄心大居士(『千葉東氏系譜』)。
妻の武田氏は寛永16(1639)年7月4日に七十七歳で逝去した。法号は浄光院殿寶岳妙曜大姉。
東 久胤(1585-1671)
東大膳大夫棟胤の子。通称は平太左衛門、六郎太。母は武田兵部大輔豊信女。妻は武田右衛門氏信女(『千葉東氏系譜』)。ただし、豊信は長南武田氏であって武田信玄の子ではない。ここにも信玄という「著名な祖」を以て系譜に組み込む形跡がみられる。
●上総武田氏系譜(伝)
千葉介胤富──東棟胤
(大膳大夫)
∥
武田晴信─+─武田義信 ∥─────東久胤
(大膳大夫)|(太郎) ∥ (平太左衛門)
| ∥ ∥
+─武田豊信─+─女 ∥──────東鑑胤
(兵部大輔)| ∥ (平大夫)
| ∥
+─武田氏信──女
(右衛門)
父に随って美濃国郡上郡来栖郷に移り住んでいたが、正保元(1644)年3月16日、父・棟胤が亡くなると、正保5(1648)年4月、出羽国長井郷へと移り住んだという(『千葉東氏系譜』)。
寛文11(1671)年5月13日、八十七歳で亡くなった。
東 顕胤(1615-1696)
東六郎太久胤の子。通称は平大夫。初名は貞胤。母は武田右衛門氏信女(『千葉東氏系譜』)。妻は新野監物盛胤女。
父祖と同様に出羽国長井郷に居住し、元禄9(1696)年10月12日に亡くなった。享年八十二(『千葉東氏系譜』)。子孫は代々長井郷に住む。
なお、妻の新野氏は東氏庶流と伝わる新野氏に擬されるが、顕胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 光胤(1655-1716)
東平大夫顕胤の子。通称は彦之進、平太。母は新野監物盛胤女。妻は大須賀安朝女。
父祖と同様に出羽国長井郷に居住し、享保元(1716)年5月17日、亡くなった。享年六十二(『千葉東氏系譜』)。
なお、妻の大須賀氏は下総国香取郡の大須賀氏に擬されるが、光胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 治胤(1682-1742)
東平太光胤の子。通称は彦右衛門。妻は国分胤氏女。
寛保2(1742)年4月9日、六十一歳で亡くなった。
なお、妻の国分氏は下総国香取郡の国分氏に擬されるが、治胤は出羽国長井郷に居住しており、下総国とどのように繋がりを持っていたのか不明。
東 高胤(1688-1751)
東彦右衛門治胤の子。通称は伊右衛門。ただし、治胤と高胤の歳の差は六年のため、兄弟または養嗣子か。
宝暦元(1751)年3月21日、六十四歳で亡くなった。
東 景胤(1714-1789)
東伊右衛門高胤の子。通称は伊右衛門。初名は常則。
寛政元(1789)年11月13日、七十六歳で亡くなった。
東 慶胤(1733-1788)
東伊右衛門景胤の子。通称は伊右衛門。妻は木場八郎右衛門女。
天明8(1788)年6月20日、五十六歳で父に先だって亡くなった。
東 則胤(1781-1846)
東伊右衛門慶胤の子。通称は雅楽。妻は石毛吉右衛門行幹女。
則胤は文化3(1806)年4月、長井郷から江戸に上っており、長井郷には弟の胤顕が残った。則胤はその後、江戸から下総国匝瑳郡老尾神社(匝瑳市生尾)に入った。このとき「雅楽」と改称したのだろう。
弘化2(1846)年2月1日、六十六歳で亡くなった。
◇16世紀末期の森山城◇
天正15年(1587)中、北条氏政は秀吉の軍勢に対処する上で下総の支配を確固たるものとするため、自ら下総国へ出張し、香取郡から八幡庄の有力寺院に対して判物を与えた。これを奉行したのは、おそらく松子城主・大須賀尾張守と推測され、氏政は小田原へ帰城した12月24日、「大須賀尾張守」に対して「路地中無相違令帰府候」という文書を発給している。
12月12日、森山城将「海上山城守」に対し氏政は、「番衆以下厳重ニ可有之事肝要候、内々此度打越、地形可順見由、雖覚悟候、当地之仕置、昨今追申付候、為来春候、近日諸軍勢可相返候、明春二三月之時分、重而此表可見廻候」という書状を発給している(『下総旧事』)。
小田原に帰った氏政は、東総の要である森山衆が小田原へ在陣して、守りが薄くなることを心配し、佐倉千葉宗家の筆頭家老・原若狭守親幹に「眼病歴然之由候へ共、来正月十日ニ必々森山へ相移」って城将・海上山城守とともに守るよう命じた(『原文書』)。もともと原若狭守親幹・大炊助邦房父子は千葉宗家重臣の中でも反北条派の巨頭であり、親北条派である原豊前守胤長・邦長父子と対立。氏政も彼らの対立を収めるため、氏直へ仲介を指示するなど積極的に介入しており、天正13(1585)年8月27日、親幹に「海上孫四郎若輩に而苦労ニ候、大炊助も自元作倉ニ無之而不叶候、不行歩之躰候共、其方一両年も先森山ニ在城候而、万端孫四郎ニ助言候者、先無相違歟、如何」という書状を送るとともに、親幹の本心を糺した。結局、親幹は12月になって北条氏に降伏。千葉宗家は北条氏の支配下に組み込まれることとなった。
森山城の守りを北条氏政に託された原若狭守親幹入道は、氏政の指示を受け、森山衆の小田原参陣について、森山城に残す守備兵の書き立てを小田原に提出した。さらに千葉氏に対して出された法度の写しを届け、氏政からは万事を原豊前守胤長と相談する指示を受けている。このころ、千葉新介重胤は小田原城に入っており、氏政の子・直重が千葉家の家督を継承したようだ。実際に直重が佐倉にいたかどうかは不明で、実質的な千葉宗家政の運営は、森山城(原若狭守親幹入道)と佐倉城(原豊前守胤長、原大蔵丞邦長、原大炊助邦房)にゆだねられていたのだろう。
天正17(1589)年8月24日、氏政は原親幹に「城山之事、前々伐木儀、対海上山城守證文披見畢、於自今以後何時も、海上原若狭父子へ用所之時者、印判を可出候、向後無印判而一本も不可剪候、至于妄者、可處越度者也」という書状を、さらに同日、「森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也」という文書をもって、森山の直接支配をより強固なものとしようとしていることがわかる。
こののち森山城に関する文書は姿を消すが、天正18(1590)年7月に「上方勢浅野、木村、本多、鳥居、平岩等之諸将所々ニ被発向」の中で「守山落城」したという(「神仏実事」『飯田家文書』)。当時の「守山主将東六郎殿」は「郎従数多相具小田原之城中ニ被加勢之處、先達テ被遂討死」(「神仏実事」『飯田家文書』) というが、『大須賀系図』では「海上山城守」が「森山衆」を率いて入城したとされる。小田原合戦の際の千葉氏は惣領千葉介についても正確な記録が残らず、諸説混沌としており、いずれも伝承の域を出ない。
◇16世紀の東氏の動向、森山城について
| 年代 | 人物 | 書状や内容 |
| 永正13(1516)年8月23日 | [東六郎殿] | 千葉井花ニテ打死諸人同証仏果(『本土寺過去帳』) |
| 天文16(1547)年10月16日 | 大檀那平胤富 | 本佐倉の文珠堂華鬘銘(『千葉県史料』金石文篇II) |
| 弘治3(1557)年5月2日 | [東大和守]
[東修理亮] | 西上総の秋元城での東修理亮の軍忠に氏康が恩賞を与える。 |
| 8月 | 千葉介胤富 | 千葉介親胤が討たれ、森山城から胤富が千葉宗家の家督を継ぐ。 |
| 永禄元(1558)年6月21日 | [東修理亮] | 北条康成が修理亮の「昨今之御高名」について賞賛する書状。(『川辺氏旧記』) |
| 同日 | [東修理亮] | 北条康成が、修理亮が伏兵を撃退したことを賞賛する書状。(同) |
| 6月27日 | [東修理亮] | 康成から修理亮の活躍を聞いた北条氏康が、修理亮を賞して太刀一振を進呈。(同) |
| 閏6月7日 | [東修理亮] | 北条綱成から、氏康の感状・金覆輪太刀を進呈する旨の書状。同内容二通。(同) |
| 永禄年中か | 平胤富 | 香取大禰宜に鏑木長門守胤義を遣わして祈祷を怠らぬことを指示(『旧大禰宜家文書』) |
| 永禄年中9月23日 | 海上蔵人
石毛大和守 | 船の徴発を命じる。船については厳しい審査がなされた。 |
| 9月27日 | 船を森山城などに集結させる。 | |
| 9月30日 | 常陸国に攻め入り、「三人討候」。 | |
| 10月2日 | 森山城将へ戦勝を賞した文書を送る。 | |
| 永禄13(1570)年6月2日 | [沼闕東氏] | 中島城下の廻船商人・宮内清左衛門尉に対して、乗船一艘の役を命じた。(『宮内文書』) |
| 天正13(1585)年5月 | [豊臣秀吉] | 九州で島津惟新入道を降伏させる=九州平定 |
| 8月27日 | 海上孫四郎 | 北条氏政、千葉宗家の側近・原若狭守親幹に森山加勢を指示。同時に親幹の本心を聞く。 |
| 9月8日 | [原胤長] | 北条氏直、下総仕置に出陣する旨を通達。胤長が加勢を望むなら直ちに兵を派遣する用意がある。 |
| 11月 | [北条氏政] | 下総国へ入り有力寺社に判物を与えて守りを固める。 |
| 11月25日 | [原親幹] | 親幹が山角紀伊守に降伏を申し出た文書を氏政が披見し、氏直へ取り成したことを通達。 |
| 12月12日 | 海上山城守 | 「番衆以下厳重ニ可有之事肝要候、内々此度打越、地形可順見由、雖覚悟候、当地之仕置、昨今追申付候、為来春候、近日諸軍勢可相返候、明春二三月之時分、重而此表可見廻候」(『下総旧事』) |
| 12月24日 | [大須賀尾張守] | 「路地中無相違令帰府候」 |
| 12月28日 | 原親幹 | 眼病がひどいと聞いているが、来正月十日には必ず森山城へうつり、海上山城守と相談すること。 |
| 天正17(1589)年8月24日 | 原親幹 | 「城山之事、前々伐木儀、対海上山城守證文披見畢、於自今以後何時も、海上原若狭父子へ用所之時者、印判を可出候、向後無印判而一本も不可剪候、至于妄者、可處越度者也」(『原文書』) |
| 原親幹
原邦房 | 「森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也」(『原文書』) | |
| 天正18(1590)年8月24日 | 東六郎 | 「郎従数多相具小田原之城中ニ被加勢之所」(「神仏実事」『飯田家文書』) |