(1228?-1300?)
郡上東氏初代。三代東中務丞胤行(入道素暹)の二男。母は二条大納言為家女と伝わるが疑問が大きい。通称は六郎。官途は左衛門尉。法名は素道。
長兄・東図書助泰行は下総国東庄を継承し、将軍頼経・頼嗣・宗尊親王に伺候、出家の後は「行暹」と号した。行氏の次兄・東四郎義行は頼嗣・宗尊親王に仕えたという。
行氏は父・胤行が承久の乱の恩賞として賜った美濃国郡上郡山田庄に下向したといわれる。その下向時期についてはいくつか説があるが、承久年間(1221-23)とされる。山田庄はもともと祖・六郎大夫胤頼が伺候した上西門院統子内親王(後白河天皇の准母)の御領で、宣陽門院覲子内親王(後白河法皇皇女)に譲られていた(1)。
行氏は郡上に入ると、千葉庄金剛授寺(現千葉市院内の千葉神社)の妙見菩薩を当地に勧進したとされる。妙見は一族の遠藤氏・野田氏をはじめ、宿老の埴生太郎左衛門高師、粟飯原文次郎常定、土松彦太郎・日置氏・尾藤氏・滝日氏・和田氏・餌取氏・石神氏・井股氏・土屋氏・村上氏・河合氏・市村氏・増田氏らが奉じて郡上に分祀し、神廟を造営したという。はじめ埴生高師が祭主となり、子孫が神職を継いだ。そして永禄5(1562)年4月14日、郡上郡を継承した遠藤六郎左衛門尉盛数が織田信長へ謁見したとき、妙見社禰宜・埴生太郎左衛門が同行しているが、その後、太郎左衛門は盛数の弟・遠藤太郎兵衛に禰宜職を譲った。太郎兵衛は粟飯原太郎兵衛を称して大禰宜職を継ぎ、代々粟飯原家が禰宜職を継いで現在に至っている。
宝治元(1247)年11月24日の賀茂臨時祭に際して、朝廷は費用調達の目的で五万疋の任官功を募った。そして11月7日、その功として小除目が行われ、「右兵衛尉」に任官した「平行氏」が見え(『経俊卿記』宝治元年十一月七日条)、12月14日にも名が見える。彼が東行氏と同一人物かは不明だが、時代は重なる。
宝治2(1248)年正月3日の将軍の御行始の供奉人に「東中務少輔」が見え、さらに建長2(1250)年8月18日、将軍・藤原頼嗣が由比ガ浜にて犬追物を催した際に供奉の後列に「東中務少輔」の名が見える。さらに建長4(1252)年4月14日に宗尊親王の鶴岡八幡宮初社参の隨兵、4月17日の御所御鞠始めの儀、7月23日の将軍家御方違えの供奉、9月25日の将軍家方違えの供奉人に「東中務少輔胤重」がみえる。行氏の前名との系譜(『松蘿館本千葉系図』)もあるが、賀茂臨時祭の平行氏が東行氏であるとすれば、当時彼は右兵衛尉であり、わずか半月で中務少輔に任官することは考えにくいうえに、晩年の行氏が左衛門尉であったことを考えると、官位相当で上位に位置する中務少輔から左衛門尉へ移ることも考えにくいので、「東中務少輔胤重」は別人であろう。おそらく行氏は在京御家人として六波羅探題の支配下にあり、鎌倉への下向はほぼなかったのではなかろうか。
『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編 古代中世1第二編)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のために二十五貫を負担している「東兵衛入道跡」が見えることから、行氏も一端を受け持っていることがわかる。
弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会(五月延引)で七番の流鏑馬が行われた。その五番手を「東六郎左衛門尉平行氏法師」が務め、射手として「遠藤左衛門三郎盛氏」が務めている。この遠藤氏は東氏の根本被官であり、以降も代々東家に重臣として仕え、江戸時代の郡上藩主・遠藤家に繋がっていくと考えられる。
●弘安七年十二月九日 新日吉小五月会流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)
射手 | 的立 | ||
一番 | 武蔵守平時村 | 伊賀右衛門六郎藤原光綱 | 福田寺太郎兵衛尉藤原行實 |
二番 | 備後民部大夫三善政康 | 牧右衛門四郎藤原政能 | |
三番 | 葛西三郎平宗清 | 富澤三郎平秀行 | |
四番 | 肥後民部大夫平行定法師 法名寂圓 | 宮地彦四郎清原行房 | |
五番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤左衛門三郎盛氏 | |
六番 | 頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 | 奥野二郎太郎源景忠 | |
七番 | 後藤筑後前司基頼法師 法名寂基 | 舎弟 壱岐十郎基長 |
正応4(1291)年5月9日、新日吉の小五月会で行われた流鏑馬でも「東六郎左衛門尉平行氏法師」が列しており、射手として「遠藤五郎左衛門尉泰氏」が務めている。泰氏の諱から、六年半前に行われた弘安7(1284)年12月9日の小五月会に見える遠藤左衛門三郎盛氏と同一人物または親族と考えられる(『実躬卿記』正応四年五月九日条)。
●正応四年五月九日 新日吉小五月会流鏑馬交名(『実躬卿記』大日本古記録)
射手 | 的立 | ||
一番 | 越後守平兼時 | 安東太郎左衛門尉平忠朝 | 粟生田五郎左衛門尉有道行能 |
二番 | 大井次郎源朝氏 法名朝蓮 | 小笠原三郎太郎源長定 | |
三番 | 因幡三郎左衛門尉藤原行時 | 于電二郎平家時 | |
四番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤五郎左衛門尉泰氏 | |
五番 | 下総三郎左衛門尉藤原貞綱 | ■名弥次郎源胤景 | |
六番 | 畠山上野彦三郎宗茂 | 和田四郎太郎平秀村 | |
七番 | 丹後守平成房 | 大瀬次郎兵衛尉藤原泰貞 |
正安2(1300)年10月2日、73歳(78歳とも)で亡くなったという。法名は眞光院道瑜常雅。
行氏も父・素暹と同様に歌人として名を残し、『続拾遺和歌集』『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『新千載集』『新拾遺和歌集』の5つの勅撰和歌集に撰ばれている。また、行氏の妹・中務丞胤行女も歌人で『続拾遺集』に撰ばれている。胤行女は正中2(1325)年6月11日に亡くなった。
【参考文献】
(1)『岐阜県史 中世』岐阜県史編纂委員会