葛西家惣領 葛西清経

葛西氏

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葛西清経(????-1287)

 葛西氏三代。葛西伯耆守清親の子。通称は三郎。官途は左衛門尉、伯耆守。入道後は伯耆前司入道経蓮。妻は尼仏心

●清経の名が見える時期

建長4(1253)年11月11日 将軍家御出供奉 伯耆左衛門三郎清経 『吾妻鏡』
建長4(1253)年11月20日 将軍家新邸移従 伯耆左衛門三郎清経 『吾妻鏡』
建長4(1253)年12月17日 鶴岡八幡宮社参供奉 伯耆三郎清経 『吾妻鏡』
建長8(1256)年正月1日 椀飯 伯耆左衛門三郎 『吾妻鏡』
※清経は正月1日から6月29日の間に「左衛門尉」に任官したと思われる。
建長8(1256)年6月29日 放生会供奉人決定 伯耆三郎左衛門尉(清経)
同三郎(←こちらは宗清か)
『吾妻鏡』
建長8(1256)年8月15日 放生会供奉人 伯耆新左衛門尉清経 『吾妻鏡』
文永8(1271)年12月10日 香取神社仮殿正神殿遷宮惣奉行 葛西伯耆前司入道経蓮 『香取文書』
建治3(1277)年 平泉白山別当顕隆との相論 伯耆新左衛門入道経蓮 『岩手県史』

●葛西氏想像系図

⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清      +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
      |      |          |         |
      |      +―清時       +―清宗――――――+―清貞
      |      |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守)    |(伊豆三郎兵衛尉)
      |      |                    |
      |      +―光清―――――――+―■■      +―■■
      |      |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)    (伊豆四郎入道)
      |      |          |
      |      +―■■       +―清氏――――――――重盛
      |       (五郎)       (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
      |
      +―時清
      |(壱岐小三郎左衛門尉)
      |
      +―重元
      |(四郎)
      |
      +―■■
      |(壱岐五郎左衛門尉)
      |
      +―朝清―――――左衛門次郎
      |(六郎左衛門尉)
      |
      +―時重
      |(壱岐七郎左衛門尉)
      |
      +―清秀     
      |(八郎左衛門尉)
      |
      +―清員
      |(壱岐新左衛門尉) 
      |
      +―重村―――――友村―――――――+―平氏女
       (河内守)  (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
                        |
                        +―清友
                         (丸子八郎)

 建長4(1253)年11月11日の将軍家御出の供奉(『吾妻鏡』)、11月20日の新御所移従の供奉人に「伯耆左衛門三郎清経」が見え12月17日の鶴岡八幡宮社参に「伯耆三郎清経」が見える(『吾妻鏡』)

 建長8(1256)年正月1日の椀飯に「伯耆左衛門三郎」が見え(『吾妻鏡』)、同年6月29日の放生会供奉人決定の際、「伯耆三郎左衛門尉」「同三郎」が見える(『吾妻鏡』)「伯耆三郎左衛門尉」清経であると思われ、「同三郎」は嫡男・三郎宗時か。建長8(1256)年正月の時点ではまだ「左衛門尉三郎」であるので任官していないが、6月29日の放生会供奉決定時にはすでに「伯耆三郎左衛門尉」となっているため、この間に左衛門尉に任官したことがわかる(『吾妻鏡』)。しかし、8月15日の放生会に出席したのち、清経に関する記述は『吾妻鏡』より消える。

 十年ほどの後、文永8(1271)年12月10日の香取神社あさめ殿正神殿の遷宮は「葛西伯耆前司入道経蓮」が雑掌として行われている(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)。所役は1,500石で「末代莫大之所役也」と記されている。また、葛西家の本拠はこの時にはまだ関東にあったことがわかる。

●下総香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮
台風で破損し急造   保延3(1137)年丁巳
――――――     久寿2(1155)年乙亥
葛西三郎清基    治承元(1177)年12月9日
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑11月5日 建久8(1197)年2月16日
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子6月7日 嘉禄3(1227)年丁亥12月
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申6月日 宝治3(1249)年己酉3月10日
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉12月17日 文永8(1271)年12月10日
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰4月12日 正応6(1293)年癸巳3月2日
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
 大行事与雑掌清貞
 親父伊豆入道相論間、延引了
永仁6(1298)年戊戌3月18日 元徳2(1330)年庚午6月24日
千葉介貞胤
・葛西伊豆入道明蓮跡
・伊豆四郎入道
(猿又・小鮎、二の鳥居)
康永4(1345)年3月  

 そして、建治3(1277)年、奥州平泉の白山別当顕隆「伯耆新左衛門入道経蓮」の間で相論が起こった。経蓮は白山社の神官神人を駆り集めて山野で狩猟を行ったため、白山別当顕隆が怒って幕府へ訴えたものだった。これを受けて、幕府は新左衛門入道経蓮へ神官らを使って狩を行うことを禁止した。

…如建治三年御下知状平泉白山別当顕隆与伯耆新左衛門入道経蓮相論事者、於山野致違乱、以神官神人等、召仕狩猟事、…

 つまり、経蓮こと葛西清経は、文永8(1271)年12月10日に香取神宮遷宮が成ったのちから、平泉白山社との相論があった建治3(1277)年までの間に奥州へ移ったと推測される。具体的には、建治元(1275)年5月の『六条八幡宮造営用途注文』で「七十貫」の所役として「葛西伯耆前司跡」とあり、このころには葛西三郎左衛門尉宗清に諸地頭職を譲っていたと思われる。

 清経の没年については、以下のとおり。

(1) 弘安10(1287)年11月没。 經蓮 『竜源寺過去帳』
(2) 弘安10(1287)年11月7日没。五十三歳。 峰円寺殿意山涼西大居士 『盛岡葛西系図』
(3) 弘安10(1287)年11月7日没。 開口院殿實相經蓮大居士 『葛西氏過去牒』

 この清経以降、鎌倉にいるのが確認できる葛西氏は、「葛西又太郎定広」「葛西伯耆四郎左衛門尉光清」と子息「葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏」の三名だけとなる。叔父の「葛西壱岐六郎左衛門尉朝清」「葛西壱岐七郎左衛門尉時重」は建長8(1256)年10月5日に奥大道の警護を命じられており、すでに奥州へ下向していたものと思われる。

 なお、子と推測される葛西伊豆守清宗は葛西庄に残っていたと思われ、永仁6(1298)年3月18日、香取社遷宮に際して、香取社大行事と相論している。

●この時代の葛西氏

文暦2(1235)年6月29日 壱岐三郎時清 鎌倉五大尊堂に新造の御堂の供奉
壱岐五郎左衛門尉 寄進の馬を曳いた
仁治2(1241)年1月23日 葛西壱岐六郎左衛門尉朝清 清重の六男。弓の名手であったようである。
寛元2(1244)年8月16日 葛西左衛門次郎 葛西朝清の子。鶴岡八幡宮の放生会のとき、流鏑馬の九番の射手となる。
葛西五郎 流鏑馬の十二番に「伯耆前司」の「子息五郎」が射手として列す。
寛元3(1245)年8月15日 葛西又太郎定広 放生会の競馬に参列。
宝治2(1248)年8月15日 葛西伯耆四郎左衛門尉光清 鶴岡八幡宮放生会の先陣随兵十人の一人に見える。仁治元(1240)年8月2日の
将軍・藤原頼経の二所詣に供奉した「葛西四郎左衛門尉」も同一人物か。
建長2(1250)年5月28日 葛西壱岐七郎左衛門尉時重 讃岐国法勲寺領について、地頭であった時重と法勲寺が争い、幕府が裁決した。
建長3(1251)年8月15日 葛西壱岐新左衛門尉清員 鶴岡八幡宮の放生会の先陣の随兵
建長4(1253)年4月14日 伯耆左衛門四郎清時 将軍家八幡宮社参供奉
建長4(1253)年11月11日 葛西伯耆新左衛門尉清経 葛西家の惣領
正嘉2(1258)年3月1日 葛西四郎太郎 壱岐六郎左衛門尉朝清跡。葛西伯耆四郎左衛門尉光清の長男? 朝清の子?
弘長3(1263)年7月13日 葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏 伯耆四郎左衛門尉光清の子。8月の放生会も代理として参列。
建治元(1275)年5月 葛西伊豆前司 京都の六条八幡宮用途支配にて四十貫
葛西壱岐七郎左衛門入道跡 京都の六条八幡宮用途支配にて二十五貫
葛西河内前司跡 京都の六条八幡宮用途支配にて六貫
葛西三郎太郎跡 京都の六条八幡宮用途支配にて二十貫
弘安7(1284)年12月9日 葛西三郎平宗清 新日吉の小五月会の流鏑馬を披露。
正応元(1288)年7月9日 伊豆太郎左衛門尉時員 中尊寺・毛越寺の僧侶と論争(葛西三郎左衛門尉宗清も含む)
葛西彦三郎親清
永仁6(1298)年3月18日 葛西伊豆三郎兵衛尉清貞 香取社造営雑掌・清貞とその父親・伊豆入道。元徳2(1330)年6月24日遷宮
親父伊豆入道
元享3(1323)年10月27日 葛西伊豆入道 北条貞時十三年忌供養の際に砂金三十両を寄進
康永4(1345)年3月 葛西伊豆入道明蓮跡 香取社造営の所役。
伊豆四郎入道

 

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尼佛心(????-????)

 葛西伯耆新左衛門入道経蓮(葛西伯耆三郎左衛門清経)の妻。実名は不明。

 は三浦系和田氏の一族・和田左衛門四郎茂長に嫁いでいる。女地頭として武蔵国坂戸郷・下総国金町郷の田畠在家があり、正中2(1325)年、その遺領をめぐって娘の子・姉平氏(富安三郎息女?)と妹平氏(茂長女子平氏:のち尼玄法)が争っている。

◎正中2(1325)年9月7日『関東下知状』(『越後三浦和田文書』:『鎌倉遺文』所収)

   和田左衛門四郎茂長女子平氏姉平氏富安三郎息女相論、亡母平氏葛西新左衛門入道経蓮女子遺領
   武蔵国坂戸郷田畠在家、下総国金町郷田事

  右、整訴陳之状擬是非之處、今年正中二正月廿日両方令和與訖、如妹平氏状者、以和與之儀、
  金町郷田壱町内田弐段、其外買地内朝長三郎次郎跡田伍段、屋敷之畠参段半稲毛新庄坂戸郷
  河面三郎跡屋敷之畠北之間々波多仁寄天三段、安芸尼跡中溝之北之波多仁寄天田伍段、
  此内参段小有公事、避賜永代之上者、永留沙汰云々、如姉平氏状者、子細同前、
  此上不及異儀、任彼状、向後相互無違乱可領地者、依鎌倉殿仰、下知如件

     正中二年九月七日             相 模 守平朝臣 花押(北条高時)
                          修理権大夫平朝臣 花押(北条貞顕)

◎元徳3(1331)年12月23日『関東下知状』(『越後三浦和田文書』:『鎌倉遺文』所収)

    和田左衛門四郎茂長女子平氏越後国塩澤村塩谷村田五段畠山野以下得分物事
  右村々、和田彦四郎茂実押領之間、下総三郎兵衛尉清胤女子平氏就訴申、

  延慶三年九月十二日預裁許之處、死去之刻、譲与祖母尼佛心葛西伯耆新左衛門入道経蓮後家
  佛心又依譲給孫女平氏、仰御使、元徳元年五月晦日被打渡訖、而御下知以後得分物、
  可返給之由、氏女申之、宜糺返者、依鎌倉殿仰、下知如件

     元徳三年十二月廿三日      右馬権頭平朝臣 花押(北条茂時)
                     相模守 平朝臣 花押(北条守時:足利尊氏の義兄) 

◎上の書状の関係図

 葛西新左衛門入道経蓮   富安三郎
   ∥           ∥
   ∥           ∥―――――――姉平氏
   ∥           ∥        
   ∥―――――――――亡母平氏       ×←母の遺領をめぐって論争
   ∥           ∥        
   ∥           ∥―――――――妹平氏(尼法玄)
   ∥           ∥
  佛心尼       和田左衛門四郎茂長――弥四郎広連―――彦四郎兵衛尉茂実

◎康永元(1342)年11月日『尼玄法代玄政本解案』(『色部文書』:『大日本史料』所収)

  和田左衛門四郎茂長女子尼玄法代玄政謹言上、

  欲早被停止同彦四郎茂実今者號兵衛尉、非分押領、任相伝道理、可全知行旨被仰下、
  越後国奥山庄内鍬柄村塩谷塩澤三ヶ村地頭職事、

 副進
  一巻 御下知以下手継状案(裏判)
  一巻 国宣御牒以下案
  一巻 軍忠支證状案

 右、於彼村々地頭職者、去元亨三年十月廿日、自祖母尼仏心手、玄法譲得之知行無相違之条、
 正中二年七月七日御下知以下、炳焉也、仍案文備右、爰被茂実無故去々年暦応三、七月二日以来、 
 令押領之条、希代次第也、然に早被止被妨、仰両御使、被打渡下知於玄法、為全知行、
 恐々粗言上如件、

       応永元年十一月日

◎康永3(1344)年閏2月4日『石橋和義執達状』(『大日本史料』所収)

 尼玄法申、越後国鍬柄村塩谷塩澤三ヶ村事、重訴状■■■■■代長尾左衛門尉景忠押領
 ■■■三郎左衛門大夫相共莅彼所、■可■尼玄法之由、先日改仰遣、■■事行者、招其咎候、
 急速遂遵■可被申左右之状、依仰執達如件

   康永三年閏二月四日          左衛門佐(花押)
    平賀左衛門蔵人殿