千葉介自胤

武蔵千葉氏

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(1442?-????)
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(????-????)
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(????-????)

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千葉介自胤(????-1493)

生没年 ????~明応2(1493)年12月6日
通称 次郎
千葉中務大輔胤賢
不明
長尾四郎左衛門尉景仲女(龍興院殿了室覚公大姉)
官位 不明
官職 不明
幕府役 千葉介
所在 武蔵国石浜
道号 玄参?
法号 松月院殿
墓所 万吉山宝持寺松月院殿

 武蔵千葉氏二代。千葉中務太輔胤賢入道の次男。通称は二郎。諱の「自胤」「これたね」と読む。武蔵国へ逃れたのち、下総を回復するために戦った武将。法名は玄参か。

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)
       |       |       |
       |       |       +―千葉胤賢―+―千葉介実胤
       |       |        (中務丞) |(七郎)
       |       |              |
       |       |              +―千葉介自胤―――千葉介守胤
       |       |               (武蔵千葉介) (武蔵千葉介)
       |       |           
       |       +―馬加康胤――+―胤持           +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
       |        (陸奥守)  |              |(千葉介)  (千葉介)
       |               |              |
       |               +―女            +―成戸胤家
       |                              |(成戸殿)
       |                              |
       +―馬場重胤――――胤依――――+―金山殿  +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
        (八郎)           |      |(千葉介)          (物井殿)
                       |      |
                       +―公津殿  +―成身院源道―+―光言院源秀
                       |      |(菊間御坊) |
                       |      |       |
                       +―岩橋輔胤―+―椎崎胤次  +―天生院源長
                        (岩橋殿)  (入道道甫)

 亨徳4(1455)年9月、父・千葉中務太輔胤賢入道は、足利成氏と手を組んだ一族の千葉陸奥入道常義(馬加康胤)原越後守胤房に香取郡小堤城に攻め殺され、自胤は兄・七郎実胤とともに八幡庄市川城へ逃れた。

国府台
武蔵国側から国府台城を望む

 一方、幕府は胤直入道らを援けて足利成氏勢を下総から追放するべく、東左近将監常縁を下総へ派遣した。常縁は東大社へ詣でて戦勝を祈願すると、千葉へ西進して11月24日、馬加城を陥落させ、原越後守胤房を千葉に追った。

 こののち常縁は市川城に籠城する実胤自胤と合流して市川城に入った。市川城は、現在の真間山弘法寺から国府台公園周辺であったと思われ、江戸川を天然の堀とし、東西南も急崖に囲まれた要害である。

 しかし、古河公方が派遣した梁田氏・南氏の大軍が市川城へ押し寄せ、実胤自胤東常縁らは市川城に籠城して防いだが、援軍のない市川城は次第に戦況が悪化。寄手の古河公方勢からは降伏を勧める使者が市川城に幾度も遣わされていた。このときに常縁が詠んだ歌が残されている(『東家詠草脱漏聞書』)

籠城しける時 よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける
 命やはうきなにかへんよの中に ひとりとヽまる習あれとも 

 そして、康正2(1456)年正月19日、市川城はついに陥落康正二年四月四日『足利成氏書状写』『東野州聞書』実胤自胤は城を逃れて武蔵国へ渡り、おそらく葛西辺りに落ち延びて、山内上杉家の庇護を受けたのだろう。一方、東常縁は匝瑳郡(八日市場市)へと逃れ、再起を図っている。

 東常縁は2月7日、匝瑳郡の惣社・老尾神社に阿玉郷(香取市阿玉)中から三十石を寄進して戦勝祈願をしたのち馬加城を攻め落とし、6月12日、千葉陸奥入道の子・胤持を上総国八幡(市原市八幡町)で討ち取り、京都へその首を運んで晒したという(『千学集抜粋』)。一方、千葉陸奥入道も11月1日、上総国八幡の村田川で討死を遂げた。享年五十九と伝わる。

 千葉陸奥入道戦死の数日前の10月25日、岩橋輔胤(千葉介氏胤曾孫)が「下総国八幡庄真間法華堂根本寺領之事等」について寺領安堵しており、実質的に千葉宗家として動いていたことが伺える。同じく原胤房「屋中村」「秋山村」について弘法寺に安堵しており、岩橋輔胤原胤房両名による支配体制ができあがっていたようである。原胤房東常縁との戦いに敗れたのち、千葉陸奥入道から離れて岩橋輔胤を担いだのかもしれない。

 一方、千葉介実胤と自胤は山内上杉房顕を通じて堀越御所の支配下となるが、堀越御所の体制が俄か作りのためにまだ脆弱な状態で、兵糧料所の宛行もままならない状況にあった。実胤自胤も当所からその兵站を保つことが難しく、長禄4(1460)年早々には「千葉介窮困」という状況となっていた。堀越公方付きの執事・渋川右兵衛佐義鏡は実胤に対しての兵糧料所として「赤塚郷」を預けるよう公方政知へ頻りに申し上げていて、その結果、政知は赤塚郷を実胤の兵糧料所として認めている(『鹿王院文書』)。しかし、その後も実胤自胤の危機的状況は改善されることなく、寛正3(1462)年早々に兄・実胤「隠遁」してしまうこととなった。

 実胤の隠遁は将軍義政へ報じられ、自胤が急遽新たな千葉介と定められた。義政は実胤の「窮困」時と同様、寛正3(1462)年4月23日、「左馬頭殿(堀越公方政知)」に対して、「千葉介」が窮困しているので援助をするよう御内書を発する『将軍家御内書』。また、自胤には「舎兄七郎隠遁事、被驚思食候」として「不日令帰参之様可申含」ことを命じ、さらに「弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、早速遂本意候者、誠可為感悦候也」(『御内書案』)と、「分国(下総国)」の被官や国人と計略を巡らし、「遂本意(下総国への帰還か)」ことを指示している。『将軍家御内書』二。さらに隠遁した実胤へも「隠遁之由其聞候之条、被驚思食候、不日可有帰参候也」と、直接帰参を命じている『将軍家御内書』三

 その後、前当主実胤と千葉介自胤は元の如く、堀越公方の支配のもと、関東管領山内上杉房顕の指揮下で活動したが、寛正4(1463)年8月26日、房顕を支えた山内上杉家執事「長尾左衛門大夫入道(景仲・昌賢)」が病死。跡を四郎左衛門尉景信が継承するが、房顕の落胆は大きかったようで、昌賢死去の報を受けた将軍義政は「長尾左衛門大夫入道死去之由其聞候、不便候、心中併被察思召候也」という御内書を送っている(『御内書案』)。しかし、房顕はついに関東管領職を辞することを決意し、堀越御所ならびに幕府へ職上表を提出した。これを受けた将軍義政は12月26日、「職事辞退之條、不可然候、如先々可有輔佐也」とその辞職を慰留して、これまで通り堀越公方政知の補佐を命じたことから、房顕は関東管領職に留まった。しかしそれからわずか二年余りのちの寛正7(1466)年2月12日、数年来滞陣を続けた五十子の陣中で卒した。

 山内上杉房顕には継嗣がなく、長尾景信の尽力によって房顕の族子・上杉顕定が当主と定められたが、この頃、実胤千葉介自胤の兄弟は、故長尾景仲入道と比肩される扇谷上杉家の執事・太田備中守資清(景仲女婿)を頼るようになったのかもしれない。

 長尾景仲―+―長尾景信―――+―長尾景春
(左衛門尉)|(四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉)
      |        |
      |        +――娘
      |        |  ∥
      |        |+―千葉介自胤
      |        ||(千葉介)
      |        ||
      |        |+――――――――――――千葉介実胤
      |        |             (千葉介)
      |        |              ∥
      |        |      +―上杉顕房――娘
      |        |      |(修理大夫)
      |        |      |
      |        |      +―三浦介高救
      |        |      |(三浦介)
      |        |      |
      |        | 上杉持朝―+―上杉定正
      |        |(修理大夫) (修理大夫)
      |        |        ∥
      |        +――――――――娘
      |                   
      +―長尾忠景―――――娘
      |(孫六)      ∥
      |          ∥
      +―娘        ∥
        ∥――――――――太田資長
        ∥       (太田道灌)
        太田資清    
       (太田道真)

 その後、千葉七郎実胤は扇谷上杉家前当主・故上杉顕房の娘を娶って扇谷上杉家の「縁者」になっているが、これは太田道真の手配によるものか。一方、太田道真は将軍義政の意向を奉じて、千葉介自胤を下総国へ送り込む支援をしていたと思われるが、このことが兄の前当主・七郎実胤との確執を生むこととなったと思われる。

 文明3(1471)年4月、関東管領の山内上杉顕定は、古河御所を攻め落とすべく、幕府と連携して執事・長尾四郎左衛門尉景信の軍勢を下野国に派遣した。これに成氏を支え続けた小山下野守持政が幕命に従って恭順し、さらに小田太郎成治佐野愛寿ら諸大名も幕命に応じて長尾勢に合流。足利庄に攻め入り、4月15日には足利庄赤見城を攻略し、樺崎城も攻め落とし、古河公方の重臣である「南式部大輔父子」を討ち取っている(『豊嶋勘解由左衛門尉宛感状』:豊島宮城文書)。さらに5月には古河城に攻め寄せて、成氏奉公衆の沼田・高・三浦などを討ち取り、6月24日、古河城を攻め落とした。そして「成氏古河城没落、移千葉館」「古河没落、御陣千葉御動座」(『鎌倉大日記』)とあり、千葉介孝胤を頼って千葉館へと落ちて行った。同年7月21日には千葉介無二補佐申之際、先以御心安候」という書状を茂木式部大夫(茂木持朝)のもとへ送っており、孝胤から手厚い保護を受けていたことがうかがえる(『足利成氏書状』茂木文書)

 山内上杉顕定は古河陥落と成氏の千葉御移座に絡み、七郎実胤を「胤直一跡」として下総千葉家の当主「千葉介」とすべく画策し「上杉より下総へ指遣」したとみられる。成氏と孝胤の間を揺さぶる目的もあったのだろう。しかし「成氏より孝胤を贔屓にて千葉に居をかれける間、実胤を千葉城へ入部不叶」ず、実胤は「武州石浜葛西辺を知行して時を待て居」ったという(『鎌倉大草紙』)。葛西庄は山内上杉氏の被官である大石石見守が抑えており、この頃実胤は山内上杉氏の指揮下にあったことが察せられる。そしてその後、実胤は大石石見守の招きを受けて葛西城に赴き、「公方様内々被申旨」を受けている。この事について、扇谷上杉家の執事・太田道灌は後年、「千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候」と、扇谷上杉家縁者であるが、山内上杉家側の招きを受けた、と記している。

◎『太田道灌状』(『北区史』中世編所収)

 千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候、公方様内々被申旨候、雖然孝胤出頭事候之間無御許容、濃州江流落候、

 この実胤の動きは、扇谷上杉家が自胤を「灌公収在武者」(『梅花無尽蔵』)とある通り、弟の千葉介自胤を推していることへの反発であろうとみられ、さらに古河公方成氏の内諾を得る所まで山内上杉家と古河公方成氏との間で話が進んでいたことをうかがわせる。しかし、この成氏の裏切り行為を知った千葉介孝胤は成氏のもとに「出頭」して抗議したことから、「無御許容」こととなってしまい、実胤は「濃州江流落」した『太田道灌状』。この葛西対話の時期については、成氏方が古河城を回復する動きが活発となった文明3(1471)年後半の出来事と思われ、成氏方に属する結城氏広(結城城主)は鶴岡八幡宮別当であった成氏の弟・尊せん (社家様)を奉じて、一族の白河結城直朝へ加勢を依頼し、成氏は千葉から古河城へ進発。文明4(1472)年2月、古河城を奪還した。

 古河周辺から退いた山内上杉勢は、最前線基地である武蔵国五十子(本庄市)に戻り、利根川を挟んで成氏勢と対峙していたが、翌文明5(1473)年11月24日、扇谷上杉修理大夫政真が二十二歳の若さで討死を遂げ、叔父・扇谷上杉定正が扇谷上杉家を継ぐこととなる。

 文明5(1473)年6月、山内上杉家執事・長尾左衛門尉景信(玉泉庵)が亡くなった。山内上杉右馬助顕定入道は、その跡として景信の弟・長尾尾張守景忠を任じたが、これに景信の嫡子・長尾四郎右衛門尉景春が激しく反発し、山内上杉家を退転して古河公方成氏と通じ、石神井城主の豊島勘解由左衛門尉泰経豊島平衛門尉泰明兄弟をはじめ、麾下の人々を語らって挙兵した。

●山内上杉家宰長尾家

 長尾景仲―+―長尾景信――長尾景春
(左衛門尉)|(左衛門尉)(四郎右衛門尉)
      |
      +―長尾景忠
       (尾張守)

山内上杉家
扇谷上杉家
古河公方
(山内)上杉右馬助顕定入道 足利成氏
(扇谷)上杉修理大夫定正 長尾四郎右衛門尉景春
(山内執事)長尾尾張守景忠 豊島勘解由左衛門尉泰経
(扇谷執事)太田備中入道道真 豊島平衛門尉泰明
太田左衛門入道道灌  
太田図書助資忠  
上杉刑部少輔朝昌  
三浦介義同  
千葉介自胤  

 長尾景春は文明8(1476)年に武蔵国鉢形城(大里郡寄居町)へ移り、文明9(1477)年正月18日に五十子(本庄市西五十子)に布陣していた山内・扇谷上杉勢を急襲。山内顕定・扇谷修理大夫定正らは太田備中入道道真を殿軍として退却し、利根川を渡り、上野国那波庄まで退いた。

 主家の危機に対し、昨年10月から江戸城にあった太田左衛門入道道灌(道真の子)は3月18日、長尾景春に属する溝呂木城(厚木市)と小磯城(中郡大磯町)の越後五郎四郎を攻め落とし、金子掃部助の守る小沢城(愛甲郡相川町)にも攻め寄せた 。

 道灌はさらに弟・太田図書助資忠河越城(川越市)に派遣し、江戸城には上杉刑部少輔朝昌(扇谷定正弟)・三浦介義同(扇谷定正甥)、千葉介自胤を入れて守らせた。

 一方、長尾景春は矢野兵庫助を河越城攻略のために派遣し、4月10日、河越城将・太田資忠らと勝原にて合戦となり、長尾勢は大敗した。13日には太田道灌、上杉朝昌、千葉介自胤らと景春与党の豊島泰経、泰明が江古田・沼袋(中野区江古田)で激戦となり、豊島泰経が討死を遂げているが、この戦いでは自胤みずから太刀を振るって奮戦したという『太田道灌状』

 景春はその後、太田道灌の軍勢に敗れ、武蔵国鉢形城に逃れた。これを知った古河公方・足利成氏は、7月初旬、景春を救援すべく、結城、那須、佐々木、横瀬らを供として自ら出陣して山内上杉顕定・扇谷上杉定正と合戦し、上野国白井まで追い落とした。

 10月に入ると、景春長尾六郎為景(越後長尾家)は公方からの加勢を得て、荒巻に布陣して上杉勢を待ち受けたが、上杉勢は戦わずに退いたので、そのまま帰陣。文明9(1477)年10月、上野国広馬場の戦いを最後に、両上杉家と古河公方の間に和議が整い、翌文明10(1478)年正月2日、成氏は武蔵国成田(熊谷市上之)へ引き上げた。正月24日には、扇谷定正も太田道灌とともに河越城へと引き上げ、成氏と上杉家の二十年にわたる戦乱は収束した。

―境根原合戦~臼井合戦―

臼井城
臼井城本丸より三の丸を望む

 千葉介孝胤はかつて古河を追われた成氏を下総千葉庄に保護するなど、一貫して成氏を擁護していたが、文明10(1478)年正月の成氏・上杉家の和睦には大反対した。このため成氏と孝胤の関係は悪化。これを好機と見た扇谷上杉定正の家宰・太田道灌は古河に遣いを送って孝胤追討の許しを足利成氏から得ることに成功した。

 承諾を得た道灌は、千葉介自胤を下総の主とするべく、各地で太田勢を率いる弟・太田資忠を自胤に付随させ、万全の態勢をとって下総へ攻め込んだ。おそらくこのころ、万里集九は千葉介自胤へ献上する扇(西湘八景が描かれている)の賛を某氏から依頼されており、その賛が『梅花無尽蔵』掲載されている。

 太田・自胤勢は太日川を渡河して葛飾郡へ進み、 千葉介孝胤の軍勢と対峙。「十二月十日、於下総境根原、令合戦得勝利」『太田道灌状』と、千葉介孝胤の軍勢を潰走させた(境根合戦)。このとき千葉介孝胤の先陣となって展開していた原二郎、木内、津布良左京亮、匝瑳勘解由といった将士数百人が討死を遂げており、孝胤は敗残の軍勢をまとめて臼井城(印旛郡臼井台)へ退いて籠城した。

太田図書の墓
太田図書資忠の墓(臼井城内)

 翌文明11(1479)年正月18日、太田勢と自胤は孝胤を追って臼井城を包囲した。しかし孝胤が籠った臼井城は「惣構」で知られる堅城であり、攻めあぐねた。このため太田・自胤勢からは帰国してしまう者が続出。自胤はただちに陣へ戻るよう命じたが従わず、臼井城に攻め入った太田道灌の弟・図書助資忠は討死を遂げた『太田道灌状』。結果、太田勢と自胤は臼井城を攻め落とすことができず、武蔵国へ帰国していった。討たれた太田図書の遺体は臼井城下に丁重に葬られた。

 しかし、退却したはずの千葉介自胤のもとには、「海上備中守」「武田上総介(信隆?)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服し、武田参河入道は子息・式部丞(信嗣?)を国元に残してみずから武蔵国へと赴いている『太田道灌状』。武蔵石浜へ移った武田信興入道は、金龍山浅草寺を再建し、その後ふたたび上総長南城に戻った。上総武田氏は小弓原氏と対立しており、上杉家との関係強化を狙ったものと思われるが、遠く離れた海上備中守が自胤に通じた理由は不明。同じころに海上氏では「海上芳翁」の嫡男「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され、弟「海上正翁」が継いだといったような内部抗争が起こっており(『千学集抜粋』)、これが関係しているのかもしれない。

●『御土御門天皇綸旨写』(『武州文書』)

 就当寺回禄、上総国住人武田参河入道道鑑可建立云々、神妙之至無比類者也、禰宜奉祈宝祚長久者、天気如此、悉之以状、
 
  明応八年七月九日  右少弁(花押:勧修寺尚顕)
  
   武州金龍山浅草寺衆僧中

 『鎌倉大草子』には、自胤はこの後臼井城を陥れて城代を置いたとされているが、太田勢と自胤の手勢で落ちなかった城が、自胤勢だけで陥落するとは思えず、自胤が武蔵へ帰国した事実があることから、臼井城は陥落せず、上杉氏の下総攻略は失敗したといえる。

 太田道灌、千葉介自胤は境根合戦よりも前から下総への侵入を試みていたと思われ、原氏の被官であったと推測される高城一族が文明8(1476)年に相次いで没している各地の高城一族。高城氏の領地は江戸川沿岸を堤防のように配置されていること、ちょうど文明年中から歴史上に姿を見せはじめることから、この地の領主であった原一族が、被官の高城氏を同地に配したか、土地の有力豪族「高木」氏を取り立てたとも思われる。

没年 月日 名前 場所
文明6(1474)年 6月16日 妙林尼 我孫子(我孫子市)
文明8(1476)年 3月21日 高城孫八 馬橋(松戸市馬橋) 
4月2日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
10月17日 妙泉尼 我孫子(我孫子市) 
文明14(1482)年 閏7月28日 高城六郎左衛門 花井(?)
文明15(1483)年 3月7日 高城安芸入道 馬橋(松戸市馬橋) 
延徳2(1490)年 閏7月19日 高城新右衛門 栗ヶ沢(松戸市栗ヶ沢)
延徳4(1492)年 6月17日 高城彦六 花井(?)
明応4(1495)年 6月17日 高城安芸道友入道 馬橋(松戸市馬橋) 
明応6(1497)年 2月29日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正10(1513)年 1月9日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
永正11(1514)年 7月27日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正12(1515)年 2月25日 高城和泉守 我孫子(我孫子市) 

 自胤は明応2(1493)年12月6日、武蔵国三間田(墨田区墨田五丁目)で没した(『本土寺過去帳』)。享年不詳。法名は松月院殿。実胤の美濃隠遁ののち、自胤が継承した兵糧料所の赤塚郷は済し崩し的に武蔵千葉氏の知行地となり、自胤は延徳4(1492)年に赤塚郷内の鎌倉時代以来の古刹宝持寺を中興して、開基となって菩提寺とし、延徳4(1492)年11月5日、赤塚郷内の知行地から上がる年貢から計二十二貫文余と赤塚郷戸田(戸田市戸田)・袋野(不詳)を寄進することを約している『千葉玄参寄進状写』。寺号の「松月院」は自胤の法名に因んで付けられたものか。すでに赤塚郷は武蔵千葉氏の私領となっていたことがうかがえる。

 松月院の境内には自胤(千葉介自秀)の墓と伝わる宝篋印塔や妻室と伝える女性(龍興院殿了室覚公大姉)の墓(延徳元(1489)年9月15日没)が遺されている。

●系譜上で彼の兄の孫にあたる「二郎太郎良胤」という人物の法名は松月院であり、さらに良胤は「自秀」、松月院に伝わる「千葉介自秀」の位牌の法名は「松月院殿南州玄参大禅定門」であることから、自胤=良胤=自秀=玄参=松月院であろう。ただし、松月院の自秀位牌に見える没年は「永正三丙寅(1506)六月二十三日」とあり、『本土寺過去帳』の自胤没年である明応2(1493)年12月6日とは13年の開きがある。

●明応元(1492)年11月5日『千葉玄参寄進状写』(『松月院文書』)

 
 奉寄進 宝持寺
 
  赤塚郷年貢之内、弐拾貫文、同谷田之年貢弐貫文、并平沼作田伍反、
  同郷内戸田、袋野之事、永代可有御成敗状、如件、
 
    延徳四年十一月五日  玄参(花押)
 
     宝持寺

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 参考までに、千葉自胤と同一人物と思われる「千葉自秀」「千葉良胤」「千葉惟胤」の事歴を下に記載。

▲千葉自秀(????-1506)

『千葉大系図』によれば、千葉介兼胤の弟。通称は七郎二郎。法号は元三

▲千葉良胤(????-1506)

 『千葉大系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は二郎。『松羅館本千葉系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は次郎。号は松月院(=千葉自胤)。「良」と「自」の誤記が伝わっていると思われる。

 具体的な事歴はなく、永正3(1506)年6月23日に亡くなったとされる。法名は松月院南州玄参

▲千葉惟胤(????-????)

 『千葉大系図』によれば、千葉良胤の子。通称は二郎太郎。大系図の中では「雅胤」『松羅館本千葉系図』によれば、千葉良胤の子。通称ほか不明。「惟・自」はともに「これ」とも読まれることから、千葉自胤と同一人物を指しているのだろう。

●康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状写』(『武家事紀所収文書』)

  …略…
 
 千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心、宇都宮下野守等綱等、如合符所々江令蜂起處、
 千葉陸奥入道常義父子存貞節、属御方間、相副諸軍於総州多胡、志摩両城決雌雄、
 千葉介入道兄弟、同専一家人円城寺下野守一族以下千餘人討取候、餘党等尚以同国
 市川ニ構城郭候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討候了、
 
  …略…
 
 庶幾者速預無為御返事候者、誠以可為都鄙安泰基候、此趣具被懸尊意候者、所仰候、
 恐々謹言
 
   四月四日
                      成氏
    三條殿

●『東野州聞書』(『群書類従』所収)

  …略…
 
 康正元十一月廿四日於馬加ノ合戦ノ時ハ、御方ニ旗の手を吹かくるといへども、
 得勝利又同二年正月十九日敵に旗ノをかく、然共御方成敗軍如何、若不定の事なり、
 原越後守御対治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也

●『太田道灌状』①(『北区史』所収)

 一、千葉介孝胤御退治事、古河様江申成、自胤為合力向彼国、当方進発事好様存方も候歟、
   既都鄙御合体不庶幾旨、自最初孝胤被申者無覚悟候、特景春許容候之上、自胤為本意、
   鉢形様修理大夫彼方へ有御談合、関東御無為儀者、於以後小人頭不可出候間、
   以旁々儀廻其略、十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年向臼井城被寄陣候、
   長陣事候之間諸勢打帰難事成候之間、可被寄御旗旨度々被申候処無其儀候間、
   果而及凶事帰国候、雖然下総海上備中守上総州ニハ上総介武田三河入道者
   子息式部丞
国差置、自胤方令帰服当国へ罷越候、両国為体如比候之間、於臼井城下
   同名図書助中納言以下親類、傍輩、被官人等数輩致討死候、比矢取合致校量候之処、
   遥御方御徳分候、其故者、知已前両総州為全、古河様御刷、如今者恐者可為御大儀候歟、

●『太田道灌状』②(『北区史』所収)

 一、自胤事者、江古田原合戦時、刑部少輔一所馳加、自身被打太刀、上州自御下向刻、
   江戸城へ籠給候、彼家風中度々合戦、動無比類候、
 

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(1)

 千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年以下数輩討死候畢、
 連年在陣困窮之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意之状如件

   卯月廿三日      
    左馬頭殿 

●『太田道灌状』

 千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候、
 公方様内々被申旨候、雖然孝胤出頭事候之間無御許容、濃州江流落候、

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(2)

 舎兄七郎隠遁事、被驚思食候、不日令帰参之様可申含、
 数年在陣困窮推察候、弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、
 早速遂本意候者、誠可為感悦候也

   卯月廿三日     
    千葉介殿

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(3)

 隠遁之由其之聞候之條、被驚思食候、不日可有帰参候也

   卯月廿三日
    千葉七郎とのへ

●『梅花無尽蔵』(『五山文学新集』第六:『北区史』所収)

    便面 八景、或需讃、献千葉、蓋上総下総、千葉所管也、今寓武州者
       与上下総之千葉矛盾、一門分為二、灌公救在武者
 
  雪月碧湘煙雨後、漁歌鐘色送飛鴻、片帆千里売花市、上下総帰君握中
 
   蓋祝寓武之千葉惟種

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