千葉自胤

武蔵千葉氏

○武蔵千葉氏○

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千葉胤賢
(????-1455)
千葉実胤
(1442?-????)
千葉介自胤
(????-1493)
千葉介守胤
(1475?-1556?)
千葉胤利
(????-????)
千葉胤宗
(????-1574)
千葉直胤
(????-????)

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千葉介自胤(????-1493)

生没年 ????〜明応2(1493)年12月6日?
通称 次郎
千葉中務大輔胤賢
不明
某氏(龍興院殿了室覚公大姉)
官位 不明
官職 不明
幕府役 千葉介
所在 武蔵国石浜? 赤塚?
道号 玄参
法号 松月院殿
墓所 万吉山宝持寺松月院殿

 武蔵千葉氏二代。千葉中務大輔胤賢の次男。母は上杉修理大夫顕房娘か。通称は二郎。諱の「自胤」「これたね」と読む。武蔵国へ逃れたのち、下総を回復するために戦った武将。法名は玄参か。

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)
       |       |       |
       |       |       +―千葉胤賢 +―千葉実胤
       |       |        (中務丞) |(七郎)
       |       |          ‖   |
       |       |          ‖―――+―千葉介自胤―――千葉介守胤
       |       | 扇谷顕房―――――娘    (武蔵千葉介) (武蔵千葉介)
       |       |(修理大夫)
       |       |
       |       +―馬加康胤――+―胤持           +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
       |        (陸奥守)  |              |(千葉介)  (千葉介)
       |               |              |
       |               +―女            +―成戸胤家
       |                              |(成戸殿)
       |                              |
       +―馬場重胤――――胤依――――+―金山殿  +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
        (八郎)           |      |(千葉介)          (物井殿)
                       |      |
                       +―公津殿  +―成身院源道―+―光言院源秀
                       |      |(菊間御坊) |
                       |      |       |
                       +―岩橋輔胤―+―椎崎胤次  +―天生院源長
                        (岩橋殿)  (入道道甫)

 亨徳4(1455)年9月、父・千葉中務丞胤賢入道了心は、足利成氏と手を組んでいたといわれる一族の馬加陸奥入道原越後守胤房に香取郡小堤城に攻め殺され、自胤は兄・七郎実胤とともに八幡庄市川城へ逃れた。

国府台
武蔵国側から国府台城を望む

 一方、幕府は胤直入道らを援けて足利成氏勢を下総から追放するべく、東常縁(左近将監)を下総へ派遣した。常縁は東大社へ詣でて戦勝を祈願すると、原胤房が支配する千田庄に攻め入り、原朗珍弥富城(佐倉市岩富)の原一族を攻め滅ぼして、胤房を馬加城へと追い落とした。さらに常縁は11月24日、馬加城を陥落させ、胤房は千葉へ逃れた。

 こののち常縁は市川城に籠城する実胤・自胤と合流して市川城に入った。市川城は、現在の真間山弘法寺から国府台公園周辺であったと思われ、西側は江戸川を天然の堀とし、南も東も急崖に囲まれた要害である。

 しかし、古河公方が派遣した梁田氏・南氏の大軍が市川城へ押し寄せ、千葉実胤、自胤、東常縁らは市川城に籠城して防いだが、援軍のない市川城は次第に戦況が悪化。寄手の古河公方勢からは降伏を勧める使者が市川城に幾度も遣わされていた。このときに常縁が詠んだと思われる歌が残されている(『東家詠草脱漏聞書』)

 籠城しける時 よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける
 
  命やはうきなにかへんよの中に ひとりとヽまる習あれとも 

 翌康正2(1456)年正月19日、市川城は陥落康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状写』『東野州聞書』。実胤・自胤は城を逃れ、実胤は石浜城へ、自胤は赤塚城に拠って上杉家の庇護を受けることとなった。一方、東常縁は匝瑳郡(八日市場市)へと逃れた。

 東常縁は2月7日、匝瑳郡の惣社・老尾神社に阿玉郷(香取市阿玉)中から三十石を寄進して戦勝祈願をしたのち馬加城を攻め落とし、6月12日、馬加陸奥守入道常義の子・胤持を上総国八幡(市原市八幡町)で討ち取り、京都へその首を運んで晒したという(『千学集抜粋』)。一方、陸奥入道も11月1日、上総国八幡の村田川で討死を遂げた。享年59歳といわれる。

 馬加陸奥入道戦死の数日前の享徳5(1456)年10月25日、岩橋輔胤(千葉介氏胤曾孫)が「下総国八幡庄真間法華堂根本寺領之事等」について寺領安堵しており、実質的に千葉宗家として動いていたことが伺える。同じく原胤房も「屋中村」「秋山村」について弘法寺に安堵しており、輔胤・胤房両名による支配体制ができあがっていたようである。原胤房は常縁との戦いに敗れたのち、馬加陸奥入道から離れて岩橋輔胤を担いだのかもしれない。

 一方、武蔵千葉氏は寛正3(1462)年4月23日『御内書案』@によれば「千葉介(自胤か)」が困窮している事が記され、将軍・義政は伊豆堀越の弟・足利政知(左馬頭)へ援助を命じた。しかし、赤塚城に拠っていたと思われる「舎兄七郎(実胤)」は下総帰還の望みが千葉介孝胤によって妨げられた『太田道灌状』Bことなどを落胆してか、出奔してしまった寛正3(1462)年4月23日『御内書案』A。このときの宛名は「千葉介殿(自胤)」であり、「舎兄七郎(実胤)」は千葉介に就任した形跡がないことから、実胤は兄でありながら家督は継がず、弟・自胤が幕府に認められた千葉宗家=千葉介を継承していたと考えられる。このことも実胤が出奔した一因なのかもしれない。

 文明5(1473)年6月、山内上杉家の名家宰・長尾左衛門尉景信(玉泉庵)が亡くなったため、当主・上杉右馬助顕定入道は景信の弟・長尾尾張守景忠を家宰とした。これに怒ったのが景信の嫡子・長尾四郎右衛門尉景春であった。彼は主家の山内上杉家に謀反して古河公方・足利成氏と通じ、豊島勘解由左衛門尉泰経豊島平衛門尉泰明兄弟をはじめ、武蔵の豪族を語らって挙兵した。

●山内上杉家宰長尾家

 長尾景仲―+―長尾景信――長尾景春
(左衛門尉)|(左衛門尉)(四郎右衛門尉)
      |
      +―長尾景忠
       (尾張守)

山内上杉家
扇谷上杉家
古河公方
上杉右馬助顕定入道 足利成氏
扇谷定正 長尾四郎右衛門尉景春
長尾尾張守景忠 豊島勘解由左衛門尉泰経
太田備中入道道真 豊島平衛門尉泰明
太田左衛門入道道灌  
太田図書助資忠  
上杉刑部少輔朝昌  
三浦介義同  
千葉介自胤  

 長尾景春は文明8(1476)年に武蔵国鉢形城(大里郡寄居町)へ移り、五十子(本庄市西五十子)の山内・扇谷上杉勢を襲った。山内顕定・扇谷修理大夫定正らは翌文明6(1474)年正月19日、太田備中入道道真を殿軍として利根川を渡り、上野国那波庄まで退却した。

 主家の危機に対し、昨年10月から江戸城にあった太田左衛門入道道灌(道真の子)は3月18日、長尾景春に属する溝呂木城(厚木市)と小磯城(中郡大磯町)の頭越後五郎四郎を攻め落とし、金子掃部助の守る小沢城(愛甲郡相川町)にも攻め寄せた 。

 道灌はさらに弟・太田図書助資忠河越城(埼玉県川越市)に派遣し、江戸城には上杉刑部少輔朝昌(扇谷定正弟)・三浦介義同(扇谷定正甥)、千葉介自胤を入れて守らせた。

 一方、長尾景春は矢野兵庫助を河越城攻略のために派遣し、4月10日、河越城将・太田資忠らと勝原にて合戦となり、長尾勢は大敗した。13日には、太田道灌、上杉朝昌、千葉介自胤らが長尾景春与党の豊島泰経、泰明と江古田・沼袋(中野区江古田)にて合戦となり、豊島泰経が討死を遂げた。また、この戦いは自胤がみずから剣を振るって奮戦したという『太田道灌状』

 景春はその後、太田道灌の軍勢に敗れ、武蔵国鉢形城に逃れた。これを知った古河公方・足利成氏は、7月初旬、景春を救援すべく、結城、那須、佐々木、横瀬らを供として自ら出陣したため、山内上杉顕定・扇谷上杉定正は敗れて、本拠である上野国白井まで退いて陣をとった。

 10月に入ると、景春と長尾六郎為景(越後長尾家)は公方からの加勢を得て、荒巻というところに陣を取った。守りに適した場所で待ち受けていたが、敵勢が攻めかけずに退いたので、そのまま帰陣した。 その後、明くる正月元旦、寺尾上野介を使者として、簗田中務から長尾左衛門尉の元に、「上杉と和談したい」と言って来たため、和談がととのい、合戦をやめて陣払いした。

 文明9(1477)年10月、上野国広馬場の戦いを最後に、両上杉家と古河公方の間に和議が整い、翌文明10(1478)年正月2日、成氏は武蔵国成田(熊谷市上之)へ引き上げた。正月24日には、扇谷定正も太田道灌とともに河越城へと引き上げ、成氏と上杉家の二十年にわたる戦乱は収束した。

―境根原合戦〜臼井合戦―

臼井城
臼井城本丸より三の丸を望む

 千葉介孝胤はかつて古河を追われた成氏を下総千田庄に保護するなど、一貫して成氏を擁護していたが、文明10(1478)年正月の成氏・上杉家の和睦には大反対した。このため成氏と孝胤の関係は悪化し、これを好機と見た上杉顕定の家宰・太田道灌は古河に遣いを送って孝胤追討の許しを足利成氏から得ることに成功した。

 承諾を得た道灌は、上杉家の血を引く千葉介自胤を下総の主とするべく、小田原城主・大森実頼に出兵を命じ、さらに渋川左衛門佐(探題家)へも出兵を要請した。そして、各地で太田勢を率いる弟・太田資忠を自胤に付随させ、万全の態勢をとって下総へ攻め込んだ。おそらくこのころ、万里集九が千葉介自胤へ宛てた手紙の文面と思われる漢詩が、万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』掲載されている。

 一方、長尾景春とともに武蔵国を転戦していた千葉介孝胤は、成氏との関係が冷えたためか下総国へ戻っており、太田・自胤勢が江戸川を渡って下総へ攻め入ったことを知ると、原氏・木内氏らを先陣として境根原(柏市酒井根)に軍勢を展開し、12月10日、両勢の間で大激戦となった(境根合戦)。この境根合戦で、千葉介孝胤勢の原二郎、木内、津布良左京亮、匝瑳勘解由といった将士数百人が討死を遂げ大敗。孝胤は敗残の軍勢をまとめて臼井城(印旛郡臼井台)に籠城した『太田道灌状』

太田図書の墓
太田図書資忠の墓(臼井城内)

 翌文明11(1479)年正月18日、自胤は孝胤を追って臼井城を包囲した。しかし孝胤が籠った臼井城は、周辺の諸城を外郭とした「惣構」で知られる堅城のうえに、知将・臼井俊胤が守っており、長帯陣となってしまった。このため太田・自胤勢からは帰国してしまう者が続出。自胤はただちに陣へ戻るよう命じたが従わず、急ぎ臼井城に攻め込んだ猛将・太田資忠(図書助)は討死を遂げた『太田道灌状』。さらに多数の戦死者を出して自胤は武蔵へ帰国した。臼井城内の高台には図書の墓が丁重に祀られている。

 しかし、退却したはずの千葉介自胤のもとには、「海上備中守」「武田上総介(信隆?)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服し、武田参河入道は子息・式部丞(信嗣?)を国元に残してみずからは自胤とともに武蔵国へと赴いている『太田道灌状』。武蔵石浜へ移った武田信興入道は、金龍山浅草寺を再建し、その後ふたたび上総長南城に戻った。上総武田氏は小弓城の原氏と対立していて上杉家と結ぼうと考えた結果と思われるが、遠く離れた銚子の海上備中守がなぜ自胤に通じたかは不明。同じころに海上氏では「海上芳翁」の嫡男「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され、弟「海上正翁」が継いだといったようなお家騒動のようなものが起こっていたとされ(『千学集抜粋』)、これが関係しているのかもしれない。

●『御土御門天皇綸旨写』(『武州文書』)

 就当寺回禄、上総国住人武田参河入道道鑑可建立云々、神妙之至無比類者也、
 禰宜奉祈宝祚長久者、天気如此、悉之以状、
 
  明応八年七月九日  右少弁(花押:勧修寺尚顕)
 
  武州金龍山浅草寺衆僧中

 『鎌倉大草子』には、自胤はこの後臼井城を陥れて城代を置いたとされているが、数か月の攻撃にも耐え抜き、太田図書という大将を討ち取るほど士気のある城が、自胤の手勢だけで陥落するとは思えず、自胤が武蔵へ帰ってしまっていることを考えると上杉氏の下総攻略は失敗したといえる。戦死した太田図書の遺体は臼井城下に丁重に葬られた。

 太田道灌、千葉介自胤は境根合戦よりも前から下総への侵入を試みていたと思われ、原氏の被官であったと推測される高城一族が文明8(1476)年に相次いで没している各地の高城一族。高城氏の領地は江戸川沿岸を堤防のように配置されていること、ちょうど文明年中から歴史上に姿を見せはじめることから、この地の領主であった原一族が、被官の高城氏を同地に配したか、土地の有力豪族「高木」氏を取り立てたとも思われる。

没年 月日 名前 場所
文明6(1474)年 6月16日 妙林尼 我孫子(我孫子市)
文明8(1476)年 3月21日 高城孫八 馬橋(松戸市馬橋) 
4月2日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
10月17日 妙泉尼 我孫子(我孫子市) 
文明14(1482)年 閏7月28日 高城六郎左衛門 花井(?)
文明15(1483)年 3月7日 高城安芸入道 馬橋(松戸市馬橋) 
延徳2(1490)年 閏7月19日 高城新右衛門 栗ヶ沢(松戸市栗ヶ沢)
延徳4(1492)年 6月17日 高城彦六 花井(?)
明応4(1495)年 6月17日 高城安芸道友入道 馬橋(松戸市馬橋) 
明応6(1497)年 2月29日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正10(1513)年 1月9日 高城彦四郎 我孫子(我孫子市) 
永正11(1514)年 7月27日 高城周防守 我孫子(我孫子市) 
永正12(1515)年 2月25日 高城和泉守 我孫子(我孫子市) 

 自胤は明応2(1493)年12月6日、武蔵国三間田(三ツ又か?)で没した(『本土寺過去帳』)。享年不詳。法名は松月院殿。自胤が拠っていたといわれる赤塚城址には妙見社がのこり、城の南にある松月院は自胤が開基と伝えられ、妻(龍興院殿了室覚公大姉)の墓が残されている。妻は延徳元(1489)年9月15日に亡くなったという。

●系譜上で彼の兄の孫にあたる「二郎太郎良胤」という人物の法名は松月院であり、さらに良胤は「自秀」ともされており、実際は自胤=良胤=自秀=松月院と思われる。松月院に伝わる「千葉介自秀」の位牌の法名は「松月院殿南州玄参大禅定門」である。没年は「永正三丙寅(1506)六月二十三日」とある。『本土寺過去帳』の明応2(1493)年12月6日とは13年の開きがある。

●明応元(1492)年11月5日『千葉玄参寄進状写』(『松月院文書』)

 
 奉寄進 宝持寺
 
  赤塚郷年貢之内、弐拾貫文、同谷田之年貢弐貫文、并平沼作田伍反、
  同郷内戸田、袋野之事、永代可有御成敗状、如件、
 
    延徳四年十一月五日  玄参(花押)
 
     宝持寺
 

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 参考までに、千葉自胤と同一人物と思われる「千葉自秀」「千葉良胤」「千葉惟胤」の事歴を下に記載。

▲千葉自秀(????-1506)

『千葉大系図』によれば、千葉介兼胤の弟。通称は七郎二郎。法号は元三

▲千葉良胤(????-1506)

 『千葉大系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は二郎。『松羅館本千葉系図』によれば、千葉盛胤の子。通称は次郎。号は松月院(=千葉自胤)。「良」と「自」の誤記が伝わっていると思われる。

 具体的な事歴はなく、永正3(1506)年6月23日に亡くなったとされる。法名は松月院南州玄参

▲千葉惟胤(????-????)

 『千葉大系図』によれば、千葉良胤の子。通称は二郎太郎。大系図の中では「雅胤」『松羅館本千葉系図』によれば、千葉良胤の子。通称ほか不明。「惟・自」はともに「これ」とも読まれることから、千葉自胤と同一人物を指しているのだろう。

●康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状写』(『武家事紀所収文書』)

  …略…
 
 千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心、宇都宮下野守等綱等、如合符所々江令蜂起處、
 千葉陸奥入道常義父子存貞節、属御方間、相副諸軍於総州多胡、志摩両城決雌雄、
 千葉介入道兄弟、同専一家人円城寺下野守一族以下千餘人討取候、餘党等尚以同国
 市川ニ構城郭候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討候了、
 
  …略…
 
 庶幾者速預無為御返事候者、誠以可為都鄙安泰基候、此趣具被懸尊意候者、所仰候、
 恐々謹言
 
   四月四日
                      成氏
    三條殿

●『東野州聞書』(『群書類従』所収)

  …略…
 
 康正元十一月廿四日於馬加ノ合戦ノ時ハ、御方ニ旗の手を吹かくるといへども、
 得勝利又同二年正月十九日敵に旗ノをかく、然共御方成敗軍如何、若不定の事なり、
 原越後守御対治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也

●『太田道灌状』@(『北区史』所収)

 一、千葉介孝胤御退治事、古河様江申成、自胤為合力向彼国、当方進発事好様存方も候歟、
   既都鄙御合体不庶幾旨、自最初孝胤被申者無覚悟候、特景春許容候之上、自胤為本意、
   鉢形様修理大夫彼方へ有御談合、関東御無為儀者、於以後小人頭不可出候間、
   以旁々儀廻其略、十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年向臼井城被寄陣候、
   長陣事候之間諸勢打帰難事成候之間、可被寄御旗旨度々被申候処無其儀候間、
   果而及凶事帰国候、雖然下総海上備中守上総州ニハ上総介武田三河入道者
   子息式部丞
国差置、自胤方令帰服当国へ罷越候、両国為体如比候之間、於臼井城下
   同名図書助中納言以下親類、傍輩、被官人等数輩致討死候、比矢取合致校量候之処、
   遥御方御徳分候、其故者、知已前両総州為全、古河様御刷、如今者恐者可為御大儀候歟、

●『太田道灌状』A(『北区史』所収)

 一、自胤事者、江古田原合戦時、刑部少輔一所馳加、自身被打太刀、上州自御下向刻、
   江戸城へ籠給候、彼家風中度々合戦、動無比類候、
 

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(1)

 千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年以下数輩討死候畢、
 連年在陣困窮之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意之状如件

   卯月廿三日      
    左馬頭殿 

●『太田道灌状』

 千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候、
 公方様内々被申旨候、雖然孝胤出頭事候之間無御許容、濃州江流落候、

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(2)

 舎兄七郎隠遁事、被驚思食候、不日令帰参之様可申含、
 数年在陣困窮推察候、弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、
 早速遂本意候者、誠可為感悦候也

   卯月廿三日     
    千葉介殿

●寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』(3)

 隠遁之由其之聞候之條、被驚思食候、不日可有帰参候也

   卯月廿三日
    千葉七郎とのへ

●『梅花無尽蔵』(『五山文学新集』第六:『北区史』所収)

    便面 八景、或需讃、献千葉、蓋上総下総、千葉所管也、今寓武州者
       与上下総之千葉矛盾、一門分為二、灌公救在武者
 
  雪月碧湘煙雨後、漁歌鐘色送飛鴻、片帆千里売花市、上下総帰君握中
 
   蓋祝寓武之千葉惟種

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