●房総平氏の古族・原氏●
原氏は、房総平氏の一族でも比較的古い氏で、平安時代後期、千葉大夫常長の三男である鴨根三郎常房の四男・四郎常宗が、下総国香取郡千田庄原郷(香取郡多古町染井付近)に入って「原」を称したのをはじまりとする。常宗の子孫は原氏、飯竹氏、岩部氏、仁戸田氏、大原氏、佐野氏、鞍持氏らが系譜から確認できる(原氏略系図) 。また、常宗の弟・八郎常盛も千田庄次浦村(香取郡多古町次浦)を領して次浦を称し、その末裔も千田庄内に住して千田氏・岩澤氏・江指氏が発生している。
鴨根三郎常房は、兄の千葉次郎大夫常兼、弟の相馬五郎常晴と同母兄弟であり(八弟常継も可能性あり)、それぞれ父・千葉大夫常長から両総に渡る私領を譲られていたとみられる。常房はこのうち千田庄周辺と夷隅郡内に私領を有したとみられ、千田庄に展開したのが常房の三人の子(常益、常宗、常盛)を祖とする千田平氏であった。千田平氏は千葉氏、上総平氏と並ぶ独立勢力として発展するが、平安時代末期には、千田庄領家(本所は摂関家、当時は北政所平盛子か)で判官代として下向した藤原親雅がその支配を行っていたとみられる。千田庄の庄園領主が北政所平盛子であるとすると、盛子は義叔父を派遣していることになり(盛子は清盛娘であり、親政は清盛妹婿となる)、親雅の子・権大僧正快雅の生年は盛子夫である摂政基実の薨去年と同年の仁安元(1166)年であり、親雅の下総下向はこれ以降であると考えると、代替わりの一環での下向だった可能性があろう。
以降の千田平氏は、藤原親雅のもと支配が行われるが、治承4(1180)年9月の頼朝挙兵に伴い、同族の千葉介常胤一党との戦いに敗れ、旗頭の千田庄領家親雅が捕らわれて勢力を減退させると、千葉氏の被官として取り込まれることとなる。しかし、その家格はもともと宗家と同等であったためか、被官中でも最重要視される一族として継承されていくことになる。
~原氏歴代当主~
当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤信 |
通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 主水助 | |||
官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | ||
法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 |
○平常長の子息たち(『神代本千葉系図』)
名前 | 通称 | 名字地 | 現在地 |
上総権介(?)常兼 | |||
白井常親 | 次郎 | 下総国印旛郡白井郷 | 成田市南部~八街市 |
鴨根常房 | 三郎 | 上総国夷隅郡鴨根村 | いすみ市岬町鴨根 |
原 常宗 | 四郎 | 下総国香取郡原郷 | 香取郡多古町染井 |
相馬常晴 | 五郎 | 下総国相馬郡 | 茨城県北相馬郡~千葉県鎌ヶ谷市佐津間 (ただし常晴私領は我孫子市周辺のみと推測) |
大須賀常継 | 六郎? | 下総国香取郡大須賀保 | 成田市東北部 |
次浦常盛 | 八郎 | 下総国香取郡次浦村 | 香取郡多古町次浦 |
埴生常門 | 九郎 | 下総国埴生郡 | 成田市北部 |
海上常衡 (実常兼子) |
与一 | 下総国海上郡 | 海上郡 |
常遠 | ―― | ? | ? |
常綱 | ―― | ? | ? |
夷隅郡は朝廷の追討を受けた前上総介忠常が籠もった地でもあり、由緒地であった。ここに入部したのが、平常長三男・千葉三郎常房であるが、常房の子は夷隅郡から下総国香取郡内へ移り、かわって夷隅郡へ入ってきたのが、常房の弟で、のちの上総介平氏の祖となる平常晴(相馬五郎常晴)であった。常晴は夷隅郡を地盤として子供たちを上総各地へ入部させ、上総介平氏の繁栄の礎を築く事となる。
時代は下って治承4(1180)年9月、伊豆で反平家の兵を挙げた源頼朝が敗れて房総半島に逃れ、平家党の千田庄の判官代藤原親正(親雅。匝瑳北条内山館に在住)が西へ急行した。このとき、藤原親正は千田庄周辺の下総平氏一族にも出兵を命じ、「鴨根の三郎常房の孫、原の十郎太夫常継、同じく子息の平次常朝、同じく五郎太夫清常、同じく六郎常直、従夫の金原の庄司常能、同じく子息金原の五郎守常、粟飯原の細五郎家常の子息権太元常、同じく次郎顕常等」が親正とともに出陣したという(『源平闘諍録』)。
親政は頼朝を討つべく上総国府と下総国府を繋ぐ官道が走る千葉庄まで進出し、そこから官道を南下するルートを模索していたであろう親政は、「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」とあるように千葉氏による国府襲撃の一報を受け、千葉庄で常胤ら千葉一族と合戦に及んだのだろう。この戦いはこうした理由も明確な戦いであったとみられるが、後世、この戦いは妙見説話と結びつけられた合戦譚となっている。
『源平闘諍録』では寡勢の千葉小太郎成胤が親正勢に結城浜まで押された際に「僮ナル童」で具現した妙見菩薩が親正勢の矢を防ぎ、その間に「両国ノ介ノ軍兵共」が救援に駆けつけて親正を追い払ったという(『源平闘諍録』)。なお、この妙見説話は、後世、千葉介成胤の子・千葉介胤綱、千葉介時胤代に妙見信仰が千葉氏に取り入れられ(胤綱・時胤と同世代または一世代前に、同族原氏出身の如圓が妙見座主となり、その子も名は不明ながら妙見座主の人物がいる(『神代本千葉系図』))、成胤を妙見菩薩の加護を受けた特別な者と見るために創作された逸話と考えられる。なお、関東の妙見信仰は多分に平将門との結びつきが見られ、千葉氏も将門との関わりを有する伝承(良文と将門の関係、平忠常の母が将門娘、相馬氏は将門子孫等)があることから、千葉氏における将門信仰と関東の妙見信仰の親和性により容易に取り入れられたのかもしれない。
親正は皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国千田庄に下向することは考えにくい。治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領に千田庄は含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)、皇嘉門院と千田庄には関わりはなく、親政もこの時点では女院司を辞していたと思われ、「千田判官代」は皇嘉門院判官代ではなく、荘園管理者としての判官代であると考えられる。
当時の千田庄の荘園領主は不明だが、親政の出身である親通流藤原氏は摂関家家人であり、摂関家を本所としていたと思われる。千田庄は父・下総大夫親盛や祖父・下総守親通の頃に千田常益から寄進を受け、それが摂関家に寄進されていた可能性があろう。親盛は領家職を継承して千田常益を千田庄司に補して千田庄一帯を支配し、その子親政は仁安元(1166)年7月27日の基実薨去後、摂関家私領を継承した北政所・平盛子(清盛娘)のもとで摂関家領判官代として実地支配を行ったため、千田平氏の統率を行い得たと考えられる。親政下向は、現実的には清盛が妹婿を下向させた具体的な東国管理の一端であったろうが、親政は公的には摂関家家人の立場で千田庄を支配していたのである。
親政は親族が下総守を歴任しているが、いずれも二十年以上も前のことであり、父祖の直接的な恩恵を受けることはなかったであろうが、父・下総大夫親盛は「匝瑳北条」に何らかの権益を有しており、親政はそれを継承して匝瑳北条内山に屋敷を持っていた(『吾妻鏡』)。長男の快雅が生まれたのが仁安元(1166)年、次男・聖円はその後の誕生(ただし聖円は快雅の庶兄の可能性が高い)であるから、親政が下総国に下向したのは少なくとも仁安元(1166)年の摂政基通の死後と考えられ、北政所盛子(親政から見ると義姪)の代に下総に下向したとみられる。
初期房総平氏の所領(下総国) |
『源平闘諍録』では、「両国ノ介ノ軍兵共」が成胤の救援に駆けつけると、親正勢の原平次常朝、粟飯原次郎顕常が千葉勢・上総勢が駆け入って戦端が開かれるが、親正勢は大敗を喫する。そのなかで原六郎常直は重傷を負い、馬に倒れ掛かって逃れようとしたところを上総勢の天羽庄司秀常(広常弟)が彼の馬を射殪した。常直は馬から降りるも歩けず、太刀を杖にしてようやく立ち上がったところに、兄の平次常朝、五郎大夫清常が駆けつけ、清常が自分の馬に常直を乗せようとするが、すでに意識が薄れていた常直は「吾は助かるべしとも覚えず、敵すでに近づきて候、各々ここを罷り去り玉へ」と訴えたため、二人の兄はやむなく彼を打ち捨てて逃れ去った。さらに、粟飯原権太元常も射殺され、親正は千田庄へ逃れていったという(『源平闘諍録』)。
のち、この原氏(前期原氏)は千田庄を治めた千葉宗家の被官となり、同族の円城寺氏とともに千葉宗家に隠然たる力を持つこととなった。一族の岩部氏は建武年中の『氏名未詳書状』(『金沢文庫文書』「随自意抄」第七紙背)によれば、「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」が「千葉介殿」と一味同心して、大嶋城(香取郡多古町島)を攻めた際に参陣した武士として「竹元」「岩部中務」が見える。この「岩部中務」とは、系譜上の岩部中務胤永であろう。
このころ千田庄では、守護・千葉介と、千田庄領主・千田氏が対立しており、「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」は、もともと千田氏嫡子であった千田瀧楠で、千葉介と同心して実力を持って千田氏の大嶋城を攻め落としたらしい。また、「竹元」とは、千葉介の侍所(武士で侍所を持っていた家は、細川家など、微数に限られる)であった「竹元三郎左衛門尉」と同一人物だろう。『親真書状』(『金沢文庫文書』「華厳宗信解安心要文書」上紙背)には、「原三郎兵衛門是永」「吉澤進左衛門」「岩部中務」「サヽモト新左衛門尉」とあり、常宗の子孫と思われる彼ら、原氏・吉澤氏・岩部氏や、千葉侍所・竹元(篠元)氏らは鎌倉時代を千葉介の被官として千田庄に繁栄し、室町期にも在郷領主として勢力を有していたことがうかがえる。
某年の湛睿(千田庄東禅寺の住持)の書状には、「土橋寺事」について、「千葉介、図書左衛門、御寺方」へ書状を遣わした事が記され、「原四郎」へ対しても千葉介への忠勤を誓う書状を遣わしている(『金沢文庫文書』)。称名寺三世となる湛睿は貞和3(1347)年11月30日に一周忌が執り行われていることから、貞和2(1346)年以前に発給された書状であることがわかる。「土橋寺事」とは「千葉介」守護勢力と千田胤貞の千田氏との千田庄内の合戦で、東禅寺は当時、千田胤貞を外護者としていた。しかし、千田氏の敗戦によって湛睿は千葉介の側近である円城寺氏と原氏に宛てて、千葉宗家へ忠勤を励むことで東禅寺を守ろうと考えたのだろう。この「原四郎」は建武3(1336)年8月23日に東禅寺で四十九日法要が行われた「原四郎母」の子であろう。原常宗の末裔・原四郎朝胤の世代が建武年中に相当すると考えられ、朝胤の母親であるのかも(『神代本千葉系図』)。
『非母旨趣』(『金沢文庫文書』二○四一)
前期原氏は鎌倉期を通じて千葉宗家の上級被官として続いたと思われるが、室町時代に入るとこの原氏の地位をそのまま継承した後期原氏が登場する事になる。後期原氏は千葉介氏胤の子・孫四郎胤高を祖とする宗家の血を引く一族で、室町時代末期には千葉宗家を凌駕する勢力を持つにいたった。
○原氏略系図○
平常長-原常宗-常継―+―常朝―+―朝秀―+―家朝―――+―岩部常行――+―有常
(四郎)(十郎)|(平次)|(二郎)|(小次郎) |(五郎兵衛尉)|(兵衛次郎)
| | | | |
| | +―家景 | +―常正――――胤永――胤規―常規―常清―常楽―常賢
| | (右衛門尉)| |(兵衛三郎)(中務)(兵庫)
| | | |
| | | +―原氏胤
| | | |(五郎)
| | | |
| | | +―仁戸田胤行―胤盛―胤範――胤利―胤治―胤秀―儀秀
| | | (阿波守)
| | |
| | +―原胤秀―――+―胤家
| | (八郎) |(次郎右衛門尉)
| | |
| | +―朝胤
| | (四郎)
| |
| +―朝房―+―常泰―――+―如圓――――+―性弁
| (五郎)|(太郎) |(妙見座主) |(大進)
| | | |
| | | +―胤春
| | | |(孫次郎)
| | | |
| | | +―宗茂
| | | |(孫三郎)
| | | |
| | | +―平右衛門三郎
| | | |
| | | |
| | | +―□□
| | | (妙見座主)
| | |
| | +―泰継―――――+―胤継
| | (三郎右衛門尉)|(三郎)
| | |
| | +―胤泰
| | (右衛門五郎)
| |
| +―親朝―――+―親胤―――――――牛尾泰親
| |(弥五郎) |(弥平次左衛門尉)(五郎)
| | |
| | +―舜吽
| | |(肥前)
| | |
| | +―道胤
| | (帥法橋)
| |
| +―光房―――――良弁
| |(六郎) (大進法橋)
| |
| +―乗月―――――快弁―+―重胤
| (伊賀)|(三郎)
| |
| +―頼泰
| |(五郎)
| |
| +―胤泰
| (与三)
|
+―常次―――飯竹家房―+―泰友―――+―重宗――重近
|(平三郎)(五郎) |(五郎次郎)|(五郎)(彦五郎)
| | |
| | +―家継―――+―□□
| | (三郎次郎)|(弥次郎)
| | |
| | +―家幹
| | (弥三郎)
| |
| +―朝秀―――+―□□
| (弥三郎) |(彦五郎)
| |
| +―□□
| |(弥四郎)
| |
| +―□□ +―常明――――――永常
| (大進) |(彦三郎) (三郎)
| |
+―清常―――+―大原常光――+―重綱―――――+―政常――――+―常賢――――――常貞
|(五郎大夫)|(三郎兵衛尉)|(三郎左衛門尉)|(三郎兵衛尉) (三郎左衛門尉)(三郎兵衛尉)
| | | |
+―常直 +―佐野胤清 +―妙義 +―頼重――――+―□□
|(六郎) |(次郎) (僧侶) (与一) |(三郎)
| | |
| +―常近 +―□□
| (五郎) |(四郎)
| |
+―忠常―――+―鞍持忠泰―+―忠光―――兵衛次郎 +―□□
|(七郎) |(次郎) |(兵衛尉) (六郎)
| | |
| | +―泰宗―――次郎 +―胤房
| | | |(左衛門次郎)
| | | |
| | +―忠景――――――――+―常光
| | (七郎左衛門尉) |(三郎)
| | |
| | +―僧侶
| | |(大夫)
| | |
| | +―七郎
| |
| +―常光―――――常村―――――+―常清 +―□□
| |(三郎) (弥三郎兵衛尉)|(七郎)|(治部)
| | | |
| +―忠綱―――――忠行 +―良有―+―□□
| (五郎) (左衛門尉) |(伊予) (三郎)
| |
+―家房―――――□□ +―良弁―――常弁
(九郎) (平三郎) (大弐) (大進)