~原氏歴代当主~
当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤信 |
通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 主水助 | |||
官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | ||
法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 |
(????-1471)
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原胤房花押 |
千葉氏系原氏三代。原孫次郎胤親の子とされるが、時代的に原孫次郎胤高の子か。母は石橋右衛門佐女とも伝わるが不明(『香取郡誌』)。官途は越後守。入道して越後入道。号は道喜。法号は勝岳院・勝覚・昇覚。
諸文書から具体的な活躍が見える原氏の当主で、千葉介胤直から千葉介胤宣までの三代に仕えた。
●『原継図』(『本土寺過去帳』) +―一番甲斐守―+―同原孫二郎殿桂覚 六月野田ニテ打■ |
胤房は若くして千葉介胤直に仕え、「円城寺下野守尚任」とともに側近となる。
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鎌倉の本覚寺(旧夷堂) |
胤房の具体的な活動が見られるのは、永享7(1435)年、鎌倉夷堂(現本覚寺)の一乗坊日出(日蓮宗)と宝戒寺の心海(天台宗)の宗論事件である。この法論では心海が破れたが、宝戒寺側が納得せず鎌倉府に訴えたことから、鎌倉府は鎌倉の日蓮宗の大寺である比企谷の妙本寺、小町の妙隆寺、浜の法華寺など十六か所の法華堂を没収し、日蓮門徒を鎌倉から追放する命を下した。
このとき鎌倉府の侍所「所司代」を務めていた「千葉介殿」が日蓮宗徒の追放を担当しており、胤直は「被管(ママ)原越後守」に命じて、「侍ハ所領ヲ被召、地下仁ヲバ切頸、法師ヲバ遠嶋ニ可被流」と、「荒居ノ閻魔堂」に彼らを召し出したが、日蓮宗徒の僧侶や町人たちが六十人ばかり押し寄せ、妙法寺に立て籠もった。この妙法寺は後醍醐天皇の勅願寺であったことから、「不入」を言い立て、さらに逮捕された人たちの赦免を要求した。このとき足利持氏は持仏堂で経を読んでいたが、そのとき夢現の中に香染の法衣を着た四十歳くらいの僧侶が目の前に現れ、赦免せずば三年のうちに命を取ると言ったことから、持氏は一乗坊日出らの赦免を伝え、一乗坊の夷堂を取り立てて本覚寺としている(『傳燈鈔』)。
●原氏想像略系図
→千葉介頼胤―――+―宗胤――――胤貞――――高胤――?―胤親
(千葉介) |(千葉新介)(大隈守) (小太郎) (孫次郎)
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+―胤宗――――貞胤――+―高胤――?―胤親――――胤房
(千葉介) (千葉介)|(千葉新介)(孫次郎) (越後守)
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+―氏胤――+―満胤――+―兼胤――――胤直
(千葉介)|(千葉介)|(千葉介) (千葉介)
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| +―馬加康胤――胤持
| (陸奥守)
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+―馬場重胤――胤依――――岩橋輔胤―――千葉介孝胤
|(八郎) (岩橋殿) (千葉介)
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+―原胤高―――胤親――+―胤房
(孫四郎) (孫次郎)|(越後守)
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+―胤茂
(筑後守)
永享10(1438)年、足利持氏は嫡子・義氏の元服式を執り行ったが、このとき「慣例」であった将軍家からの偏諱を拒んだため、持氏は幕府寄りの関東管領・上杉憲実と対立。憲実は領国の下野国に引きこもってしまった。この行動に怒った持氏は、憲実を謀反人として討伐するべく諸大名に出陣を命じたが、これを聞いた侍所所司代・千葉介胤直は驚いて上杉修理大夫持朝とともに御所に出向き持氏を諌めた。しかし持氏は説得に耳を貸すことはなかった(『鎌倉大草紙』)。
持氏に失望した胤直は、御所を退出すると軍勢を集めて憲実に通じた。また、憲実の要請を受けた幕府も駿河守護職・今川氏を中核とする大軍を派遣し、11月1日、上杉持朝、三浦介時高ら幕府勢が鎌倉の大蔵御所に攻め入り、簗田河内守助良、簗田出羽守ら公方の重臣たちが討死を遂げている。
そして11月11日、持氏は捕らえられて鎌倉の永安寺に幽閉された。この警護には幕命により、上杉持朝、大石源左衛門尉憲儀、そして千葉介胤直があたることとなった。
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鎌倉の伝足利持氏供養塔 |
争ったとはいえ持氏は上杉憲実や千葉介胤直にとっては主筋である。憲実は持氏の助命のために再三にわたって京都に遣いを送った。しかし、持氏を生かしておけば後日の禍となるという幕府の方針は変わらず、やむなく憲実は永安寺を守っていた持朝・胤直らに持氏の殺害を命じ、永享11(1439)年2月10日、持朝・胤直らは永安寺を囲んで持氏・満直(持氏叔父)に自害を迫った。これを聞きつけた持氏近習の木戸伊豆入道・冷泉民部少輔・小笠原山城守・平子因幡守・印東伊豆守・武田因幡守・加島駿河守・曾我越中守・設楽遠江守・沼田丹後守・木内伊勢守・神崎周防守・中村壱岐守らは上杉・千葉勢に斬りこんで散々に暴れ、討ち取られた。そしてその騒乱の間に持氏・満直は刺し違えて果てた。享年四十二。胤直の手勢の中には胤房もいたかもしれない。
その後、持氏の遺児・成氏が新たな鎌倉公方として鎌倉に入ったが、彼は父・持氏を手にかけた上杉憲実一党を敵視しており、享徳3(1454)年12月27日、成氏は憲実の子・上杉憲忠(関東管領)を討ち取った。翌享徳4(1455)年正月5日、憲忠党類討死の報が京都へ達したことから、幕府と関東の関係はよりいっそう険悪化することとなる。そして成氏は、武蔵国高幡・分倍河原の戦いで上杉右馬助憲顕入道・上杉大夫三郎持房らを討ち、さらに上杉家の残党を常陸国小栗城(茨城県真壁郡協和町)に攻め落とした。
このような中で、上杉民部大輔房定・上杉兵部少輔房顕の両名が越後・信濃の郎従を、長尾左衛門景仲入道は武蔵・上野の郎従をそれぞれ率いて成氏を追討するために下野国天命只木山(栃木県佐野市)へ出陣。これに呼応したのが「千葉介入道常瑞(胤直)」「舎弟中務入道了心(胤賢)」「宇都宮下野守等綱」であった(康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状』)。
このとき、胤房は「御所方になりたまへ」と胤直らを説得していたようだが、胤房と対立関係にあった千葉家執権「円城寺下野守(尚任)、上杉にかたらはれければ、原はひそかに成氏より加勢を乞」うたという。結局、胤直は円城寺尚任の意見を容れて上杉方に付き、胤房は密かに成氏に加勢を乞うたようである。胤房は侍所所司代であった胤直の代官的な立場であったことが永享7(1435)年の法難の事実から推察され、成氏の代になっても侍所所司・胤直の代理として御所を訪れることもあったのだろう。「公方へも出仕申ければ、成氏より原越後守を頻に御頼ありける」と成氏も胤房を頼りにしていたという(『鎌倉大草紙』)。
原氏と円城寺氏は同族でともに千葉家執権の地位にあった重臣であったが、両氏ともに千田庄・八幡庄内に所領を有して対立していた。「千葉家原与園城寺合戦、園城寺武州没落」(『鎌倉大日記』)ともあり、一連の合戦は原氏と円城寺氏の対立が惹起したものであろう。円城寺尚任が上杉氏を頼ったことに対抗し、胤房は日ごろから入魂であった成氏を頼った一因でもあろう。
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胤直・胤賢が籠った志摩城 |
胤直は鎌倉から下総国へ帰国すると、おそらく上杉氏からの指示を受けて兵を集めたであろうと思われるが、3月20日、胤房が胤直らの住む千葉屋敷を急襲した(『鎌倉大草紙』)。ただし、「曾谷浄忠」という人物「二月(二日)」に「千葉合戦打死」している様子が窺われるが(『本土寺過去帳』「二日上段」)、もしこの「千葉合戦」がこのときの合戦であるとするならば、千葉での合戦は2月2日にはすでにはじまっていたことになる。
千葉での戦いに敗れた千葉介入道常瑞(胤直)・舎弟中務入道了心(胤賢)・千葉介胤宣・円城寺下野守尚任以下の千葉宗家は、円城寺氏や竹元氏(かつて千葉家侍所)、岩部氏などといった直臣層の本拠地がある香取郡多古方面に逃れ、千葉介胤宣・円城寺尚任ら円城寺一族は多古城に拠り、千葉介入道常瑞・中務入道了心らは、多古城のやや南にある志摩城に籠城した。
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康胤が攻め寄せた多古城跡 |
千葉介入道常瑞らが千田庄に入ると、胤房も千田庄に攻め入り、多古城を取り囲んだ。常瑞は籠城の際に、京都の将軍家をはじめ、上杉家に援けを求めていたようで、将軍・足利義政は房総鎮定のために、東左近将監常縁を派遣している。
千田庄に攻め込んだ胤房であったが、多古城・志摩城は互いに連携が取りやすく、しかも低湿地にそびえる城であるために攻めあぐね、膠着状態になっていたようだ。その状況を一転させたのが、馬加(千葉市花見川区幕張)の千葉陸奥入道常義(馬加康胤)父子の参戦と思われる。
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下総国の要地 |
胤房は常義入道の参戦を「大に喜」び、彼を「惣大将」として多古城攻めを任せ、自らは志摩城に押し寄せた(『鎌倉大草紙』)。常義入道は歴戦の古兵であり、多古城を取り囲んで兵糧の道を絶った上で、四方の囲みを一方だけを開けて城攻めを行ったため、籠城の兵はその囲みの開いている一方から落ち失せてしまい、8月12日、胤宣は力及ばず降伏。乳母子の円城寺藤五郎直時を常義入道の陣に遣わして「城をば渡し可申候間、仏前へ参切腹仕度」由を訴えたのち、多古城外の「むさ」の阿弥陀堂において自刃を遂げた。胤宣15歳であった(『本土寺過去帳』によれば12歳)。胤房は、胤宣には公方についての不儀はなく、切腹を聞くと涙を流して死を悼んだという。
この多古城外の合戦では、上杉勢の援軍と思われる常陸大掾父子(常陸大掾妙充・同子息)や円城寺下野守尚任(圓城寺下野妙城)ら円城寺一族(壱岐守妙宣・日向守妙向)も討死を遂げている(『本土寺過去帳』)。
一方、胤直入道・胤賢入道兄弟の籠もる志摩城は、胤房勢が取り囲んで昼夜を問わず攻め、8月14日夜、ついに落城。翌8月15日、胤直入道常瑞は志摩城内の妙光寺(現在の正覚寺)にて自害したと思われる(『本土寺過去帳』)。
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千葉町古地図 |
胤直入道常瑞の弟・中務入道了心は志摩落城の前に脱出していたようで、「ヲツヽミ」に逃れた。この「ヲツヽミ」とは、志摩城の南にある「小堤」(山武郡横芝町小堤)に比定できると考えられるが、おそらく胤房の軍勢がすぐさま駆けつけたと思われ、9月7日、胤賢入道もこの地で自刃した(『本土寺過去帳』)。ただ、彼の子息である実胤・自胤兄弟はこの直後、東常縁らとともに市川城(市川市真間:現在の真間山弘法寺周辺?)に籠城して成氏勢と戦っている。胤賢入道がこの逃避行の間に落ち延びさせたものか?
胤直の遺骨は、原筑後守胤茂の手によって、千葉の金剛授寺尊光院に隣接する大日寺に葬られ、五輪塔が建立されたという(『鎌倉大草紙』)。
胤房らが胤直入道らを討ってから約三か月後、幕命を受けた東常縁が下総へ着陣。馬加陸奥入道常義の本拠地である馬加郷(千葉市花見川区幕張)に攻め入り、11月24日の「馬加合戦」で常縁勢が勝利をおさめた(『東野州聞書』)。常縁はこの戦いを「原越後守御対治之時之事」としているので、馬加城にはおそらく馬加陸奥入道と原胤房が在城していたと考えられ、戦いに敗れた胤房は千葉へ向けて逃亡した(『鎌倉大草紙』)。また、馬加陸奥入道は南へ逃亡した。胤房が千葉に逃れた理由は不明だが、すでにこの頃に原氏は金剛授寺に対する影響力が強まっていたのかもしれない。胤房の跡を継いだ原宮内少輔胤隆には範覚という子がおり、十三歳のときに金剛授寺の座主となって、三十年にわたり千葉家に大きな影響力を持っている。
一方、千田庄内では胤直に従ったと思われる原一族(のちの弥富原氏)と古河公方勢力(原胤房勢?)が合戦しており、12月13日、「東方(比定地不明)」で原左衛門朗珍・原右京亮朗嶺が討ち死にを遂げた(『本土寺過去帳』)。
その後、東常縁は市川城(市川市真間4丁目)に千葉実胤・自胤兄弟とともに籠城するが、康正2(1456)年正月19日、足利成氏勢の猛攻の前に市川城は落城(『足利成氏文書』・『東野州聞書』)。実胤・自胤兄弟は武蔵国へと落ち延びた。常縁は匝瑳郡へ逃れたとされ、2月7日、匝瑳郡惣鎮守・老尾神社(八日市場市生尾)に献歌したという(『八日市場町史』)。その後、常縁はいったん下総を離れて「春」のうちに鎌倉へ戻っている(『東野州聞書』)。
胤房はこの康正の合戦によって、鎌倉時代初期から続いてきた原・円城寺両頭体勢を崩壊させて円城寺氏を宗家宿老の座から引きずりおろすことに成功し、円城寺氏の勢力は衰えた。一方で原氏の勢力は急速に大きくなり、のちに「千葉百騎、原千騎」(『関八州古戦禄』)と謳われるほどになる。
胤直、胤宣亡きあと、千葉宗家の庶流・岩橋家の「平輔胤」が実質的に宗家を継ぐこととなるが、康正2(1456)年10月25日には輔胤が弘法寺へ安堵状を発給している(『弘法寺文書』)。また胤房も康正2(1456)年6月に弘法寺へ二回にわたり『平胤房安堵状』を発給した。
一方、胤房とともに宗家を攻め滅ぼした馬加陸奥入道常義については発給文書は一通も伝わっておらず、さらに康正2(1456)年4月4日、足利成氏が京都の「三條殿」へ宛てた『足利成氏書状写』(『武家事紀所収文書』)に、「千葉陸奥入道常義父子存貞節、属御方間」とあるように、康胤は法体であった。彼は足利成氏より宗家と(私的に)認められた可能性は残るとしても、『千葉大系図』などに記されているような「千葉介康胤」になることはなかったとみられる。そして陸奥入道の子・胤持は、6月12日に上総国八幡(千葉県市原市八幡町)でおそらく東常縁の軍勢に討たれ、首は京都へ運ばれたとあり(『千学集抜粋』)、馬加千葉氏は二代で滅んだ。そして、胤持の廟所として無量寺(市原市八幡町)が伝わり、胤持の父・陸奥入道の墓とされる五輪塔が伝わる。そして、陸奥入道も11月1日、小弓(千葉市中央区南生実町)の南西2.5kmの村田川辺で合戦して討死を遂げたと伝わる。
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小弓城の遠景 |
宗家を継承した「平輔胤」こと岩橋輔胤が「千葉介」に正式に認められたかは不明で、その子・孝胤は「千葉介」を自称(古河公方より認められたか)したとみられる。胤房は馬加合戦で東常縁に敗れたのち、岩橋輔胤と手を結び、輔胤の子・孝胤を下総千葉氏の主として推戴したのかもしれない。
その後の胤房の活躍は不明だが、文明3(1471)年9月9日に「小弓館」で討死を遂げた「原越後入道道喜」が、おそらく胤房であろう。この当時、堀越公方足利政氏と古河公方足利成氏が激しく対立し、堀越公方に加担する上杉氏によって文明3(1471)年6月24日、古河城が落とされ、古河公方・足利成氏は千葉介孝胤を頼って「千葉」に落ち延びている。「原越後入道」の討死はこの二か月半後のことであり、胤房入道は上杉方との戦いで討ち死にしたとみてよいだろう。
胤房の末子に中山八郎太郎胤宜があり、のち出雲守を称した(『千学集抜粋』)。名字地は中山郷(市川市中山)か。なお、『本土寺過去帳』に「手賀出雲」という人物が登場することから、出雲守胤宣をして手賀原氏の祖とする説があるが、この「手賀」は大掾家の流れとみるべきであろう。胤宜の子は長男「胤タゞ下野(下野守胤忠?)」、次男「胤義治部少輔」、その弟と思われる「胤次石見守」があった(『本土寺過去帳』)。長男・「胤タゞ下野」については、「下野守胤忠」であるとすると、市川市から松戸市を本拠とし、原宗家の「家郎」であった高城氏の祖・高城下野守胤忠その人なのかもしれない。
次男・治部少輔胤義の系統は、四男・原九郎兵衛胤広が継ぎ、刑部左衛門胤相、平左衛門、四郎右衛門、四郎右衛門、玄蕃と続いた。平左衛門の子・四郎右衛門は「大滝(千葉県夷隅郡大多喜町?)」で亡くなったという。
石見守胤次は「小中台(千葉市稲毛区小中台町)」に住んだという。その子・友左衛門丞胤友は「猿又(=猿ガ又:葛飾区西水元)」で亡くなったという。死因については「川しらさるゆゑ流れ給ふ、水練を学ハさる也」とあることから、水死と思われる。時期は「胤清牢人のときとそ」とあるが、「胤清」とは原宗家の原式部大夫胤清のことであろう。永正15(1518)年7月に小弓城を追われた時期ということか。
○中山原氏(『千学集抜粋』)
原胤房《????-1471》――胤宜――+―胤タゞ(胤忠?)…高城氏祖?
(越後守) (出雲守)|(下野守)
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+―胤義―――――胤広――――胤相―――――平左衛門―四郎右衛門
|(治部少輔) (九郎兵衛)(刑部左衛門)
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+―胤次―――――胤友
(石見守) (左衛門尉)
嘉吉元(1441)年6月20日、「結城陣」で戦死した人物に「原入道道盛」が『本土寺過去帳』に見えるが、結城城はすでに4月に陥落しているものの、その後も結城氏の残党が幕府軍と戦っていたようで、翌年3月には、氏朝の与党であった常陸の有力豪族・宍戸持里が挙兵している。「原入道道盛」の実名はわからないが、過去帳の中段に書かれており、上段の原一族よりも一段家格が下がる庶流であると思われる。
嘉吉4(1444)年4月19日に「原筑前守」が没すが(『本土寺過去帳』)、この原筑前守は『中山法華経寺文書』に残る「前筑前守胤康」か?。
●某年『前筑前守胤康書状』(『中山法華経寺文書』五十八)
●享徳5(1456)年6月14日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●享徳5(1456)年6月20日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●享徳5(1456)年10月25日『岩橋輔胤安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●『東野州聞書』(『群書類従』第六輯所収)
●参考資料●
『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者― 浜名敏夫著