千葉実胤

武蔵千葉氏

○武蔵千葉氏○

千葉氏HP千葉宗家目次下総原氏リンク集掲示板

―― 初代 二代 三代 四代 五代 六代
千葉胤賢
(????-1455)
千葉実胤
(1442?-????)
千葉介自胤
(????-1493)
千葉介守胤
(1475?-1556?)
千葉胤利
(????-????)
千葉胤宗
(????-1574)
千葉直胤
(????-????)

トップページ武蔵千葉氏千葉実胤


千葉実胤(1442-????)

生没年 嘉吉2(1442)年?〜????
通称 七郎、千葉新介(『鎌倉大草紙』)、千葉介(『上杉系図』)
千葉中務大輔胤賢
不明
扇谷上杉修理大夫顕房娘
官位 不明
官職 不明
幕府役 なし
所在 武蔵国石浜? 赤塚?
法号 不明
墓所 不明。岐阜県可児郡御嵩町の大寺山願興寺?

 初代武蔵千葉氏。千葉中務太輔胤賢入道の嫡男。通称は七郎。嘉吉2(1442)年に生まれたという。妻は扇谷上杉修理大夫顕房娘

 千葉介満胤―+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
       |(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)
       |       |
       |       | 扇谷顕房――――娘
       |       |(修理大夫)   ‖
       |       |         ‖
       |       +―千葉胤賢―+―千葉実胤
       |        (中務丞) |(七郎)
       |              |
       |              +―千葉介自胤―――千葉介守胤
       |               (武蔵千葉介) (武蔵千葉介)
       +―馬加康胤――――千葉胤持
        (陸奥守)   

地図
多古・志摩城の位置

 亨徳4(1455)年、千葉館を攻め落とされた千葉中務胤賢入道了心は、兄・胤直入道常瑞とともに香取郡千田庄多古に逃れ、千葉介胤宣多古城へ、胤直入道胤賢入道はその南にある志摩城へ入って原勢と対峙したが、馬加城から一族・馬加陸奥守入道常義が原家に加勢して来攻したため、康正元(1455)年8月、多古城の千葉介胤宣は自刃。続いて志摩城も陥落して、胤直入道も妙光寺で自刃して果てた。寛正3(1364)年卯月23日『将軍家御内書』は、千葉介らの討死を伝える将軍家の文書である。宛名の「左馬頭殿」は義政弟・足利政知(堀越公方)である。

 一方、実胤の父・胤賢入道は志摩城を脱出。南の小堤城に拠ったが、このとき実胤・自胤が同道していたかは不明。9月、胤賢入道も自刃を遂げ、千葉家の正統は途絶えた。

 父の死から1年3か月、実胤・自胤兄弟の行方は伝わらないが、「上杉より今度胤直と一所に討死ありし中務入道了心の子息実胤、自胤二人を取立て下総国市川の城に楯籠」ったとあることから(『鎌倉大草紙』)、千葉を遁れた兄弟は、上杉氏の支援のもと、千葉宗家の直臣・八幡庄の円城寺氏、曾谷氏らを頼っていたのだろう。

 千葉大介胤直入道らの滅亡が京都に届くと、将軍・足利義政「千葉の家両流になりて総州大いに乱れければ、急ぎ罷り下り一家の輩を催し、馬加陸奥守を令退治、実胤を千葉へ移し可」という御教書を東左近将監常縁に発給(『鎌倉大草紙』)。常縁は浜式部少輔春利を伴って京都から下総に下向し、まず、本貫地の東庄へ下り、東大社へ参詣したのち、原越後守胤房の領地である千田庄内に攻め込んでいる。康正元(1455)年11月13日、千田庄内で原一族の原左衛門朗珍原右京亮朗峯が討死しているが、東常縁との戦いによるものであろう。

石浜地図
国府台周辺地図

 常縁は続けて馬加城(花見川区幕張)に逃れていた原胤房を攻撃。11月24日の馬加合戦で馬加城を攻め落とし、敗れた胤房は千葉へ逃亡、おそらく馬加陸奥入道も逃走して馬加・原両氏の力は一時的に衰えた。この「馬加合戦」のとき、八幡庄周辺でも円城寺氏、曾谷氏といった千葉宗家の直臣勢力が原勢と合戦したようで、11月25日、「正行寺(唱行寺)」(市川市柏井町)にたてこもっていた原氏勢と戦っている(『本土寺過去帳』二十五日下段)。その後、馬加合戦に勝利した常縁は「千葉新介実胤を取立、本領を安堵させん」と実胤らとともに市川城に籠もった。

 しかし、康正2(1456)年正月、古河公方・足利成氏は市川城を攻め落とすために南図書助、簗田出羽守を派遣したため、古河公方勢は勢いを取り戻し、正月19日、ついに市川城は陥落。円城寺若狭守円城寺肥前守曾谷左衛門尉直繁曾谷弾正忠直満曽谷七郎将旨蒔田殿武石駿河守相馬守谷殿などが討死を遂げる中、実胤・自胤兄弟は武蔵国へ逃れた。武蔵に逃れた実胤・自胤らには木内宮内少輔胤信、円城寺因幡守宗胤、粟飯原右衛門志勝睦らが家臣として見える(『応仁武鑑』)

国府台
国府台城

 市川城は古河公方勢の手に渡り、陥落の報告は20日には、成氏のもとへ届けられた。4月4日には成氏から京都の三条家に宛てて、市川城陥落の報告がなされている。

 市川落城ののち、匝瑳郡(八日市場市)に逃れていた常縁は、力を盛り返して10月末頃、ふたたび馬加城に攻めかかり、馬加陸奥入道常義は上総国八幡の村田川にまで逃れたものの、討たれたという。胤直亡きあと、千葉宗家随一の有力者であった馬加千葉氏はついに千葉介の家督を継ぐことなくここに断絶した。

 長禄元(1457)年12月、将軍・足利義政は主不在の鎌倉に新しい主を入れるべく、弟の政知(もと天竜寺の僧。香厳院殿)を下した。しかし、政知は翌年5月まで京都にあって8月にようやく下向した。さらに、関東の情勢が悪化していたため箱根を越えることに危険を感じ、駿河守護・今川家の庇護のもと、伊豆国堀越に館を構えた。地名をとり、政知は堀越公方と呼ばれる。

石浜神社
伝石浜城跡(石浜神社)

 一方、市川から武蔵国に逃れた実胤・自胤は、上杉家の援助を受けることになった。「実胤」の「実」字は山内上杉家からの偏諱かもしれないが、この当時「実」字を持つ上杉家当主はいないため、実際のところは不明。上杉憲実入道がまだ関東にいた時期に受けていたのかもしれない。

 

 その後、実胤が石浜台東区橋場周辺)に、自胤は赤塚板橋区赤塚二丁目)に拠って上杉家 の援助を受けて古河公方・成氏の勢力と対峙した。彼らが武蔵へ移ってきたのはまだ十代前半ごろという若さだったと思われることから、上杉家が実際にすぐに彼らを石浜や赤塚に置いたかはわからない。

 実胤は『鎌倉大草紙』では市川城の戦い「千葉新介実胤」上杉家の系譜には「千葉介実胤」とあり、とあることから、実胤は「千葉(新)介」を称したとも考えられるが、将軍家や奉行人奉書などでは実胤は「千葉七郎」とされており、「千葉(新)介」などを称した形跡は見えない

 実胤はその後、扇谷上杉顕房の娘を娶って、扇谷家の「縁者」となった。上杉顕房は実胤兄弟が市川城の戦いで敗れた五日後の康正2(1456)年正月24日、「夜瀬」で二十一歳の若さで討死を遂げており、顕房嫡男・政真の生年(1452年)と彼の妹(姉の可能性も有)になる顕房娘の年齢を考えると、実胤が顕房娘と縁組したのはかなり後のこととなるか。扇谷上杉家が顕房娘を実胤と娶らせて縁者に加えたことは、下総千葉氏正統の実胤を下総国に復帰させて、対立する古河公方の勢力を排除する目的があったのだろう。

 実胤・自胤兄弟が上杉家の将として活躍するのは暫くあとの事だろうと思われるが、上杉家と古河公方勢との戦いに参加したと思われる。そして、その戦いによって実胤・自胤兄弟は経済的に非常に逼迫していたことは想像に難くなく、実胤は一時「隠遁」してしまったようである。実胤は心が弱くあまり軍事に向かない性格だった感がある。一方、弟の自胤は合戦では自ら太刀傷を負うほどの猛者に成長する。実胤の隠遁によって、弟の自胤が武蔵千葉家の家督と定められた可能性がある。

 寛正3(1462)年4月23日、将軍・義政は「左馬頭殿(堀越公方・足利政知)」に対して、「千葉介(自胤)」が連年の在陣で困窮しているので援助をするように命じた寛正3(1462)年4月23日『将軍家御内書』。また、「舎兄七郎(実胤)」「隠遁」についても、義政は「舎兄七郎隠遁事、被驚思食候」と驚き、「千葉介(自胤)」宛の御内書を発給して「不日令帰参之様可申含」ことを命じ『将軍家御内書』二、隠遁してしまった実胤へも「隠遁之由其聞候之条、被驚思食候、不日可有帰参候也」と、帰参を命じた『将軍家御内書』三

 結果として、実胤はふたたび帰参したようだが、すでに武蔵千葉氏の実権は名実ともに弟の自胤が握っており、実胤は「千葉七郎」と呼ばれている。所領も赤塚へと移された可能性があり、寛正4(1463)年2月27日、堀越公方・足利政知は幕府からの命として「千葉七郎(実胤)」京都鹿王院領であった赤塚郷を同寺雑掌に返還するよう命じている(寛正4(1463)年2月27日『堀越公方家奉行人連署奉書案』)

 しかし、実胤の心にはやはり鬱積したものがあったのだろう。彼は「縁者」である扇谷上杉家を離れて山内上杉家と親密になったことが、文明3(1471)年ごろ、実胤は山内上杉家の重臣「大石々見守」の招きで「葛西」に赴いていることからもうかがえる『太田道灌状』。彼が葛西に移ったのは、下総への帰国が現実味を帯びたためだった可能性がある。

 実胤は山内上杉家を通じて古河公方・成氏と連絡を取ることに成功し、「胤直の一跡として、実胤を千葉介に任じ、上杉より下総へ指遣」と、千葉介胤直の跡として下総千葉介に就任する運びだった。このころ成氏は古河を追われて千葉新介孝胤の厄介になっていたが、実胤のことについては「公方様(=足利成氏)」「内々被申旨」だったという。しかし、これを聞いた「孝胤」が「出頭」して抗議したため、「無御許容」なったようで、これに落胆した実胤は「濃州江流落」したという(『太田道灌状』)

◎『太田道灌状』(『北区史』中世編所収)

 千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石々見守葛西被越候
 
 公方様内々被申旨候、雖然孝胤出頭事候之間無御許容、濃州江流落候、

 結果として実胤の下総千葉介就任は夢に終わり、落胆した実胤は美濃へと落ちてその後の消息は不明である。かつて馬加陸奥入道、原越後守を討つためにともに戦った美濃郡上の東氏を頼ったともいわれている。美濃国可児郡(岐阜県可児郡御嵩町)の大寺山願興寺(可児大寺)がその隠棲先だともされている。

 実胤の弟・千葉介自胤の子孫は「武蔵千葉氏」として代々続くが、武蔵千葉氏は千葉氏の嫡々であり、京都の幕府も武蔵千葉氏を常胤以来連綿と続く「千葉介」と認めていた。そのため古河公方と結んで千葉介を称した下総千葉氏に対する敵愾心は強く、その後も下総千葉氏と対立している。

◎寛正元(1460)年(?)4月19日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)

千葉介困窮事、堪忍候之様、別而被加下知之可為本意之状如件

    四月十九日     御判      
    左馬頭殿 

◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)

 千葉介事、代々忠節異于他候、殊先年以下数輩討死候畢、
 連年在陣困窮之旨其聞候、令堪忍之様、別而有成敗者可為本意之状如件
   卯月廿三日
    左馬頭殿 

◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)

 舎兄七郎隠遁事、被驚思食候、不日令帰参之様可申含、
 数年在陣困窮推察候、弥致堪忍被官族分国輩等、別而運計略、
 早速遂本意候者、誠可為感悦候也

   卯月廿三日
    千葉介殿

◎寛正3(1462)年(?)4月23日『将軍家御内書』(『続群書類従』所収)

 隠遁之由其之聞候之條、被驚思食候、不日可有帰参候也

   卯月廿三日
    千葉七郎とのへ

◎寛正4(1463)年2月27日『堀越公方家奉行人連署奉書案』(『鹿王院文書』)

 (端裏書)「千葉七郎殿御奉書案文」
 
 鹿王院領武州赤塚郷之事、任京都御成敗之旨、
 速可被返付寺家雑掌之由、所被仰下也、仍執達如件、
 
  寛正四年二月廿七日  散  位(判)
             信濃前司(判)
   千葉七郎殿

●関東の情勢1●康正元(1455)年当時

古河公方側 室町将軍側
足利成氏(古河公方) 上杉房憲(武蔵庁鼻和城主)
馬加陸奥入道常義 千葉実胤・自胤(市川城主)
原 胤房(千葉氏執権) 長尾景仲
原 胤義(胤房一族) 長尾景信(山内執政)
簗田持助(関宿城主) 東常縁(下野守)
武田信長(長南城主)  

●関東の情勢2●康正元(1456)年当時

古河公方側 室町将軍側
足利成氏(古河公方) 足利政知(堀越公方)
岩橋輔胤(馬加常義と関わりある人物) 山内顕房(関東管領)
簗田持助(関宿城主) 山内房定(越後守護)
武田信長(上総庁南城主) 扇谷持朝
結城・小山 千葉自胤(武蔵石浜城主)
  長尾景仲・景信(山内執政)
 太田道眞・道灌(扇谷執政)

前のページページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板次のページ

Copyright(C)1997-2009 chiba-ichizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。