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【さ】
斎藤
千葉一族。下総国千葉庄野呂(千葉市若葉区)を領していた原一族か。野呂は原氏の本領地・原郷の隣接地であり、原一門の家格と思われる。『千学集』によれば、原式部大夫胤清の「家風」として斎藤氏の名が見える。『本土寺過去帳』には「妙道小弓斎藤」とある。
斎藤胤次(善七郎)は天正3(1575)年11月、千葉庄妙興寺に屋敷を与えている。また、天正4(1576)年9月には上総国市原庄八幡郷(市原市)の上総州八幡宮造営について名が見える。
佐賀
上総一族。名字地は千田庄坂村(香取郡多古町坂)か。香取郡一帯は下総平氏が繁栄した土地であり、忠常、常将以来の伝承が残る地でもある。
平常長の長男・常家(太郎)は「坂」を称したとされ(『桓武平氏諸流系図』『平姓指宿氏系図』)、この地にあったのかもしれない。しかし常家の子孫は伝わらず、常家の甥に当たる上総権介常澄が「佐賀」を称したという。「坂」と「佐賀」が同一の地を指している確証はないものの、常家、常澄はいずれも上総平氏の有力者であったと推測されることから、両所が同一とすれば「坂(佐賀)」は両総平氏にとって重要地であったと思われる。
上総権介常澄は、平常長の五男・平常晴(五郎)の子である。常晴は下総国相馬郡を領して「相馬」を称していたが、相馬郡を甥の平常重(千葉介常胤の父)を養子に迎えて譲ったために、 常澄は「佐賀」を称したという。常澄はその後、上総権介となり上総平氏を草創する。
天正9(1581)年、守谷城主・相馬治胤は高野山へ書状を送り、一族重臣が連判をしているが、その連判者に「佐賀掃部介整満」「佐賀美濃守久次」「佐賀筑後守長弘」が見えることから、佐賀氏は代々相馬家の家臣として続いていたようである。
治承5(1181)年6月19日、頼朝が三浦へ納涼逍遥したとき、上総権介広常はかねてから頼朝に命じられていた通り、三浦半島の「佐賀岡浜」に参会したことが『吾妻鏡』に記載されているが、関係はない。
●天正9(1581)年高野山連判(『相馬当家系図』)
菅生越前守胤貞 | 筒戸小四郎胤文 | 岩堀主馬首弘助 | 大木駿河守胤清 | 新木三河守胤重 | 横瀬伊勢守保広 | 横瀬弾正忠恒広 |
佐賀掃部介整満 | 佐賀美濃守久次 | 佐賀筑後守長弘 | 寺田弾正左衛門吉次 | 寺田出雲守長尚 | 横瀬源太左衛門貞広 | 木屋長門守満吉 |
松井主税広吉 | 鮎川筑後守安勝 | 安富斎朝直 | 遊座右京亮広直 | 泉勝坊光音 |
―佐賀氏略系図―
→平常長――+―坂常家
(上総権介)|(太郎)
|
+―平常兼
|(大夫)
|
+―相馬常晴――佐賀常澄
(上総権介)(上総権介)
境
千葉一族。千葉介胤正の二男・上総介常秀(兵衛尉)は上総国武射郡境村(山武市成東町境)を領して境を称した。戦国期の土気・東金城主「酒井氏」は常秀の子孫だという説もあるが、その可能性は低い。
―境氏略系図―
→千葉介胤正――境常秀――秀胤
(平次) (上総権介)
酒井
千葉一族(?)。戦国時代の上総土気・東金城主であるが、上記の境氏の末裔という説があるが、その可能性は低く、源姓土岐氏の一族というのが定説となっている。家紋の点からも、境氏とのちの酒井氏とは関係ない可能性が高い。ただ『吾妻鏡』などには13世紀の上総に「酒井」氏が記されているが、これは前記境氏のことか。
戦国時代の上総酒井氏の先祖は、将軍・足利義政の奉公衆だった美濃土岐氏の一族・浜春利ともいわれている。春利の兄・浜康慶(豊後守)は歌人としても著名で上総国浜を所領としていた。嘉慶2(1388)年5月9日、「土岐左馬助」が尾張国黒田にて合戦におよび、討死を遂げたことが伝わっている(『常楽記』)が、この戦いで「濱父子同被討」とあり、浜春利の曽祖父・土岐教国とその子・浜康持のこと? ただし土岐教国が「浜」を称したとは伝わっておらず、不明。
下総国が古河公方・足利成氏と馬加康胤によって実質支配されたため、康胤に追い出された嫡流の千葉実胤・自胤を支援する形で、義政は康正元(1455)年、東常縁(下野守)を下総国に派遣したが、この副将に浜春利(式部少輔)が従った。常縁らは下総に入ると千葉陸奥入道常義を討ち取り、浜春利は上総国東金城に入り、土気城主も兼ねた。この後、東金を中心に勢力を広げた春利が酒井氏の祖「治敏」として酒井を称したと伝わる。
応仁元(1467)年、応仁の乱によって美濃の城が斎藤妙椿によって陥されたことを聞いた常縁は、
「あるがうちに斯る世をしも見たりけり人の昔の猶も恋しき」
と詠んだが、春利はこれを京都の兄・浜豊後守康慶に送っている(『鎌倉大草子』)。
土岐氏と千葉氏の関係は、土岐光定の母が千葉介頼胤の娘とある(『土岐氏系図』)。また、その子に「教国」なる人物は見当たらないものの、「秀成」なる人物が「信濃・常陸・上総の土岐氏の祖」と紹介されている。さらに『千葉大系図』によれば、千葉介胤綱の娘が「土岐光行の妻で光定の母」と記されており、なんらかの形で千葉氏と土岐氏の間には血縁関係があったと推測される。ただ、上総酒井氏の発祥についてはいろいろあり、「三つ巴」の家紋の点から秀郷流藤原氏説、新田氏説(家康の家老・酒井忠次と同じ)、上杉氏説、千葉氏説、土岐氏説など一定しない。どれも一長一短があってこれと断言できるものがないからである。
永正17(1520)年4月21日、「隆賢土気酒井伯耆守殿」(『本土寺過去帳』廿一日上)が亡くなっている。
―酒井氏略系図(土岐氏説)―
土岐光行 <土気酒井氏>
∥―――光定―教国―浜康持―満持―+―康慶 +―酒井定隆-定治-胤治-康治-重治
千葉介頼胤―+―娘 |(豊後守) |
| | |<東金酒井氏>
| +―春利(=治敏?)―+―酒井隆敏-敏治-敏房-政辰-政成
| (式部少輔)
|<下総千葉氏>
+―胤宗――貞胤―氏胤―満胤――兼胤―――胤直――胤将
坂戸
千葉一族。千葉介胤正の八男・白井胤時(八郎)の子、白井胤定の三男・家定が印旛郡坂戸村(佐倉市坂戸)坂戸を称した。その子孫は千葉宗家の側近となって、坂戸修理亮は千葉介勝胤に仕え、昌胤の元服式に参列している。
―坂戸氏略系図―
→千葉介胤正-白井胤時-鏑木胤定-坂戸家定
(八郎) (九郎) (上野介)
坂元
武石一族。奥州に移住した武石氏は亘理郡を領して亘理を称している。その分流が亘理郡坂元郷に住んで坂元を称し、亘理郡蓑首城を居城とした。坂元氏はいくつかの流れがあり、坂本氏ともいう。
南北朝時代に南朝の鎮守府将軍・北畠顕家に従って和泉国で戦死を遂げた武石高広の三男・広定(主馬祐)は「千葉」を称し、康永4(1345)年3月、奥州探題・吉良貞家(修理大夫)に従って武功を挙げ、貞和4(1348)年、貞家より亘理郡内に五百余町を賜り、坂本村に住んで坂本を称したと伝わる。
ただし、建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』に記された「武石四郎左衛門入道々倫」の申条として、「奥州曰理郡坂本郷」は、正和年(1312-1317)より武石四郎左衛門入道の知行であったことがわかり、「子息左衛門五郎」の軍忠によって、本領・恩賞は先例に任せて安堵せられることが認められている。この「子息左衛門五郎」は実名は不明。一説には相馬氏とともに南朝勢力と戦った「武石五郎胤通」のことともいわれている。
康永2(1343)年8月3日、石堂義房入道が「武石新左衛門尉殿」に対して、勲功賞として「陸奥国曰理郡坂本郷半分并長戸呂村」を「同郡鵲谷郷之替」として知行安堵した。この「武石新左衛門尉」の実名は不明だが、左衛門尉になったばかりで坂本郷半分の知行を有した人物ということは、四郎左衛門入道道倫の一族であると思われる。
観応2(1351)年10月25日、吉良貞家から「武石但馬守」へ宛てて、「船迫合戦」にて「舎兄四郎左衛門尉」が討死を遂げたことについて功績をたたえ、「曰理郡坂本郷」の半分を知行安堵した。この合戦で討死した「四郎左衛門尉」とは、建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』にあらわれる「武石四郎左衛門入道道倫」とは別人であると考えられ、道倫の嫡男が四郎左衛門尉、「但馬守」はその弟であろうと思われる。四郎の弟であるので五郎などという通称であったかも知れず、建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』の「左衛門五郎」と同一人物かも。
【正和年(1312-1317)より坂本郷知行】 【康永2(1343)年8月3日、坂本郷半分】
武石四郎左衛門入道道倫――――――――+―四郎左衛門尉(武石新左衛門尉か)
|
|【観応2(1351)年10月25日、坂本郷半分】
+―但馬守(左衛門五郎か)――――――・・・・・・―親胤(但馬守)
つまり、高広の三男・広定(主馬祐)が坂本村を領する前から北朝方の武石一族がすでに入部していたことがわかる。広定は明徳元(1390)年10月5日、61歳で亡くなりました。法名は道秀。号は東光寺殿。
この広定流の坂元氏(坂本氏)は、もっとも武石氏が混乱した武石高広の時代に分流したとされている。また、これより以前に坂本郷にはすでに武石道倫が入部しており、通称も高広と同様の四郎と称した。このあたりに系譜の錯綜があるように感じられる。そして、坂本郷の主・武石四郎左衛門入道道倫は法名の一字に「道」という字があるが、広定流坂本氏も子孫代々「道」という一字を法名として用いている。これらから、道倫の子孫、特に但馬守の系統が坂本氏になったのかもしれない。
坂元広定(主馬祐)の嫡男・広綱(主馬祐)は、通称を平七郎といい、従六位下・丹波守になったと伝えられている。吉良貞家・満家の二代にわたって老臣として仕え、応永7(1400)年8月、奥州探題・吉良持家(上総介)が上洛したのち、宗家・亘理重胤(刑部少輔)の麾下となった。応永25(1418)年4月2日、73歳で亡くなった。法名は道圓。妻は郡山宗俊(修理亮)の娘。
坂元広綱(主馬祐)の嫡子・広常(主馬祐)は、通称を孫七郎。応永13(1406)年正月2日、39歳の若さで亡くなった。法名は道珍。妻は伊具郡の住人・佐倉将清(内膳)の娘。
坂元広常(主馬祐)の嫡男・広親(平左衛門尉)は通称を七郎といい、官途は左衛門尉、のち伊予守を称したと伝えられている。妻は梁川宗房(伯耆守)の娘。武石家の南方の旗頭を勤めた大老であった。永享9(1437)年4月19日、57歳で亡くなった。法名は道果。弟・鹿島実次(遠江守)は通称を弥三郎といい、応永5(1398)年3月、武石家侍大将・鹿島資次(日向守)の家督を継承して鹿島を称した。永享4(1432)年6月20日、55歳で亡くなった。妹は中田重政(左衛門尉)に嫁いでいる。
坂元広親(伊予守)の嫡男・親胤(但馬守)は通称を弥三郎。のち主馬祐、但馬守。彼には娘が一人あったことから、文安(1444)元年9月、亘理重時(玄蕃頭)の二男・景胤(彦次郎)を婿に迎えて家督を継がせた。応仁2(1468)年4月15日、68歳で亡くなった。法名は道西。
坂元親胤(但馬守)の養嗣子・景胤(肥後守)は、実は亘理重時(玄蕃頭)の次男。母は宇多郡の大内忠治(三河守)の娘。通称は彦次郎、弾正忠、肥後守。諱はのち秀胤。文明年中(1469-87)の応仁の乱において、奥州でも騒乱が起こったが、これに活躍して度々戦功を挙げる。長亨2(1488)年5月23日、66歳で亡くなった。法名は道信。
坂元秀胤(肥後守)の嫡男・宣胤(右衛門尉)は通称を彦次郎。母親は伊達家の家臣・青木重清(中務)の娘。文明14(1482)年8月4日、亘理元胤(因幡守)と伊達成宗(左京大夫)との伊具郡金山合戦において先陣を勤め、父に先立って討死を遂げた。享年37歳。法名は道寿。弟・粟野重行(右京亮)は伊達家中の粟野重隆(新九郎)の養嗣子となり、妹は亘理家の家臣・遠藤盛弘(右馬助)に嫁いでいる。
坂元宣胤が亡くなったため、弟の宗胤(弥二郎)が嫡男とされ、秀胤が亡くなると家督を継承した。通称は左衛門尉、伊予守。明応7(1498)年7月、亘理元胤(因幡守)と相馬尚胤(長門守)が宇多郡黒木郷において争った際に大功を挙げたと伝えられている。文亀2(1502)年4月、剃髪して千葉伊予入道と号した。法名は道慶。永正12(1515)年8月25日、65歳で亡くなった。
亘理元胤と争ったという「相馬長門守尚胤」なる人物は、実は相馬家の系譜には見ることができない。「長門守」を称する相馬氏としては、南北朝時代の武石高広の妹が「相馬長門守忠胤」に嫁いでいることが亘理武石氏の系譜に見えるが、この「相馬忠胤」も相馬氏の系譜には見ることができない。たしかに南北朝時代の相馬氏は系譜には見えない数多くの一族が宗家に従って南朝と戦っており、このような一族である可能性もあるが、「長門守」という受領名を冠していることは一族の惣領家ということもでき、相馬忠胤がいかなる人物であったか不明。そして、亘理元胤と黒木郷で争ったという「相馬長門守尚胤」についても不明。文明14(1482)年当時の相馬家惣領は相馬盛胤(大膳大夫)であり、長門守尚胤という一族の存在も確認できない。
坂元宗胤(伊予入道)の嫡男・宗俊(弾正忠)は通称を弥次郎。母は伊具郡の高倉季秋(長門守)の娘。天文12(1543)年4月、伊達稙宗(晴宗の誤記)と相馬顕胤の伊達郡黒石田の合戦において奮戦して討死を遂げた。享年53歳。法名は宗元公俊信士。弟の坂元胤冬(平八郎)は官途名を右馬助といい、別家を立てたが、天文元(1532)年10月2日、36歳で亡くなった。妹は亘理家士・郡山長清(彦左衛門)に嫁いだ。
坂元宗俊(弾正忠)の嫡子・隆俊(又次郎)は母は叔父・坂元胤冬(右馬助)の娘。通称は左衛門・弾正。旗紋は黒地日ノ丸。幕紋は七曜。永禄6(1563)年9月、伊達稙宗・晴宗父子との間で合戦があり、伊達郡梁川合戦の際、亘理家は稙宗方に荷担して隆俊は先陣を承って討死を遂げたという。32歳。法名は貴胤尊翁禅定門。隆俊には男子がなく、6歳の一人娘は稙宗の命によって国分宗政(能登守)の四男・白石景氏(三河守)の三男・俊久(四郎)を婿養子として、千葉家の家督を継承した。
ただし、永禄6(1563)年9月に、伊達稙宗・晴宗父子が戦った記録は残されていない。両者は天文17(1548)年に和睦して、稙宗は伊具郡丸森城に隠居しており、永禄8(1565)年6月18日に稙宗は78歳で亡くなった。その後、晴宗は幕府から奥州探題に任じられ、奥州における伊達家の地位を確固たるものとしている。永禄4(1561)年、牧野宗仲・中野宗時の伊達家家老が晴宗・輝宗父子の間を離間させようと謀り、晴宗は兵を集めているが、最上家や芦名家の和議周旋によって大事に至ることはなかった。輝宗が米沢城に入ったのが永禄6(1563)年であり、稙宗は完全に歴史の表舞台から姿を消していることから、坂元隆俊が討死したという梁川合戦がどのようなものであったか不明。この2年後の永禄8(1565)年、伊達晴宗と相馬盛胤が名取郡沙留川で合戦しているが、このとき、坂本俊常(木工助)が討死している。
坂元隆俊(弾正)の養嗣子・俊久(三河守)は、国分宗政(能登守)の子・白石景氏(四郎)の三男だが、隆俊討死ののち、伊達稙宗の命によってその娘を妻として家督を継いだという。永禄6(1563)年10月、家督を継ぐと、亘理家に臣属することとなり、その際に「坂元」を「坂本」に改めたという。
俊久は元亀3(1572)年、主家の亘理元宗の許しを得て、居城を亘理郡坂元村の愛宕山から蓑首山に移し、さらに天正19(1591)年、亘理家が遠田郡涌谷に移封されると、それに従って遠田郡南郷村木間塚を領した。その子・定俊(伯耆守)は、主君・亘理重宗(美濃守)の娘を妻としており、「亘理家御一家」の家格となった。その子・重俊(加賀守)は重宗の外孫となり、おそらく「重」の一字を偏諱されていると思われる。
重俊のあとは嫡男・元俊(雅樂允)が継承し、亘理家の一門として代々重職を任された。しかし、元俊の曾孫・胤俊(右門)の代の宝暦9(1759)年正月7日、亘理家の伊達村胤(因幡)は39歳の若さで亡くなった。村胤には子どもがなく、かねてより先代の異母兄・伊達村盛(安芸)の娘・順姫を養女として育てており、甥・高泉淳之助を婿養子にしようと、伊達村實(亘理領主)・伊達村利(水沢領主)・伊達村通(岩出山領主)・伊達村敏(川崎領主)・亘理元篤(佐沼領主)ら一門に相談した。
このとき、水沢領主・伊達村利は、伊達宗家の公子を迎えて継がせる事が望ましいと発言したため、この案を蹴ることは宗家に対してできかねるため、やむを得ず藩主・伊達宗村(陸奥守)の子・藤四郎を養嗣子として迎えることとなった。そして、宝暦9(1759)年の村胤の薨去ののち、藤四郎は涌谷伊達家の家督を継ぎ、伊達村倫と称した。
[ご協力:坂本紀男さん]
◇仙台藩主・涌谷伊達家略系譜◇
【宇和島藩主】
伊達政宗―+―秀宗 +―綱村 【継水沢伊達家】
(中納言) |(大膳大夫) |(陸奥守) +―村景―――――村利
| | |(和泉) (左近将監)
+―忠宗―――+―綱宗――+―村直 |
(陸奥守) |(陸奥守)|(伊達宗倫養子) | +―村盛―――順
| | | |(安芸) (葛西清存妻)
| +―類姫 | |
| ∥――――――+―村定―――+―村胤=+―宗倫―+=村直
| 伊達村元 (安芸) (因幡)|(安芸)|(伊達綱宗子)
| (安芸) ∥ | |
| ∥ | +=村常
| +=孝姫 | (石川村文子)
| | |
| | |
+―田手宗房――吉村―――――――――――――+―宗村―+―重村―――斉村
(肥前) (陸奥守) (陸奥守)(陸奥守)(陸奥守)
しかし、涌谷伊達家の家臣たちは武石胤盛以来の平氏の血が絶えることを悲しみ、伊達村胤の養女・順姫も村胤の喪があけると同時に、葛西清存(壱岐)に嫁いで、ついに胤盛以来の亘理家の血統はここに途絶えてしまうこととなった。このことに、家老・山寺十左衛門は宝暦13(1763)年、亘理家の一門筆頭である坂本胤俊を涌谷家の当主にしようと謀り、領主・伊達村倫を廃しようとした。しかし、計画は事前に発覚。山寺十左衛門は斬罪となり、坂本胤俊は北上に追放され、坂本宗家は断絶となった。
こののち、坂本家は坂本重俊(加賀)の弟・実俊(八右衛門)の流れを組む俊秀(藤右衛門)が本家とされた。この一連の事件を「宝暦事件」という。
広定系坂本氏の紋は、旗紋は赤地に白抜七曜・筋替裾黒。幕紋は真中七曜両脇上羽蝶。
坂元氏の代々は亘理宗家に仕え、室町時代後期、亘理宗隆(彦五郎)のあとを伊達稙宗の子・綱宗(彦五郎。宗隆の孫)が継いだことによって亘理家は伊達氏に属すことになり、江戸時代になって綱宗の甥・亘理重宗(美濃守)が「伊達」の称号と「竹に雀」の紋を与えられて一門に列し、涌谷(涌谷町)におもむくと坂元氏もこれに従って、涌谷伊達家の重臣となる。
幕末の佐沼亘理家老として坂元良材(助左衛門)が見え、その子・良翰(蕃窓)も家老として戊辰戦争に参加した。
―広定系坂本氏略系図―
千葉介常胤――武石胤盛…―+―高広――――+―亘理広胤―――…→【亘理宗家】 +―広親―――親胤―――秀胤――+―宣胤
(三郎) |(石見守) |(因幡守) |(伊予守)(但馬守)(肥後守)|(右衛門尉)
| | | |
+―娘 +―西館景胤 +―広綱―――広常――+―鹿島実次 +―宗胤――――+
|(相馬忠胤妻)|(伊賀守) |(平七郎)(主馬祐)|(遠江守) |(伊予守) |
| | | | | |
+―娘 +―娘 +―娘 +―娘 +―粟野重行 |
(南條高国妻)|(郡山定俊妻)|(岩原胤宗妻) (中田重政妻) |(右京亮) |
| | | |
+―千葉広定――+―定信 +―娘 |
(肥後守) |(小三郎) (遠藤盛弘妻)|
| |
+―娘 |
(吉良家長妻) |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―宗俊―――隆俊―+―娘 +―定俊――――+―重俊――――+―元俊―――+―元真――――+―元倚――――胤俊――茂富
|(弾正忠)(弾正)|(白石俊久妻)|(伯耆守) |(加賀守) |(雅樂允) |(加兵衛) |(勘左衛門)(右門)(登)
| | | | | | |
| +=坂本俊久――+―娘 +―娘 +―遠藤久俊 +―娘 +―娘
| (三河守) (沼部玄蕃妻)|(長谷景親妻)|(新兵衛) |(長谷重長妻) (熊谷直信妻)
| | | |
| | +―武田信俊 +―娘
| | |(加右衛門) (武田平七郎妻)
| | |
| | +―娘――――――娘
| | (涌沢元広妻)(坂本元倚母)
| |
| +―俊信――――――子俊―――――乗俊======安俊――――俊周
| |(彦左衛門) (総右衛門) (総右衛門) (七郎兵衛)(総右衛門)
| |
| +―実俊――――――俊親―――+―俊房――――――俊倚――俊寿――――俊秀
| (八右衛門) (三左衛門)|(八右衛門) (八弥)(三左衛門)(藤右衛門)
| |
| +―娘 +―常盛 +―安俊
| |(千葉宗俊妻)|(半左衛門) (七郎兵衛)
| | |
+―胤冬――+―俊常――――+―斎 常秋――――坂本常信 +―常俊――――+―常徳――――常知
|(右馬助) (木工助) |(仲左衛門) (仲右衛門) |(仲右衛門) |(仲右衛門)(仲右衛門)
| | | |
+―娘 +―常時――――+=常信――――+=久俊――――+―常住―――+―娘 +―荒 常恭
(郡山長清妻) |(仲右衛門) |(仲右衛門) |(仲右衛門) |(仲右衛門) (千石氏範妻) (善右衛門)
| | | |
+―斎 常保 +―娘 +―娘 +―常将
|(外記) |(佐藤因幡妻)|(安藤吉方妻) (理順)
| | |
+―娘 +―娘 +―常之======常将―――――常明――――+―娘
(加藤信濃妻) (結城元能妻)|(理順) (理順) (理敬) |(永瀬常盈妻)
| |
+―娘 +=常盈
(坂本常将妻) (理敬)
崎山
千葉氏の遠縁。湯浅氏の一族。
佐倉
千葉一族。下総国印旛郡佐倉村が発祥地といわれる。
篠本
千葉一族。発祥地は香取郡笹本村。千葉介昌胤の子・忠胤(治部大輔)が篠本を称した。
作佐部
千葉一族か。発祥地は千葉郷作草部村(千葉市稲毛区作草部)か。千葉宗家の直臣と思われる。ほか、匝瑳郡の三谷氏の被官に名が見える。匝瑳郡南条庄新城(匝瑳市豊栄地区新字要害)の城代。この作佐部家は代々玄蕃を称している。
興国2(1341)年、新田氏の遺臣十六名が匝瑳南条庄木積(匝瑳市木積)の地に逃れ、定住したという。
なぜ新田氏の遺臣が下総に逃れたのかはわからないが、千葉介貞胤は南北朝時代初期、新田義貞に属して足利氏と戦っていた。貞胤は建武3(1336)年10月、越前で足利氏に降伏しているが、その子・千葉介氏胤(1337-1365)は新田義貞の娘を娶っていることから、千葉氏と新田氏は義貞亡き後も関係を保っていたか。しかし、観応3(1352)年、新田義興・義宗(新田義貞子)らが起こした反乱では、千葉介氏胤は足利尊氏のもとに真っ先に参陣して新田氏を攻め落としている。
匝瑳南条庄木積に落ち着いた新田氏の遺臣十六名とは、行木佐左衛門、佐久間藤十朗、藤崎新右衛門、越川庄兵衛、久古助之丈、作佐部平右衛門、大木半右衛門、加納半兵衛、平山五郎右衛門、伊橋八右衛門、富永縫右衛門、作佐部十朗兵衛、谷津大木治朗右衛門、石橋重左衛門ら十六名で、この中に「作佐部平右衛門」「作佐部十朗兵衛」の名を見ることができる。この末裔が三谷氏の重臣となった作佐部玄蕃か。
この十六士のうち、千葉一族の家中には、作佐部氏のほかに久古氏がある。千葉介胤富に仕えた久古主計の名が見える。
佐是
上総一族。「佐瀬」とも書く。上総権介常澄の四男・円阿禅師が上総国山辺郡佐是村に住んで佐是を称した。一説には伊北常仲の四男(『千葉大系図』)。妻は椎名胤光の娘(『千葉大系図』)。
会津葦名家の重臣・佐瀬氏は代々「常」字を用い、同氏の伝承では千葉氏の流れと伝わる。家紋は抱沢潟。文亀3(1503)年11月3日、葦名盛高(修理大夫)の代官として佐瀬久常(平左衛門尉)の名が見える。盛高は桂林寺造営の所用のため、「みなミやすミみなミこうちの内六間地の所」の屋敷を六貫文で瓜生勘解由に売り渡したが、その際に代官を務めていたのが久常である。
天文元(1532)年8月、芦名盛舜(遠江守)は「東黒川之内千本木御箸田三千苅之田地」を売り渡しているが、その際に佐瀬大学助が取り次いでいる。同じく佐瀬大学助が、芦名盛氏の手紙の返信として武田信玄よりの手紙を取り次いだ。
また、天文4(1535)年5月3日、「東黒川之内法花堂南堀際百五十苅、并石塚南二百苅、合参百五十苅之田地」は長谷川清兵衛尉が買い取り、それを実成寺へ寄進したことの証文を、佐瀬常教(大隈守)が実成寺の日東上人に申し継いでいる。
天文9(1540)年2月27日、葦名盛舜(遠江守)、葦名盛氏(修理大夫)は会津黒川城下にある諏訪神社に棟札を奉納したが、その中に「佐瀬信濃守常和」「佐瀬大和守種常」の名が見える。種常は佐瀬源兵衛の次男で、号は不及斎。兄に中目式部がいた。この佐瀬種常(大和守)の子孫は会津藩士となった。会津藩士の先祖書上(『要略会津藩諸士系譜』)には家紋は月星、本姓は千葉とある。菩提寺は谷中の大黒山経王寺(荒川区西日暮里三丁目)。
天正17(1589)年6月5日、磐梯山麓において伊達政宗と葦名氏の合戦がおこった。合戦の場の名を取り、「摺上原の戦い」と呼ばれるが、この戦いをきっかけに葦名家は会津黒川城を失って滅亡するが、敗走する葦名勢の殿軍を金上盛備(玄蕃)と、養嗣子・佐瀬常雄(平八郎)ととも受け持って討死を遂げた。摺上原古戦場には彼ら三名の功績を称える「三忠碑」が建っている。
種常の養嗣子・常雄(平八郎)は葦名家の重臣・富田氏実(美作守)の三男で、佐瀬種常の養嗣子となった。通称は平八郎。養父の種常とともに摺上原に散った。
葦名盛氏(修理大夫)の代には佐瀬玄蕃頭が老臣として見え、年代は不明ながら、平田弥次郎へ書状を送った佐瀬常慶(源三)が見える。書状の中には「偏ニ殿御父子之御なかあしきと奉存候、吉事重而可申候」とあり、これは伊達稙宗と晴宗の係争、もしくは晴宗と輝宗の争いである可能性も。
永禄7(1564)年8月24日、大沼郡中津川下村熊野権現社に、邑主・佐瀬源兵衛と代官・入善三郎右衛門が棟札を奉納している。
―佐瀬氏略系図―
上総権介常澄――佐是円阿
(上総権介) (四郎禅師)
∥――――俊常―+―常西―――覚心―時常
千葉介常重―+―椎名胤光――――娘 (次郎)|(相模守) (彦次郎)
(千葉介) |(六郎) |
| +―秀常
+―千葉介常胤 |(小次郎)
(千葉介) |
+―朝常
|(三郎)
|
+―惟常
|(弥三郎)
|
+―惟綱――政綱
(七郎)(孫次郎)
―会津藩佐瀬氏略系図―(天保四年『諸士系譜』:『会津人物文献目録』部分記載)
佐瀬源兵衛――常種――+=常雄
(大和守)|(平八郎)
|
+―常祐――常直――――常成――――常直――――常峯――――常富――――女
|(内記)(平右衛門)(平右衛門)(近右衛門)(平右衛門)(平右衛門) ∥
| ∥―――――常義
|【養蚕神社神職】 ∥ (平弥)
+―常政――常尚――――常安――――常職 常信
(右近)(大膳亮) (主膳) (内蔵権頭) (平右衛門)
佐野
千葉一族。原常宗(四郎)の曾孫・胤清(次郎)が香取郡千田郷佐野村(千葉県香取郡多古町佐野)を領して、佐野を称した。
武蔵千葉氏の一族と思われる千葉勝胤の子・佐野胤信(新蔵)は桃山時代末期、徳川家康の家臣で関東郡代・伊那忠次(備前守)に召し出され、文禄2(1593)年、武蔵国足立郡に新田を開発した。現在の足立区佐野がその地であるが、佐野氏の屋敷跡は公園として開放されている。かつて妙見社があった場所には礎石が残されている。
同じころ、やはり千葉氏の末裔である石出吉胤(掃部)が伊那忠次に属して、佐野の数キロ南西の千住宿の開発に尽力している。
-佐野氏・大原氏略系図-
→平常長――+―常兼――――常重――――常胤―――…千葉氏
(上総権介)|(下総権介)(下総権介)(下総権介)
|
+―原常宗―――常継――――清常―――+―大原常光――+―重綱―――――+―政常――――+―常明―――永常
|(四郎) (十郎)(五郎大夫) |(三郎兵衛尉)|(三郎左衛門尉)|(三郎兵衛尉)|(彦三郎)(三郎)
| | | | |
+―常晴――――常澄――――広常 +―佐野胤清 +―妙義 | +―常賢――――――常貞
(上総権介)(上総権介)(上総権介)|(次郎) | (三郎左衛門尉)(三郎兵衛)
| |
+―大原常近 +―頼重――――+―三郎
(五郎) (与一) |
|
+―四郎
|
|
+―六郎
澤
相馬一族。名字地は不明だが、相馬郡内の土地から取られたと思われる。
相馬左衛門尉胤綱の長男・相馬次郎兵衛胤継が義母・相馬尼(天野政景娘)によって義絶されたが、子孫は「左衛門尉」などに就いており、独立した御家人として続いたものと思われる。胤継の孫にあたる胤頼が「澤」を称し、その子・澤八郎太郎貞頼はおそらく得宗被官となって「貞」字をもらっているのだろう。
子孫は知られていないが、鎌倉時代末期の『足利氏所領奉行人交名』によれば、「澤民部七郎」なる人物が見える。相馬胤継の長男系は「民部」を称しており、関係があるのかもしれない。
相馬胤綱――――+―胤継――――――+―泰胤――――――――胤親
(小次郎左衛門尉)|(次郎兵衛尉) |(民部大夫) (民部次郎)
| |
+―胤村 +―頼泰――――――+―泰継
|(孫五郎左衛門尉)|(弥次郎左衛門尉)|(六郎兵衛尉)
| | |
+―六郎 +―胤盛 +―沢胤頼―――貞頼
| |(四郎左衛門尉) (八郎) (八郎太郎)
| |
+―行胤 +―胤助
|(七郎) (介法印・仁和寺)
|
+―忠胤――――――――■■
(九郎左衛門尉) (童名:千)
澤田
上総千葉氏の祖・上総権介秀胤の子孫に澤田秀明(三郎)が見える(『山門文書』)。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
|
+―澤田秀明
|(三郎)
|
+―文殊寺秀棟
(四郎)
三谷
千葉一族。千葉介胤正の四男・胤広が上総国埴生郡三谷村を領して三谷(さんがや)を名乗った。その後、三谷氏は匝瑳郡に移ったあと、室町末期に井田氏の被官となり新城や笹本城を支配したと考えられる。
永正2(1505)年に千葉介昌胤の元服式が行われたとき、その列席者として三谷孫四郎・蔵人佐・大膳亮(胤興?)が記されていて、神馬・神剣を奉納している。また、隣接する領地を持つ井田氏との対立から、ついに弘治元(1555)年10月18日に三谷信慈入道(三谷氏惣領)が武射郡金光寺に参詣に行く途中で井田友胤(因幡守)の奇襲に遭って死亡してしまう。井田氏は三谷氏の所領・坂田郷を侵略して三谷氏の一族・家臣を被官化していった。
三谷氏は坂田郷の惣領家・大膳亮家が滅亡したのち、匝瑳郡の蔵人佐家が惣領となったようで、井田氏の重臣であった。井田氏については当時の年貢高を表す貫高についての文書(『井田文書』)が伝わっていて、この文書には、「三谷蔵人佐」「三谷民部少輔」「三谷右馬助」「三谷源左衛門」「三谷主税助」「三谷刑部左衛門」の6人の三谷氏の名前が見える。三谷衆の貫高合計は137貫760文で、そのほとんどが匝瑳市内に集中している。三谷蔵人胤重は三谷氏領全体の約65パーセントの88貫350文(南条庄吉田郷・新置郷)を領し、天正15(1587)年には千葉介利胤から吉田郷の宛がい状をもらっている。
-三谷氏略系図-
→千葉介常胤―胤正――+―成胤―――泰胤==三谷胤広―+―通胤 +―胤継―――+―氏胤
(千葉介) (千葉介)|(千葉介)(二郎)(四郎) |(次郎) |(四郎太郎)|(彦四郎)
| | | |
+―三谷胤広 +―胤村――泰俊―+ +―幹胤
(四郎) (四郎)(四郎)| |(八郎)
| |
| +―十郎
| |
| |
| +―寂弁
| |(侍従)
| |
| +―平兵衛尉
|
|
+―義胤―――――頼胤―――大膳亮――+
(弥四郎) (又四郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤良
|(藤四郎)
|
+―胤誠―――胤徳―――胤重
(蔵人佐)(蔵人佐)(蔵人佐)
【し】
椎木
千葉一族。「しいのき」と読む。夷隅郡岬町椎木発祥と伝わる。『千葉伝孝記』では千葉介親胤の家臣・椎木小左衛門が見える。天文12(1543)年の上杉謙信と千葉親胤の武蔵野合戦で、小左衛門は敗れ傷ついた親胤に馬を与えて逃がし、自身は敵を防いで戦死した。また、里見氏の家臣に椎木丹右衛門の名があり、天正16(1587)年9月、土岐氏との争いに出陣した。
江戸時代、会津藩士となっていた椎木家があった。寛文2(1662)年、椎木胤元(庄兵衛)が会津藩に召し出され、三百石を知行した。幕紋は月星、九曜。替紋は九曜、丸ノ内ニ軍配。その子・胤平(九郎左衛門)は椎木を千葉に改め、子孫は代々千葉を称して幕末に至った(『要略会津藩諸士系譜』)。
―会津椎木氏略系図―
→椎木胤元――千葉胤平―――胤春――胤武――胤全――胤元―――――女
(庄兵衛) (九郎左衛門)(和介)(郡介)(勇助)(七郎右衛門) ∥―――胤征
∥ (秀之進)
千葉胤福―――胤方
(左久) (権助)
椎崎
千葉家御一家。千葉介氏胤の末裔・岩橋輔胤の六男・胤忠(六郎)が上総国武射郡椎崎村を領して椎崎を称した。永正8(1511)年2月3日、「道甫 椎崎殿 永正八年二月 孝胤御舎弟」が亡くなっているが(『本土寺過去帳』)、千葉介孝胤の弟・六郎胤忠のことか。
椎崎氏は千葉介孝胤の子・胤資(十郎)が継ぎ、さらに千葉介勝胤の子・勝信(五郎)が継承したとされる。なお、諱の「勝信」については「勝任」「勝住」との説もあるが、自筆の署名を見る限り「任」「住」とは読めない。「信」も厳しいが、「任」「住」よりはまだ可能性は高いだろう。
年は不明だが、10月15日に亡くなった「五郎殿 椎崎殿御息」がいた。椎崎家を継いでいた勝信のことか(『本土寺過去帳』)。
―椎崎氏略系図―
→千葉介氏胤―…―岩橋輔胤―+―千葉介孝胤―+―千葉介勝胤―+―千葉介昌胤
|(千葉介) |(千葉介) |
| | |
+―椎崎胤忠 +―椎崎胤資 +―椎崎勝信
(六郎) (十郎) (五郎)
椎津
東京側から見た国府台 |
応永23(1416)年、上杉禅秀が乱を起こしたとき、椎津出羽守が千葉介胤直にしたがって上杉勢に加担して討死している。
また、天文7(1538)年10月の足利対北条の第一次国府台の戦いでは、椎津隼人正は足利義明に従って、国府台の北端・岩瀬(松戸駅西口の台地)に布陣していたが、国府台に直接攻め寄せるはず(足利義明の考え)だった北条氏康・長綱(のち玄庵)の軍勢が、裏をかいて相模台を目指して進軍してきたために、国府台南端に陣取る義明に「敵方が江戸川を渡りきる前に北条軍の側面を衝いていただきたい」と急使を発したが、義明は聞く耳を持たずに北条全軍を渡河させてしまう。結局、椎津隼人正は重傷を負い、足利義明はじめ子・義純や弟・基頼も戦死した。
千葉氏ではないが、上総武田氏の一族・椎津信政がいた。信政は甲斐武田氏の流れ、武田信長の孫・峯上信武の孫にあたる。
―椎津氏略系図―
→千葉介常重-椎名胤光…胤衡-椎津胤仲
(六郎) (三郎)
椎名
椎名一族の所領 |
椎名一族。一族中の名門の大族。千葉介常重の子・胤光(六郎)が千葉庄椎名郷(千葉市緑区椎名崎)を領して椎名氏を称した。胤光は千葉介常胤の弟にあたる(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』)。そのため椎名氏も千葉介家と同じ長さの歴史を持ち、その分流・子孫も多数にのぼる。
寿永2(1183)年12月、上総権介広常は謀反の疑いで殺され、その一族も所領を没収された。その遺領や一族は千葉介常胤に預けられることとなった。しかしその直後、広常が一ノ宮神社に奉納した鎧から「頼朝の悲願をかなえたまえという」という願文を発見した頼朝は、広常の殺害を悔いてその一族を赦免したが、すでに常胤に与えられた所領もあったためか、上総氏系の武士の所領がすべて元のように返されたわけではなく、その後も大部分は千葉氏の支配下にあった。
椎名胤光が領した「匝瑳南条庄」は、もともとは広常の一族・匝瑳助常(二郎)の所領であった場所で、頼朝から給わった地頭職と考えられる。胤光の子孫は同庄柴崎(匝瑳郡横芝光町虫生字古城)など、匝瑳南条を中心に発展していった。
元久2(1201)年、「椎名五郎入道(胤光か)」が「春日社領阿波国津田島」の地頭に補されている。この島は「先地頭兵衛尉親家之跡」であるが、「兵衛尉親家」は何らかの懈怠によって領主の春日社の訴えにより改易されたとみられる。しかし、「遠江守(北条時政)」は後任地頭の椎名五郎入道について、「然者無指其誤、忽難被改易候歟」と春日社に釘を刺しつつ、「但於有限御年貢者、不可致懈怠之由、被仰含地頭候了」と伝えている。また、「(阿波国)惣追捕使」の庄内乱入については、非法であれば停止を下知する旨を「春日神主殿」に返報した(「大和大東家文書」『鎌倉遺文』1543)。
一方、南条と境を接する匝瑳郡北条庄には、飯高郷(匝瑳市飯高)を本拠とする匝瑳常広(八郎)の三男・飯高政胤があった。匝瑳常広は前記(匝瑳次郎助常)の上総氏系匝瑳氏とは異なる千葉氏流匝瑳氏で、六郎常広は千葉介常胤の従兄弟にあたる。
鎌倉時代から室町時代を通じて南条庄と北条庄の飯髙氏・椎名氏は互いに争い、室町時代中期に椎名氏が飯高氏を滅ぼして椎名一族の勢力は大きくなっていった。
◎椎名氏のおもな流れ(野手流、山桑・松山流、飯倉流)
野手流 |
野手・長谷・吉崎(匝瑳郡野栄町~匝瑳市)の椿海口に所領を持った椎名一族。一流は越中の国新川郡松倉郷地頭となって同地に赴く。下総に残った一流は室町時代に押田氏と争い、敗れて常陸国小田氏を頼った。 文永9(1272)年、椎名胤員(尾垂胤方の子)と井戸野胤義(胤員の叔父)が「熊野山領下総国匝瑳南条東方新田」について論争を起こしている。その後、野手氏は野手に隣接する長谷・吉崎を領したか? |
山桑・松山流 | 山桑・松山・飯塚(八日市場中部)など椿海沿岸に栄え、一流は南に下って、平木・宮川を領した。 |
飯倉流 (椎名伊勢守) |
飯倉は匝瑳郡中部、長岡・大浦は匝瑳郡南条北部で、飯高氏と境を接し、井戸野は野手流と論争を起こして、地頭職を獲得したか?飯倉氏は椎名一族の中でももっとも栄えた一族で、室町時代中期まで独立した勢力を持っていた。千葉宗家の重臣でもあり、千葉介胤直が馬加陸奥守康胤の攻撃を受けた際も、椎名胤家(法名:蓮胤)は胤直に従って活躍。享徳4(1455)年8月16日に自刃を遂げた。その後も千葉宗家の重臣として小田原合戦を迎える。 |
福岡流 | 岩室・柴崎・富下・台・小田部など主に匝瑳郡最西部を領した。泉川氏は匝瑳郡最東部に位置する。室町時代後期、栗山川をはさんだ対岸の坂田城主・井田氏(千葉一族。小田原北条氏井田衆の筆頭)の支配下に入り、椎名勢兵衛を筆頭に10名の椎名氏が名を連ねている。 |
椎名胤光の長男・胤高(六郎太郎)は保元の乱(1156)で源義朝にしたがって活躍、頼朝の挙兵時にも従って功名をあげたとされる。胤隆の次男・胤義(太郎)は叔父・野手胤茂の養子となり、井戸野氏の祖となった。しかし文安9(1272)年、胤義は甥の胤員と「熊野山領下総国匝瑳南条東方新田」のことについて争っており、胤義の子・義成(式部丞)は山桑系椎名氏の所領に隣接する宮和田村に入った。そして子孫はふたたび野手に戻り、長谷・吉崎と領地を北上させていった。
承久3(1221)年6月18日、京都から鎌倉の北条泰時へ宛てて、承久の乱の戦功者の交名が送られた。その中に「椎名弥次郎」の名が見える。椎名胤光の孫、椎名弥次郎胤朝か。
建長3(1251)年1月20日、将軍家二所詣の隨兵に「椎名六郎胤継」の名が見える。しかし、椎名六郎胤継の名は『神代本千葉系図』など、千葉氏の系譜に見ることはできず、誰の末裔かは不明。椎名松山胤村(小次郎太郎)の子に「椎名又太郎胤継」なる人物を見ることができるが、通称が異なり、同一人物と断定することはできない。
●二所詣供奉隨兵(『吾妻鏡』建長三年正月二十日条)
先行 | 葛西七郎時重 | 野本二郎行時 | 佐貫七郎廣経 | 江戸八郎 | 佐野八郎清綱 | 山上彌四郎秀盛 |
肥前太郎資光 | 佐貫次郎太郎泰経 | 豊嶋平六経泰 | 山田四郎通重 | 千葉七郎次郎行胤 | 東四郎義行 | |
御輿 | 藤原頼嗣 | |||||
輿側 | 三村新左衛門尉時親 | 肥後四郎兵衛尉行定 | 式部八郎兵衛尉 | 内藤豊後三郎 | 武藤二郎兵衛尉頼泰 | 藤倉三郎盛義 |
梶原右衛門三郎景氏 | 小野澤二郎時仲 | 渋谷二郎太郎武重 | 山城次郎兵衛尉信忠 | 平右近太郎 | 土屋新三郎光時 | |
摂津新左衛門尉 | 兼仗太郎 | 平井八郎清頼 | ||||
御後 | 尾張少将 | 中御門少将 | 武蔵守 | 相模右近大夫将監 | 陸奥掃部助 | 相模式部大夫 |
北條六郎 | 越後五郎 | 遠江六郎 | 武藤四郎 | 相模八郎 | 相模三郎太郎 | |
足利三郎 | 新田三河前司 | 内蔵権頭 | 遠山前大蔵少輔 | 大隅前司 | 内藤肥後前司 | |
伊賀前司 | 伊勢前司 | 上野弥四郎右衛門尉 | 同三郎兵衛尉 | 大曾弥次郎左衛門尉 | 遠江二郎左衛門尉 | |
梶原右衛門尉 | 和泉五郎左衛門尉 | 出雲五郎右衛門尉 | 波多野小次郎 | 信濃四郎左衛門尉 | 筑前次郎左衛門尉 | |
武藤左衛門尉 | 和泉次郎左衛門尉 | 出羽三郎 | 出羽四郎左衛門尉 | 山内籐内左衛門尉 | 隠岐三郎左衛門尉 | |
阿曽沼小次郎 | 紀伊次郎右衛門尉 | 鎌田次郎兵衛尉 | 近江大夫判官 | |||
後陣隨兵 | 阿曽沼四郎次綱 | 木村六郎秀親 | 清久弥次郎秀胤 | 高柳四郎三郎行忠 | 国分二郎胤重 | 椎名六郎胤継 |
小栗弥次郎朝重 | 善右衛門次郎康有 | 真壁小次郎 | 麻生太郎親幹 | 長江七郎景朝 | 足立左衛門三郎元氏 |
文永8(1271)年11月1日、北条時宗・政村の連署の『関東下知状』(『出雲大社千家文書』:「北区史」)によれば、出雲国一宮である杵築大社(島根県大社町)最大の祭礼・三月会の「頭役(相撲頭二役、舞役)」を出雲に所領を持つ御家人が、毎年交代で結番で務めることに定められた。結番は「廿番」まであり、二十年ごとに所役が回ってくることとなる。このうち、一番(二百十五町七段六十歩)の相撲頭(九十二町五段六十歩)の所役のうち、成相寺七町の負担した「椎名小二郎入道」が見える。時代的に見て椎名小次郎胤澄か。
●『出雲国杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番事』(『出雲大社千家文書』:「北区史」)
一番(265町7段60歩) | 相撲頭(91町6段300歩) | 湯郷(意宇郡) | 33町6段小 | 大西 |
拝志郷(意宇郡) | 21町4段 | 大西 | ||
佐世郷(大原郷) | 26町6段 | 湯左衛門四郎 | ||
比知新宮(仁多郡) | 10町300歩? | 阿井兵衛尉子 | ||
相撲頭(92町5段60歩) | 宇賀郷(出雲郡) | 52町2段300歩 | 西郷弥三郎 | |
福富保(出雲郡) | 22町2段大 | 福富太郎入道 | ||
成相寺(秋鹿郡) | 6町 | 椎名小二郎入道 | ||
朝酌(島根郡) | 10町 | |||
舞頭(82町5段60歩) | 大野庄 | 74町5段60歩 | 大野次郎左衛門 大野六郎等子 |
|
北野末社 | 8町 | 香木三郎入道 |
椎名氏嫡流(飯倉流)の子孫は千葉宗家の重臣となり、康正元(1455)年8月16日、千葉介胤直が亡んだときは椎名胤家(与十郎・伊勢守・蓮胤)が円城寺貞政とともに多古城外の阿弥陀堂で原胤房と戦って敗れ、自刃している。千田庄多古は円城寺氏の所領があり、さらには飯倉椎名氏の所領にも近接しており、千葉介胤直が同地に逃れたのは円城寺氏と椎名氏の助けを得るためであった可能性もある。
椎名氏は三谷氏と並んで東総の有力豪族であり、永正2(1505)年、千葉介昌胤の元服式(千葉妙見社)において椎名伊勢が礼酒の儀をつとめ、さらに馬一疋・太刀一腰を奉納した人物に椎名八郎がある。
◇馬・太刀奉納人数◇
井田美濃守 | 海保但馬守 | 佐久間伯耆守 | 山梨主税助 | 金剛寺少輔 | 和田大蔵丞 | 坂戸兵部少輔 | 坂戸修理亮 |
三谷孫四郎 | 粟飯原久四郎 | 椎名八郎 | 木村出雲守 | 坂戸孫三郎 | 安藤豊前守 | 三谷蔵人佐 | 粟飯原孫太郎 |
山室孫四郎 | 鏑木助太郎 | 幡谷宮内少輔 | 粟飯原大学 | 三谷大膳亮 | 幡谷又六郎 |
しかしこののち、東総に起こった新興勢力の井田氏がその勢力を広げ、天文17(1548)年、井田友胤(美濃守)は大台城(山武郡芝山町大台)を築城してそこに一族とともに移住、隣接する坂田郷小堤城主・三谷大膳亮を弘治元(1555)年10月18日に討取り、坂田郷はじめ、三谷氏旧領を横領した。さらに椎名氏をもその支配下に組み込み、三谷・椎名両氏は井田衆を構成する両翼となった。しかし、弘治年中、椎名右衛門大夫と三谷小四郎ほかその一族たちが離反したこともあったようである(『千葉胤富判物写』)。
井田氏はじめ、北条氏の支配下にある豪族たちは「軍役割付」を命じられているが、このとき、椎名一族は井田衆300名の23%にあたる71名が割り当てとなっている。
椎名衆氏名 | 大簱 | 自身 指物 |
歩弓侍 | 歩鉄砲侍 | 鑓 | 持鑓 | 馬上侍 | 自身 | 馬廻歩 | 乗替 | 総勢 | |
椎名勢兵衛顕時 | 2 | 1 | 2 | 2 | 10 | 2 | 6 | 1 | 4 | 30 | 椎名衆筆頭。芝崎城主。113貫450文。 | |
椎名帯刀左衛門尉 | 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | 19貫500文。 | ||||||
椎名図書助 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 6 | 19貫300文。 | |||||
椎名彈正 | 1 | 1 | 1 | 3 | 虫生城将。13貫100文。 | |||||||
椎名摂津守 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 6 | 24貫530文。 | |||||
椎名佐渡守 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 6 | 24貫文。 | |||||
椎名将左衛門尉 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 6 | 15貫文。 | |||||
椎名孫兵衛 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 6 | 13貫文。 | |||||
椎名刑部丞 | 1 | 1 | 1 | 3 | 7貫文。 | |||||||
椎名織部丞 | 6貫150文。留守居か? | |||||||||||
8 | 9 | 2 | 7 | 24 | 2 | 6 | 9 | 4 | 71 |
さらに、子孫・椎名胤貞(源之丞)は粟飯原俊胤(千葉介重胤の弟)の後見人となり、天正18(1590)年の小田原合戦では千葉氏の軍監として俊胤とともに小田原城に入った。また、おなじく千葉氏部将として椎名胤能(主計)の名も見える。
椎名一族の中には野手氏の重臣となった一族があった。天文6(1537)年の野手城落城(八日市場城の押田氏に攻められた)の時に椎名数胤(豊後掾)が討死し、その子・数基(出羽介)が野手義通とともに下総国を逃れて常陸小田城主・小田氏に仕えた。その子・胤基(佐渡二郎)は小田氏が佐竹氏に滅ぼされたのち、龍ヶ崎城主・土岐氏に仕えたという。
室町中期には、越中国新川郡松倉城に椎名氏の名(越中椎名氏)がみえるが、その系譜は杳として不明である。越中国と椎名氏の繋がりがわずかに見えるのが、明徳3(1392)年の相国寺供養の際、父の「畠山右衛門佐源基国」に召具されて参列した「畠山尾張守満家」の「郎従三十騎皆総靱着甲冑」の一人に、「浅黄糸」縅の甲冑を着し、「鴇毛」の馬に乗った椎名次郎長胤である(『相国寺供養記』)。
遊佐河内守国長 | 遊佐豊後守助国 | 齋藤次郎基則 | 隅田彦次郎家朝 | 遊佐孫太郎基光 |
古山次郎胤貞 | 神保宗三郎国久 | 飯尾善六清政 | 遊佐五郎家国 | 門真小三郎国康 |
三宅四郎家村 | 三宅次郎慶明 | 誉田孫次郎 | 酒匂次郎国頼 | 齋藤彦五郎利久 |
齋藤四郎国家 | 槙島次郎左衛門尉光基 | 槙島三郎光貞 | 杉原五郎真平 | 井口五郎奉忠 |
齋藤次郎左衛門尉利宗 | 佐脇孫五郎久隆 | 椎名次郎長胤 | 吹田孫太郎国道 | 齋藤孫左衛門尉利房 |
松田孫左衛門尉秀久 | 稲生平左衛門尉基宗 | 和田太郎正友 | 神保肥前守氏久 | 神保四郎左衛門尉国氏 |
その後は畠山右衛門佐基家は越中国守護となっており、椎名氏は越中国の畠山家の在地代官の一人として赴任したのだろう。
椎名氏はいつしか新川郡松倉庄に入部したとみられるが、次第に主家の畠山家との関係が悪化、永正17(1520)年、椎名長常は畠山氏と結んだ越後国守護代長尾為景に攻められて降伏。長尾家の家臣となった。椎名康胤は戦国末期に上杉謙信と抗争して亡んだ。越中椎名氏のことについては「野手氏」の項を参照。家紋は「九曜」「沢瀉」「片喰」「蔦」「三つ巴」。
榊原忠次奉納灯篭 (大須賀康高外孫) |
江戸時代初期、江戸に「江戸鋳物御大工 椎名兵庫頭吉綱」という鋳物師がおり、寛永18(1641)年日光東照宮造営の際に、諸大名が奉納する銅塔の鋳造にあたった。
彼が鋳造した銅塔は現在も東照宮内に残されており、表門を入った左側にある手前の銅塔(従四位下會津侍従加藤式部少輔明成・松平式部大輔忠次)などはいずれも彼の作で、東京芝の増上寺(徳川家菩提寺)の梵鐘も彼の鋳造によるものである。ただし、鋳物師椎名家は平姓ではなく藤原姓であり、千葉系椎名氏ではない。
◎文永2(1265)年(?)6月15日『胤員・実秀連署状』
◎文永2(1265)年(?)12月3日『胤村書状』
◎文永2(1265)年(?)『動垂弥太郎申状』
◎文永9(1272)年12月27日『関東下知状案』
―椎名氏略系図―
→千葉介常重―+―千葉介常胤
|
+―椎名胤光―+―野手胤茂―+―井戸野胤義―義成――二郎――弥五郎―+―野手胤倫
(六郎) |(太郎) |(太郎) (彦三郎) |(孫太郎)
| | |
| | +―長谷実胤
| | |(孫次郎)
| | |
| | +―吉崎孫三郎
| |
| +―松山胤平―+―胤澄―――+―胤村―――――胤継
| |(三郎) |(小次郎) |(小次郎太郎)(又太郎)
| | | |
| +―胤朝 | +―泰胤―――+―平木彦太郎
| |(弥次郎) | (又次郎) |
| | | |
| | | +―三与川彦次郎
| | |
| | +―信胤―――――■■―――――飯塚弥四郎
| |
| +―山桑胤益―+―重胤
| |(四郎) |(太郎)
| | |
| | +―侍従
| |
| +―長岡行胤―+―胤貞――+―荒野泰胤―――弥五郎
| (五郎) |(又五郎)|(孫五郎)
| | |
| | +―井戸野景胤――又五郎
| | (孫六)
| |
| +―胤直――――六郎太郎―+―大浦又太郎
| | |
| | +―六郎二郎
| +―長岡行村 |
| (七郎) +―六郎三郎
|
+―胤高―+―飯倉胤秀――胤春―+―二郎――十郎
|(六郎)|(太郎) (十郎)|
| | +―五郎
| |
| +―堀川胤次――清胤
| |(四郎)
| |
| +―尾垂胤方―+―胤員
| |(次郎) |(弥次郎)
| | |
| | +―成胤
| | |(六郎)
| | |
| | +―光胤
| | |(七郎)
| | |
| | +―八郎
| | |
| | +―師胤――――胤長
| | |(九郎) (孫九郎)
| | |
| | +―惟胤
| | (十郎)
| |
| +―胤衡―――+―胤元
| |(兵衛尉) |(小次郎)
| | |
| +―醍醐胤玄 +―椎津胤仲
| (次郎) (三郎)
|
+―福岡胤業―+―岩室資胤―――直胤――――+―胤長――――胤信
(八郎) |(五郎) (彦五郎胤継)|(又四郎) (弥四郎)
| |
+―泉川頼胤―――光時 +―彦六郎――+―富下八郎
|(次郎) (弥五郎) |
| +―台 十郎
+―胤泰―――+―四郎太郎――小四郎 |
|(四郎) | +―与次
| +―胤頼――――■■ |
| |(八郎左衛門) +―空性
| | |
| +―富谷弥四郎―+―平四郎 +―式部
| | |
| +―五郎 +―七郎
|
+―柴崎胤忠――胤広―+―胤賢
(小田部) |(中務大輔)
|
+―胤光-胤長-胤成-胤見-胤法-胤次-胤盛
―野手氏家臣の椎名氏略系図―
→椎名数胤-数基―――胤基―――+―胤村
(豊後掾)(出羽介)(佐渡二郎)|(八郎)
|
+―胤来
(弥左衛門)
―越中椎名氏略系図(伝承による)―
→椎名胤光-胤知==胤義――義成===良明――胤氏―頼胤―――康澄――康胤-康常―――+
(二郎)(太郎)(式部丞)(小次郎) (孫八郎)(又二郎) (左衛門尉)|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―康邑―――定康――――勝胤―――康胤===景直
(兵部丞)(左衛門尉)(肥前守)(肥前守)(小四郎)
宍倉
千葉一族。千葉介氏胤の庶子・馬場重胤の孫にあたる千葉胤則は、千葉介胤直に従って馬加陸奥守入道常義の軍と戦い、敗れて常陸国新治郡宍倉郷(茨城県かすみがうら市)に逃れ、土着して宍倉を称したという。
しかしこれ以前、すでに宍倉郷には信太庄司菅谷氏の一族・宍倉氏があり、この流れを汲んでいる可能性がある。また、重胤の孫にあたる人物として岩橋輔胤があり、彼の子孫が室町後期の千葉介となる。
明徳5(1394)年6月晦日『右衛門尉胤家遵行状』は、守護代的な立場にある右衛門尉胤家が「木内七郎」と「宍倉十郎左衛門入道」に対して「中山本妙寺代」へ弘法寺御堂敷地・免田などの下地を打ち渡すことを命じた文書だが、明徳年中にはすでに千葉氏の支配下にあったことが推測される。この守護代・胤家が誰なのかは不明だが、原・鏑木・木内・円城寺氏のいずれか?また、印東庄篠塚郷(佐倉市)・千葉庄椎名郷(千葉市椎名崎)に所領を持っていた「宍倉七郎左衛門入道」という名を見ることができる(『香取社造営料足内納帳写』)。
宍倉胤則はその後、康正2(1456)年に康胤を討ち、上総国山辺郡埴谷郷・木原両郷を賜ったという。誰から賜ったかは不明だが、上杉管領家か。その孫に当たる宍倉胤治(図書助・但馬守)は 文明3(1471)年、上総国山辺郡埴谷郷に移り住んでその地を支配し、文明17(1485)年12月に亡くなった。
その子・胤之(大和守)は故あって木原郷に城を移し、木更津村を支配する代官となった。このころから宍倉氏は力をつけ始めていたようで、500騎を率いるまでになっていたともいう。天文22(1553)年3月に亡くなった。
天文8(1539)年8月18日付の「北条氏綱禁制」の中で木原郷の軍勢に対して「濫妨狼藉、堅く停止を令す」との書状が出されていることをみると、宍倉氏は北条氏に属して天文8(1539)年の国府台の戦いに参戦しているものと思われる。また、胤之の子・胤明(大和守)は天文15(1546)年、上杉氏に出陣を命じられた臼井原氏の陣代として信濃国上田攻めに参加している。胤明は元亀3(1572)年ごろに嫡子・胤政(惣九郎)に家督を譲り、天正15(1587)年1月に没した。
惣九郎胤政は元亀3(1572)年9月20日、千葉宗家に仕えて「兵庫助」の官途を授かる。また臼井原氏の指揮下に属し、「臼井衆」の重鎮となる。一方で北条氏直の命によって天正13(1585)年、佐倉領を支配するための新城・鹿島城を築いた際には築城の普請奉行に任じられている。この城には千葉介邦胤娘・邦胤妻(北条氏康娘)が入城したとされ、千葉清胤(刑部少輔。千葉介胤富の子)もここに入ったとされる。
天正18(1592)年、胤政は嫡男・胤宣(兵庫助)とともに小田原城に入城したものの落城し、旧領の上総国山辺郡木原郷に逃れて帰農、元和5(1619)年11月に没した。子孫は旧城地に巨大な屋敷を構え、名字帯刀を許された「郷士」的な名主となり、旧家臣の人たち(土屋氏・小川氏など)を使って農地の開発を行っていった。
―宍倉氏略系図―
→千葉介氏胤―+―千葉介満胤…【千葉宗家】 +―胤頼
| |(甲斐守・日倉)
| |
+―千葉重胤―胤依―+―宍倉胤則―胤昌――胤治――+―胤忠――――――隼人
|(蓮意) (蓮忠)(但馬守)|(但馬守・蓮帯)
| |
+―公津殿 +―胤信
| |(図書助・日正)
| |
+―金山殿 +―胤之―――胤明―――胤政―――胤宣――胤長
| (大和守)(兵庫助)(兵庫助)(兵庫助(兵衛尉))
|
+―岩橋輔胤――千葉介孝胤――千葉介勝胤―…
鹿渡
千葉一族。「ししわたり」「ししわた」とよむ。平常兼の曾孫・有常の子の知常が印旛郡鹿渡村(四街道市鹿渡)を領して鹿渡を称した。別の系図には「鹿沼」とも書かれている。
―鹿渡氏略系図―
→平常兼-臼井常康-常忠――有常――鹿渡知常
(六郎) (三郎)(六郎)(五郎)
酒々井
千葉一族。「しすい」とよむ。印旛郡酒々井郷を領した一族で、佐倉城の城将を務めた家柄だと伝わる。
志津
千葉一族。臼井常康の子孫・鹿渡知常の子・重朝が志津城(佐倉市上志津字御屋敷)を築いて志津を称した。その後、臼井昌胤の次男・胤氏が志津城に入って志津を称した。しかし、兄の祐胤が亡くなる前に子の竹若丸を託されたため、臼井城に移って政務を見た。しかし、次第に自分が当主になりたいという野望が芽生え、竹若丸の暗殺を企てた。
しかし、臼井家の老臣・岩戸胤安が事前にこれを察して竹若丸を脱出させた。氏胤はこれを怒って胤安の居城・岩戸城を攻めて胤安一族を滅ぼしてしまった。一方、鎌倉建長寺に逃れた竹若丸はそこで成長して元服、行胤と名乗り足利尊氏にしたがった。そして千葉介貞胤は、胤氏に行胤を迎えとるようにと命じたため、しぶしぶ胤氏を臼井城にむかえて自身は志津城にもどった。
その後も胤氏は尊大な振る舞いをとっていたために行胤ににらまれ、暦応3(1340)年8月14日、行胤から「臼井城の堀を修復するから兵を貸してほしい」と頼まれたため、人足を貸した。その晩、行胤は兵を率いて志津城を囲んだ。胤氏は兵を臼井城に取られているために手も足もでず、自刃して果てた。その際自刃する時間を稼ぐといって、彼の妻が薙刀を持って臼井勢を斬り倒し、地元では「勇婦」とたたえられている。
信太
上総一族。相馬常晴の流れで、常陸国信太郡発祥。
標葉
常陸大掾一族。「しねは」と読み、保元年中に海道隆義(四郎左衛門尉)が陸奥国標葉郡標葉庄を領して標葉を称した。実際は千葉氏とはあまり関係はないが、相馬氏の一門となった泉田氏・熊川氏・藤橋氏らと同族であるため、例外で載せておいた。標葉氏略系図は藤橋氏よりいただいた情報をもとに作成。
常陸大掾平国香(平良文の兄)の次男・繁盛(出羽介)を祖とし、その子孫・平成衡は「後三年の役」の清原真衡の養子となった人物。彼の四男・隆義(四郎左衛門尉)が標葉氏を称した。母は源頼義の娘とされる。その後も岩城氏・相馬氏ら奥州海道筋の豪族たちと抗争、同盟を繰り返しながら「標葉六騎七人衆」とよばれる一族を率いて大勢力を保っていたが、明応元(1492)年12月、相馬盛胤によって滅ぼされた。
[ご協力:藤橋胤泰さん…藤橋氏]
◎標葉六騎七人衆
・六騎…井戸川、山田、小丸、熊、下浦、上野氏
・七人衆…室原、郡山、樋渡、苅宿、熊川、牛渡、上浦氏
―標葉氏略系図―
→平高望―+―平国香―――+―貞盛――――維衡―――――正度――――正衡―――――正盛――――忠盛―――清盛
(上総介)|(常陸大掾) |(陸奥守) (上総介) (左衛門尉)(右衛門尉) (右衛門尉)(刑部卿)(太政大臣)
| |
| +―繁盛――+―安忠―――+―清原武則――武貞―――+―家衡
| (出羽介)|(出羽権守)| |
| | | |
| | +―則道――――貞衡 +―真衡====成衡
| | (左衛門尉)(常陸前司)|
| | |
| | +=藤原清衡――基衡―――秀衡―――――泰衡
| | (鎮守府将軍)
| |
+―平良文―――+―忠頼 +―兼忠―――+―維茂―――――繁成――――貞成――――成衡―――標葉隆義――――+
(鎮守府将軍)|(陸奥守) (上総介) |(鎮守府将軍)(秋田城介)(太郎) (小太郎)(四郎左衛門尉) |
| | |
+―忠通 +―維幹―――――為幹――――繁幹 |
(小五郎) (常陸大掾) (常陸大掾)(常陸大掾) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―隆綱―隆久―隆忠―隆衡―隆繁―隆泰―持隆――+―隆安――+―清隆――――隆成――→×断絶
(紀伊守)|(左馬助)|(左京大夫)(左馬助)
| |
| | 【相馬氏準一門】
| +―泉田隆光――泉田隆家―泉田隆直――――+―泉田胤清
| (彦三郎) (彦次郎)(隠岐守) |(右近)
| |
+―隆連――+―泉田教胤==泉田隆光 +―藤橋胤泰
(小四郎)|(孫三郎) (彦三郎) (紀伊守)
| ↓
| 【相馬氏準一門】 ↓
+―隆重――――藤橋隆豊――――藤橋胤高===藤橋胤泰
(出羽守) (出羽守) (紀伊守) (紀伊守)
柴崎
椎名一族。福岡胤業(八郎)の次男・胤忠(次郎)が匝瑳郡柴崎村(匝瑳郡横芝光町芝崎)に住んで柴崎を称したが、隣接する小田部村も領しており、小田部とも称した。
―柴崎氏略系図―
→椎名胤光-福岡胤業-柴崎胤忠―+―弥八郎
(六郎) (八郎) (次郎) |
+―九郎
|
+―十郎