千葉秀胤

上総氏

ページの最初へトップページへ上総氏について千葉宗家の目次千葉氏の一族

【一】 上総氏について
【二】 上総平氏は両総平氏の「族長」なのか
【三】 頼朝の挙兵と上総平氏

 平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
      |
      +―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
      |(下総権介)(下総権介) (下総権介)        |
      |                           |
      |                           +―千葉常秀―――千葉秀胤
      |                            (上総介)  (上総権介)
      |
      +―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
       (上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
                   |
                   +―印東常茂
                   |(次郎)
                   |
                   +―平広常――――平能常
                   |(上総権介) (小権介)
                   |
                   +―相馬常清―――相馬貞常
                    (九郎)   (上総権介?)

トップページ上総介について > 千葉秀胤


千葉秀胤 上総権介秀胤 (????~1247)

 上総介常秀の嫡男。母は不明。通称は太郎(堺兵衛太郎、上総介太郎)。妻は三浦駿河守義村女。官途は従五位下(仁治二年十一月十日)、従五位上(寛元元年閏七月廿七日条)上総権介。関東評定衆。

 秀胤は鎌倉家御家人の重鎮である三浦駿河守義村と婚姻関係を結び、鎌倉家の最高執政機関である「関東評定衆」に名を連ねるが、三浦氏が安達氏・北条氏と対立する中で三浦氏と縁戚関係を持つ秀胤は罷免され、三浦氏滅亡に伴い、上総国で鎌倉からの寄手に攻め滅ぼされた

●上総千葉氏と千葉宗家

 千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱――千葉介時胤
(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)  (千葉介)
       |        
       +―千葉常秀―――千葉秀胤
        (上総介)  (上総権介)

●秀胤及び子息達の称(『吾妻鏡』)

承久元(1219)年7月19日 堺兵衛太郎(秀胤) 藤原三寅の鎌倉着に伴う義時邸への入御供奉の一人
 在京期間か
  
   (6年間記述なし) 【父とともに承久の乱で上洛したのち、在京か】
元仁2(1225)年正月24日 下総平常秀 父常秀、同日除目で「下総(守)」に補任(『明月記』)
   (10年間記述なし) 【在京か】
文暦2(1235)年2月9日 上総介太郎(秀胤) 「将軍家、入御于後藤大夫判官基綱大倉宅」し、遊興。秀胤は小笠懸に出馬。
文暦2(1235)年6月29日 上総介常秀
上総介太郎(秀胤)
「被行新造御堂安鎮」で「先陣隨兵、上総介常秀」、秀胤は車左右列歩。
嘉禎2(1236)年8月4日 上総介
上総介太郎(秀胤)
「將軍家、若宮大路新造御所御移徙」の供奉人
嘉禎4(1238)年正月1日 上総介太郎(秀胤)
同(上総介)次郎(時常)
埦飯に際し、兄弟で三御馬を曳く
嘉禎4(1238)年2月17日 上総介太郎(秀胤) 将軍家(頼経)入洛「御所隨兵」の騎乗「五十二番」
在京期間か (1年半記述なし) 【頼経上洛以降在京か。下記はこの期間に任官】
秀胤:上総権介
時秀:従五位下・式部丞(京官)
政秀:修理亮(京官)
泰秀:左衛門尉
仁治元(1240)年8月2日 上総権介
上総五郎左衛門尉(泰秀)
将軍家二所御参詣の行列。御駕籠後騎。
※式部丞時秀、修理亮政秀は在京ママ?
仁治2(1241)年正月23日 上総権介(秀胤)  
仁治2(1241)年8月15日 上総式部丞時秀  
仁治2(1241)年8月25日 上総修理亮政秀  
仁治2(1241)年11月10日 上総権介平秀胤 叙爵(『関東評定伝』)
仁治3(1242)年正月13日 上総式部丞時秀 『鎌倉年代記裏書』
寛元元(1243)年7月17日 上総権介(秀胤)
上総式部大夫(時秀)
上総修理亮(政秀)
上総五郎左衛門尉(泰秀)
臨時御出供奉人
上旬:上総権介、上総式部大夫
中旬:上総修理亮
下旬:上総五郎左衛門尉
寛元元(1243)年閏7月27日 上総権介平秀胤 従五位上(『関東評定伝』)
寛元元(1243)年8月16日 上総権介(秀胤)  
寛元元(1243)年9月5日 上総権介(秀胤)  
寛元2(1244)年 下総前司常秀(秀胤) 『関東評定伝』評定衆。
寛元2(1244)年4月21日 上総権介(秀胤)  
寛元2(1244)年8月15日 上総権介秀胤
上総修理亮政秀
 
寛元3(1245)年8月15日 上総権介秀胤(五位)
上総式部大夫時秀
上総五郎左衛門尉泰秀(五位)
上総六郎秀景
鶴岡放生会
先陣随兵:上総式部大夫時秀
御車:上総六郎秀景
御後五位:上総権介秀胤、上総五郎左衛門尉泰秀
寛元3(1245)年8月16日 上総介
子息六郎
流鏑馬
四番 上総介(上総権介秀胤) 
射手、子息六郎(秀景)
的立、内藤肥後前司盛時
寛元3(1245)年10月16日 上総権介秀胤  
寛元4(1246)年6月7日 上総権介秀胤  
寛元4(1246)年6月13日 上総権介秀胤  
宝治元(1247)年6月6日 上総権介秀胤  
宝治元(1247)年6月7日 亡父下総前司常秀
上総権介秀胤
嫡男式部大夫時秀
次男修理亮政秀
三男左衛門尉泰秀
四男六郎景秀
秀胤舎弟下総次郎時常
 
宝治元(1247)年6月22日 上総権介秀胤
同子息式部大夫時秀
同修理亮政秀
同五郎左衛門尉泰秀
同六郎秀景
垣生次郎時常
 
宝治元(1247)年7月14日 上総権介(遺跡)  

 秀胤が『吾妻鏡』にはじめて現れるのが、承久元(1219)年7月19日で、京都から鎌倉に入った藤原三寅(のちの四代将軍藤原頼経)の義時大倉邸入御に供奉した記述である(『吾妻鏡』承久元年七月十九日条)。父「堺兵衛尉(常秀)」の長男として「堺兵衛太郎」と称している。

●承久元(1219)年7月19日の「左大臣道家公賢息」の義時大倉邸入御の供奉輩(『吾妻鏡』承久元年七月十九日条)

女房
(各乘輿)
雜仕一人
乳母二人
卿局
右衛門督局
一條局
相州室
 
先陣随兵
三浦太郎兵衛尉 三浦次郎兵衛尉
天野兵衛尉 宇都宮四郎
武田小五郎 小笠原六郎
相摸小太郎 幸嶋四郎
陸奥三郎 結城左衛門尉
狩裝束人々 三浦左衛門尉 後藤左衛門尉
葛西兵衛尉 土屋左衛門尉
千葉介(胤綱) 筑後左衛門尉
陸奥次郎 小山左衛門尉
駿河守泰時 武蔵守義氏
若君御輿 三寅
歩行列立
輿左右
佐貫次郎 波多野次郎
山内弥五郎 長江小四郎
木内次郎(胤朝) 澁谷太郎
本間兵衛尉 飫冨源内
土肥兵衛尉 高橋太九郎
殿上人 伊予少将実雅朝臣  
諸大夫 甲斐右馬助宗保 善式部大夫光衡
藤右馬助行光  
藤左衛門尉光経 主殿左衛門尉行兼
四郎左衛門尉友景  
医師 権侍医頼経  
陰陽師 大学助晴吉  
護持僧 大進僧都寛喜  
後陣随兵 嶋津左衛門尉 中條右衛門尉
足立八郎左衛門尉 天野左衛門尉
伊東左衛門尉 遠山左衛門尉
堺兵衛太郎(秀胤) 長江八郎
加地兵衛尉 橘左衛門尉
相摸三郎 兵衛大夫
三浦次郎 河越次郎
伊豆左衛門尉 小山五郎
後陣 相摸守時房  

 秀胤は承久元(1219)年7月19日の藤原三寅の義時大倉邸入御後、文暦2(1239)年2月9日の将軍頼経後藤基綱邸での遊興まで十六年もの間、『吾妻鏡』から姿を消している。これは何を意味しているのだろうか。

 三寅(頼経)の鎌倉下向後、京都の後鳥羽院と鎌倉家家司の北条義時との間で軋轢が大きくなり、ついに承久3(1221)年5月15日、京都守護のひとり伊賀太郎判官大夫光季高辻北京極西角邸を後鳥羽院の兵に攻められ、自刃を遂げる事件が勃発した(『百錬抄』)。そして5月19日、後鳥羽上皇方は兵を集めて北条義時追討の兵を挙げた。これを「承久の乱」という。

 常秀の上洛は、おそらくこの「承久の乱」に求めることができるだろう。彼は承久3(1221)年5月25日に関東を出陣した甥の東海道大将軍千葉介胤綱に従い、子息を伴って上洛したと推測される。なお、『慈光寺本承久記』(『承久記』諸本のうち鎌倉期成立の古態本とされる。ただし、あくまでも著作者のいる軍記物であって創作が含まれる可能性があり、史料としては参考にとどまる)によれば、第五陣に「紀内殿、千葉次郎」とある。これによれば千葉勢を率いたのは胤綱後見の叔父・千葉次郎泰胤となる。「紀内殿」については千葉一族の木内氏とも考えられるが、これも定かではない。

●承久3(1221)年5月25日までに出立した鎌倉勢大将軍の編成(『吾妻鏡』)

東海道大将軍
(十万余騎)
北条相模守時房 北条武蔵守泰時 北条武蔵太郎時氏 足利武蔵前司義氏 三浦駿河前司義村 千葉介胤綱
東山道大将軍
(五万余騎)
武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長 生野右馬入道 諏訪小太郎 伊具右馬允入道
北陸道大将軍
(四万余騎)
北条式部丞朝時 結城七郎朝広 佐々木太郎信実      

●『慈光寺本承久記』の鎌倉勢の編成(『慈光寺本承久記』)

三手 (大将軍) 此手ニ可付人数
海道
(七万騎)
先陣
(二万騎)
相模守時房 城入道 森入道 石戸入道 本間左衛門 伊藤左衛門
加持井 丹内 野路八郎 河原五郎 強田左近
大河殿 大見左衛門 宇佐美左衛門 内田五郎 久下三郎
勾当時盛        
二陣
(二万騎)
武蔵守泰時 関左衛門 新井田殿 森五郎 小山左衛門 新左衛門
善左衛門 宇津宮入道 中間五郎 藤内左衛門 安藤兵衛
高橋与一 卯田右近 卯田刑部 阿夫刑部 大森弥次二郎兄弟
保威左衛門 蜂河殿 讃岐右衛門五郎 駄手入道 駄手平次
金子平次 伊佐三郎 固共六郎 丹党 小玉党
野田党 金子党 措二郎 有田党 弥二郎兵衛
駿河二郎康村 武蔵太郎時氏      
三陣 足利殿          
四陣 佐野左衛門政景
二田四郎
         
五陣 紀内殿
千葉次郎
(千葉泰胤か)
         
山道
(五万騎)
  武田
小笠原
南部太郎 秋山四郎 三坂三郎 二宮殿 智戸六郎
武田六郎        
北陸道
(七万騎)
  式部丞朝時          

 そして、承久3(1221)年の「承久の乱」で上洛した常秀の一族は、そのまま十四年余りにわたって在京していたと思われる。その後、文暦2(1235)年2月9日までの間、『吾妻鏡』に常秀一族が一切登場しない理由は、彼らが鎌倉を不在にしていたためであると考えられる。

 嘉禎元(1235)年6月29日の頼経の明王院御出、翌年8月4日の若宮大路の新御所への移座では、大須賀次郎左衛門尉胤秀とともに供奉した。嘉禎4(1238)年2月17日の頼経の上洛にも「上総介太郎」の名が見えるが、その後再び二年余り『吾妻鏡』に見えなくなり、仁治元(1240)年8月2日、「上総権介」として見えており、おそらくこの間に秀胤と子息は在京して任官した可能性がある。

在京期間か (1年半記述なし) 【頼経上洛以降在京か。下記はこの期間に任官】
秀胤:上総権介
時秀:従五位下・式部丞(京官)
政秀:修理亮(京官)
泰秀:左衛門尉

秀胤、評定衆に列する

●北条得宗家と名越北条家の関係(:得宗家、:名越家)

北条義時―+―北条泰時―+―北条経時
     |      |
     |      +―北条時頼北条時宗北条貞時北条高時
     |
     +―名越朝時―――名越光時

 仁治2(1241)年11月10日、「上総権介平秀胤」は叙爵(従五位下)(『関東評定伝』)。寛元元(1243)年閏7月27日、従五位上に昇叙した(『関東評定伝』)。そして翌寛元2(1244)年正月23日、秀胤の嫡男・時秀従五位上に叙され、秀胤は幕府の評定衆の一員に加わった。4月21日の藤原頼嗣(五代将軍。頼経の長子)元服式では、評定衆として着座している。

 寛元3(1245)年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に参列している。これには千葉惣領家の代行人と思われる千葉次郎泰胤(千葉介時胤弟)、秀胤の子・上総式部大夫時秀が列し、将軍・頼経の車脇に武石三郎朝胤、上総六郎秀景、その後ろに五位大夫として、上総五郎左衛門尉泰秀、上総権介秀胤が列した。

 翌8月16日、八幡宮の馬場でとり行なわれた流鏑馬では、四番を差配した「上総介(秀胤)」が見え、射手は「子息六郎(秀景)」が行った。

寛元の政変と宝治合戦

 寛元4(1246)年3月、執権の北条修理亮経時が病のために弟・左近将監時頼に執権職を譲ったが、北条一族の名門・名越越後守光時(北条義時の孫)が時頼の執権就任に反対して、大御所・藤原頼経を擁して兵を集めたが、事前に発覚して光時ら一党は捕らえられ、寛元4(1246)年6月7日に後藤佐渡前司基綱・狩野前太宰少貳為佐・上総権介秀胤・町野加賀前司康持が事件の関係者として評定衆をはずされた。町野康持に至っては、問注所執事をも解任されている。秀胤は13日に鎌倉を追放され、主犯格の北条光時も伊豆北条へ追放された。これら一連の事件を「寛元政変」という。

 ただし、公家の葉室定嗣の日記『黄葉記』によれば、寛元4(1246)年6月6日、京都に関東からの飛脚が到来し、

六日癸巳、晴、…

今日関東飛脚到来、入道将軍御所警固之後、近習者定員被召籠、越後守光時出家、配伊豆国、其舎弟修理亮ム自害、又秀種追遣本国、其外香請降之輩、或召籠云々、是等時頼沙汰歟、衆口嗷々、天下紛々、夜闌参東山殿

 と伝えた。『吾妻鏡』によれば、秀胤が評定衆を解職されたのは6月7日とされ、13日に鎌倉を追放されたとある。『黄葉記』の記述はこれよりも前となるため、実際に秀胤らが解職されたのはこれよりも前ということになる。『吾妻鏡』の記述の誤りだろうまた、前将軍・藤原頼経入道京都へ送還されることが決した。このことについて、頼経の実父・九条道家入道行慧(源頼朝の姪子)は6月10日にはすでに伝えられているが、頼経送還の理由については「不知其由来」とあって、幕府より一切聞かされておらず、同意もしていないとし、「修調伏法、被呪詛武州経時」ともあることについても、頼経は一切行なっていないと神に誓っている(『九条家文書』)

…近日関東有騒動、入道大納言無告送事、不知其由来、無被示合旨、不同意于此事、不知不聞也、又修調伏法、被呪詛武州経時云々、可修彼法之由、無被申旨之間、自モ不修之、以人モ不令修、上件両事、一旦為免其殃…

     寛元四年六月十日

●寛元4(1246)年の評定衆(年号:在職期間、:寛元政変で免職、:宝治合戦で免職)

・中原師員
(1225-1251)
・二階堂行盛
(1225-1253)
後藤基綱
(1225-1246)
・太田康連
(1225-1256)
毛利季光
(1232-1247)
狩野為佐
(1234-1246)
・北条資時
(1237-1251)
三浦泰村
(1238-1247)
・二階堂行義
(1238-1268)
町野康持
(1238-1246)
・大佛朝直
(1239-1264)
・安達義景
(1239-1253)
・北条政村
(1239-1256)
・二階堂基行
(1239-1240)
・清原満定
(1239-1263)
・長井泰秀
(1241-1253)
・宇都宮泰綱
(1243-1261)
・伊賀光宗
(1244-1257)
三浦光村
(1244-1247)
上総秀胤
(1244-1246)
・矢野倫長
(1244-1273)
毛利忠成
(1245-1247)
   

 その後、秀胤は8月15日の放生会「上総式部大夫」とともに供奉していることから、鎌倉に召し返されたものの、翌宝治元(1247)年6月6日、執権・北条時頼は、大須賀左衛門尉胤氏東胤行入道素暹に秀胤の追討を命じた。ただし、追討軍には肥後国の相良六郎頼俊も加わっているように(建長三年三月廿二日「相良蓮佛譲状」『相良家文書』)、多国籍の御家人が差し向けられたと考えられる。秀胤はこのころ上総国一宮大柳館に籠もり、屋敷の周りに薪を積み重ね、おそらくすでに自害の決意を固めていたのだろう。

 胤氏素暹は秀胤とは交誼のある一族であり、とくに素暹秀胤一族と血縁関係があり、幕命によってやむなく進軍してきたものであった。このとき、埴生庄の領有をめぐって仲たがいしていた弟・埴生次郎時常大柳城に駆けつけ、秀胤とともに自害して果てた。ひとびとはこれを聞いて「勇士の美談」とたたえた。この騒乱は、秀胤の子五人のほか一族郎党、あわせて163人が自害するという惨劇となった。

 胤氏素暹ら寄手は一気に燃え上がった炎のために館に近づけず、「敢へてかの首を獲る能わずと云々」と、彼らの首をとることはしなかった。素暹の娘は、秀胤の子・上総五郎左衛門泰秀に嫁いでおり、一歳の幼い男子があった。素暹から見れば外孫にあたる。この後、鎌倉へ帰還した素暹は幕府に赴き、時頼に懇願して秀胤の子や孫たちのために助命嘆願を行っている。この嘆願は受け入れられ素暹には外孫にあたる1歳の男子(泰秀の子)のほか、秀胤の末子(1歳)修理亮政秀の子息二人(5歳、3歳)秀胤の弟・埴生次郎時常の子(4歳)が助けられ、胤行に預けられた。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十一日条

 今日、東入道素暹愁へ申す事あり。これ上総五郎左衛門尉泰秀素暹が息女を嫁して男子を生む。今年一歳なり。たとひ縁坐に処せらるべしといへども、当時襁褓の内に纏はれ、是非を知るべからざるものか。今度一方の追討使の賞に募り、預り置くべきの由と云々。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十七日条

 故上総介末子一人一歳同修理亮子息二人五歳三歳埴生次郎子息一人四歳。おのおの出で来る。面々に検見を加へられ、人々預かりこれを守護す

●上総権介秀胤周辺系図

 千葉介常胤―+―胤正――+―成胤――――胤綱―――+―時胤――――――頼胤
(千葉介)  |(千葉介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介)   (千葉介)
       |     |            |
       |     |            +―泰胤
       |     |             (次郎)
       |     |
       |     |     +―埴生時常―――男子 (四歳)
       |     |     |(次郎)
       |     |     |
       |     +―常秀――+―秀胤―――+―時秀
       |      (兵衛尉) (上総権介)|(式部丞)
       |                  |
       |                  +―政秀―――――+―男子 (五歳)
       |                  |(修理亮)   |
       |                  |        |
       |                  +―末子(一歳) +―男子 (三歳)
       |                  |
       |                  |
       |                  +―泰秀
       |                   (五郎左衛門尉)
       |                    ∥――――――――男子 (一歳)
       |                    ∥
       +―東胤頼―――重胤――――胤行―――+―娘
        (六郎大夫)(兵衛尉) (左衛門尉)|
                          |
                          +―泰行
                          |(図書助)
                          |
                          +―行氏
                          |(左衛門尉)
                          |
                          +―氏村
                           (左衛門尉)

 また、秀胤の子・式部丞時秀の子という「豊田五郎秀重」「左衛門尉常員」両名の名が薩摩国の系譜に見える(『山門文書』)。時秀の子については『吾妻鏡』には伝えられていないが、遺されていた可能性も否定できない。

 千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持                   +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎)  |(源六)                  |(太郎)
            |      |                      |
            +―常員   +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
             (左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
                                          |
                                          +―澤田秀明
                                          |(三郎)
                                          |
                                          +―文殊寺秀棟
                                           (四郎)

 秀胤は現在の長柄町胎蔵寺に葬られたともいわれ、同寺には「長柄山殿別駕秀胤大居士」「胎蔵寺殿花渓妙泉大姉」の位牌が伝わっている(『上総国誌』)。「別賀(別駕=介)秀胤」と記されていることから、自刃を遂げた秀胤一族の菩提を弔ったと伝わる。裏には「当年開基」として「長 万寿四丁卯歳七月廿四日」「胎 長元三庚午七月七日」と記されているが、「万寿四年(1027年)」「長元三年(1030年)」は、秀胤の時代より約二百年前であることから、秀胤ではない可能性が高い。「長柄山胎蔵寺(『上総国誌稿』)「境内千八百七坪、臨済宗ナリ、寺伝ニ云フ、長和二年癸丑、上総権介秀胤、父祖ノ冥福ヲ祈リ、七堂伽藍ヲ建造シテ鳴瀧寺ト号ス、尋テ胎蔵界ノ曼荼羅ニ擬シテ、今ノ名ニ改ム」(『上総国誌稿』)という自伝を持つ。

 秀胤一族滅亡の直前、鎌倉では三浦泰村一族が、北条氏に対して兵を挙げ、和田義盛の乱以来、30年ぶりに鎌倉が火に包まれた。結局三浦一族はやぶれ、泰村・光村父子は頼朝の墓前に逃れ、持仏堂に籠って自害して果てた。三浦泰村の挙兵と上総秀胤の滅亡を「宝治合戦」という。

●宝治合戦で戦死した人物
:三浦党、:千葉一族、:秩父一族、:下野の宇都宮・小山氏系統)

・三浦泰村三浦景村三浦駒石丸三浦光村三浦駒王丸三浦式部三郎三浦實村三浦重村三浦朝村三浦氏村三浦朝氏・三浦員村・三浦忠氏・三浦景泰・三浦駒孫丸・三浦駒鶴丸・三浦駒在丸・三浦有駒丸三浦駒若丸三浦駒増丸 ・三浦皆駒丸・毛利季光・毛利光広・毛利泰光・毛利経光・毛利吉祥丸・大戸川重澄・大戸川重村・大戸川家康・三浦義有 ・三浦高義・三浦胤泰・三浦二郎・高井実重・高井実泰・高井実村・佐原泰連・佐原信連・佐原秀連・佐原光連・佐原政連 ・佐原光兼・佐原頼連・佐原胤家・佐原光連・佐原泰家・佐原泰連・長井義重・佐原家経・下総三郎・佐貫経景 ・稲毛左衛門尉・稲毛十郎・臼井太郎・臼井二郎・波多野六郎左衛門尉・波多野七郎・宇都宮時綱・宇都宮時村・宇都宮五郎 ・春日部実景・春日部太郎・春日部二郎・春日部三郎・関政泰・関四郎・関五郎左衛門尉・能登仲氏・宮内公重・宮内太郎 ・弾正左衛門尉・十郎・多々良二郎左衛門尉・石田大炊亮・印東太郎・印東二郎・印東三郎・平塚小次郎・平塚光広 ・平塚太郎・平塚三郎・土用左兵衛尉・平塚五郎・遠藤太郎左衛門尉・遠藤二郎左衛門尉・佐野左衛門尉・榛谷四郎 ・榛谷弥四郎・榛谷五郎・榛谷六郎・白河判官代・白河七郎・白河八郎・白河式部丞・武左衛門尉上総権介秀胤上総時秀上総政秀上総泰秀上総秀景埴生時常・岡本次郎兵衛尉・岡本次郎・長尾景茂・長尾定村・長尾為村 ・長尾胤景・長尾光景・長尾為景・長尾新左衛門四郎・秋庭信村・橘惟広・橘左近大夫・橘蔵人

●宝治合戦で生け捕りの人物(:三浦党、:千葉一族)

・三浦胤村・金持次郎左衛門尉・毛利文殊丸・豊田太郎兵衛尉・豊田次郎兵衛尉・長尾次郎兵衛尉・長井時秀・大須賀範胤

●宝治合戦で逐電した人物(:千葉一族)

・小笠原七郎・大須賀重信・土方右衛門次郎

 宝治合戦では「臼井太郎・次郎」が秀胤に荷担し、ほかに「下総三郎」「印東太郎・次郎・三郎」の千葉氏系の武士の名を見ることができる。

 また、建長3(1251)年12月、三浦・千葉の残党が先の将軍家・九条頼経を擁立して挙兵を企てる事件が起こるが、首謀者の「了行法師」千葉介近親「矢作左衛門尉」「長次郎左衛門尉久連」らが生け捕られている。

矢作左衛門尉 矢作胤氏(左衛門尉)
矢作常氏(六郎左衛門尉)
常胤の従兄弟にあたる海上常幹の孫。
常胤の子・国分胤通の六男。国分矢作氏の祖である。
臼井太郎・二郎 臼井胤常・親常
臼井則胤・則常
山無流臼井氏の子。
友部流臼井氏の子。父・友部秀常の諱「秀」は秀胤からの偏諱か?
下総三郎 上代胤忠?(下総三郎?) 東胤頼の子・木内胤朝の子は「下総」を称しているが、そのなかに「三郎」だけがなく、「二郎」胤家の次は「四郎」胤時である。なんらかの意図があって三郎は除かれたものか。

●矢作・臼井・下総系図

平常兼―+―千葉常重―千葉常胤―+―千葉胤正―+―千葉成胤  +―上総秀胤
    |           |      |       |
    |           |      +―上総常秀――+―埴生時常
    |           |
    |           +―国分胤通―――矢作常氏
    |           |(五郎)   (六郎左衛門尉)
    |           |
    |           +―東 胤頼―――木内胤朝――――下総三郎(?)
    |            (六郎大夫) (下総前司)
    |
    +―海上常衡―海上重常―――矢作惟胤―――矢作胤茂――――矢作胤氏
    |            (左衛門尉) (新左衛門尉) (左衛門尉)
    |
    +―臼井常康―臼井常忠―+―友部宗常―――友部秀常――+―臼井則胤
     (六郎) (三郎)  |(二郎)   (宰相)   |(太郎)
                |              |
                |              +―臼井則常  +―臼井胤常
                |               (次郎)   |(太郎)
                |                      |
                +―臼井成常―――臼井盛常――――山無常清――+―臼井常親
                 (四郎)   (九郎)    (五郎)    (次郎)

 宝治元(1247)年7月14日、宝治合戦の恩賞として、足利義氏入道正義(左馬頭)が上総権介秀胤の遺跡を賜り、伊勢皇太神宮へと寄進している。


ページの最初へトップページへ上総氏について千葉宗家の目次千葉氏の一族

Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。