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東胤行(1194-1273)

 東氏三代惣領。東氏二代惣領・東太郎兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明(父・重胤の妻は下河辺行綱娘との伝があり、胤行の「行」字がその片諱とすれば、母は下河辺氏かもしれない)。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが不明。兄に治部太夫貞胤があったといい、建保元(1213)年の和田合戦で活躍をしたとされる(1)。しかし、貞胤の名は『吾妻鏡』に見られない。

 胤行も父・重胤と同様に和歌の教養があり、源実朝・藤原頼経・藤原頼嗣・宗尊親王の四代に出仕し、とくに文筆や和歌を通じて信頼を得たようである。のち美濃国郡上郡へ移った子孫の郡上東氏に受け継がれた「和歌の家」としての礎を築いた人物といえる。父・重胤同様、歌道に執心し、子孫は二条為家の家流を継いだ。彼の歌は勅撰和歌集(天皇の勅命によって編纂される和歌集)に撰ばれている。

 また、胤行には図書助泰行四郎義行六郎左衛門尉行氏七郎盛胤(養子)・東七郎顕信東右衛門大夫秀氏、そして娘は少なくとも三人いて、長女は上総泰秀の妻、次女は二条流歌人(中務丞胤行女『新続古今和歌集』)、三女は三浦氏(泰村?)の妻となった。秀元は常陸国の大生定清の子で、ゆえあって胤行の養子となったとされる。

 恋しぬといひてもへぬる年月の 命や人にうたがはるらん  中務丞胤行女(『新続古今和歌集』)

●東氏・二条家略系譜

 阿仏尼
  ∥―――――――冷泉為相―+―為秀
  ∥      (権中納言)|(権中納言)
  ∥            |
  ∥            +―娘
  ∥             (久明親王母)
  ∥
  ∥            +―泰行
  ∥            |(図書助)
  ∥            |
  ∥      東胤行―――+―行氏
  ∥     (左衛門尉) |(次郎左衛門尉)
  ∥       ∥    |
 二条為家――――    +―義行
(権大納言)         |(四郎)
  ∥            |
  ∥―――――+      +―娘―――――――男児一人
 宇都宮頼綱娘 |      |(上総泰秀妻)
(左衛門尉)  |      |
        |      +―胤行女
        |      |(『新続古今和歌集』勅撰歌人)
        |      |
        |      +―娘
        |      |(三浦某妻)
        |      |
        |      +―氏村
        |       (下野守)
        |
        +―為氏―――――為世   
        |(権大納言) (権大納言)
        | 
        +―京極為教―――為兼   
         (左兵衛督) (権大納言)

 歌道に非常に興味を示した将軍・実朝は、胤行の父・重胤を重用したが、胤行も若いうちから重胤の薫陶を受けて歌道に長じており、父と同じく実朝の近侍として夜番を勤めている。しかし、建保6(1218)年、所領のある下総国海上庄へ下向して長い間戻ってこなかった。そのため11月27日、将軍実朝は胤行へ歌を遣わして鎌倉へ戻るよう促した。まさに元久3(1206)年に父・重胤が起こした騒動と似たような事件であるが、今回は4月に千葉家嫡宗の千葉介成胤が亡くなったことによる何らかの理由があった可能性もあろう(『吾妻鏡』)

●『吾妻鏡』建保6(1218)年11月27日条

 東平太重胤は無双の近仕なり、其の男胤行、父に相並び又夙夜君に在らんか、
 去る比下総国海上庄に下向す、久しく帰参せざるの間、将軍家、御書を遣わさる、
 是早く帰参せしむべきの由なり、この次でを以て御詠を給ふ

  恋しとも思はていはヾ久堅の天照神も空にしるらん

●『金槐和歌集』

  素暹法師、下総国に侍りし頃のぼるべきよし申し遣わす  鎌倉右大臣

   恋しとも思はでいはば久堅の 天照る神も空にしるらん

    返し                      素暹法師

   浜千鳥八十島かけてすむ千鳥 心ひとつにいかがたのまむ

 建保7(1219)年正月の実朝将軍の暗殺直後に父・重胤が出家したため、東氏の惣領となる。胤行は父譲りの武勇にも優れた武士であり、承久の乱(1221年)で功績を挙げ、その恩賞として承久3(1222)年に美濃国郡上郡山田庄(岐阜県郡上市)を賜ったという。

 安貞2(1228)年7月23日、将軍・頼経は三浦駿河前司義村田村山庄(平塚市田村)へ遊覧に出た。このとき供奉した御家人の中に「海上五郎」「東六郎」の名が見える(『吾妻鏡』)「海上五郎」は兄の海上五郎胤方「東六郎」はおそらく胤行であろう。

●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)

隨兵左 三浦次郎 結城七郎 城太郎 大須賀左衛門尉 足利五郎 陸奥四郎
隨兵右 長江八郎 上総太郎 小笠原六郎 佐々木太郎左衛門尉 河越次郎 相模四郎
御駕 藤原頼経(将軍)
御劔 駿河次郎          
御笠 佐原十郎左衛門太郎          
駕籠左 佐原四郎 高井次郎 多々良次郎 印東太郎 遠藤兵衛尉 土肥太郎
稲河十郎 伊佐兵衛尉        
駕籠右 大河戸太郎兵衛尉 下河辺左衛門次郎 梶原三郎 佐貫次郎 波多野小六郎 佐野小五郎
佐々木八郎 春日部太郎 海上五郎 阿保三郎 本間次郎左衛門尉   
御調度懸 長尾三郎          
御後 越後守 駿河守 陸奥五郎 大炊助 相模五郎 周防前司
加賀前司 三條左近大夫 駿河蔵人 左近蔵人 伊賀蔵人 結城左衛門尉
小山五郎 修理亮 白河判官代八郎 佐々木判官 佐々木三郎 長沼四郎左衛門尉
後藤左衛門尉 伊豆左衛門尉 伊東左衛門尉 宇佐美左衛門尉 佐原三郎左衛門尉 宇都宮四郎左衛門尉
伊賀四郎左衛門尉 伊賀六郎左衛門尉 土屋左衛門尉 中條左衛門尉 信濃次郎左衛門尉 藤内左衛門尉
隠岐次郎左衛門尉 狩野藤次兵衛尉 天野次郎左衛門尉 遠山左衛門尉 加藤左衛門尉 江兵衛尉
葛西左衛門尉 相馬五郎 東六郎(胤行) 三浦又太郎 足立三郎 島津三郎左衛門尉
遠藤左近将監 海老名藤内左衛門尉 豊嶋太郎 長江四郎 氏家太郎 善太次郎左衛門尉
最末 相模守 武蔵守 相模小太郎      

 同年8月13日に、翌々日に決定している将軍家の鶴岡八幡宮参詣の供奉人が決定した(『吾妻鏡』)。ほぼ田村山荘供奉人と同様であるが、隨兵に八名が追加とされた。その追加された人物は「相模五郎・小山五郎・氏家太郎・伊東左衛門尉・葛西左衛門尉・天野次郎左衛門尉・東六郎・足立三郎」である。この「東六郎」が胤行である。

 10月15日には将軍家が「方違」のために小山下野入道生西(小山朝政)の邸へ移った際に供奉している(『吾妻鏡』)

 寛喜3(1230)年3月19日、将軍家は三崎の磯に遊覧に出た。ここで催された連歌の会では「両国司、廷尉基綱、散位親行、平胤行」が秀歌を献じ(『吾妻鏡』)、貞永元(1232)年11月29日の永福寺参詣に供奉、雪見の歌会を催した時には「歌に携わる輩」として列した(『吾妻鏡』)。この時、胤行は「中務丞胤行」とあるので、すでに中務丞に任官していたことがわかる。

 貞永2(1233)年2月7日未の刻(午後2時ごろ)、「東乃中務尉と云武士」が京都の藤原定家の門をたたいた(『明月記』天福元年二月七日条)。彼は胤行その人と思われ、この当時京都にいたことがわかる。前年の貞永元(1232)年9月までに大番役として上洛した千葉介時胤大番催促による上洛と考えられよう(『民経記』貞永元年閏九月朔日条)。胤行が定家邸を訪れた際には「家長朝臣」の書状を持参していたという。この「家長朝臣」はおそらく定家と親交が深かった歌人・但馬守源家長であろう。胤行は家長とも交流を持ち、「家長朝臣書状」は胤行の詠草を定家へ渡すための紹介状である。貞永2年(天福元年)は定家は『新勅撰和歌集』への入選歌選定を行っており、胤行もその入選を願って家長の紹介を受けて訪問したものと推測されている(2)(3)

 東氏と御子左藤原氏の交流は、東氏の本拠がある下総国三崎庄との関係もあるかもしれない。厳密には、三崎庄は胤行の叔父・海上胤方の一族が地頭職を有した荘園だが、建久10(1199)年4月23日、藤原定家は九条家政所より殿下領である「下総国三崎庄」の預所職に就任し、7月29日、三崎庄預所として藤原定家が就いたことを「地頭等」に知らせるために、雑色光澤を三崎庄に遣わした。このときの「地頭等」は、重胤(胤行の父)や海上胤方だったのだろう。

 胤行は定家邸門外にて、取次の者から「自昨日腰損不動身、不能対面之由」を返答すると、胤行はやむなく帰っていったという。取次の者からその風体等を聞くと、胤行は直垂を着ながら車に乗って来ていたという。その直垂と車の組み合わせは不釣合いと評し、胤行の人物についても、手跡や歌風が定家と対立した「九條大納言(基家)」と似ていると聞いていて(「或説云」とあることから、定家は胤行が持参したであろう詠草を見ていないか、もしくは受け取っていないのだろう)、よい印象は持っていないようである(2)「耄及而猶在世珍重知音多来歟、可従漁父之誨哉否」と、年老いてなお在世の珍重な知音が多く来る、と「皮肉っぽく愚痴」(3)を言い、「漁父之誨」に従うべきか否かと、こちらも皮肉的に日記に記している(『明月記』天福元年二月七日条)

 この記述から、定家は胤行とは面識がなかったことがわかる。胤行は定家の子・藤原為家の娘を娶ったと系譜にあるが、彼がこの時点で孫娘(為家娘)を娶っているのであれば、当然定家も面識があったはずで、為家娘が胤行の妻になったのが事実であれば、これ以降の事となる。つまり、この時点ですでに産まれていると思われる東六郎行氏は為家娘の所生ではないことになる(そもそも御子左家の系譜に東氏に嫁いだ為家娘は見えない)

●『明月記』天福元(1233)年二月七日条

七日
…未時許、東乃中務尉と云武士来門前、付家長朝臣書状、自昨日腰損不動身、不能対面之由示之、自門外帰、着直垂云々、乗車其衣与乗物不相応歟、或説云、其手跡歌風体奉似九條大納言云々当世好士耄及而猶在世珍重知音多出来歟、可従漁父之誨哉否

 文暦2(1235)年1月26日、将軍・藤原頼経は方違えのために周防前司藤原親実の大蔵屋敷に入御した(『吾妻鏡』)。この日は庚申の夜でもあったため、徹夜の歌会が催された。当時の貴族は、庚申の夜に寝ると体内から「虫」が抜け出して天に昇り、天帝にその人の行いを告げ口すると信じていたため、徹夜で催し物を行う風習があった。この歌会で頼経は「竹間鶯」「寄松祝」を題とした二首の和歌を詠んだが、その際に「東六郎行胤」が懐紙を進めた。この「東六郎行胤」は胤行の誤記か。

 嘉禎4(1238)年正月20日、将軍・藤原頼経は上洛のため秋田城介景盛の甘縄邸に入った。守護千葉介時胤は下総国内の地頭に対し供奉の催促をしているが、時胤自身は香取社造営の年に「大介(時胤)」は出国しないことを主張して認められた『関東御教書写』

●嘉禎4(1238)年正月23日「関東御教書写」(『下総香取文書』:『鎌倉遺文』所収)

  香取造営之間、大介不出国境云々、御京上御共止、可被在国之状、
 依仰執達如件、
        正月廿三日     左京権大夫(花押)※…北条泰時
                  修理権大夫(花押)※…北条時房

   千葉介殿

 ところが、時胤管掌下の下総国内の地頭はそのまま将軍に供奉して上洛している。彼らは3月15日になって「(時胤に)於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向」と幕府より早々の帰国を指示され、香取社造営に専念すべき旨の御教書を受けている。

●嘉禎4(1238)年3月15日「関東御教書写」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

 依香取造営事、千葉介時胤被免除京上御共畢、然者、
 於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向
 而守先例、可専造営之状、依仰執達如件、

    嘉禎四年三月十五日     左京権大夫(花押)※…北条泰時
                  修理権大夫(花押)※…北条時房
   下総国地頭中

 このとき、守護時胤の催促によって、おそらく胤行も上洛したと思われるが、この頃、胤行は摂津天王寺に参詣した際、歌会のため住吉にいた藤原隆祐に手紙と歌を届けている(2)。その後、胤行も住吉に合流したと思われる。

●「隆祐集」(『私歌集大成 中世Ⅱ』)

 春のころ、平胤行天王寺に詣て、住吉へ申をくり侍し

すみよしのまつ人も哉たつね見ん かすめるうちはみちしらすとも

 返し

かすめとも松あるうらもしりなから 心のみちをいかゝへたてん

 また、隆祐は在倉時の胤行とも交流を持ち続けており、胤行は隆祐と歌を詠み交わした。花と月のもとでの歌詠みが行われていたことがうかがわれる。

●「隆祐集」(『私歌集大成 中世Ⅱ』)

  夏のころ、胤行、かまくらより

 春夏の花と月とのあひみても、わすれぬ人はなをそ恋しき

  返し
 
 はるあきの花と月とのなかめたに わするゝほとゝ君をこひつゝ

  そへて

 山の井のにこらぬ水をむすひても やかてわかれし面影そたつ

 当時の京都においては、地下のいわゆる「好士」たちによる「道俗貴賎を問わず誰もが参加でき、会衆でなくとも句を付けることができた」「花の下連歌」という「勧進法楽のために設定された場」がで行われたという歌会があった(4)。また一方で「毘沙門堂周辺に集住した人々の花の季節に行う季節的祝福芸能」とする説もある(5)。隆祐も連歌を詠んでおり、胤行もこの「花の下連歌」に加わっていたことが『沙石集』から見られ、こうした和歌や連歌を通じた交流が続いていたのだろう。

 寛元元(1243)年7月17日、将軍の臨時御出について、月の上旬・中旬・下旬を御家人の当番制とすることとした。これは将軍家が突如御出することになった際に、供奉する御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがよくあり、奉行人の煩いの基となっていたのを解消するためである。この下旬の当番に「東中務丞」が婿の「上総五郎左衛門尉(泰秀)」とともに列している(『吾妻鏡』)

 その後、胤行は出家を遂げる。そのきっかけは不明だが、寛元3(1245)年7月5日の前大納言家(藤原頼経)の出家、または寛元4(1246)年閏4月1日の執権北条経時入道の卒去のいずれかであろう。

■宝治合戦

 宝治元(1247)年6月5日、御家人の長老・三浦泰村は安達景盛入道との政争に敗れ、滅亡した。そして三浦泰村と縁戚関係にあった別家千葉氏の上総権介秀胤(三浦泰村の妹婿)も首謀者の一人として、6月6日、胤行入道素暹大須賀胤氏が追討を命じられた(『吾妻鏡』)。胤行はこれ以前に出家して「素暹」を号していた。

 胤行入道素暹は秀胤の子・五郎左衛門尉泰秀に娘を嫁がせている血縁者であったが、翌6月7日、幕命を奉じて大須賀胤氏ほか「于時当国御家人、如雲霞起、而成合力」して上総一ノ宮の大柳館に馳せ向かった。上総国には泰村との合戦が始まって二時間後には一報が届いており、7日夕方には秀胤と仲違いをしていた弟の下総次郎時常も大柳館に入っている。

 素暹らが一ノ宮大柳館についた時点で、すでに館の郭外四面には薪が積み上げられており、秀胤は自害の心を固めていたと思われる。そして戦うこともなく秀胤らは薪に火をつけると、「其焔太熾、而非人馬之可通路」とあるほどの火勢が館を覆った。その火勢から薪に油を掛けるなどしていた可能性もあろう。素暹や胤氏をはじめ「当国御家人」とは千葉氏の系統の者が多かったと推測され、秀胤への攻撃は「軍兵安轡於門外、僅造時声発箭」とするに留まっている。すると、館内の馬場の辺りに集まったから秀胤方の兵士が「射答箭」し、その間に「上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀」は心静かに念仏を唱えて自害した。

 『吾妻鏡』の記述を見ると、大柳館は塀を巡らした四面に門を持つ方形館で、その内外には政務機関や郎従などの家など数十宇が立ち並ぶ広大な街並みで形成されていたようである。秀胤方はそれらの家屋にも放火したため、一帯は燃え狂って「内外猛火混而迸半天」とあるように、火災旋風が発生していたようである。そのあまりの火勢と輻射熱に耐えられず「胤氏以下郎従等、咽其熾勢、還遁避于数十町之外」したという。これは数キロあまり退避したことになる。これらから大柳館は広い平地の中にあったことがわかる。現在の長生郡睦沢町大谷木のあたりに該当するか。

 結局、素暹ら寄手はこの炎焔のために館へは近づけず、「敢へてかの首を獲る能わずと云々」と、彼らの首級をあきらめている。この後、鎌倉へ帰還した素暹らは幕府に赴くと、6月11日、自分の恩賞と引き換えに秀胤の子や孫たちの助命嘆願を行った。この嘆願は受け入れられ、胤行には外孫にあたる1歳の男子(泰秀の子)のほか、秀胤の末子(1歳)、修理亮政秀の子息二人(5歳、3歳)、秀胤の弟・埴生次郎時常の子(4歳)が助けられ、胤行に預けられた(『吾妻鏡』)

●『吾妻鏡』宝治元年六月十一日条

今日、東入道素暹愁へ申す事あり。これ上総五郎左衛門尉泰秀は素暹が息女を嫁して男子を生む。今年一歳なり。たとひ縁坐に処せらるべしといへども、当時襁褓の内に纏はれ、是非を知るべからざるものか。今度一方の追討使の賞に募り、預り置くべきの由と云々。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十七日条

 
上総介が末子一人一歳。同修理亮が子息二人五歳三歳埴生次郎が子息一人四歳。おのおの出で来る。面々に検見を加へられ、人々預かりこれを守護す。

 千葉介常胤―+―胤正――+―成胤――+―胤綱――――――+―時胤――――――頼胤
(千葉介)  |(千葉介)|(千葉介)|(千葉介)    |(千葉介)   (千葉介)
       |     |     |         |      
       |     |     +―千田尼     +―泰胤
       |     |      (北条時頼後室)  (次郎)
       |     |
       |     +―常秀――+―秀胤――――――+―時秀
       |      (兵衛尉)|(上総権介)   |(式部丞)
       |           |         |
       |           +―埴生時常    +―政秀
       |            (次郎)     |(修理亮)
       |                     |
       |                     +―泰秀
       |                      (五郎左衛門尉)
       |                       ∥―――――――男子
       |                       ∥
       +―東胤頼―――重胤――――胤行――――――+―
        (六郎大夫)(兵衛尉) (左衛門尉)   |
                             |
                             +―泰行
                             |(図書助)
                             |
                             +―行氏
                             |(左衛門尉)
                             |
                             +―氏村
                              (左衛門尉)

 なお、このとき助命された子であるかは不明ながら、秀胤の子・式部丞時秀の子される「豊田五郎秀重」「左衛門尉常員」両名が薩摩国の系譜に見える(『山門文書』)。時秀の子については『吾妻鏡』には伝えられていないが、泰秀の可能性もあるか。

 千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持                   +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎)  |(源六)                  |(太郎)
            |      |                      |
            +―常員   +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
             (左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
                                          |
                                          +―澤田秀明
                                          |(三郎)
                                          |
                                          +―文殊寺秀棟
                                           (四郎)

 宝治2(1248)年9月20日、将軍・頼嗣は「東中務入道素暹」へ問状や御教書を成す「右筆」への就任を伊勢前司行綱・大曽祢左衛門尉長泰をして命じた(『吾妻鑑』)。素暹は「千葉介常胤棟葉の中、右筆の例を始む」であり、その理由は「文武兼備の士」であって、頼嗣にしても風雅を備えた教養人でもある素暹を「殊に至要の趣」として重用していたことがうかがえる(2)。その後、しばらく素暹についての記載はなくなるが、この頃、「東入道」が京極出雲路の毘沙門堂境内で行われていた「花の下連歌」を「シノビテ聞」き、「ウスクレナヒニナレルソラカナ」という難題で三十余句返され面白くもなかったとき、傍らで「アマトブヤイナヲホセ鳥ノカゲミヘテ」と詠んだところ、その場にいた「花下ノ十念房(橘家季:素俊)」が「アハ、ツキ候ヌルハ」と褒めた逸話が伝わる(4)。なお、この歌は『菟玖波集』にも載せられており、

建長の頃、毘舎門堂の花下の連歌にといふ難句の侍りけるに

薄くれなゐに匂ふ空かな
天飛ぶや稲おほせ鳥の影みえて

とあって、詠まれたのは建長の頃で、素暹は上洛していたことがわかる。その後、鎌倉での活動を見ることはなく、素暹はすでに引退して在京歌人・東入道素暹となっていた。

 建長4(1252)年、頼嗣の祖父・九條禅門入道(九条道家)と父・頼経入道(前将軍)による幕府転覆計画が発覚し、得宗北条時頼は後嵯峨上皇の第一皇子・三品宗尊親王を新将軍として鎌倉へ迎える事で朝廷と妥結。現将軍・藤原頼嗣を廃して京都へ送還した(建長政変)。これが所謂「皇族将軍」の始まりであり、将軍は宗尊親王以降、惟康親王久明親王守邦親王と四代にわたって京都より迎えられている。宗尊親王は藤原為家を和歌の師としていた。素暹も為家から和歌を学んでいたともされ、これが事実であれば素暹は宗尊親王と同門となる。こういったことからも宗尊親王は素暹を信頼したものと思われる。

 素暹の歌は勅撰和歌集としては『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』に見ることができる。

 
  さほしかの入野の薄き霜かれて 手枕さむき 秋の夜の月 (『続古今和歌集』)
  ねぬにみし むかしの夢のなこりとて 老のなみたにのこる月かけ (『続拾遺和歌集』)

 また、素暹は親鸞(法然弟子。浄土真宗の宗祖)に師事し、親鸞の自画像と「南無阿弥陀仏」の名号を賜ったという。

 その後、京都を離れて「山里」に隠棲するようになったようである。そのころの心情を、

 
  世をのがれて後山里にまかりてよみ侍る歌

  住み馴れし都を何と別れけむ うき世はいずくも我身なりけり 素暹(『続後撰和歌集』)

と詠んでいる。

乗性寺
乗性寺

 この「山里」とは具体的な記述はないが、承久の乱の戦功で賜ったとされる美濃国山田庄か。素暹は正嘉元(1257)年に郡上郡刈安戸谷に念仏道場を建立したという。現在の浄土真宗乗性寺(郡上市美並町白山)である。

 弘長3(1263)年ごろになると、次第に病に伏せることが多くなったようで、将軍・宗尊親王も心配していたが、いよいよ病が重くなっこと伝え聞くと、親王は素暹のもとに歌を届けさせた。これを拝受した素暹は返歌を詠み、同年7月26日に亡くなったという。八十五歳だったとされているが、もしこの没年であれば治承3(1179)年生まれ、つまり父・重胤との年齢差がわずか二歳となるため、別説の文永10(1273)年10月3日に八十歳で亡くなったというのが事実に近いか。法名は廣慶了空宗源

 
 素暹法師わつらふこと侍りける かきりに聞こえ侍りければつかはしける

  限りとぞ聞くぞ悲しきあだし世の 別はさらぬ習ひなれども  中務卿 宗尊親王

                         かへし  素暹法師

  かくつらき別も知らであだし世の 習ひとばかりなに思ふらん

 いつのころかはわからないが、『沙石集 巻第五末』「和歌ノ人ノ感アル事」条に「東ノ入道」のことが記載されている。九州の大進房という僧侶が悪党(窃盗のこと。後世の悪党と意味が異なる)のために捕らえられて鎌倉に護送され、牢に拘禁された。拘禁されて八年、ある七夕の日に歌を詠んだ。

 
 ぬきかふる袂なければ七夕に しをたれ衣きながらぞかす

 この歌のことを聞いた「東ノ入道(素暹)」は、雅な心を持つ人物と感激し、幕府に申し出て彼を預かり、さらには「メイムコニシテ」とあるように、姪の婿にしたうえに「奥州ニ知ル所ノ代官(奥にあった素暹知行地の代官)としたとある。『沙石集』は弘安6(1283)年の成立であり、著者・無住一円は胤行と同時代の人物。当時すでにそういった話が伝わっていたことを示すものであろう。

 もう一点、同じく『沙石集 巻第五末』「連歌事」条に「故東ノ入道」が大病に罹ったときの逸話が伝えられている。胤行は病が重くなったため、年来、歌詠みとして親しくしている人たちを呼んで、最後の歌会を開いて連歌を行った。まず胤行が、

 あはれげに今いくたびか月をみむ

と発句を詠んだ。「ああ、これから何度月を見ることであろう」という悲観的な歌であるが、ここには「幾度」と「行く旅(死出の旅)」、「月」と「尽き(死)」が掛かっていることに人々は禁忌を感じた。この時「簾中」が、

 たとへば長き命なりとも

と付け、満座は感歎したという。「簾中」がいかなる人物かはわからないが、和歌に堪能な高貴な女性であろう。なお、このときの胤行の病は快復したという。この説話の中で胤行の「妹ノ若狭局」という女性が登場するが、彼女は東氏の系譜に記載されていない。「局」とあることから、彼女は女房として幕府に出仕してていたと思われる。

 素暹は晩年に及んで、子息たちに東庄および山田庄内の土地を分与していたと推測され、そのうち庶子の東六郎左衛門尉行氏へ郡上郡内の土地を譲ったと思われる。本領である下総国東庄の東氏惣領家は長兄の東図書助泰行が継承し、次兄東四郎義行も東庄内の地頭職を継承しているが、東泰行は建長5(1253)年8月15日の鶴岡八幡宮寺放生会への参加辞退のために所領没収が詮議されるなど(『吾妻鏡』)、東庄の東氏はその後奮わず、皮肉にも郡上へ移った東行氏の子孫が最も栄えることとなった。兄・四郎義行と関係のありそうな「東有義」という人物も郡上に所領を持っていた。

●胤行の没年について●

(1)弘長3(1263)年7月26日、享年85歳。→治承3(1179)年生まれ
(2)弘長3(1263)年7月26日、享年91歳。→承安3(1173)年生まれ
(3)文永10(1273)年10月3日、享年80歳。→建久5(1194)年生まれ
(4)文永10(1273)年10月3日、享年81歳。→建久4(1193)年生まれ

【参考文献】

(1)千葉熊太郎『讃岐千葉氏系譜』/千葉商会1943。
(2)浅見和彦『説話集に見る連歌』―『沙石集』東入道素暹を通して/『国文学』解釈と鑑賞第66巻11号2001。
(3)田渕久句子『藤原定家と好士たち』/『中世初期歌人の研究』2001。なお、胤行が面会を断られたときの定家の腰痛は、前日の朝の念誦時に「腰病忽発動、左足又不被踏立、苦痛無術之間」とあり、おそらく長年煩っていた脊柱管狭窄症(カ)による腰痛および左足の痺れであろう。もちろん煩わしさもあったろうが、面会拒否の主な理由は仮病とは思えない。
(4)鈴木康正『花の下連歌初期の諸相』/「藝文研究36」1977。
(5)廣木一人『出雲路毘沙門堂の花の下連歌』/「青山学院大学文学部紀要33号」1991.


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