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東胤行(????-1263)

 東氏三代。二代東太郎兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明(父・重胤の妻は下河辺行綱娘との伝があり、胤行の「行」字がその片諱とすれば、母は下河辺氏かもしれない)。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが、あくまで伝承である。兄に治部太夫貞胤があったといい、建保元(1213)年の和田合戦で活躍をしたとされる(1)。しかし、貞胤の名は『吾妻鏡』に見られない。

 胤行も父・重胤と同様に和歌の素養があり、源実朝・藤原頼経・藤原頼嗣・宗尊親王の四代に出仕して、とくに文筆や和歌を通じて信頼を得、のち美濃国郡上郡へ移った子孫の郡上東氏に受け継がれた「和歌の家」としての礎を築いた人物である。子孫は中院為家の家流のひとつ二條流を継承し、勅撰和歌集にも撰歌されている。

 東家の伝承では「素暹法師 東中務丞平胤行、中院大納言為家卿弟子(『古今相伝人数分量』早稲田大学図書館蔵)とされ、為家の弟子であったと伝わる。また、「為家卿素暹法師に伝受之儀号家説」と、素暹法師は師の為家から伝授された和歌の解釈の奥義を「家説(家流)」として伝えた。この「家説」は、二條家と冷泉家に分かれてしまう以前の中院為家の「原解釈」が純粋に伝えられていることを、東家は自家の誇りとし、また解釈の中核として重んじた。

 胤行には図書助泰行四郎義行六郎左衛門尉行氏本庄七郎盛胤(養子)・東平六氏村の男子、娘は少なくとも三人いて、長女は千葉泰秀(上総権介秀胤子)の妻、次女は歌人・中務丞胤行女(『新続古今和歌集』勅撰)、三女は三浦氏(泰村?)の妻となった。また、常陸国の大生定清の子で、ゆえあって胤行の養子となった右衛門大夫秀元という人物がいたともされるが定かではない。

 恋しぬといひてもへぬる年月の 命や人にうたがはるらん  中務丞胤行女(『新続古今和歌集』)

●東氏・二条家略系譜

 阿仏尼
  ∥―――――――冷泉為相―+―為秀
  ∥      (権中納言)|(権中納言)
  ∥            |
  ∥            +―娘
  ∥             (久明親王母)
  ∥
  ∥            +―泰行
  ∥            |(図書助)
  ∥            |
  ∥      東胤行―――+―行氏
  ∥     (左衛門尉) |(六郎左衛門尉)
  ∥       ∥    |
 中院為家――――    +―義行
(権大納言)         |(四郎)
  ∥            |
  ∥―――――+      +―娘―――――――男児一人
 宇都宮頼綱娘 |      |(上総泰秀妻)
(左衛門尉)  |      |
        |      +―胤行女
        |      |(『新続古今和歌集』勅撰歌人)
        |      |
        |      +―娘
        |      |(三浦某妻)
        |      |
        |      +―氏村
        |       (下野守)
        |
        +―為氏―――――為世   
        |(権大納言) (権大納言)
        | 
        +―京極為教―――為兼   
         (左兵衛督) (権大納言)

 和歌に非常に興味を示した将軍・実朝は、胤行の父・重胤を側近として重用したが、胤行も歌道に長じ、父と同じく実朝の近侍として夜番を勤めている(『吾妻鏡』建保六年十一月廿七日条)。しかし、建保6(1218)年、所領の下総国海上庄へ下向して長い間戻ってこなかった。そのため11月27日、将軍実朝は胤行へ歌を遣わして鎌倉へ戻るよう促した。まさに元久3(1206)年に父・重胤が起こした騒動と似たような事件であるが、今回は4月に千葉家嫡宗の千葉介成胤が亡くなったことによる何らかの理由があった可能性もあろう(『吾妻鏡』)

●『吾妻鏡』建保6(1218)年11月27日条

 東平太重胤は無双の近仕なり、其の男胤行、父に相並び又夙夜君に在らんか、
 去る比下総国海上庄に下向す、久しく帰参せざるの間、将軍家、御書を遣わさる、
 是早く帰参せしむべきの由なり、この次でを以て御詠を給ふ

  恋しとも思はていはヾ久堅の天照神も空にしるらん

●『金槐和歌集』

  素暹法師、下総国に侍りし頃のぼるべきよし申し遣わす  鎌倉右大臣

   恋しとも思はでいはば久堅の 天照る神も空にしるらん

    返し                      素暹法師

   浜千鳥八十島かけてすむ千鳥 心ひとつにいかがたのまむ

 建保7(1219)年正月の実朝将軍の暗殺直後に父・重胤が出家すると、東氏を継承したと思われ、伝承によれば胤行は承久の乱(1221年)で功績を挙げて恩賞として承久3(1222)年に美濃国郡上郡山田庄(岐阜県郡上市)を賜ったという。

 安貞2(1228)年7月23日、将軍・頼経は三浦駿河前司義村田村山庄(平塚市田村)へ遊覧に出た。このとき供奉した御家人の中に「海上五郎」「東六郎」の名が見える(『吾妻鏡』)「海上五郎」は兄の海上五郎胤方「東六郎」はおそらく胤行であろう。

●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)

隨兵左 三浦次郎 結城七郎 城太郎 大須賀左衛門尉 足利五郎 陸奥四郎
隨兵右 長江八郎 上総太郎 小笠原六郎 佐々木太郎左衛門尉 河越次郎 相模四郎
御駕 藤原頼経(将軍)
御劔 駿河次郎          
御笠 佐原十郎左衛門太郎          
駕籠左 佐原四郎 高井次郎 多々良次郎 印東太郎 遠藤兵衛尉 土肥太郎
稲河十郎 伊佐兵衛尉        
駕籠右 大河戸太郎兵衛尉 下河辺左衛門次郎 梶原三郎 佐貫次郎 波多野小六郎 佐野小五郎
佐々木八郎 春日部太郎 海上五郎 阿保三郎 本間次郎左衛門尉   
御調度懸 長尾三郎          
御後 越後守 駿河守 陸奥五郎 大炊助 相模五郎 周防前司
加賀前司 三條左近大夫 駿河蔵人 左近蔵人 伊賀蔵人 結城左衛門尉
小山五郎 修理亮 白河判官代八郎 佐々木判官 佐々木三郎 長沼四郎左衛門尉
後藤左衛門尉 伊豆左衛門尉 伊東左衛門尉 宇佐美左衛門尉 佐原三郎左衛門尉 宇都宮四郎左衛門尉
伊賀四郎左衛門尉 伊賀六郎左衛門尉 土屋左衛門尉 中條左衛門尉 信濃次郎左衛門尉 藤内左衛門尉
隠岐次郎左衛門尉 狩野藤次兵衛尉 天野次郎左衛門尉 遠山左衛門尉 加藤左衛門尉 江兵衛尉
葛西左衛門尉 相馬五郎 東六郎(胤行) 三浦又太郎 足立三郎 島津三郎左衛門尉
遠藤左近将監 海老名藤内左衛門尉 豊嶋太郎 長江四郎 氏家太郎 善太次郎左衛門尉
最末 相模守 武蔵守 相模小太郎      

 同年8月13日に、翌々日に決定している将軍家の鶴岡八幡宮参詣の供奉人が決定した(『吾妻鏡』)。ほぼ田村山荘供奉人と同様であるが、隨兵に八名が追加とされた。その追加された人物は「相模五郎・小山五郎・氏家太郎・伊東左衛門尉・葛西左衛門尉・天野次郎左衛門尉・東六郎・足立三郎」である。この「東六郎」が胤行である。

 10月15日には将軍家が「方違」のために小山下野入道生西(小山朝政)の邸(車大路か)へ移った際に供奉している(『吾妻鏡』)

 寛喜3(1230)年3月19日、将軍家は三崎の磯に遊覧に出た。ここで催された連歌の会では「両国司、廷尉基綱、散位親行、平胤行」が秀歌を献じ(『吾妻鏡』)、貞永元(1232)年11月29日の将軍家永福寺参詣に供奉、雪見の歌会では「歌に携わる輩」として列した(『吾妻鏡』貞永元年十一月廿九日条)。この時、胤行は「中務丞胤行」とあるので、すでに中務丞に任官していたことがわかる。

 貞永2(1233)年2月7日未の刻(午後2時ごろ)、「東乃中務尉と云武士」が京都の藤原定家の門をたたいた(『明月記』天福元年二月七日条)

●『明月記』天福元(1233)年二月七日条

七日
…未時許、東乃中務尉と云武士来門前、付家長朝臣書状、自昨日腰損不動身、不能対面之由示之、自門外帰、着直垂云々、乗車其衣与乗物不相応歟、或説云、其手跡歌風体奉似九條大納言云々当世好士耄及而猶在世珍重知音多出来歟、可従漁父之誨哉否

 彼は胤行その人で、この当時京都にいたことがわかる。前年の貞永元(1232)年9月までに上洛した千葉介時胤大番催促による上洛と考えらる(『民経記』貞永元年閏九月朔日条)。胤行が定家邸を訪れた際には「家長朝臣」の書状を持参していたという。この「家長朝臣」は定家と親交が深かった歌人・但馬守源家長でる。胤行は家長とも交流があり、「家長朝臣書状」は胤行の詠草を定家へ渡すための紹介状であろう。貞永2年(天福元年)は定家は『新勅撰和歌集』への入選歌選定を行っており、胤行もその入選を願って家長の紹介を受けて訪問したものと推測されている(2)(3)

 胤行は定家邸門外にて、取次の者から「自昨日腰損不動身、不能対面之由」を返答すると、胤行はやむなく帰っていったという。取次の者からその風体等を聞くと、胤行は直垂を着ながら車に乗って来ていたという。その直垂と車の組み合わせは不釣合いと評し、胤行の人物についても、手跡や歌風が定家と対立した「九條大納言(基家)」と似ていると聞いていて(「或説云」とあることから、定家は胤行が持参したであろう詠草を見ていないか、もしくは受け取っていないのだろう)、よい印象は持っていないようである(2)「耄及而猶在世珍重知音多来歟、可従漁父之誨哉否」と、年老いてなお在世の珍重な知音が多く来る、と「皮肉っぽく愚痴」(3)を言い、「漁父之誨」に従うべきか否かと、こちらも皮肉的に日記に記している(『明月記』天福元年二月七日条)

 しかし、この記述から定家は胤行とは面識がなかったことがわかる。胤行は定家の子・藤原為家の娘を娶ったと系譜にあるが、彼がこの時点で定家の孫娘(為家娘)を娶っているのであれば、当然定家とも面識があったはずであり、為家娘が胤行の妻になったのが事実であれば、これ以降の事となる。つまり、この時点ですでに産まれていると思われる東六郎行氏は為家娘の所生ではないことになる(そもそも御子左家の系譜に東氏に嫁いだ為家娘は見えない)

 なお、東氏と御子左藤原氏の接点は、東氏の本拠がある下総国三崎庄が関わっているかもしれない。三崎庄は九條家を本家とする「殿下領」で、胤行の叔父・海上胤方の一族が地頭職を有した荘園だが、建久10(1199)年4月23日、藤原定家は九条家政所より「下総国三崎庄」の預所に任じられ、7月29日、定家はこれを「地頭等」に知らせるために、雑色光澤を三崎庄に遣わしている。

 文暦2(1235)年1月26日、将軍・藤原頼経は方違えのために周防前司藤原親実の大蔵屋敷に入御した(『吾妻鏡』)。この日は庚申の夜でもあったため、徹夜の歌会が催された。庚申の夜に寝ると体内から「虫」が抜け出して天に昇り、天帝にその人の行いを告げ口すると信じられており、徹夜で催し物を行う風習があった。この歌会で頼経は「竹間鶯」「寄松祝」を題とした二首の和歌を詠んだが、その際に「東六郎行胤」が懐紙を進めた。この「東六郎行胤」はおそらく胤行の誤記であろう。

 嘉禎4(1238)年正月20日、将軍・藤原頼経は上洛のため秋田城介景盛の甘縄邸に入った。守護千葉介時胤は下総国内の地頭に対し供奉の催促をしているが、時胤自身は香取社造営の年に「大介(時胤)」は出国しないことを主張して認められた『関東御教書写』

●嘉禎4(1238)年正月23日「関東御教書写」(『下総香取文書』:『鎌倉遺文』所収)

  香取造営之間、大介不出国境云々、御京上御共止、可被在国之状、
 依仰執達如件、
        正月廿三日     左京権大夫(花押)※…北条泰時
                  修理権大夫(花押)※…北条時房

   千葉介殿

 ところが、時胤管掌下の下総国内の地頭はそのまま将軍に供奉して上洛している。彼らは3月15日になって「(時胤に)於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向」と幕府より早々の帰国を指示され、香取社造営に専念すべき旨の御教書を受けている。

●嘉禎4(1238)年3月15日「関東御教書写」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

 依香取造営事、千葉介時胤被免除京上御共畢、然者、
 於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向
 而守先例、可専造営之状、依仰執達如件、

    嘉禎四年三月十五日     左京権大夫(花押)※…北条泰時
                  修理権大夫(花押)※…北条時房
   下総国地頭中

 このとき、守護時胤の催促によって、胤行も上洛していたと思われるが、胤行は摂津国の天王寺に参詣し、住吉にいた藤原隆祐(隆祐妻が住吉社神主津守経国娘)に手紙と歌を届けている(2)。その後、胤行も住吉に合流したと思われる。胤行は天福元(1233)年2月にも在京が確認できるなど、何度も上洛していると思われるため、隆祐との接触が嘉禎4(1238)年3月であるとは断定できないが、寛元3(1245)年頃の胤行出家前の出来事と考えられる。

●「隆祐集」(『私歌集大成 中世Ⅱ』)

 春のころ、平胤行天王寺に詣て、住吉へ申をくり侍し

すみよしのまつ人も哉たつね見ん かすめるうちはみちしらすとも

 返し

かすめとも松あるうらもしりなから 心のみちをいかゝへたてん

 また、隆祐は在倉時の胤行とも交流を持ち続けており、胤行は隆祐と歌を詠み交わした。花と月のもとでの歌詠みが行われていたことがうかがわれる。

●「隆祐集」(『私歌集大成 中世Ⅱ』)

  夏のころ、胤行、かまくらより

 春夏の花と月とのあひみても、わすれぬ人はなをそ恋しき

  返し
 
 はるあきの花と月とのなかめたに わするゝほとゝ君をこひつゝ

  そへて

 山の井のにこらぬ水をむすひても やかてわかれし面影そたつ

 当時の京都においては、地下のいわゆる「好士」たちによる「道俗貴賎を問わず誰もが参加でき、会衆でなくとも句を付けることができた」「花の下連歌」という「勧進法楽のために設定された場」がで行われたという歌会があった(4)。また一方で「毘沙門堂周辺に集住した人々の花の季節に行う季節的祝福芸能」とする説もある(5)。隆祐も連歌を詠んでおり、胤行もこの「花の下連歌」に加わっていたことが『沙石集』から見られ、こうした和歌や連歌を通じた交流が続いていたのだろう。

 寛元元(1243)年7月17日、将軍の臨時御出について、月の上旬・中旬・下旬を御家人の当番制とすることとした。これは将軍家が突如御出することになった際に、供奉すべき御家人がこれを知らされず、結果として供奉に遅刻するということがよくあり、差配する奉行人の煩いの基となっていたのを解消するためである。この下旬の当番に「東中務丞」が婿の「上総五郎左衛門尉(泰秀)」とともに列している(『吾妻鏡』寛元元年七月十七日条)

 その後、胤行は出家して「素暹」と号した。そのきっかけは寛元3(1245)年7月5日の前大納言家(藤原頼経)の出家、または寛元4(1246)年閏4月1日の執権北条経時入道の卒去のいずれかであろう。

■宝治合戦

 宝治元(1247)年6月5日、御家人の長老・三浦泰村は安達景盛入道との政争に敗れ、滅亡した。そして三浦泰村と縁戚関係にあった別家千葉氏の上総権介秀胤(三浦泰村の妹婿)も首謀者の一人として、6月6日、胤行入道素暹大須賀胤氏が追討を命じられた(『吾妻鏡』宝治元年六月六日条)

 胤行入道素暹は秀胤の子・五郎左衛門尉泰秀に娘を嫁がせている血縁者であったが、翌6月7日、幕命を奉じて大須賀胤氏ほか「于時当国御家人、如雲霞起、而成合力」して上総一ノ宮の大柳館に馳せ向かった。安達勢と三浦勢の合戦は、開戦してわずか二時間後には上総国に報が届いており、7日夕刻には秀胤と仲違いをしていた弟の下総次郎時常も大柳館に入っており、美談と讃えられた。

 素暹らが一ノ宮大柳館についた時点で、すでに館の郭外四面には薪が積み上げられており、秀胤は自害の心を固めていたと思われる。そして戦うこともなく秀胤らは薪に火をつけると、「其焔太熾、而非人馬之可通路」とあるほどの火勢が館を覆った。その火勢から薪に油を掛けるなどしていた可能性もあろう。素暹や胤氏をはじめ「当国御家人」とは千葉氏の系統の者が多かったと推測され、秀胤への攻撃は「軍兵安轡於門外、僅造時声発箭」とするに留まっている。すると、館内の馬場の辺りに集まったから秀胤方の兵士が「射答箭」し、その間に「上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀」は心静かに念仏を唱えて自害したという(『吾妻鏡』宝治元年六月七日条)

 『吾妻鏡』の記述を見ると、大柳館は塀を巡らした四面に門を持つ方形館で、その内外には政務機関や郎従などの家など数十宇が立ち並ぶ広大な家並みで形成されていたようである。秀胤方はそれらの家屋にも放火したため、一帯は燃え狂って「内外猛火混而迸半天」とあるように、火災旋風が発生していたようである。そのあまりの火勢と輻射熱に耐えられず「胤氏以下郎従等、咽其熾勢、還遁避于数十町之外」したという。これは数キロあまり退避したことになる。これらから大柳館は平地に営まれていたことがわかる。玉前社に近いことから、かつての上総氏の館を利用していた可能性が高いだろう。おそらく館は現在の瑞沢川に近接し、仮に足利氏の館と同規模(約200m四方)であったと仮定すると、かなり広い平地に置かれていたと考えられる。ただし瑞沢川は流域をかなり変化させている形跡があるため、断定はできないが、大柳館は現在の睦沢町大谷木のあたりに該当するか。

 結局、素暹らはこの炎焔のために館に近づけず、「敢へてかの首を獲る能わずと云々」とあきらめて鎌倉へ帰還した。素暹は6月11日、幕府に現れて、追討使の一人としての勲功と引き換えに、外孫にあたる1歳の男子(泰秀の子)の助命嘆願をした。この願いは聞き入れられ、素暹が預かることが認められた。また、この素暹の愁訴がきっかけか、ほかの秀胤縁者の子どもたちについても助命が認められ、6月17日、幕府に秀胤の末子(1歳)、修理亮政秀の子息二人(5歳、3歳)、埴生次郎時常の子(4歳)が出頭。具体的な人物は不明だが、しかるべき御家人に預けられた(『吾妻鏡』)

●『吾妻鏡』宝治元年六月十一日条

今日、東入道素暹愁へ申す事あり。これ上総五郎左衛門尉泰秀は素暹が息女を嫁して男子を生む。今年一歳なり。たとひ縁坐に処せらるべしといへども、当時襁褓の内に纏はれ、是非を知るべからざるものか。今度一方の追討使の賞に募り、預り置くべきの由と云々。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十七日条

 
上総介が末子一人一歳。同修理亮が子息二人五歳三歳埴生次郎が子息一人四歳。おのおの出で来る。面々に検見を加へられ、人々預かりこれを守護す。

 千葉介常胤―+―胤正――+―成胤――+―胤綱――――――+―時胤――――――頼胤
(千葉介)  |(千葉介)|(千葉介)|(千葉介)    |(千葉介)   (千葉介)
       |     |     |         |      
       |     |     +―千田尼     +―泰胤
       |     |      (北条時頼後室)  (次郎)
       |     |
       |     +―常秀――+―秀胤――――――+―時秀
       |      (兵衛尉)|(上総権介)   |(式部丞)
       |           |         |
       |           +―埴生時常    +―政秀
       |            (次郎)     |(修理亮)
       |                     |
       |                     +―泰秀
       |                      (五郎左衛門尉)
       |                       ∥―――――――男子
       |                       ∥
       +―東胤頼―――重胤――――胤行――――――+―
        (六郎大夫)(兵衛尉) (左衛門尉)   |
                             |
                             +―泰行
                             |(図書助)
                             |
                             +―行氏
                             |(左衛門尉)
                             |
                             +―氏村
                              (左衛門尉)

 なお、このとき助命された子であるかは不明ながら、秀胤の子・式部丞時秀の子される「豊田五郎秀重」「左衛門尉常員」両名が薩摩国山門院の豪族の系譜に見える(『山門文書』)。時秀の子については『吾妻鏡』には伝えられていないが、泰秀の可能性もあるか。

 千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持                   +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎)  |(源六)                  |(太郎)
            |      |                      |
            +―常員   +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
             (左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
                                          |
                                          +―澤田秀明
                                          |(三郎)
                                          |
                                          +―文殊寺秀棟
                                           (四郎)

 宝治2(1248)年9月20日、将軍・頼嗣は「東中務入道素暹」へ問状や御教書を成す「右筆」への就任を伊勢前司行綱・大曽祢左衛門尉長泰をして命じた(『吾妻鑑』)。素暹は「千葉介常胤棟葉の中、右筆の例を始む」であり、その理由は「文武兼備の士」であって、頼嗣にしても風雅を備えた教養人でもある素暹を「殊に至要の趣」として重用していたことがうかがえる(2)

 ところが、建長4(1252)年、将軍・頼嗣の祖父・九條禅門入道(九条道家)と頼嗣父・頼経入道(前将軍)による幕府転覆計画が発覚し、得宗北条時頼は後嵯峨上皇の第一皇子・三品宗尊親王を新将軍として鎌倉へ迎える事で朝廷と妥結。現将軍・藤原頼嗣は廃されて、3月21日に鎌倉を出立し京都へ送還された(建長政変)。これ以降、惟康親王久明親王守邦親王と四代にわたって親王が将軍として鎌倉に下向し、建武新政府初期の所謂「皇族将軍」の先例となる。

 頼嗣が廃され、4月1日に宗尊親王が鎌倉に到着。その後の素暹は和歌に傾倒する宗尊親王の側近として宗尊を精神的に支えることとなる。なお、宗尊親王は藤原為家を師と仰ぎ、素暹もおそらく為家と何らかの関わりを持っていたと考えられることから、宗尊親王は素暹を信頼し、宗尊親王家の歌合にも素暹が参加するなど、深い関わりがみられる。ただし、素暹はすでに高齢であり、東氏惣領を引退していたと考えられ、時折鎌倉を離れて上洛していた様子が垣間見える。

 「建長の頃(1249~1256)」、「東入道」は京極出雲路の毘沙門堂境内で行われていた「花の下連歌」を「シノビテ聞」き、「ウスクレナヒニナレルソラカナ」という難句で三十余句返されるのを見て、面白くなかった素暹は傍らで「アマトブヤイナヲホセ鳥ノカゲミヘテ」と詠んだところ、その場にいた「花下ノ十念房(橘家季:素俊)」が「アハ、ツキ候ヌルハ」と褒めた逸話(『沙石集』巻五)が伝わる(4)。なお、この歌は『菟玖波集』にも載せられており、

建長の頃、毘舎門堂の花下の連歌にといふ難句の侍りけるに

薄くれなゐに匂ふ空かな
天飛ぶや稲おほせ鳥の影みえて

とある。

 その後、京都を離れて「山里」に隠棲するようになる。そのころの心情を、

 
  世をのがれて後山里にまかりてよみ侍る歌

  住み馴れし都を何と別れけむ うき世はいずくも我身なりけり 素暹(『続後撰和歌集』)

と詠んでいる。

乗性寺
乗性寺

 この「山里」とは具体的な記述はないが、承久の乱の戦功で賜ったとされる美濃国山田庄か。

 素暹は在京時に親鸞(法然弟子。浄土真宗の宗祖)に師事し、親鸞の自画像と「南無阿弥陀仏」の名号を賜ったという。その後、正嘉元(1257)年、郡上郡刈安戸谷に念仏道場・戸谷寺を建立したとされる。現在の浄土真宗乗性寺(郡上市美並町白山)である。

 その後は再び鎌倉に戻り、将軍宗尊親王のもとに伺候し、弘長2(1262)年まで宗尊親王家の歌合に参加しているが、その後、体調が思わしくなくなり、たびたび床につくようになる。

 「東ノ入道」が大病を患い、明日をも知れぬ体調になったときの出来事が『沙石集 巻第五末』「連歌事」条に伝えられている。素暹は「病ノ床ニフシテ日久シ、頼ミナク覚ヘ」たため、最後の歌会のつもりで年来、歌詠みとして親しくしている人たちを呼び歌会を行った。このとき、まず病床に伏せる素暹が、

 あはれげに今いくたびか月をみむ

と発句を詠んだ。「ああ、これから何度月を見ることであろう」という悲観的な歌であるが、ここには「幾度」と「行く旅(死出の旅)」、「月」と「尽き(死)」が掛かっていることに人々は禁忌を感じた。この時「簾中」が、

 たとへば長き命なりとも

と付け、満座は感歎したという。この句のすばらしさに素暹は「心チ宜シク」なって、このときは危急を脱したとある。この「簾中」は素暹の妻ではなく、素暹の「妹ノ若狭ノ局」であったが、「局」とあることから幕府出仕の女性であろう。親しく交わっていた歌人たちは、宗尊親王家歌合でも名の見られる人々かもしれない。

 上記と大差ない時期と見られるが、宗尊親王は素暹が危篤であると伝え聞き、素暹のもとに歌を届けさせた。これを拝受した素暹は返歌している。おそらく弘長3(1263)年初夏の鎌倉での贈答歌であろう。

 
 素暹法師わつらふこと侍りける かきりに聞こえ侍りければつかはしける

  限りとぞ聞くぞ悲しきあだし世の 別はさらぬ習ひなれども  中務卿 宗尊親王

                         かへし  素暹法師

  かくつらき別も知らであだし世の 習ひとばかりなに思ふらん

 伝によれば弘長3(1263)年7月26日卒(『東氏遠藤氏家譜』)。数日後の8月6日雨の降る中、将軍宗尊親王は近習の人々にそれぞれ十首を詠む様指示した。これは「素暹法師率去之後、有御夢想之告、黄泉有其苦歟之」という霊夢によるものであった。さらに「被廻滅罪之謀」のために歌の懐紙の裏に経典を書写した。そして自らの詠歌は「左兵衛尉行長」の名字を用いたという(『吾妻鏡』弘長三年八月六日条)。この「左兵衛尉行長」は、素暹の孫にあたる「兵衛尉行長(図書助泰行の子)」か二階堂工藤氏の「隠岐四郎兵衛尉行長」かは不明。これらのことから、宗尊親王の夢に出るほど素暹を強く思慕している時期、つまりまだ死去後間もない時期であると考えると、素暹は伝と大差ない同年7月頃に亡くなったと見るのが妥当だろう。法名は廣慶了空宗源

 死去の伝では、弘長3(1263)年7月26日に八十五歳(または九十一歳)とされるが、没年齢に関しては、それぞれ逆算するといずれも頼朝の挙兵前に誕生していることとなる。この時期は素暹の祖父・六郎大夫胤頼がまだ二十代の若者であることから、没年齢に関しては信憑性に欠けると言わざるを得ない。

 素暹は晩年に及んで、子息たちに東庄および山田庄内の土地を分与していたと推測され、そのうち庶子の東六郎左衛門尉行氏へ郡上郡内の土地を譲ったと思われる。本領・下総国東庄は惣領の東図書助泰行が継承し、次子・東四郎義行にも東庄内の地頭職を譲った。しかし、東泰行は建長5(1253)年8月15日の鶴岡八幡宮寺放生会への供奉辞退のために所領没収が詮議される(『吾妻鏡』)など、東庄の東氏はその後奮わず、皮肉にも郡上へ移った東行氏の子孫が最も栄えることとなった。兄・四郎義行と関係のありそうな「東有義」という人物も郡上に所領を持っていた。

 素暹の歌は勅撰和歌集としては『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に二十二首見ることができる。

 世をのがれて後山里にまかりてよみ侍る歌
 住み馴れし都を何と別れけむ うき世はいずくも我身なりけり (『続後撰和歌集』)

 『続後撰和歌集』は建長3(1251)年成立(後嵯峨院)の勅撰集で、撰者は素暹の師とされる中院大納言為家である。

 
 月をよめる
 さほしかの入野の薄き霜かれて 手枕さむき 秋の夜の月 (『続古今和歌集』)

 『続古今和歌集』は文永2(1265)年成立(後嵯峨院)の勅撰集で、撰者は『続後撰和歌集』と同様に御子左為家。ただし途中から為家の父・定家以来、歌風で対立関係にあった九條基家らが参加することとなった。素暹は若い頃に大番役で上洛中、定家に歌の合点の依頼を試みたが、定家の腰痛によって叶わなかった。このとき定家が素暹の歌風について「九條大納言(基家)」に似ているという評価をしている。

  ねぬにみし むかしの夢のなこりとて 老のなみたにのこる月かけ (『続拾遺和歌集』)

 『続拾遺和歌集』は弘安元(1278)年成立(亀山院)の勅撰集で、撰者は二條為氏。

●胤行の没年について●

(1)弘長3(1263)年7月26日、享年85歳。→治承3(1179)年生まれ
(2)弘長3(1263)年7月26日、享年91歳。→承安3(1173)年生まれ
(3)文永10(1273)年10月3日、享年80歳。→建久5(1194)年生まれ
(4)文永10(1273)年10月3日、享年81歳。→建久4(1193)年生まれ

【参考文献】

(1)千葉熊太郎『讃岐千葉氏系譜』/千葉商会1943。
(2)浅見和彦『説話集に見る連歌』―『沙石集』東入道素暹を通して/『国文学』解釈と鑑賞第66巻11号2001。
(3)田渕久句子『藤原定家と好士たち』/『中世初期歌人の研究』2001。なお、胤行が面会を断られたときの定家の腰痛は、前日の朝の念誦時に「腰病忽発動、左足又不被踏立、苦痛無術之間」とあり、おそらく長年煩っていた脊柱管狭窄症(カ)による腰痛および左足の痺れであろう。もちろん煩わしさもあったろうが、面会拒否の主な理由は仮病とは思えない。
(4)鈴木康正『花の下連歌初期の諸相』/「藝文研究36」1977。
(5)廣木一人『出雲路毘沙門堂の花の下連歌』/「青山学院大学文学部紀要33号」1991.


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