千葉胤時(????-????)
白井氏初代。父は千葉介胤正。通称は八郎。
胤時は、千葉介頼胤(亀若丸)の幼少時代、頼胤の大叔父として、一族の長老として宗家代の立場にあった人物と思われる。千葉介胤綱、千葉介時胤がいずれも若くして亡くなり、「千葉八郎胤時」が幼少の惣領に代わって幕府に出仕し、放生会の供奉など千葉介の役を果たしていた。次第に頼胤の叔父にあたる千葉二郎泰胤が出仕するようになり、胤時は引退をしたようである。
『明月記』によれば、文暦2(1235)年6月21日夜、藤原定家の屋敷に子息為家が訪問した。それは、もともと小笠原某の妻だった「所縁之入道次女」の父(宇都宮頼綱入道。為家の岳父)が、再嫁を固辞しているにも拘らず彼女を強いて「千葉八郎」に嫁がせることとしたが、その際、人々が「所縁之入道次女」を「可乗金吾車之由」と言い立てるので、為家は父定家に八葉車を借りに来たということだった。
●『明月記』(文暦二年六月廿一日条)
北条時政
(遠江守)
∥──────女子
∥ ∥─────+─宇都宮泰綱
∥ ∥ |(下野守)
∥ ∥ |
牧の方 宇都宮頼綱 +─女子 【二條】
(左衛門尉) | ∥──────藤原為氏
| ∥ (権大納言)
| 藤原為家
|(権大納言)
|
+─女子
∥
∥
千葉胤正────千葉胤時
(千葉介) (八郎)
嘉禎2(1236)年6月、千葉介時胤に香取社造営の宣旨が下され(『香取社造営次第案』)、担当所役が所領単位で割り振られた。寛元元(1243)年11月11日までに所役注文が作成され、「千葉八郎」は「匝瑳北條役」として「佐土殿社一宇」を請け負っている(『香取社造営所役注文』)。「匝瑳北條役」はほかに「飯高五郎跡」として「内院中門一宇」がみられる。このときの造替遷宮は宝治3(1249)年3月10日に行われている。胤時は嘉禎2(1236)年頃にはすでに「匝瑳北條」=香取郡鏑木郷(旭市鏑木)に所領を有していたことがうかがえる。胤時とともに匝瑳北條役を担った「飯高五郎跡」は鏑木郷の西隣の「匝瑳北條」=飯高郷(匝瑳市飯高)を領した飯高五郎高常の子(松崎高将、飯高胤高、飯高時胤らであろう)
平常兼──+─千葉常重─+─千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤
(下総権介)|(下総権介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介)
| | |
| +─椎名胤光 +─千葉常秀
| (六郎) |(上総介)
| |
| +─千葉胤時──+─鏑木胤定
| (八郎) |(九郎)
| |
+─白井常親─+─白井常実───白井胤秀 +─長吉信清
|(次郎) |(太郎) (三郎) (十郎)
| |
| +─白井常高 +─白井胤長
| |(次郎) |(十郎)
| | |
| +─白井常泰─+─白井頼秀 +─小松川有忠───小松川盛時
| |(六郎) |(四郎) |(小太郎) (又太郎)
| | | |
| | +─白井胤家 | +─小松川次郎太郎
| | (六郎) | |
| | | |
| +─白井親忠─+─白井清忠 | +─白井胤長
| (八郎) |(八郎太郎) | |(左衛門尉)
| | | |
| +─小松川助忠─+─小松川吉忠─+─小松川清胤
| (八郎次郎) (次郎) (六郎)
|
+─匝瑳常広───飯高将胤─+─飯高親常────飯高胤親────飯高胤親─+─飯高助胤 +─道現 +─飯高重胤
(八郎) (次郎) |(次郎) (太郎) (太郎) |(六郎) | |(左衛門次郎)
| | | |
| +─飯高高重─+─飯高高信───+─飯高高益
| (七郎) (宮内左衛門尉)|(三郎)
| |
| +─松崎泰氏───松崎次郎 +─飯高高長
| |(次郎) |(五郎)
| | |
| +─松崎胤氏───松崎義氏 +─飯高高将
| |(五郎) (弥五郎) |(六郎)
| | |
| +─松崎泰氏───松崎次郎 +─飯高胤高
| |(次郎) |(新左衛門尉)
| | |
| +─政賀 +─飯高高家
| |(兵部) |(八郎)
| | |
| +─良胤 +─民部
| |(三位阿闍梨) |
| | |
+─飯高高常──+─松崎高将────松崎胤信─+─松崎胤村 +─僧
(五郎) |(太郎) (五郎) (九郎)
|
+─飯高胤高────飯高胤■─+─飯高胤員
|(次郎) (左衛門尉)|(左衛門次郎)
| |
| +─山倉泰高
| (兵衛次郎)
|
+─飯高時胤────飯高胤長─+─飯高胤光───飯高胤忠
(弥五郎) (又五郎) |(孫五郎) (彦五郎)
|
+─飯高胤盛───飯高高胤
|(中務) (又五郎)
|
+─飯高元胤
(余五郎)
●嘉禎2(1236)年6月「香取社造営所役注文」(『香取文書』)
| 担当役所 (当国諸御家人勤仕役所) |
造替諸社役所 | 雑掌 | 雑掌人名 |
| 正神殿 | 千葉介 | 千葉介時胤 | |
| 大床 舞殿 |
幸嶋役所 | ||
| 火御子社 | 萱田郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 於岐栖社 | 吉橋郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 楼門 | 埴生印西所役 | ||
| 一鳥居 | 印東庄役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 勢至殿 | 神保郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 不開殿 | 小見郷役 | 木内下総前司 | 木内胤朝 |
| 佐土殿 | 匝瑳北條役 | 千葉八郎 | 千葉胤時 |
| [女盛]殿 大床 舞殿 仮[女盛]殿 |
大戸郷 神崎郷 |
国分小次郎跡 千葉七郎跡 |
国分常通跡 千葉師胤跡 |
| 東廻廊 | 風早郷役 | ※風早胤康か | |
| 中殿 | 埴生西役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 北庁屋 | 大須賀所役 | 胤信跡 | 大須賀胤信跡 |
| 瞻男社 | 埴生西内 富谷郷役 | ※金沢実時か | |
| 忍男社 | 下野方 | ||
| 二鳥居 | 下葛西役 | 同跡(壱岐入道跡か) | ※葛西清重入道跡か |
| 三鳥居 | 大方郷役 | 関左衛門尉 | |
| 祭殿 | 結城郡役 | 上野入道 | 結城朝光入道 |
| 火王子 | 下野方 | ||
| 内院中門 | 匝瑳北條役 | 飯高五郎跡 | 飯高五郎跡 |
| 西廻廊 | 矢木郷所役 | ※矢木胤家か | |
| 若宮 | 千葉介 | ||
| 酒殿 | 遠山方所役 | ※千葉師胤跡か | |
| 渡殿 | 上野方所役 | ||
| 外院中門 | 印西所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 東脇門 | 平塚郷所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 西脇門 | 平塚郷所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 宝殿 | 猿俣所役 | 壱岐入道跡 | 葛西清重入道跡 |
嘉禎3(1237)年4月19日、鎌倉の大倉新御堂上棟式に際し、将軍・頼経は夜まで続けられた足利義氏(左馬頭)邸での酒宴から御所へ帰還するにあたり、隨兵十騎の中に「千葉八郎」の名が見える。嘉禎4(1238)年6月5日、将軍家春日社御参に隨兵一番として、三浦光村(河内守)、梶原景俊(右衛門尉)と並んで「千葉八郎胤時」の名が見える。その二年後の仁治元(1240)年8月2日、将軍・頼継の二所詣の先陣隨兵十二騎の一騎に「千葉八郎」が見える。
寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突如御出する際に、供奉する御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていたのを、この日、月の上旬・中旬・下旬で当番制とした。その中旬の担当に「千葉八郎」が見える。さらに寛元4(1246)年8月15日の放生会の後陣の隨兵として「千葉八郎胤時」の名が見える。
宝治元(1247)年5月14日、前日に亡くなった将軍・頼嗣御台所(北条修理亮時氏娘)の葬送の儀が執り行われ、前執権・北条経時(武蔵守)の佐々目谷墳丘墓の傍らに埋葬された。この葬儀に列した人物として「千葉八郎」が見える。
『千葉大系図』によれば、八郎胤時は宝治元(1247)年の「宝治合戦」に連座して白井庄を没収されたとされ、千葉宗家(千葉介頼胤か?)に預けられたとされるが、実際にはそれから二十年ものちの文永2(1265)年7月19日の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」とあるように、白井胤時の子・九郎胤定は「白井」を称しており、白井庄を収公された事実はないことがわかる。ただし、前述の通り白井八郎胤時は嘉禎2(1236)年時点ですでに下総国香取郡鏑木郷(旭市鏑木)に所領を得ており、胤時嫡子の胤定以降、鏑木郷に移住している。そして、その子孫が「白井」を称することはなかったと推測される。
白井胤定(1205-1273)
白井氏二代。鏑木氏初代。父は千葉八郎胤時。通称は九郎。法名は胤定院在阿弥陀仏。熱心な浄土宗信者であった。胤定は香取郡鏑木郷(旭市鏑木)を拠点として子孫は「鏑木氏」となる。元久2(1205)年誕生(『光明寺縁起』より逆算)。
某年7月19日の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」であるが、この「白井九郎」は胤定とみられる。書状の背景は不明だが、僧了尊が自白供述した「夜討」に関し、ほかの容疑者との供述内容と異なっていることから、どちらが正しいのか判断できず、ひとまず鎌倉に上裁したことを九郎胤定に報告した内容である。千葉介頼胤は仁治2(1241)年に三歳で家督を継承し、胤定父・千葉八郎胤時が後見人として千葉介に代わって御所に出仕するなど代理を勤めた。その後、千葉次郎泰胤や上総権介秀胤が頼胤後見人となるが、おそらく九郎胤定も父胤時を継いで後見人の一人となっていたのだろう。この頼胤の報告は、それを物語るものであろう。
●某年7月19日「平某書状」
胤定は大須賀胤信の曾孫にあたる荒見弥四郎泰朝とともに香取郡における浄土宗の有力壇越として知られ、浄土宗三祖・良忠を庇護し、延応元(1239)年、鏑木城内に良忠を開山として鏑木山胤定院光明寺(旭市鏑木)を建立。「寄附田畑、山林等奉供敬」した。また、いつしか出家して在阿弥陀仏と号す。
●『浄土宗三祖言行録』
●『記主禅師行状絵詞伝』
翌仁治元(1240)年2月、良忠は四十二歳で「始めて相州鎌倉にいり」た。これは「依平副帥経時請」による招聘で、13年後の建長5(1253)年にふたたび鏑木光明寺に戻った。
翌建長6(1254)年8月上旬、良忠は鏑木光明寺に住寺している際に「九郎入道請」により『選択伝弘決疑鈔』五巻を著し胤定入道へ与えている(『増上寺史料集』『記主禅師行状絵詞伝』)。また、「有人の請(胤定であろう)」により8月15日前後の放生会を光明寺で挙行。このとき池の鯉の額に朱墨で梵字を書いて放ったという。
●『記主禅師行状絵詞伝』
康元2(1257)年正月17日、良忠は「下総福岡の草庵に居し給」いていた。良忠は鏑木光明寺と椿海滸の松崎郷福岡の草庵(匝瑳市八日市場イ)に拠点を有していたと思われる。この日「上総周東の在阿弥陀仏」が良忠の「庵室に尋詣」して「手に手印の疑問を捧け、口に口伝の決答を請しけり」という(『記主禅師行状絵詞伝』)。なお、この在阿弥陀仏は鏑木胤定入道在阿弥陀仏ではなく、もと比叡山では名の知られた学僧・在阿弥であった。故郷の上総周東郡に草庵を営んでいたが、建長中から病に侵され吐血を繰り返しており、自らの死期を悟ったため、浄土思想を求めて法然房の教えに共感し、鎮西上人聖光の『授手印』を手にするが、自らが学んだ解釈とは異なっていた。そのため、法然から直に教えを受けた人々からその解釈を聞くための旅に出た。しかし、すでに直弟子はほとんど生存しておらず、たとえ面会してもすでに在阿弥を満足させるだけの答えは出せなかった。そして最後に嘉禄の法難で法然の遺骸を守った一人「秩父禅門道弁(渋谷七郎入道道遍)」を「相州石川」に訪問した。彼は渋谷庄司重国の末子「渋谷七郎重近」で、二代将軍頼家の代に将軍家御家人となった人物である。彼は幼少時、ほぼ同年配の宇都宮頼綱と仲が良かったのか、その出家のきっかけを「発心因縁者、幼少之時聞沙弥蓮生之念仏」(『決答鈔』)と述べている。出家の時期は「生年二十五之時出家師事上人」とあるように、若年より法然房の給仕の門人として仕えた。当時は八十歳前後と推測される。道遍は下総国鏑木に住む良忠が聖光上人の正統と伝えたのだろう。在阿弥はここから一路鏑木へ向かい、福岡の草庵を訪れたのである。在阿弥はここで良忠から疑問点を払拭する所説を聴き、三十日ほどをこの草庵に過ごし、良忠から在阿弥へ『決答授手印疑問鈔』二巻が渡されたのであった(『増上寺史料集』第五巻)。在阿弥は押し頂いて周東郡の草庵に戻ると、数日後の2月24日に寂した。草庵のあった場所には現在、補陀洛院三経寺(君津市市宿)がある。
●『記主禅師行状絵詞伝』
文永10(1273)年2月16日に亡くなったという(『鏑木山胤定院光明寺過去帳』)。享年六十九(『光明寺縁起』)。法名は胤定院殿在阿弥陀仏。
弟の十郎信清は「長吉」(『神代本千葉系図』)と見えるので、武射郡長吉郷(茂原市下永吉、上永吉)に移ったとみられる。この長吉郷は兄胤定の跡を継いだ金田小大夫成常の本貫・長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)と一宮川を挟んで隣接しており、胤定父・千葉八郎胤時は長吉郷の地頭職として金田郷の金田成常とは知己だった可能性があろう。成常の子・孫八郎胤泰は男子のいなかった鏑木胤定の養嗣子となっており、地縁的な繋がりがあったと推測される。
鏑木胤泰(????-????)
鏑木氏三代。父は金田小大夫成常。養父は白井九郎胤定。通称は孫八郎。鏑木九郎胤定の養子となり鏑木家を継承する。
『長泉寺鏑木系図』によれば、弘安10(1287)年、胤泰は「家紋及上総国武射郡蕪木郷」を千葉介胤宗に請うたという。その結果は記されないが、長男十郎家胤を下総国香取郡鏑木郷に置き、みずからは二男の孫八郎「常泰」を伴って上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住したという。以降、武射郡蕪木郷は孫八郎常泰が継承して「蕪木」を称したという。家紋は鏑木十郎家胤の子孫は十曜を用い、蕪木孫八郎常泰の子孫は三星を用いることとなった。
次男・蕪木孫八郎常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称し、のちに三河国へ移り岡崎松平家に仕えた。
法名は圓佛(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
鏑木家胤(1270-????)
鏑木氏四代。父は鏑木孫八郎胤泰。通称は十郎。
弘安10(1287)年、十八歳にして父・孫八郎胤泰から下総国香取郡鏑木郷を相続して鏑木を称した(「鏑木氏」の項参照)。
弟の蕪木孫八郎常泰は父・鏑木孫八郎胤泰とともに上総国武射郡蕪木郷(山武郡松尾村蕪木)に移住し、常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)へ移り、本氏である「金田」を称した。その子孫は江戸幕府の旗本となる。
鏑木祐胤(????-????)
鏑木氏五代。父は鏑木十郎家胤。通称は孫十郎。
元弘以来、千葉介貞胤に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
鏑木胤繁(????-????)
鏑木氏六代。父は鏑木孫十郎祐胤。通称は十郎太郎。
応安以来、千葉介満胤に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
応安2(1369)年4月、鏑木郷に程近い生尾の式内社生尾神社に材木や造営料の「神殿造営奉加」をしている「鏑木十郎太郎胤繁」の名が見える(『生尾神社寄進帳』松山家蔵文書)。
鏑木察胤(????-????)
鏑木氏七代。父は鏑木十郎太郎胤繁。通称は八郎四郎。
応永23(1416)年、上杉禅秀の乱においては千葉介満胤に属したという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。系譜では禅秀を「討之」とあるが、満胤は禅秀側として米町付近に布陣していたとされており(『鎌倉大草紙』)、少なくともこの伝は史料上不可である。
応永30(1423)年の小栗孫十郎満重の叛乱では鎌倉御所持氏に属し、千葉介満胤・兼胤に従って結城城に向かい、勇名を馳せたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
鏑木公永(????-????)
鏑木氏八代。父は鏑木八郎四郎察胤。通称は駿河守。
永享12(1440)年の結城合戦においては、結城城南部に布陣した千葉介胤直に属して軍功を挙げたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
公永には嗣子がなかったため、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。真壁新七義成は上曾駿河守義堯の子(『小田軍記』)で真壁伊豆守治幹舅といい(『小田天庵記』)、近世成立の軍記物『小田軍記』によれば真壁安芸入道道夢の兄弟という(『小田軍記』)。「真壁安芸入道道夢」については、応永11(1404)年9月11日生、文明12(1480)年3月18日に七十七歳で亡くなった真壁朝幹(三郎、右京亮、安芸守、法名参翁永真)が世代的に相当する(真壁家文書『当家大系図 全』)。また、世代的・人物比定に問題がある『水府志料』所収の系譜でも真壁新七義成の子・白井三郎幹成が「鏑木駿河守公永養子」とみえる。
●「常府小田氏撰系図」(『水府志料』所収)
平直幹
(常陸大掾)
∥─────真壁長幹─+─真壁貞幹──真壁邦幹===真壁武幹──真壁豊幹──真壁満幹──真壁康幹───真壁行幹──真壁安幹──+
∥ (六郎) |(太郎) (小六郎) (孫四郎) (平六太) (左衛門) (左衛門次郎)(次郎) (十郎) |
∥ | |
千葉介常胤──女子 +=真壁秀幹──門井行秀─+─真壁武幹 |
(千葉介) (紀内) (弥四郎) |(孫四郎) |
| |
+─真壁豊幹 |
(平六太) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁久幹──真壁茂幹───真壁是幹─+─真壁義成─+─真壁義助──真壁成幹──+─真壁助幹──真壁綱幹──────────────────+
(孫四郎) (右衛門太夫)(安芸守) |(新七) |(左衛門佐)(六郎左衛門)| (左衛門尉) |
| | | |
| | +─門井武真──門井定正──門井定能──女子 |
| | |(縫殿介) (弥四郎) (与八郎) ∥────門井定光 |
| | | ∥ (丹波守) |
| | | ∥ |
| | +─烟田憲幹──烟田幹家──江寺幹光==江寺胤光 |
| | (対馬頭) (右衛門尉)(五郎) +─(右京亮) |
| | | |
| | 海上山城守─────+ |
| | |
| +─麻生義幹──麻生久幹──麻生為幹──麻生之幹────+─麻生勝幹 |
| |(淡路守) (左兵衛尉)(淡路守) (左衛門入道残雪)|(左衛門太郎) |
| | | |
| +─白井幹成 +─麻生冨幹 |
| (三郎) (左衛門次郎) |
| |
+─嶋崎利幹─+─嶋崎利正──嶋崎是利──嶋崎久利──嶋崎宗利 |
(大炊介) |(左衛門) (右衛門) (大炊介) (左衛門入道宗庵) |
| |
+─大生利定 |
(左京亮) |
|
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─真壁家幹────+─真壁師幹
|(安芸守道務入道)|(安芸守)
| |
| +─女子
| |(水谷勝俊妻)
| |
| +─真壁某
| (右衛門太夫)
|
| 千葉介胤富─────女子
| ∥───────+─白井胤幹
| ∥ |(備後守)
| ∥ |
+─真壁幹吉────+─白井宗幹 +―女子
(下総守) |(治部少輔) | ∥
| | ∥
| | 千葉俊胤
| |(千葉権介)
| |
| +―白井幹時
| |(民部少輔)
| |
| +―鶴牧信幹
| (茂右衛門)
|
+─真壁正幹────+─白井幹度───白井伊信
(下総守) |(八左衛門) (忠左衛門)
|
+―白井元勝
|(一郎衛門)
|
+―芦野資継
(五郎左衛門)
●『小田軍記』
白井察胤───女子
(八郎四郎) ∥
∥──────白井幹成
∥ (三郎)
∥
∥ 真壁治幹
∥ (伊豆守)
∥ ∥
上曾義堯───真壁義成─+─女子
(駿河守) (新七) |
|
+─真壁道夢
(安芸入道)
『長泉寺鏑木系図』によれば、公永は後嗣がいなかった当時、前述の通り「常陸国真壁郡白井地頭」の白井幹成(真壁義成の子、姉の子)を養子に迎えていたが、その際に公永は「千葉介康胤(康胤は「千葉陸奥守入道」とあるように千葉介に就いたことはない)」に、「我若産男子、則以下総白井庄与幹成也、而冀与祖先白井家、公熟思之(もし私に男子が生まれたならば、下総国白井庄は幹成に与えようと思います。祖先白井家由緒の地であり、この旨を熟思いただきたい)」と願い出た(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。鏑木氏は香取郡鏑木村へ移ってのちは白井庄に関する知行権は失っていたであろうから、もしこの記述通りであれば、胤時流白井氏の再興のために幹成へ白井庄を与えてほしいという願いということになるが、「則以下総白井庄与幹成也」には「欲」する文字がないため意図が通じず事績を記載する上での不備とみられる。それは「康胤許之、康正元年乙亥与証書」とあることからも、白井庄の新知を願ったものであることは明白である。この文の通り康胤は公永の請願を許諾して白井庄の安堵状を発給。公永は「而築新城於白井庄、使幹成居之」と、鏑木三郎幹成を白井庄に派遣した(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
その後、「公永生胤元、而譲家督」ったとあるように、実子の十郎胤元が誕生。彼に鏑木家の家督を譲った。そして「於是因務、所相定之約、分与白井庄於幹成(以前の約定通り、白井庄を幹成に分与した)」した。このことを聞いた「千葉介輔胤(輔胤も岩橋殿と称された宗家一門で千葉介に就任していない)」は「真壁氏当家同姓、而其祖長幹者常胤外孫也、依之世々倚頼当家相睦、幹成旧為真壁郡白井地頭、而今為公永所養亦領下総白井庄、両地其国雖異、地名是同宣、復白井氏、以七星為家紋、称白井三郎、乃是継絶興廃不亦可乎(真壁氏は当家と同姓で、祖の真壁長幹は千葉介常胤の外孫である。それゆえ代々当家を頼りとし睦まじく交流してきたのだ。幹成はもともと常陸国真壁郡白井地頭であるが、いまや公永の養子となり、下総国白井庄をも領有した。両白井は国こそ違え同じ『白井』である。白井氏が再興され『七星』を家紋とし鏑木を白井三郎と改め称す。これにより絶家が継承され、衰退した家が再興されるのは、なんと素晴らしいことではないか)」と評した。
胤元の嫡子・鏑木胤義(長門守)は千葉介利胤の側近として仕え、利胤亡きあとは千葉介親胤が幼少だったために、その後見職を務めて軍勢を支配し、親胤亡きあとは、千葉介胤富に従属していたようだ。年月不詳10月21日、おそらく台風で破壊された香取社の神殿の造営について「治房」「実隆(大禰宜)」が鏑木長門守(胤義)へ宛てて発給された『大禰宜実隆等連署書状』が残る。
白井幹成(????-????)
再興白井氏初代。鏑木駿河守公永の養子。実父は真壁新七郎義成。母は白井八郎四郎察胤娘。通称は三郎。「常陸国真壁郡白井地頭」という。胤時流白井氏を再興したと伝わる。
叔父の鏑木駿河守公永の養子となり鏑木幹成を称するが、養父公永が馬加康胤から給わった下総国白井庄(佐倉市飯塚・内田・岩富・西御門等)に派遣される。その後、養父公永に実子胤元が誕生したことから、幹成は下総国白井庄を正式に継承し、胤時流白井氏を再興して白井三郎幹成を称したという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
文明年中の太田道灌、二階堂某により下総国臼井城攻めに岩橋輔胤の指示を受けて臼井城の援軍に駆けつけ、「幹成先登力戦」したという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
白井胤永(????-????)
再興白井氏二代。父は白井三郎幹成。通称は三郎太郎。
永正・大永年間、下総国小弓城の「原次郎友幸」と「上総国真里谷三河守武田豊三」が累々合戦に及び、千葉介勝胤が小弓救援に出兵。真里谷武田氏と干戈を交えるが、このとき「胤永毎度突戦」ったという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
白井胤治(????-????)
再興白井氏三代。父は白井三郎太郎胤永。通称は下野入道。
千葉介利胤・親胤・胤富の三代に仕えた人物で、永禄7(1564)年春、越後の上杉輝虎が「来于下総臼井城」たとき、「千葉介胤富、使諸城主出援兵而討謙信」た(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。このとき「此時胤治能見機運、謀励味方之気、先登旧戦」と、胤治は兵を鼓舞し、上杉勢が撤退したのちは「胤治認跡討之」ったという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
『異本小田原記』によれば、「…無双の軍配の名人白井入道、折節弓箭修行に来りて、此城にありしが、敵陣を勘へ見て申しけるは、今度大敵発向すといへども更に恐るべからず、敵陣の上に立つ気、何れも殺気にして、田老に消ゆる、味方の陣中に立つ軍気、皆律気にして王相に消ゆる間、敵敗軍疑いなしと申しければ、皆頼もしくぞ思ひける、果して打勝ちけるぞ不思議なる…」とあり、白井入道は修行の身として臼井城に在城していたと記載されている。
胤治には嗣子がなく「故追幹成之例、養真壁下総守幹吉弟道務入道男宗幹為家督」としたという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。なお、宗幹は『水府志料』では真壁下総守幹吉の子となっている(『水府志料』)。
●『長泉寺鏑木系図』
+─真壁幹吉
|(下総守)
|
+─真壁家幹──────白井宗幹
(安芸守道務入道) (治部少輔)
白井宗幹(????-????)
再興白井氏四代。義父は白井下総守入道胤治。実父は真壁下総守幹吉(幹吉入道弥仙)。母は小山秀綱娘。室は千葉介胤富女子。通称は治部少輔。
千葉介胤富─+─千葉介邦胤─+─千葉重胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉新介)
| |
+─娘 +─鏑木俊胤
∥ (千葉権介)
∥ ∥
∥ +─女子 +─波留
∥ | |(仕神君・芳春院)
∥ | |
∥─────+─白井胤幹 +─娘
∥ |(備後守) |(豊島忠次妻)
∥ | |
∥ +─白井幹時──+─白井伊信
∥ |(民部少輔) (忠左衛門)
∥ |
∥ +─鶴牧信幹────高覚院様
∥ (茂右衛門) ∥───────陽春院様
∥ ∥ (瑞春院?)
白井胤永────白井胤治====白井宗幹 小谷忠栄 ∥──────徳松
(三郎太郎) (下総守) +─(治部少輔) (将監) ∥
| 徳川綱吉
小山秀綱────娘 |
(弾正少弼) ∥────+
∥
真壁幹吉
(下総守)
白井胤治には跡を継ぐ男子がなかったために、真壁下総守幹吉の子・宗幹を養子として迎えていたが、永禄9(1566)年に実子の平蔵胤隆が生まれた。しかし胤治はあえて実子・胤隆を嫡子とはせず、養子の宗幹に跡を継がせたというが、水戸藩に伝わる藩士譜『水府系纂』には、白井胤隆・胤邑兄弟の名は見えない。
天正10(1582)年、北条氏直は「催千葉介邦胤等之諸将士兵於若御子表」のとき、宗幹は千葉介邦胤の軍勢に属して若御子城に在陣したという。天正13(1585)年、北条勢による皆川山城守の長沼城攻めに際しては、千葉介邦胤も出陣要請を受けていたものの、「当時罹病」であったため、「遣麾下家臣等使宗幹為一手将軍発向焉」(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)という。「罹病」については、邦胤は天正13(1585)年5月7日に被官の「一鍬田五郎狂乱シ御額ヲキリツケ逝去」(『本土寺過去帳』『千学集抜粋』)しており、この事件を指しているとみられる。
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めにおいては、「千葉介重胤後改長胤及俊胤等率兵援北條氏、于湯本口宗幹従焉」と、宗幹は重胤・俊胤に従って小田原湯本口に入ったという(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。その後、小田原北条氏は豊臣秀吉に降伏し、北条氏政と氏照は自刃。当主の氏直は高野山へ追放となり、戦国大名小田原北条氏は滅んだ。これに伴い重胤・俊胤も改易となり、鎌倉時代より四百年にわたり下総国に反映した千葉惣領家もまた滅亡する。千葉惣領家の被官も土地を失い、帰農したり新たに入部した徳川家康の被官や陪臣となる道を選ぶことになる。白井宗幹もまた例に漏れず領地を失った(『長泉寺鏑木系図』写鏑木清春氏)。
以降は豊臣秀次家老の白江氏(白井氏)と意図的な混同がみられることや、小田原合戦前から宗幹嫡子の豊臣方への仕官という矛盾から、信憑性はないが「参考」として記載する。
『長泉寺鏑木系図』や『水府志料』によれば、小田原合戦が起こるより以前に宗幹嫡子・胤幹は所縁があって関白秀吉に仕え、扶持を得ていた。これにより、所領を失っていた宗幹もまた秀吉に召し出され、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の軍役にも従軍したという。その後の伝はない。
宗幹の末子・茂右衛門信幹は、「為鶴牧氏養子、結城氏族也」とあるように、結城氏庶流の鶴牧家の養子に入り、「彼氏ノ族、増山五郎左衛門尚政女ヲ娶」ったという(『水府史料』)。なお、下野国都賀郡下高島村(栃木市大平町下高島)の宝蔵寺には「靏牧茂右衛門」以下の系譜が伝わっている(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)。それによると茂右衛門は「本多大隅守正純家来、高島村ノ人」であるという。どのような伝手で白井氏と下野鶴牧氏が繋がったのかは不明。「此鶴牧家の事、上高嶋村名主にとひみれども、今は退転せしにや、村内にたへたりとこたふ」(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)とあるように、鶴牧家は上高嶋村の名主だったようである。茂右衛門信幹の女子(高覚院)は小谷将監忠栄に嫁ぎ、のち徳川綱吉嫡子・徳松の母となる於伝ノ方(瑞春院)を産んだ。
●宝蔵寺蔵系図(『古河市史資料別巻』所収)をもとに作成
鶴牧茂右衛門──+─長女(高島村出生)
本多正純被官 | 崇心院
|
+─二女(高島村出生)
| 栗山伝右衛門妻
|
+─三女(高島村出生)─+─長女
高覚院殿 | 小谷武左衛門妻
|
+─二女
| 五ノ御丸 今三之御丸殿、御若名おてん様
|
+─三女
白須才兵衛妻 小石川御新造様へ申シ三千石
後ニ光政院様御事
●『寛政重修諸家譜』
小谷忠栄─+─瑞春院殿 西尾重行──────女子
(権兵衛) |(徳川綱吉室) (甚之助) ∥
| ∥
+─女子 ∥─────小谷守明
| ∥─────+─女子 ∥ (権太郎)
| ∥ |(牧野成貞養女) ∥
| ∥ | ∥
+=小谷守栄 +=小谷郡栄 +─小谷栄久
|(武左衛門) (甚四郎) |(助九郎)
| ∥ |
| ∥───────+─女子
| ∥
| 一色定儀────女子
|(九左衛門)
|
|
+─女子
∥
∥─────遠藤胤親
∥ (但馬守)
白須政休
(才兵衛)
小谷忠栄
通称は太郎右衛門、将監、権兵衛。雑事従事者の黒鍬者という俗説はあるが、明確にその出自を記した文献はない。瑞春院御方との所縁(瑞春院の父)があったことから、甲府宰相綱吉の神田館に仕えるようになった。延宝8(1680)年、将軍家綱(厳有院殿)が薨じたことから、綱吉が「本城にいらせたまふにより」、忠栄は「御家人江列し廩米三百俵をたまひ、牧野備前守成貞の支配」となった。延宝9(1681)年7月17日(7月27日とも)に亡くなった。法名は円珠。忠栄の葬所は不祥。元禄8(1695)年、徳川綱吉は忠栄追善のために駒込村に覚了山清浄寺世尊院を新たに建立。寛永寺の明王院快堂恵宏大僧都を開山とした。以降、小谷家の菩提寺となる(『寛政徴収所家譜』)。山号の「覚了院」は忠栄の法名「覚了院殿」から付けられたものだが、死去時の忠栄は三百俵取りの旗本に過ぎず「院殿」號は用いないため、世尊院建立の追善として送られた法号と思われる。法号は覚了院殿真岸円珠居士。
高覚院殿
父は鶴牧茂右衛門信幹。母は増山五郎左衛門尚政(結城氏族)女か(『水府史料』)。於伝ノ方の生母。
元禄9(1696)年9月10日に亡くなった。法号は高覚院殿月峯圓智大姉。世尊院に葬られた。
瑞春院殿
小谷将監忠栄の長女。母は某氏(実際は高覚院殿)。於伝ノ方。当初は桂昌院御方に仕えるが、のち館林宰相綱吉の御側に仕え、延宝5(1677)年4月8日に長女鶴姫、延宝7(1679)年5月6日に徳松を産んだ。延宝8(1680)年に綱吉が江戸城西の丸へ入ると五ノ丸と称する。宝永6(1709)年に綱吉が薨じたことから(常憲院殿)、剃髪して「瑞春院御方」と称し、三ノ丸に居住した。元文3(1738)年6月9日逝去。享年八十一。法名は到誉清月涼池瑞春院。芝増上寺に葬られた。
姉は「小屋武左衛門妻」(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)とあるが、これは父・忠栄の子は三姉妹で男子がなく、金井氏の男子を婿養子とし、武左衛門守栄と称して小谷家を継承している。妹は「白須才兵衛」の妻となり、その子は三上藩初代藩主遠藤但馬守胤親となる。
白井胤幹(????-????)
再興白井氏五代。父は白井治部少輔宗幹。母は千葉介胤富女子。通称は備後守。
『長泉寺鏑木系図』や『水府志料』などの白井氏系譜は、豊臣政権時代の歴代については、豊臣秀次の家老となった白江備後守成次に仮託した伝を採用しているため、千葉家流白井氏の胤幹についての事績は伝わらない。
『長泉寺鏑木系図』『水府志料』『水府系纂』等の所説によれば、白井治部少輔宗幹の子の胤幹、白井民部少輔幹時は「仕関白秀次」(『長泉寺鏑木系図』『水府系纂』といい、胤幹は文禄4(1595)年7月14日に「坐秀次之事、伏誅於京都四條龍池山西光寺」(『長泉寺鏑木系図』)とされている。ただし、前述の通りこの事績は、実際に秀次の家老となった「白井備後」「白江備後」「白江備後守成定」(『常山記談』)、「白井備後守範秀」(『古今武家盛衰記』)のものである。『古今武家盛衰記』によれば「白井備後守範秀」は「秀次の乳父にて、三好譜代の士なり」とあり、胤幹とは別人である。
●秀次「御附衆」(『大武鑑』)
| 中村式部少輔 | 中村一氏。 |
| 田中兵部少輔 | 田中吉政。 |
| 木村常陸介 | 木村重玆。山崎大門寺で自害 |
| 前野但馬守 | 前野長康。中村一氏邸で自害 |
| 粟野木工頭 | 粟野秀用。粟田口で自害 |
| 一柳左近将監 | 一柳直末。天正18年小田原陣で討死 |
| 服部采女正 | 服部一忠。上杉景勝邸で自害 |
| 熊谷内膳 | 熊谷直澄。嵯峨野二尊院で自害 |
| 白江備後守 | 白井成定。東山大雲院で自害 |
| 渡世左衛門佐 | 渡瀬繁詮。 |
| 山内伊右衛門 | 山内一豊。 |
| 堀尾茂助 | 堀尾吉晴。 |
実際に秀次の家老となった「白江(白井)備後守成定」は、天正12(1584)年の長久手合戦において、徳川家康旗下の水野藤十郎勝成と戦い、敗れて秀次とともに逃れた。そして文禄4(1595)年、秀次が太閤秀吉から謀反の疑いをかけられて高野山で自害した際、秀次の家老であった木村常陸介、粟野木工頭秀用、白江備後守成定、熊谷大膳亮直澄いずれもが自刃して果てた。また、『古今武家盛衰記』によれば、秀次が関白に就任すると白江備後守は六万石を知行したとある。秀次が謀反の嫌疑をかけられた際には秀次助命のために奔走したが報われず、秀次は自刃を命じられた。成定は秀次の自刃を覚悟しており、秀次とともに生活していた高野山を下ってひっそり京都に帰ると、懇意にしていた四条東山の大雲院に一切を語り殉死した。