|平良兼流粟飯原氏|千葉氏流粟飯原氏|その後の粟飯原氏|各地の粟飯原氏|
粟飯原氏は、中世の下総国香取郡小見川郷(香取市小見川)一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「あいはら」と読み、平安時代末期、平常長(千葉大夫常長)の三男・鴨根三郎常房の長子である千田庄司常益を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領した。
しかし、下総国内に「粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市相原)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原(藍原)氏は武蔵国横山党の横山権守隆兼の子孫であり、千葉氏流の粟飯原氏との血縁関係はない。千田庄には原郷、金原郷といった「原」のつく郷村がみられることから、かつて「粟飯原」という郷村があった可能性はあるが、「粟飯」は神事(とくに牛頭天王信仰)に由来するものであった可能性もあろう。
千葉氏は古来より「千葉の守護神」(『千学集抜粋』)のひとつとして牛頭天王信仰があり、「粟飯」は古代の蘇民将来説話の中で「武塔神」(『備後国風土記』:『釈日本紀』巻六「素戔嗚尊乞宿於衆神」)によれば速須佐雄能神と同一神。疫神として延長4(926)年6月26日に「供養祗園天神堂、修行僧建立」(『日本紀略』延長四年六月廿六日条)された祇園天神は「神家祇園称素盞烏尊、仏家是為牛頭天王、暦家配之天道神、余解会各家之説」(『祇園社略記』)とあるように、信仰者によって同一対象が別の存在として崇敬されていた)に饗されたものであり、牛頭信仰に纏わる名字である可能性がある。牛頭天王に供される「粟飯」を司った家柄であったのかもしれない。のちの粟飯原氏は香取郡小見郷(香取市小見川)に拠った際に牛頭天王を奉じており、牛頭信仰は鎌倉、南北朝期においても粟飯原氏に継承されていたことがうかがえる。
鎌倉末期、千葉介胤宗の子・氏光が千葉宗家から粟飯原氏に入嗣したとされるが、この粟飯原氏は鎌倉期の足利家根本被官の家柄と思われ、鎌倉末期の『足利氏所領奉行人交名』には足利家領を管理する人物のひとりとして「粟飯原十郎」の名前が見える。時期からして氏光と同一人物の可能性があるが、この先例を踏襲したか、室町前期には千葉介氏胤の子・孫次郎胤高が原氏に入嗣している。原氏も前述の通り、金剛授寺の妙見座主を輩出した家柄であり、その後も千葉宗家から被官家への入嗣が行われたのはこの原氏と粟飯原氏の二例に限られていることから、原氏、粟飯原氏への千葉宗家からの入嗣は、妙見信仰が大きく影響したものであったと考えられよう。
●横山党粟飯原氏略系図●
横山孝兼―+―横山時重―――+―横山時広――――娘
|(横山太郎) |(横山権守) ∥
| | ∥
+―藍原孝遠 +―娘 ∥
|(次郎大夫) ∥ ∥
| ∥ ∥
| 和田義盛――――和田常盛
| (左衛門尉) (兵衛尉)
+―娘
| ∥――――――――梶原景時
| 梶原景清 (平三)
|
+―娘
| ∥――――――+―畠山重能――――畠山重忠
| 秩父重弘 |(畠山庄司) (畠山次郎)
| |
| | +―稲毛重成
+―娘 +―――――――――小山田有重 |(稲毛三郎)
∥ | (小山田別当)|
波多野遠義 | ∥―――――+―榛谷重朝
| 宇都宮宗綱―+―娘 (榛谷四郎)
| |
+―娘 +―朝綱
∥ |(左衛門尉)
千葉介常胤 |
+―娘
(波多野義通妻)
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粟飯原家家紋 |
左の家紋は、文明年中(1469~1489)初頭の諸大名の家紋集である『見聞諸家紋』にある粟飯原家の家紋である。『妙見寺本千葉系図』のなかに千葉家の紋として「日月九曜星五根篠」とあり、日月・九曜と並んで、竹(篠)紋も千葉氏の家紋のひとつであったことがわかる。
ほか、阿波国の細川氏の家臣となった幕府奉公衆の流れを組む(とされる)粟飯原氏には、千葉介常胤の木像が伝わっており、その木像の大紋には、月星紋の周りに九星がちりばめられた「十曜内に月星」紋が用いられている。千葉氏の家紋については、同じく『見聞諸家紋』には「九曜紋」を「月星」と記しており、実は室町中期においては千葉氏の家紋は「九曜」が用いられていて、それを「月星」と呼んでいたのかもしれない。ただし、『見聞諸家紋』に記されていた「千葉介」が下総千葉氏であったかは不明。文明年中の幕府は、敵対していた古河公方(鎌倉公方の末裔)と手を組んでいる下総千葉氏を「千葉介」とは認めておらず、武蔵へ逃れていた兼胤流千葉氏(武蔵千葉氏)を「千葉介」としていた。このことから千葉氏は、鎌倉期から兼胤流千葉氏が滅亡した康正元(1455)年までは、九曜紋を「月星」と呼んでいたか? 文明年中の武蔵千葉介は千葉介守胤だが、彼は歌道に興味を持っており、東氏を通じて三条西実隆と交流をもっていた。
ただし、奥州千葉氏や肥前千葉氏のように鎌倉期に分流した家でも「九曜紋」とならんで「月星紋」が用いられているということは、やはり「月星紋」というものも存在していたとも考えられる。
●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』中心)
千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――――胤宣
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
| | | 【武蔵千葉氏】
| | +―胤賢―――――千葉介自胤―――千葉介守胤
| | (中務大輔) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―馬加康胤―+―胤持 +―千葉介勝胤―――千葉介昌胤
| (陸奥守) | |(千葉介) (千葉介)
| | |
| +―女 +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤―――胤依―――+―金山殿 +―千葉介孝胤―+―少納言殿――――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津殿 +―成身院源道―+―光言院源秀―?―養運斎
| |(菊間御坊) |
| | |
+―岩橋輔胤―+―椎崎胤次 +―天生院源長
(岩橋殿) (入道道甫)
◆平良兼流粟飯原氏◆
妙見神官・粟飯原文次郎家の祖
平 良兼(???-939)
上総介平高望の三男。母は不明。妻は前常陸大掾源護女。官位は不明。官職は下総介。平将門の叔父にあたり、千葉氏の祖・平良文の兄である。彼自身「粟飯原文次郎」を称したとされるが記録には残らない。上総国武射郡に館(山武郡横芝光町)を構えて住んだという。
父の高望王は、寛平元(889)年5月13日、時の天皇である宇多天皇の勅命によって、「平」姓を授けられて臣籍降下したと伝わる。
●寛平元(889)年5月13日(『日本紀略』:『国史大系』所収)
『日本紀略』によれば、寛平元年五月十三日条に五名の王に平姓を与えられたことが記載されている。この五名の皇族の具体的な名は記されていないが、「桓武天皇四代孫高望王始而平姓賜而上総介ニ任ス」(『神皇正統録』においては五月十二日)とあり、伝承上では高望王はこのときに平姓を下されたとされている。良兼没年の五十年前となるが、高望王の子である平国香、良兼、良持、良正、良文らはいずれも王号を称しておらず、高望王の賜姓後の生誕と考えられる。長男の前将軍平国香は承平5(935)年2月2日に甥・平将門(平良持の子)に討たれるが、このとき国香の長子・平貞盛はすでに左馬允として在京しており、国香の弟・平良兼にも成人した子がいた(平公雅、公連)ことを考えれば、『神皇正統記』の寛平元(889)年の記述のように高望王への賜姓が寛平元(889)年ではまったく合わなくなってしまう。高望王の上総介任官と上総下向については、寛平元(889)年でも問題はないが、国香ら子息の誕生年を考慮すると、賜姓は貞観12(870)年頃から元慶4(880)年頃と考えられ、『神皇正統記』にみえる寛平元(889)年の「始而平姓賜」よりも十年から二十年程前となろう。なお、「平朝臣姓」下賜がとくに集中しているのは貞観年中(859~877)であることから、高望王の平姓下賜もこのころ行われた一例であったのかもしれない。
良兼は、下総国豊田郡に本拠を置いていた弟の前将軍良持の次男・小次郎将門に娘を嫁がせていた(舅甥)可能性が高く、良持家とは親密に関わっていたと思われるが、いつの頃からか将門との間に「女論」が発生していたようである(『将門合戦状』)。しかも、将門と良兼舅・前常陸大掾源護が争い、長兄の常陸大掾国香を殺害し、末弟・水守六郎良正と抗争するに至り、国香亡きあとの常総平氏良兼と将門の対立は決定的になったと思われる。
■平将門と前常陸大掾源護の戦い
将門はは前常陸大掾源護と新治郡の豪族平真樹の対立に関わり、承平5(935)年2月2日、将門が所用のために館を出たところを源護の子の源扶・隆・繁の奇襲にあった。しかし、将門は順風に押される形で逆に扶らを討ち取り、2月4日、源氏方の「筑波、真壁、新治三箇郡の伴類の舍宅五百余家」を焼き払った。さらに「野本・石田・大串・取木等の宅より始めて、与力の人々の小宅に至るまで、皆悉く焼き巡」った。
この「野本・石田・大串・取木」の比定地は、
・野本(筑西市赤浜)
・石田(筑西市東石田)
・大串(下妻市大串)
・取木(下妻市大木?)
であり、これが源護の主な拠点と思われる。筑波山の西麓から小貝川流域の肥沃な地域に東西帯状に広がっていた。とくに「石田」は国香が住んでいた屋形(源護の分与か)があり、「国香の舎宅、皆悉く殄び滅しぬ、其身も死去しぬる者なり」と、国香もこの戦乱で亡くなっている。この戦いを見ると、源護と平真樹の争いに国香と将門が巻き込まれた感があり、国香はこの戦いに積極的に参加した形跡が見られない。とくに貞盛の述懐として、
「未だ身与力せず、偏に其の縁坐に編らる」
とあることから(『将門記』)、国香は「前大掾源護并に其諸子等、皆同党之者」として巻き添えになった可能性が高い。左馬允貞盛は国香死去の急報を受けると、急ぎ左馬寮に休暇願を提出して常陸国へ帰国した。ここで貞盛は、
「つらつら案内を検するに、凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり」
と、国香の死は将門の直接的な攻撃によるものではなく、源護と将門(または平真樹)の戦いの中で起こった事故と判断した。さらに貞盛は「苟くも貞盛は守器の職に在り、須く官都に帰りて官勇を増」すため、早々に帰京しなければならず、
「孀母堂に在り、子に非ずは誰か養はむ、田地数有り、我に非ずは誰か領せむ、将門に睦びて芳操を花夷に通じ、比翼を国家に流へむ、仍って具に此の由を挙げ、慇に斯く可」
と、将門との間を「慇」にすべきだとして、将門と「乃ち対面」しようとした。しかし、国香異母弟・水守六郎良正が「偏に外縁の愁ひに就き、内親の道を卒忘」して、反将門の急先鋒として介入してきたため、対面は果たせず、坂東は再び戦乱の巷に巻き込まれることとなる(『将門記』)。
■平将門との戦い一(下野国府の敗戦)
大掾国香には、平良持、平良兼、平良文、平良正らの弟がいたが、このうち平良文は武蔵国大里郡村岡郷(熊谷市村岡)にあり、常陸国の源護との縁はなかったであろう。村岡郷は秩父の直下に位置しており、子息の陸奥介忠頼が秩父氏祖となっていることからも、良文の閨閥は丹党や兒玉党にあったと考えられる。こうした関係からも国香らとは一線を画していた可能性があろう。一方、良兼、良正は国香と同様に源護の娘を娶っていて、互いに密接な関係があったと思われる。良兼は下総国の国司「下総介」であり「上総国武射郡」の館(山武郡横芝光町)に在住していた。良正は「故上総介高望王之妾子」とあり、おそらく国香や良持、良兼とも母を異にする兄弟と思われるが、国香の屋敷から南へわずか五キロの筑波郡水守郷(つくば市水守)に住んでいた。彼も国香同様、護の女婿としてその勢力下にあり、源氏の軍事力の一端を担っていたのだろう。良正は国香亡きあとも岳父・護の側に立って将門を討とうと常陸国を走り回った。「良正、偏に外縁の愁に就て、卒かに内親の道を忘れぬ」と、完全に岳父源護に取り込まれていたことがうかがえる。これは、国香や良正が常陸国に地盤を持っていなかった当時、受領として確固たる地盤と勢力を持っていた源氏を外護者としていたと思われることから、彼らが源氏の側に加担するのは当然の成り行きであったと思われる。
10月21日、良正と将門は常陸国新治郡川曲村(結城郡八千代町周辺?)で合戦し、良正は敗北した。将門は深追いせず、翌22日、本拠地の豊田郡鎌輪之宿(千代川村鎌庭周辺)へ帰還する。敗れた良正は「大兄之介(良兼)」への援軍を依頼し、良兼はこれを受け入れた(『将門記』)。
一方、源護は朝廷に平将門、平真樹の濫妨を訴え出た。これに朝廷は12月29日、将門・真樹に対して召喚の太政官符を発し、翌年9月7日に坂東の国庁に届けられているが、官符の発行から8か月もの間届けられなかった理由は不明。
良正の依頼を受けた良兼は兵を集め、承平6(936)年6月26日、常陸を目ざして出陣し、上総国武射郡の小道を通り、下総国香取郡神前(香取郡神崎町)に集結。神前の津から船出して対岸の常陸国信太郡江前津(稲敷市江戸崎)へ渡り、翌27日早朝に良正の水守営所(つくば市水守)に着陣した。良兼が水守営所に入り、館主良正と将門の措置について相談していたところに、貞盛も「疇昔の志有るに依」って良兼と対面したという(『将門記』)。「疇昔の志」がただ単に「懐旧」のために対面を求めるのであれば、来客中でしかも早朝というタイミングは非常に不自然であり、この「疇昔の志」は、貞盛の従来からの願いである将門と和睦した上で上洛し、官吏となることを指すものではなかろうか。
ところが、この貞盛の願いを聞いた良兼は、
「聞くが如くは、我が寄人と将門等は慇懃なりてへり、斯らば其の兵に非ざる者なり、兵は名を以て尤も先と為す、何ぞ若干の財物を虜領せしめ、若干の親類を殺害せしめて、其の敵に媚ぶ可や、今須く与に合力せらるべし、将に是非を定めむ」
と兵の道を説かれては、貞盛も本意ではないものの暗に良兼らの同類とならざるを得なかった。良兼はその後、下野国に大軍を率いて進んでいく(『将門記』)。
この良兼の動きを知った将門は、事実を確認するために百騎ばかりで下野国の境まで進んだが、良兼の陣容を見て戦うことなく引き上げようとした。しかし、この少勢を発見した良兼が追撃したため、練兵の将門勢もそのまま良兼勢に襲いかかり、良兼勢はたちまち八十騎あまりが射殺されてしまう。将門勢の勇猛さに戦慄した良兼は戦線を離脱し、為す術なく下野国府に逃げ込んだ。良兼を追って国府を取り囲んだ将門だったが、「凡そ常夜の敵に在らずと雖も、脉を尋ぬれば疎からず、氏を建つれば骨肉なり、云ふ所、夫婦は親しくして瓦に等し、親戚は疎くして葦に喩ふ、若し終に殺害を致さば、若しくは物の譏り遠近に在らむか、仍て彼の介独りの許を逃がさむ」と考え、西方の陣を解いたことから、良兼はここから脱出し、良兼に従っていた兵たちも命を助けられた。将門は良兼らを逃がすと、彼らの横暴を国庁の日記に記載させ、帰国した(『将門記』)。
9月7日、源護の告訴を受けて出された平将門・平真樹召喚の太政官符が、左近衛番長英保純行(正六位上)、英保氏立、宇自加支興等によって、常陸・下野・下総などの国庁へ届けられた。これを受けた将門は「告人(源護)」の上洛より前に上洛し、10月17日、つぶさに事の次第を奏上。検非違使での審理でも軽罪とされ、却って武名を京都に広めることとなった。将門はその後半年余り、在京しているが、審理のためか。そして翌承平7(937)年4月7日に恩詔によって罪を許され、5月11日、出京して下総国への帰途についた(『将門記』)。
■将門との戦い二(豊田郡の戦勝)
将門の帰国を知った良兼は、承平7(937)年8月6日、高祖「故上総介高茂王」と将門の父「故陸奥将軍平良茂」の神像(画像)を陣前に押し出して将門に戦いを挑んだ。この神像を見た将門勢は怯み、良兼勢は将門の拠点の一つ、下総国豊田郡栗栖院、常羽御厩(下妻市鎌庭)に乱入して焼き討ちした(『将門記』)。さらに8月17日の豊田郡大方郷の戦いでも将門に勝利し、翌18日、上総国へ帰国の途に就いた。この途路、将門の妻を捕えて20日に上総国へ渡っている。将門の妻は良兼のもとで嘆き悲しんでいたが、「妾の舍弟等、謀を成して、九月十日を以て、密かに豊田郡に還り向はしむ、既に同気の中に背きて、本夫の家に属く、譬へれば遼東の女の夫に随ひて父国を討たしむがごとし、件の妻は、同気の中を背きて、夫の家に逃げ帰る」とあることから、良兼の娘が将門の妻となっていたことがうかがわれ、さらにその脱出に良兼の子(公雅、公連か)らが加担した様子も見える(『将門記』)。
平高望―+―平国香――――平貞盛
(上総介)|(常陸大掾) (陸奥守)
|
+―平良兼――+―平公雅
|(下総介) |(武蔵守)
| |
| +―平公連
| |(下総権少掾)
| |
| +―姉
| ∥
+―平良持――――平将門
|(鎮守府将軍)(新皇)
|
+―平良文――――平忠頼
|(村岡五郎) (陸奥介)
|
+―平良正
(水守六郎)
■将門との戦い三(常陸国での敗戦と死)
承平7(937)年9月19日、将門を討つべく良兼は常陸国へ再度出陣した。将門もこれを受けて10月9日に真壁郡へ千八百の兵を率いて進軍し、良兼の常陸国内の拠点の一つ、真壁郡服織宿(小美玉市羽鳥)を攻め落とし、「与力伴類ノ舎宅」を焼き払っている。拠点を焼かれた良兼は恐れ戦き、弓袋山(真壁町山尾)へ逃れた。将門はこれを敢えて攻めることはせず、良兼や貞盛の拠点に放火し略奪したのち石井営所へ撤退していった。良兼もその後、山を下りて上総へ引き上げていく。すでに良兼には将門と正面から敵対する力は残っていなかったとみられる(『将門記』)。石岡の常陸国府あたりから香取海を渡り、上総へ戻ったのだろう。
11月5日、朝廷は「介良兼、掾源護、掾平貞盛、公雅、公連、秦清文」ら「常陸国敵等」を将門に追捕させる太政官符を武藏・安房・上総・常陸・下野国など坂東諸国に発した。上総国から度々常陸国に侵入しては合戦や狼藉を繰り返す良兼らの行為を朝廷が断罪した形である。ここに良兼らは正式に追捕の対象とされたこととなる。将門は「頗ル気ヲ述ベテ力ヲ附ケ」て、官符を根拠とする追捕に積極的な態度を見せたが、同じころ私君の太政大臣藤原忠平から「更ニ将門等ヲ召ス使」も将門のもとを訪れていたようで、将門に対しても事情を聴こうとしていた意図が見える。なお、この追捕の対象に、乱の張本の一人、水守六郎良正が入っておらず、すでに戦死していたのかもしれない(『将門記』)。
しかし、太政官符を受けた「諸国の宰」は将門に協力せず「慥に張行はず、好みて堀求めず」という態度を取った。なぜ国衙が日和見の姿勢だったのかは記されていない。良兼も追捕対象ということで、表立った動きは取れなかったのか、将門の駈使・丈部子春丸を利で釣って間諜とし、将門の石井営所での動きを逐一連絡させ、12月14日に当千の騎兵八十余騎を石井営所に遣わして夜討ちを試みた。ところが、なぜか将門はこの動きを察しており、返り討ちにあって上兵の多治良利が討ち取られるなど大敗を喫した。間諜となった丈部子春丸も承平8(938)年正月3日、将門に殺害されている(『将門記』)。
良兼はこの後、将門に戦いを挑んだ記録はなく、翌天慶2(939)年6月上旬に亡くなった(『将門記』)。享年不明だが、高望王の下向時期等を考えると、五十代前半か半ば程度であったろう。
■良兼の子孫とされる粟飯原氏について
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三鈷山妙見寺(七星山息災寺) |
『千葉伝考記』の「平良文の事」によると、延長9(931)年、常陸大掾平国香と良兼・良文・将門連合軍が争った際、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗れた。そして7月の戦いでの敗戦では、妙見神が良兼を助けたとある(『千葉伝考記』)。
良兼は日ごろから妙見神を信仰しており、この戦いで妙見神の助けを得たことで、良兼は妙見の尊体を求めるために上野国群馬郡花園村七星山息災寺(群馬郡花園の妙見寺)を訪れ、そこからご神体を持ち去って、武蔵国平井(藤岡市西平井)に屋敷があった弟の平良文に託した。その後、平良文は妙見神を深く信仰し、子々孫々妙見神を信仰するようになったという。武蔵国平井には古くから妙見の社があり、息災寺の妙見神がこの平井に来たことは奇特なことだと、平良文はますます妙見神に対する信仰を深め、妙見を秩父の大宮神社へ遷座した。現在の秩父神社がそれであるという(『千葉伝考記』)。
良兼の子には、「粟飯原」を名乗ったとされる左衛門尉盛家や文次郎良定がいたとされ、粟飯原文次郎良定の子孫とされる粟飯原文次郎常時は大治元(1126)年9月、千葉介常重の命で北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)の神主となり、代々神官の家柄として続いたとされる。鎌倉時代、千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼の子孫である東氏が美濃国へ移った際に、常時の子・粟飯原文次郎常定が一行に従って妙見神を美濃郡上に勧進し、妙見社(明建社)を建立したという。郡上の明建神社の神主家は代々粟飯原氏が継いでおり、東氏の美濃西遷に粟飯原氏が随従した可能性が高いと思われるが、この粟飯原氏はあくまで千葉氏の同族である下総平氏の子孫であろう。『尊卑分脈』ほか平氏の系譜には良兼の子に盛家や良定といった人物は見られず、実在の人物とは思われない。
一方、実在した良兼の長男・平公雅は、天慶3(940)年正月14日、坂東八か国に置かれた押領使の一人となり、東国のいずれかの国の「掾(上総掾?)」に任官。次男・平公連も同じく押領使・下総権少掾となり、将門戦死後の残党追討軍に加わっている。公雅の子孫の一流は尾張国長田郷の土豪となって「長田」を称し、長田忠致は源義朝の郎従だったが、平治の乱で敗れた義朝を殺害した人物として有名。
◆良兼流粟飯原氏系譜
平良兼―+―平公雅
(上総介)|(武蔵守)
|
+―平公連
|(下総権少掾)
|
+―粟飯原盛家――定秀―――秀家―――実秀―――秀宗――――親秀―――朝秀―――+―信秀――胤秀――義秀―胤晴―+
(左衛門尉) (尾張守)(孫次郎)(河内守)(藤兵衛尉)(尾張守)(伊勢寿丸)|(太郎)(孫平太) |
| |
+―正秀 +―――――――――+
|(十次郎)|
| |
+―秀久 +―基繁―義秀―氏秀
|(藤五郎)
|
+=寛秀―――常行
(孫三郎)(兵衛尉)
◆平常長流粟飯原氏◆
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鴨根常房(????-????)
千葉大夫常長の三男。通称は千葉三郎(『徳島本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』『血脈類集記』)。鴨根を号した。
鴨根三郎常房は、兄の千葉次郎大夫常兼、弟の相馬五郎常晴とおそらく同母兄弟であり(八弟常継も可能性あり)、それぞれ父・千葉大夫常長から両総に渡る私領を譲られていたとみられる。常房はこのうち千田庄周辺と夷隅郡内に私領を有したとみられ、千田庄に展開したのが常房の三人の子(常益、常宗、常盛)を祖とする千田平氏であった。
常房ははじめ「千葉三郎」を称している(『徳島本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』『血脈類集記』)。これはのちの千葉介常胤の子、相馬師常、東胤頼がはじめ千葉次郎師常、千葉六郎胤頼を称していたことと同様、常房の父・千葉大夫常長の代にはすでに千葉を本拠としていたということになる。鎌倉時代成立の『徳嶋本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』においては、常将や常長の代からすでに「千葉」を称していたとあることからも推測できる(『桓武平氏諸流系図』『徳島本千葉系図』『源平闘諍録』)。つまり、千葉氏が香取郡大友から常重の代に山辺郡大椎を経て千葉に入ったという伝承は成り立たない(そもそも常重の号とされる「大椎介」は「大権介」の誤記で、「大椎」説はこの誤記から発生したものに過ぎない)。
常房はその後、嚢祖平忠常が一時期拠った上総国夷隅郡の鴨根郷(いすみ市岬町鴨根)へ移って「鴨根」を号した(『桓武平氏諸流系図』)。これは下総平氏が忠常以来、はじめて上総国に再進出したことになる。夷隅郡は嚢祖忠常以降、下総平氏の所有する私領地だったのだろう。
ところがその後、夷隅郡には常房弟の相馬五郎常晴が入り、常房の子の千田庄司常益らは千田庄周辺に展開している。常益が夷隅郡に移らなかった理由は不明だが、彼らはすでに常房私領の千田庄に根付いていたためである可能性が高いだろう。そして、相馬五郎常晴が夷隅郡に入ったのは、常房の死とその兄・千葉次郎大夫常兼の死が関係しているのかもしれない。
常兼の死後、弟・相馬五郎常晴は甥の常重(常兼嫡子)を養子としたと思われ、天治元(1124)年6月、常晴は常重に「譲与彼郡(相馬郡)」っている(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』))。常兼の死後、すぐに常晴が常重を養子として相馬郡を譲ったのかは定かではないが、相馬郡を継承後に常晴は夷隅郡へ移ったと考えるのが自然だろう。
以下は推測だが、天治元(1124)年に常兼が卒去したことで、すぐに常晴は常重を養子として相馬郡を譲ったのだろう(常晴は「恒兼為子実弟也」とあることから(『桓武平氏諸流系図』)、常兼養子となって相馬郡を継承していた可能性があるので、常重への返相続だったのかもしれない)。その後、常房が卒去したため、常晴は兄常房の遺領を継承して拠点を移したのだろう。常房の子・常益、原四郎常宗、次浦八郎常盛はすでに千田庄に展開しており、常房が常晴を養子として夷隅郡を譲っていたのかもしれない。夷隅郡へ移った常晴は、下総国には印東庄を抑えつつ、夷隅郡伊南庄、伊北庄、埴生郡などへ進出し、子孫は埴生郡玉前庄周辺を本拠とする「上総平氏」へ発展していく。
千葉常長―+―千葉常兼―――千葉常重―――千葉常胤
(千葉大夫)|(千葉大夫) (大権介) (大千葉介)
|
+―千葉常房―+―千田常益―――粟飯原家常
|(三郎) |(千田庄司) (五郎)
| |
| +=原常宗
| (原四郎)
|
+―相馬常晴―――平常澄――――平広常
(五郎) (上総権介) (上総介八郎)
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千田常益(????-????)
鴨根三郎常房の長子。通称は千田庄司。岩部を称したとも。別名は常基ともされるが「益」「基」のいずれかの書き誤りだろう。
従兄弟に当たる千葉常重が叔父の相馬五郎常晴から相馬郡を譲られた天治元(1124)年頃にはすでに常益は千田郷を開発していたと思われるが、千田郷(香取郡多古町千田周辺)を寄進して千田庄司に補されたとみられる。その寄進時期および対象は不明だが、治承4(1180)年9月当時、常房子孫の千田平氏が従属していた藤原親雅の祖である下総守藤原親通の可能性が高いだろう。親通は 保延元(1135)年頃から 康治元(1142)年いっぱいまで下総守を務めている。
親通は主君である摂関家(藤原忠通か)に再寄進して本所としたのだろう。千田庄領主は史料で見ることはできないが、子孫の親雅(親政)は千田庄領家で判官代として赴任しており、それは主君である摂関家から遣わされたと考えるのが妥当だろう。こうして考えると、千田庄本家は摂関家であり、領家職は下総守親通、下総大夫親盛、判官代親雅と継承されたのではなかろうか。
千田常益は千田庄司として千田庄一帯を支配し、弟の原四郎常宗、次浦八郎常盛らとともに千田平氏として千田庄に勢力を拡大した。千田平氏は千葉平氏(千葉氏)、夷隅平氏(上総平氏)と並ぶ独立勢力として発展したと思われ、平安時代末期には千田庄領家(本所は摂関家、当時は北政所平盛子か)で庄判官代の藤原親雅の軍事力と経済力を支えたと思われる。平安時代末期の千田庄領主が北政所平盛子であるとすると、盛子は義叔父を派遣したことになり(盛子は清盛娘であり、親政は清盛妹婿)、親雅の子・権大僧正快雅の生年は盛子夫である摂政基実の薨去年と同年の仁安元(1166)年であり、親雅の下総下向はこれ以降であると考えると、代替わりの一環での下向だった可能性があろう。
以降の千田平氏は、藤原親雅のもと支配が行われるが、治承4(1180)年9月の頼朝挙兵に伴い、同族の千葉介常胤一党との戦いに敗れ、旗頭の千田庄領家親雅が捕らわれて勢力を減退させると、千葉氏の被官として取り込まれることとなる。しかし、その家格はもともと宗家と同等であったためか、原氏と粟飯原氏は被官中でも最重要視される一族として継承され、さらには妙見信仰にも関わる家柄として続いていくことになる。
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粟飯原家常(????-????)
千田庄司常益の五男。通称は五郎。家常から「粟飯原」を称している。兄は金原庄司常能。なお常能は「金原庄」の庄司ではなく、本拠を千田庄金原郷(多古町金原)に置く千田庄司であろう。
「粟飯原」の名字地は現在伝わっていないが、この「粟飯」は牛頭信仰によるものの可能性も考えられよう。千葉氏は古来より「千葉の守護神」(『千学集抜粋』)のひとつとして牛頭天王信仰があり、「粟飯」は古代の蘇民将来説話の中で「武塔神(『備後国風土記』(『釈日本紀』巻六「素戔嗚尊乞宿於衆神」)によれば速須佐雄能神と同一神。疫神として延長4(926)年6月26日に「供養祗園天神堂、修行僧建立」(『日本紀略』延長四年六月廿六日条)された祇園天神は「神家祇園称素盞烏尊、仏家是為牛頭天王、暦家配之天道神、余解会各家之説」(『祇園社略記』)とあるように、信仰者によって同一対象が別の存在として崇敬されていた)」に饗されたものであり、牛頭信仰に纏わる名字である可能性もあろう。牛頭天王に供される「粟飯」を司った家柄であったのかもしれない。のちの粟飯原氏は香取郡小見郷(香取市小見川)に拠った際に牛頭天王を奉じており、牛頭信仰は鎌倉、南北朝期においても粟飯原氏に継承されていたことがうかがえる。
治承4(1180)年9月13日、千葉介常胤は子息・六郎大夫胤頼と孫・小太郎成胤に命じて下総目代(当時の下総守は不明ながら平家に属する人物)を追捕した。目代の屋敷は国府に近い八幡庄(市川市一帯)にあったと思われる。この目代攻めの時点で、千田庄判官代の千田親雅(藤原親政)はおそらく頼朝を討つためにすでに匝瑳郡内山郷を出発しており、家常も親雅の千田平氏への軍勢催促に応じ、子息の粟飯原権太元常(系図に見えない)・粟飯原次郎顕常らを伴って千田勢に加わっている(『千学集抜粋』)。
千田親雅勢は内山館を発すると、武射郡の横路(山武郡横芝光町)を通って、白井の馬渡(佐倉市馬渡)を流れる鹿島川を渡り、千葉庄に攻め入った(『源平闘諍録』)とされる。なお、親雅はもともと上総と下総の国衙を結ぶ千葉庄から上総方面へ南下するために千葉に向かっていた(もともとは千葉氏を討つための出兵ではないだろう)と思われるが、この途次「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」の報告を受けたため、千葉庄に攻め込んだ可能性が高いだろう。
この戦いは千葉小太郎成胤が迎え撃ったとされるが、目代を追捕したのち、下総国の中心たる国衙をも放棄して千葉庄にとんぼ返りすることは現実には考えにくく、常胤率いる千葉一族と合戦に及んだのだろう。その結果、千田勢は千葉勢に打ち破られ、親雅は成胤によって捕縛されることとなる(『吾妻鏡』)。家常嫡子・元常も討死を遂げ、家常や次男・粟飯原顕常のその後は伝わらない。
この千葉庄の戦いは以上のような理由も明確な戦いであったとみられるが、後世、この戦いは千葉小太郎成胤を妙見菩薩に守られた特別な存在(平良文や平将門と共通する存在)とみる妙見説話と結びつけられた合戦譚となっている(『源平闘諍録』『千葉妙見大縁起絵巻』『千学集抜粋』)。
なお、千田氏は系譜を見ると平安時代末期の時点で「太夫」「衛門尉」「兵衛尉」など、上洛して衛府に出仕し、五位の位を得た人物もあった。これは同じく武士団を形成していた同格の千葉氏でも千葉介常重、常胤が六位止まりの在庁官人であったことを考えると、明らかに両総平氏中では高い官位官職を得ていたことがわかる。上総平氏もまた官位官職は不明ながら在庁官人であったことを考えると、六位クラスであったと思われ、千田平氏は朝廷に出仕することでほかの二勢力とは一線を画した勢力拡大策をとっていたのであろう。
◆藤原親正と千葉成胤の戦いに参戦した武士(『千学集抜粋』)
藤原親正方 | 千葉氏方 | |
千田親雅(千田庄判官代) | 加曾利冠者成胤(千葉介常胤嫡孫) | |
原十郎太夫常継(鴨根三郎常房孫) | 多部田四郎胤信( 〃 四男) | |
原五郎太夫清常(原常継弟) | 国分五郎胤通( 〃 五男) | |
原六郎常直( 〃 ) | 東六郎胤頼( 〃 六男) | |
金原庄司常能(原常継叔父) | 堺平次常秀( 〃 孫) | |
金原五郎守常(金原常能子) | 武石次郎胤重( 〃 孫) | |
粟飯原五郎家常(鴨根常房孫) | 臼井四郎成常( 〃 従兄弟子) | |
粟飯原権太元常(粟飯原家常子) | 臼井五郎久常(臼井成常弟) | |
粟飯原次郎顕常( 〃 ) | 天羽庄司秀常(上総介八郎広常弟) | |
金田小太夫康常( 〃 弟) | ||
匝瑳次郎助常( 〃 甥) | ||
佐是四郎禅師( 〃 甥) |
○『源平闘諍録』に記載の房総平氏一族
平常長―+―鴨根常房―+―千田常益―+―金原常能――――金原盛常――+―金原盛親 +―金原重胤――――金原胤益
|(三郎) |(千田庄司)|(金原庄司) (金原庄司) |(太郎) |(小次郎) (五郎)
| | | | |
| | | +―金原清胤―――+―治部明円――+―大夫僧都常瑜
| | | |(次郎) (安久山別当)|(安久山別当)
| | | | |
| | | +―良憲 +―金原胤長
| | | (安久山別当) (左衛門尉)
| | |
| | +―粟飯原家常―+―粟飯原顕常―+―粟飯原顕朝――+―粟飯原朝綱―――粟飯原義綱
| | (五郎) |(次郎) |(太郎) |(左近尉) (五郎)
| | | | |
| | | +―粟飯原常行 +―粟飯原朝胤―――粟飯原光胤
| | | |(小次郎兵衛尉) (三郎) (太郎左衛門尉)
| | | |
| | | +―良範―――――――粟飯原胤久―――青田顕綱
| | | | (九郎) (太郎)
| | | |
| | | +―粟飯原顕胤――+―粟飯原胤真―――粟飯原真胤
| | | (六郎) |(次郎兵衛尉) (兵衛尉)
| | | |
| | | +―粟飯原顕泰―+―粟飯原顕氏
| | | |(三郎兵衛尉)|(新兵衛尉)
| | | | |
| | | | +―粟飯原顕光
| | | | (新三郎)
| | | |
| | | +―粟飯原顕俊―――粟飯原顕村
| | | |(五郎) (新三郎)
| | | |
| | | +―了覚――――――了観
| | |
| | +―粟飯原常俊―+―粟飯原俊定――――粟飯原常忠―+―粟飯原宗常
| | |(五郎) |(右馬允) (右衛門尉) |(太郎左衛門尉)
| | | | |
| | | +―定弁 +―粟飯原盛胤
| | | |(大夫法橋) (四郎左衛門尉)
| | | |
| | | +―粟飯原胤俊――+―道胤
| | | (次郎) |
| | | |
| | | +―慈巌
| | | |(大夫法印)
| | | |
| | +―粟飯原家胤―+―粟飯原家綱 +―粟飯原胤泰
| | (伊勢中務) |(平内) (次郎)
| | |
| | +―粟飯原泰家――――鶴若胤継――+―鶴若宗綱
| | (次郎) (兵衛) |(孫次郎)
| | |
| | +―鶴若常材
| | (五郎)
| |
| +―原常宗――――原常継―――+―原常朝―――+―原朝秀――――+―原家朝―――+―岩部常行
| |(四郎) (十郎太夫) |(平次) |(次郎) |(小次郎) |(五郎兵衛尉)
| | | | | |
| | | | +―原常景 +―原胤秀
| | | | (右衛門尉) (八郎)
| | | |
| | | +―原朝房――――+―原常泰―――+―侍従如円
| | | (五郎) |(太郎) |(妙見座主)
| | | | |
| | | | +―原泰継
| | | | (三郎右衛門尉)
| | | |
| | | +―原親朝―――+―原親胤
| | | |(弥五郎) |(弥平次左衛門尉)
| | | | |
| | | | +―舜吽
| | | | |(肥前法橋)
| | | | |
| | | | +―道胤
| | | | (帥法橋)
| | | |
| | | +―原光房―――――良弁
| | | |(六郎) (大進法橋)
| | | |
| | | +―乗月――――――快弁
| | | (伊賀)
| | |
| | +―原常次―――――飯竹家房―――+―飯竹泰支――+―飯竹重宗
| | |(平三郎) (五郎) |(五郎次郎) |(五郎)
| | | | |
| | | | +―飯竹家継
| | | | (三郎次郎)
| | | |
| | | +―勝智――――+―飯竹民部
| | | |
| | | |
| | | +―飯竹朝秀
| | | (弥三郎)
| | |
| | +―原清常―――+―大原常光―――+―原重綱―――+―原政常
| | |(五郎太夫) |(三郎兵衛尉) |(左衛門尉) |(三郎兵衛尉)
| | | | | |
| | | +―佐野胤清 +―妙義 +―原頼重
| | | |(次郎) (与一)
| | | |
| | | +―大原常親
| | | (五郎)
| | |
| | +―原忠常―――+―鞍持忠泰―――+―鞍持忠光――――鞍持某
| | |(七郎) |(次郎) |(兵衛尉) (兵衛次郎)
| | | | |
| | | | +―鞍持泰宗――――蔵持某
| | | | |(五郎) (次郎)
| | | | |
| | | | +―鞍持忠景――+―鞍持胤房
| | | | (七郎左衛門)|(左衛門次郎)
| | | | |
| | | | +―鞍持常光
| | | | |
| | | | |
| | | | +―僧侶
| | | | |(大夫)
| | | | |
| | | | +―鞍持某
| | | | (七郎)
| | | |
| | | +―原常光――――――原常村―――+―原常清
| | | |(三郎) (弥三郎) |(七郎)
| | | | |
| | | | +―良有
| | | | |(伊予)
| | | | |
| | | +―原忠綱――――――原忠行 +―良弁
| | | |(五郎) (左衛門尉) (大弐)
| | | |
| | | +―了行
| | |
| | |
| | +―原家房―――――原平三郎
| | (九郎)
| |
| +―次浦常盛―+―某―――――――千田常家――――千田常重―――+―千田常光――――岩沢常忠
| (八郎) |(右馬允) (平次) (平次左衛門尉)|(平次六郎) (平次左衛門尉)
| | |
| +―江指常重――+―江指朝常 +―千田常俊――――千田常清
| (右衛門尉) |(太郎兵衛尉) (平次七郎) (四郎)
| |
| +―江指常光
| |(六郎)
| |
| +―江指常俊
| (七郎)
|
+―平常兼――――千葉介常重――千葉介常胤―――千葉介胤正―――千葉介成胤――――千葉介時胤―――千葉介頼胤
|(下総権介) (下総権介) (下総権介) (千葉介) (千葉介) (千葉介) (千葉介)
|
+―相馬常晴―――平常澄――――平広常
(上総権介) (上総権介) (上総権介
この合戦から三十三年後の建暦3(1213)年2月、和田平太胤長、和田四郎義胤らが現将軍・源実朝を廃して、故前将軍・源頼家の二男・千寿を将軍に立てようと画策した事件が発覚した。信濃国の泉親衡が同調して、使僧の阿念房が鎌倉に来て御家人たちを扇動していたが、彼が成胤の屋敷を訪れて協力を求めたとき、「千葉介被官粟飯原次郎」に捕縛され北条義時に突き出された(『鎌倉年代記裏書』)。なお、『吾妻鏡』にも同様の記述があるが、「粟飯原次郎」の名は記載されていない。系譜で見ると、家常の孫に「次郎胤真」、甥に「次郎胤俊」「次郎泰家」が見られる(『徳嶋本千葉系図』)。
鎌倉期の粟飯原氏の具体的な活躍は不明だが、多くは千葉宗家被官になったとみられ、さらに北条得宗の被官(御内人)、足利氏の被官になった流れも見られる。
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粟飯原有胤(????-????)
粟飯原五郎の子とされる。通称は孫平。ただし、系譜上に見えず実在を確認できない。
伝承では、有胤には後継ぎがなかったため、一族(平良兼流であるとする)の粟飯原伊勢寿丸(朝秀)を養子として迎えたとされている。
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粟飯原朝秀(1174-1213)
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粟飯原左衛門尉盛家の五代目の孫・粟飯原尾張守親秀の嫡男という。幼名は伊勢寿丸。ただし実在は不明。
朝秀は養和元(1181)年8月28日、8歳のとき頼朝に謁見して「朝」の字を賜り、「朝秀」と名乗ったという。彼の活躍は不明だが、伝承上では、平常長流粟飯原氏の粟飯原孫平有胤に男子がなかった事から養子になったとされる。
伝では、建暦3(1213)年5月に起こった「和田義盛の乱」で和田方に加担したと目されて、子の信秀・正秀・秀久らとともに鎌倉で殺され、朝秀の嫡孫・粟飯原胤秀が戦場を逃れて千葉小太郎成胤に保護され、成胤の弟・孫三郎寛秀に仕えて粟飯原氏を再興したとされる。
和田合戦では和田義盛に加担して討死した「粟飯原太郎、同小次郎、同藤五郎」がみえるが(『吾妻鏡』建暦三年五月六日条)、彼らは「横山人々」とあることから、和田義盛の舅・横山権守時重の流れであって、千田流粟飯原氏とは別系である。
史実としての千田平氏の粟飯原氏は、和田氏方ではなく千葉介成胤の被官として北条義時方にあり、建暦3(1213)年2月、和田平太胤長、和田四郎義胤らが現将軍・源実朝を廃して、故前将軍・源頼家の二男・千寿を将軍に立てようと画策した事件が発覚した。信濃国の泉親衡が同調して、使僧の阿念房が鎌倉に来て御家人たちを扇動していたが、彼が成胤の屋敷を訪れて協力を求めたとき、「千葉介被官粟飯原次郎」に捕縛され、成胤によって義時に突き出された(『鎌倉年代記裏書』)。なお、『吾妻鏡』にも同様の記述があるが、「粟飯原次郎」の名は記載されていない。系譜で見ると、家常の孫に「次郎胤真」、甥に「次郎胤俊」「次郎泰家」が見られる(『徳嶋本千葉系図』)。
●『吾妻鏡』建暦三年二月十五日条