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海上(うなかみ)氏は千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を祖とする千葉一族である。平安時代から室町時代を通じて下総国海上庄を中心に繁栄し、東総地方の旗頭となった。
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1.海上氏について
海上氏は下総国海上郡一帯を発祥地とする下総平氏の一族である。その出自は、
【一】千葉介常胤の叔父・海上与一介常衡を祖とする一族
【二】千葉介常胤の六男・六郎大夫胤頼を祖とする一族
の二流があり、下総平氏の惣領家・千葉常兼の十一男、与一常衡が平安時代後期に海上郡一帯を領して「海上」を称した。なお、彼の通称は、鎌倉時代成立とされる系譜『桓武平氏諸流系図』『徳嶋本千葉系図』によれば「餘一介(余一介)」とあり、「下総権介」に補されていたことがわかる。
なお、常衡の「下総権介」が、朝廷の除目による本任か国司による任用かは不明だが、受領による任用は掾・目に限られていた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。ただし、祭祀や儀式、そして「辺境という特殊性を前提とする」場合等には、国司は「介」以下の任用国司を「推薦」することもできた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)とされる。この際には、国司が「誰かによる口入を経たうえで、年給の枠を持つ、より地位の高い有力者に推薦を依頼する必要」があった(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。下総平氏が独占して代々「下総権介」に就いていた理由は、承平の乱や長元の乱といった大規模な騒乱のあった関東の治安の要として、当国に「一定の関係を持ち、地縁から現地において重要な役割を果たしうる存在として、歴代の受領から権介への就任を求められ続けた」(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)可能性もあろう。
常衡は常陸平氏や海東平氏、ひいては奥州藤原氏とも何らかの接点を持っていたと思われ、その諱には「衡」「幹」が用いられている。常衡の孫・片岡常晴の妻は佐竹忠義娘とされ、これを理由に常晴は源頼朝に佐竹氏への内通を疑われ、常衡流海上氏は所領を没収された。
海上常衡の子孫が没落したのち、千葉介常胤が海上郡立花庄(東庄)を中心とする下北東部一帯の地頭職を給わり、六郎大夫胤頼へと継承された。その後、嫡子・東平太所重胤が受け継ぎ、その子・次郎胤方、五郎胤有、七郎胤久らが海上郡内を分与されて発展した。
2.常衡流海上氏
-千葉・海上・佐竹・常陸大掾氏周辺系図-
+―千葉介常重――――千葉介常胤
|(下総権介) (下総権介)
|
平常兼―――+―海上常衡―――――海上常幹―――片岡常晴
(上総権介) (下総権介) (介太郎) (太郎)
∥
佐竹義業 +―佐竹忠義―――娘
(進士判官代) |(太郎)
∥ |
∥――――――佐竹昌義―――+―佐竹隆義―――佐竹秀義
∥ (相模三郎) |(四郎) (太郎)
∥ |
+―吉田清幹 +―佐竹義季
|(多気権介) (八条院蔵人)
|
+―多気致幹――――多気直幹―――――多気義幹
(多気権守) (常陸大掾) (常陸大掾)
(????-????)
千葉介常兼の長男カ。養父は千葉介常長カ(『徳嶋本千葉系図』)。母は不明だが、海鳥三郎大夫忠平女カ?通称は余一。官職は兵衛尉、下総権介カ。
彼の具体的な活躍は不明であるが、鎌倉期成立の『徳嶋本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』によれば、常衡(常平)はいずれも千葉介常重よりも輩行が前にあり、常兼の長男であったと思われる。しかし、常兼の長男でありながら、祖父・千葉大夫常長の十一男に擬されており(実常兼子)、父・常兼亡き後、いまだ生存していた祖父常長の養子とされ、常兼に次いで下総権介を継承した可能性があろう。また、「与一平」ともあることから、上洛して兵衛尉への任官の経歴もうかがえる。
●『桓武平氏諸流系図』(中条家文書) 千葉常永―+―千葉恒家 |
●『徳嶋本千葉系図』 千葉常長――+―千葉常兼――+―海上常衡 |
■千葉氏・常陸大掾氏関係系図
千葉常長――+―千葉常兼――+―千葉常衡―――娘
(千葉大夫) |(千葉大夫) |(海上余一) ∥
| | ∥―――――吉田盛幹
| | ∥ (太郎)
| | 多気重幹―+―吉田清幹
| |(常陸大掾)|(常陸大掾)
| | |
| | +―多気致幹――多気直幹
| | |(多気権守)
| | |
| | +―石毛政幹――娘
| | ∥
| | ∥―――――千葉常胤
| | ∥ (下総権介)
| +――――――――――――――千葉常重
| (下総権介)
|
+=海上常衡――――海上常幹
(下総権介) (介太郎)
それ以降の常衡については不明ながら、常衡の次弟と思われる常重が下総権介に就いたのは、大治5(1130)年6月11日以前(『下総権介平朝臣経繁寄進状』)であることから、常衡はこれ以前には亡くなっていたのだろう。
娘は常陸大掾吉田清幹に嫁ぎ、吉田太郎盛幹の母となったという(『系図纂要』)。
常衡の母については伝わらないが、輩行次弟の常重の母は「海鳥三郎大夫忠平女」とある(『桓武平氏諸流系図』)。常衡が常重と同母兄弟であったとすると、常衡は母方の鳥海氏(海東平氏)から「衡」字を受けている可能性があろう。なお「海鳥三郎大夫忠平」は高久三郎忠衡とされる(1)。
(????-????)
海上常衡の嫡男。通称は介太郎。
具体的な活躍は不明だが、「幹」という字から常陸平氏との関わりが窺える。
(????-????)
海上介太郎常幹の次男。通称は太郎(『桓武平氏諸流系図』)。妻は佐竹太郎娘。兄に小大夫常親、岩瀬太郎幹景が、弟には片岡三郎常永、海上五郎重常の名がそれぞれ見える(『桓武平氏諸流系図』)。
「片岡」は常陸国鹿島郡片岡(鹿嶋市宮内)とされるが、鹿嶋社神前地で社領であることから疑問である。「下総国三崎庄、舟木、横根」(『吾妻鏡』文治五年三月十日条)を領しており、おそらく片岡もこの中の地名であろう。
治承5(1181)年3月27日、片岡次郎常春が「有謀叛之聞」によって、頼朝は雑色を「彼領所下総国」に遣わして常春を召した所、常春は「称乱入領内、乃傷御使面縛」という狼藉を働いたという(『吾妻鏡』治承五年三月廿七日条)。頼朝は常春の「被召放所帯等」った上、早々に雑色を解き放し返すことを命じている。
常春の謀叛の伝とは「片岡八郎常春同心佐竹太郎常春舅」というもので、頼朝に殺害された佐竹太郎(忠義)の女婿であったことによるものであろう。常春が「被召放領所」は「下総国三崎庄、舟木、横根」であったが(『吾妻鏡』文治五年三月十日条)、三崎庄は治承4(1180)年5月11日、皇嘉門院から猶子の権中納言良通(九条兼実長男)へ伝領した「しもふさ みさき」(『皇嘉門院惣処分状』「平安遺文」3913)であり、常春は勅勘の流人で「凶賊」源頼朝の家人などではなく、三崎庄の荘官であって、頼朝に対し膝を屈する理由などなく、その「逆賊」の雑色が三崎庄に入る事自体許されざることであり、常春が雑色を面縛するのは当然の行為であったろう。当時の頼朝はあくまでも「勅勘の重罪人」のままであり、彼に随わない権門庄園の荘官、国衙在庁などの諸勢力は関東各地に存在していたと考えられる。
元暦2(1185)年10月28日、頼朝は千葉介常胤へ「被感勤節等」により、常春から没収した「三崎庄」を給わった(『吾妻鏡』文治元年十月二十八日条)。
しかし、四年後の文治5(1189)年3月、頼朝は常春が「依有奇謀之聞、雖召放領所等」も、「領所等下総国三崎庄、舟木、横根」を「如元被返付」こととした。すでに常胤へ給わっているはずの三崎庄を常胤から引き上げることはなかなか考えにくいものの、前月の2月30日、「安房、上総、下総」の国々は耕作が進まずに荒野が多いことは公私にわたって益がないとして、浪人を集めて開発させるよう命じたことと関係があるのかもしれない。ところが、常春のもとへ沙汰人が赴いたところ、常春が沙汰人を軽んじたため3月10日、所領返付の停止が指示された。その後の常春の動向は不明である。
-千葉・海上・佐竹・常陸大掾氏周辺系図-
+―千葉介常重――千葉介常胤
|(下総権介) (下総権介)
|
千葉常兼――+―海上常衡―――海上常幹――――――――――――片岡常晴
(下総権介) (下総権介) (介太郎) (太郎)
∥
佐竹義業 +―佐竹忠義――――娘
(進士判官代) |(太郎)
∥ |
∥――――――佐竹昌義――+―佐竹隆義――――佐竹秀義
∥ (相模三郎) |(四郎) (佐竹冠者)
∥ |
+―吉田清幹――――娘 +―佐竹義季
|(多気権介) (八条院蔵人)
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+―多気致幹――――多気直幹
(多気権守) (常陸大掾)
∥
∥――――――多気義幹
∥ (常陸大掾)
千葉介常胤―――娘
(下総権介)
【参考文献】
(1)野口実「中世東国武士団の研究」高科書店1994所収