| 継体天皇(???-527?) | 手白髮郎女(???-???) |
| 欽明天皇(???-571) | 石比賣命(???-???) |
| 敏達天皇(???-585) | 比呂比賣命(???-575) |
| 押坂彦人大兄(???-???) | 糠代比売王(???-664) |
| 舒明天皇(593-641) | 斉明天皇(594-661) |
| 天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
| 志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
| 光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1583-1633) |
| 千葉俊胤 (1588-1639) |
千葉定胤 (1617-1649) |
千葉知胤 (1622-1685) |
千葉英胤 (1659-1730) |
千葉紀胤 (1704-1770) |
千葉宗胤 (????-1807) |
千葉倚胤 (????-1841) |
|
| 江戸期の千葉家 | |||||||
| 鳥越社家鏑木家 | 第六天社家鏑木家 | 武田村千葉家 | 門井流千葉家 | 胤富流千葉家 | 庵原流千葉家 | ||
門井正道 (1584-1654)
千葉介邦胤の三男。通称は門井弥四郎、善兵衛。天正12(1584)年5月12日、佐倉に誕生する(『水府志料』)。その後、常陸国の門井丹波守定光の養子となったという。
門井氏は門井家系譜によれば、常陸大掾家の一族で、真壁氏の流れを汲む家である。真壁六郎左衛門成幹の三男・門井縫殿介武真が「分領門井郷」されて門井を称し、その四代の孫が門井定光である(『門井家系図』)。定光は「邦胤の従父兄弟なり」とあるように、邦胤の血縁者とされる。定光の実父・江寺右京亮胤光は江寺家の系譜(『水府志料』)を見ると「実海上山城守男、娶門井牛悦入道女」とあることから、江寺胤光は千葉介胤富妻(通性芳泰)の兄弟と想定され、その子・邦胤と門井定光は従兄弟となる。
千葉介胤富────女子
(千葉介) ∥────+─白井胤幹
∥ |(備後守)
小山秀綱──女子 ∥ |
(弾正大弼) ∥──────+─白井宗幹 +─正雲永保
∥ |(治部少輔)|[寛文八年十二月十七日死去 年九十三]
∥ | | ∥
∥ | | 千葉胤■
∥ | |(千葉権介)
∥ | |
∥ | +─白井幹時
∥ | |(民部少輔)
∥ | |
∥ | +─鶴牧信幹
∥ | (茂右衛門)
∥ | ∥
∥ | ∥
∥ | 増山尚政───女子
∥ |(五郎左衛門)
∥ | 【水戸藩大老】
真壁是幹─+─真壁義助──真壁成幹──+─真壁助幹──真壁綱幹─+─真壁幹吉 +─白井正幹─+─白井幹度───白井伊信
(安芸守) |(左衛門佐)(六郎左衛門)|(安芸守) (左衛門尉)|(下総守) (治部) |(八左衛門) (忠左衛門)
| | | |
+─麻生義幹 | | +─白井元勝
|(淡路介) | | |(一郎衛門)
| | | |
| | +─真壁家幹───+─白井師幹 +─芦野資継
| | (安芸入道道夢)|(安芸守) (五郎左衛門)
| | |
| | +─女子
| | |(水谷伊勢守勝俊室)
| | |
| | +─真壁右衛門太輔
| |
| +─門井武真──門井定正===門井定能─────女子 +─江寺光時
| |(縫殿介) (弥四郎) (與八郎/牛悦) ∥ |(五郎左衛門)
| | ∥ |
| | ∥────+─門井定光
| | ∥ (丹波守)
| +─烟田憲幹──烟田幹家───江寺幹光===+─江寺胤光
| (対馬守) (右衛門尉) (五郎) |(右京亮)
| |
+─白井幹成──白井胤永────白井胤治 海上山城守──+─海上常元 白井宗幹
(三郎) (三郎太郎) (下総守) |(山城守) (治部少輔)
| ∥───────白井胤幹
+─通性芳泰 +─女子 (備後守)
∥ |
∥────+─千葉介邦胤─+─千葉重胤
∥ (千葉介) |(千葉新介)
∥ |
千葉介胤富 +─千葉俊胤===千葉正胤──千葉尚胤
(千葉介) |(千葉権介) (千葉介) (小太夫)
|
+─門井正道───千葉正胤
(弥四郎) (平助)
『千葉伝考記』によれば、「千葉権之助と號して千葉殿の孫の由いふ者あり、是は千葉の家にて粟飯原孫兵衛といふ者あり、渠は千葉邦胤の下戚の子なり、其を権之助と申し広む」とあるが、その「権之助」は邦胤の「下戚(側室)」の子で「粟飯原孫兵衛」と言ったとあるので、粟飯原孫兵衛俊胤のちの千葉権之助俊胤に相当する。その跡を継いで「二代目権之助」となった人物は、「門井文左衛門といひて、後室に召仕はれ、諸事朝介人にて、長谷川町の屋守など仕る者の実子」(『千葉伝考記』)という。
二代目権之助は、邦胤後室が亡くなると、子の重胤は江戸を離れたため、「家財悉く文左衛門が配分す、故に千葉の文書、記録等の由緒の書記ありしを己がものとす」という。そして、文左衛門はその家財の中にあった文書や諸記録などの由緒あるものを手に入れたという(『千葉伝考記』)。
承応3(1654)年5月18日、七十二歳で亡くなった。法名は正雲院殿響松一潤大居士。逆算すると天正10(1582)年生まれとなる。『千葉大系図』によれば正道は天正10(1582)年5月12日、佐倉で生まれたとある。
千葉正胤 (1614-1677)
門井弥四郎正道の子。妻は真壁氏。通称は平助、千葉権介、千葉介。
『千葉伝考記』によれば、「二代目 一書に二代目の三字無、右権之助と有、権之助」は、千葉介邦胤後室(新田氏。於東)に仕えていた諸事朝介人を務めた門井文左衛門という人物の子息という。邦胤後室が亡くなったのち、子の新介重胤は江戸を離れることとなり、その際に千葉宗家に伝わった家財の配分(売却なども含めてか?)を文左衛門に命じた。そして、文左衛門はその家財の中にあった文書や諸記録などの由緒あるものを手に入れたという。
それらを受け継いだ「権之助(正胤か)」は幼い頃に林家(林羅山)の弟子になったという。林家の私塾は寛永9(1632)年に上野に建てられており、ここに通ったか。父・門井文左衛門が受け継いだ千葉家の諸記録を以って「千葉の孫」と称した。林家の私塾で学ぶ学友も、この由緒を見て正統であると信じたという(『千葉伝考記』)。その後、厩橋藩士として酒井雅楽頭忠清に仕えた(『千葉伝考記』)。がある。
寛文10(1670)年の冬、上野国厩橋藩主・酒井雅楽頭忠清は藩士の門井正胤が名家・千葉家所縁の人物ということを知り、正胤に「千葉」を称するように命じ、時服を与えた。しかし、正胤はその後、酒井家を辞して閑居した(辞した理由→)。
寛文12(1672)年、本佐倉城下の千葉介勝胤を開基とする勝胤寺に「千葉介平正胤」「妻真壁氏」「嫡嗣千葉平尚胤」の名で「千葉石(黒石の中に月型の白石が浮かび上がっている石)」を奉納した。さらに延宝4(1676)年11月晦日、香取神宮大長手神職の大長手雅の望みの通り、「胤」字を免許した。
延宝5(1677)年8月4日(24日とも)、浅草の宅にて亡くなった。六十四歳。浅草の崇福寺で納棺され、不変大和尚によって法要が行われたのち浅草寺塔頭梅園院に葬られたという。影像は佐倉の海隣寺に納められたというが現存していない。法号は臨阿弥陀仏。龍昌院殿井雲卜門大居士。
正胤・尚胤父子の出自を裏づけるものとして、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てた「千葉権之助願書」によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤長胤弟ニ御座候」「祖父平助正胤」「私親権之助」とある。
千葉介邦胤─+─千葉介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助──権之助
|(高祖父長胤)(曽祖父) (祖父) (親) (私)
|
+─権之助俊胤
●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』
| 台徳院様 | 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候 |
| 大融院様 |
「祖父平助正胤」がこの千葉介正胤であり、「私親権之助」とは正胤の子「権介尚胤」を指していると思われ、香取郡の宝応寺に伝わる『大須賀系図』の中に見える「千葉権介尚胤」と同一人物であろう。
●元文3(1738)年『大須賀系図(千葉平祥胤筆)』(宝応寺蔵)
新田満次郎────娘
∥───────千葉重胤
∥ (法名長胤)
千葉介胤富─+─千葉介邦胤
(千葉介) |(千葉介)
| ∥
| ∥─────+─千葉俊胤=+─千葉正胤──+─千葉尚胤───?─千葉祥胤
| ∥ |(千葉権介)|(平介) |(千葉権介)
|常陸大掾幹定娘 | | |
| +─門井正道 | +─千葉政胤────…
+─娘 (弥四郎) | (平介)
∥ ∥────+
∥ ∥
∥──────+=娘
白井宗幹 |(実ハ岡里和泉守道明娘)
(治部少輔) |
+─白井胤幹
|(備後守)
|
+─白井幹時
|(志摩守)
|
+─鶴牧信幹
(茂右衛門)
宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は、祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、元文2(1737)年5月、下総に戻って宝応寺に寄宿し、元文3(1738)年、大須賀家の系図をみずから系譜と合わせて宝応寺に納めている。この祥胤は、おそらくそれまで江戸にあって、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ宛てて千葉家再興の「千葉権之助願書」を提出した「千葉権之助」その人であると思われる。
●宝永4(1678)年11月30日『千葉介正胤・尚胤連署書状』
江戸時代、千葉家の再興を目指した千葉宗家の末裔は俊胤の子孫だけではなく、慶安元(1648)年11月には千葉新介重胤の子・「千葉介定胤」が香取神社に願文を奉納し、千葉介邦胤の子といわれる「千葉介良胤」の子・「千葉源之介知胤」も増上寺へ願文を提出した。千葉源之介知胤が増上寺に宛てた千葉家再興に関する文書の中には「千葉源之介祖父千葉介良胤、親千葉釆女正当胤候儀迄、増上寺住持御開山之系図ニ委細ニ書戴申候」とある。
●千葉家再興を願った宗家の末裔たち
⇒千葉介胤富─+─千葉介良胤───釆女正当胤────源之介知胤
|(祖父) (親)
|
+─千葉介邦胤─+─千葉新介重胤─+─千葉介定胤──完胤
|(高祖父) |(千葉介) (七之助)
| |
+─権之助俊胤 +=権之助俊胤==平助正胤─権之助(尚胤か)─権之助(祥胤か)
(曽祖父) (祖父) (私親)
正胤については『千葉伝考記』によれば、俊胤の子ではなく、俊胤の弟・門井弥四郎正道の子で、母は白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)。俊胤の娘と結婚して養嗣子として俊胤のあとを継いだという。ただし、正胤が勝胤寺に奉納した「千葉石」の台座に刻まれた妻は「真壁氏」とあることから、俊胤娘が妻ということは否か。正胤の初名は門井平助、のち千葉権介と称し、千葉家の家宝を譲り受けたとある。
+─千葉新介重胤
|
+─千葉権介俊胤===正胤
| ↑
+─門井正道─────正胤───尚胤
(弥四郎) (平助) (平助)
∥
白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)
正胤は、養父・俊胤から家督を継ぐ前、十四歳の時に伯父の千葉入道長胤と俊胤の意を受け、上野国厩橋藩へ仕官願いをして仕官したという。当時の藩主は老中筆頭の酒井雅楽頭忠世であった。正胤の仕官は、長胤入道、俊胤の「千葉家再興」の願いを伝えるという意図があったらしい。正胤はこのときには「千葉」を名乗っておらず、実家の「門井」を名乗っていて、千葉家嫡流の血筋であることを明らかにしていなかった。この後、養父・俊胤から千葉宗家を継いだものの、この事を秘密にして仕えていたようである。
その後、弘文院学士・林春斎法印が4代将軍・徳川家綱(厳有院殿)の命を受けて『本朝通鑑』の編纂をはじめたが、正胤はこれを聞いて、
「私は千葉の嫡流を受け継ぐものとはいえ、なんの功績もない。何をもって祖先に酬いればよいのかわからない。千葉家累代の勲業も長く地に落ちて、後の世の者が我が家の偉業を知ることもなくなるだろう。ただ恨むばかりだ」
と、そのとき一大決心をして、家に伝わっている系図・家譜をうつしとって林春斎法印に提出した。法印も系譜を見て「なんとすばらしい」と賞賛し、これを『本朝通鑑』に書き入れた。この際に採用されたと思われる伝が『本朝通鑑』に現存しているが、そのうちのひとつが、
であろう。ただし邦胤と俊胤の年齢がともに『千葉大系図』とも異なっており、その根拠となったものは不明。千葉権之助家に伝わった『千葉正系譜』という系譜は、鏑木氏に渡した鏑木氏部分の抜書が『千葉大系図』と似通った記述であることから、その底本となった系譜は同一のものとみられるものの、細部は異なる記述がみられるため、林法印に提出した系図や家譜はこの『千葉正系譜』に基づいているものかもしれない。
寛文10(1670)年の冬、忠世の孫・酒井雅楽頭忠清はこの事を聞いて系譜などを見たあと「千葉」を称するようにと正胤に伝えて時服を与え、亡き長胤と俊胤の念願もかなうと思ったのもつかの間、急病にかかったため、酒井家を辞して閑居した。病は次第に篤くなり、子・千葉平助尚胤を枕辺に呼び、先祖の志を継ぐべき由を遺言して、延宝5(1677)年8月4日、浅草の屋敷で亡くなった。享年は六十四歳。
正胤は浅草寺塔中梅園院に葬られ、佐倉海隣寺に御影が安置された。法号は臨阿弥陀仏。龍昌院殿井雲■門大居士。
また、同じく『千葉伝考記』には厩橋藩に仕えた「千葉権之助」のことについて記載された伝記がもうひとつある。
千葉権之助という者の由緒について、酒井雅楽頭の儒臣・古市兵庫(初名は南軒、のち藤之進)が、
「先年、酒井雅楽頭家に門井何某という者があるが、故あって千葉氏の文書・記録を得、時期を待ってから自分は千葉氏の嫡流ということを言って千葉嫡流の証書を提出し、門井から千葉への復姓を願っていたのだが、望みの通りに許された。その後、この人はあらかじめ用意していた『月に星』の紋のついた衣類・大小脇差をつけて翌日から出仕した。
しかし、そののちに千葉氏の嫡流であることが偽りとわかったため勤仕し難くなって酒井家を辞し、浪人して下総国に来たのだが、『千葉権之助』という名を聞いて『千葉の殿様だ』と信じる者がいたのだが、地元には千葉氏をいまだに知る古老がいて、権之助にいろいろ質問をしてみると、答えにつまること多く、面目をなくして江戸に上って針灸などをして暮らして一生を終えた。子もいた」
と語っている。この「千葉権之助」とは門井正胤のことと思われる。(1)でみる酒井家退転の理由と(2)の退転理由がまったく異なっており、実際に正胤が酒井家を退転した理由は不明である。
| 人物 | 酒井家退転の理由 | 酒井家退転の理由(原文) | |
| (1) | 千葉権介 | 病にかかって辞す | 偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す |
| (2) | 千葉権之助 | 偽りが発覚して辞す | 千葉の正統を偽ること顕はれて勤仕し難くなり同家を立ち退いて浪人せり |
千葉尚胤 (????-1711)
千葉介正胤の嫡子。母は真壁氏。通称は平助、千葉権介。
父・正胤とともに千葉石を本佐倉の勝胤寺に納め、江戸に出て代替わりや日光社参などの折々に有司へ陳情を数度にわたって提出するなど千葉家再興に尽力した人物。
高須藩主松平摂津守義孝(嵩岩院)の家人・楠岡右衛門は藩の「書物方の役人」であったが、岡右衛門は「殊に千葉権之介へ続き有之者」で、千葉権之助について語っている(『千葉伝考記』)。その談によると、
岩村八郎右衛門───岩村藤右衛門
(水野隼人正旧臣) |
↓
【門井姓/酒井雅楽頭家人】 【岩村八郎右衛門子】
千葉権之助────────千葉新介======千葉新助
∥ (神尾内記家臣)
+─娘
|
+─関口作左衛門(作兵衛満継)
|(常陸・下総御代官)
|
加瀬胤正─+─関口孫右衛門
(太左衛門) (徳川綱豊の家臣)
上記に見える「千葉権之助」は千葉権之助正胤であろう。そして、その子「千葉新介」は尚胤であると考えられるが、彼には子がなかったという。
母の真壁氏は元禄5(1692)年11月9日に亡くなり、浅草の総福寺に葬られた。法名は隆恭院殿貴山松勢法式房。
尚胤は正徳元(1711)年6月14日、亡くなった。法名は本立院殿興雲常成相阿大居士。
『千葉家実記』に収められた「関口家文書『加瀬家由来書』」の記述によると、下総代官・関口作左衛門は、笹本村馬走の加瀬太左衛門胤正の長男、加瀬作兵衛満継という人物で、母方の関口姓に改めるようにとの上意を受け、さらに総州御代官を仰せつかり、上総国小西に知行を与えられて居所としたという。また、代官所手代として疋田太左衛門(米倉村)、堀江権右衛門(八日市場村)、湯浅金左衛門(松山村)を召抱えたという。
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千葉安胤 (????-????)
千葉権介尚胤の嫡子。実父は信濃国松本藩士・岩村八郎右衛門か。通称ははじめ藤右衛門か。のち千葉権之助。
享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てたと思われる「千葉権之助願書」によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤長胤弟ニ御座候」「祖父平助正胤」「私親権之助」とある。
千葉介邦胤─+─千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助─+─権之助
|(高祖父長胤) (曽祖父) (祖父) (親) |(私)
| |
+─権之助俊胤 +─千葉祥胤
(小太夫)
●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』
| 台徳院様 | 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候 |
| 大融院様 |
祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、江戸に戻り、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ千葉家再興の嘆願書を提出したのだろう。元文2(1737)年5月には権之助の弟・小太夫祥胤が千葉家再興活動をしており、権介安胤、小太夫祥胤は、父尚胤の遺志を継いで兄弟で千葉家再興運動を行っていたと想定される。
宝暦4(1754)年12月、「千葉権介 平安胤」は鏑木村の「鏑木儀左衛門殿」へ安胤所持の系図(『千葉正系譜』か)から鏑木家の部分を抜き出した『平姓鏑木氏系図』を渡している。安胤の持つ系譜は浅草第六天神社神主の鏑木家が有した『千葉大系図』とは同じ底本をもとに作成されたとみられるが、説明等で差異が見られる。
●『平姓鏑木氏系図奥書』(『古城村誌 前編』鏑木家蔵)
権之助の没年等は不明である。
千葉祥胤 (????-1774)
千葉権介尚胤の次男。通称は小太夫。
祖父正胤以来、父権介尚胤、兄権介安胤と代々千葉家再興を願い出ており、とくに兄権介(権之助)安胤は、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」は増上寺へ宛てて「千葉権之助願書」を提出し千葉家再興を願い出ている。それによれば「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤長胤弟ニ御座候」「祖父平助正胤」「私親権之助」とある。
千葉介邦胤─+─千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助──権之助
|(高祖父長胤) (曽祖父) (祖父) (親) (私)
|
+─権之助俊胤
宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は当時江戸に在住していたとみられる。そして、元文2(1737)年5月22日、将軍吉宗の孫・竹千代(のちの家治)が誕生すると、祥胤は「大納言様御誕生之節、松平左近将監宅江罷出御祝儀申上候」と、老中松平左近将監乗邑邸を訪問して祝儀を述べている。祥胤がなぜ老中邸を訪問が可能だったのかは不明だが、このとき乗邑は目付の石河土佐守に、祥胤を呼び出して願いの筋を一通り確認するよう指示をしている。そこで祥胤はそれについて答えたものの「其後御沙汰茂無御座候」という。
●『宝暦四年戌十一月 赦帳』
この老中邸を訪問直後、5月中に祥胤は急ぎ下総に戻って香取郡松子村の宝応寺に寄宿し、翌元文3(1738)年に大須賀家の系図をみずからの系譜と合わせて宝応寺に納めている。このとき、宮兼蕃、飯高宗堯、神崎左門胤資が宝応寺に参じ、祥胤に対面しており、元文3(1738)年12月には祥胤が記した神崎氏の系譜が神崎胤資へ与えられている。増上寺に宛てた兄「千葉権之助」の享保11(1726)年の『千葉権之助願書』の歴代と、「千葉平祥胤」が大須賀氏の系譜に合わせて宝応寺に収めた千葉系譜は一致する部分が多く、祥胤は父・権介尚胤や兄の権介安胤から千葉家再興について強く語られていたのだろう。
●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』
| 台徳院様 | 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候 |
| 大融院様 |
祥胤は元文4(1739)年6月には再び江戸におり、目付石河土佐守からの「由緒御尋」についての返答の書付を提出している。
宝暦4(1754)年閏6月の三回忌法事の際に作成された「赦帳」によれば、「千葉小太夫」はこの三回忌に際して上野の東叡山寛永寺に召出の願書を提出しているが、「宝暦二申年六月 東叡山」にも召出を願う文書を提出していることが記されており、宝暦2(1752)年6月の有徳院殿(徳川吉宗)の一回忌に合わせて千葉家再興の願いを提出していることがわかる。
●『宝暦三年六月有徳院様御三回御忌 御赦帳』
その後、千葉家が旗本として召し出された記録はなく、結局これらの千葉家再興の歎願が認められることはなかったということになろう。そして安永3(1774)年8月22日、「常陸国新治郡宮崎村大槻治右衛門宅」で亡くなったという。法名は照元院殿遊華道閇居士(「伊能村報応寺牌子」『下総国旧事考』)。同じく伊能村寶応寺の宝暦11(1761)年製作の「寶応寺過去帳」にも同日「照元院殿桻遊蕐道閑居士」とある。祥胤の子孫は不明である。
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