| 継体天皇(???-527?) | |
| 欽明天皇(???-571) | |
| 敏達天皇(???-585) | |
| 押坂彦人大兄(???-???) | |
| 舒明天皇(593-641) | |
| 天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
| 志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
| 光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
(???-571)
| 生没年 | ???~欽明天皇32(571)年4月(『日本書紀』) |
| 御諱 | 天國押波流岐廣庭命(『古事記』) 天国排開広庭尊(『日本書紀』」) |
| 父 | 袁本杼命【継体天皇】 |
| 母 | 手白髮郎女(意祁天皇之御子):仁賢天皇女 |
| 妃 | 石比賣命(檜坰天皇之御子):宣化天皇女・仁賢天皇外孫 ・八田王 ・沼名倉太玉敷命【敏達天皇】 ・笠縫王 小石比賣命(檜坰天皇之御子):宣化天皇女 ・上王 糠子郎女(春日之日爪臣之女) ・春日山田郎女 ・麻呂古王 ・宗賀之倉王 岐多斯比賣(宗賀之稻目宿禰大臣之女) ・橘之豐日命【用明天皇、上宮王父】 ・石坰王(妹) ・足取王 ・豐御氣炊屋比賣命【推古天皇】 ・亦麻呂古王 ・大宅王 ・伊美賀古王 ・山代王 ・大伴王(妹) ・櫻井之玄王 ・麻奴王 ・橘本之若子王 ・泥杼王 小兄比賣(岐多志比賣命之姨) ・馬木王 ・葛城王 ・間人穴太部王【上宮王母】 ・三枝部穴太部王 ・名須賣伊呂杼 ・長谷部若雀命【崇峻天皇】 |
| 宮 | 師木嶋大宮(『古事記』) |
| 御陵 | 檜隈坂合陵(『日本書紀』) |
父は袁本杼命(『古事記』)、男大迹天皇(『日本書紀』)。母は手白髮命(『古事記』)、手白香皇后(『日本書紀』)。御諱は天國押波流岐廣庭命(『古事記』)、天国排開広庭尊(『日本書紀』」)。キサキは異母兄の檜坰天皇(宣化天皇)女・石比賣命と小石比賣命、春日之日爪臣の女・糠子郎女(之女)、宗賀之稻目宿禰大臣の女・ 岐多斯比賣と小兄比賣(『古事記』)。系譜上は武烈天皇の実甥となる。
●『古事記』および『釈日本紀「上宮記一云」』より
其大國之淵――弟苅羽田刀辨
∥
∥―――――――――――――+―伊波都久和希―伊波智和希―…布利比彌命―――乎富等大公王
∥ | (継体天皇)
∥ |
∥ +―布多遲能伊理毘賣命
∥ ∥
∥ 建伊那陀宿禰――――――――志理都紀斗賣
∥ (尾張連之祖) ∥ ∥
∥ ∥ ∥
+―――――八坂入彦命―――八尺之入日売命 ∥ ∥――――――――品陀真若王―+―高木之入日賣命
| ∥ ∥ ∥ ∥ |
| ∥ ∥ ∥ ∥ |
| ∥ ∥――――――――――五百木之入日子命 +―――中日賣命
| ∥ ∥ ∥ | ∥
御眞木入日子印恵命―+―――伊久牟尼利比古大王 ∥ ∥ | ∥
(崇神天皇) (垂仁天皇) ∥ ∥ +―弟日賣命 ∥
∥ ∥ ∥ ∥
∥――――大帶日子淤斯呂和氣命 ∥―――――――――帶中津日子命 ∥――――+
∥ (景行天皇) ∥ (仲哀天皇) ∥ |
∥ ∥ ∥ ∥ ∥ |
旦波比古多多須美知宇斯王――氷羽州比賣命 ∥ ∥ ∥―――――――――凡牟都和希王 |
∥ ∥ ∥ (応神天皇) |
∥――――――――倭建命 息長宿禰王――息長帶比賣命 ∥ |
∥ ∥ (神功皇后) ∥―――――――+ |
∥ ∥ ∥ | |
若建吉備津日子――名針間之伊那毘能大郎女 ∥――――息長田別王――咋俣長日子王――――息長真若中比売 | |
(吉備臣等の祖) ∥ (弟比彌麻和加) | |
妻 | |
| |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ |
| |
+―若野毛二俣王 伊自牟良君――――――久留比彌命 |
∥ (牟義都國造) ∥ |
∥ ∥ |
∥――――――――――+―大郎子 ∥ |
∥ |(意富富等王) ∥――――――――――――――――――――――汗斯王 |
∥ | ∥ ∥ ∥ |
母母思已麻和加中比彌 | ∥――――――――――乎非王 ∥ |
(百師木伊呂弁) | ∥ ∥ |
| 中斯和命 ∥――――乎富等大公王 |
| ∥ (継体天皇) |
+―踐坂大中比彌王 +―穴穂御子 ∥ |
| ∥ |(安康天皇) ∥ |
| ∥ | ∥ |
| ∥――――――――+―大長谷若建命――白髪命 ∥ |
| 浅津間若子宿禰命 (雄略天皇) (清寧天皇) ∥ |
|(允恭天皇) ∥ |
| ∥ |
+―田宮中比彌 阿那爾比彌 +―布利比彌命 |
| 【余奴臣祖】 |(振媛) |
| ∥ | |
+―布遲波良已等布斯郎女 ∥―――――+―都奴牟斯君 |
∥ (三尾角折君?) |
伊久牟尼利比古大王―伊波都久和希―伊波智和希―伊波己里和氣―麻和加介―阿加波智君―乎波智君 |
(垂仁天皇) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 石木王――――――難波王
| ∥
| +―葛城蟻臣――――――――荑媛 +―袁祁之石巢別命
| | ∥ |(顕宗天皇)
| | ∥ |
| +―葛城葦田宿禰―+―黑比賣命 ∥――――――+―意祁命 +―高木郎女
| | ∥―――――――――+―市邊之忍齒王 (仁賢天皇) |
| | ∥ | ∥ |
| | ∥ | ∥―――――――+―財郎女
| | ∥ +―御馬王 ∥ |
| | ∥ | ∥ |
| | ∥ | ∥ +―久須毘郎女
| 葛城之曾都毘古―+―石之日賣命 +―大江之伊邪本和氣命 +―青海郎女 ∥ |
| ∥ |(履中天皇) (飯豐郎女) ∥ |
| ∥ | ∥ +―小長谷若雀命
| ∥ +―墨江之中津王 ∥ |(武烈天皇)
| ∥ | ∥ |
| ∥ | ∥ +―眞若王
| ∥ +―蝮之水齒別命 ∥ |
| ∥ |(反正天皇) ∥ |
| ∥ | ∥ +―手白髮郎女
| ∥――――――+―浅津間若子宿禰命 +―穴穂御子 ∥ ∥
| ∥ (允恭天皇) |(安康天皇) ∥ ∥
| ∥ ∥ | +―春日大郎女 ∥―――天國押波流岐廣庭命
| ∥ ∥ | | ∥ (欽明天皇)
| ∥ ∥ | | ∥
| ∥ ∥―――――――――+―大長谷若建命―+―白髪命 ∥
| ∥ +―踐坂大中比彌王 (雄略天皇) (清寧天皇) ∥
| ∥ | ∥
+―――――――――――大雀命 +―大郎子―――――――――乎非王―――――汗斯王―――乎富等大公王
(仁徳天皇) (意富富等王) (継体天皇)
∥
∥――――――+―大日下王
∥ |
日向之諸縣君牛諸―――髮長比賣 +―若日下部命
欽明天皇の生年は不明。継体天皇元(507)年3月5日、継体天皇はキサキの手白香皇女(仁賢天皇女)を皇后に立て、やがて皇子が生まれた。「天国排開広庭尊(「開」はハラキと訓ずる)」である。母の手白香皇女は皇后に立てられており、「嫡子」であったが「幼年」であったため、「二兄治後、有其天下」った。この二兄とは異母兄の「広国排武金日尊(安閑天皇)」「武小広国押盾尊(宣化天皇)」である。
宣化天皇4(539)年2月10日、兄の武小広国押盾尊(宣化天皇)が檜隈廬入野宮(明日香村檜前)で崩御した。七十三歳。その後はおそらく殯宮が設けられたとみられ、11月17日に「大倭国身狭桃花鳥坂上陵」に葬られた(『日本書紀』宣化天皇四年十一月十七日條)。その翌月12月5日「天国排開広庭皇子」が即位した。欽明天皇である。「時年若干」とあるが、継体天皇2(508)年以降の誕生であり、当時三十歳程とみられる。母后を「皇太后」とし、前代を引き継いで、大伴金村大連と物部尾輿大連を大連、蘇我稲目宿禰大臣を大臣と定めた。
天皇が幼少の頃、夢に人が現れて「天皇寵愛秦大津父者、及壮大、必有天下(天皇が秦大津父を寵愛すれば、壮年に至って必ず天下を得るであろう)」と言った。皇子は夢から覚めて驚き、使者を遣わして「秦大津父」なる者を広く探させた。すると、山背国紀伊郡深草里(京都市伏見区深草西浦町一帯)で姓名が夢と同じ人物が見つかった。これに皇子はは大いに喜び、「かの夢はまことであったか」と嘆じた。皇子が彼に問うて曰く「汝有何事(汝は何らかの事をしたのか)」。それに秦大津父が答えるには「無也、但臣向伊勢、商価来還、山逢二狼相闘汚血、乃下馬洗漱口手、祈請曰、汝是貴神、而楽麁行、儻逢猟士、見禽尤速、乃抑止相闘、拭洗血毛、遂遣放之、倶令全命(何もしておりません。ただ私が伊勢での商いの帰りに、山中で二頭の狼が争っていて、血で汚れておりました。この状況を見て私は下馬し、口と手を漱いで祈ったところ、「汝、これは貴神が荒行して楽しんでいるのだ。もし猟士に出会ったらすぐに擒になってしまうぞ」との(伊勢の)お告げがありました。そこで私は二頭の闘いを止めさせ、血毛を拭洗して放してやり、ともに命を全うさせました」と言う。皇子はこれを聞いて「必此報也、乃令近侍優寵日新、大致饒富、及至践祚、拝大蔵省(必ずこれに報いよう。お前を近侍させ優遇し大いに富を与えよう。そして践祚の暁には大蔵の省を授けよう)」と言った(『日本書紀』)。
この説話は、欽明天皇が仏教説話にみる「因果応報」を理解していた聖主である前提で、後世には欽明天皇の御代に「内典来りき」と仏教聖典を容れたことが世に知られており、「深智の儔ハ内外を覯て因果を信け恐る」(『日本国現報善悪霊異記』)という「因果応報」の理論が語られる。仏教理論と伊勢敬神がひとつの説話で語られており、「二狼相闘汚血」とはおそらく仏教受容派と古来神崇敬派の対立の暗喩、それを収束させた事を示すものだろう。「大蔵」ほか「斎蔵」「内蔵」いわゆる「三蔵」を統べたのは仏教容認派の蘇我氏と想定され(『古語拾遺』)、深草屯倉を置いた仏教徒・秦氏とともに仏教が容認されたことを示すものか。
宣化天皇4(539)年10月、異母兄の武小広国押盾天皇(宣化天皇)が崩御した。その後、故継体天皇嫡子の皇子は、群臣を前に「余幼年浅識、未閑政事、山田皇后明閑百揆、請就而決(私は若輩で知恵も浅く、政治にも通じていない。 山田皇后は万事に明るく政務に熟達しておられる。 ゆえに政務を請うて判断を仰ぎたい)」と述べた。これに山田皇后は恐れ慎んで「妾蒙恩寵、山海詎同、万機之難、婦女安預、今皇子者、敬老慈少、礼下賢者、日中不食、以待士、加以幼而穎脱、早擅嘉声、性是寛和、務存矜宥、請諸臣等、早令臨登位光臨天下(私が深いご恩寵をいただいたことは、山の高み、海の深みと同じでございます。けれども、天下の政事はきわめて難しく、婦人の身でどうして関わることができましょうや。今の皇子は、老人を敬い、若者を慈しみ、賢者を礼遇される。昼も食をとらずに士を待たれるほどである。しかも幼少から聡明で、早くから誉れ高く、寛和で寛容です。諸臣よ、どうか早く皇子に即位していただき、天下に光臨されるよう)」と申し上げた。
宣化天皇4(539)年12月5日、天国排開広庭皇子が即位した。年齢は「若干」とのみで不明。継体期から皇后出産記録を鑑みて三十代前半は出ない。山田皇后は皇太后とした。大伴金村・物部尾輿の両大連と蘇我稲目宿禰大臣は、いずれも引き続きその地位にとどまった(『日本書紀』)。
欽明天皇元(540)年正月15日、有司は「請立皇后(皇后を立てるべきです)」と奏上した。これを受けて天皇は「正妃として武小広国押盾天皇(宣化天皇)の皇女石姫を皇后に立てる」と詔した。のち、皇后は箭田珠勝大兄皇子、訳語田渟中倉太珠敷尊(のち敏達天皇)と笠縫皇女(狭田毛皇女)をお産みになった(『日本書紀』)。
7月14日、天皇は「檜隈廬入野(奈良県高市郡明日香村檜前)」の宮から三輪山直下の「倭国磯城郡磯城嶋(桜井市慈恩寺)」に宮を遷し、「磯城嶋金刺宮」と号した(『日本書紀』)。
8月には「高麗、百済、新羅、任那」からそれぞれ使者を遣わして「貢職」を修めた。また、秦人、漢人などの諸蕃を召集てして国郡に置き、戸籍を整えた。当時の秦人の戸数は合計七千五十三戸あり、秦伴造を大蔵掾に任じた。これは前述の天皇が幼少時に見た夢の「秦大津父」の故事の体現であろう(『日本書紀』)。
9月5日、天皇は難波祝津宮(大阪市中央区大手前4丁目1)に行幸した。大伴大連金村、許勢臣稲持、物部大連尾輿らが従った。これに際して天皇は諸臣に「幾許軍卒、伐得新羅(いかほどの軍卒で新羅を討ち得るか)」と問うと、物部大連尾輿等は「少許軍卒、不可易征、襄者男大迹天皇六年、百済遣使、表請任那上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁四県、大伴大連金村輙依表請、許賜所求、由是新羅怨曠積年、不可軽爾而伐(我々の軍卒は少なく、容易く征伐することはできません。往昔、男大迹天皇六年に百済が使者を遣わし、任那の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四県を請願しました。大伴大連金村はその表請に依り、所望を許しました。これにより新羅は怨みを抱き、年を経て積もりました。軽々しく討つべきではありません)」(『日本書紀』)と奏上した。継体天皇の御代、百済による任那の日本縣邑に対する割譲要望が続いており、壬辰歳(512年)12月、「哆唎国守穂積臣押山」の要請を受けて、大伴大連金村が同意して奏上した経緯があった。大伴大連金村は恥じて住吉の宅に籠り、病と称して朝廷に出仕しなかった。そのため天皇は青海夫人勾子を遣わして慇懃に慰した。すると金村は恐れ謝して「臣所疾者非余事也。今諸臣等、謂臣滅任那、故恐怖不朝耳(臣の病は余事ではありません。今、諸臣等は私を任那を滅ぼした者と見なすため、恐れて出仕しないのです)」と述べ。鞍付き馬を贈って青海夫人勾子に厚く敬意を表した。その後、青海夫人は実情を奏上したところ、天皇は「久竭忠誠、莫恤衆口(久しく忠誠を尽くしてきた者である。衆口を気にすることはない。罪には問わない)」と詔し、金村をますます重用した(『日本書紀』)。
欽明天皇2(541)年3月、天皇は五人の妃を迎えた。妃五人とその子女は以下の通り。
| 『古事記』 | 『日本書紀』 |
| 石比賣命(檜坰天皇之御子):宣化天皇女・仁賢天皇外孫 ・八田王 ・沼名倉太玉敷命【敏達天皇】 ・笠縫王 |
石姫:武小広国押盾天皇女:宣化天皇女 ・箭田珠勝大兄皇子 ・訳語田渟中倉太珠敷尊【敏達天皇】 ・笠縫皇女(狭田毛皇女) |
| 小石比賣命(檜坰天皇之御子):宣化天皇女 ・上王 |
稚綾姫皇女:皇后弟(妹):宣化天皇女 ・石上皇子 |
| 日影皇女:皇后弟(妹):宣化天皇女 ※列后妃之名、不見母妃姓与皇女名字、不知出何書、後勘者知之 ・倉皇子 |
|
| 糠子郎女(春日之日爪臣之女) ・春日山田郎女 ・麻呂古王 ・宗賀之倉王 |
糠子(春日日柧臣女) ・春日山田皇女 ・橘麻呂皇子 |
| 岐多斯比賣(宗賀之稻目宿禰大臣之女) ・橘之豐日命【用明天皇】 ・石坰王(妹) ・足取王 ・豐御氣炊屋比賣命【推古天皇】 ・亦麻呂古王 ・大宅王 ・伊美賀古王 ・山代王 ・大伴王(妹) ・櫻井之玄王 ・麻奴王 ・橘本之若子王 ・泥杼王 |
堅塩媛(蘇我大臣稲目宿禰女):堅塩は岐施志と訓ず。 ・大兄皇子:橘豊日尊【用明天皇】 ・磐隈皇女(夢皇女)初侍祀於伊勢大神、後坐奸皇子茨城解 ・臈嘴鳥皇子 ・豊御食炊屋姫尊【推古天皇】 ・椀子皇子 ・大宅皇女 ・石上部皇子 ・山背皇子 ・大伴皇女 ・桜井皇子 ・肩野皇女 ・橘本稚皇子 ・舎人皇女 |
| 小兄比賣(岐多志比賣命之姨) ・馬木王 ・葛城王 ・間人穴太部王 ・三枝部穴太部王 ・名須賣伊呂杼 ・長谷部若雀命【崇峻天皇】 |
小姉君(堅塩媛同母弟(妹)) ・茨城皇子 ・葛城皇子 ・渥部穴穂部皇女 ・泥部穴穂部皇子(天香子皇子、一書に住迹皇子) ・泊瀬部皇子【崇峻天皇】 |
欽明天皇2(541)年4月、欽明天皇は任那(伽耶)に関する百済聖明王への詔を任那諸国へ下した。任那は日本の朝鮮半島に於ける重要な交易地域で「加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古嗟国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国」(『日本書紀』欽明廿三年正月條)の十国で構成された地域とされる。任那は東の新羅の圧力を受けていたが、欽明天皇は百済聖明王と連携して任那復興に尽力し、百済は新羅との橋頭保として任那諸国への影響力を強めたようである。『日本書紀』においては欽明天皇は聖明王に詔勅を送り、任那諸国や安羅日本府(河内直や吉備臣ら倭系官僚が在府)と積極的な協力を求め、新羅との共闘を謀っている。ところが、安羅日本府の河内直は新羅と内通して混乱。聖明王はその不義を責め、彼が安羅に常駐する限りは任那復興はないとして、欽明天皇5(544)年2月には「今遣奏天皇、乞移汝等、還其本処」と、天皇に追放を奏上するまでになっていた。ただ、その後も日本と百済は任那諸国に影響力を及ぼす体制を続けていく。その後も、欽明天皇は百済、任那の支援を続け、新羅や高句麗の侵攻を防ぐ政策を維持していく。
欽明天皇6(545)年9月、百済は「造丈六仏像」った。その願文には「蓋聞、造丈六仏功徳甚大、今敬造、以此功徳、願天皇獲勝善之徳、天皇所用弥移居国倶蒙福祐、又願普天之下一切衆生皆蒙解脱、故造之矣(聞くところによれば、丈六仏を造る功徳は非常に大きい。今、これを敬って造る。この功徳によって、天皇が勝れた善の徳を得られるよう願う。天皇が用いるすべての移動先の国々も、共に福祐を蒙るよう願う。また、天下のすべての衆生が解脱を得られるよう願って、これを造るのである)」という。百済は仏教大国である南梁との朝貢関係があり、仏教文化が流入していた。この丈六仏造立もこうした仏教文化の発展したものである。
欽明天皇13(552)年10月、百済の聖王(聖名王から聖王と改めた)は、日本に「西部姫氏達率怒唎斯致契等」を遣わし、天皇に「献釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」じ、「別表讃、流通、礼拝、功徳云」した。聖王はこの別に讃した上表に、
と記し、これを聞いた天皇は大いに喜び、使者に言われた。
「朕従昔来、未曾得聞如是微妙之法、然朕不自決(朕はこれまで、このように深遠な法を聞いたことがない、しかし、朕ひとりでは決められぬ、群臣に問おう)」
に問うて言われた。
「西蕃献仏相貌端厳、全未曾看、可礼以不(西の異国が献じた仏像は、相貌が端厳である。未だかつて看たことはない。これを拝むべきか、どうか)」
これに、蘇我大臣稲目宿禰は、
「西蕃諸国一皆礼之、豊秋日本豈独背也(西方諸国は皆仏を礼拝しています。どうして豊秋日本のみが背くべきでしょう)」
と上奏する。しかし、物部大連尾輿と中臣連鎌子はこれに反対し、
「我国家之王天下者、恒以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拝為事、方今改拝蕃神、恐致国神之怒(我が国の王の天下は、常に天地社稷の百八十神を祀り、春夏秋冬の祭を為します。 まさに今、外国の神を拝し、国つ神の怒りを招くことを恐れます)」
と奏した。意見の対立を見た欽明天皇は、
「宜付情願人稲目宿禰、試令礼拝(では、信仰を望む者稲目宿禰に仏像を委ねよう。礼拝を試みよ)」
![]() |
| 向原寺 |
と指示し、稲目は跪拝して拝命すると、仏像を甘樫丘麓の「小墾田家(向原家)」に安置し、精進して仏道修行に励み、浄めて寺とした。向原寺である。
ところが、その後、国中に疫病が流行し、多くの人々が死んだ。これを見た物部尾輿と中臣鎌子は、
「昔日不須臣計、致斯病死、今不遠而復、必当有慶、宜早投棄、懃求後福(以前、臣の意見を用いられなかったため、国つ神の怒りで斯の如く人民が病で死に至っているのです。すぐに以前の通りにすれば必ずこの災厄から遁れられましょう。早々に仏像を投棄し、後の福を求められよ)」
と上奏。天皇は彼らの言に従い、仏像を難波の堀江に投棄し、向原寺には火を放って焼き尽くさせたという。ところが、後述のようにわずか七か月後の欽明天皇14(553)年5月には天皇自身が発願した造仏の説話が記載されているのである(『日本書紀』)。欽明天皇13(552)年10月に百済仏が伝わり、蘇我大臣稲目宿禰がこれを引き受けて屋敷を「向原寺」としたが、しばらく後に疫病が流行して人々が亡くなったという過程を経て、向原寺が燃やされたということになる。これら一連の話は欽明天皇が二体の樟木仏を造立する説話を間に挟んだものなのか、百済仏を難波堀江に流したのちの話なのかは定かではないが、この造仏については物部尾輿や中臣鎌子ら排仏派の人々の抵抗は見られない。
欽明天皇14(553)年正月12日、百済は上部徳率の科野次酒、杆率の礼塞敦らを派遣して、軍兵を乞うた。前年欽明天皇13(552)年、百済は新羅や高句麗からの攻勢に屈して漢城と平壌から撤退し、新羅がこれらを占拠しており、対新羅への援軍要請であろう。正月15日、百済の使者、中部杆率の木刕、今敦、河内部阿斯比多等は百済へ帰国している。
欽明天皇14(553)年5月、河内国が不可思議な現象を奏上した。
天皇はこれを怪しみ、溝辺直を現地に遣わして調べさせたところ、「樟木浮海玲瓏(樟木の流木が海に浮かんで得も言われぬ澄んだ音色を出していた)」という。溝辺直はこれを引き上げて献じた。天皇はこれを「画工」に命じて仏像二躯を彫らせたという。「今吉野寺放光樟像也」という。天皇自ら百済仏の難波放擲と向原寺焼却を命じた姿勢とは真逆であること、ならびに物部氏や中臣氏の介入も見られないことから、この説話は仏教が容認された時代の説話が欽明天皇の條に採用されたことを意味している可能性も考えられる。
6月、天皇より百済へ「内臣」が遣わされた。ともに「良馬二疋、同船二隻、弓五十張、箭五十具」を遣わして、「所請軍者、随王所須(軍勢を請うのであれば、すべて聖王の望むままに送りましょう)」と勅した。また、「医博士、易博士、暦博士等、宜依番上下、今上件色人正当相代年月、宜付還使相代、又卜書、暦本種種薬物、可付送(医博士、易博士、暦博士らについては、番の上下により交代年月となっているので還るため、交代要員を遣わすように。 また、卜書、暦本、種々の薬物をいっしょに送付するように)」と伝えている。
7月4日、天皇は父継体天皇の宮の一つ「樟勾宮(枚方市楠葉丘2?)」へ行幸した。これに伴い「蘇我大臣稲目宿禰、奉勅遣王辰爾、数録船賦(蘇我大臣稲目宿禰は勅命を受けて王辰爾に船の徴発を命じた)」。大和川を遡上して草香江(大阪市中心域一帯の汽水湖)まで水行するルートだったことがわかる。「即以王辰爾為船長、因賜姓為船史、今般連之先也」とあるように、王辰爾を船長とする水上行幸団が組まれ、王辰爾は「船史」を賜姓されたという。八世紀の「般連」の祖とされる。
こうした中で、新羅や高句麗は百済に攻勢をかけ続けていた。百済と任那が日本と連携しているのを察し、新羅は任那の中枢である安羅国にも攻め寄せる噂まであった。百済聖王は日本に使者を遣わすと、この難局を報告した。
欽明天皇14(553)年10月20日、百済聖王の王子余昌(のち威徳王)は、自ら高句麗を攻め、百合野に要害を築いた。余昌はここで兵等と寝食を共にし、夜に野を見回ったが人影はなかった。ところが突然、太鼓や笛の音が聞こえ、高句麗勢が攻め寄せた。余昌は夜通し要害を守り抜くも、夜があけてみると城はすっかり高句麗王率いる軍勢に取り囲まれていた。高句麗側から五騎が進み出て余昌に「小児等言、於吾野中、客人有在、何得不迎礼也、今欲早知、与吾可以礼問答者姓名年位(「我が将兵が『我が領に客人がおられます。どうしてお迎えの礼をしないでいられましょう』と言います。今すぐ知りたいのです。我等と礼儀を以って問答をされる方のお名前と年齢、身分を」)」と問いかけた。これに余昌は「我の姓はそなたらと同姓(扶余)で、位は杆率、歳は二十九である」と応えて高句麗側にも姓名を訪ね、両軍は激突した。この戦いで、余昌は一勢を率いて高句麗勢に斬り込むと、その中の勇士を鉾で突き落とし、その首を掲げて軍勢に示した。これに高句麗勢は怒ったものの、百済勢の一勢が高句麗勢に攻めかかり、高句麗王を東聖山まで追いやった。
欽明天皇15(554)年正月7日、天皇は皇子の渟中倉太珠敷尊を太子とした。のちの敏達天皇である。正月9日には、筑紫に派遣されていた内臣、佐伯連らと百済使の中部木州施徳文次、前部施徳曰佐分屋が対面。百済使は今月中の援軍派遣を依頼し、内臣は勅命を奉じ「即令遣助軍数一千、馬一百疋、船四十隻」を約した。ただ、正月中の派遣は見送られ、3月に「百済使人中部木州施徳文次等罷帰」り、5月3日、内臣は船団を率いて渡海し、内臣は6月に百済に到着した。その後、内臣率いる軍勢や東方を領する「物部莫哥武連」を以って函山城を攻めた。その後、12月9日に城を攻め落とした。ただし、新羅は高句麗と結んでいることから、さらなる軍勢派遣を依頼した。また、任那防衛のために百済から一万人の軍勢が派遣されていたことも奏上された。
さらに王子余昌は新羅を討つべく出陣を謀ったが、老臣らは「天未与、懼禍及」とこれを諫めた。ところが余昌は聞かず、日本を恃みに新羅へ攻め入り「久陀牟羅」に砦を築いた。しかし、父聖王は余昌の長陣を憂い、自らこの救援に出陣した。これを新羅側が察知して退路を断って聖王勢を打ち破った。聖王は遁れたが、佐知村という村の馬飼苦都に討たれたという。また余昌も砦を包囲され、進退窮まったが、筑紫勢の弓の上手であった「筑紫国造」が新羅勢の勇士を射落としたのをはじめ、矢を雨のように新羅勢に降らせたため、新羅勢は退却。この隙をついて余昌は砦を脱出して百済へと帰国することができたという。その後、新羅は百済を攻めんと謀ったが、日本からの援軍を危ぶんで進撃を中止した。
欽明天皇16(555)年2月、余昌は弟の恵を日本に派遣して聖王の戦死を奏上した。この二年後の欽明天皇18(557)年3月、「百済王子余昌嗣立」している。すなわち百済「威徳王」である。
欽明天皇17(556)年7月6日、「蘇我大臣稲目宿禰」を「備前兒嶋郡」に遣わして屯倉を置き、「葛城山田直瑞子」を、「田令」とした。10月には「蘇我大臣稲目宿禰」を「倭国高市郡」へ遣わし、「韓人大身狭屯倉、言韓人者百済也」と「高麗人小身狭屯倉」「紀国置海部屯倉」を設置している。朝廷では百済を重視しており、「新羅」「高句麗」についてはその下位に置いている。
欽明天皇23(562)年正月、「新羅打滅任那官家」した(『日本書紀』欽明廿三年正月條)。一説にはこの二年前に「任那滅焉」とも。これを受けて天皇は新羅に対し「共誅奸逆、雪天地之痛酷、報君父之仇讎、則死有恨臣之子道不成」(『日本書紀』欽明廿三年六月條)との詔を発したという。
その後、7月に天皇は「遣大将軍紀男麻呂宿禰」と「副将河辺臣」を新羅攻めのために任那地方へ派遣した。ここで紀男麻呂宿禰は「以薦集部首登弭、遣於百済、約束軍計」したが、「登弭仍宿妻家」で「落印書、弓箭於路」し、これを新羅勢が手に入れて「新羅具知軍計」し、新羅勢の「卒起大兵」により、日本勢は「尋属敗亡、乞降帰附」するという失態を犯している。ただし「紀男麻呂宿禰、取勝旋師、入百済営」と、紀男麻呂率いる軍勢はなんとか新羅勢を打ち破り百済陣に逃げ入ることができた。
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| 都塚古墳(伝蘇我稲目墓) |
8月には、「大将軍大伴連狭手彦」が「領兵数万、伐于高麗」ために派遣された。大伴狭手彦は「用百済計、打破高麗」り、高句麗王は城壁を越えて逃げ去った。大伴狭手彦が攻めた城がどこかは記されていないが、高句麗王は城中の宮に寝帳や宝剣、妾女や侍女を従えており、高句麗王はこれらを置いての逃亡であった。大伴狭手彦は城に入ると、「七織帳」や「甲二領、金飾刀二口、銅鏤鍾三口、五色幡二竿」を回収。「美女媛并其従女吾田子」を保護して戻ると、これらを「送於蘇我稲目宿禰大臣」した。蘇我稲目宿禰はこの「美女媛并其従女吾田子」を妻として、「居軽曲殿」に住まわせたという。大臣蘇我稲目は、欽明天皇31(570)年3月、「蘇我大臣稲目宿禰薨」じたという(『日本書紀』欽明天皇卅一年三月甲申朔條)。
4月2日、天皇は「幸泊瀬柴籬宮」した。蘇我大臣の薨去による影響か。このとき、「越人江渟臣裾代」が「詣京奏」じて言うには「高麗使人、辛苦風浪、迷失浦津、任水漂流、忽到着岸、郡司隠匿、故臣顕奏」という。天皇はこの高句麗人について「有司宜於山背国相楽郡、起館、浄治、厚相資養」と命じている。その後、天皇は泊瀬柴籬宮から戻り、越国に逗留する高句麗人の接待を「東漢氏直糠児、葛城直難波」に命じた。
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| 伝欽明天皇陵 |
この頃、天皇は重病に陥っており、欽明天皇32(571)年4月15日、「天皇寝疾不予」という。このとき「皇太子向外不在」だったが、「騨馬召到、引入臥内、執其手詔」した。「朕疾甚、以後事属汝、汝須打新羅、封建任那、更造夫婦、惟如旧曰、死無恨之」と遺詔を皇太子の渟中倉太珠敷尊へ伝えると、「天皇遂崩于内寝」じた。「時年若干」とあり、具体的な年齢は不明。
5月には「殯于河内古市」と、河内国古市(羽曳野市古市)に殯宮が造営されて欽明天皇の遺体が移されたとみられる。そして9月、飛鳥の「葬于檜隈坂合陵(明日香村平田)」られた。