原上総介胤貞

原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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原胤貞(????-????)

 原式部少輔胤清の子。通称は孫次郎。官途は上総介。戒名は震岳(『千学集抜粋図』)道岳(『手賀原氏系図』)。もともとは庶家の牛尾家を相続しており、「牛尾孫次郎」を称している。

 永正年から天文年ごろの下総国は足利高基(古河公方)と足利義明(小弓御所)との間で抗争が起こると、千葉宗家および原氏は古河公方・足利高基に味方して小弓公方と対立していた。そんな中で足利高基が「千葉介殿(千葉介昌胤)」へ宛てた大永3(1523)年11月27日とみられる書状に、「臼井不忠千代未聞候」と見える部分があり(『足利高基書状』:「戦国遺文」古河公方編632)、佐倉城の前線基地である臼井城主・臼井景胤が小弓公方側について、高基や千葉介昌胤と対立関係にあった様子が見える。また、同文書には「昌胤海上、原其外令供奉候、感悦候」とあり、千葉介昌胤や海上氏・原氏らは高基方で活躍していたことがうかがわれる。この「海上」とは当時、海上家に養子に入っていたと思われる昌胤三男・胤富(当時十二、三歳か)を指すものか。

 天文7(1539)年10月7日、義明が国府台の戦いで戦死すると臼井氏も降伏したか。その後、臼井城は原氏に与えられることとなるが、臼井氏は平安時代後期から四百年もの間、臼井庄に繁栄していた大族であり、原氏の支配は容易に進まず、胤貞は娘(原上総介胤定息女)を景胤に嫁がせ、縁戚になったと伝えられている。

 天文16(1547)年3月、千葉介利胤が胤貞の父・原式部少輔胤清に千葉妙見宮の修造を命じた際、表の唐戸の用材は「胤貞大弓にて」伐採したものが用いられており、胤貞が小弓を領していたことがわかる(『千学集抜粋』)。

 天文19(1550)年11月23日の妙見遷宮式では「牛尾孫次郎胤貞」の名で父の「原式部太夫胤清」とともに参列し、神馬を寄進している。そして同年12月24日、「原孫次郎(胤貞)」が「米根井」から臼井へと移った。原氏と臼井との初めての接点であるが、「米根井」の具体的な場所は「原孫次郎背ニ東ヲ」とあるので、木内氏の拠点である香取郡「米野井」の可能性があるが、これ以前に原氏と米野井の関わりがみられず、確定できない。

 なお、臼井城が臼井氏から原氏へ移行する伝承は別の記録もある。それによれば、当主の臼井久胤が、弘治三(一五五七)年に亡くなった父・臼井景胤の遺言に従って原胤貞を臼井に招いたものの、胤貞の善政によって久胤は存在感を失い、正木氏の臼井攻めに乗じて城を脱出し、結城氏を頼ったというもので(『原氏略記』「千葉県東葛飾郡誌」)、子孫は鯖江藩主間部家の重臣として幕末に至る(『鯖江臼井家文書』個人蔵)。この伝承も臼井氏追捕と原胤貞入部が関係しているように感じられる。

 天文15(1546)年正月に家督を継いだ千葉介利胤は、僅か一年半後の天文16(1547)年7月12日、三十三歳で亡くなった。利胤には子がないため、末弟の親胤が宗家を継承することとなる。親胤には兄・九郎胤富(海上家を相続)がいたが庶子であったために継承者からは除外されたのだろう。親胤は利胤の二十六歳年下であることから同母兄弟ではないが、昌胤後室の当腹嫡子であったとも考えられる一方で、幼少の親胤を望んだ胤清・胤貞の意向が及んだ可能性もあろう。なお、親胤も弘治3(1557)年に十七歳で不慮の死を遂げたため、兄・海上胤富が千葉宗家を継承することとなる。
天文20(1551)年頃、胤貞は父・胤清から家督を継承したと思われ、小弓から臼井へ拠点を移した(『千学集抜粋』)。そして天文24(1555)年6月23日に、中山法華経寺へ千田・北条両庄の日蓮宗門徒についての沙汰を認める判物を発給している(『原胤貞判物』:「戦国遺文」房総編911)

臼井城
臼井城本丸より印旛沼を望む

 天文24(1555)年6月23日、八幡庄の中山法華経寺に対して胤貞の名で寺領安堵状が出されている。つまり、八幡庄の原氏領の進退権を得ていると思われることから、このころ胤清から家督を譲られたと思われる。同年10月10日、長年の宿敵・正木左近大夫時茂が千葉に乱入してきたため、胤清・胤貞が主導で行う千葉介親胤の元服式が延期され、実際に行われたのは12月23日となった。このころの小弓原氏は側近の筆頭としての地位を確立していた。

 弘治3(1557)年10月15日、臼井景胤は病死したが、死ぬ直前に嫡男・久胤に対して、「小弓城の原胤貞をここに招いて土地を守れ」と遺言をしたという。久胤は遺言通り、胤貞を招いて臼井城の本丸を明け渡したというが、胤貞も久胤のための館を城門のそばに建てたと伝えられる。その後、胤貞は臼井で善政を敷いたために、本来の領主である久胤の影は薄くなってしまったという(『原氏略記』)

 なお、原宗家は胤清・胤貞の二代によって千葉宗家から半ば自立した道を歩み始めるが、きっかけは千葉介昌胤の死と小田原北条氏の進出であろう。

 千葉宗家は昌胤亡き後、当主の早世が続いたが、このような中、永禄2(1559)年には胤貞は「一門家風」であった小金(松戸市小金)の「高城」氏や土気(千葉市土気)の「酒井」氏、東金(東金市)の「酒井」氏とともに、千葉宗家とは別に小田原北条氏の指示を受ける「他国衆」に組み込まれていた(『北条家所領役帳』:「続群書類従 第二十五輯上」)。北条氏との取次・監督者である「指南」は、千葉宗家は遠山氏であったが、原氏は松田憲秀が担当しており、永禄初年には千葉宗家の「作倉衆」とは別の勢力「臼井衆」として認知されていた。原宗家は永正年中には千葉宗家の家宰の地位にあったが、天正5(1577)年時点の「後見」はすでに原家庶流の「原豊前守」へ移っていたことからも、原宗家は千葉宗家内での家宰から手を引き、独自の政治基盤の上に自立していたことがうかがえる。しかし両者は対立関係にあった様子がない(黒田基樹『下総千葉氏権力の政治構造』:「戦国期領域権力と地域社会」)。それは、千葉宗家と原宗家が全くの「同列」ではなく、高城、酒井氏などとともに、千葉宗家の指示をも受ける体制になっていたためであろう。

下総酒井氏略系図(一部想像)

       土岐光行                           <土気酒井氏>
         ∥―――光定―教国―浜康持―満持―+―康慶       +―酒井定隆-定治-胤治-康治-重治
 千葉介頼胤―+―娘                |(豊後守)     |
       |                  |          |<東金酒井氏>
       |                  +―春利(=治敏?)―+―酒井隆敏-敏治-敏房-政辰-政成
       |                   (式部少輔)
       |<下総千葉氏>                 
       +―胤宗――貞胤―氏胤―満胤――兼胤―――胤直――胤将

 永禄3(1560)年8月29日、安房国の里見義堯からの要請を受けた越後国守護代・長尾景虎が小田原北条氏を攻めるため関東に進出すると、一挙に上野国厩橋(前橋市)まで攻め下り、厩橋城を攻略して前線基地とする。ここで12月24日、長尾景虎太田資正(岩槻城主)に対して、原氏と正木氏の争いを鎮めるよう命じている。長尾景虎と正木氏とは「雖遠境候、年来別而申通之間」であり、「原方迩可存替覚悟毛頭無之候」であると申し伝えている。つまり、関東の静謐を求める長尾景虎は、原胤貞正木時茂の和睦を勧める一方で、このことは別に原胤貞に味方をしているわけではないということを正木氏に伝えている。なお、この長尾景虎の関東攻めでは、原氏の寄騎的存在であった「高城下野守」は早々に景虎に降伏してその麾下に加わっている(『関東幕注文』)

 永禄4(1561)年2月、長尾景虎は小田原城に向かって出陣したため、北条方であった胤貞は下総国の守備のために上総国から軍勢を戻さねばならなくなり、正木大膳亮時茂はこの隙を突いて上総国を制圧。さらに里見義堯・義弘正木時忠の水軍を指揮して武蔵国六浦に渡り、長尾景虎の小田原包囲網の一翼を担った。

小弓城
小弓城址

 正木時茂はさらに上総から下総へ侵入し、千葉氏の本拠地をつぶす作戦に出た。時茂は東下総から侵入して東金の「酒井左衛門尉(胤敏)」を調略し、椎崎城の城将とする。その後、時茂は香取郡を荒し、胤貞の守る臼井城にも攻め寄せて攻め落とした。このとき、臼井城の旧城主・臼井久胤は城を逃れて結城氏を頼ったという(『千葉臼井家譜』)

 胤貞はわずか十一歳の嫡子・原十郎胤栄が籠る小弓城へと移るが、時茂は小弓城も攻め落とし、胤貞・胤栄佐竹義昭と対陣していた千葉介胤富のもとへと退いた。時茂はこののち鎌倉へ渡って里見義堯と合流している。

 一方、長尾景虎が主導で行った小田原包囲網であったが、長滞陣による兵糧不足のために失敗し、景虎は鎌倉に退いた。ここで景虎は閏3月16日、鶴岡八幡宮で上杉憲政から「関東管領」「上杉家督」「家紋」「系図」を譲られて「上杉政虎」を称することとなる。しかし、4月に政虎が関東を去ると高城下野守は北条氏へと帰参してしまう。一方で、東金の酒井胤敏はそのまま正木氏に属した。  

 永禄5(1562)年、政虎は足利晴氏(北条氏に捕らえられて相模国波多野で病死)の遺児のうち、嫡男・足利藤氏(将軍・足利義藤の偏諱で元服)を新たな古河公方として擁立し、関宿城の簗田晴助(中務大輔)をその後見に任じた。また、上杉憲政(前関東管領)・近衛前久(前関白)も古河城に入れると、自らは越後へ帰国した。

 しかし、翌永禄5(1562)年2月には北条氏が攻勢に転じると、政虎が擁立した古河公方・足利藤氏の居館・古河城は風前の灯となり、捕らえられた藤氏は小田原へ拉致され、上杉憲政・近衛前久も越後の政虎を頼った。こうして北条氏康は自分の外孫にあたる足利義氏(藤氏の弟)を新たな古河公方に推戴し、上総国佐貫城(富津市)へ「移座」が実行された。北条氏の勢いが盛り返すと、原胤貞も里見勢が籠もっていた小弓城に猛攻をかけて奪還に成功した。

 また、里見義弘は上杉勢が越後に退くと劣勢となり、北条氏に追われて下総・上総の占領地を放棄して安房国岡本城に退いた。しかし義弘の抵抗は続いており、12月には上総国に里見勢の侵攻があったようで、千葉介胤富は「原上総介、彼方へ令■」と胤貞に佐貫城への出兵を命じ、「就中上総介者不及申、高城下野守、酒井中務丞、人衆悉召連、各自身可罷出之由相稼候、然上於勝利者、不可有疑候」と、高城下野守と土気酒井胤治へも出陣を命じている(『千葉介胤富書状』:「戦国遺文」房総編1090)。また里見氏は安房水軍を相模国三崎に派遣しているが、これは北条氏の伊豆水軍によって撃退され、龍崎縫殿頭兄弟三人の他、二十人が討ち取られたという。

 永禄6(1563)年には里見勢は攻勢に転じて古河公方義氏御座所の佐貫城を攻め落とし、古河公方義氏は北条氏を頼って鎌倉へと逃れている。一方で胤貞は里見氏の手から小弓城を奪還している。そして輝虎は12月には関東に再び出陣し、12月27日、里見氏に対して出兵を要請した。これに応じた里見義弘は、翌永禄7(1564)年正月、下総国国府台(市川市国府台)に布陣して北条氏と退陣するが、北条勢の猛攻によって里見勢は壊滅。里見氏はここに下総・上総の拠点をすべて失った(第二次国府台合戦)。

●関東の情勢●

北条氏康 × 上杉政虎
北条氏康(小田原城主) × 上杉政虎(関東管領)
足利義氏(晴氏弟) × 足利藤氏(古河公方)
   上杉憲政(前関東管領)
千葉介胤富(下総佐倉城主) × 里見義弘(安房館山城主)
原胤貞(下総臼井城主) × 正木時茂
原胤栄(下総小弓城主) × 正木時忠(上総勝浦城主)
高城胤辰(下総大谷口城主) × 佐竹義昭(常陸水戸城主)
酒井胤敏(上総東金城主) × 酒井胤治(上総土気城主)

 この国府台合戦によって里見勢が下総から撤退したことにより、胤貞は正月11日、臼井城を接収。旧領を奪還した。

 この合戦によって、正木氏に属していた東金酒井氏の「酒井左衛門尉(胤敏)」も北条家に帰参したい旨を胤貞へ伝えたようである。しかし、胤敏に対する胤貞の怒りは激しく、胤敏はかつて「指南」であった松田憲秀に嘆願したと思われる。そして、5月16日の『松田憲秀条書』によれば、「酒左帰城之儀、御納得尤ニ存候事」とあり(黒田基樹『下総千葉氏権力の政治構造』:「戦国期領域権力と地域社会」)、胤貞は憲秀の説得に応じて酒井胤敏が東金城へ帰ることを受け入れたようである。実はまさにこの頃、土気酒井胤治が北条氏に反旗を翻しており、憲秀は胤敏の東金帰城を急いだのだろう。なお、このとき胤敏帰参の条件と思われるが、「多胡、椎崎之儀、不可有相違候由、被申候之事」との付記がみられる。胤貞は胤敏が多古や椎崎に持つ権利の没収(もしくは胤貞への付与)を北条氏に認めさせたのだろう。東金酒井氏は永禄三年当時の椎崎在番や、元亀2(1572)年12月、正木時茂から木原(山武市木原)の宍倉氏へ宛てられた書状の「先年酒井左衛門尉ニ椎崎領相渡刻」という文言から、椎崎領と密接な関係にあったことがうかがわれる。

 胤貞はこのほかにも、「御血判之儀」について憲秀に質問しているが、憲秀は全く心配することはないと返答している。胤敏がまだ血判誓紙の交換をしていないことへの不満だろう。また、憲秀は次の合戦時には「御両所之内御一人御越」を依頼している。この「御両所」とは胤貞と子息・胤栄(十四歳)であろう。最後に憲秀は胤貞に対して「少も不可存無沙汰意趣」ことを訴えており、最後に「高下、酒左ニ此上者御入魂可然存候之事」と、高城下野守、酒井胤敏との協調を強く依頼している。

 一方、五月中旬に反北条氏の兵を挙げた土気酒井胤治は、これまで一貫して北条方として里見氏や正木氏と戦ってきた人物であったが、国府台の合戦の際に「不忠之仁」と罵られたことから、「忠信之某無心扱共更不及耐忍」と鬱積の中で、里見方に寝返った。これを知った北条氏政は土気攻めを決定し、翌永禄8(1565)年2月12日、土気城に攻め寄せた。土気攻めには寄親であった胤貞の「臼井衆」が参戦しており、12日の戦いでは「原弥太郎、渡辺孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎、鈴木」ら五十余人ばかりが討ち取られた(『酒井胤治書状』:「戦国遺文房総編1159」)。この土気攻めに胤貞自身が参陣したかは不明だが、松田憲秀が胤貞に示した「来調儀」は時期的に土気攻めと思われるため、「御両所之内御一人御越」とある通り、胤貞(胤栄も同陣したとすれば初陣の可能性も?)が参陣したと思われる。

 翌2月13日には胤治の「愚息左衛門次郎(康治)」の手勢によって東金酒井「左衛門尉(胤敏)」勢の「河嶋新左衛門尉、市藤弥八郎、早野、宮田」ら百余名が討たれている。胤貞や胤敏はいわば身内同士で合戦を強いられた形となったが、土気酒井胤治も里見氏に救援を求めたものの「就中房州御手前折角故、当城へ一騎之合力も無之候」という有様で、2月18日、上杉輝虎の側近河田長親へ宛てて、「早々金へ被寄 御馬候様頼入候」と、原氏の一翼を担う高城下野守の居城・小金城を攻めるよう依頼している。結局、この籠城戦は胤治方の勝利に終わったようで、原勢は引き上げ、胤治は生き残ることとなった。

 同年12月、上杉輝虎は「総州へ想定之上、可令動座」という里見義堯や上総へ逃れていた古河公方足利藤氏(晴氏の子)の要請に応えて、再び越後国から関東へ軍を進めた。

 翌永禄9(1566)年2月、上杉勢の北条高広、直江景綱、河田長親が長谷山本土寺(松戸市殿平賀)に制札を発給している(『河田長親奉書制札写』:「戦国遺文」房総編1205)ことから、高城氏の本拠・小金城はこの時すでに上杉勢の手にあったと思われる。そして、3月3日、守谷城(守谷市)の相馬治胤が輝虎の「御旗本人々」へ「就中此度金御近陣之上、以代官人数立上申」るとともに鹿毛一頭を進上しており(『相馬治胤書状』:「戦国遺文」房総編1200)、輝虎自身が小金城周辺へ着陣していた様子がうかがえる。

 そして3月9日、上杉勢は臼井城を包囲した。このとき船橋の皇太神宮(船橋市宮本)に河田長親が制札を出しており、船橋にも上杉勢が駐屯していたことがわかる。

 永禄9年の越山(関東出兵)には結城晴朝や小山秀綱ら関東の諸大名が軍勢催促に応じており、臼井城を攻めたのは上田勢・結城勢・足利長尾勢・房州衆・酒井胤治らが確認できる(『関東州軍役書立写』:「戦国遺文」房総編1198他)。結城晴朝は臼井旧主・臼井久胤を臼井城に戻すべく久胤を陣に加えていたという伝もある(『総葉概録』)

 昼夜を問わない連日の攻勢に、3月20日には「臼井之地実城堀一重」(『長尾景長書状』:「戦国遺文」房総編1201)という状況になるが、原氏指南・松田憲秀の従兄弟である松田肥後守康郷が救援として臼井へ籠城、千葉介胤富も五百の兵を派遣したことで耐え抜き、3月23日の戦いでは「房州人衆三百余人打死」(『北条氏政感状』:「戦国遺文」房総編1208)のほか、多くの寄手を打ち破るという勝利を得る。そして輝虎のもとへ届いていた新将軍足利義秋の和睦・上洛要請もあり「廿三之晩景、越衆少々相移」り、3月25日、上杉勢は撤兵した。

 臼井合戦から二か月後の5月15日、胤貞は上総国八剣神社司・八剣左門に対して祈祷書の請取状を出し(『原胤貞請取状』:「戦国遺文」房総編1176)、6月12日に上総国真里谷の大倉山妙泉寺(木更津市) へ(『原胤貞判物』:「戦国遺文」房総編1219)、8月15日には高谷延命寺(袖ヶ浦市)に判物(『原胤貞判物』:「戦国遺文」房総編1221)を与えている。この頃には上総国真里谷周辺は原氏の支配下にあったとみられる。

 ところが、翌永禄10(1567)年8月、北条氏は里見氏の押さえのために築いた西上総の三船山城を里見勢に奪われた(三船山合戦)。これにより胤貞は西上総から撤退し、本拠も内陸の臼井へと移したのだろう。

 永禄12(1569)年2月中旬、里見勢は西上総を足掛かりに江戸湾岸を攻め上り、「松戸市川迄相散」っており、原氏や高城氏と交戦したと思われる。この急報を受けた北条氏康はただちに「其地へ加勢之衆、江戸衆申付」ている。ただ、里見勢は26日にはこの地を「引退」いて、「臼井筋之郷村」へ放火しており、おそらく臼井城にいた胤貞とも交戦したと思われる。里見勢は28日には上総国椎津城へ帰還しており、本格的な下総侵攻ではなかったとみられる。

 このような中で、甲斐武田氏との対峙という共通理念のもと、6月に上杉輝虎と北条氏康との間で同盟が結ばれることとなる。この同盟を受けて、輝虎は里見氏と両総の支配に関する交渉を行った。まず「上総之儀ハ、一向互ニ不被申候」とし、里見氏の領有に異議はないこととする一方で、下総については「愚老異見之分ハ、氏政へ令異見、下総可相渡候、千葉方原両酒井高木以下、其儘城々ニ被指置、下総之証人愚老ニ可取預由」(『上杉輝虎印判状写』:「千葉県の歴史」歴代古案 県外文書122)と提案した。予てから氏康は里見氏との和睦を願っていたが、里見氏はこれを取り合わなかった。そのため、氏康は輝虎と相談し、下総を「相渡」という条件を出して和睦を進めようと画策したと思われるが、千葉氏、原氏ら里見氏の敵対勢力は温存され、「証人」も輝虎預かりという形ばかりの「下総可相渡」であったため、義弘は拒絶し、さらに輝虎にも言いがかりをつけている。

 その後の胤貞の動向は伝わらないが、元亀元(1571)年8月、里見勢によって「大弓」が攻め落とされており(『飯香岡八幡神社大般若経奥書』:「戦国遺文」房総編934)、永禄12(1569)年以降、一旦は胤貞が小弓を奪還していたのだろう。

●参考資料●

『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者―  浜名敏夫著



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