原上総介胤貞

手賀沼 原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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原胤貞(????-????)

 原式部少輔胤清の子。通称は孫次郎。官途は上総介。法名は震岳(『千学集抜粋図』)道岳(『手賀原氏系図』)

 

原式部太夫胤清の子で、通称は孫次郎。
天文十六(一五四七)年三月、千葉介利胤が胤貞の父・原胤清に千葉妙見宮の修造を命じた際、表の唐戸の用材は「胤貞大弓にて」伐採したものが用いられており、胤貞が小弓を領していたことがわかる。
天文十九(一五五〇)年十一月二十三日の妙見遷宮式では「牛尾孫次郎胤貞」の名で父の「原式部太夫胤清」とともに参列し、神馬を寄進している(3)。
そして同年十二月二十四日、「原孫次郎(胤貞)」が「米根井」から臼井へと移った(64)。原氏と臼井との初めての接点であるが、「米根井」の具体的な場所は「原孫次郎背ニ東ヲ」とあるので、木内氏の拠点である香取郡「米野井」の可能性があるが、これ以前に原氏と米野井の関わりがみられず、確定できない。
なお、臼井城が臼井氏から原氏へ移行する伝承は別の記録もある(66)。それによれば、当主の臼井久胤が、弘治三(一五五七)年に亡くなった父・臼井景胤の遺言に従って原胤貞を臼井に招いたものの、胤貞の善政によって久胤は存在感を失い、正木氏の臼井攻めに乗じて城を脱出し、結城氏を頼ったというもので、子孫は鯖江藩主間部家の重臣として幕末に至る(67)。この伝承も臼井氏追捕と原胤貞入部が関係しているように感じられる。
天文十五(一五四六)年正月に家督を継いだ千葉介利胤は、僅か一年半後の天文十六(一五四七)年七月十二日、三十三歳で亡くなった。利胤には子がないため、末弟の親胤が宗家を継承することとなる。親胤には兄・九郎胤富(海上家を相続)がいたが庶子であったために継承者からは除外されたのだろう。親胤は利胤の二十六歳年下であることから同母兄弟ではないが、昌胤後室の当腹嫡子であったとも考えられる一方で、幼少の親胤を望んだ胤清・胤貞の意向が及んだ可能性もあろう。なお、親胤も弘治三(一五五七)年に十七歳で不慮の死を遂げたため、兄・海上胤富が千葉宗家を継承することとなる。
天文二十(一五五一)年頃、胤貞は父・胤清から家督を継承したと思われ、小弓から臼井へ拠点を移した(68)。そして天文二十四(一五五五)年六月二十三日に、中山法華経寺へ千田・北条両庄の日蓮宗門徒についての沙汰を認める判物を発給している(69)。
なお、原宗家はこの胤清・胤貞の二代によって千葉宗家から半ば自立した道を歩み始めるが、きっかけは千葉介昌胤の死と小田原北条氏の進出であろう。
千葉宗家は昌胤亡き後、当主の早世が続いたが、このような中、永禄二(一五五九)年には胤貞は「一門家風」であった小金(松戸市小金)の「高城」氏や土気(千葉市土気)の「酒井」氏、東金(東金市)の「酒井」氏とともに、千葉宗家とは別に小田原北条氏の指示を受ける「他国衆」に組み込まれていた(70)。北条氏との取次・監督者である「指南」は、千葉宗家は遠山氏であったが、原氏は松田憲秀が担当しており、永禄初年には千葉宗家の「作倉衆」とは別の勢力「臼井衆」として認知されていた。
原宗家は永正年中には千葉宗家の家宰の地位にあったが、天正五(一五七七)年時点の「後見」はすでに原家庶流の「原豊前守」へ移っていたことからも、原宗家は千葉宗家内での家宰から手を引き、独自の政治基盤の上に自立していたことがうかがえる。しかし両者は対立関係にあった様子がない(71)。それは、千葉宗家と原宗家が全くの「同列」ではなく、高城、酒井氏などとともに、千葉宗家の指示をも受ける体制になっていたためであろう。
永禄三(一五六〇)年、越後の長尾景虎が小田原北条氏を攻めるため関東に進出すると、原氏の寄騎的存在になっていた「高城下野守(72)」は早々に景虎に降伏、さらに翌永禄四(一五六一)年の正木大膳の下総侵攻によって東金の「酒井左衛門尉(胤敏)」も正木氏につき、椎崎城に詰めた。さらに小弓城、臼井城も攻落されて両城は正木氏の手に渡り、胤貞は城を追われることになる。
しかし、四月に上杉政虎(長尾景虎改め)が関東を去ると、高城下野守は北条氏へ帰参するが、東金の酒井胤敏はそのまま正木氏に属した。
永禄五(一五六二)年、五代古河公方足利義氏は上総国佐貫城(富津市)へ移ったが、十二月には里見勢の侵攻があった模様で、千葉介胤富は「原上総介、彼方へ令■」と胤貞に佐貫城への出兵を命じ、「就中上総介者不及申、高城下野守、酒井中務丞、人衆悉召連、各自身可罷出之由相稼候、然上於勝利者、不可有疑候」と、高城下野守と土気酒井胤治へも出陣を命じている(73)。
翌永禄六(一五六三)年、抵抗空しく佐貫城は里見勢によって攻め落とされるが、胤貞は小弓城の奪還に成功し、永禄七(一五六四)年正月の「第二次国府台合戦」の勝利によって臼井城も取り戻した。そして、正木氏に属していた「酒井左衛門尉(胤敏)」も北条家に帰参したい旨を胤貞へ伝えたようである。
しかし胤貞の怒りは激しく、胤治はかつて「指南」であった松田憲秀に嘆願したと思われる。そして、五月十六日の『松田憲秀条書(41)』によれば、「酒左帰城之儀、御納得尤ニ存候事」とあり、胤貞は憲秀の説得を受けて酒井胤敏が東金城へ帰城することを受け入れたようである。実はまさにこの頃、土気酒井胤治が北条氏に反旗を翻しており、憲秀は胤敏の東金帰城を急いだのだろう。胤敏帰参の条件と思われるが、「多胡、椎崎之儀、不可有相違候由、被申候之事」との付記がみられる。胤貞は胤敏が多古や椎崎に持つ権利の没収(もしくは胤貞への付与)を北条氏に認めさせたのだろう。東金酒井氏は永禄三年当時の椎崎在番や、元亀二(一五七二)年十二月、正木時茂から木原(山武市木原)の宍倉氏へ宛てられた書状の「先年酒井左衛門尉ニ椎崎領相渡刻」という文言から、椎崎領と密接な関係にあったことがうかがわれる。
胤貞はこのほかにも、「御血判之儀(74)」について憲秀に質問しているが、憲秀は全く心配することはないと返答している。胤敏がまだ血判誓紙の交換をしていないことへの不満だろうか。また、次の合戦時には「御両所之内御一人御越」を依頼している。この「御両所」とは胤貞と子息の胤栄(十四歳)と思われる。最後に憲秀は胤貞に対して「少も不可存無沙汰意趣」ことを訴えており、最後に「高下、酒左ニ此上者御入魂可然存候之事」と、高城下野守、酒井胤敏との協調を依頼した。
一方、五月中旬に反北条氏の兵を挙げた土気酒井胤治は、一貫して北条方として里見氏や正木氏と戦ってきた人物であったが、国府台の合戦ののち、「不忠之仁」と扱われ、「忠信之某無心扱共更不及耐忍」と鬱積の中で、里見方についた。これを知った北条氏政は土気攻めを決定し、翌永禄八(一五六五)年二月十二日、土気城に攻め寄せた。土気攻めには胤貞の「臼井衆」が参戦しており、十二日の戦いでは「原弥太郎、渡辺孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎、鈴木」ら五十余人ばかりが討ち取られた(75)。この土気攻めに胤貞自身が参陣したかは不明だが、松田憲秀が胤貞に示した「来調儀」は時期的に土気攻めと思われるため、「御両所之内御一人御越」とある通り、胤貞(胤栄も同陣したとすれば初陣の可能性も?)が参陣したと思われる。
翌十三日には胤治の「愚息左衛門次郎(康治か)」の手勢によって「左衛門尉(胤敏)」勢の「河嶋新左衛門尉、市藤弥八郎、早野、宮田」ら百余名が討たれている。胤貞や胤敏はいわば身内同士で合戦を強いられた形となった。しかし、一方の土気酒井胤治も里見氏に救援を求めたものの「就中房州御手前折角故、当城へ一騎之合力も無之候」という有様で、二月十八日、上杉輝虎の側近河田長親へ宛てて、「早々金へ被寄 御馬候様頼入候」と小金城を攻めるよう依頼している。結局、この籠城戦は胤治方の勝利に終わったようで、胤治は生き残った。
そして十二月、上杉輝虎は「総州へ想定之上、可令動座」という里見義堯や、上総へ逃れていた古河公方足利藤氏(晴氏の子)の要請に応えて、再び越後国から関東へ軍を進めた。
翌永禄九(一五六六)年二月、上杉勢の北条高広、直江景綱、河田長親が日蓮宗長谷山本土寺(松戸市平賀)に制札を発給している(76)ことから、高城氏の本拠・小金城はこの時すでに上杉勢の手にあったと思われる。そして、三月三日、守谷城(茨城県守谷市)の相馬治胤が輝虎の「御旗本人々」へ「就中此度金御近陣之上、以代官人数立上申」るとともに鹿毛一頭を進上しており(77)、輝虎自身が小金城周辺へ着陣していた様子がうかがえる。
そして三月九日、上杉勢は臼井城を包囲した。このとき船橋の皇太神宮(船橋市宮本)に河田長親が制札を出しており、船橋にも上杉勢が駐屯していたことがわかる。
永禄九年の越山(関東出兵)には結城晴朝や小山秀綱ら関東の諸大名が軍勢催促に応じており、臼井城を攻めたのは上田勢・結城勢・足利長尾勢・房州衆・酒井胤治らが確認できる(78)。結城晴朝は臼井旧主・臼井久胤を臼井城に戻すべく久胤を陣に加えていたという伝もある(79)。
昼夜を問わない連日の攻勢に、三月二十日には「臼井之地実城堀一重(80)」という状況になるが、原氏指南・松田憲秀の従兄弟である松田康郷が救援として臼井へ籠城、千葉介胤富も派兵したことで耐え抜き、三月二十三日の戦いでは「房州人衆三百余人打死(81)」のほか、多くの寄手を打ち破るという勝利を得る。そして輝虎のもとへ届いていた新将軍足利義秋の和睦・上洛要請もあり「廿三之晩景、越衆少々相移」り、三月二十五日、上杉勢は撤兵した。
 臼井合戦から二か月後の五月十五日、胤貞は上総国八剣神社司・八剣左門に対して祈祷書の請取状を出し(82)、六月十二日に上総国真里谷の曹洞宗大倉山妙泉寺(木更津市) へ(83)、八月十五日には高谷延命寺(袖ヶ浦市)に判物(84)を与えている。この頃には上総国真里谷周辺は原氏の支配下にあったとみられる。
 ところが、翌永禄十(一五六七)年八月、北条氏は里見氏の押さえのために築いた西上総の三船山城を里見勢に奪われた(三船山合戦)。これにより胤貞は西上総から撤退し、本拠も小弓からより内陸の臼井へと移したのだろう。
永禄十二(一五六九)年二月中旬、里見勢は西上総を足掛かりに江戸湾岸を攻め上り、「松戸市川迄相散」っており、原氏や高城氏と交戦したと思われる。この急報を受けた北条氏康はただちに「其地へ加勢之衆、江戸衆申付」ている。ただ、里見勢は二十六日にはこの地を「引退」いて、「臼井筋之郷村」へ放火しており、おそらく臼井城にいた胤貞とも交戦したと思われる。里見勢は二十八日には上総国椎津城へ帰還しており、本格的な下総侵攻ではなかったとみられる。
このような中で、武田氏との対峙という共通理念のもと、六月に上杉輝虎と北条氏康との間で同盟が結ばれることとなる。この同盟を受けて、輝虎は里見氏と両総の支配に関する交渉を行った。まず「上総之儀ハ、一向互ニ不被申候」とし、里見氏の領有に異議はないこととする一方で、下総については「愚老異見之分ハ、氏政へ令異見、下総可相渡候、千葉方原両酒井高木以下、其儘城々ニ被指置、下総之証人愚老ニ可取預由(85)」と提案した。予てから氏康は里見氏との和睦を願っていたが、里見氏はこれを取り合わなかった。そのため、氏康は輝虎と相談し、下総を「相渡」という条件を出して和睦を進めようと画策したと思われるが、千葉氏、原氏ら里見氏の敵対勢力は温存され、「証人」も輝虎預かりという形ばかりの「下総可相渡」であったため、義弘は拒絶し、さらに輝虎にも言いがかりをつけている。
その後の胤貞の動向は伝わらないが、元亀元(一五七一)年八月、里見勢によって「大弓」が攻め落とされており(65)、永禄十二(一五六九)年以降、一旦は胤貞が小弓を奪還していたのだろう。戒名は震岳(3)、道岳(56)。

 胤貞はもともとは牛尾家を相続しており、天文19(1550)年11月23日の妙見菩薩の金剛授寺への遷宮式にあたり、「牛尾孫次郎胤貞」「大檀那新介平親胤」「原式部太夫胤清」と並んで神馬などを寄進している(『千学集抜粋』)

 永正年から天文年ごろの下総国は足利高基(古河公方)と足利義明(小弓御所)との間で抗争が起こると、千葉宗家および原氏は古河公方・足利高基に味方して小弓公方と対立していた。そんな中で足利高基が「千葉介殿(千葉介昌胤)」へ宛てた年未詳11月27日の書状に、「臼井不忠千代未聞候」と見える部分があり、佐倉城の前線基地である臼井城主・臼井景胤が小弓公方側について、高基や千葉介昌胤と対立関係にあった様子が見える(『渡辺正胤氏所蔵文書』:「千葉氏 室町・戦国編」所収)。また、同文書には「昌胤并海上、原其外令供奉候、感悦候」とあり、千葉介昌胤や海上氏・原氏らは高基方で活躍していたことがうかがわれる。この「海上」とは当時、海上家に養子に入っていたと思われる昌胤三男・胤富(当時十二、三歳か)を指すものか。

 天文7(1539)年10月7日、義明が国府台の戦いで戦死すると臼井も降伏したか。その後、臼井城は原氏に与えられることとなるが、旧領主・臼井氏は平安時代後期から四百年もの間、臼井庄に繁栄していた大族であり、原氏の支配は容易に進まず、胤貞は娘(原上総介胤定息女)を景胤に嫁がせ、縁戚になったと伝えられている。その後、胤貞は本拠地である小弓城へ戻ったか。

臼井城
臼井城本丸より印旛沼を望む

 天文24(1555)年6月23日、八幡庄の中山法華経寺に対して胤貞の名で寺領安堵状が出されている。つまり、八幡庄の原氏領の進退権を得ていると思われることから、このころ胤清から家督を譲られたと思われる。同年10月10日、長年の宿敵・正木左近大夫時茂が千葉に乱入してきたため、胤清・胤貞が主導で行う千葉介親胤の元服式が延期され、実際に行われたのは12月23日となった。このころの小弓原氏は側近の筆頭としての地位を確立していた。

 弘治3(1557)年10月15日、臼井景胤は病死したが、死ぬ直前に嫡男・久胤に対して、「小弓城の原胤貞をここに招いて土地を守れ」と遺言をしたという。久胤は遺言通り、胤貞を招いて臼井城の本丸を明け渡したというが、胤貞も久胤のための館を城門のそばに建てたと伝えられる。その後、胤貞は臼井で善政を敷いたために、本来の領主である久胤の影は薄くなってしまったという(『原氏略記』)

 天文24(1555)年の正木氏の下総乱入以降、上総と下総では原氏と正木氏の争いが続き、永禄3(1560)年12月24日、長尾景虎太田資正(岩槻城主)に対して、原氏と正木氏の争いを鎮めるよう命じている。この頃、景虎は主筋に当たる関東管領家・上杉憲政に依頼されて北条氏康攻めのために出陣しており、このときは上野国厩橋に駐屯していた。

 長尾景虎と正木氏とは「雖遠境候、年来別而申通之間」であり、「原方迩可存替覚悟毛頭無之候」であると申し伝えている。つまり、関東の静謐を求める長尾景虎は、原胤貞正木時茂の和睦を勧める一方で、このことは別に原胤貞に味方をしているわけではないということを正木氏に伝えているのである。

 永禄4(1561)年2月、長尾景虎は小田原城に向かって出陣したため、北条方であった胤貞は下総国の守備のために上総国から軍勢を戻さねばならなくなり、正木時茂はこの隙を突いて上総国を制圧。さらに里見義堯・義弘正木時忠の水軍を指揮して武蔵国六浦に渡り、長尾景虎の小田原包囲網の一翼を担った。

小弓城
小弓城址

 正木時茂はさらに上総から下総へ侵入し、千葉氏の本拠地をつぶす作戦に出た。時茂は東下総から侵入して香取郡を荒し、胤貞の守る臼井城にも攻め寄せ、臼井城は陥落した。このとき、臼井城旧城主・臼井久胤は城を逃れて結城氏を頼ったという。

 胤貞は嫡子・原十郎胤栄が籠る小弓城に逃れたが、時茂は小弓城も攻め落とし、胤貞・胤栄佐竹義昭と対陣していた千葉介胤富のもとに逃れた。時茂はこののち鎌倉へ渡って里見義堯と合流している。

 一方、長尾景虎主導の小田原包囲網であったが、長滞陣による兵糧不足のために失敗し、景虎は鎌倉に退いた。ここで景虎は閏3月16日、鶴ヶ岡八幡宮にて上杉憲政から「関東管領」「上杉家督」「家紋」「系図」を譲られて「上杉政虎」を称することとなる。

政虎の「政」は憲政からの偏諱である。

 政虎は足利晴氏(北条氏に捕らえられて相模国波多野で病死)の遺児のうち、嫡男・足利藤氏(将軍・足利義藤の偏諱で元服)を新たな古河公方として擁立し、関宿城の簗田晴助(中務大輔)をその後見に任じた。また、上杉憲政(前関東管領)・近衛前久(前関白)も古河城に入れると、自らは越後へ帰国した。

 しかし、この翌年には北条氏の勢力が上杉勢を凌いで攻勢となると、政虎が擁立した古河公方・足利藤氏の籠もる古河城は風前の灯となる。このため、足利藤氏、藤政、輝氏ら兄弟は里見氏を頼って上総へ逃れ、上杉憲政・近衛前久も越後の政虎を頼った。こうして北条氏康は自分の外孫にあたる足利義氏(藤氏の弟)を新たな古河公方に推戴し、上総国佐貫城へ「移座」が実行された。北条氏の勢いが盛り返すと、原胤貞も里見勢が籠もっていた生実城に猛攻をかけて奪還に成功した。

 里見義弘は上杉勢が越後に退くと、北条氏の攻勢に耐えられず、苦労して手に入れた下総・上総の占領地を放棄して安房国岡本城に退いた。しかし義弘の抵抗は続いており、安房水軍を動かして相模国三崎に攻撃をかけている。北条氏にも伊豆水軍など強力な水軍があり、氏康は水軍を動かして撃退。龍崎縫殿頭兄弟三人の他、二十人が討ち取られたという。

 永禄6(1563)年、上杉輝虎(将軍・足利義輝の偏諱にて政虎を改名)はふたたび関東に出陣。古河城を落として、里見氏の庇護下にあった足利藤氏を古河城に戻した。しかし、輝虎は世情不安定な越後を長い間留守にして関東に常駐するわけにはいかなかった。上杉勢が関東から去ると、当たり前のように古河城は北条氏によって落とされ、藤氏は小田原に拉致されてしまう。これを聞いた輝虎は、ふたたび関東に出陣し、12月27日、里見氏に対して出陣を要請した。これに応じ た里見義弘は、永禄7(1564)年1月、下総国国府台(市川市国府台)に出陣したが、北条勢の猛攻によって里見勢は壊滅。里見氏はここに下総・上総の拠点をすべて失った。

●関東の情勢●

北条氏康 × 上杉政虎
北条氏康(小田原城主) × 上杉政虎(関東管領)
足利義氏(晴氏弟) × 足利藤氏(古河公方)
   上杉憲政(前関東管領)
千葉介胤富(下総佐倉城主) × 里見義弘(安房館山城主)
原胤貞(下総臼井城主) × 正木時茂
原胤栄(下総小弓城主) × 正木時忠(上総勝浦城主)
高城胤辰(下総大谷口城主) × 佐竹義昭(常陸水戸城主)
酒井胤敏(上総東金城主) × 酒井胤治(上総土気城主)

 胤貞は1月11日、正木氏の手にあった臼井城を攻め落とし、旧領を奪還した。第二次国府台の戦いには千葉介胤富原胤貞高城胤辰らが北条氏康に味方して里見勢に攻撃をかけている。

 永禄8(1565)年2月、胤貞は酒井胤敏(東金城主)を率いて、上杉輝虎に内応した土気城主・酒井胤治を攻撃しているが、原氏はこの戦いで「原弥太郎・渡邊孫八郎・大畑半九郎・大厩藤太郎・鈴木某」など五十人が討ち取られている。また、胤治の子・酒井左衛門二郎は、酒井宗家である酒井胤敏を攻撃し、「河嶋新左衛門尉・市藤(市東?)弥八郎」など百人を討ち取ったという。こののち、酒井胤治の援軍要請に動いた上杉輝虎は再び関東に出陣し、胤貞の居城・臼井城を囲んだ。北条氏はこの原氏の危機に対して、松田肥後守の大軍を遣わし、千葉介胤富も五百の兵を派遣。臼井城も守りが堅く、上杉勢はこれを落とすことなく、将軍・足利義秋の命によって越後へ退却した。

下総酒井氏略系図(一部想像)

       土岐光行                           <土気酒井氏>
         ∥―――光定―教国―浜康持―満持―+―康慶       +―酒井定隆-定治-胤治-康治-重治
 千葉介頼胤―+―娘                |(豊後守)     |
       |                  |          |<東金酒井氏>
       |                  +―春利(=治敏?)―+―酒井隆敏-敏治-敏房-政辰-政成
       |                   (式部少輔)
       |<下総千葉氏>                 
       +―胤宗――貞胤―氏胤―満胤――兼胤―――胤直――胤将

 同年5月15日、上総国八剣神社司・八剣左門に対して祈祷書の請取状を出している。また永禄9(1566)年6月12日、上総国真里谷妙泉寺に寺領安堵状を与えている。つまりこの頃には上総国真里谷から八剣神社(木更津市)周辺は原氏の所領であったと考えられる。これは第二次国府台の戦いの敗北によって里見勢が上総から撤退したことを意味するものであろう。

●参考資料●

『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者―  浜名敏夫著


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