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安東氏世(????-????)

 父は東下野守益之。母は源氏。官途は遠江守(はじめは右馬助か)。名は「うじとし」か。東下野守常縁の異母兄にあたり、歌人でもあった。

 あるとき、幕府政所の伊勢真蓮入道は、すでに出家していた東下総氏数入道素欣申次衆に加えようとしたが、氏数は自分は法体であり、子も幼いとして固辞したが、認められなかったため、弟の安東氏世が代わりとして申次衆となった。

 氏世が安東氏を継いだ理由は『蔭涼軒日録』長享元(1487)年12月14日条に記されているが、昔、安東某赤松伊予守(赤松伊予守義雅)と争って殺され、断絶してしまったためである。このとき幕府は安東某の弟・に還俗して家督を継ぐよう命じたが、はこれを拒否し、「我が安東家はすでに断絶したが、東之舎弟を養子として安東家を再興させたい」という旨を幕府に願い出て認められ、氏数の弟・氏世が安東家に入り、申次となった。しかし、後に安東右馬助(政藤)が伊勢伊勢守貞宗と談合して申次となった。この談合について、氏世の弟である正宗龍統「天下曲事也」と批判している。

 氏世は安東氏を継いだころ、安東右馬助を称していたのかもしれない。建仁寺の喝食であった「龍珠」「東右馬助」の子であったという。この「龍珠」は建仁寺霊泉院の正宗龍統「俗姪」であり、安東氏世は正宗龍統の兄にあたる人物である。正宗龍統の兄弟で俗体であったのは、長兄の東下総守氏数、次兄の安東遠江守氏世、三兄の東左近大夫常縁の三名だけであり、氏数は「右馬助」を称しておらず、三兄の常縁については「誤云左近大夫子也」と明確に否定されている。氏世が継いだ安東家は「右馬助」を称する子孫があり、おそらく氏世は安東家を継いだとき「右馬助」に任官し、その後「遠江守」となったのだろう。

 後世、安東右馬助が申次に加わったのは、『長禄二年以来申次記』によれば文明18(1486)年2月17日であり、永享年中(1429-41)にはすでに安東氏の家督を継いでいた氏世とは年代の開きがあり、『永享以来御番衆』詰衆番衆の四番に見える「安東遠江守」が氏世と思われる。安東氏世と安東政藤の系統がどのようにつながるのかは不明だが、『長禄二年以来申次記』伊勢守貞宗が記した文書には、「仍安東右馬助申次之事被尋下候、同名遠江守東山殿様御代始参勤之義勿論候、いかにもゝゝゝゝ可為上意之由、可得御意候」とあり、政藤は申次のことについて伊勢貞宗に問い、貞宗は安東遠江守が義政の時代に申次として初めて出仕したことを述べている。つまり、安東家における申次のはじまりは氏世であったと考えられ、安東右馬助は氏世の子孫であるのかもしれない。

 安東右馬助は『長禄二年以来申次記』によれば「薩摩守親泰息」であることがわかる。安東薩摩守は文明15(1483)年6月頃の義尚正室(日野勝光娘)の相伴衆に見える。そして長享元(1487)年9月12日『常徳院御動座当時在陣衆着到』の中に「安東右馬介」「同平次郎」「同平五」の名が見える。平次郎、平五は安東政藤の子か。

○安東右馬助家系譜

 安東親泰――政藤―――平六
(薩摩守) (右馬助)

 赤松伊予守(義雅か)と争って殺された安東某とはどのような人物だったのだろう。同時代の安東氏としては、応永19(1412)年8月15日、将軍・足利義持の八幡宮放生会参詣に供奉した安東二郎祐氏があり、「氏」という諱の一字から、氏世はこの祐氏の養子となっていたのかもしれない応永19(1412)年8月15日「八幡放生会供奉人」。応永28(1421)年11月27日、氏世の父・東益之の屋敷で大神宮法楽のために百首が詠まれたが、ここに出席した中に、隠居していた益之の父・東素果(師氏)と並んで「祐氏」という人物が見える。彼の名字は記されていないため不明だが、上記の「安東二郎祐氏」と同一の人物であれば、祐氏は東一家と交流をもっていたことが察せられる。

 赤松氏と安東氏の争いについては『常楽記』(『群書類従』第29輯雑部)「応永三十一年」条に、

 安藤 被殺害 
右京大夫入道亭酒宴席敵人赤松入道息自其庭逐電云々、

 裏壁 切腹 主人逐電了、代官ニ被切腹、而親入道可切之由、父子論之、親兄切之由、
其子又可切之由堅申也、仍二人不可然、親ヲバ留也、諸人泣哀涙云々、
比子末及弱冠腹切様又大強之者也、諸人哀惜之云々、安藤近習者也、
仍小番衆已下堅申鬱陶、仍令切腹云々、

 とあり、応永31(1424)年、「安藤」「赤松入道息」「右京大夫入道(細川満元入道道観)」で行われた酒宴でいさかいを起こし、「安藤」は斬られて殺害され、「赤松入道息」は細川亭から逐電したことが記載されている。また、『蔭涼軒日録』長享元(1487)年12月14日条に記されている「昔安東某為赤松伊予守被害」とは、この事件を指していると考えられる。「赤松入道息」とは赤松義則入道性松のことと思われ、その子・伊予守義雅安東二郎祐氏が争ったのかもしれない。康正2(1456)年『康正二年造内裏段銭并国役引付』(『群書類従』二十八巻所収)には「安東平左衛門尉」の所役と思われる「摂州中川原段銭 因州摂州両庄」が記され、さらに安東祐氏は諱に「祐」という字を有していることから、赤松氏と何らかの関係にあった人物かもしれない。また、安東氏は赤松氏と同様、播磨国に所領を有していたことが知られており、赤松伊予守義雅と何らかの因縁があったのかもしれない。

●赤松氏略系図(播磨・摂津・美作・播磨摂津・播磨美作備前・摂津美作・播磨備前美作摂津・備前播磨)

…―赤松則村―+―範資―――――光範
 (赤松円心)|(信濃守)  (信濃大夫判官)
       |
       +―貞範
       |(筑前守)
       |
       +―則祐―――+―義則――――+―満祐―――――教康
        (律師妙禅)|(左京大夫) |(左京大夫) (七郎)
              |       |
              +―義祐    +―義雅―――――性存――――政則――――義村――――晴政
               (出羽守)   (伊予守)        (左京大夫)(兵部少輔)(左京大夫)

 文安3(1446)年4月21日の畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会に、氏世と思われる「藤原氏世」が見え、このころにはすでに歌人としての才能を見せていたのだろう。そして文安5(1448)年2月23日、氏世の弟・常縁藤原氏保のために『定家仮名遣』を写し、奥書きを加えて与えている。これが常縁の活躍の初見だが、この「藤原氏保」なる人物は、宝徳2(1450)年3月頃に「或人の御方」から届けられた歴代勅撰和歌集選者の影絵・和歌常縁とともに見ている「氏泰」と同一人物かもしれない。

 また、のちに現れる安東薩摩守親泰や、安東蔵人泰職などは「泰」を通字として用いていることから、この氏泰は氏世の子供なのかもしれない。郡上郡には「氏保」を名乗った鷲見一族がいたが、鷲見氏保応永7(1400)年4月25日『鷲見彦五郎申状』にも見えるように、氏世の約半世紀ほど前に活躍した人物であり、おそらく常縁と接触を持った「藤原氏保」は鷲見氏ではないと思われる。

 文安6(1449)年7月末、「氏世」は弟の常縁に、室町御所で行われた七夕の歌会について物語をしている。さらに9月17日にも「安東遠州」常縁のもとを訪れ、御番として詰めていた際に人から聞いた三井寺持仏院の歌会について語っている。10月中、「安東遠州」常縁に物語し、宝徳4(1452)年2月16日、氏世が東家を訪問したことが『東野州聞書』に記されている。常縁とは和歌を通じて深く交流していたことがうかがえる。

 宝徳3(1451)年2月18日の常光院堯孝法印が開いた北野天神での歌会に氏世は弟・常縁や甥・元胤(長兄・氏数の子)を連れ立って出席した(『東野州聞書』)。こののち元胤常光院の弟子となっており、病がちの長兄の東下総守氏数入道は、氏世や常縁に幼い元胤の教育などを託していたのだろう。

 氏世についての記述はその後見えなくなるが、文明18(1486)年2月17日『長禄二年以来申次記』伊勢守貞宗が記した「仍安東右馬助申次之事被尋下候、同名遠江守東山殿様御代始参勤之義勿論候」という言葉から、文明18(1486)年にはすでに亡くなっていたと推測される。

 東氏は美濃郡上郡を「本領」とするが、美濃北方城主・安東(安藤)氏とこの安東氏世の系統は同族か? 『山内家譜』によれば、山内一豊の姉・通姫(法雲院妙栄)は、「濃州北方之城主藤太郎左衛門郷氏 伊賀守ノ弟」に嫁ぎ、「北方殿」と号したとされる。郷氏は天正8(1580)年、兄の安東守就(伊賀守)とともに討死を遂げた。

 その嫡男・安東可氏(半左衛門)は天正13(1585)年頃、千石をもって叔父・山内一豊(近江長浜城主)に召し出され、慶長6(1601)年、山内家が土佐二十四万石を拝領すると、土佐宿毛城を預けられ、六千三百石を知行して「山内」の称号を賜り、「山内左衛門佐」と名乗った。

 幕末の山内氏理(主馬)は山内容堂(山内豊信)の妹・遊稀婿にあたり、その子・山内氏成(陽太郎)は嘉永4(1851)年に宿毛に誕生した。明治元(1868)年、会津攻めに従軍に越後口に転戦。明治政府が成立したのち、明治4(1871)年にはイギリスに留学して土木工学を修めた。明治時代になり、安東氏から伊賀氏へ改め、男爵を叙爵した。

 氏成男爵には男子がなかったことから、山内容堂の弟・山内豊盈の子・勇男を養子とし、彼は伊賀氏広を名乗り、岩村高俊の兄・通俊の娘を妻とした。

+―安藤守就―――――尚就―――――忠四郎
|(伊賀守)

+―安藤将監  【佐川領主】
|(蒲生将監)  深尾重良
|       (山内和泉)
+―安東郷氏    ∥
 (太郎左衛門)  ∥====重昌――――重照―――重方――繁峯――――茂澄――――繁寛
  ∥    +――娘   (出羽)  (因幡) (若狭)(平右衛門)(因幡)  (平右衛門)
  ∥    |
  ∥    |【宿毛領主】
  ∥――――+―山内可氏――+―定氏―――+―節氏――倫氏―+―晴氏―――+=氏興====氏篤==保氏―+―氏睦==氏 固
  ∥     (左衛門佐) |(左衛門佐)|(源蔵)(蔵人)|(靫負)  |(半左衛門)(源蔵)(兵衛)|(源蔵)(太郎左衛門)
  ∥            |      |        |      |              |
+―通姫           +―よめ   +―郷定     +―氏興   +―氏篤           +―氏固
|(法雲院妙栄)         ∥     (伊束)     (半左衛門) (源蔵)           (太郎左衛門)
|                ∥
|                ∥――――――市
|                ∥      ∥
| +―野中氏――――――――野中直継     ∥
| |           (玄蕃)      ∥
| |                     ∥
| +―野中氏                 ∥
|    ∥―――――――――野中良明―――――良継:兼山
+――――娘                 (伝右衛門)
|        
|         
+―――山内一豊
     ∥――――+―与祢姫
     ∥    |
   +―娘    +=大通院湘南
   |(見性院)  (妙心寺百十四世)
   |
   +―遠藤慶隆
    (左馬助)

 『山内家譜』に見える「伊賀守」とは安東伊賀守こと安東守就のことである。ただし、守就は『伊賀氏系図』によれば伊賀伊賀守定重の嫡男で、守就も伊賀伊賀守を名乗ったとされ、その祖は藤原秀郷流の伊賀氏出身とされている。のちに安東氏を名乗った守就は、美濃国大野郡から北方城へ移ってきたとされ、美濃三人衆(安東守就・氏家卜全・稲葉一鉄)と呼ばれるほどの勢力を有した。土岐氏、斎藤氏に仕え、織田信長が美濃を領すると、その部将として活躍した。しかし天正8(1580)年、嫡男・安東尚就が武田氏に内通したと疑われて所領を没収され、守就は武儀郡谷口村へ移った。そして天正10(1582)年6月2日、京都本能寺において信長が明智光秀に討たれると、旧城の北方城を占領して旧領を回復したが、もと同僚の稲葉一鉄入道に攻められて討死を遂げた。

 『新撰美濃志』によれば、安藤守就・安藤七郎守重兄弟ならびに尚就の子・忠四郎(守就の孫)はすべて北方城において討死を遂げたとされ、守重の妻は「山内対馬守一豊の姉也、其縁を以て七郎の子孫は土佐高知にあり」とされている。安藤七郎守重と『山内系図』の安東太郎左衛門郷氏は同一人物と考えることができる。

 美濃の安東氏については、『常徳院御動座時在陣衆著到』には「濃州 安藤右京亮」なる人物が記されている。これより以前の応永7(1400)年4月25日『鷲見彦五郎申状』の中に、鷲見彦五郎郡上郡鷲見郷内の地頭職を争った「安東三郎」があった。安東守就はこの「安藤右京亮」と同じ流れの美濃安藤(安東)家を継承したのだろう。しかし、守就のもう一人の弟・安東将監も「安東」を称しており、兄弟すべてが「伊賀」から「安東」へ名字を改めることはないと思われるので、もともとは伊賀氏ではなく安東氏であったのではないだろうか。

 『南路志』の中で、享保15(1730)年3月27日、落合公実山内半左衛門氏興(六代領主)に先祖書きについて問うている件がある。

〔問〕 伊賀守様の名は「友郷」とも「定次」とも見えるが、どちらが先に名乗った名か?
〔答〕 初めが「定次」、のち「友郷」を名乗った。
⇒この「伊賀守」とは安藤伊賀守こと安藤伊賀守守就(定次・友郷)のこと。
   
〔問〕 伊賀守様、太郎左衛門様などの父君、祖父様、曽祖父様までの仮名・実名を知りたいのでご存知であればお教え願いたい。
〔答〕 友郷・郷氏の父は「安藤藤太郎時郷」で、出羽守・伊賀守を称した。妻は稲葉伊予守一鉄伯母。
友郷・郷氏の祖父は「安藤出羽守輝郷」で、のち伊賀守を称した。妻は梶原氏。山内盛豊の妻の妹(伯母とも)。
友郷・郷氏の曽祖父は実名・仮名ともに不明。

 土佐藩『先祖書覚 御家老一』「安東太郎左衛門子 山内左衛門佐可氏」の項目には、「姓橘氏、安東累代美濃国本巣郡豊原之北方七間城主」とあるように、安東家は「橘姓」を称していたことがわかる。

 安東可氏の弟・安東将監は早くに入道して「安東宗斎」を称しているが、滝川左近将監一益に仕えて還俗。「安東将監」を名乗り、さらに蒲生氏郷に仕え、秀吉の九州攻めにも従軍した。この時の戦功によって「蒲生」姓を与えられて「蒲生将監」と改め、奥州大崎・葛西一揆を鎮圧する際には五番手を任され、九戸政実の乱では七番手として出陣している。また、会津蒲生家では六千石を食む大身旗本となっている。

●安東氏系図●

        山内盛豊              +―安東可氏
       (但馬守)              |(藤太郎)
         ∥―――――山内一豊       |
   梶原氏―+―娘    (亥右衛門)      +―安東次左衛門
       |                  |
       |       北方殿        |
       +―娘      ∥―――――――――+―娘
         ∥      ∥          (毛利源吾妻)
         ∥      ∥      
  安東輝郷――安東時郷―+―安東郷氏―――――――+―娘
 (伊賀守) (伊賀守) |(太郎左衛門)     |(深尾和泉重良妻)
   ∥         |            |
   ∥         +―安東友郷       +―娘
 +―娘          (伊賀守)       |(乾彦作和信妻)
 |              ∥         |
 |              ∥――――安東郷良 +―娘
 |              ∥   (平左衛門)|(広瀬惣兵衛妻)
 |              ∥         |
 |       蒲生賢秀―+―娘         +―安東郷利
 |            |           |(右衛門)
 |            |           |
 +―稲葉通則――稲葉長通 +―蒲生氏郷      +―安東郷春
        (一鉄)   (忠三郎)      |(勘左衛門)
                          |
                          +―細野知郷
                          |(半介)
                          |
                          +―安東郷和
                          |(七郎)
                          |
                          +―長井定郷
                          |(次郎左衛門)
                          |
                          +―安東賢郷==蒲生郷忠
                          |(将監)  (半兵衛) 
                          |
                          +―娘
                          |(木下勘解由妻)
                          |
                          +―娘
                          |(竹中半兵衛重治妻)
                          |
                          +―安東郷純
                          |(與三衛門)
                          |
                          +―娘
                          |(遠藤但馬守慶隆妻)
                          |
                          +―蒲生郷忠
                           (源次)

●『蔭涼軒日録』-長享元年12月14日条-(「白次」とは「もうしつぎ」)

 ・・・及帰霊泉正宗和尚来云、妙■■領美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣、彼代官職事、自寺家有契約者、自他可然事也如何、愚云、相尋寺家一左右可白云々、愚話正宗云、室町殿白次、安東右馬助勤之、桃井殿■■之云々如何、正宗云、我族也、与千葉同氏、平氏也、為伊勢守為敵流、以故於高倉御所、古伊勢真蓮入道為白次、時法体也、其子幼稚也、雖固辞不允、不能免、其弟為代為白次、其人会為安東被養、安東者藤氏也、名字姓氏、与格別者也、為養子謂者、昔安東某為赤松伊予守被害、無正体之故不被立御子孫、えん其弟也、以故還俗而可続其家之由雖督之、九峻拒而不就也、其後云、我一家已断絶了、願賜東之舎弟為我養子、可興安東家、於爰東之舎弟為安東其人為之代為白次、興安東■各別也、然於安東右馬助、掠公儀相話伊勢守為白次、天下曲事也、雑話移剋、専為賛詩礼謝来也云々、建仁寺進上折紙銭之事話正宗・・・

明徳3(1392)年6月3日『将軍家御教書』(『長善寺文書』)

 鷲見中務少輔入道禅峯申、美濃国郡上郡内鷲見郷河西河東地頭職事、
 申状具書如比、早逮伊賀彦十郎時明違乱、全禅峯執達如件
 
   明徳三年六月三日     右京太夫(書判)
 
     土岐刑部少輔入道殿
 

応永7(1400)年4月25日『鷲見彦五郎申状』(『郡上藩家中記録』)

 美濃国郡上郡内鷲見郷河西河東地頭職事申状、具書如比、
 早止安東三郎競望、可致全氏保所務之由所仰下也、仍執達如件
 
   応永七年四月廿五日     沙 弥(書判)
 
     土岐美濃入道殿

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