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顕彰会のご紹介 |
千葉氏は平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も大変に長く、一族も膨大な数にのぼる。彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。
下総の千葉介は天正18(1590)年の小田原合戦で滅亡、奥州の相馬氏ならびに美濃の東氏(遠藤氏)は江戸時代になって、それぞれ大名家に取り立てられた。
▲△▲貴重な情報を下さった皆様に御礼申し上げます▲△▲
■鎌倉時代の千葉一族■
千葉介常胤、上総介広常、千葉胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、上総介秀胤
■室町時代の千葉一族■
千葉介貞胤(下総)、千葉胤貞(肥前)、東常縁(古今伝授の宗家)など
■江戸時代の千葉一族■
相馬利胤(中村藩主)、遠藤慶隆(郡上藩主)、伊達安芸(仙台藩士)、下斗米将真(南部藩士)、平田篤胤(久保田藩士)など
■明治時代の千葉一族■
●千葉宗家の「四天王」
1.原氏 2.鏑木氏 3.木内氏 4.円城寺氏 |
千葉氏の筆頭家老。小城千葉氏の分流と思われる。室町中期に宗家から独立した。 千葉氏の家老。千葉介胤正(鎌倉初期)の九男・白井胤時を祖とする。 千葉氏の家老。千葉介常胤(鎌倉初期)の六男・東胤頼の子・木内胤朝を祖とする。 千葉氏の家老。原氏と同族だが、原氏とは常に対立し、勢力を二分した一族。 |
「元寇」が起こったために、鎌倉幕府の命令で九州に領地を持つ御家人が九州に招集された。このとき、肥前国小城郡(佐賀県小城市)に領地を持っていた千葉介頼胤も九州へ下向し、土着したのが始まり。肥前国随一の大大名となったが、室町時代以降に台頭してきた大内氏や少弐氏、龍造寺氏の干渉を受け、さらに家督争いによる内紛でその勢力は急速に衰退。龍造寺氏に取り込まれたのち鍋島氏に一族として迎えられ、子孫は佐賀藩士となった。
奥州藤原氏との戦いで功があった千葉介常胤が奥州各地に領地を賜ったのが始まり。千葉宗家から分流したと思われる奥州千葉氏は現在も東北地方に繁栄している。下記はその代表的なもの。
●千葉介頼胤 | 千葉五郎兵衛晴胤の子とも千葉介常胤の別名とも千葉新介胤正の別名とも。 |
●千葉右兵衛佐胤親 | 相馬貞常の子の角田常親か?千葉介胤正の娘を迎えて胤親と改名している。 |
●千葉越前守泰胤 | 千葉介胤正の子の泰胤か?故あって兄の成胤の養子となっている。 |
●千葉甲斐守胤常 | 胤親の孫か? |
承久の乱で功があった東胤行は、美濃国郡上郡に領地を賜って、その子・行氏が赴いたことに始まると伝わる。行氏は歌人として大成、子孫も代々二条流の歌人として名高く勅撰和歌集に撰ばれている。
東下野守常縁は「東野州」と呼ばれ、多くの歌道書を残す。さらに『古今和歌集』の解釈の奥義を「切紙」という紙に遺して伝える「古今伝授(切紙伝授)」という方式を考案した。常縁は飯尾宗戯など、名歌人と謳われた人物の師匠であり、彼に古今伝授したものが公卿・三条西実隆に伝えられ、また一流は細川幽斎に伝えられている。
常縁の子孫(美濃東氏当主)も歌人であったが、それほど大きな歌壇にならず、最後の当主・常堯は一族の遠藤盛数の謀叛に敗れて追放され、郡上東氏は滅亡した。
常堯を追放した盛数は、常堯の姉を妻としており、その子・遠藤慶隆は東氏の旧領を継承。彼は謀将として知られ、関ヶ原の戦いで東軍に味方して郡上藩主遠藤家の祖となった。遠藤家は江戸時代中期、当主が夭折して改易となるが、先祖の功績によって再興が許され、将軍家と所縁の深い旗本・白須家から養嗣子が入り、近江三上藩主、ついで和泉吉見藩主となって明治時代に至る。明治時代、子爵・遠藤胤城は勅許を得て名字を「東」と改めた。
千葉介常胤の次男・相馬師常が奥州藤原氏を討った功績により、奥州行方郡を与えられ、相馬氏に代々継承された。鎌倉時代後期、相馬一族の相馬重胤と相馬惣領家・相馬胤氏との相馬郡・行方郡をめぐる争いに、北条得宗被官・長崎氏が介入し、重胤は下総国相馬郡増尾から行方郡太田村(現在の太田妙見社)に移ったのが始まりと伝わる。
南北朝時代は北朝側(足利氏方)に属したため、南朝方の陸奥国司・北畠顕家の猛攻を受けて、居城の小高城を攻め落とされ、滅亡の危機に直面したが、足利方の援護によって勢力を回復。室町時代には芦名氏・伊達氏と肩を並べる戦国大名に発展した。江戸時代にいたっては中村藩六万石の大名となり、十万石格の鳥毛纒を許されていた。
●下総に発展した領主クラスの千葉一族
氏族名 | 説 明 |
臼井原氏 | 千葉氏の筆頭家老。千田庄では円城寺氏と常に対立した。千葉介と比肩するほどの権力を持つ。 |
佐倉原氏 | 臼井原氏の庶流で、千葉介の側近。森山原氏と並んで室町末期の千葉氏を支えた。 |
森山原氏 | 臼井原氏の庶流で、千葉介の側近。室町末期、千葉氏を乗っ取ろうと画策する北条氏と激しく対立する。 |
円城寺氏 | 原氏の一族で千葉介の側近。 小城千葉氏・武蔵千葉氏の重臣にも名を見せている。 |
粟飯原氏 | 下総国北東部に古くから栄えた一族。嫡流は千葉宗家から分流し重臣となる。 |
大須賀氏 | 下総国北部の大豪族。千葉介常胤の四男・大須賀胤信を祖とする。千葉介の代官などをつとめた。 |
国分氏 | 下総国北部の大豪族。千葉介常胤の五男・国分胤通を祖とする。大須賀氏とともに千葉介の代官をつとめた。 |
下総東氏 | 東総の大名族。千葉介常胤の六男・胤頼から代々東庄を所領として栄えた。小田原の陣で滅ぶ。 |
海上氏 | 東総に栄えた東氏の一族。辺田海上氏は森山原氏とともに森山城に詰めて、常陸国に備えた。 |
下総相馬氏 | 下総国相馬郡北部に栄えた一族。もともとは相馬氏の惣領家の末裔である。 |
高城氏 | 下総国最西部に所領を持つ、元原氏の家老。原氏の庶流ともいわれているが、詳細は不明。 |
木内氏 | 下総国中部に所領を持った一族。東胤頼の子・木内胤朝を祖とする。千葉氏の家老をつとめた。 |
白井氏 | 下総国中部の白井庄の豪族。 鎌倉中期の白井胤時が千葉宗家の惣領代をつとめた家柄。鏑木氏とは同族。 |
井田氏 | 下総と上総国境の坂田城を本拠に一大勢力を築いた一族。椎名氏・三谷氏を被官化する。 |
押田氏 | 下総国匝瑳郡八日市場を本拠に一大勢力を築いた一族。椎名氏を滅ぼして匝瑳郡を支配する。 |
千葉氏は桓武天皇の孫にあたる平高望の五男・平良文の子孫。その孫・平忠常は房総半島を中心とした一大反乱「長元の乱」を起こしたことで有名 な人物。その子供たちは罪を許されてのち、父が荒らした房総半島を開墾して、武士団を形成していくことになった。千葉氏は両総に栄えた両総平氏の一流である。
源頼朝が打倒平家の兵を挙げたものの、相模国石橋山の戦いで大庭景親・伊東祐親入道らに敗れて房総へ落ちのびてきた際、舅の北条時政の進言で上総権介広常の助けを借りることにしたが、下総国千葉庄の千葉介常胤にも援助を求めた。常胤は頼朝からの使者・藤九郎盛長をむかえ、一族を挙げて味方すると宣言したという。
1.千葉氏は源家に従属した過去があった。
2.六男・六郎大夫胤頼は頼朝と同様に上西門院に仕えた過去があった。
3.子(猶子?)の律静房日胤が頼朝御持僧を務め、以仁王の挙兵に加わって平家方の検非違使に討たれている。
4.平家方の千田庄領家(千田庄判官代)藤原親政との対立(千田庄の本家は平盛子か)
常胤は頼朝の信任を得て、常胤は頼朝の信任を得て、平家討伐戦に一族を挙げて参加し、奥州征伐の功で「陸奥国五郡」内に地頭職を与えられた。「陸奥国五郡」とは、「伊具」「亘理」「宇多」「行方」「磐城」の五つの郡のことをさす。
千葉氏は奥州に進出した一族もあって、現在でも東北地方に千葉氏は多い。おそらく奥州合戦ののち、千葉介胤正の所領へ派遣された代官の末裔か。また、奥州の大族・葛西氏は千葉氏と並んで下総国の代表氏族であったが、惣領家は奥州に下向して発展。奥州千葉一族はおもに葛西氏の被官人として栄え、大原千葉氏は葛西氏筆頭の重臣となっている。
文永9(1272)年、元寇を予測し、鎌倉殿は九州の防衛のために九州に地頭職を有する御家人に対して博多沿岸の防衛を命じた(異国警固番役)。千葉家も肥前国小城郡に領地があったため、千葉介頼胤は下総国を嫡男・千葉太郎宗胤に託して九州へ下向していった。ところが、文永11(1274)年の元との戦いで矢傷を受けた頼胤は小城郡にて亡くなった。そのため、嫡子宗胤が代わって九州へ赴き、弘安4(1281)年の「弘安の役」後も異国警固番役は解かれなかったことから下総へ帰ることなく肥前国小城郡に根をおろした。宗胤の子孫は小城千葉氏の祖となるが、下総の千葉氏は宗胤の弟・胤宗が継承した。
時は南北朝のはしり、足利尊氏と朝廷との間に起こった紛争により、千葉介貞胤(千葉介胤宗子)は新田義貞=朝廷方に属したのに対し、千葉胤貞(千葉太郎宗胤子)は足利尊氏に属し、千葉を相馬親胤(陸奥行方郡小高城の相馬氏)とともに攻めている。宗胤と胤宗の嫡宗家をめぐる問題が、子の代になって表面化したと考えられる。
その後、千葉介貞胤は新田義貞が越前国に移動すると、それに従って下向していった。しかし、越前木芽峠において猛吹雪にまきこまれて進退窮まり、追手の足利高経(斯波足利家)に追いつかれてしまう。高経は貞胤に降伏をうながし、貞胤も「進んでも引いても死」と悟り、兵の助命を条件に足利方に降伏。その後、貞胤は足利方として活動した。
一方、千葉胤貞は大隅守に任じられ、その子孫は小城千葉氏・多古千田氏(下総国香取郡多古庄・葛飾郡八幡庄を拠点とする宗家庶流)として続き、小城千葉氏は肥前国の中心氏族として、少弐氏や大内氏と関わっていく。しかし、室町時代後期には小城千葉氏も勢力が衰え、新興勢力の竜造寺氏に飲み込まれていく。その後は竜造寺家の地盤を引き継いだ鍋島氏の重臣となって「鍋島」名字を名乗り、佐賀藩士として明治維新を迎える。
下総千葉氏は鎌倉・室町時代に下総国を支配し、一族の粟飯原氏は室町幕府の奉公衆となっている。しかし、京都将軍家と鎌倉殿との紛争に巻き込まれて、千葉惣領家の勢力は次第に衰退。室町末期には、相模国小田原を中心に勢力を広げた京都伊勢氏の流れをくむ小田原北条氏に吸収され、天正18(1590)年、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぶと同時に下総国主千葉氏は大名としての地位を失うこととなった。
江戸時代の剣豪・千葉周作成政は江戸の一刀流中西道場で修行し、家流の「北辰流」ならびに荒谷宿千葉家で伝受された「北辰夢想流」に一刀流を融合した「北辰一刀流」を創設。北辰一刀流の門下からは、坂本竜馬や伊東甲子太郎(新撰組)、千葉重太郎一胤など幕末の名士たちが輩出されている。
「北辰」とは北極星のことで、北斗七星とも同一視され、千葉氏の守護神「妙見菩薩」は北辰を神格化したものである。千葉周作は気仙郡出身の奥州千葉氏の一族。家紋は「月星」。「九曜」は日・月・火・水・木・金・土の七つの星に加えて、想像上の星である羅喉・計都のふたつを加えた九つをあらわす。
日…千手観音 月…勢至菩薩 火…虚空蔵菩薩 水…弥勒菩薩 木…薬師如来 金…阿弥陀如来 土…聖観音 羅喉…不動明王 計都…釈迦如来 |
=千葉一族の根本=「千葉六党」![]() |
=長男の胤正から六男の胤頼までの六人が、全国に散らばっていく千葉一族の祖となっていった。この六人をぞくに「千葉六党」という。なお、七男の日胤は頼朝の祈祷僧で、近江国園城寺に入っていて、千葉六党には含まれていない。日胤は「円城寺」氏の祖となったとされる。
歴史上に現れた千葉姓の人物◎
●弘前藩
千葉胤任(1832-1900)
江戸時代後期の弘前藩士で俳人。通称は周介。藩校・稽古館に学び、弓術・剣術に優れていた。俳句は三谷句仏に学んでその高弟となる。明治2(1869)年の箱舘戦争に従軍。藩務のかたわら句作を行い、「艸々庵(そうそうあん)」と号した。また、荻丸という名で俳画・狂歌もよくした。その門人は千人を数えたといい、作品を数多く残した。
●一関藩
千葉胤秀(1755-1849)
江戸後期の和算家。陸奥国一関藩の家老で、通称は雄七。号は流峰。磐井郡流郷峠村の千葉専太郎の養嗣子となって千葉氏を継いだ。関流和算家である梶山次俊に師事して数学を学ぶ。その後江戸に出て関流和算家・長谷川寛に学んで、天保2(1831)年、一関藩主・田村左京大夫邦顕に『算法新書』を献上して徒歩組に召し出される。
胤秀の子の胤英・胤道も和算家として著名、胤英の嫡子・常一も一関藩家老で和算家だったが、明治元(1868)年9月15日、明治と改元されてわずか5日後、藩主・田村右京大夫邦栄の名代として幕軍に参加し、出羽刈羽野において討ち死にした。
●千葉胤英(1819-1883)…善右衛門。胤秀の次男で一関藩家老。関流和算家の名手でもある。
●千葉常一(1843-1868)…善右衛門・量七。胤英の子で一関藩家老。明治元年9月、久保田藩との戦いで戦死した。
一関藩千葉家略系図
千葉専太郎====胤秀―+―胤道――+―胤規
(磐井郡流郷峠村)(雄七)|(雄七) |(六郎)
| |
| +―胤和
| (貞三郎)
|
+―胤英――――常一==胤良
(善右衛門)(量七)(善二)
●前橋藩
千葉長胤(1845-1865)
幕末の秋田庄内藩支配の新徴組六番組士。通称は雄太郎。父は前橋藩士・千葉新六郎忠助。
新徴組は庄内藩が幕府から預けられた江戸市中見廻組で、庄内藩家老・松平親懐(権十郎)が隊長として尊王攘夷運動を続ける浪士たちを取り締まっていた。慶応元(1865)年12月12日夜、羽賀軍兵衛・中村常右衛門とともに江戸市中を見回り中、神田明神町で暴行をはたらいた永島直之進(幕府小普請・石川又四郎配下)を討った。しかし、討った相手が直参であったことから咎められ、12月26日、切腹した。享年二十一。芝清光寺に葬られたのち、多摩霊園へ改葬された。
弟の千葉弥一郎(千葉鶴鳴)は出羽庄内藩士。兄の死後に新徴組へ入隊した。江戸取締りを経て、慶応4(1868)年3月、庄内へ戻って三番隊に配属された。同僚に、沖田総司(沖田総次郎)の義兄弟・沖田芳次郎が加わっている。
明治3(1870)年、佐竹義堯の推薦で鹿児島へ留学し、明治5(1872)年には松ヶ岡の開墾をはじめた。明治7(1874)年、新徴組裁判に出廷して禁固90日の刑を言い渡されるが、その後、警視庁に入って山形県警部となった。昭和になって戊辰戦争の生き証人とよばれ、庄内史料研究会顧問となった。
●水戸藩
千葉周作(1793-1855)
幕末の剣客。幼名は乙兎松・寅松。諱は成政。号は屠龍。陸前国気仙郡気仙村出身で、父は千葉忠左衛門成胤。
父・忠左衛門は周作らを連れて、故あって陸奥国栗原郡荒谷村に亡命し、千葉幸右衛門のもとを頼った。その後、忠左衛門とともに江戸に出て一刀流・浅利又七郎義信に剣術を学び、浅利又七郎の師匠である中西忠太の道場でも一刀流を学ぶ。その後、小浜藩士となった浅利義信の養女婿となって浅利家に入る。また、父・忠左衛門は「浦山寿貞」と称して松戸宿で開業医となる。周作の兄・成道(又右衛門)は岡部藩士塚越家の婿養子となり、岡部藩剣術師範に就任している。
周作はその後、弟子とともに諸国武者修行で武蔵・上野などで他流試合を重ね、武蔵国生抜きの馬庭念流との試合に勝利して大いに名声を上げ、江戸にもどると日本橋に道場を開き、その後、神田お玉ガ池に玄武館道場を開いた。その後、浅利義信は周作と離縁し、周作は小浜藩士浅利家から籍を抜く。
彼の道場は、懇切丁寧な指導と、巧みな剣技に定評があり、「力」の斎藤弥九郎・「格」の桃井春蔵(可堂)とならんで、「技の千葉」として著名。「幕末の三剣士」とよばれた。弟・定吉は京橋桶町に道場をもって、「桶町千葉」とよばれた。
周作のうわさを聞いた水戸藩隠居・徳川斉昭は、彼を招いて剣術師範として迎え、天保12(1841)年、馬廻格として100石を給される。斉昭の面前で大筒を軽々と扱ったことに、列座の面々の度肝を抜いた。安政2(1855)年12月13日に病死した。
周作の門弟には、有村次左衛門、海保帆平、森要蔵ら、桶町・定吉の門弟には伊東甲子太郎・坂本龍馬らが輩出されている。定吉の娘・佐那(さな子)は「小千葉の小町娘」とよばれた。佐那によれば、坂本龍馬の許婚という。
千葉周作の子・千葉栄次郎成之と千葉道三郎光胤の兄弟は、水戸藩御馬廻五番組に名を連ねている。
=千葉周作家略系図=
〔百目木屋敷〕
【岡部藩剣術指南役】
千葉成胤―+―塚越成道―――成直
(忠左衛門)|(又右衛門) (又右衛門)
|
+―成政―――+―孝胤
|(周作) |(奇蘇太郎)
| |
| +―成之―――之胤
| |(栄次郎)(周之助)
| |
| +―光胤―――勝胤
| |(道三郎)(勝太郎)
| |
| +―政胤
| (多聞四郎)
|
+―政道―――+―一胤===束
(定吉) |(重太郎)
|
+―佐那
|
+―里幾
|
+―幾久
(関宿藩士某妻)
●佐倉藩
千葉平格 (????-????)
江戸後期の佐倉藩士。千葉介の血を引く人物。こちらを参照のこと。
文政7(1824)年7月9日付の御備場出役の書状の中に記された着到帳大略に「馬医兼馬役」として記される。平士として香宗我部兵馬があるが、彼の祖は土佐の長宗我部元親の弟・香宗我部親泰で、親泰の子が堀田家へ仕え、子孫は佐倉藩重臣となった。
●犬山藩
千葉胤保 (????-????)
尾張犬山藩家老。通称は善左衛門。はじめ千田を称し、のち千葉に氏を戻した。鎌倉時代の千葉宗家・千葉介頼胤の嫡男、千葉新介宗胤の直系である。
胤保は犬山藩祖・成瀬小吉正成が下総国栗原領主だった際に仕えたと思われ、元和3(1617)年に犬山城代家老。寛永13(1636)年、「成瀬隼人正代」として田村舟頭町に諸役御免状を発給した「千田善左衛門、都築市左衛門」の名が見える。のち千葉に復氏し、子孫は代々家老職として続いた。
万延元(1860)年の『惣帳』によれば「御家老 三百石 千葉善左衛門」とある。明治に入り、犬山藩権大参事に選ばれた四人の筆頭として、千葉猛の名が見える。幕末家老職の千葉善左衛門の後身である。他の権大参事は小池雅人、本多彦三郎、吉田秀の各氏(『藩制一覧』)。
●正親町三条家
千葉洪胤(1841-????)
江戸末期の正親町三条家諸大夫。「ひろたね」と読む。官途は従六位下、美濃守。明治時代には嵯峨(正親町三条改め)家家扶。
『嵯峨実愛日記』によれば、祖父・加田周防守範胤は、近江国志賀郡和邇村出身の人物で、幼少のときに正親町三条公則(正三位)によって召し出されたというが、範胤は正親町三条家の本家である三条家の諸大夫・入江讃岐守則徳の子とされ、天明5(1785)年11月25日の生まれであるという(『地下家伝』)。
【一条家諸大夫】【三条家諸大夫】
入江則具――――入江則通――入江則茂―+―入江則宗 +―入江則和 +―入江則業―+―入江則順
(三河守) (和泉守) (左馬権頭)|(丹後守) |(摂津守) |(越前守) |(讃岐守)
| | | |
+―入江則敬―+―入江則徳―+―加田範胤 +―入江則精
(和泉守) (讃岐守) (周防守)
そして、正親町三条公則は天明5(1785)年正月に父・実同が亡くなって家督を継いだのち、寛政12(1800)年9月1日に二十七歳で亡くなっているが、範胤が「従六位下周防守」に叙任したのは公則が亡くなった十九年後の文政2(1819)年6月13日のことであり、十歳前後で正親町三条家に仕えたのだろう。正親町三条家の「諸大夫」制が復活したのは、公則の子・正親町三条実義(正三位)の代で、文政2(1819)年、範胤が諸大夫となり、正親町三条家に忠節を尽くしたのだろう。
しかし、実義が文政3(1820)年に6月4日に二十三歳で亡くなり、文化13(1816)年生まれの嫡子・実愛がわずか五歳で家督を継承すると、範胤夫妻は幼い実愛を養育し、のちに実愛は「予幼稚之間、彼夫婦養育之恩親如親子」と日記に記載するほどであった。
範胤は文政10(1827)年正月21日の除目で従六位上、天保6(1835)年正月14日に正六位下、天保13(1842)年3月16日、従五位下(『地下家伝』では「従六位下」であるが、誤記であろう)、嘉永3(1850)年12月19日、従五位上へと昇進した。このとき範胤六十六歳であった。さらに正五位下まで昇進したことがうかがわれる。
元治元(1864)年9月1日明け方、範胤は「及大切了」った。「大切」とは亡くなったという意味であるが、実愛は「…然而今日終如此、不能報尽恩庇殊今臨大切予得自問不能対面及長別了、唯愁涙難止、彼妻去戌年冬歿了、夫婦共到後世不絶祭忠功不可忘返々哀悼悲泣之外無也」と対面もできないほどその死を悼んだ。9月18日、実愛は正式に範胤の卒去届を頭弁・豊房朝臣へ提出した。その杉原紙四ツ折に記載されていた範胤の位記は「正親町三條家諸大夫 正五位下周防守藤原範胤」と藤原姓である。範胤の実家・入江氏が藤原姓であることから、『地下家伝』の伝は妥当であろう。
慶応元(1865)年2月25日、範胤の孫・洪胤を登用して、彼岸の聖廟参拝の代参を命じた。閏5月7日、実愛は約半年間断絶していた千葉家の再興を願い出、渡邊瀧口洪胤をその家督と定めた。翌8日、千葉洪胤は千葉家相続の御礼として銀七枚を実愛へ献じている。
閏5月15日、実愛は洪胤の初官位を申請し、16日、「千葉平洪胤」は「従六位下美濃守」に叙せられ、二十五歳にて「諸大夫」に任じられた旨の奉書が届けられた。以降、洪胤は諸大夫として主席の諸大夫・加田家とともに正親町三條家の家政を任された。
慶応2(1866)年2月2日、鳥取藩京都藩邸詰の安達清一郎に「正三家加田千葉より糟蔵香魚」が届けられた。正親町三條家の加田・千葉の両家からの届け物で、魚の粕漬けだろう。「別品」と評している(『安達清風日記』)。
明治期に実愛が華族に列せられると「家扶」に任命された。
●兵法家・天文家・神官・国学者・華道家
千葉小三郎 (????-????)
江戸初期の兵法家。上泉伊勢守から神陰流を学ぶ。
千葉篤胤 (????-????)
江戸中期の出羽国米沢の白子大明神社司。地誌・故実に通じ、故実書『米沢事跡考』、地誌『赤湯温泉記』を著す。
千葉胤晴 (1795-1843)
江戸後期の天文家。通称は内蔵七。幕府天文方・藤蒼海の門人となって天文学を学ぶ。著書『惟算貞享術書考』がある。
千葉直胤 (????-????)
江戸時代中期の国学者。通称は重兵衛。号は文斎・存古堂。塙保己一の高弟となる。
千葉胤綱 (????-????)
江戸時代中期の華道家。号は松翁斎・竜卜。のち法橋となる。播磨国赤穂の人。大和から摂津をまわって源氏流という華道を広めた。宝暦7(1757)年に法橋となり、宝暦12(1762)年、江戸に出て浅草で華道展を開いて生け花流行の目を開いた。
■北斗山金剛授寺座主(千葉神社の別当寺・金剛授寺の座主):(『妙見実録千集記』=『房総叢書』収録)
名 | 親族 | 生没年 | 事歴 |
1.大僧正覺算 | 平忠常の次男 | 979-1074 | 21歳で大僧正に任じられ、北斗山は勅願寺とされる。承保元(1074)年3月21日寂した。享年は96歳と伝わる。 ★父とされる平忠常は天延3(975)年生まれであり、忠常が4歳のときの子ということになり、矛盾がある。 |
2.大僧都覺永 | 平常長の七男 | 1067-1143 | 常長の七男と伝わる。康治2(1143)年2月5日に寂す。77歳。 |
3.大僧都宥覺 | 千葉常重の甥 | 1103-1186 | 常重の甥。文治2(1186)年10月8日寂。84歳。 |
4.少僧都覺傳 | 千葉常胤七男 | 1156-1242 | 常胤の七男とつたわる。仁治3(1242)年3月13日に87歳で寂す。 ★常胤の七男は近江園城寺の僧剛・律静房日胤とされている。日胤は治承4(1180)年5月の「以仁王の乱」で戦死している。そのほか常胤には千葉六党の祖となった六人兄弟以外に男子を見る事ができない。 |
5.法印覺秀 | 千葉胤正十男 | 1186-1257 | 胤正の十男と伝わる。正嘉元(1257)年5月1日、72歳で寂す。 ★胤正の十男は「十郎胤忠」とされる。「十郎胤忠」は「五郎胤忠」と同じ? 五郎胤忠は辺田氏の祖となる。 |
6.大僧正覺仙 | 千葉成胤二男 | 1180-1269 | 成胤の次男。文安6(1449)年8月9日、90歳で寂す。 ★文安6年に90歳で没したとすれば、延文5(1360)年生まれとなる。一方、父とされる成胤は建保6(1218)年に没しており、単純に考えれば、成胤の死後160年後に覚仙は生まれたことになる。 文安6年は「己巳」年であり、これ以前の「己巳」年は康応元(1389)年、元徳元(1329)年、文永6(1269)年である。文安6年が文永6(1269)年の誤りだとすれば、覚仙は治承4(1180)年生まれとなる。 |
こ の 約 半 世 紀 の あ い だ 座 主 不 在 か ?
→成胤のあとの胤綱・時胤は早世し、頼胤は仁治2(1241)年に3歳で家督を継ぎ、実際の政治は一族重臣が後見人として務めていた。「宝治合戦」などで千葉一族の内部は混乱しており、この混乱の中で六代座主・覺仙が文永6(1269)年に没する。そして、その翌々年には頼胤が「異国警護番役」のために九州へ下っていくといったあわただしい中で、座主が定まらなかったかもしれない。そして文永11(1275)年8月、父・頼胤が九州で戦傷死したため、嫡男・千葉新介宗胤が九州へ下り、まだ幼い弟・胤宗が下総を実質統治することになる。
正和元(1312)年に胤宗が45歳で没すると、その嫡男・貞胤が22歳で千葉介を継承。貞胤のめだった活動は元弘元(1331)年まで見られないが、北条貞時より「貞」字を受けていると思われることなど、鎌倉での格式も比較的高い位置にあったと考えられる。また、小城千葉氏の下総の所領・八幡庄や千田庄についての対応に費やされたのかもしれない。そしてこの間に律師照覺が座主に就任したと思われる。
7.律師照覺 | 千葉胤綱の甥 | 1313-1337 | 胤綱の甥。延元2(1337)年11月20日、25歳で寂す。 ★彼とおなじく胤綱の甥にあたる千葉介頼胤は延応元(1239)年生まれであるが、従兄弟とされるこの律師照覺とは74年もの年齢差がある。従兄弟で74年もの年齢差があるのは不自然。 |
8.少僧都覺源 | 千葉胤宗次男 | 1297-1386 | 胤宗の次男。至徳3(1386)年6月15日、90歳で寂す。 |
9.法印圓覺 | 麻里満胤四男 | 1384-1461 | 麻里四郎満胤の四男。寛正2(1461)年6月19日、78歳で寂す。 |
0.法印珍覺 | 千葉兼胤三男 | 1430-1486 | 兼胤の三男。文明18(1486)年4月25日、57歳で寂す。 ★父・兼胤は永享2(1430)年に亡くなっており、兼胤の末子? |
1.法印覺實 | 葉胤直の甥 | 1436-1513 | 胤直の甥。永正10(1513)年12月15日、大日寺で78歳で寂す。 |
2.権少僧都範覺 | 原胤隆の三男 | 1501-1543 |
原胤隆の三男。三上氏の乱では自ら軍を率いて亥鼻に立てこもり応戦した。亥鼻は狛犬、宝篋印塔、大量のかわらけなどが発掘され、金剛授寺と関連のある宗教施設があったと考えられるが、土塁や空堀なども見つかっていることから、軍事的な施設でもあったのかもしれない。 胤隆は天文12(1543)年1月25日、佐倉城に於いて43歳で寂す。別当職は代々千葉宗家の庶子がつとめて来たが、ここにおいて宿老・原氏の庶子がつとめることになった。これは原氏の勢力が宗家を凌ぐほどになったことを物語る。 |
3.法印常覺 | 千葉勝胤六男 | 1527-1570 | 勝胤の六男。元亀元(1570)年7月29日、44歳で寂す。。勝胤の宿老が先代別当範覺の父・原胤隆である。 |
4.法印覺胤 | 千葉勝胤九男 | 1538-1581 | 勝胤の九男。先代別当の常覺の弟。天正9(1581)年8月7日、44歳で寂す。 |
5.権大僧都覺全 | 千葉胤富養子 | ????-1617 | 胤富の養子。元和3(1617)年10月10日寂した。生年は不明。寶憧院に石塔が残る。彼の代で千葉氏の血を引く別当が終わった。16代以下は江戸時代の別当。 |
-亘理氏略系図-