郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

郡上遠藤氏



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遠藤胤俊(????-1570)

<名前> 胤俊
<通称> 紀四郎、新右衛門(『系図纂要』)
<正室> 不明
<父> 遠藤新兵衛胤縁
<母> 不明
<官位> 不明
<官職> 大隈守
<法号> 不明
<墓所> 不明

 遠藤新兵衛胤縁の長男。通称は新右衛門、のち大隅守美濃国郡上郡山田庄木越城主岐阜県郡上郡大和村)。

郡上の地図
▲木越城と郡上城の勢力図

 美濃郡上郡の東氏に仕える幾流かの遠藤家のうち、大きな力を持っていた二つの遠藤家の一家で、もう一家は胤縁の弟・遠藤六郎左衛門尉盛数を祖とする遠藤家。この二つの遠藤家はのちに「両遠藤」とよばれた。

 両遠藤家はもともと郡上城の北西四キロにある木越城主の家柄であると思われ、郡上城の東氏に従属していた。東氏の滅亡後、盛数は木越城から郡上城に移り、郡上郡南部を治めた。一方、胤縁の子・遠藤新右衛門胤俊はそのまま木越城主として郡上郡北部の小駄良(こだら)遠藤家・寒水(かのみず)遠藤家を支配した。胤俊の家老として小駄良遠藤氏の「遠藤惣兵衛(遠藤胤慶)」の名が見える(『郡上藩家中記録』:「郡上八幡町史諸記録」)

 東氏滅亡後、胤俊は盛数とともに齋藤山城入道道三、続いてその子・齋藤治部義龍入道玄龍齋藤右兵衛龍興の齋藤家三代に仕えたが、永禄5(1562)年10月、織田信長が美濃に侵攻してくると、盛数は稲葉山城下の井ノ口で信長勢を迎え撃った。胤俊も盛数同様に信長と戦ったが、齋藤龍興が織田勢に敗れて美濃を追放されると、織田家に仕えたと思われる。盛数胤俊はともに所領が安堵され、郡上郡の支配を認められている。織田家に仕えた両遠藤家は可児郡金山城の織田家重臣・森三左衛門尉可成の寄騎となる。

 永禄年の末、飛騨国司・姉小路家が郡上の侵略を企てて、畑佐村に侵入してきた際には、遠藤胤俊は遠藤左近右衛門を、遠藤慶隆(盛数の子)は遠藤清左衛門を大将として派遣し、久須見(郡上市明宝大谷)において合戦となった。この戦いは、遠藤左近右衛門の弟・遠藤五郎助が討死を遂げ、さらに遠藤家と入魂の郡上安養寺の住持・安養寺乗了の門徒である円覚坊・正専坊・妙専坊ら荒法師たちも討死を遂げる激しい戦いだったが、両遠藤家は姉小路家を飛騨へ追い返すことに成功した。

 元亀元(1570)年11月、織田信長と朝倉義景・浅井長政との戦いでは、胤俊は織田勢の先鋒として坂井政尚らととも近江堅田に派遣され、堅田湖賊衆を味方としたが、26日、堅田に攻め入ってきた浅井・朝倉勢と激戦の末、討死を遂げた。享年不詳。家老の小駄良遠藤家・遠藤惣兵衛胤慶もこのとき討死を遂げた。

 娘は遠藤盛数の二男・遠藤助次郎慶胤に嫁ぎ、郡上遠藤家の重臣として活躍した遠藤内記、土佐藩士となった遠藤三十郎亮胤の母親となった。

○小駄良遠藤家系譜

+―石神掃部――――惣左衛門===胤春
|               (吉兵衛)

|      畑佐六郎右衛門
|         ∥――――――惣右衛門
|       +―娘
|       |            +―遠藤内記
|       |            |
| 遠藤胤縁――+―遠藤胤基―――娘   |
|(新兵衛)   (大隈守)   ∥―――+―遠藤亮胤
|         ∥      ∥   |(三十郎)
|       +―娘     遠藤慶胤 |
|       |      (助次郎) +―娘
|       | 遠藤胤勝         ∥
|       |(加賀守)         ∥
|       | ∥    遠藤新四郎  餌取半右衛門
+―石神兵庫――+―娘      ∥   (次郎作)
          ∥――――――娘
+―遠藤惣兵衛―+―胤慶
|       |(惣兵衛)
|       |
|       +―胤勝―――+―等覚坊澄栄
|       |(加賀守) |(中納言)
|       |      |
|       +―石上胤春 +―太郎兵衛
|       |(吉兵衛) |
|       |      |
|       |      +―等覚坊澄僖
|       |       (中将)
|       |
|       +―奥之坊――――勝吉――河合吉兵衛
|       |
|       |
|       +―娘
|         ∥――――+―八蔵
+―遠藤善兵衛――太郎兵衛  |(松山左門)
 (入道善通)        |
               +―小兵衛



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遠藤胤基(1548-1593)

<名前> 胤繁→胤基
<通称> 新兵衛
<正室> 不明
<父> 遠藤新兵衛胤縁
<母> 不明
<官位> 不明
<官職> 大隈守
<法号> 不明
<墓所> 不明

 父は遠藤新兵衛胤縁。母は不明。通称は新兵衛。官途は大隈守。先代の遠藤大隈守胤俊の弟で、胤俊の戦死後、家督を継承した。

 先代の胤俊とともに討死を遂げた家老・遠藤惣兵衛胤慶の弟・遠藤加賀守胤勝が家老職についた。胤勝ははじめ東氏ゆかりの長瀧寺等覚坊心海の養子となっていたが、父・胤慶が討死したことから小駄良四百石を継ぎ、長男の中納言が長瀧寺等覚坊を継いで等覚坊澄栄を称した。

 元亀3(1572)年ごろから西上の気配を見せはじめていた武田信玄は、織田家の中枢ともいえる美濃にも調略の手を伸ばしつつあり、胤基(当時は胤繁)は5月頃から武田家と通じるようになったようである。これは織田家に内密で進められていたことのようで、胤繁は家老・遠藤胤勝(加賀入道市入斎)を派遣して武田家と交渉している。遠藤家が武田信玄や浅井長政と通じて、織田家と二股をかけていたことが書状よりうかがうことができる。美濃に調略の手を広げていた強大な武田家に比べて遠藤家は小さな領主にすぎず、生き残るための外交戦術であったと思われる。元亀3(1572)年9月26日、信玄は胤勝を通じ、胤基(胤繁)へ信濃国内に百貫の地を与える旨を約している元亀3(1572)年9月26日『武田信玄判物写』

 元亀3(1572)年11月14日、ついに武田信玄は美濃に侵入。武田家重臣・秋山伯耆守信友は東美濃岩村城に攻めかかり攻め落とした。信玄は胤繁に岩村城を攻め落としたことを報告しており、「岐阜へ可被顕敵対之色哉否」と、信長へ反旗を翻すか否かを問うた元亀3(1572)年11月19日『武田信玄書状写』。15日、浅井長政は武田家の使者から大隅守胤基が信玄に通じていることを聞き、「殊貴辺種々御馳走之由、快然至極候」とし、さらに遠江・三河が信玄の支配下となったことは「珍重比事候」と記して、胤繁(胤基)へ書状を送っている元亀3(1572)年11月15日『浅井長政書状写』。 

 元亀3(1572)年12月12日、信玄は「当年過半任存分候、幸岩村へ移人数候之条、明春者、濃州へ可令出勢候」と、すでに美濃の過半は武田領となり、岩村城にも秋山伯耆隊が入城し、来春にも本格的に美濃に手勢を向ける旨を伝えている。胤基には「其已前向于岐阜、被顕敵対之色候之様」と、美濃攻めの前に織田家へ反旗を翻すよう指示した元亀3(1572)年12月12日『武田信玄書状写』

 しかし同月、上洛を志した武田信玄は遠江国に侵入し、浜松城の徳川家康を三方ヶ原に破り、三河、尾張へ攻め入るかに見えたが、翌年4月、信玄は信濃国駒場の陣中で急死。武田勢は潮がひくように甲斐国へと退き、取り残された美濃岩村城の秋山信友は捕らえられて、長良川の河原で磔刑に処された。結局、武田家による美濃攻めは実現せず、胤基の企ては信長に知られることはなかった。

●織田家略系図

       塩川氏   +―織田秀信
        ∥    |(権中納言) 
        ∥    |
        ∥――――+―織田秀則
 生駒氏 +―織田信忠   (左衛門尉) 
  ∥  |(秋田城介)
  ∥  |
  ∥――+―織田信雄
 織田信長 (内大臣)  
(右大臣)
  ∥
  ∥――――織田信孝
 坂氏   (侍従)

 天正10(1582)年6月2日未明、織田家の宿老・明智光秀(惟任日向守)が突如、京都本能寺に主君の織田信長を攻め殺した。これを本能寺の変という。しかし、信長を討った明智光秀も、毛利氏と電撃的に和睦して引き返してきた羽柴秀吉に敗れ、京都の南・小栗栖の里(京都市伏見区小栗栖小阪町5)で殺された。その後、織田家の跡目相続について、柴田勝家と羽柴秀吉が尾張国清洲城での話し合いで対立。天正11(1583)年正月、柴田勝家が擁立した織田信孝(信長三男。実は次男)と、信長嫡孫・織田三法師(のちの秀信)を擁立する羽柴秀吉との間で戦いがおこった。このとき遠藤胤繁(胤基)・遠藤慶隆とともに美濃国主である織田信孝に属したことから、秀吉に味方する美濃国武儀郡の国人たちは須原城洞戸城に拠って郡上郡と岐阜城との連絡を断った。このため、両遠藤氏は三百余の兵を繰り出して両城を攻め落とし、そのまま立花山まで進み、岐阜城の信孝と連絡を取ることに成功した。

 閏正月8日、秀吉は森武蔵守長可佐藤六左衛門秀方の両将に遠藤氏の籠もる立花山への出陣を命じ、数千の大軍で立花山を囲んだ。これに対して籠もる遠藤氏はわずか三百であり、「遠藤新兵衛(胤繁)」は岐阜城へ援軍を要請。12日付で信孝から援軍の承諾と守備を固めるよう指示する書状が届いた天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(1)天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(2)。しかし、信孝の援軍が来るまでの間も森・佐藤勢の攻撃は続き、遠藤清左衛門(和良遠藤家)、池戸与十郎(清左衛門婿)、井上作右衛門ら重臣が討死を遂げている。

 天正11(1583)年4月24日、織田信孝方を支えていた柴田勝家越前北ノ庄において秀吉に攻め滅ぼされた。これを聞いた信孝は意気消沈。秀吉方についていた異母兄・織田信雄(実際は異母弟)からの降伏勧告を受け入れて岐阜城を明け渡し、長良川を下って尾張国に退いた。

 一方、援軍も来ない立花山では糧道を断たれて食糧難に陥っており、熊皮を火で炙って食べるというような悲惨な状況になっていた。胤繁(胤基)・慶隆らは領民からのひそかな援助で急をしのいでいたものの、兵糧はすでに尽き、餓えて死するよりは戦って潔く死ぬべしと、両遠藤家は残っていた兵を集めた。しかし、ちょうどこの時、佐藤六左衛門秀方の使者が立花山を訪れ、信孝がすでに降伏したことを伝え、遠藤家においても降伏すべしと勧めたことから、遠藤慶隆・遠藤胤基は立花山を下り、老臣の石神兵庫遠藤利右衛門の二名を人質に差し出し、降伏した。寄手総大将・森長可も両遠藤の降伏を喜び、木尾村母野にて会見し、森長可は敢闘を讃え、鞍付の馬を遠藤家に贈呈した。6月、秀吉は森長可の舅である池田恒興入道と子・池田元助に大垣城・岐阜城を与え、美濃は秀吉によって平定された。

 天正13(1585)年8月、秀吉は柴田勝家の寄騎だった越中の佐々成政を降し、さらに金森長近に飛騨国主・三木自綱攻めを命じた。長近は美濃国石徹白(いとしろ)を通って飛騨に進軍。長近の養子・金森可重が攻めた野々俣口には胤繁(胤基)の子・遠藤小八郎胤直が参戦している。

 天正17(1589)年、秀吉は美濃の検地を行い、翌天正18(1590)年、両遠藤家は先に織田信孝に属したことによって、郡上郡を没収となり胤基加茂郡犬地へ、遠藤慶隆加茂郡小原に移された。両遠藤家の知行は合わせてもわずかに一万五千石。彼らに代わって郡上郡には曽根から移された稲葉貞通(稲葉一鉄嫡子)が入った。

名前 在所 領地
遠藤左馬助慶隆 美濃加茂郡小原 美濃加茂郡内:七千五百石 一万五千石
近江日野郡内:千石
遠藤大隅守胤基 美濃加茂郡犬地 美濃加茂郡内:五千五百石
近江日野郡内:千石?

 文禄元(1592)年、明朝の侵略をたくらんだ秀吉が、道案内を断った朝鮮へ侵攻した「文禄の役」では織田秀信(岐阜中納言)に属し、遠藤慶隆とともに朝鮮半島へ渡海した。しかし、文禄の役が終わり日本へ退却した胤基は病となり、文禄2(1593)年11月23日、長門国国分寺にて亡くなった。享年四十六。

●元亀2(1571)年9月18日『遠藤盛数・胤繁連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

  尚々信長下国ニ者則年前ニ罷成事ニ候、鉄砲玉薬之儀、早々下給候様ニ可申肝要ニ候、近日者不得御意御床敷存候、仍上方之躰、江南北委信長属存分、則上洛候て山門坂本堅田十二日卯刻ニ被退散、山王並中堂其外宮社坊中在家之儀一間も不相残放火、坊主共八王寺楯籠候処被責崩頭千余被討捕由候、則十三日京上之旨と三好方も降参申由ニ候、是ハ不実ニ存候、随先々より内々申候、大坂へ御使之事、最勝寺不被待被遣候ハ、尤候、玉薬之一儀懇ニ被仰上此度下給候様ニ御才覚簡要ニ候、路次番之儀ハ可然様御調候て、何之道ニも玉薬被下候様ニ候者可遣入候、越州へも折々可被仰遣候、尚重可得御意候、恐惶謹言
 
    九月十八日         遠藤新兵衛胤繁
                  遠藤六郎左衛門盛数
   安養寺
 


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遠藤胤直(????-????)

<名前> 胤直
<通称> 小八郎
<正室> 山本様(遠藤左馬助慶隆女:胤直没落ののち、粥川孫左衛門に嫁ぐ)
<父> 遠藤大隈守胤俊
<母> 遠藤六郎左衛門尉盛数女
<官位> 不明
<官職> 不明
<法号> 玄西(『経聞坊文書』)
<墓所> 不明

 父は遠藤大隈守胤基。母は遠藤六郎左衛門尉盛数。妻は遠藤但馬守慶隆娘・山本。通称は小八郎。号は玄西

 父・遠藤胤基が豊臣秀吉の命により、織田中納言秀信に従って朝鮮半島に出兵。その帰国の際に病にかかり、文禄2(1593)年11月23日、長門国国分寺で四十六歳で亡くなった。これによって嫡子・小八郎胤直が家督を継承した。

 文禄3(1594)年、伏見城普請の際に、遠藤慶隆遠藤胤直は東美濃から材木を伐って供出し、普請にも積極的に参加し、伏見城完成ののち、伏見城北側の狼谷(伏見区深草大亀谷)に屋敷を拝領した。

 関が原の合戦では、はじめ遠藤慶隆と同心して徳川方につくことを約束しておきながら、寝返って西軍に属したために城を追われ、戦後は浪々の身となった。戦いの後は大坂に住んでいたようである。



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遠藤胤重(????-????)

<名前> 胤重
<通称> 彦右衛門
<正室> 遠藤六郎左衛門尉盛数末娘
<父> 遠藤新兵衛胤縁
<母> 不明
<官位> 不明
<官職> 不明
<法号> 不明
<墓所> 不明

 父は遠藤新兵衛胤縁。母は不明。通称は彦右衛門



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遠藤胤安(????-1587)

<名前> 胤安
<通称> 新四郎→吉左衛門
<正室> 不明
<父> 遠藤新兵衛胤縁
<母> 不明
<官位> 不明
<官職> 不明
<法号> 不明
<墓所> 不明

 父は遠藤新兵衛胤縁。母は不明。通称は新四郎、のち吉左衛門

 天正15(1587)年、秀吉による島津氏攻めに兄の遠藤大隈守胤基とともに従軍したが、筑前岩石城攻めで討死を遂げた。

■木曾遠藤家■

 木曾代官山村家の家中に遠藤家があるが、郡上遠藤家の末裔と伝えられている(『信州木曽谷の剣豪 遠藤五平太』)。ただし、木曽遠藤家の祖である「遠藤小八郎正■」と郡上遠藤家遠藤小八郎胤直が同一人物かは不明。木曽遠藤家祖・遠藤小八郎正■の嫡子の与四郎は遠藤を改めて「原田」を称した。その子・原田五助正忠はのちに五兵衛と改めた。この正忠は「遠藤小八郎正■」の孫となるが、慶長8(1603)年の誕生とされており、慶長5(1600)年9月の時点でまだ二十代前半ほどであったと思われる遠藤小八郎胤直の孫とはなり得ない。 ただ、木曽遠藤家が郡上遠藤家末裔との伝承を受け継いでいることから、「正」を通字とする郡上遠藤一族である和良遠藤家の出身なのかもしれない。

 正忠の嫡子・弥左衛門正勝は名字を「原田」から「遠藤」に復し、子孫は代々木曽代官山村家に仕えている。文化年中、木曽代官家の武術師範に遠藤彦作が見える。彦作は九代当主・遠藤彦作正芳のことで、七代当主・遠藤弥左衛門正行の次男で、兄の八代当主・遠藤蔀正常の養嗣子となって遠藤家の家督を継いだ。

 安政6(1859)年の山村家『御家中分限帳』(『木曽福島町史』)には御関所番として遠藤五平太が見える。遠藤五平太正贇は遠藤彦作正芳の嫡子で特に剣術に秀でていた人物である。また、剣術御師範には正贇の嫡子・遠藤磯太郎正儔、御次間勤番に遠藤且助が見える。

 御関所番・遠藤五平太正贇は文化5(1808)年8月16日、木曽福島門前にて誕生した。文政5(1822)年10月9日、木曾御代官・山村良熙の小姓として出仕した。翌文政6(1823)年9月、家伝の武術の修行のために江戸への留学を願い出て、年一両二分の支給で江戸へ発った。おそらく江戸の小野派一刀流中西道場(中西忠兵衛子正)で紹介を受けて、下総国松戸宿の浅利又四郎義信の門に入り、同じく兄弟子の千葉周作成政からも手ほどきを受ける。

 文政10(1827)年6月24日、主君・山村氏より江戸屋敷留守居役を命じられたため江戸屋敷に詰めるが、翌文政11(1828)年5月14日、御役御免になると、二年間の武芸研鑽の命を受けて房総半島へ旅立った。ここで武芸を磨くと文政12(1829)年江戸に戻ると、9月17日、師である浅利又四郎から小野派一刀流兵法目録が授与された。

 天保元(1830)年1月5日、故郷の木曽福島で道場を開き、7月9日、木曽代官山村家の師範となった。その後も山村家の剣術師範として出仕していたが、安政4(1857)年、師範を辞して木曽郡西野村の開発に乗り出し、灌漑工事を成功に導いた。現在でも遠藤五平太を称える「経王塔」が建立されている。

 明治元(1868)年11月8日、尾張藩校明倫堂の師範役補助を拝命。物頭格として尾張藩に出仕することとなり、翌明治2(1869)年8月29日、明倫堂の師範に抜擢された。その後、廃藩置県によって辞職したと思われる。嫡子・遠藤磯太郎正儔は将来を嘱望された天賦の才を持つ剣士だったが若くして亡くなっており、孫の遠藤彦作が跡を継いだ。彦作は立憲自由党の長野県議会議員となっている。遠藤五平太は明治21(1888)年7月14日、81歳で亡くなった。法名は大円院一嶽徹心居士(『信州木曽谷の剣豪 遠藤五平太』)

■田中藩遠藤家■

  駿河国田中藩の筆頭家老になった遠藤家がある。遠藤家の伝えによれば、祖は三浦介某。子孫は代々近江国に住み、藪谷宗広の代に織田信長に仕えたという。慶長7(1602)年10月、徳川家康の謀臣・本多正信(佐渡守)の弟である本多正重(三弥左衛門)が近江国額田郡に千石を知行したとき、藪谷宗広の子・遠藤宗継と子の遠藤宗成(甚蔵)とともに召し出されて、元和2(1616)年7月、正重が下総国相馬郡などに一万石を与えられた際に、宗成は家老に任じられ、三百石を与えられた。

 本多遠藤家が、どうして藪谷氏から氏を変えたのかは不明。通字が「胤」であるところや、分家が「俊」を通字と変わっているところから、慶長の役(関が原の戦い)で東軍から西軍に寝返って浪々の身となった美濃木越遠藤家と所縁があるのかもしれない。ただ、木越遠藤家は関が原の戦い後、木曾代官山村氏のもとで活躍している。

 宗成の子・遠藤宗忠(十郎右衛門)は宗成の跡を継いで家老職に就任。その長男・遠藤貞国(万右衛門)は千石に加増され、延宝5(1677)年7月、家老職に就任した。元禄9(1696)年、主君・本多正永(伯耆守)が若年寄となり、元禄16(1703)年、上野国沼田城主となると、貞国もこれに随って沼田に入る。宝永7(1710)年に家老職を辞し、正徳3(1713)年7月、70歳で亡くなった。一方、弟・遠藤俊信(嘉兵衛)は別家を立てて五百石を知行し、宝永元(1704)年11月に家老職に就任した。この俊信は一竿流兵学という兵学をひらいた兵法者としても知られている。

 俊信ののち家老職を継いだのは、遠藤本家ではなく俊信の子・遠藤俊弥(嘉兵衛)であった。享保14(1729)年12月に家老を継いだ俊弥は、享保15(1730)年、藩主・本多正矩(豊前守)が沼田より駿河国田中に移ったときに走り回り、享保16(1731)年8月に辞した。俊弥の跡は遠藤本家の遠藤貞胤(甚蔵)が継いだ。貞胤の弟・利貞(帯刀)はもともとの藪谷氏を称し、天明2(1782)年9月から家老職を務めている。

  貞胤が延享元(1744)年8月5日に45歳の若さで亡くなると、その子・遠藤胤封(十郎右衛門)が家督を継ぎ、宝暦6(1756)年5月、家老職に就任した。胤封には跡継ぎの男子がなかったため、先々代藩主・本多正武(遠江守)の娘・照姫を養女に迎えて、婿養子をとろうと考えたが、照姫は若くして亡くなってしまった。そのため、藩公・本多正供(紀伊守)の姪を養女に迎え、出羽国新庄藩主・戸澤正諶(上総介)の子を婿養子として遠藤胤忠(百右衛門)を名乗らせた。胤忠は寛政6(1794)年11月から文政13(1830)年4月までの実に37年間にわたって筆頭家老職を務め、天保9(1838)年9月10日に亡くなった。

 胤忠の筆頭家老在任中、遠藤家のうちでは分家の遠藤俊見(百右衛門)やその子・遠藤俊規(嘉兵衛)、胤忠の子・遠藤胤典(十郎右衛門)が家老に就任している。遠藤胤典は藩公・本多正意(遠江守)の弟・本多正福の娘を娶り、藩公一族として活躍した。また、自ら所領巡検のため、相馬郡内を巡検していることが記録に残されている。胤典は弘化5(1848)年2月9日、61歳で亡くなっている。

 胤典の子・遠藤胤富(十郎右衛門)は天保14(1843)年4月、家老職に就任。家禄は九百石。安政4(1857)年1月7日に48歳で亡くなった。嘉永3(1850)年1月、俊規の子・遠藤俊臣(甚八郎)が家老職に就任。文久元(1861)年に53歳で隠居して家老職を辞した。しかし、徳川慶喜の大政奉還と江戸開城、慶喜の謹慎などで、田安徳川家出身の徳川亀之助に徳川宗家相続が許されて、駿府藩の立藩が認められた。それに伴い、駿府周辺の藩は転封になることとなり、慶応4(1868)年9月、最後の藩主・本多正訥(紀伊守)は安房国長尾に長尾藩を立藩。家老に遠藤俊臣(甚八郎)が再び選ばれ、遠藤本家からは遠藤胤孝(十郎右衛門)が同じく家老に抜擢され、明治4(1871)年7月の廃藩置県までの数年、混乱する藩政を支えた(『藤枝市史』)

●田中藩遠藤氏略系図

藪谷宗広―遠藤宗継―宗成――宗忠――――+―貞国―――+―貞胤――胤封――――+=照姫     
         (甚蔵)(十郎右衛門)|(万右衛門)|(甚蔵)(十郎右衛門)|(本多正武娘)
                    |      |           |
                    |      +―藪谷利貞      +=本多氏
                    |       (帯刀)          ∥―――――胤典
                    |           【出羽新庄藩主】  ∥    (十郎右衛門)
                    |            戸沢正諶――+―遠藤胤忠   ∥
                    |           (上総介)  |(百右衛門)  ∥
                    |                  |        ∥
                    |                  +―戸沢正産   ∥―+―胤富―――――胤孝
                    |                   (上総介)   ∥ |(十郎右衛門)(十郎右衛門)
                    |                           ∥ |
                    |          本多正温――――+―本多正福―――娘 +―胤志
                    |         (伯耆守)    |
                    |                  |
                    |                  +―本多正意―+―本多正寛
                    |                   (遠江守) |(遠江守)
                    |                         |
                    |                         +―本多正訥
                    |                          (紀伊守)
                    |                           
                    +―俊信―――+―俊弥――俊房――――――俊見―――――俊規―――俊臣
                     (嘉兵衛) |(嘉兵衛)       (百右衛門) (嘉兵衛)(甚八郎)
                           |
                           +―甚八郎


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