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い】

伊田

 上総一族。下の井田氏と同じか。

井田

勢力
中世末期の下総国

 発祥地ほか不明。文安年間(1444-48)に上総国山辺庄小池郷を領していた地方豪族で、飯櫃城(山武郡横芝光町)の山室氏に仕えていた井田刑部大輔が勢力を伸ばし、子孫は天正年間には坂田城(山武郡横芝光町)に居城を移して、栗山川流域一帯を勢力下におく大豪族となった。『井田文書』など史料が多い一族としても知られ、伊藤一男氏が図説などで詳しくわかりやすく紹介されている(『千葉氏研究の諸問題』ほか)

 刑部大輔の嫡男・井田胤俊(美濃守)は永正2(1505)年、千葉昌胤の元服式(千葉妙見社)において椎名伊勢とともに礼酒の儀をつとめ、さらに馬一疋・太刀一腰を奉納した人物の筆頭に名を連ねる。

 胤俊(美濃守)は嫡子・井田友胤の妻に飯櫃城主・山室常隆(飛騨守)の娘をめとって山室氏との関わりを強めたが、一方で千葉介勝胤からも信頼されて重用されていた。

 このような中で起こったのが北条家と足利家(小弓義明)の戦いで、永正15(1518)年8月16日、義明の弟・足利基頼は重臣・町野淡路守(鎌倉幕府問注所執事・町野氏の末裔)を「井田美濃守(胤俊)」のもとへ遣わし、千葉介勝胤を義明方へつかせるよう命じているが『足利基頼判物写』千葉介勝胤はこの前年10月、足利義明に小弓城を乗っ取られ、原胤清を放逐させられた経緯があり、千葉介は足利氏に遺恨を抱いていた。

永正15(1518)年? 8月16日『足利基頼判物写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 就御動座勝胤所へ被仰出旨候、可然様、加意見候者、為可神妙候、
 巨細町野淡路守被仰含候也、

    八月十六日       (花押影:足利基頼)
   井田美濃守とのへ

 天文元(1532)年11月15日、井田友胤は千葉介昌胤から「刑部太輔」の官途名を与えられた『千葉昌胤官途状写』。これは井田氏が山室氏の支配下から千葉宗家の直臣層に組み込まれたことを意味するものと思われる。

天文元(1532)年11月15日『千葉介昌胤官途状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

    官途
  天文
    十一月十五日   昌胤(花押影)
  元年
 
    井田刑部太輔殿

 昌胤はその後、井田氏に「鳥目二千疋被遣之候」とあるような経済的な援助をしているが『千葉昌胤書状写』、地理的な関係からか、軍事上においては山室軍団の一翼を担い、天文4(1535)年12月20日、山室勝信(治部少輔)から「竹元青見原(山武郡横芝光町篠本?)」を宛がわれている『山室勝信知行充行状写』

天文2(1533)年7月16日『千葉介昌胤書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 同名尾張守参上、委者被口上被仰含候、仍鳥目二千疋被遣之候
 矢造可被申候、此度之行、此方えも可被廻候、其口之事、油断被申間敷候、謹言、

   七月十六日     昌胤(花押影)
    井田刑部太輔殿

天文4(1535)年12月20日『山室勝信知行充行状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 竹元青見原半分其方ニ相任候、柴崎事、備前ニ可相任候、為後日一筆如件、

   十二月廿日     勝信(花押影)
    井田刑部大輔殿

 足利義明は下総での覇権を握るため、小弓城の旧城主・原胤清(孫次郎)をも味方に引き入れようとしていたが、胤清は義明を怨んでいたのだろう。「原孫二郎不可顕不忠由、数ヶ度以誓詞申上候之間」とあるように、胤清は数度誓詞を提出して、いったん服従するかに見せておきながら、「被成御油断候之處、去廿二日夜、顕色候」と、某年11月22日夜、足利義明に夜襲をかけている。義明はこれに対して、井田友胤椎崎勝信と相談してこれを攻めるよう命じている『足利義明書状』

某年12月11日『足利義明判物写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 原孫二郎不可顕不忠由、数ヶ度以誓詞申上候之間、被成御油断候之處、
 去廿二日夜、顕色候、此上者椎崎相談速露色候者、為可神妙候、

    十二月十一日    (花押影:足利義明)
      井田刑部太輔殿

 しかし、義明が頼みにしていた井田友胤(刑部大輔)も、天文7(1538)年12月20日の古河公方・足利晴氏の『足利晴氏感状写』「昌胤所へ出頭之儀…神妙之至候」とあるように、千葉介昌胤のもとで国府台の戦いに参陣したことがわかる。

天文7(1538)年12月20日『足利晴氏感状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 昌胤所へ出頭之儀、被仰出候之處、速奉応上意候之条、神妙之至候、
 急度可被出御陣候、各相談走廻候者、猶以為可忠信候也、

    十二月廿日     (花押影)

      井田刑部太輔殿

 友胤は天文24(1555)年11月15日、千葉介親胤から「美濃守」の受領名を受けた『千葉介親胤受領状』。天文24年は10月23日をもって「弘治」に改元されており、正確には天文24年には11月15日は存在しない。

天文24(1555)年11月15日『千葉介親胤受領状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

    受領
  天文
     霜月十五日  親胤(判)
  廿四年
 
    井田美濃守殿

 天文17(1548)年ごろ、友胤は大台城(山武郡横芝光町篠本大台)を築城して移住し、坂田郷の三谷一族が小堤城と新村城とに分れた内紛に介入。天文24(1555)年10月18日、山室氏を後ろ盾として小堤城を攻撃して小堤城主・三谷大膳亮を金光寺(山武郡横芝光町山田)に討取り、坂田郷をはじめとする三谷氏旧領を押領したという。これ以降、三谷氏と椎名氏は井田衆の一翼を担うことになる。しかし、弘治~天正年中には椎名右衛門大夫三谷小四郎ほかその一族たちが離反したこともあったようである『千葉胤富判物写』

某年11月2日『千葉介胤富判物写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所)

 椎名右衛門大夫、三谷小四郎、其外両人之同名之中、此度馬寄ニ被渡候之上、
 於末代不可有御違変候、万一此面々、致無沙汰候者、美濃守同前ニ口惜之由、
 被可仰付之旨、如件

    八月六日          胤富(判)
     井田美濃守殿

 弘治2(1556)年、子・胤徳(平三郎)が父・友胤(美濃守)にかわって居城・大台城を修復し、さらに永禄年中の正木氏の東総攻撃に際してはこれに抵抗したという。また、永禄10(1567)年頃には、「井田平三郎」は岩付城の在番を命じられていたことがわかる北条氏政書状写

某年11月2日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 今度岩付在番、御心労候、自今以後弥武辺之義、不可有見除事、任入候、
 随而雖乏少候、櫁柑柳一樽進之候、猶遠山可申候、恐々謹言、

   十一月二日    氏政(花押影)

    井田平三郎殿

 千葉介胤富は、嫡子・邦胤の妻に北条氏政の娘(芳林院殿)を迎えたが、この婚姻の際に邦胤の命を受けて、井田胤徳(刑部大輔)が走り回っていたようで、この昼夜を問わない働きに、氏政は「誠難述筆頭候」として「一合一樽」を贈った『北条氏政書状写』

天正5(1577)年閏7月29日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 今度東表及行處邦胤御下知者雖勿論候、昼夜之御心労、誠難述筆頭候
 随而現来之間、一合一樽進候、猶遠山可申候、恐々謹言

   閏七月廿九日   氏政(花押影)

    伊田刑部太輔殿
   (↑井田刑部大輔胤徳)

 千葉氏が小田原北条家と縁戚となるや、北条家は下総国にも深く介入することとなり、井田氏は原氏・酒井氏・大須賀氏・高城氏・相馬氏などとともに北条氏からも独立した一領主として認められ、岩槻城番牛久城番などをつとめた。牛久城主は岡見治広(治部大輔)であったが、牛久城は佐竹氏領と接する、北条勢力の最前線基地であり、高城氏・豊嶋氏・井田氏らがそれぞれ持ち回りで城番をつとめていた。 

 天正14(1586)年8月14日、岡見一族で足高城主(つくばみらい市足高)である岡見宗治(中務大輔)へ宛て、栗橋城主・北条氏照(武蔵守)が「治部大輔証人其方証人」の提出を求めた。これに対し、宗治は「迷惑」としてこれを拒否したものの、「然而従小田原御分国諸侍証人御所望候」であるから、小田原は其方の証人もご所望であると説得した。そして、牛久の「治部太輔」はすでに「実子進上」したことが8月27日の氏照書状にあり、治部太輔に習い、証人を出して小田原へ応じて忠信を尽すよう命じた。この命は千葉氏にも下されていたと思われ、前年の天正13(1585)年に千葉介邦胤が没して混乱していた中、北条家は原胤清(式部大夫)・原胤長(豊前守)らに命じて千葉千鶴丸(のち重胤)を小田原へ証人として進上させ、代って北条直重(七郎)が千葉介を継承したか。 

 天正15(1587)年12月17日、牛久在番についての『北条氏政書状写』が発給されているが、この年の5月、豊臣秀吉は九州に攻め入って島津義久を降伏させ、さらに12月には関東・奥州の諸大名に「惣無事令」が発令され、すべての戦闘を禁じた。「西表之儀」は京都の豊臣勢のことを記していると考えられる。12月30日、牛久城番は高城胤則が受け取る予定だったが、秀吉の動向のために少し変更がなされ、来正月5日までに総勢が牛久に詰めるにあたり、まずは26日、高城衆の半分と豊嶋貞継(府川城主)自身が詰めて番を受け取ることが命じられたことを伝えている。 

 かわって胤徳は小田原への参陣が命じられ、井田衆二百二十五名のうち、二十五人は「在所(上総国坂田)」へ置き、二百人を「当表(小田原)」「走廻(働きまわること)」が命じられたが、胤徳はとりあえずこのうちから七十人を召連れて、来年正月七日に上総国坂田を発し、十一日に小田原へ着陣すること、さらに残る百三十人は坂田に置き、飛脚一人で小田原に馳せ来るよう指示しておくことが命じられた。井田氏の軍役は同じく12月に取り決められ、「軍役割付」が発給されている。  

天正15(1587)年12月17日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

     定
 一 牛久番、来晦日高城雖可請取候、西表之儀ニ付而、正月五ヶ日之内、
   各当番衆可為参陣間、来廿六日、高城衆半分、豊嶋自身相移
   番可請取由、有下知事、
 一 其方可有参陣模様、二百廿五人之内、廿五人をハ在所ニ指置候、
   二百人者当表可為走廻事、
     付、此内七十人召連、来正月七日在所を打立、十一日ニ当地為可着陣候、
     残而百卅人者、先在所ニ指置尤候、西表聞合可相集間、飛脚一人ニ而、
     夜通馳著様ニ手堅、自只今仕置尤候事、
 一 兼日定置著到武具、彼是此節極候間、随而入精、毛頭無相違候、可被致之事、
   右、天下至于大途者、是非興衰此節迄候間、無疑心無二可有支度候、
   記右条々能々見分、少も無相違様、為可専一候、仍如件、

     十二月十七日    氏政
      井田因幡守殿

◎井田衆の軍役…300名(井田胤徳はじめ将校を含む)
         |
         +―225名(動かす軍勢)
         |  |
         |  +―25名(上総国坂田へ置く)
         |  |
         |  +―200名(小田原へ出張)
         |     |
         |     +―70名(井田胤徳みずから率いて1月11日に小田原へ)
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         |     +―130名(上総坂田に置き、一度伝令を受けた際には小田原へ急行する)
         |
         +―75名(牛久城に在番として残すか?)

 さらに28日には、来正月15日に著到状のとおり一騎一人不足なく小田原へ到着することとした『北条氏政判物写』。ほぼ同じ内容の書状が大須賀尾張守に宛てても発給されている『北条氏政判物』

天正15(1587)年12月28日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 如顕先書、京勢催動儀、必然之様ニ告来間、先諸軍軍勢を、急速相集候、
 以前着到帳を定、申合人衆、一騎一人無不足、来正月十五日、小田原へ可被打著候
 以此日積、其元を何成共出歩尤候、手前ニ不足ニ有間敷候間、成次第尤候、
 畢竟能衆上下共ニ被撰、出人数無相違召連専一候、一長途之儀、誠苦労雖無是非候、
 当家之切留、此時ニ極歟之間、遠慮も無詮候哉、兎角無二無三此節可被抽武功候、
 猶著後近可申候、一当番ニ定牛久へ人衆可被置候歟、来正月七日高城、豊嶋以両手内、
 可替由加下知候間
、如著到可有参陣候、仍如件、

    十二月廿八日     氏政
    井田因幡守殿

 そして翌天正16(1588)年と思われる正月18日付の『北条氏政書状写』には、牛久城代・岡見甚内が武功をあげたことが記されている。しかし、氏政は井田胤徳に「甚内は若者であるので、勝ちに乗じて無茶な働きをするやも知れず、そのことで討死することなきよう、其方が様々指導すること」と指示した。井田胤徳が老練な将として北条氏から信頼されていたことがわかる。

天正16(1588)年?正月18日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 今度牛久夜入之節岡見甚内被致高名候儀、忠信尤ニ候、乍去以来、
 若武者之儀候得者、勝乗無理之働、可有之存候間、無打死様、
 其方異見指引専一候
、替儀於有之者、被可申遣候、恐々謹言、

   正月十八日          氏政
    井田因幡殿
   (↑井田因幡守胤徳)

 この時期、豊臣秀吉から私戦を禁じる「惣無事令」が出されているにもかかわらず、関東・奥州では佐竹義重や伊達政宗、北条氏直らが私戦を繰り広げていた。

 天正16(1588)年2月、常陸国において、江戸重通(水戸城主)と大掾清幹(府中城主)の間で戦乱が起こったが、江戸重通は佐竹義重と結んでいたことから、大掾清幹は北条家の援軍を求めたのだった。さらに岡見宗治(足高城主)と多賀谷重経(下妻城主)が争い、北条氏は牛久城の岡見宗治のもとに「高城衆、豊嶋衆」ほか井田胤徳を差し向けている。

 このように佐竹氏と北条氏との間ではしばしば戦闘が行われていた。このため2月28日、氏政は岡見治広(牛久城主)に対して、氏直直々の出陣がある事を告げている。3月になって氏直は常陸国へ出陣し、幡谷越中守(大須賀一族)・押田与一郎の両名に対しては、著到状の通りの人数を率いて出陣するよう命じた。

 7月23日付の『北条氏政書状写』によれば、佐竹勢が攻め寄せたことから岡見甚内(岡見治広の子?)は小田原へ使者を遣わし、自らを先手とするよう願い出ていたことがわかる。氏政は「彼は若者ではあるが、先々のために望みをかなえたので、其方の手勢から戦慣れした武者五十騎ほどを選んで甚内の手につけてほしい。そして其方は二番手として土浦まで出陣してもらいたい。甚内の事は今回のことで討死することのないように頼む」と胤徳が後見するよう指示している。

天正16(1588)年?7月23日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 急度以飛脚申遣候、佐竹勢打向之由、忠信尤候、甚内申越通、
 先手甚内方へ申渡候、若者之儀候得者、先々望を叶候、其方手之内、
 能武者撰、五十騎程、甚内ニ指加、其方者二番手ニ被成、土浦迄出陣尤候
 甚内事、弥々今度之儀候間、無打死様被致候、弥忠信覚候、恐々謹言、

   七月廿三日      氏政
   井田因幡守殿

天正16(1588)年?8月13日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 動有之間、高城も参陣候、番替者有間敷候、其方衆動之間者、可有之候、
 恐々謹言、

   八月十三日   氏政(花押影)
    井田因幡守殿

 8月22日、常陸国の北条勢力が佐竹勢に押され、牛久城は佐竹方の多賀谷重経(下妻城主)の攻撃を受けており、治広は「大須賀殿」へ宛てて援軍の催促をした『岡見治広状』。胤徳も「昼夜御窮屈、御辛労不及是非候」とあって、治広ともどもかなり疲労困憊の状態だった様子がうかがえる。ここで、「如蒙仰因州少も不存隔意、万端申合候、可被御心安候」とあり、下総国にあっては、大須賀氏と井田氏は対立関係にあった様子も垣間見える。そのため治広は胤徳と申し合わせ、「大須賀殿」「少も不存隔意」ので「御心安」ことを伝える気遣いを見せている。

天正16(1588)年?8月22日『岡見治広書状』(『大須賀文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 御来書披見、誠々御面上心地一段本望存候間、■之敵■■違候、然者、井因昼夜御窮屈、
 御辛労不及是非候、自身御在番ニいり候、手前心静令安心候、如蒙仰因州少も不存隔意、
 万端申合候、可被御心安候
御大途方弥説も候者、則可令御為知候、北筋事者、追而遅々之躰、
 御当方御吉左右迄ニ無別当国御出張猶念願候、委曲先書ニ申達候之條、及疎報候、恐々謹言、

                  岡治
     八月廿二日          治広(花押)
   大須賀殿
        御報

 この時、胤徳も牛久城内で防戦にはげみ、ついに多賀谷勢を退却させたようで、9月20日、胤徳は小田原へ書状を遣わして牛久城の無事を伝えた。その書状は23日午後2時に小田原へ到着し、氏政は佐竹勢に備えるため、胤徳に10月5日まで「府川(北相馬郡利根町布川)近辺」に在陣するよう命じる書状を同日中にしたためて返送している『北条氏政書状写』

天正16(1588)年?9月23日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 廿日之一札廿三未刻到来候、仍牛久表無事之由、肝要候、一人衆弓鉄砲以下、
 如何ニも手堅被籠置、其方も先来月五日迄者、府川近辺ニ在陣尤候
 有替儀者、移時刻、可有注進候、恐々謹言、

   九月廿三日        氏政
    井田因幡守殿

 天正17(1589)年10月13日、奉行・山角定勝(紀伊守)を通じて「鉄砲停止」が命じられた『北条氏政書状写』。この「鉄砲停止」の命は、天正7(1579)年12月27日、千葉介邦胤が奉行・海保丹波守を通じて発給されていた『千葉介邦胤書状』。この鉄砲停止の命は、火薬の浪費を禁じたものとされている(『千葉氏研究の諸問題』)

天正7(1579)年12月27日『千葉介邦胤書状』(『井田文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

 其地近辺鉄砲停止之由候、尤御心得候了、此上無未熟、尚堅相留可申成、仍所定如件、

   辰十二月廿七日
                 海保丹波守 奉之
      井田刑部太輔殿
   (↑井田刑部大輔胤徳)

天正17(1589)年10月13日『北条氏政書状写』(『神保文書』:『千葉県史料 中世篇 諸家文書』所収)

     掟
 右於其方領分、以鉄砲鳥入事、尤可停止候、仍如件、

  己丑(天正17年)
   十月十三日   山角紀伊守奉
    井田因幡守殿
   (↑井田因幡守胤徳)

 天正13(1585)年、千葉介邦胤が暗殺されるや、北条氏は下総直接支配に乗り出し、これに反発したのが千葉氏筆頭家老で奏者の原若狭守親幹であった。彼は下総における千葉介の権威が低下することを恐れて徹底的に北条氏の意に背き、親北条派の原豊前守胤長と諍いを起こし、北条氏の当主・北条氏直の下総出陣を招いている。

 天正18(1590)年5月の小田原の戦いでは、300名の将士を率いて小田原城に入城、杉田為鑑の手に組して湯本口を守った。しかし千葉介代である千葉清胤(刑部少輔。千葉介胤富の子)が討死を遂げるなど千葉介側の被害も多く、小田原城内でも松田憲秀(尾張守)などの寝返りなどのために混乱し、城主・北条氏直がみずから城を出て投降、小田原城は自落して隠居・北条氏政や北条氏照、松田憲秀・大導寺政繁は死罪とされた。氏直は徳川家康の娘婿であったこともあり、命を助けられ高野山にて亡くなった。

■井田氏、水戸藩士となる

 小田原落城の後、胤徳は下総へ逃れていたが、あらたに佐倉城主となった武田万千代信吉(徳川家康の四男)に仕え、二百石を知行して佐倉領の代官となった。文禄元(1592)年9月27日と文禄2(1593)年7月3日、佐倉領における「年貢勘定證文」を発給されている。そして関ヶ原の戦いの後に信吉が水戸転封となるとこれに従い、信吉が亡くなって弟・徳川頼房が水戸藩主になると彼に仕え、慶長17(1612)年12月9日に亡くなった。

 胤徳の子・治大夫(権左衛門輝胤か)は父の死後、二百石を継承。大番となり、元和年中には先手足軽頭に就任して元和9(1623)年と寛永3(1626)年の将軍・徳川家光の上洛に従った主君・徳川頼房に随っている。その後、新知百石を加増。持筒頭となって足軽三十人が付属され、さらに百石が追加されて都合四百石を知行する。寛永11(1634)年の将軍上洛に従い、その後、旗奉行に昇進した。正保3(1646)年6月25日に亡くなった。

 治大夫には四人の子がおり、嫡男・喜大夫が井田家家督を相続し、二男・貞猶(源左衛門)は佐野将監の養子となった。三男・吉道(治大夫)は兄・喜大夫に嫡男がなかったことから、井田家の家督を相続することとなった。末弟の甚五左衛門土井利房(能登守)の家臣となる。

 喜大夫は初名を九郎兵衛と称した。母は望月五郎左衛門の娘。寛永年中に二百石を賜り、書院番頭となった。父の死後は知行の四百石を相続し、慶安年中に先手足軽頭に就任する。万治2(1659)年4月25日、45歳で亡くなった。

 喜大夫のあとは、弟の吉道(治大夫)が継ぎ、藩主・徳川頼房の七男・松平頼雄(大炊頭)に仕えた。兄の喜大夫には嫡男がなかったために、喜大夫の養子となり、三百石の知行を許され、大番となった。吉通のあとは、嫡男の好直(治大夫)が継承し、二百石を賜って大番に属す。享保13(1728)年4月7日に亡くなった。娘二人はそれぞれ大嶺庄左衛門言広佐野源太左衛門貞勝に嫁いだ。貞勝は叔父の貞猶の子か。

 好直(治大夫)の嫡男・好繁(平三郎)は父に先立って亡くなり、二男・好安(浅右衛門)も追放されていたことから、村上五郎高住の養子に入っていた三男・村上左馬助高景の次男・好近(小三郎)が井田家に戻り、家督を継いだ。

 好近のあとは長男・好典(参四郎)が継いだ。母は大森総右衛門近智の娘。しかし好典は早世してしまったのか、長女と長男・好禮(治大夫)は祖父の好近の養子となっている。彼らの母は中山備前守信敬家士・川嶋市次郎の伯母にあたる女性。長女は飯嶋勘次郎道行の妻となり、好禮は好典の跡を継いで井田家当主となった。

 好禮(治大夫)は矢田登義和の妹を娶り、その嫡男・好之(平三郎)が家督を継承した。長女は皆川八十吉栄達の妻となり、のちに筧介五郎正徳の妻となった。次女は兄・好之の養女となり、林五郎三郎正清の弟で好之の家督を継いだ好正(治大夫)の妻となった。好正の長女は齋藤市右衛門利貞の妻となり、長男・好徳(平三郎・因幡)が好正を継ぎ、井田家を継承した。

 江戸末期、水戸藩には尊王攘夷(朝廷を敬い、外国人を排斥する思想)の気風が色濃く漂い、その中でも特に過激な行動に出たのが、「天狗党」と呼ばれる一派だった。水戸藩は二代藩主・徳川光圀以降、朝廷を敬うという思想が強い藩で知られ、歴代の藩主もその思想を受け継いでいくという、特異な藩であった。特に幕末の水戸藩主・徳川斉昭は過激な尊皇攘夷者で、しばしば幕府の外交政策に口出しをしたため、幕府から嫌われていた。

 この斉昭の思想を信奉する者たちが、斉昭の側近として思想の中心人物であった重臣・武田修理正生(耕雲斎)やその甥・藤田小四郎らとともに天狗党を結成した。その天狗党の隊長として活動していたのが好徳(平三郎)であった。もともと五十石取の小従人組で、尊王攘夷論を唱えていたため、文久元(1861)年に一旦は家禄没収の憂き目を見る。しかし、水戸藩主・徳川慶篤(斉昭の嫡男)は尊皇攘夷論者でもあったためか、文久3(1863)年に赦されて、主君・徳川慶篤とともに京都へ入った。はじめのうちは天狗党ではないが、潮来勢を率いて武田耕雲斎の軍勢と合流したのちは、天狗党と行動をともにするようになる『水府系纂』

 しかし、尊皇攘夷の先駆けをせんと上洛の途次、幕府・諸藩の追討軍と戦い、金沢藩の追撃を受けて降伏。元治2(1865)年2月4日、敦賀で斬首された。享年二十八(『水戸幕末風雲録』)

●馬・太刀奉納人数

井田美濃守 海保但馬守 佐久間伯耆守 山梨主税助 金剛寺少輔 和田大蔵丞 坂戸兵部少輔 坂戸修理亮
三谷孫四郎 粟飯原久四郎 椎名八郎 木村出雲守 坂戸孫三郎 安藤豊前守 三谷蔵人佐 粟飯原孫太郎
山室孫四郎 鏑木助太郎 幡谷宮内少輔 粟飯原大学 三谷大膳亮 幡谷又六郎    

◇天正15(1587)年12月『北条氏軍役割付写』(数字は出陣した人物の人数:武将自身も含む。■:出陣した人物)

氏名 大簱 自身指物 歩弓侍 歩鉄砲侍 持鑓 馬上侍 自身 馬廻歩 乗替 総勢  
井田因幡守胤徳
(坂田城主。井田衆筆頭。)
                       
井田権左衛門輝胤
(大台城主。胤徳の嫡男。)
                       
井田志摩守 1 1   1 2     1      6  
井田治右衛門尉         1      1       2  
和田左衛門尉胤茂 10 1 20 20 40 10 26    110   7  145 山中城主。  
  11 2 20 21 43 10 26 3 10 7 153  
三谷衆氏名 大簱 自身指物 歩弓侍 歩鉄砲侍 持鑓 馬上侍 自身 馬廻歩 乗替 総勢  
三谷蔵人佐胤重
(新村城主)
11 2210 26  1  4    30 88貫350文。
三谷民部少輔1 1   2      1      5 17貫280文。
三谷右馬助  1   1      1      3 12貫050文。
三谷源次左衛門  1   1      1      3 10貫100文。
三谷主税助      (1)      1      1 5貫850文。
三谷刑部左衛門尉      (1)      1      1 4貫130文。
 2 4 2214(2) 2 6 6 4   43  
椎名衆氏名大簱 自身指物歩弓侍 歩鉄砲侍 持鑓 馬上侍 自身 馬廻歩 乗替 総勢  
椎名勢兵衛顕時
(芝崎城主)
21 2210 2  6  1  4      30 113貫450文。
椎名帯刀左衛門尉1 1   2      1      5 19貫500文。
椎名図書助1 1  12      1      6 19貫300文。
椎名彈正
(虫生城将)
 1   1      1      3 13貫100文。
椎名摂津守1 1  12      1      6 24貫530文。
椎名佐渡守1 1  12       1      6 24貫文。
椎名将左衛門尉1 1  12       1      6 15貫文。
椎名孫兵衛1 1  12       1      6 13貫文。
椎名刑部丞  1   1      1      3 7貫文。
椎名織部丞                        6貫150文。
 8 9 2724 2 6 9 4   71  
井田氏譜代氏名大簱 自身指物歩弓侍 歩鉄砲侍 持鑓 馬上侍 自身 馬廻歩 乗替 総勢  
掘内右衛門尉1 1 225 2  3  1  3     20   
村山伊賀守1 1  12       1      6   
神保長門守
(小堤城将)
                       
白升和泉守
(津辺城将)
                       
真行寺助九郎
(坂田城将)
     (1)        1        1   
伊藤八郎左衛門
(坂田城将)
     (1)        1      1   
寺田左京亮
(船越城将)
     (1)      1      1  
桜井六郎右衛門
(於幾城将)
     (1)      1      1  
 2 2 237(4) 2 3 6 3   30  
名前不詳      (1)      1     1  
 籏総数   弓総数 鉄砲
総数
鑓総数 持鑓
総数
馬上侍 武将数     総勢  
 23 17 263388(7) 16 41 25 21 7 298 ⇒井田衆は三百人が軍役割付であり、残り2名は不明。当主・井田胤徳と嫡子・井田輝胤か?

-井田氏略系図-

→井田刑部大輔-胤俊―――友胤――――胤徳―――輝胤
       (美濃守)(刑部大輔)(因幡守)(権左衛門)

―千葉・押田・井田・山室・和田氏略系図―

                      山室隆尚――忠隆―――常隆――+―氏勝―――勝信   +―胤富
                     (肥前守) (伊勢守)(飛騨守)|(越中守)(治部少輔)|(伊賀守)
                                     |           |
                                     +―娘    和田胤信―+―娘
                                       ∥   (左衛門尉)  ∥―――輝胤
                                       ∥           ∥  (権左衛門尉)
                           井田刑部―胤俊―――+―友胤――――――――+―胤徳
                               (美濃守) |(刑部大輔)     |(因幡守)
                                     |           |
                                     +―氏胤        +―胤信
                                     |           |(治右衛門)
                                     |           |
                                     +―志摩守       +―僧侶
                                     |           |
                                     +―千方民部妻     +――――――娘
                                                        ∥
                岩橋輔胤――娘   +―教友―――吉持―――+―昌定―――――――胤定     ∥
                      ∥   |(近江守)(近江守) |(近江守)    (下野守)   ∥
                      ∥   |           |           ∥―――――吉正
                      ∥―――+―娘         +―海上五郎大夫――――娘    (与一郎)
                      ∥     ∥         |(海上丹後守養子)         
 押田頼忠――又次郎――掃部――常吉――+―輔吉   鏑木胤永       |
(次郎太郎)         (伊勢守)|(近江守)(備中守)       +―平山左京亮妻
                    |                 |
                    +―将監―――蔵人         +―東金左衛門尉妻
                                      |
                                      +―千葉中務少輔(胤盛?)妻


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