【千葉氏】【相馬氏】【大須賀氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】
〔ご協力・ご参考〕
伊達家の家臣となった曰理(亘理)家は、御一門・涌谷伊達家(二万二六四十余石)と御一家・佐沼亘理家(五千石)の二つの流れとなるが、涌谷伊達家は新たに創設された家であり、亘理家の名跡を継いだのは、この佐沼亘理家であった。
(1600-1669)
高清水亘理家初代当主。父は鬼庭石見守綱元(茂庭石見延元)。実父は初代仙台藩主・伊達権中納言政宗。母は豊臣家士の高田治郎右衛門娘・種。妻は亘理美濃守重宗娘。通称は又次郎、右近、伯耆。妻の実家・亘理家を相続した。
慶長5(1600)年、伏見の伊達家屋敷で誕生した。幼名は又次郎。母の高田種(香の前)は豊臣秀吉の側妾であったが、政宗の片腕・茂庭延元が秀吉に気に入られ、於種は延元の妻となる。しかし文禄4(1595)年、延元は政宗の勘気に触れて伊達家を出奔した。これは延元が秀吉から直々に香の前を賜ったためであるともされている。慶長2(1597)年、延元は帰参を許され、ふたたび政宗の片腕として手腕をふるうことになるが、帰参にともない、香の前を政宗に献じ、政宗との間に一女一男を儲けた。その男子が又次郎である。
慶長7(1602)年、又次郎は姉・母に連れられて伏見から仙台の茂庭邸へ移った。このとき又次郎三歳。形の上では茂庭家の子として成長することになる。
慶長11(1606)年、七歳にして亘理美濃守重宗の養嗣子となって、重宗の隠居所である栗原郡高清水に移った。これは重宗の嫡男・定宗が「伊達」姓を与えられて新しい家(涌谷伊達家)を創設したことによって、「亘理」家の家督が不在となったことによる措置であった。
元和元(1615)年5月、十六歳にして実父・政宗に随って大坂の陣(夏の陣)に出征し、大坂方の大野治長と激突。家臣・牧野半助とともに敵陣に入り、治長の家臣で剛勇の名高い中川隼人を討ち取り、政宗から大いに賞された。この軍功によって栗原郡沼崎村、鶯沢村内に知行が与えられた。
元和2(1616)年、政宗の肝煎で又次郎と亘理美濃守重宗の娘の婚姻が調い、亘理家を相続した。おそらくこのころ又次郎は元服したと思われ「亘理右近宗根」を称したが、「宗」字は実父・政宗の一字を与えられたものだろう。妻の亘理氏は慶長8(1603)年の生まれで、宗根とは三歳違いの十四歳であった。
●伊達家寛文騒動の関係図 黒木宗俊―――娘 |
亘理家は仙台藩の格式の中で、御一門に次ぐ御一家に序列される家柄として代々続いていくことになる。宗根は政宗の死後も異父兄・忠宗に忠実に仕え、たびたび賞されたという。
寛文9(1669)年10月26日、70歳で亡くなった。法号は超誓院殿格外玄秀大居士。高清水村の菩提寺・安楽寺に葬られた。
妻の亘理氏は、宗根に遅れること約二十年、貞享2(1685)年2月20日、八十三歳で亡くなった。法名は榮頌院殿深譽貞心。高清水村の松榮寺に葬られている。
宗根の姉(慶月院)は宿老・原田甲斐宗資に嫁ぎ、原田甲斐宗輔を産んだ。「伊達騒動(寛文騒動)」で伊達安芸宗重と争った人物である。伊達宗重ともども「伊達騒動」の両派の首領は亘理家と因縁深かった。
(1624-1701)
高清水亘理家嫡子。父は亘理伯耆宗根。母は亘理美濃守重宗娘(榮頌院)。妻は伯父・泉田出羽重時娘。通称は又次郎、右近。号は榮久。
●伊達家寛文騒動の関係図 黒木宗俊―――娘 |
寛永元(1624)年11月13日、高清水村に誕生した。彼は故あって亘理家を継がず、彼の子・熊助宗喬が高清水亘理家二代を相続した。これは系譜に示す通り、宗広が伊達安芸宗重、原田甲斐宗輔の両名と従兄弟にあたるという血縁上、亘理家を事件の累に巻き込むことを恐れた措置だったともいわれる。
元禄14(1701)年9月7日、78歳で亡くなった。法名は榮久院養譽報安。高清水村の松榮寺に葬られた。
次弟の亘理因幡広常は寛永6(1629)年生まれ。元禄7(1694)年7月11日、66歳で亡くなった。高清水村の安楽寺に葬られた。法名は正覺院殿成譽誓公大居士。
三弟・求馬は重臣の各務釆女利昭の養嗣子となり、各務求馬利静を称した。妹は佐藤市十郎安信に嫁いだ。元禄11(1698)年5月18日、31歳で亡くなった。法名は智眼院玄嶽妙幽。
(1629-1707)
高清水亘理家二代当主。父は亘理右近宗広。母は泉田出羽重時娘。通称は熊之助、信濃、大隈。号は休也。
承応元(1629)年8月29日、高清水に生まれた。父・宗広が家督を継がなかったため、嫡孫であった宗喬が家督を継いだ。
宗喬には跡継ぎの男子がなかったため、親類の涌谷伊達家より亘理藤吉宗紹が娘婿として亘理家に入った。のちの亘理元篤である。
宝永4(1707)年12月27日に五十六歳で亡くなった。墓所は高清水の安楽寺。法名は還到院殿信道榮源徳翁大居士。妹は大立目彦三郎重直に嫁いだ。
(1676-1741)
高清水亘理家三代当主。父は伊達安芸宗元。母は岩出山伊達弾正宗敏娘。妻は亘理大隈宗喬娘(光顔院殿超譽儒清)。通称は藤吉・石見。初名は宗紹。
延宝4(1676)年10月8日、遠田郡涌谷に誕生した。幼名は亘理藤吉。元服して元篤を称するが、父・宗元の一字を給わっているのかもしれない。
元篤は水沢伊達家の政務を見たり、正徳3(1713)年には仙台本藩の若年寄に就任し、評定奉行をも兼ねるなど行政に手腕を発揮したようである。
寛保2(1741)年9月22日、六十七歳で亡くなり、菩提寺の安楽寺に葬られた。法名は廓寥院殿徳譽浄然寂道大居士。
元篤は享保14(1729)年5月、藩庁に弟の亘理又三郎喬利の分家独立を請い、喬利は宗藩で百石取りの虎間番士となっている。延享4(1747)年5月5日、亡くなった。墓所は安楽寺。法名は浄受院殿倶譽樂軒。
(1702-1750)
高清水亘理家四代当主。父は亘理石見元篤。母は亘理大隈宗喬娘(光顔院)。妻は瀬上壱岐娘。通称は右近・伯耆・内膳・石見。初名は定吉。
定根の「定」はおそらく涌谷伊達家の伊達安芸村定よりの偏諱と思われ、村定が烏帽子親なのだろう。寛保4(1744)年、大番頭に就任した。
寛延3(1750)年6月3日、四十九歳で亡くなった。法名は眞還院殿致覺道本善翁大居士。墓所は安楽寺。
●亘理家・涌谷伊達家系譜 黒木宗俊―――娘 |
姉の蘭は泉田家に嫁ぐことが決まっていたが、それを前に亡くなってしまった。法名は照臺院玉顔眞光。
妹の類(寶鏡院圓應妙照)は中島十郎実信に嫁いだ。実信の娘は、亘理家の宗家・伊達安芸村常に嫁ぎ、伊達安芸村清を生んでいる。
次弟の大立目下野盛行は享保7(1722)年8月27日、仙台に生まれ、大立目家の養嗣子となった。
三弟・亘理丈之進篤志は享保9(1724)年4月14日、仙台に誕生した。寛保2(1741)年4月、兄の定根から九十三石を給わって別家をたて、仙台本藩で召出一番座となる。明和5(1768)年、四十五歳で亡くなり、佐沼城の北郭に葬られた。法名は殊勝院深譽諦善。
四弟・亘理大七郎根喬は、叔父の又三郎喬利の養嗣子となった。五弟・亘理彦之丞篤信は兄・定根の養嗣子となり、佐沼亘理家の家督を継いだ。
末妹の民(深致院妙解日理)は享保15(1730)年に仙台に生まれ、松本縫殿右衛門の養女となり小野進太夫に嫁いだが、寛延4(1751)年3月29日、二十二歳で亡くなった。仙台城の東、孝勝寺に葬られた。
(1738-1813)
高清水亘理家五代当主。佐沼亘理家初代当主。亘理石見元篤の五男。母は庄司氏。妻は大條監物道頼娘。通称は彦之丞・要人・伯耆・石見。初名は篤信。
元文3(1738)年11月8日、仙台の亘理邸に誕生した。実子のなかった異母兄・元篤の養子となり、亘理家の家督を継承した。おそらく家督を相続するに当たり、宗家の伊達安芸村倫の一字を受けて「倫篤」と称したと思われる。
宝暦7(1757)年正月11日、高清水から栗原郡佐沼(登米市迫町佐沼)に所領を移されて五千石となり、2月19日、高清水を出立して佐沼に入部。周りを水濠と川に囲まれた佐沼要害に屋敷を構えた。ここが幕末まで亘理家の屋敷として続いていく。宝暦8(1758)年7月、「栗原郡佐沼北方村之内所々都合五百貫文」の藩公・重村の朱印状が藩の奉行より下されている。
その後、宗村の代には大番頭に就任し、文化10(1813)年8月25日、七十六歳で亡くなった。墓所は佐沼城の北郭(西舘)。法名は紫雲院殿来譽迎引接清大居士。
(1770-1818)
佐沼亘理家二代当主。父は亘理石見倫篤。母は石塚氏。嫡母・大條氏の養子となった。初名は盛根、盛胤。通称は大吉、右近、要人、内膳。
明和7(1770)年10月8日、佐沼城に誕生した。初名は盛根、さらには盛胤と改めたが、その後、家督を相続するに際し、涌谷伊達家の伊達安芸村常の一字を受けて「常篤」と称したと思われる。
藩庁に出仕して申次、近習を経て、大番頭、評定奉行、そして寛政11(1799)年6月には若老へと出世した。
文政元(1818)年3月29日、四十九歳で亡くなり、佐沼城北郭(西舘)に葬られた。法名は究竟院殿仁誉義道礼公大居士。
(1803-1841)
佐沼亘理家三代当主。父は亘理内膳常篤。初名は千之助。通称は伯耆、石見。
享和3(1803)年4月13日、仙台屋敷に誕生した。兄の又次郎が寛政12(1800)年4月3日に亡くなっていたため、千之助が嫡子として育てられた。
文政元(1818)年3月、父・常篤が亡くなったため、6月15日、千之助が家督を継承した。おそらくその際に宗家の伊達安芸村清より一字「清」が与えられ、「清胤」を称したのだろう。
天保12(1841)年9月14日に三十九歳で亡くなった。法名は浄安院殿徳誉宗源明公大居士。
(1821-1867)
佐沼亘理家四代当主。亘理石見清胤の三男。母は片倉大弼景貞娘。通称は徳治郎、伯耆。
文政11(1828)年8月18日に仙台屋敷に誕生。天保3(1832)年、家督を継承した。徳治郎このとき十一歳。この頃元服も行なわれたと思われ、伊達安芸義基の一字を与えられ「基胤」を名乗ったと思われる。基胤は若くして武者奉行、江戸御留守居を務めるなど、その能力を認められ、さらにその後、評定奉行となっている。
彼には千之助、榮之進の二人の同母兄がいたが、彼が生まれる前に夭折しており、基胤が嫡子として扱われたと思われる。福と仲の二人の姉もいたが、仲は基胤誕生前に亡くなっている。
文久2(1862)年6月、致仕。慶応3(1867)年8月16日に四十歳の若さで亡くなった。法名は荘敬院殿渙誉忠烈義公大居士。
片倉村廉―+―片倉村典―――片倉景貞―+―片倉宗景―――片倉邦典
(小十郎) |(小十郎) (大弼) |(小十郎) (小十郎)
| |
+―薫 +―娘
(謙光院殿) ∥――――――亘理隆胤
∥ ∥ (大吉)
伊達村倫 亘理基胤
(安芸) (伯耆)
(1848-1916)
佐沼亘理家五代当主。亘理伯耆基胤の子。通称は大吉。号は三江、古鹿山人。
嘉永元(1848)年3月15日、誕生した。文久2(1862)年、父・基胤の隠居にともなって家督相続。大吉このとき十五歳。元服にあたっては、宗家の伊達邦隆を烏帽子親とし、「隆」字を給わったと思われる。
慶応4(1868)年の奥州では、朝敵として追討の対象になっていた会津藩・庄内藩を救うべく、仙台藩・米沢藩が中心になって、薩長主体の奥羽鎮撫総督府と交渉を行っていたが、交渉は遅々として進まず、閏4月11日、仙台藩・米沢藩が盟主になって、会津藩救済を求める二十七藩からなる奥羽列藩同盟が結成されて強い態度で交渉に出た。しかし、世良修蔵、大山格之助ら私的に会津・庄内を恨む薩長藩士が参謀として権力を握る軍隊において、列藩の努力は踏みにじられることになった。
こうした中、世良は「奥羽皆敵」として討つことを書状に認めて大山に送ろうとして仙台藩士に発見され、閏4月20日、二本松の楼閣の土蔵にいたところを捕縛されて阿武隈川の河原において斬首。列藩同盟と総督府は敵対関係となった。
5月23日、仙台藩は梁川播磨を大隊長とする五小隊を新庄に出兵させた。これは出羽久保田藩に同盟離脱のうわさがあったためで、庄内藩の救援という名目で派遣されたものであった。また、参政の但木左近、中村宗三郎は出羽との国境・寒風沢と尿前の守衛を命じられている。
そして7月4日、仙台藩から秋田藩へ遣わされた使者十一名が秋田藩士によって斬殺され、秋田藩は列藩同盟を離脱し、庄内藩に攻め寄せた。
7月10日、仙台藩大隊長・梁川播磨は、庄内藩・水野弥兵衛、米沢藩・樋口甚六らとともに、新庄藩隊を先鋒として庄内へ向かっており、及位(真室川町大字及位)に片倉大之進隊・秋保助太郎隊の二小隊と米沢藩二小隊を配置し、そのほかの列藩兵は蟻谷・大瀧に配置していたが、7月11日朝、佐賀藩の大砲隊、佐賀藩・小倉藩の歩兵隊が山を越えて奇襲してきた。片倉、秋保、樋口隊らは不意を討たれて第二胸壁へ退いて抗戦したものの、新庄藩の寝返りもあって同盟軍は敗退。仙台藩大隊長・梁川播磨は佐賀藩士・石井弾三郎に狙撃されて負傷し、同じく負傷した軍監・五十嵐岱助とともに刺し違えて自刃。ほか三十六人が戦死を遂げた。
これら大敗の報告を受けた仙台藩庁は、国境守備に出していた岩出山伊達家の三小隊を庄内へ増派することとし、但木左近・中村宗三郎隊を遊軍として控えさせた。これに加えて、今村鷲之助を軍事参謀とした軍勢の派遣を決定。仙台在府の亘理大吉隆胤も出陣を命じられた。
7月15日、隆胤は国元の佐沼に出兵を命じる使者を派遣し、これを受けた佐沼の留守居は二百七十名の一大隊を整えて出羽へ向けて出立。翌16日、仙台から出兵してきた隆胤と中新田(栗駒市栗駒八幡)にて合流。19日、中新田を出立して岩出山城下(大崎市岩出山)に宿陣した。家老職の坂本助左衛門、中村惣右衛門以下、佐瀬源吾(旗奉行)、牧野半助(番頭)、翁新兵衛(銃隊長)、伊藤吉之助(兵糧奉行)、今野蔵治(参謀)、狩野金右衛門(監軍)、野川惣吉・氏家末之進(古銃隊長)、畑中昌平・今野常吉(武頭)、武川文太夫(大筒隊長)ら総勢三百八人の軍勢を整えた。
さらに涌谷伊達隊(亘理東吾隊、坂本半左衛門隊)、船岡柴田隊(銃士五小隊)、瀬上主膳(三小隊)の兵がこれに加わっている。米沢藩からも本荘大和隊(宮島掃部参謀)七百名が合流している。
7月21日、岩出山を出立して鳴子温泉(大崎市鳴子温泉)に宿陣。24日、鳴子温泉を出立して、一気に山を登って新庄藩領瀬見温泉(山形県最上郡最上町瀬見温泉)に入り、28日、新庄藩領長沢村(最上郡舟形町長沢)に宿陣。8月3日、激戦場だった船形村(舟形町舟形)の宿場町に陣を構えた。
しかし、このあたり一帯はすでに戦いは終わり、8月3日には焦土と化した新庄城下(新庄市)を通過して新庄藩公戸沢家の菩提寺・瑞雲寺(新庄市十日町)に本陣を置いた。翌8月4日、新庄を出立して北上、及位峠(真室川町大字及位)の西軍陣所跡を踏み渡り、院内(湯沢市上院内)に宿陣した。このあたりに来ると、秋田藩との戦いの前線に近づいてきていた。
8月7日、庄内藩と連携し、東側の間道を北上するルートを進むこととなった隆胤は、この日は稲庭(湯沢市稲庭町)に宿陣。翌8日早朝に出立したが、八連村(湯沢市駒形町八連)ではじめて敵兵と遭遇。涌谷隊先手の銃隊長・翁新兵衛が攻めて、増田村(横手市増田町)まで追撃し、銃士隊の近藤兵衛、今野蓮治、大砲銃隊・阿部友吉の三名が負傷したが、亘理勢は秋田藩兵を追い落とすことに成功。戦勝の勢いは翌9日も続き、亀田村、半助村でも大勝を収めて増田に帰陣した。
その後も列藩同盟軍の攻勢は続き、秋田藩の南の要・横手城を包囲した。この包囲戦では、涌谷伊達家の軍勢が城の南を、隆胤率いる亘理勢は南西を固め、南東からは瀬上主膳、西からは主力の庄内藩勢がそれぞれ攻め立てた。隆胤と瀬上主膳は搦手の橋際まで進むと、さかんに銃撃を加えた。十九歳の城代・戸村大学は奮戦したものの、ついに及ばず血路を開いて落ち延びていった。この戦いでは、番頭の牧野半助、鑓隊士の千田半兵衛、銃隊士の佐々木保之進、伊藤忠治らが抜刀して功名を挙げた。しかし、銃隊長の翁新兵衛が止めるのも聞かずに伊藤忠治はさらに敵を深追いし、伏勢の銃撃を受けて戦死した。これが亘理隊の初の戦死者となった。忠治の遺体は、ともに奮戦していた笛士・伊藤仲が駆け寄って収容し、横手の頼光寺に埋葬された。その後、忠治の父で兵糧奉行の伊藤吉之助が遺体を荼毘に伏して佐沼へ送ったという。
横手を攻め落としたのち、続いては要害・角館を攻めるべく、庄内、涌谷、佐沼勢はさらに北上した。そして8月14日、金沢宿(仙北郡美郷町金沢)を通過して六郷(美郷町六郷)に宿陣。16日、六郷を出発して、大曲宿に着陣した。17日、角館攻めの評定が行われ、庄内藩から北爪楯六、加賀山藤太夫が軍監として佐沼勢に加わっている。
8月18日、大曲から四ツ屋(大仙市四ツ屋)に陣を進め、8月20日、川沿いの合田渡で敵の間者を捕えている。
8月21日、佐沼隊は仙台藩の瀬上主膳とともに四ツ屋を出て、東の横沢(大仙市太田町横沢)へ移った。四ツ屋は仙台藩将・中村宗三郎(岩ヶ崎領主)が守衛していたが、24日未明から始まった激戦に敗れ、涌谷勢・岩出山勢とともに六郷まで退却した。
一方、佐沼隊は23日午前六時、隆胤は古銃隊長・氏家末之進を隊長とする一部隊を斥候として先陣させ、国見村(大仙市太田町国見)に入ったとき、一面に広がる萱原の中から敵の伏兵による銃撃を受けた。この報告を受けた隆胤はただちに手勢を国見に向かわせて合戦に及んだ。これに瀬上主膳の部隊も加わり、敵の大村藩勢を大いに打ち破った。この合戦で大村藩士・葉山平右衛門以下、大村喜兵衛、溝延寿太郎、片桐小一郎、中山半槌、野木新蔵らが抜刀して突撃してきたが、佐沼隊鑓士・千田半兵衛、仙台本藩監軍の草刈鉄之丞・内海雄一郎、瀬上主膳の家臣・岩淵左覚らによって掃討された。しかし、この合戦で佐沼銃隊隊長・氏家末之進をはじめ、菅野千代治、高橋謙治、佐々木文左衛門、阿部勝之進、三浦養蔵、佐藤円太夫が討死、高橋千代治、氏家周蔵、佐藤富治が負傷した。
佐沼隊は瀬上主膳隊とともに角館へ向けて進軍し、国見で激戦。8月24日、いったん横沢に戻り、さらに板見内(大仙市板見内)に本陣を移して、横沢には守衛の一小隊を配置して守った。ここで岩ヶ崎中村隊、岩出山伊達隊と合流し、8月28日、佐沼隊は瀬上主膳隊とともに角館城の東、白岩前郷村(仙北市角館町白岩前郷)に進軍し、西軍と合戦となった。川を挟んでの激戦であったが、佐沼隊ほか仙台藩・庄内藩兵は敗れ、板見内にまで退却を余儀なくされた。この合戦で佐沼隊の足軽目付・岩崎十助が討ち死にしている。
その後数日の間、佐沼隊は板見内に宿陣し、その周辺にいた西軍との散発的な戦闘を繰り返した。一方、岩出山伊達隊、涌谷伊達隊、岩谷堂伊達隊、水沢伊達隊、庄内藩兵らは角館に向けて進軍を開始していたが、9月17日、佐沼隊のもとに仙台藩の降伏を伝える伝令が到着した。
このころ仙台城内では、和平派と主戦派の二派に分かれて激しく争っていたが、9月9日、和平派の水沢領主・伊達将監邦寧、亘理領主・伊達藤五郎邦成らが主戦派の奉行・但木土佐、坂英力らを退け、藩論を恭順降伏と定めた。こうして仙台藩も西軍に降伏することとなり、藩公・伊達慶邦は伊達将監と宿老・遠藤文七郎允信を降伏の使者として総督府に派遣。9月15日、仙台藩の降伏が認められた。伝令はこれを受けたものだった。
9月18日、停戦の使者として、大町源十郎が佐沼隊の陣所に到着。ただちに兵を仙台に戻すよう指示を受け、隆胤は板見内を陣払いして、21日にかけて稲庭、小安(湯沢市皆瀬)、田代(湯沢市皆瀬)と険峻な栗駒山系を横断、沼倉(栗駒市栗駒沼倉)でようやく一息つくことができたという。その日のうちに、岩ヶ崎(中村宗三郎知行地)に到着し、ここで一泊。翌22日、隆胤は軍事参謀・今村鷲之助、家老・中村惣右衛門、参謀・今野蔵治、馬廻・伊藤謙吉らとともに仙台へ向かうこととなり、佐沼隊は9月23日、坂本助左衛門に率いられて佐沼に帰着した。
隆胤は維新の後は、学区取締、駒方神社宮司権大講義、岩木山神社権宮司などを拝任し、初代佐沼町長に選ばれ、地元の名士として活躍している。
武勇の人である一方で、涌谷伊達家の私学校・月将館や江戸の昌平校で学び仙台藩学・養賢堂の教授となっていた大槻盤渓や国分松嶼、岡千仞らに経史詩文を師事し、学問にも深い造詣があった。
大正5(1916)年10月20日、六十九歳で惜しまれつつ亡くなった。法名は静観院殿博誉文英仁公大居士。
(1867-1905)
佐沼亘理家六代当主。亘理大吉隆胤の子。通称は定吉。諱の「邦」は藩公・伊達慶邦からの偏諱か。
慶応3(1867)年8月8日に誕生。明治38(1905)年1月20日に三十九歳の若さで亡くなった。法名は孝敬院殿仁誉廉格徳公大居士。
◇涌谷伊達家・亘理家略系譜◇
+―伊達忠宗―――綱宗――+―綱村
|(陸奥守) (陸奥守)|(陸奥守)
| |
| +―類姫
| ∥―――村胤―【涌谷伊達家】
| 伊達宗重―――宗元――+―村元 (安芸)
|(安芸) (安芸) |(安芸)
| |
| +――――+=元篤―+―定根==倫篤
| |(石見)|(石見)(石見)
| | |
伊達政宗―+―亘理宗根―+―宗広―――宗喬――+ +―倫篤――盛胤――清胤――基胤――隆胤
(中納言) (伯耆守) |(右近) (大隈) | |(石見)
| | |
+―各務求馬 | +―篤志==篤愛――胤愛――胤志
(各務釆女養子) | |(丈之進)
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| +―大立目盛行―+―盛篤―+―清篤==充宣
| |(成紹養子) | | (伊達長門宗充五男)
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+―喬利=+―根喬====+―喬胤=+―篤喬
(宗喬実子) |
|
+―篤愛
~ご協力・参考文献~
坂本氏 | 『佐沼亘理家御系図草案』(享和2年 目々澤新右衛門) 『涌谷伊達家関係資料集』 『平姓千葉一家武石亘理分流坂本氏関係系図並びに史料』 |
『迫町史』第四章 | 迫町教育委員会 |
『仙台戊辰戦争史』三 | 日本史籍協会/(財)東京大学出版会 |
『亘理家譜』 | 『仙台叢書 第九巻』(平重道 監修 宝文堂) 所収 |