千葉一族【や】~【わ】

千葉一族一覧

【や】~【わ】


0千葉氏の一族1 千葉氏・千葉六党 0千葉氏の一族10 【き】~【け】 0千葉氏の一族19 【ひ】【ふ】
0千葉氏の一族2 【あ】 0千葉氏の一族11 【こ】 0千葉氏の一族20 【へ】【ほ】
0千葉氏の一族3 【い】 Ⅰ 0千葉氏の一族12 【さ】【し】 0千葉氏の一族21 【ま】【み】
0千葉氏の一族4 【い】 Ⅱ 0千葉氏の一族13 【し】~【そ】 0千葉氏の一族22 【む】~【も】
0千葉氏の一族5 【い】 Ⅲ 0千葉氏の一族14 【た】 0千葉氏の一族23 【や】~【わ】
0千葉氏の一族6 【う】【え】 0千葉氏の一族15 【ち】~【と】 0千葉氏の掲示板 BBSです~~
0千葉氏の一族7 【お】 Ⅰ 0千葉氏の一族16 【な】 0千葉氏のトップへ トップページ~
0千葉氏の一族8 【お】 Ⅱ 0千葉氏の一族17 【に】~【の】 0千葉リンク~ リンクページ~
0千葉氏の一族9 【か】 0千葉氏の一族18 【は】 0千葉氏顕彰会 顕彰会のご紹介

トップページ千葉一族 > 千葉一族【や】~【わ】


【や】

矢木

 相馬一族。相馬家初代の相馬師常の六男・常家(六郎)が葛飾郡八木村(流山市長崎周辺)を領して八木(矢木)を称した。妻は藤原左近政高の娘という。

 その長男・矢木胤家(式部丞)は日蓮自筆の『立正安国論』を与えられている。「矢木式部大輔胤家」が日蓮からうけた『立正安国論』は現在、中山法華経寺に現存しており(国宝に指定されている)、『法華経寺文書』にも記述がされている。東胤頼の子・木内胤朝(下総前司)の娘・蔦子が矢木胤家の妻となったという。

 宝治2(1248)年1月3日の北条重時(相模守)沙汰にて、北条時頼(左近将監)邸で行われた椀飯に、五位の供奉人として「矢木式部大夫」の名を見ることができる(『吾妻鏡』宝治二年正月三日条)

 胤家の弟・胤重(次郎)は出家を遂げたとされる(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』)

 元弘3(1333)年から翌年正月にかけて、幕府の残党である安達城介高景名越中務大輔時如の両名が、安達高景の領所があった陸奥国へ逃走。陸奥国津軽平賀郡大光寺の地頭・曾我助光入道道性がこれに協力して挙兵した。これに後醍醐天皇方に寝返った得宗旧被官と思われる曾我乙房丸(曾我光高)、工藤貞行(中務右衛門尉)、早河禅門安東高季(五郎太郎)が大光寺に攻め寄せて合戦となった。この大光寺合戦で、正月8日に鑓で胸を突かれて「半死半生」となった曾我乙房丸方の「矢木弥次郎」の名が見える。矢木弥次郎が千葉一族かは不明だが、同じく8日の合戦で左膝を射抜かれた「印東小四郎光継」という武士がおり、彼も千葉一族印東氏かもしれない。

-矢木氏略系図-

→千葉介常胤―+―相馬師常―矢木常家―胤家――――仲家
(千葉介)  |(次郎) (六郎) (式部丞) (小太郎)
       |           ∥
       +―東胤頼――木内胤朝―蔦子
        (六郎) (二郎)

八木原

 千葉一族。小金大谷口城主・高城氏の家老だった安蒜氏の末裔。「安蒜」を「八木原」にしたのは、大谷口城が落城したのち、備前守は藤堂大学頭と接触する機会があって、「安蒜はよろしからず」との意見に従って八木原に改姓したという。

―八木原氏略系図―

→千葉宗胤――胤貞―――原胤高―高城胤雅―安蒜胤俊―■―日向守―丹後守――伊予守=八木原備前―■―兵庫―五右衛門
(千葉新介)(大隅守)(四郎)(越前守)(日向守)      (淨意入道)

屋津

 大須賀一族。西大須賀谷津城主で、大須賀氏の重臣。

谷中

 相馬一族。天正年中、常陸国橋本城主であった人物に谷中玄朝(玄蕃丞)があった。

矢作《矢作国分氏》

 国分一族。国分氏初代の国分胤通の六男・常義が大戸矢作領主となって矢作を称した。その子孫・泰胤は大崎城に移って居城とした。奥州千葉一族の流れもあり、千葉広胤が陸前国気仙郡矢作村を領して矢作を称した。

 また、前期海上氏の末裔で、平常兼の子・海上常衡(与一)の曾孫・惟胤(左衛門尉)が矢作を称したと伝わる。

 矢作氏の末裔・矢作胤基(喜兵衛)は、徳川家康の謀臣・土井利勝(大炊頭)に仕えて、名を矢作勝基と改めた。慶長15(1610)年、土井利勝は下総国佐倉藩主になると、勝基を佐倉惣奉行に任じて縄張りを命じ、六年の歳月を経て元和3(1617)年、佐倉城は完成。佐倉藩十一万石の居城となった。矢作家の屋敷は土井権左衛門、寺田与左衛門、大野仁右衛門ら土井家首脳が屋敷を構える城内三ノ丸に与えられた。

-海上流矢作氏略系図-

→平常兼―海上常衡―常幹――重常――矢作惟胤―+―胤茂―――――胤氏―――+―胤長
    (与一介)(庄司)(五郎)(左衛門尉)|(新左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                       |             |
                       +―常継―――――氏胤   +―胤興
                        (四郎右衛門)(太郎)  |(四郎兵衛)
                                     |
                                     +―胤府
                                      (五郎)

-国分矢作氏略系図-

→国分胤通――矢作常義―+―国分胤実――胤長―――矢作泰胤
(五郎)  (六郎)  |(六郎太郎)(又六郎)(彦次郎)
            |
            +―常氏
            |(六郎二郎左衛門尉)
            |
            +―行常――――行泰――――七郎五郎―彦五郎―竹王丸
             (六郎)  (五郎七郎)         (彦五郎)

-奥州矢作氏略系図-

→千葉介胤正=親胤―――+―胤次==忠次――馬籠忠広――矢作広胤――重胤――+―重慶=胤茂-胤時-高胤
      (右兵衛佐)|     ↑  (相模守) (大蔵大輔)(因幡守)|         (備中守)
            |     |                   |
            +―胤氏――忠次                  +―胤茂

山方

 千葉一族。発祥地は下総国山方郷。

山倉

 千葉一族。匝瑳一族の飯高胤高の孫・泰高が(香取市山倉字土道)に住んで山倉を称した。応永24(1417)年の上杉禅秀が乱を起こして自害した翌年、その家臣・榛谷重氏が起こした上総本一揆に加担したため、10月10日に幕府軍の押田氏・府馬氏に居城・山倉城を攻撃され、城を府馬氏に明け渡して小野城へと退いた。

 時代は下って戦国時代後期の永禄8(1565)年、小野城主・山倉播磨守が戦死していることから、小野城に移った後150年間のあいだ領主として生き残ったのだろう。

-山倉氏略系図-

→平常兼―匝瑳常広―飯高将胤―高常――胤高――胤国――――山倉泰高―+―胤泰――+―宗泰
    (八郎) (五郎) (五郎)(次郎)(左衛門尉)(兵衛二郎)|(又二郎)|(彦次郎)
                                  |     |
                                  +―泰親  +―朝宗―――泰胤―――常春
                                   (四郎)  (彦三郎)(彦三郎)(四郎)

山桑

 椎名一族。椎名氏初代の椎名胤光の四男・時胤が下総国匝瑳郡山桑村を領して山桑を称した。

-山桑氏略系図-

→椎名胤光-時胤――山桑胤益-重胤
(六郎) (四郎)(四郎) (太郎)

山寺

 武石一族。亘理武石氏の重臣の家柄で、涌谷伊達家の「御一族」の一家に数えられる。発祥地は陸奥国亘理郡山寺邑(宮城県亘理郡山元町山寺)。

 天正18(1590)年5月18日、相馬氏と亘理氏との大合戦であった、小豆畑の合戦では、山寺盛純(蔵人)を筆頭に、米谷延常(下総)、鷲足清久(主水)、斎胤行(源内)ら三十八騎が討死を遂げている。

(『涌谷伊達家関係資料集』涌谷坂本様御提供)

山梨

 千葉一族。「山無」とも。臼井氏の子孫で、千葉郡山梨郷(四街道市山梨)の山梨城(四街道市山梨みそらニュータウン)に住んで山梨氏を称した。臼井常安の子孫に山梨常道(山梨四郎)・山梨常清(五郎)がいる。

 その末裔と思われる家が、美濃岩村藩士となっている。家紋は月星。宝永6(1709)年11月23日、酒井紀伊守組与力だった山梨半平の弟、山梨直恕(幸右衛門、兵右衛門)が御中小性格として召し出され、九十石を給され、御馬廻並となる。隠居号は残恵。妻は江戸町医師中村徳元娘

 その嫡男・山梨直武(忠之助、材右衛門、兵右衛門、一道)は五十石を給され、御勝手御用人席、乗友公御附頭取となり役料二十俵を給される。また、一刀流剣術本目録伝授となり御家中世話を仰せ付けられる。妻は溝口主膳正家臣の馬杉惣左衛門娘、のち松平周防守家臣の黒瀬林蔵伯母、その後、新庄駿河守家臣の伊藤七郎兵衛の妹。娘は武蔵国西小松川村百姓七右衛門の養女となった。

 その嫡男・山梨直匡(剛助、健蔵、帰音)は八十石を給され、御側御用人席を経て御用人となり役料三十俵を給わる。

-山梨氏略系図-(臼井氏系図)

→臼井常康―常忠――成常――盛常―+―山梨常道―――胤光
(六郎) (三郎)(四郎)(九郎)|(四郎)   (次郎)
                 |
                 +―山梨常清―+―常方
                  (五郎)  |(四郎)
                        |
                        +―親常
                        |(次郎)
                        |
                        +―胤常――景胤
                         (太郎)(彦太郎)

月見里

 千葉一族。「やまなし」と読む。千葉介昌胤の三男・政胤(1532年生まれ)が下総国月見里に住んで月見里を称したという。政胤は長じて五郎・土佐守を称し、千葉介親胤千葉介胤富に仕えた。上の山梨氏との関係は不明だが、政胤は山梨城主だったようだ。

 天正18(1590)年の小田原の役では、千葉宗家にしたがい、嫡男・政家(大学)をつれて小田原に入城した。小田原落城後は、叔母にあたる桂林尼千葉介昌胤の妹で高城胤吉室)の菩提寺・慶林寺(松戸市殿平賀)に移り住んだ。その後、嫡流は綿貫氏を名乗って野馬奉行を代々襲職し、月見里氏はその配下として大熊・鈴木・安蒜諸氏とともに小金牧士となった。

-月見里氏略系図-

→千葉介勝胤―+―千葉介昌胤――月見里政胤―綿貫政家―……―+―綿貫家<野馬奉行>
(千葉介)  |(千葉介)  (土佐守) (重右衛門)   |
       |                      |
       +―桂林尼                  +―月見里家<小金牧士>
          ∥―――――高城胤辰
         高城胤吉  (下野守)
        (下野守)

【ゆ】

湯浅

 上総一族。匝瑳常広(八郎)の五男・宗光が紀伊国有田郡湯浅郷(和歌山県有田郡湯浅町)の湯浅宗重の養子となって湯浅を称した。匝瑳氏と紀州湯浅氏が養子関係を結んだのは安元年中(1175-77)と伝わっている。宗光は承元4(1210)年、将軍・源実朝の命によって紀伊国相瀬川庄の地頭職に補せられた。その長男・宗行は左衛門尉に任じられ、湯浅権守として紀伊国相瀬川庄を領した。一方、二男の宗景は下総国匝瑳郡南庄の熊野神宮領の地頭として下総国にのこり、下総湯浅氏の祖となったと伝わる。

 宗光の養父・湯浅宗重には宗光が入る前に生まれた長男がいて、宗光が養嗣子として紀州湯浅氏に入ると出家したと伝わる。この長男は『千葉大系図』の記述によれば「山州栂尾の高弁」とあり、明恵上人のことと思われる。妙恵上人(1173-1232)は華厳宗(南都六宗の一)の僧侶『新勅撰集』に入選するほどの歌人。幼くして文覚上人に師事。東大寺・仁和寺・華厳院などで修行し、後鳥羽上皇より京都郊外の栂尾山を賜って高山寺を建てた。そして法然の専修念仏の教えに対抗して『摧邪論』を著し、旧仏教勢力と組んで幕府に働きかけて法然を追放、華厳宗の興隆に努めた人物。しかし、妙恵上人の父は「平重国」と伝わり、俗称は伊藤氏という。伊藤氏はおそらく伊勢平氏の郎党・伊藤氏の一族と思われ、湯浅宗重の子とは考えにくいのではなかろうか。また、『湯浅系図』では湯浅宗重の娘が「妙恵上人母」とされていることから、宗重の孫とされている。

 匝瑳常広の子供たちは「匝瑳党」という武士団を形成したとあり、長男・常正(匝瑳八郎太郎)は「匝瑳党惣領」で、惣社・老尾神社の祭祀を司っていた。次男・常定(鷲尾太郎次)は「由ありて」千葉郷鷲宮を造立して同地を支配し、三男・政胤(飯高四郎)は下総国匝瑳郡飯高郷を領したという。そして四男・宗光(湯浅兵衛尉)は上記の通り紀州湯浅氏の名跡を継いだという。宗光の子・湯浅宗景は平六を称し、下総国匝瑳郡南庄熊野領の地頭となったため、紀州から下総に帰って匝瑳党に列し、千葉家の家臣となったという。

 ただ、『神代本千葉系図』では常広の子は将胤(飯高二郎)と常季(匝瑳平次)の二名のみ挙げていて、湯浅氏の名を見ることは出来ない。『千葉大系図』『神代本千葉系図』に共通するのは飯高政胤(将胤)のみ。また、紀州の『湯浅系図』には湯浅宗重の子は何人かいて、そのうちの一人に「宗光」の名を見ることができるが、これが匝瑳常広の子かは不明。

 紀州の『湯浅系図』では、湯浅宗光の子には宗行宗景の兄弟はなく、宗景に限っては宗重の長男として紹介されている。宗重・宗光は『平治物語』『吾妻鏡』『平家物語』などにその名を見ることができるが、紀州湯浅氏と下総湯浅氏の関連を見ることはできない。だが、下総湯浅氏の家紋と紀州湯浅氏の家紋は同じ「柏」であるから、何らかの関係はあったのかもしれない。下総湯浅氏と紀州湯浅氏の関係についてはまだまだわからないことが多い。

「安元年中為紀州湯浅庄司平宗重(或重国)之養子也、実父常広為下総国匝瑳郡司、此郡内南庄者為紀州熊野之神領(南庄松山郷造立熊野三社、今尚在矣、宗重在紀州掌之)。常広亦下総国熊野領下司職相承之、以是雖隔国宗重与常広令進退領掌焉、因為宗光於養子(宗重有長子、入釈門山州栂尾寺並高弁是也)。譲与本領紀州相立川庄(又相瀬川庄)也、承元四年実朝公以宗光補相瀬川庄地頭職矣。」(『千葉大系図』より)

-下総湯浅氏略系図-

湯浅氏系譜

-紀州湯浅氏略系図-

湯浅氏

油田

 東一族。東氏初代の東胤頼の二男・木内胤朝の七男・胤盛は東氏領内の油田郷を領して油田を称した。

-油田氏略系図-

→千葉介常胤―東胤頼―木内胤朝―油田胤盛―義胤―――――+―胤元
      (六郎)(二郎) (七郎) (七郎二郎)  |(小太郎)
                            |
                            +―胤継
                            |
                            |
                            +―定胤
                             (式部丞)

【よ】

横田

 上総一族。名字地は上総国市東郡横田村袖ヶ浦市横田)。

 上総権介広常の弟・相馬九郎常清の子・胤親(太郎)の長男・信胤(太郎)が横田を称した(『千学集抜粋』)

横根

 東一族。海上胤景(次郎左衛門尉)の長男・教胤(太郎左衛門尉)が海上郡横根郷旭市横根)を領して横根を称した。

 教胤は胤景の長男ではあったが、海上氏惣領は弟の海上胤泰(次郎左衛門尉)が継承した。教胤は父・胤景よりも先に亡くなったのかもしれない。

-横根氏略系図-

→千葉介常胤―東胤頼―重胤――――海上胤方―胤景―――横根教胤―胤忠――胤顕―――胤広――――幹胤
      (六郎)(左衛門尉)(次郎) (弥次郎)(太郎) (太郎)(常陸介)(常陸六郎)(弥七)

吉岡

 上総一族。臼井氏の一族で印旛郡臼井庄吉岡村(四街道市内)発祥。

 応永28(1421)年12月11日、吉岡盛胤(平三)は浄光明寺雑掌からの、寺領の相模国金目郷北方が流出してしまったという訴えを聞き、三宮有国(刑部丞)とともに検地に赴いたところ、本公田三十七町五段半のうち、見る限りで二十町が流出し、残る田は十七町五段半しかないことを確認し、奉行所へ報告している(『浄光明寺文書』)。吉岡盛胤は鎌倉府の奉行人であったようである。

吉崎

 椎名一族。椎名胤光(六郎)の子・野手胤知(三郎)の子孫・孫三郎が匝瑳郡南条庄吉崎(匝瑳市吉崎)に住んで吉崎を称した。

-吉崎氏略系図-

→椎名胤光――野手胤知――井戸野胤義――宮和田義成――次郎――弥五郎――吉崎孫三郎
(六郎)  (三郎)  (五郎)   (彦三郎)

吉原

 千葉一族。

米倉

 椎名一族。椎名胤光の子孫・胤貞が匝瑳郡南条米倉村(匝瑳市ホ)を築いて住んだことから米倉を称した。

 元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』)によれば、尼妙観が買い取った東盛義旧領の「下総国東庄上代郷内田拾貳町、在家拾貳宇」についての書状に、御使の名として「下総四郎左衛門尉胤直」「米倉孫太郎光常」の名が見える。米倉光常(孫太郎)は、椎名米倉氏である可能性がある。

元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

 売渡下総国東庄上代郷内田拾貳町、在家拾貳宇事
  直銭伍佰貫文者

 右、地者、東六郎盛義私領也、矢多田六郎左衛門尉康氏妻平氏取流質券、
 嘉元二年六月廿八日預御下知訖、妙観、徳治二年十二月三日買取之、
 同十九日給御下知領掌之間、相副平氏沽券、嘉元徳治御下知、
 盛義乾元二年六月廿四日子息重義、胤義加判、同廿六日券文、
 御使下総四郎左衛門尉胤直米倉孫太郎光常書状、
 盛義盛弘坪付状、限永代、奉売渡平氏子之状如件
    元亨二年六月六日     尼妙観 (花押)
 (裏書)
  「為後證、各所加判形也、

    元亨二年八月七日
                 右近将監藤原(花押)
                 左近将監橘 (花押)

-米倉氏略系図-

→椎名胤光―時胤―長岡行胤―米倉胤貞
        (五郎)

米満

 上総一族。上総権介常澄の孫・長南重常(太郎)の末子・親常(七郎)が上総国長柄郡米満(長生郡長南町米満付近か)に住して米満を称した。

―米満氏略系図―

→平常長-上総介常晴-上総介常澄-長南常成-重常――米満親常
                  (次郎) (太郎)(七郎)

【わ】

鷲足

 武石一族。亘理武石氏の重臣の家柄で、涌谷伊達家の「御一族」の一家に数えられる。発祥地は陸奥国亘理郡鷲足邑(宮城県亘理郡山元町鷲足)。

 天正18(1590)年5月18日、相馬氏と亘理氏との大合戦であった、小豆畑の合戦では、山寺盛純(蔵人)を筆頭に、米谷延常(下総)、鷲足清久(主水)、斎胤行(源内)ら三十八騎が討死を遂げている。

 また、涌谷伊達定宗「家之子衆次第」として、菱沼四郎兵衛、鷲足弥左衛門、安相原藤八、大平八郎左衛門、小平和泉の五名が数えられている。

(『涌谷伊達家関係資料集』涌谷坂本様御提供)

鷲尾

 上総一族。匝瑳常広の八男・常定が鷲尾を称した。

-鷲尾氏略系図-

→匝瑳常広-鷲尾常定
     (八郎)

和田

 千葉一族。神崎師時の六男・胤長が香取郡宮和田を領して和田・宮和田を称した。その居城は山辺郡の山中城。子孫は千葉宗家に仕え、永正2(1505)年の千葉介昌胤の元服式に出席した。また上総国山辺郡の飯櫃城主・山室氏とは軍事的に同盟していた。

 応永2(1395)年、香取郡神崎町の神崎神社に「宮和田郷地頭」に宛てた「平胤高」の文書が残っており、これを原氏の祖とする説があるが、実際は神崎千葉一族で、かつて宮和田郷を領していた和田氏の子孫・和田胤高(新左衛門尉)のことと思われる。

 時代は下って幕末、文久3(1863)年2月23日早暁、京都鴨川に架かる橋、三条大橋の南二丁あまり下った河原に、等持院にまつられてあった足利尊氏・義詮・義満の3代の木像が梟首されていた事件があった。その実行犯は京都守護職・松平容保の調べによれば、諸岡正胤(節斎)・三輪田元綱(綱一郎)・高松平十郎仙石佐多雄石川貞幹三木錫胤宮和田胤景らがいた。彼らは国学者・平田篤胤の門人たちであり、熱狂的な尊王攘夷派であった。三木錫胤は平田篤胤の一族でもある。

 宮和田胤景(勇太郎)は下総出身で、諸岡正胤・三輪田元綱とならんで平田篤胤の直門弟だった。しかし、三輪田とともに京都祇園に潜伏していたところを捕らえられて、伊勢菰野藩主・土方勝永の家老預けとなった。松平容保は厳罰を主張したが、松平慶永(春嶽)と一橋徳川慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)の説得などによって、それぞれ配流となった。

-和田氏略系図-

→千葉介胤正――神崎師胤――師時――――宮和田胤長――長頼――――胤高―――――朝胤――――彦四郎―左衛門尉―+
(千葉介)  (七郎)  (七郎太郎)(六郎)   (六郎太郎)(新左衛門尉)(左衛門尉)          |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―胤信―――+―胤富――+―胤茂
 (左衛門尉)|(伊賀守)|(左衛門尉)
       |     |
       +―娘   +―胤盛
         ∥   |
         ∥   |
        井田胤徳 +―伝之助
             |
             |
             +―某
              (僧侶)

綿貫

0
慶林寺の綿貫家墓地

 千葉一族。「わたぬき」と読む。千葉介昌胤の三男・月見里政胤(土佐守)が下総国印旛郡山梨村(四街道市山梨)を領して月見里を称した。家紋は九曜紋。

 天正18(1590)年、政胤は嫡男・月見里政家(大学)とともに小田原に籠り、落城後に小金大谷口城内の慶林寺(政胤の叔母・桂林尼の菩提寺)に蟄居した。その後、政家が馬術の名手として知られていた事から、家康が慶長年間に江戸城に召し出したが、貧乏だったために衣更えする夏服がなく、冬服から綿を抜いて家康の前に伺候したことから、家康は「綿を貫いた服を着てきた」政家に「綿貫」の名字を与えたという。

 慶長19(1614)年、家康から30俵を支給されて小金佐倉牧野馬奉行兼牧士支配となる。この頃から政家は重右衛門を称する。正保3(1646)年7月4日、94歳の高齢で亡くなった。

 その後は代々下総の官牧を支配する野馬奉行職を襲職していく家柄となる。この綿貫氏の役宅が「金ヶ作陣屋」として亨保7(1722)年に建てられた。陣屋は下総牧のほぼ中央に位置している。

-綿貫氏略系図-

→千葉介昌胤-月見里政胤-綿貫政家―――――政重――――政次――――政春―――+=政長===========+
      (土佐守) (大学・重右衛門)(重右衛門)(重右衛門)(夏右衛門)|(宇右衛門・桑島久平次男) |
                                       |              |
                                       +―政常―――――政直    |
                                        (夏右衛門) (夏右衛門) |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+=政常====政延――――――――――+―政之==========政尚
 (夏右衛門)(小右衛門・高柳源六次男)|(宇右衛門・下与市郎子)(下与市郎次男)
                    |
                    +―政好====政直――――政広―――藤三郎――政元
                     (夏右衛門)(夏右衛門)(夏右衛門)    (夏右衛門)

亘理

 武石一族。千葉介常胤の三男・武石胤盛(三郎左衛門尉)は奥州藤原氏との戦いののち、戦功として陸奥国亘理郡・伊具郡内に所領を賜った。その曾孫・武石宗胤(左衛門尉)が下総から陸奥国亘理郡(宮城県亘理郡亘理町)に移住し、彼の孫・武石高広(四郎)は亘理城を拠点として南朝側に属して活躍した。延元3(1338)年5月、高広は南朝の鎮守府将軍・北畠顕家(三位中将)に従ってはるばる和泉国まで遠征し、高師泰・細川頼春の軍勢と堺浦・石津の合戦で顕家とともに討死を遂げたという。43歳。

 その子・武石広胤(因幡守)は父の討死の翌年、暦応2(1339)年、武石を改めて亘理を称し、足利尊氏の上洛要請に応じて宇多・伊具・亘理の三郡を安堵されたと伝わる。

 この高広・広胤とまったく同時代の元弘4(1334)年の奥州結番次第の引付三番に「武石二郎左衛門尉」の名が見える『建武年間記』。引付に名を連ねているということは、武石氏の中でも代表的な人物であろうと考えられる。

 しかし、同年の建武元(1334)年12月14日、津軽で起こった工藤氏の反乱を南部師行が鎮圧したが、降人のうち金平別当宗祐・弟子智道を「武石上総介代」が預かった(『南部文書』)。この「武石上総介」とは、建武2(1335)年6月3日付の『陸奥国宣』によって「陸奥国伊具・亘理・宇多・行方郡、金原保」の検断職に任じられている「武石上総権介胤顕」のことであると考えられる(『相馬文書』)。四郡一保の検断職(警察権・裁判権等を有する職)に任じられ、さらに「上総権介」という受領を叙されているということは、胤顕は武石氏の当主であると考えられるが、現在伝わる武石氏関係の系譜にその名を見ることはできない。武石二郎左衛門尉と武石上総権介胤顕がどのような関係にあるかも不明。

 同年8月28日には、好嶋庄領主・伊賀式部三郎(伊賀盛光)に対して、安達郡木幡山にたてこもった小平輩ら兇徒を討つべく、「上総権介」が命じているが(『飯野八幡宮文書』)、この「上総権介」は武石上総権介胤顕である可能性が高く、胤顕は陸奥国岩城郡好嶋庄にまで検断職としての権限を有していたことになり、このことからも胤顕が亘理郡武石氏の惣領であったと推測される。

 建武3(1336)年3月3日『相馬弥次郎光胤着到状』の中に「武石五郎胤通」という名が見える。この着到状は、小高城に攻め寄せた北畠顕家率いる南朝勢と戦った際に、相馬親胤の惣領代・相馬光胤(弥次郎)の下知にしたがって小高城に集まった人物が列記されているが、つまり胤通(左衛門五郎)は相馬氏同様、北朝方に属していた。さらに、小高城が落城した後も、光胤の甥・松鶴丸(親胤嫡子。のちの胤頼)が、建武4(1337)年正月26日、宇多庄熊野堂にて挙兵したときに「武石五郎胤通」が参戦していることが、建武4(1337)年正月某日『相馬胤頼着到状』からうかがえる。

 また、この建武4(1337)年正月某日『相馬胤頼着到状』によれば、後醍醐天皇の令旨を受けて奥州から上洛する北畠顕家を追撃するため、足利方の奥州探題・斯波家長(弥三郎)が兵を挙げたとき、松鶴丸の祖父・相馬重胤(親胤・光胤の父)もこれに加わったが、途中の亘理郡河名宿において、武石上総権介胤顕より何かを賜り、関東に馳せ参じたとある。つまり、武石氏の惣領たる胤顕も歴然とした北朝方の人物であって、南朝方であったという武石四郎高広とは敵対関係であったことになる。

 建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』によれば、「武石四郎左衛門入道々倫」の申条として、「奥州曰理郡坂本郷」のことは、正和年(1312-1317)より知行しており、「子息左衛門五郎」の軍忠によって、本領・恩賞は先例に任せて安堵せられることが認められている。ここにみえる「子息左衛門五郎」とは、相馬氏とともに北畠顕家ら南朝勢と合戦した「武石左衛門五郎胤通」その人であると考えられ、武石四郎左衛門入道道倫と左衛門五郎胤通は父子であり、北朝方に属していた

 康永2(1343)年8月3日、石堂義房入道が「武石新左衛門尉殿」に対して、勲功賞として「陸奥国曰理郡坂本郷半分長戸呂村」「同郡鵲谷郷之替」として知行安堵した。この「武石新左衛門尉」の実名は不明だが、左衛門尉になったばかりで坂本郷半分の知行を有した人物ということは、「武石左衛門五郎胤通」のことか?

 観応2(1351)年10月25日、吉良貞家から「武石但馬守」へ宛てて、「船迫合戦」にて「舎兄四郎左衛門尉」が討死を遂げたことについて功績をたたえ、「曰理郡坂本郷」の半分を知行安堵した。つまり、「武石四郎左衛門尉」の弟に「武石但馬守」があったことがわかる(『相馬文書』)。この船迫合戦で討死した武石四郎左衛門尉は、武石四郎左衛門入道道倫と同一人物か?

 武石上総権介胤顕と武石四郎左衛門入道道倫・左衛門五郎胤通父子はともに北朝に属しているが、上総権介胤顕は武石氏惣領として大きな公権をもち、四郎左衛門入道道倫・左衛門五郎胤通・但馬守は武石一族として坂本郷周辺を領していたのだろう。ただ、このように大きな権力をもっていた胤顕の子孫は伝わっていない。

 
北朝   武石上総権介胤顕(武石氏惣領か)
 
+―武石四郎左衛門入道道倫――武石左衛門五郎胤通

+―武石但馬守
南朝 武石四郎高広

 文禄2(1593)年の『文禄二年九月十六日支配帳写』(『続群書類従』)によれば、小高郷内に五貫八百六十八文を知行する「武石讃岐守」がみえる。この武石讃岐守は伝承によれば、累世亘理郡の郡主であったが、天文年中に父が亡くなったとき讃岐守が幼少であったことから、家臣たちが相談して、「同宗の好を以」って相馬顕胤を頼ったという。

 相馬顕胤は武石氏の母子を小高城に移し、亘理城には青田左衛門尉と水谷伊予守を遣わして守らせたが、武石一族は青田左衛門尉らと仲たがいして伊達家と通じたという。このとき、武石家からは伊達三郎、大平主膳が謀反に荷担せず亘理郡を逃れ、その後相馬に落ち着いた。

 そののち、伊達晴宗は異母弟の亘理綱宗を養嗣子として亘理家を継がせたという。ただし、綱宗が生まれたのは大永6(1526)年であり、これ以前にすでに亘理宗隆は伊達家の傘下に入っていたと考えられる。亘理宗隆の父・亘理宗元(右近将監)が亡くなったのが享禄4(1531)年であることから、讃岐の父は宗元か? 小高城にて成長した「武石讃岐」は中郷大甕邑木下に館を構え、子孫は武山氏となる。

 このように、古文書には系譜に載せられていない武石氏の一族もかなり多く、さらには系譜に載せられている武石氏の実在も不明である。また系譜にあらわれても古文書には一切あらわれない武石高広などもある。ただし、高広が実在の人物であったとしても、武石上総権介胤顕が武石氏の惣領であったことはおそらく間違いないと思われ、高広はその庶流として宗家と対立関係にあり、南朝に属していたのかもしれない。そしてこのことが、高広の子・広胤をして「亘理」を称さしめたことと関係しているのかもしれない。

 武石高広の子・武石広胤(因幡守)は暦応2(1339)年、はじめて亘理を称して足利尊氏の上洛要請に応じ、宇多・伊具・亘理の三郡を安堵されたと伝わるが、宇多郡宇多庄は結城宗広入道道忠が知行しており、その家人である中村氏・黒木氏が相馬氏と交戦している一方で武石氏の介入はみられないことから、三郡安堵は伝承か。頼朝から武石胤盛が安堵されたというのも「宇多・伊具・亘理」の三郡であることから、これをもとにした伝承と思われる。

 広胤の孫・亘理重胤は、国分盛経と抗争し、応永19(1412)年3月に44歳で戦死してしまった。その子・亘理胤茂は4年間雌伏し、応永23(1416)年9月に挙兵して国分盛経の館を急襲してこれを討ち取り、父の墓前に供えた。

 胤茂には三人の子があったが、長男・亘理茂連は39歳で病死。次弟の亘理宗清が家督を相続した。しかし、異母弟の亘理茂元が策を巡らして宗清一族の滅亡を謀り、ついに寛正4年1月21日、宗清は二人の子・亘理清胤(彦五郎)・亘理孝胤(彦九郎)とともに自害した。宗清48歳、清胤26歳だった。この結果、茂元が家督を継いで亘理氏惣領となった。

 茂元の孫・亘理元実は長亨3(1489)年3月20日に21歳で亡くなってしまい、弟・亘理宗元が家督を継いだ。このとき、伊達氏の援助を受けたために伊達氏の麾下に入った。宗元の「宗」の字は伊達家の通字であり、家臣となった事実を物語る。

 宗元の嫡男・亘理宗隆に主だった活躍は見られないが、永正3(1506)年11月晦日、「涌沢亀房殿」に対して「曰理郡榎袋之内仁橋本之在家一宇、南泉房売渡申候所」「年忌」が明けてのち知行するよう命じた書状が残されている(『涌沢家文書』)。この「年忌」とは、宗隆の父・宗元は永正元(1504)年に亡くなっている事から、宗元の三回忌のことを指していると思われる。

0
伊達政宗奉納灯篭

 宗元の長男・宗隆には男子がなく、一人娘を伊達稙宗に嫁がせ、その子・綱宗を養子として迎え、家督を譲った。しかし、綱宗は18歳で戦死してしまう。そのため、天文19年、綱宗の実弟・元宗を伊達家からふたたび迎えて養子とした。元宗は天文21年2月、上洛して将軍・足利義輝に拝謁している。元宗は国分盛重の娘を娶り、伊達家一門として重用された。彼は晴宗・輝宗・政宗の3代に仕え、文禄3(1594)年6月19日に65歳で亡くなった。江戸時代には伊達を称することを許されて伊達を称したため、事実上亘理家は亡んだ。亘理重宗の末娘婿で重宗の養嗣子となった伊達政宗の庶子・茂庭又次郎は、豊臣秀吉の側室・お種の方(香姫)と政宗の子で、栗原郡佐沼邑主亘理氏の初代となった人物。彼の姉は伊達騒動の悪役・原田甲斐宗輔の母・慶月院である。左の写真の左二つの灯篭は、日光東照宮造営の際、伊達政宗が東照宮に奉納した石灯籠。右端は彦根藩主・井伊直孝奉納の灯篭。

 重宗の孫にあたる伊達宗重は、小説『樅の木は残った』の主人公で、伊達騒動(寛文事件)の忠臣とされる伊達安芸である。子孫は遠田郡涌谷邑主2万2640石の仙台藩一門に位置する重職にあった。亘理氏歴代は同郡涌谷町大雄寺見龍廟に葬られている。

●陸奥国引付●

引付衆三番 山城左衛門大夫 伊達左近蔵人 武石二郎左衛門尉 安威左衛門尉 下山修理亮 飯尾二郎 斎藤五郎

-亘理氏略系図-

 巻末に掲載

-伊達騒動関係図-

和良比

 上総一族。臼井一族で印旛郡臼井庄和良比(四街道市和良比)を領して和良比(蕨)を称した。

-亘理氏略系図-

武石氏


ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

copyright(c)1997-2013 chiba-ichizoku. all rights reserved
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。