東氏の惣領家

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東氏惣領家 下総国東庄および三崎庄の荘官をつとめた東氏の惣領家。
沼闕東氏 東氏庶流の海上一族。東氏惣領家を継承したか。
上代東氏 東氏庶流で香取郡上代郷(香取郡東庄町窪野谷)を本拠とした東一族。
須賀川東家 室町期に香取郡森山に隣接する須賀川に本拠を定めたとされる東一族。
森山東家 室町時代末期に下総国森山城に拠ったとされる東氏。
医官東家 森山東家の末裔で幕府の医官となった東氏。
郡上東氏 東氏庶流で、鎌倉時代に承久の乱の功績によって給わった美濃郡上郡へ移った東一族。
諸国の東氏 肥前小城藩の東氏
美濃苗木藩の東氏
土佐高知藩の東氏
医官東家
郡上遠藤氏 郡上東氏に仕えた重臣の家柄。のち郡上東氏の名跡を継ぎ、明治に至り「東」に復する。

 東氏は千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を始祖とする一族。「ひがし」ではなく「とう」とよむ。のちに下総国東庄(千葉県東庄町)を領して東を名乗る。

 胤頼は文武両道に秀で、平安時代末期、まだ二十代の胤頼は上洛して上西門院に仕え、五位の位を受ける。また、三浦義澄とともに流人だった頼朝と交流を持ち、頼朝の挙兵に際しては、父・常胤らを説得して頼朝に味方させた。その功は大なりと頼朝に評価、信頼され、「東六郎大夫胤頼子息等」が本所や瀧口に伺候することについて、子細を告げることなく進退を意に任せる旨を示すなど、ほかの御家人とは一線を画した。

 胤頼は上西門院に仕えた経緯からか、京都との結びつきが深く、嫡男・重胤に家督を譲った後は京都の法然房に師事し、念仏行者「千葉六郎太夫入道法阿」として生涯を送った。おなじく念仏行者として有名な相馬次郎師常は胤頼の実兄である。

 東兵衛尉重胤は歌人として三代将軍実朝の信任を得、重胤の子・東中務丞胤行(素暹)も定家の子・中院大納言為家について和歌を学んだ歌人である。胤行(素暹)は師・為家の娘を娶ったとされるが、二条家の伝および系譜にその記述はない。胤行(素暹)は承久の乱の功績によって美濃国郡上郡を与えられたといわれ、子孫はおもに下総国東庄と美濃国郡上郡の二つに分かれることになった。新たに地頭職とされた美濃国郡上郡山田庄は東六郎左衛門尉行氏へ分配されたと思われる。

 建保6(1218)年、東胤行の嫡男・東図書助泰行は父・東胤行入道素暹とともに鎌倉から下総へ帰国し、東庄森山に館を構えたとされる。惣領家は庶流・海上氏と所領が隣りあっていて関わりが深く、胤行は甥・本庄盛胤を養子に迎えている。その後、惣領家が断絶後、盛胤の子孫が継嗣に入り、天正18(1590)年の小田原の陣で滅んだと伝えられている。

 また、小田原落城の後、下総国飯田城にいた東一族・東右衛門大夫勝繁は飯田城を逃れ、姉聟の鹿島神宮禰宜・中臣清長を頼って常陸国鹿島に移り、鹿島神宮禰宜となった。鹿島神宮禰宜の東氏も歌道を伝えていたようで、幕末の東胤吉は彰義隊を忍ぶ歌を詠んでいる。

 一方、美濃国郡上郡に移った東六郎左衛門尉行氏の子孫は室町時代には上洛して将軍家の奉公衆となる。さらに胤行以来の二条流歌道を伝える異色の武家で、室町時代中期には東下野守常縁(東野州)を輩出。古今集の解釈の秘伝である古今伝授の「切帋伝授」の創始者として著名。しかし戦国時代末期、東下野守常慶東七郎常堯の父子が一門の遠藤六郎左衛門尉盛数に城を追われ、郡上東氏三百年の歴史に終わりを告げた。

 東氏を追放した遠藤盛数は八幡城に入って東氏の旧領を治めた。遠藤家はその後、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは遠藤但馬守慶隆が西軍がひしめく美濃国にあって、一貫して徳川方に属して武勇を示したことを賞され、初代郡上藩主となった。江戸時代中期、継嗣がなく改易となるが、特別に常陸で再興が認められ、さらに近江国野洲郡三上村に移され、三上藩主として幕末に至った。

 また、東常縁の末孫といわれる東六郎兵衛尉行澄は、明智光秀が本能寺の変を起こす直前の天正10年5月28日、愛宕山で百韻の連歌を催した(俗に「愛宕百韻」と呼ばれる)際に、一句献じている。

 日向国に下向した東氏もあったようで、系譜は不明ながら、幕末の薩摩藩都城領蔵方役を務めた東太左衛門胤正がいた。彼の名字は「トウ」と読んでいたようで、諱の「胤」と考え合わせるとおそらく千葉氏系東氏なのではあるまいか。彼は天保5(1834)年に都城で誕生し、明治8(1875)年、宮崎県十四等出仕の官吏となる。しかし、明治10(1877)年、西南の役で西郷隆盛に味方して政府に反抗。都城隊を編成して西郷軍の一翼を担うが、9月24日、城山で討死した。四十四歳。

◇東氏惣領家歴代◇

名前 生没年

通称

官途 その他
東胤頼 1155-1228法阿弥六郎   千葉介常胤の六男。若くして上洛し、従五位下に叙せられる。
東重胤 1177-1247覺善平太 兵衛尉 東胤頼の子。将軍家の無双の近侍と呼ばれた一人。
東胤行 1194-1273 素暹   中務丞 東重胤の子。歌人東素暹として知られる文武に秀でた人物。
東泰行 ????-???? 行暹   図書助  
東行長 ????-????  二郎 左兵衛尉
丹後守
父に先立って早世。
東行宗 ????-????  二郎太郎    
東胤顕 ????-???? ■真 孫次郎 遠江守   
東胤氏 ????-???? 朝仁  出羽守 東行宗の次男。
東胤光 ????-???? 禅廣? 六郎  東胤氏の子か。一族一揆の「沙弥禅廣」?
東亀寿丸 ????-???? 六郎  東胤光の嫡男。

◇沼闕東氏歴代◇

名前 生没年

通称

官途

その他

東盛胤 ????-1299 七郎 左衛門尉 海上胤方の七男で、東胤行の養子となり、東庄小南沼闕城に住んだ。
東胤世 ????-???? 良円 七郎太郎    
東高胤 ????-???? 実阿   下総守  
東胤俊 ????-????     左馬助 父・有胤が高上氏を継いでいたが、彼は祖父・高胤の跡を継ぐ。
東広胤 ????-???? 七郎   弥陀犬丸。
東胤秀 ????-???? 宏覚? 二郎 左衛門尉 胤俊の弟。一族一揆の「沙弥宏覚」?
東胤家 ????-???? 宏全? 二郎 左衛門尉
左馬助
亀寿丸のあと、実質的な東氏の惣領か?
東胤義 ????-????   左馬助 原胤義の子で東胤家の娘聟。
東胤久 ????-???? 宏秀 小次郎   胤義の子。
東胤重 ????-????   六郎   娘は鹿島神宮禰宜・中臣清長に嫁ぐ。
東勝繁 ????-????   右衛門大夫 東元胤の養子。妻は千葉介孝胤の娘。

◇上代東氏歴代◇

名前 生没年 通称 官途 その他
東義行 ????-????   四郎   東胤行の四男。
東盛義 ????-????   六郎   上総国周東郡内ほかをめぐって武蔵金沢称名寺と争う。
東胤義 ????-????   弥六   上総国周東郡の称名寺領にが攻め込んで暴れる。
東大和守 ????-????      上総国に何らかの所領を持った東氏の一族?(→上代東氏?)
東修理亮 ????-????      里見氏との戦功で「周西郡之内、中津美村」を北条氏より給付。

◇須賀川東氏歴代◇

名前 生没年 通称 官途 その他
東教頼 ????-????   二郎   東常縁の子。下総東庄須賀山城を復興したとされる。
東常綱 ????-????   二郎 右衛門 千葉介利胤に須賀川を攻め落とされ逐電する。

◇森山東氏歴代◇

名前 生没年 通称 官途 その他
東直胤 ????-1590   六郎 下総守 最後の森山城主とされるが不明。
東棟胤 ????-????   大膳大夫 千葉介胤富と海上山城守常元娘の子といわれる。

◇医官東氏歴代◇

名前 生没年 通称 官途 その他
東政胤 ????-????     左京亮 森山東氏の東直胤の子。
東良胤 ????-???? 宗雲    法眼 幕府の医官となる。

◇郡上東氏◇

当主 生没年 通称 官途 その他
東行氏 1228?-1300? 素道 六郎 左衛門尉 東胤行の子。胤行の功績で給わった美濃郡上へ下ったと伝わる
東時常 1253?-1314? 素阿 六郎 中務丞 東行氏の子。
東貞常 ????-???? 東時常の子。
東氏村 ????-1377? 素源   左衛門尉
中務丞
下総守
東胤行の末子。歌人。
東常顕 1304?-1371? 素英 中務丞?
下野守?
東氏村の子。歌人。
東師氏 1343-1426 素杲 四郎 下総守 東常顕の子。歌人。
東益之 1376-1441 素明 三郎 左衛門尉
式部少輔
下野守
東貞常の孫で東師氏の養嗣子。歌人として貴顕と交わる。
東氏数 ????-1471 素忻 左衛門尉
下総守
東益之の子。歌人。
東常縁 1405?-1484? 素伝 六郎 左近将監
下野守
東益之の子。歌人で古今伝授の創始者。
東縁数 ????-???? 素光   左近将監
中務丞?
東常縁の子。
東元胤 ????-???? 素通 三郎 東氏数の子か。
東常和 ????-1525 素安  左近将監
下野守
東常縁の子。
東氏胤 1427-1495 素珊   宮内少輔 東元胤の子か。
東尚胤 ????-????    下総守東元胤の子か。
東常慶 ????-1561 素忠   左近将監
下野守
東常和の子か。
東常堯 ????-1583 七郎 叙任せず 東常慶の子。

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東胤頼(1155-1228)

 東氏初代惣領。千葉介常胤の六男。母は秩父重弘中娘。通称は六郎。官位は従五位下。「六郎大夫」と称される。詳細は「東胤頼」を参照。


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東 重胤(1177?-1247?)

 東家二代惣領。初代・東六郎大夫胤頼の嫡男。母は遠藤持遠娘と伝わる。通称は平太所。妻は下河辺左衛門尉行綱娘(『下河辺氏系図』:「古河市史」所収)。官途は兵衛尉左衛門尉。通称の「平太所」から院の武者所に務めた経歴がある。詳細は「東重胤」を参照。



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東胤行(1194-1273)

 東氏三代惣領。二代・東兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが不明。兄に治部太夫貞胤があったという。詳細は「東胤行」を参照。

 嫡男・東図書助泰行が東家家督を継ぎ、庶子の東六郎左衛門尉行氏東下総守氏村の子孫は、胤行が新たに給わった美濃国郡上郡山田庄に下って郡上東氏の祖となった。



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東 泰行(????-????)

 東氏四代惣領。東中務丞胤行の嫡男。通称は太郎(『千馬家系図』)。官途は図書助。号は行暹。弟の東六郎左衛門尉行氏東下総守氏村の子孫は美濃に下って郡上東氏の祖となっている。

 泰行は四代将軍・藤原頼経、五代将軍・藤原頼嗣、六代将軍・宗尊親王に仕えたという。元服年は不明だが、「泰」字はおそらく、北条泰時からの偏諱と思われる。

 建長5(1253)年7月17日、来月に行われる予定(8月15日に行われた)の鶴岡八幡宮寺放生会に将軍の随兵として選ばれたが、「東図書助」ほか数名が障りを称して供奉を辞した(『吾妻鏡』建長五年七月十七日条)。実は、泰行は7月9日の供奉の「散状」が発行される前に下総へ帰国してしまったために例に漏れ、8月2日には「御教書違背」の罪により所領没収が詮議され、所領の在郷名を注進(提出)することが命じられた(『吾妻鏡』建長五年八月ニ日条)。こののち泰行の子孫が吾妻鏡に見られなくなるのは、この泰行の行動が原因となっているのかもしれない。

●『吾妻鏡』建長5(1253)年8月2日条

 御教書違背の科によつて、分かち召さんがために所帯を注進すべきの由、あまねく難渋の輩に触れらると云々、

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東行長(????-????)

 下総東氏五代。東図書助泰行の嫡男。通称は二郎。官途は左兵衛尉丹後守

 宝治2(1248)年正月3日の将軍の御行始の供奉人に「東中務少輔」が見え、さらに建長2(1250)年8月18日、将軍・藤原頼嗣が由比ガ浜にて犬追物を催した際に供奉の後列に「東中務少輔」の名が見える。さらに建長4(1252)年4月14日に供奉に従った「東中務少輔胤重」がみえるが、この「東中務少輔胤重」がいかなる人物かは不明。活躍時期としては、泰行、その子世代に相当するが、詳細は不明。『松蘿館本千葉系図』によれば、「胤重」は胤行の子で「下野守素通後行氏」とあり、東中務丞行氏の前名ととれる。

 弘長3(1263)年7月26日、祖父・東胤行入道素暹が没したが、8月6日、宗尊親王は素暹が黄泉の国で苦しんでいるという夢のお告げに驚き、素暹の罪業滅消のために人々に歌を詠ませ、その裏に経典を書写すべきことを命じた。また、宗尊親王は「左兵衛尉行長」が素暹と同族であるのでその名をもって歌を詠んだ(『吾妻鏡』弘長三年八月六日条)

 父・図書助泰行に先立って亡くなったという(『松蘿館本千葉系図』『鹿島大禰宜系図』)

 行長の子の一人、東弥次郎行胤は建武3(1336)年に九州へ下った千葉胤貞に従って下ったとされている(『東次郎兵衛系図』:「小城家中系図」)

●『吾妻鏡』弘長3(1263)年8月6日条

 将軍家、十首の歌を人々に勧めしめ御う、これ素暹法師卒去の後、御夢想の告げ有り、黄泉その苦有るかの由、思し食し驚かるるに依り、滅罪の謀を廻らされんが為、彼の懐紙の裡を以て経典を書写せらるべしと云々、御詠は左兵衛尉行長の名字を用いらる、また広御所に於いて、臣範の御談合有り、弾正少弼、越前前司、掃部助範元等、御前に候す。

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東 行宗(????-????)

 下総東氏六代。東丹後守行長の子。通称は次郎太郎。官途は不明。東次郎胤長(『松蘿館本千葉系図』)東次郎胤仲(『千学集抄』)と同一人物か。

 元弘2(1332)年9月、近畿吉野で起こった護良親王と摂津で挙兵した楠木正成が率いる反幕府の兵を討つため、得宗・北条高時の命に随い出陣し、功績をあげたという(『千葉大系図』)。この合戦には千葉介貞胤が出陣している。

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東 胤顕(????-????)

 下総東氏八代。父は東次郎太郎行宗(『神代本千葉系図』)、東次郎胤仲(『鹿島大禰宜系図』『千学集抜粋』)。通称は孫次郎。官途は遠江守。法名は■真、または宏嚴(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)? 『神代本千葉系図』『千学集抜粋』『鹿島大禰宜系図』にのみ記されている人物で、謂れなどは不明である。

 延文3(1358)年8月17日に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資した人物名として「東遠江入道宏嚴」の名が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『千学集抜粋』―

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

―『神代本千葉系図』―

 

 東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +―弥次郎  +―六郎
     |     |
     |     +―六郎
     |
     +―頼行――+―又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +―盛行  +―■■
     |(六郎)
     |
     +―泰胤――+―七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +―泰家  +―八郎
      (八郎)

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東 胤秀(????-????)

 下総東氏九代。東遠江守胤顕の長男か。通称は次郎。官途は左衛門尉。法名は宏覺

 貞治5(1365)年4月、千葉介満胤が6歳で家督を継いだとき、彼が幼少であったために一族が後見人となって支えた。後見人となった「族臣」は、粟飯原弾正左衛門詮胤相馬上野二郎胤長大須賀左馬助憲宗 国分三河守胤氏入道東二郎左衛門胤秀入道などだった。相馬上野二郎胤長相馬次郎師常(千葉介常胤次男)の子孫、大須賀左馬助憲宗大須賀四郎左衛門尉胤信(千葉介常胤の四男)の子孫、国分三河守胤氏入道国分五郎左衛門尉胤通(千葉介常胤の五男)の子孫、東次郎左衛門尉胤秀東六郎大夫胤頼(千葉介常胤六男)の子孫、粟飯原弾正左衛門尉詮胤千葉介満胤の近親にあたる人物である。

香取神宮
香取神社

 香取神社と千葉介満胤直臣(中村氏、円城寺氏ら)との香取神領の帰属をめぐる争いは、貞治7(1368)年になって、ついに千葉介満胤後見人と千葉介満胤直臣との争いとなり、後見人たちは「一族一揆」を結成して、押領された香取神領の返還成就を祈願した。

 この一揆を結成した中心人物は「平長胤」「老父浄心」だが、これは佐原周辺に広大な所領を持っていた国分一族とも言われている。また一揆に参加した主だった代表者として「沙弥誓阿」「沙弥宏覚」「沙弥禅広」「沙弥寿歓」「沙弥聖応」の五名が挙げられている。

 貞治7(1368)年3月2日、千葉六党出身の五人(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が、「建永承元の御下知に任せて」、香取神領のことを保証することによって一揆(千葉一族一揆)の所願成就を達成することを願った『聖応等連署願文』『聖応誓阿連署書状』を香取神社に納めた。ここに見える「沙弥宏覚」東次郎左衛門胤秀入道宏覚である。

名前 実名 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康(孝山誓阿)
木内八郎兵衛胤持(誓阿:千学集抜粋)
⇒粟飯原清胤というのは誤り。
木内七郎兵衛入道?
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 東六郎胤光?(『鹿島大禰宜系図』)?  
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) すでに没したと思われ、「大須賀左馬助(憲宗)」が就任

 貞治7(1368)年3月2日には、胤秀はすでに出家して「沙弥宏覚」を称しており、家督は嫡男と思われる東左京亮胤元が継いでいたか。

 応安7(1374)年9月27日、鎌倉府が千葉一族の一揆に発給した『鎌倉府執事奉書』の中に「東六郎」「東二郎左衛門入道」の両名がおり、「東六郎」は胤光(胤元?)、「東二郎左衛門入道」は胤秀のことをそれぞれ指していると思われる。

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』が発給された一族

名前 法名 実名
千葉介殿   千葉介満胤
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道    
東六郎   東六郎満顕?
東次郎左衛門入道   東次郎左衛門尉胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎   粟飯原基胤の子?
粟飯原虎王   粟飯原彦次郎の子?

 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』は一族一揆のうち、香取神領付近の大須賀左馬助国分三河入道東次郎左衛門入道木内七郎兵衛入道へ宛てて香取神社の神輿の警固を命じた文書で、応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』は同人たちに神領を静謐に保つべく警固を命じた文書。しかし、千葉介家臣(中村氏)による神領の押領は、相変わらず続いていたようで、香取社大禰宜・大中臣長房は鎌倉府へその押領を訴え出て、鎌倉府は応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書』を一族一揆の主要メンバーたちに発給して、その押領をやめさせるよう命じた。

 永徳2(1382)年閏正月28日『鎌倉府奉行沙弥奉書』によれば、東庄小南郷(東庄町小南)は「料所」として鎌倉勝福寺に十年の期限をつけて預け渡されることとなり、翌年の永徳3(1383)年12月20日『氏満寺領寄進状』によれば、小南郷「左兵衛督源朝臣(足利氏満)」の手によって鎌倉勝福寺「天下安全の為、武運長久」を願って寄進された。この「下総国東庄小南郷」は沼闕東氏の本領である。

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『千学集抜粋』―

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

―『神代本千葉系図』―

 

 東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +―弥次郎  +―六郎
     |     |
     |     +―六郎
     |
     +―頼行――+―又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +―盛行  +―■■
     |(六郎)
     |
     +―泰胤――+―七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +―泰家  +―八郎
      (八郎)

●貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』

 任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、
 立願状如件、
    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿歓(花押)
                    沙弥聖応(花押)   

●貞治7(1368)年3月 日『聖応等連署安堵状』

 任代々御下知之旨、長房所領、小野、織幡、葛原、次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々、
 或云下知、或云所務、并屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方江可口入申候、
 仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、
      貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                      沙弥宏覚(花押)
                      沙弥禅広(花押)
                      沙弥寿歓(花押)
                      沙弥聖応(花押)   

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料』中世篇所収)

 下総国香取社大禰宜長房申、当国津宮津以下浦々海夫事、注文一通遣之、度々被仰之處、
 不事行云々、甚不可然、所詮云知行分、云庶子等分、厳密可被致其沙汰、若猶及異議者、
 可有殊沙汰之由候也、仍執達如件、

   応安七年九月廿七日      智兼(花押)
                  道轍(花押)
    千葉介殿

国分三河入道、同余一、海上筑後八郎入道、木内七郎兵衛入道殿、東六郎東次郎左衛門入道、神崎安芸次郎、多田左衛門五郎、粟飯原彦次郎、同虎王、以上十一通名所々付之外者、同文章

■応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇』所収)

 下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、

    応安七年四月二十五日     沙弥(在判)
     大須賀左馬助殿

  国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿四通同前、

●応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇』所収)

 下総国香取社警固事、先立 神輿御帰座時被仰了、所詮神領静謐之程、可被致警固之状、
 依仰執達如件、

   応安七年六月五日     沙弥(在判)

   大須賀左馬助殿   国分三河入道殿
   東次郎左衛門入道殿 木内七郎兵衛入道殿四通同前、  

●応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料』中世篇 香取文書)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、
 早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、

   応安七年八月九日      沙弥(花押)
    木内七郎兵衛入道殿

 大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、同六郎兵衛入道、同越前五郎、同余一、
 東次郎左衛門入道、木内七郎兵衛入道殿、神崎左衛門五郎、那智左近蔵人入道、同文章以上十一通

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東胤氏(????-????)

 下総東氏八代。東遠江守胤顕の子か。通称は孫次郎か。官途は出羽守。法名は朝仁

 延文3(1358)年12月から翌年5月までの間に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資した人物名として「東遠江孫次郎平胤氏」の名が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)。彼に並んで、「沙弥契道(国分胤氏)」「沙弥理慶(海上公胤)」も姿を見ることができる。

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『千学集抜粋』―

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

―『神代本千葉系図』―

 

 東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +―弥次郎  +―六郎
     |     |
     |     +―六郎
     |
     +―頼行――+―又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +―盛行  +―■■
     |(六郎)
     |
     +―泰胤――+―七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +―泰家  +―八郎
      (八郎)

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東 胤光(????-????)

 下総東氏九代。東次郎左衛門胤秀の子・左京亮胤元と同一人物かも。通称は六郎

 応安7(1374)年9月27日、鎌倉府が千葉一族の一揆に発給した『鎌倉府執事奉書』の中に「東六郎」「東二郎左衛門入道」の両名がおり、「東六郎」は胤光(胤元)、「東二郎左衛門入道」は胤秀のことをそれぞれ指していると思われる。

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『千学集抜粋』―

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

―『神代本千葉系図』―

 

 東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +―弥次郎  +―六郎
     |     |
     |     +―六郎
     |
     +―頼行――+―又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +―盛行  +―■■
     |(六郎)
     |
     +―泰胤――+―七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +―泰家  +―八郎
      (八郎)

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』が発給された一族■

名前 法名 実名
千葉介殿   千葉介満胤
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道    
東六郎   東六郎満顕
東次郎左衛門入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎   粟飯原基胤の子?
粟飯原虎王   粟飯原彦次郎の子?

■『海夫注文』に見える、各氏族が支配した下総の海夫■

名前 実名 支配した津
飯沼   いひぬまかうやの津(飯沼:銚子市飯沼町)
海上筑後八郎入道 海上公胤入道 かき祢の津(垣根:銚子市垣根町)
野志りの津(野尻:銚子市野尻町)
志不可わの津(塩川:銚子市内)
森戸 森戸胤豊? も里との津(森戸:銚子市森戸町)
篠本    さゝもとの津(篠本:銚子市笹本町)
石出   いしての津(石出:香取郡東庄町石出)
今泉   いまいつミの津(今泉:香取郡東庄町東今泉)
東六郎   さつさ可わの津(笹川:香取郡東庄町笹川)
粟飯原彦次郎 粟飯原基胤の子? おみ可わの津(小見川:香取郡小見川町小見川)
大蔵(安富?)   たとかうやの津(??)
そ者多可の津(側高:香取郡小見川町脇鷹)
ゑちこうちの津(越後内?)
中村三郎左衛門尉   すくゐの津(須保居:佐原市内)
不つ可わの津(布津川?)
内山中務(中沢)   不つ可わの津(布津川?)
よこす可の津(横須賀:佐原市内)
中村式部 中村胤幹 つのミやの津(津宮:佐原市津宮)
さわらの津(佐原:佐原市佐原)
けつさわ   志の原津(篠原:佐原市篠原)
国分与一 国分氏胤? せきとの津(関戸:佐原市佐原イ)
木内 木内七郎兵衛入道 いわ可さきの津(岩ヶ崎:佐原市岩ヶ崎台)
知行人不明   いとにわの津(井土庭:佐原市内)
国分三河入道 国分胤詮 奈可すの津(中洲?)
神崎西■■ 神崎安芸次郎 かうさきの津(神崎:香取郡神崎町神崎本宿?)

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東満顕(????-????)

 下総東氏十代。東六郎胤光の子か。幼名は亀壽丸(『千学集抜粋』『鹿島大禰宜系図』)松千代(『鹿島大禰宜系図』)。通称は六郎。法名は禅慶(『千学集』)『鹿島大禰宜系図』によれば「亀壽丸 六郎松千代与同六郎満顕」とあり、このことが真実であれば『千学集抜粋』にある「松千代 禅慶」と同一人物となる。『海夫注文』に見える「東六郎」は満顕か。

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『千学集抜粋』―

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

―『神代本千葉系図』―

 

 東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +―弥次郎  +―六郎
     |     |
     |     +―六郎
     |
     +―頼行――+―又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +―盛行  +―■■
     |(六郎)
     |
     +―泰胤――+―七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +―泰家  +―八郎
      (八郎)

 『千学集抜粋』によれば、松千代(=満顕)の跡は兼常兵部丞入道保元東泰常入道保春と続いたとされるが、その後は不明。

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東胤家(????-????)

 東左馬助胤俊の弟で、兄の子・東七郎広胤に子がなかったことから、沼闕東氏の家督を継承。通称は左衛門二郎。官途名は左馬助伊豫入道(『鹿島当禰宜系図』)。法名は宏全「胤元」と同一人物か?

 応永23(1416)年4月18日の玉子大明神(東大社)に対する宮殿新築の際、「平憲胤(海上憲胤)」とならんで「東左馬助胤家」が名を連ねている。憲胤のあとに書かれた人物が神官たちであるのに対し、胤家のあとに書かれた人物は「当政所家吉」「惣庄内郷々助成合力諸人等各々」と、神社の土地に関わる人々が記されていることから、海上氏は主に東大社の神事に携わり、東氏は神領内の政治に関わっていたか。胤家には男子がなく、一人娘は原左馬助胤義を婿として飯田城を構えた。

―『松羅館本千葉系図』―

 東泰行――行長―――――――+―胤長―――+―胤秀――――――――胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +―胤是   +―胤氏――――――――胤光―――――亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +―胤輝
                (六郎)

―『鹿島大禰宜系図』―

 東泰行―――行長―――胤仲――胤顕――+―胤秀―――――――胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +―胤氏―――――――胤光―――――亀寿丸――――――+―胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +―朝範
                                                (波々賀利氏)

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東胤義(????-????)

 東左馬助胤家の養嗣子。実は原家の三男。官途名は左馬助(『鹿島当禰宜系図』)

 当主の座について三十七年、五十二歳で亡くなった。法名は桂才(『鹿島当禰宜系図』)

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東胤久(????-????)

 東左馬助胤義の嫡男。母は東左馬助胤家娘。通称は小郎。法名は宏秀

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東胤重(????-????)

 東小次郎胤久の嫡男。通称は六郎。娘は鹿島神宮禰宜・中臣清長に嫁いだ。

 家督を継いで飯田城主となり、七年間当主を務めたが、飯田城を出て十四年後、東氏の名代は断絶した。系譜は一族の海上氏出身の引摂寺住持・憲通律師が胤重の生前に預かっており、胤重の嫡男・勝繁が成長したのちに彼に与え、東氏を再興させた。

 『本土寺過去帳』には、永正3(1506)年8月23日、「永正三丙寅八月 東六郎殿 千葉井花ニテ打死諸人同証仏果」とある。これはおそらく『千学集抜粋』に記されている「一条院薄墨の御證文は、範覚の世に井の鼻を持れし時、永正十三年丙子八月廿三日、三上但馬守二千餘騎にて押寄せて打落とす、此時薄墨の御證文は宝器ともみな失せにける」とある部分と一致すると思われ、この三上但馬守(上総国真名城主)の乱のとき、「東六郎」が亥鼻において討死している。

 東六郎胤重の祖父・東左馬助胤義は原氏の出身だが、この当時、千葉庄を支配していたのは原氏であったと推測されている。亥鼻で討死したこの「東六郎」は胤重なのかもしれない。

 亨徳4(1455)年の千葉大介胤直滅亡ののち、千葉宗家は本拠地を佐倉(酒々井町本佐倉)へ移しており、五十年を経たこの時代には宗教的な施設が建てられていたようである。発掘によって狛犬や宝篋印塔、大型建物一棟が見つかっている。また、『千学集抜粋』「範覚の世に井の鼻を持れし時」とあり、金剛授寺の住持「覚範」が亥鼻にあったときに三上但馬守が攻め寄せ「一条院薄墨の御證文は宝器ともみな失せにける」とあることから、亥鼻は金剛授寺の支配のもとにあり、金剛授寺の文書や宝物などが納められていた地なのかもしれない。金剛授寺別当・権少僧都範覚は、原越後守胤隆(小弓城主)の三男であり、下総小弓城と上総真名城とは、直線距離で十四キロほどの至近距離にあることなど隣接した地を領していることなどから、原氏と三上氏との間でなんらかの問題が起こっていたのかもしれない。

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東勝繁(1492-????)

 東六郎胤重の嫡男。通称は右衛門大夫

 永正13(1516)年9月7日、25歳の勝繁は東庄飯田谷の飯田城に入った。時代的に、千葉介勝胤の時代であることから、勝繁は勝胤から「勝」字の偏諱を受けている可能性がある。そうなると、千葉宗家と親密な関係を保っていることがうかがえる。

 大永6(1526)年の常燈寺棟札「代檀那海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」「同大方殿」とある。「海上殿平持秀」は飯沼城主の海上氏当主、「東殿勝繁」はこの勝繁のことと思われるが、「宮内少輔久繁」については不明。時代的に「東宮内少輔」「東宮内少輔氏胤」と同時代の人物だが、常世田常燈寺に刻まれている「宮内少輔久繁」が東氏かどうかは不明。

 永禄4(1561)年の『東大社文書』の中に「東勝秀」なる人物があるが、勝繁との関係は不明。


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