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相馬主税家とは
相馬主税家は中村藩御一家のひとつで、相馬将監家と並んで「御由緒」家として重んぜられた一家である。幕末の相馬靱負胤就は奥羽越列藩同盟の中村藩代表として白石会議に出席した。
■中村藩御一家■
相馬主税家は中村藩御一家のひとつで、相馬将監家と並んで「御由緒」家として重んぜられた一家である。幕末の相馬靱負胤就は奥羽越列藩同盟の中村藩代表として白石会議に出席した。
■相馬主税家系譜
相馬胤慈
(将監)
∥―――――相馬胤宗―――相馬胤眞
∥ (将監) (将監)
∥ ∥――――――――――――相馬胤眞
→相馬昌胤―+―昌姫 +―彜姫 +―圓姫 (瀧之進)
(弾正少弼)| ∥ | | ∥
| ∥ | | ∥
| ∥―――――相馬徳胤――相馬恕胤―+―相馬祥胤――相馬益胤―+―相馬充胤――――相馬誠胤 ∥
| 相馬敍胤 (因幡守) (因幡守) (因幡守) (長門守) |(大膳大夫) (因幡守) ∥
|(長門守) | ∥
| | 脇本正明?∥
| | (喜兵衛) ∥
| +―壽姫 ∥ ∥
+―相馬尊胤 ∥―――――+―娘 ∥
|(弾正少弼) ∥ | ∥
| ∥ +――――――娘
| ∥ |
| ∥ |
+―相馬福胤―――相馬穂胤――相馬胤綿―――相馬胤貞―――――――+―相馬胤就 +―相馬胤紹
(主膳) (主膳) (主税) (主税) |(靱負) (亀次郎)
|
+―娘
| ∥―――――+―下浦静家
| 下浦暁清 |
|(源左衛門) |
| +―楢葉忠助
|
+―娘
∥
堀内胤寧―――――――――堀内胤賢
(大蔵) (大蔵)
相馬福胤 (1719-1758)
相馬主税家の祖。相馬弾正少弼昌胤の末子。通称は主膳、采女。母は幾世橋作左衛門房経養女・松雲院。
享保4(1719)年7月18日、昌胤の隠居御殿、幾世橋御殿で誕生した。母は幾世橋作左衛門房経養女(実は長沢武兵衛宣重娘)。
享保11(1726)年11月、八歳の主膳は「胤」の一字を給わって「福胤」の名が与えられた。
享保13(1728)年4月5日、昌胤は福胤を伴って中村城に移り、藩公・相馬尊胤に謁見。6日、ともに妙見社に参詣した。翌享保14(1729)年、幾世橋御殿から中村城内二ノ丸に移り住んだ。
●相馬福胤周辺系図
幾世橋房経―+=松雲院
(作左衛門) | ∥―――――相馬福胤―――相馬穂胤――――相馬胤綿====相馬胤貞
| 相馬昌胤 (主膳) (主膳) (主税) (主税)
| ∥
| 脇本盛明――――娘 ∥
| (喜兵衛) ∥――――+―幾世橋房経―+―娘
| ∥ |(要人) |
| ∥ | |
+―幾世橋明経――幾世橋忠経――幾世橋孟経 +―熊川長義 +―幾世橋伴経――幾世橋経徳
(専右衛門) (要人) (要人) (為次郎) (作左衛門) (要人)
∥ ∥
相馬胤壽――+―娘 堀内胤寧―――娘
(将監) | (大蔵)
+―相馬胤豊
(将監)
享保17(1732)年10月19日、中村城内長友に新邸が完成し、二ノ丸から移り住んだ。
享保18(1733)年5月22日、福胤は中村城にて兄・相馬弾正少弼尊胤を因親として半元服の儀と具足初の儀を執り行い、28日の相馬野馬追に初出馬して、御騎馬の列に加わった。
寛保2(1742)年4月15日、福胤は初めて江戸藩邸に上り、延享元(1744)年7月27日、長女が誕生した(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。
延享2(1745)年2月8日、「於江戸、主膳様へ 殿様ゟ御名采女様と被進」て、主膳から采女に改められ(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)、3月1日、福胤は初めて江戸城に登り将軍・徳川吉宗に謁見(『相馬藩世紀』『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。翌延享3(1746)年正月3日には新将軍・徳川家重に謁見した。福胤は和歌のたしなみもあり、2月3日、江戸麻布藩邸にて行われた相馬昌胤誕生日の祝いにて、兄の藩公・相馬尊胤や甥の相馬徳胤、堀内十兵衛胤総、打家源之助公軌、猪苗代盛夏らとともに和歌を献じた。
永祥寺跡 |
その後、痛風の症状が出たため、寛延元(1748)年4月、湯治のため高湯(福島市庭坂)にて療養し、翌寛延2(1749)年4月15日、病気全快して江戸に登ったが、病が再発。寛延3(1750)年5月、伊香保温泉で療養に入った。その後、体調は快復したものと思われるが、宝暦4(1754)年9月、「采女様、中村御住居ニ相済、天水江御屋形相立候」(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)と、江戸から中村に移り、中村郊外の天水に館を普請して療養したが、11月に病が再発。宝暦8(1758)年6月4日、亡くなった。享年四十。法名は涼池院殿證譽自怪濯心大居士。廟所は小泉村(相馬市小泉)の幾世橋山金胎院永祥寺。
長女は藩公・相馬弾正少弼尊胤の養女となり、旗本・大久保玄蕃頭忠元の妻となった。明和7(1770)年3月晦日に嫡男・金次郎(大久保玄蕃忠陽)を出産するが、翌明和8(1771)年9月5日、亡くなった。法名は本覚院殿妙照日詠大姉。
次女お福は御一家・相馬外記胤豊の妻と定められ、「廿人扶持御附」が下され、宝暦2(1752)年4月16日に江戸を出立。道中は「采女様御台所役人遠藤長左衛門御同道」し、4月23日に「将監方へ御下着」している(『寛文七年羊閏二月ゟ日記写』)。その後、安永2(1773)年正月に相馬将監胤慈を生む。
相馬穂胤 (????-1778)
相馬主膳福胤の嫡子。幼名は菊千代(『相馬義胤家譜』)。通称は勝之進、主膳。初名は英胤。
宝暦8(1758)年6月4日、父・主膳福胤が中村で亡くなり、家督を継いだと思われる。明和3(1766)年7月23日、「相馬勝之進英胤」は尊胤より刀、幔幕を下賜された。そして明和5(1768)年5月5日、「勝之進殿」は尊胤とともに将軍家御目見のため江戸に出府。12月、婚礼式を挙げた。
明和6(1769)年12月16日、勝之進は願いの通り「主膳」と改めた。翌明和7(1770)年2月7日、嫡男・亀次郎が誕生し、藩公・相馬弾正少弼尊胤からは酒一樽と産着が贈られた。
明和8(1771)年2月14日、穂胤は「御用」のために江戸に出府しているが、4月には江戸を発して中村に戻った。これは前藩公・相馬尊胤の病気にともなう御用だったのかもしれない。5月15日、尊胤は中村城で病に倒れ、家中惣登城にて御機嫌伺が命じられた。その日の晩、江戸に向けて英胤と堀内覚左衛門胤長が急使に発っている。
5月29日、御一家の相馬将監胤壽が病のため侍大将組支配御免願いが認められ、7月24日、「相馬主膳」が侍大将となり相馬将監組を預かることとなった。同時に藩公・相馬恕胤より「黒地黄丸旗」「緒巻馬印」が下賜された。
明和9(1772)年6月3日、三百石が加増され、都合で一千石となった。
安永2(1778)年9月28日、大病のため跡式の願いを提出したが、まもなく亡くなった。法名は随心院殿誓譽海貞普白大居士。跡式は一か月ほどのちの11月7日、「同姓亀次郎」と定められた。
相馬胤綿 (1770-????)
相馬主税穂胤の嫡男。幼名は亀次郎。初名は胤義。通称は主税。妻は石川嘉兵衛昌盈娘、相馬伊織斎胤息女・於眞。
石川昌盈
(嘉兵衛)
∥―――――+―娘
日下宗茂 ∥ | ∥
(伝蔵) ∥ | 相馬胤綿
∥―――――娘 |(主税)
∥ |
門馬経佐養女 +―石川昌俊
(嘉兵衛)
明和7(1770)年2月7日誕生。藩公・相馬弾正少弼尊胤からは酒一樽と産着が贈られた。安永2(1773)年12月1日、岡田半治郎、相馬亀次郎がそれぞれ家督相続の御礼を済ませるが、両名ともに幼少であったことから、それぞれ堀内覚左衛門胤長(半次郎外祖父)、田原彦之丞が名代として謁見した。
安永9(1780)年10月15日、藩公・恕胤の長男、相馬伊織斎胤の娘・於眞との婚姻がまとまった。
天明2(1782)年3月1日、「胤」の一字が与えられて「胤義」を称した。
天明3(1783)年7月24日、胤義は亀次郎を改め「主税」と改めた。このとき胤義十四歳。9月16日、登城して前髪執の儀を行い、元服したが、この翌月10月13日、妻の於眞(相馬伊織斎胤息女)が亡くなってしまった。
相馬昌胤―+―昌姫
(弾正少弼)| ∥―――――相馬徳胤――相馬恕胤―+―相馬齋胤――於眞
| ∥ (因幡守) (因幡守) |(伊織) ∥
| 相馬敍胤 | ∥
|(長門守) +―相馬祥胤 ∥
| (因幡守) ∥
| ∥
+―相馬福胤―――――相馬穂胤―――――――――――相馬胤綿
(主膳) (主膳) (主税)
天明4(1784)年正月1日、岡田監物恩胤、泉内蔵助胤殊、泉田掃部胤精、相馬将監胤豊、相馬主税胤綿、堀内勘解由養長の御一家が御目見えしている。
天明5(1785)年正月2日、御一家隠居、岡田直衛、泉了圓、相馬希及が年頭伺のため登城している。
6月18日、相馬祥胤が藩公となってはじめて入部した際、6月18日、御一家・相馬主税胤綿、家老・泉田掃部胤精が熊川宿に出迎えている。
北山高池の小泉川 |
寛政2(1790)年秋、相馬の風光明媚の地を、中国宋の瀟湘八景をモデルに「北山八景」を定めた。このとき「相胤綿」が「高池春雨」を題に漢詩を詠んでいる。
寛政3(1791)年10月6日、岡田監物恩胤は家老に、相馬主税胤綿は組支配を仰せ付けられ、御会所へ出頭が命じられている。
寛政7(1795)年6月15日、家老に任じられた。8月には歓喜寺麓に造営された新宮につき、歌ならびに詩が奉納されたが、「相馬主税胤綿」は相馬外記胤慈、相馬左衛門胤豊、泉典膳胤陽、本山勘兵衛安義、池田八右衛門直方らとともに詩、歌を詠んで奉納した。9月1日、胤綿は「職分御礼」を述べており、おそらく家老職就任があったと思われる。
寛政8(1796)年、胤綿は江戸に出府。琉球王の代替わりとして江戸に報告に来る琉球の使者を接待する役目を仰せつかった。胤綿は宿舎となる芝増上寺の宿坊に詰めてこれらの接待を行うこととなった。
寛政10(1798)年3月、藩公・相馬祥胤は、「相馬主税(胤綿)」に水色の旗を下賜し、「主税亡父之御譲ニ成居候旗」から変更させた。「主税亡父」とは主膳穂胤のことと思われる。
文化2(1805)年5月13日の野馬追神事では「相馬主税」が藩主名代を務めた。藩主名代は、藩主が所用または病気などの際に代理として御一家のうちから選ばれるが、持ち回りというわけではなく、時々に応じて決められていたようである。
文化3(1804)年3月25日、侍大将に就任し、文化4(1805)年5月19日の野馬追神事でも「相馬主税」が藩主名代を務めた。
文化5(1808)年5月13日、野馬追が行われた。藩公・樹胤が江戸在府中であったため、名代として岡田監物恩胤が藩主名代を務め、一陣は泉田掃部胤保、二陣は泉内蔵助(胤傳か? すでに隠居)、前備は堀内大蔵胤久、そして後備が「相馬采女」であった。「相馬采女」は相馬主税家祖・相馬福胤の通称であることから、おそらく胤綿と深い血縁にある人物と思われる。
文化13(1816)年12月26日、相馬主税胤綿がふたたび家督を継ぐこととなり、相馬将監胤武の養女になっていた娘を相馬将監家から戻すこととなり、相馬徳三郎は胤綿の養子となる旨が仰せ出され、徳三郎は胤綿の養嗣子となった。
相馬胤貞 (????-????)
相馬主税胤綿の養嗣子。父は胤綿の子(相馬采女?)か。通称は徳三郎、主税。妻は幾世橋作左衛門房経娘。号は千田楽仙。なお、「千田」は千葉一族の有力氏族の名字であり、江戸期の相馬家庶子が称した「千葉」「東」と同様に、千葉氏を意識したものと推測される。
●相馬胤貞想像系図
相馬胤綿―+―采女?――徳三郎
(主税) |
+=徳三郎(相馬主税胤貞)
|
+―娘
(相馬胤武養女)
↓
相馬胤武―+=養女
(将監) |
|
+=小六郎
(将監)
文化5(1808)年5月13日、野馬追が行われた。藩公・樹胤が江戸在府中であったため、名代として岡田監物恩胤が藩主名代を務め、その後備が「相馬采女」であった。この相馬采女は史書に見えないため、血縁関係は不明だが、「相馬采女」は相馬主税家祖・相馬福胤の通称であることから、おそらく相馬主税家の人物であろう。
文化10(1813)年12月15日、徳三郎は主税家の家督相続の御礼のため、同じく将監家を相続した相馬将監胤武とともに登城。徳三郎は「胤」字を与えられた。その後、徳三郎の叔母が相馬将監胤武の養女に迎えられることとなり、文化11(1814)年1月16日、徳三郎は養女縁組の御礼登城した。さらに、将監家と主税家が縁戚となったことにつき、3月3日、将監胤武と徳三郎は縁組御礼のために登城した。
4月19日、藩公・相馬樹胤が隠居のため、その御手道具が御一家衆へ下されることとなり、「琉球の花入れ」が「泉左衛門」「相馬将監」「相馬徳三郎」「泉田掃部」に下げ渡された。
文化12(1815)年12月25日、徳三郎の婚礼式が行われ、藩侯・相馬益胤は、上使を遣わして祝辞を伝えるとともに樽一荷、生肴を祝いの品として送っている。その後、徳三郎は登城の上、御礼申し上げた。
その後、主税胤綿がふたたび家督を継ぐこととなり、文化13(1816)年12月26日、将監胤武養女が藩公の命により実家の主税胤綿の家に戻ることとなるとともに、徳三郎は相馬主税胤綿の養子とする旨が仰せ出され、徳三郎は胤綿の養嗣子とされた。
文化14(1817)年8月15日、徳三郎の嫡男(敏之助)が出生した。このとき生まれた子がのちの中村藩代表の外交官・相馬靱負胤就である。8月22日、御七夜の儀が執り行われ、藩侯・益胤より酒樽一荷、肴一折が届けられた。
この記述を最後に「徳三郎」の名が見えなくなる。おそらく主税を称したと考えられるが、いつ頃名を改めたかは記録が残されていない。同年11月21日、「相馬主税」が侍大将・組支配を命じられているが、この主税が胤綿か徳三郎かはわからない。文化13(1816)年末に主税胤綿が家督再任となったが、徳三郎に嫡男が誕生したことを契機に、胤綿は再び隠居したのかもしれない。
文政5(1822)年12月23日、天神社の正遷宮につき、藩主代参として相馬将監、大殿・樹胤代参として伊東司が遣わされ、12月25日の御開戸についての代参として、藩主代参に相馬主税、大殿代参に伊東司が遣わされた。この主税は徳三郎の後身か。
文政6(1823)年9月17日、侍大将を仰せ付けられた。
天保2(1831)年5月22日、「相馬主税」は社倉引受を命じられた。
天保5(1834)年5月28日には武備懸御兵器惣引受に任じられ、中村藩の武具兵器一切の取締りとなった。そして10月、長男・敏之助と藩侯六女の壽姫との間に婚姻が整った。その後、主税は嫡男・敏之助胤就に家督を譲って隠居。具体的な日時は不明だが、天保9(1838)年6月、幕府巡見使が来た際に巡見使より質問されたときの模範解答『御巡見様御尋之節御答書集帳』の「御一家并重立候役人」に「高三百五十石 相馬敏之助」と見えるため、天保9年にはすでに胤就が家督を継いでいたことがわかる。
なお、天保3(1832)年に生まれた次男・章は臼井喜邦を称し、妻の兄・岡源右衛門直温の嫡子、岡源之丞が幼少のため、安政5(1858)年8月17日、その後見人を命じられている。「臼井」は千葉一族・臼井家を意識したものかもしれない。臼井喜邦は慶応4(1868)年7月の平城の戦いで戦死を遂げた。享年三十七。
相馬胤就 (1817-????)
相馬主税胤貞の嫡子。幼名は敏之助。通称は靱負(ゆげい)。妻は長門守益胤六女・壽(ちか)。
中村城南の相馬靱負邸跡 |
文化14(1817)年8月22日、「相馬徳三郎妻安産出生七夜」の祝いが藩公より届けられているが、このとき御七夜を迎えた子がのちの胤就である。
天保5(1834)年正月に藩が藩士の屋敷地と知行高を調べた『御家中屋鋪並知行覚』には「相馬主税」が「西山河岸東」に屋敷を持っていたことが記載されている。この覚書は『相馬市史』によればその後もかなり長期にわたって使用された形跡がうかがえ、次代の「相馬靱負」が記載されている。この年の10月、「相馬主税嫡子敏之助」と相馬長門守益胤の娘・壽姫と縁組が整った。
天保9(1838)年6月、幕府巡見使が来た際に巡見使より質問されたときの模範解答『御巡見様御尋之節御答書集帳』の「御一家并重立候役人」に「高三百五十石 相馬敏之助」と見える。
天保13(1842)年10月9日、御意によって、胤就の妹が堀内大蔵胤寧の嫡子・堀内孟の妻となった。
天保15(1844)年9月21日、家老職ならびに組頭を辞することが決まっていた相馬将監に代わり、「相馬靱負」こと胤就が組頭に就任した。
嘉永5(1852)年閏2月4日、家老職ならびに記録引受職を拝命し、5月22日の野馬追神祭では藩公代理を務めた。翌嘉永6(1853)年5月23日、家老職拝命の御礼を申し上げた。
文久4(1864)年2月26日、胤就の娘が脇本家に嫁ぐにあたり、内祝いが催された。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中村藩代表として佐藤勘兵衛俊信とともに出席し、中村藩の尊王の立場を訴えるが、大藩の意見に押し切られる形で、中村藩は新政府軍に対抗せざるを得ない状況に追い込まれる。仙台藩からの要請で中村藩は、藩主秊胤みずから出陣し、胤就はその副将格として従軍している。
明治時代に入っても、やはり外交官代表者として折衝にあたり、明治元(1868)年12月15日、嫡男・亀次郎を伴って中村城に登城。亀次郎は藩侯・秊胤に謁見して「胤」字を賜り「胤紹」を名乗った。そして胤就は翌16日、東京に向けて旅立った。東京の屋敷割りについて政府より何らかの指示があったようである。
明治2(1869)年5月22日、相馬誠胤の名代として皇居へ参朝した。おそらく版籍奉還についての意見を求められたと思われ、「天下大事ニ付、何レモ忌諱ヲ憚ラズ充分意見ヲ書シ、来ル廿五日差シ出ス」ことを命じられ、5月25日、参朝して答書を提出した。
明治3(1870)年12月19日、版籍奉還後の藩の運営者として大参事以下が決められ、大参事は御一家筆頭だった岡田五郎(前名:岡田五郎泰胤)、泉田文庫(前名:泉田豊後胤正)の二名、権大参事は西市左衛門と相馬靱負が任命された。
明治4(1871)年2月18日に行われた、藩知事・相馬秊胤の元服について、理髪を泉藤右衛門、加冠を相馬靱負が務め、2月22日、秊胤は「誠胤」と改名した。
その後、胤紹に家督を譲って隠居したようである。
明治4(1871)年10月から藩士たちの領内土着が始まり、靱負は北郷横手村(南相馬市鹿島区横手)へ土着している。また、明治12(1879)年の相馬事件でも、関係者の一人としてその名が見える。
靫負の家督を継いだ胤紹は、その後、旧藩公・相馬充胤の娘、忠(ちゅう)と結婚。明治22(1889)年8月12日に長女が誕生している。子孫は鎌倉期より奥州相馬家の本拠となった地、小高村(南相馬市小高区小高)の小高神社宮司家として続いている。