三上藩遠藤家 ~古今伝授を伝える家~

郡上遠藤家 ~三上藩主遠藤家~

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●三上藩遠藤家とは

三上藩地図
三上藩陣屋地
 近江国野洲郡三上村に陣屋を置いた三上藩主・遠藤家は、千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を遠祖とする。
 東行氏の郡上下向に従ったともいわれる遠藤家は郡上郡の豪族となり、東氏の重臣として栄えた。しかし、室町時代後期には東氏と遠藤氏の間では確執が生まれ、遠藤盛数は義兄にあたる東常堯を郡上郡から追放して東氏を滅ぼした。盛数は常堯の姉を正室としており、その子・遠藤慶隆が遠藤氏を継いで、織田信長・豊臣秀吉に仕え、その後、関ヶ原の戦いでは、美濃国でも数少ない徳川方として活躍し、その功績によって美濃郡上藩主となった。
 しかし、郡上藩五代藩主・遠藤常久がわずか七歳で早世したため、「武家諸法度」の規定によって改易、御家断絶の危機に見舞われたが、先祖の勲功を思った将軍・徳川綱吉は、みずからの縁戚に連なる白須政休の子・数馬を戸田弾正氏成の養子分とし、戸田家からの入嗣として遠藤家を継がさせ、数馬は遠藤胤親と称した。
 ただし、遠藤家の郡上郡の所領は規定どおり召し上げられ、新規に常陸・下野などに一万石を与えられ、城地のない大名となった。その後、所領は常陸・下野から近江国野洲郡三上村などに移されて明治に至った。
 幕末の遠藤胤統は幕府若年寄の要職にあり、その子・遠藤胤城は陸軍奉行並となるなど、幕閣と密接な関係を持った。明治に入り、子爵に叙爵された胤城は、勅許を得て「東」に復した。

●郡上藩・三上藩遠藤家

郡上藩・三上藩の概要 美濃郡上藩主 近江三上藩主 郡上遠藤家
木越遠藤家 乙原遠藤家 和良遠藤家  

●東氏の歴代

郡上東氏 郡上東氏の歴代 東氏惣領家 須賀川東家 森山東家

●江戸時代の遠藤家(東家)

土佐藩遠藤家 木曾遠藤家 田中藩遠藤家  
苗木藩東家 土佐藩東家 小城藩東家 医官東家

●郡上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤慶隆 1550-1633 1601-1632 従五位下 但馬守 遠藤盛数 東常慶娘 乗性深心院
―― 遠藤慶勝 1588-1615 ―――― 従五位下 長門守 遠藤慶隆 三木良頼娘 対神院明心
2代 遠藤慶利 1609-1646 1632-1646 従五位下 但馬守 三木直綱 遠藤慶隆娘 至誠院乗雲
3代 遠藤常友 1628-1675 1646-1675 従五位下 備前守 遠藤慶利 板倉重宗娘 常敬院素信
4代 遠藤常春 1667-1689 1676-1689 従五位下 右衛門佐 遠藤常友 戸田氏信娘 恵正院素教
5代 遠藤常久 1686-1692 1689-1692 従五位下 ―――― 遠藤常春 側室某氏 本了院素導

●三上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤胤親 1683-1735 1692-1733 従五位下 但馬守 白須政休 小谷忠栄娘 宝地院素吟
2代 遠藤胤将 1712-1771 1733-1771 従五位下 備前守 遠藤胤親 久松氏娘 大心院素江
3代 遠藤胤忠 1732-1791 1771-1790 従五位下 下野守 遠藤胤親 田所氏娘 東覲院素秋
―― 遠藤胤寿 1760-1781 ―――― ―――― ――― 遠藤胤忠 青木氏娘 心開院素練
―― 遠藤胤相 1761-1814 ―――― ―――― ――― 酒井忠与 西村氏娘 霊信院素淳
4代 遠藤胤富 1761-1814 1790-1811 従五位下 左近将監 松平信復 小林氏娘 自得院素行
5代 遠藤胤統 1793-1870 1811-1863 従四位下 中務大輔 戸田氏教 猿田氏娘 敬武徳院素中
―― 遠藤胤昌 1804-1855 ―――― ―――― 式部少輔 松平義和 某氏娘 直諒院素温
6代 遠藤胤城 1838-1909 1863-1909
(藩知事含む)
従五位下
(贈正三位)
但馬守
(子爵)
遠藤胤統 小谷氏娘  

■三上藩歴代藩主■

初代藩主

遠藤胤親(1683-1735)


<名前> 胤親
<通称> 数馬→主膳
<正室> 酒井石見守忠豫女
<正室2> 増山兵部少輔正弥女
<義父> 戸田弾正氏成
<父> 白須才兵衛政休
<母> 小谷将監忠栄女
<官位> 従五位下
<官職> 下野守→但馬守
<就任> 元禄5(1692)年5月9日~享保18(1733)年9月25日
<法号> 宝地院素吟
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)

―遠藤胤親事歴―

 三上藩初代藩主。父は西尾藩主・増山弾正少弼正利の家臣であった旗本・白須才兵衛政休。母は小谷将監忠栄娘。妻ははじめ、酒井石見守忠豫娘。のち、増山兵部少輔正弥娘。天和3(1683)年に誕生。

 五代将軍・徳川綱吉の側室・於伝の方(瑞春院)は胤親の伯母にあたり、鶴姫(紀伊藩主・徳川綱教正室)と嫡男・徳松(早世)を産んだ。また、父・白須才兵衛政休が仕えていた増山弾正少弼正利の姉は、四代将軍・徳川家綱の母親である於楽の方(宝樹院)。妻の父・増山兵部少輔正弥は於楽の方の甥にあたる人物で三河国西尾藩主。つまり、胤親の伯母が五代将軍・徳川綱吉の側室であり、舅の従兄弟が四代将軍・徳川家綱ということになる。また、従姉妹・鶴姫は、紀州藩三代藩主・徳川綱紀の正妻となっており、胤親と将軍家とは非常に緊密な血縁関係であった。

●胤親周辺系図

      青木利長―+―増山正利===増山正弥
           |(弾正少弼) (兵部少輔)
           |
           |
           +―那須資弥―――増山正弥――――――――娘
           | (遠江守)  (兵部少輔)      ∥
           |                    ∥
           +―於楽の方               ∥
            (宝樹院)               ∥
              ∥―――――徳川家綱        ∥
             徳川家光  (四代将軍)       ∥
            (三代将軍)              ∥
              ∥                 ∥
              ∥―――――徳川綱吉 +―徳松   ∥
             於玉の方  (五代将軍)|      ∥
            (桂昌院)    ∥   |      ∥
                     ∥―――+―鶴姫   ∥
                     ∥     ∥    ∥
    鶴牧信幹―――――娘    +―於伝の方   ∥    ∥
   (茂右衛門)   (高覚院) |(瑞春院)   ∥    ∥
             ∥――――+        ∥    ∥
             ∥    |       徳川綱教  ∥
             小谷忠栄 +――娘   (紀伊藩主) ∥
            (将監)     ∥          ∥
                     ∥―――――――――遠藤胤親
                     ∥        (但馬守)
                    白須政休        ∥
                   (才兵衛)        ∥
                                ∥
    酒井忠次――家次――――忠勝――――忠恒―――忠豫―――娘
   (左衛門尉)(宮内大輔)(宮内大輔)(大学頭)(石見守)

 元禄5(1692)年3月30日、九代藩主・遠藤岩松常久がわずか七歳で世を去ってしまった。武家諸法度では、嫡子を幕府に届け出ずに藩主が急死した場合、その藩は改易されて旧藩主家は断絶となる規定であったが、遠藤家は先祖の功績が認められ、綱吉の側室・於伝の方(瑞春院)の甥にあたる旗本・白須数馬が遠藤家の縁戚である戸田弾正氏成の養子とされ、大垣藩公子の家格で遠藤家の養嗣子となり、「遠藤主膳胤親」を称した。

                 遠藤常友
                (備前守)
                 ∥――――――遠藤常春===遠藤胤親
         戸田氏信――+―娘     (右衛門佐) (但馬守)
        (采女正)  |               ↑
               +―戸田氏西―――戸田氏成===遠藤胤親
                (肥後守)  (淡路守)  (但馬守) 
                        ∥      ↑
                        ∥      |
         小谷忠栄―+=小谷守栄――+―娘      |
        (将監)  |(武左衛門) |(牧野成貞養女)|
         ∥    | ∥     |        |
         ∥    +―娘     +=小谷郡栄   |          
         ∥    |        (甚四郎)   |            +―遠藤胤寿
         ∥    |                |            |(兵庫)
         ∥    +―娘              |            |
         ∥      ∥―――――+――――――――遠藤胤親――――遠藤胤忠―+―
         ∥      ∥     |       (但馬守)   (下野守)   ∥
         ∥      ∥     |                       ∥
         ∥    +―白須政休  |                       ∥
         ∥    |(甲斐守)  |                     【乙原遠藤家
         ∥    |       +=白須政親===白須政賢――+―娘     遠藤常益===遠藤常寿
         ∥    +―白須政種―――(主馬)   (甲斐守)  | ∥    (大之丞)  (式部)
         ∥     (十兵衛)                 | ∥            ∥
         ∥                           +=白須政雍=========娘
         ∥                            (甲斐守)         ↑
         ∥                             ↑            |
         ∥                     増山正贇――+―幾之助          |
         ∥                    (対馬守)  |              |
         ∥                           |              |
         ∥                           +――――――――――――――娘
         ∥             
         ∥――――――――――――――於伝の方 +―松平徳松
 鶴牧信幹――――娘             (瑞春院) |
(茂右衛門)  (高覚院)           ∥    |
                        ∥――――+―鶴姫
 徳川家康――+―徳川秀忠―――徳川家光――――徳川綱吉   ∥
(初代将軍) |(二代将軍) (三代将軍)  (五代将軍)  ∥
       |                       ∥
       +―徳川頼宣―――徳川光貞――+――――――――徳川綱教
        (和歌山藩主)(和歌山藩主)|       (和歌山藩主)
                      |
                      +―徳川吉宗
                       (八代将軍)

 5月9日、十歳の胤親は、はじめて江戸城に登城。無役の譜代大名などが控える菊間広縁に詰め、7月12日、はじめて五代将軍・徳川綱吉に謁見して遠藤家の家督が正式に認められた。しかし、遠藤家の所領であった郡上郡二万七千石は武家諸法度の規定通りに改易され、新たに常陸国真壁郡・那珂郡・下野国芳賀郡・都賀郡の四郡内に新知として一万石が与えられることとなった。承久以来四百八十年、郡上に根付いてきた東家の血筋はついに郡上郡を離れることとなった。

 元禄11(1698)年3月7日、胤親は常陸・下野内四郡から近江国滋賀郡・甲賀郡・野洲郡・栗太郡四郡内一万石に移され、藩の陣所を野洲郡三上村に定め、三上藩となった。

 宝永6(1709)年3月7日、二十七歳の胤親は従五位下・下野守に叙せられた。「下野守」の官途は、遠藤家が祖と仰ぐ東下野守常縁ら、東氏に所縁のある官途であり、遠藤家にとっては大変名誉な官途であったと思われる。幕府もそのことを考慮していたと思われ、胤親以降の歴代藩主も下野守に任じられている。

 宝永7(1710)年、駿府城加番を命ぜられ、朝鮮通信使節の供応役も兼ねた。正徳元(1711)年2月15日、藩邸が元誓願寺前(千代田区岩本町)から一橋御門外(千代田区一ツ橋)に移され、享保2(1717)年2月9日、一橋御門外より神田橋外に移された。

 正徳2(1712)年3月28日、寛永寺の大猷院殿御霊屋の火之番をつとめ、正徳4(1714)年9月20日、寛永寺東照宮の火之番に移った。さらに正徳8(1718)年9月17日、日光東照宮祭礼奉行として、東照宮の祭礼を無事につとめあげた。

 宝永15(1717)年3月21日、江戸城馬場先御門守衛となり、続いて和田倉御門守衛、竹橋御門守衛、一橋御門守衛などを歴任し、享保8(1723)年12月18日、官途が下野守から但馬守に改められた。

 享保15(1730)年2月15日、昌平坂学問所の聖像非常遷座御用掛に就任。享保18(1733)年9月25日、隠居が認められ、嫡男・遠藤主膳胤将が二代藩主となった。

 享保20(1735)年3月2日、53歳で亡くなった。法名は素吟寶池院。徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺の塔頭・觀善院に葬られた。

●遠藤胤親の家臣●

家老 松井縫殿助 野田勘右衛門 遠藤五郎左衛門

二代藩主

遠藤胤将(1712-1771)


<名前> 胤和(たねまさ)→胤将(たねのぶ)
<幼名> 吉之助
<通称> 主膳
<正室> 植村内記政広女
<正室2> 戸田采女正氏定養女
<父> 遠藤但馬守胤親
<母> 久松氏
<官位> 従五位下
<官職> 備前守
<役職> 竹橋御門守衛→大坂城番→大番頭→大坂城番→奏者番
<就任> 享保18(1733)年9月25日~明和8(1771)年4月12日
<法号> 大心院素江
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)
<歌集> 『落葉集』

―遠藤胤将事歴―

 三上藩二代藩主。父は三上藩初代・遠藤但馬守胤親。母は側室・久松氏。正徳2(1712)年に誕生した。妻は植村内記正広娘。のち、戸田采女正氏定娘。

 享保11(1726)年10月28日、15歳で八代将軍・徳川吉宗に謁見し、享保18(1733)年9月25日、父・胤親の隠居にともなって三上藩を継承。二代藩主となった。12月18日、従五位下・備前守に叙され、大夫となった。

 享保19(1734)年2月15日、竹橋御門守衛に就任。9月14日には牛込若宮(新宿区若宮町)に屋敷を賜り、本所にあった下屋敷を返納。この牛込若宮邸が江戸時代を通じて三上藩下屋敷となった。

 享保21(1736)年4月11日、日光東照宮の御祭礼奉行に就任し、日光へ向かったが、この道中日記『日光道の記』という紀行文を著している。

 元文4(1739)年、大坂城内雁木坂加番に就任。延享2(1745)年9月20日、遠藤家としてはじめて大番頭という重職に就いた。この翌月10月21日、胤将の次弟・遠藤数馬胤充が24歳の若さで亡くなった。胤充は元文2(1737)年9月18日に吉宗に拝謁して以来、将軍家の側近くに控えていたようで、27日、5月に産まれた吉宗嫡孫・竹千代(のちの十代将軍・徳川家治)の日枝山王社参詣に従った。

 寛延2(1749)年7月20日、大番組遠藤胤将組の森川求馬が罪を犯したため、組頭の胤将も連座して出仕をとどめられてしまったが、8月29日に赦免された。その後、宝暦元(1751)年8月23日には大坂城京橋口定番に就任してふたたび大坂に赴任し、明和4(1767)年11月8日、奏者番に移った。

 胤将には女の子がひとり(明林院遥月)いたが、早くに亡くなってしまった。宝暦10(1760)年10月28日、末弟の遠藤兵庫胤忠を養嗣子に迎え、11月1日、十代将軍・徳川家治に拝謁し、12月18日、胤忠は年末の叙により従五位下・下野守の官途に叙された。その胤忠の長女を養女にむかえ、松平信濃守乗森に嫁がせた。しかし彼女はのちに離縁となったため、いったん遠藤家へ戻ったのち、高家の前田隠岐守清長に嫁いだ。

 明和8(1771)年4月12日に亡くなった。享年60歳。法名は素江大心院。

 享保17(1732)年にはじまり享保20(1735)年までの日次詠草を集めた『落葉集』(第一巻)、享保21(1736)年から明和3(1766)年までの30年間の日次詠草『落葉集』(第二巻)を遺している。

 海辺霞  遠近に燃やもしほのけふりとはみへすも霞む春の浦浪(『落葉集』第一巻)

●遠藤胤将の家臣●

家老 野田弥兵衛 餌取六右衛門 
用人 垣見岡右衛門 遠藤五郎左衛門 
城使 伊藤杢右衛門

三代藩主

遠藤胤忠(1732-1791)


<名前> 胤忠
<幼名> 竹之助
<通称> 兵庫
<正室> 青木氏
<側室> 内藤氏
<父> 遠藤但馬守胤親
<母> 田所氏
<官位> 従五位下
<官職> 下野守
<就任> 明和8(1771)年4月12日~寛政2(1790)年2月20日
<役職> 大番頭
<法号> 東覲院素秋
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)
<歌集> 『東家拾参代和歌愚案抄』(1754)、『東家歌道教訓廿五ヶ条』(1755)
『歌道伝授目録』『古今伝授』三巻(1768)

―遠藤胤忠事歴―

 遠藤氏12代。父は三上藩初代・遠藤但馬守胤親。母は側室・田所氏。妻は青木氏の娘。享保15(1732)年に江戸神田橋外の三上藩上屋敷に誕生した。幼名は竹之助。江戸時代有数の歌人大名である。

 宝暦10(1760)年10月28日、子のなかった兄・備前守胤将の養嗣子となり、11月1日、十代将軍・徳川家治に拝謁。宝暦18(1768)年9月25日に遠藤家の家督を継いだ(藩主には就任せず)。12月18日、年末の叙により従五位下・下野守の官途に叙された。明和8(1771)年6月4日、三上藩主に就任し、安永8(1779)年4月15日、大番頭に就任した。

 胤忠には子どもが多かったが、嫡男・吉次郎は早世。次男の兵庫胤寿が嫡子を定めら、安永9(1780)年3月1日、胤忠は胤寿とともに将軍・徳川家治に拝謁したが、胤寿も翌年の天明元(1781)年10月19日、22歳の若さで亡くなってしまった。

 悲しみの中、胤忠は譜代大名の名門である小浜藩主・酒井遠江守忠与の次男・又次郎を末娘の婿養子としてむかえる話をすすめ、天明元(1781)年12月25日、又次郎は遠藤家の養嗣子となり、胤相(たねあきら)と称し、天明3(1783)年11月15日、将軍・徳川家治に拝謁した。しかし、天明5(1785)年6月18日、胤相も37歳の若さで急死してしまった。

 胤忠は大番頭に就任して以来わずか5年の間に、嫡子と定めた子を二人も喪う不幸が重なったが、天明5(1785)年10月12日、三河国吉田藩主・松平伊豆守信復の五男である松平陽五郎との養子縁組が成立。陽五郎は主膳胤富を称し、天明6(1786)年3月15日、胤忠は胤富とともに将軍・家治に拝謁した。

●松平信綱家周辺系図

⇒+―大河内久綱――信綱  +―娘      井上正任娘        岸田氏    +―信礼――――+―信明―――信順
 |(金兵衛)  (伊豆守)|(酒井忠富妻)  ∥―――――信祝     ∥     |(伊豆守)  |(伊豆守)(長次郎)
 |            |       +―信輝   (伊豆守)   ∥―――――+ ∥     |
 +―松平正綱===信綱  +―輝綱    |(伊豆守)   ∥―――+―信復    |本多正珍娘  +―信邦
  (右衛門大夫)(伊豆守)|(甲斐守)  |        ∥   |(伊豆守)  |        (直次郎)
          ∥   |  ∥――――+―輝貞    小林氏  | ∥     +―信正
          ∥―――+ 板倉重宗娘  (右京亮)       | ∥      (辰五郎)
          ∥   |                    | ∥
    井上正就――娘   +―吉綱                 | ∥―――――+―遠藤胤富
   (主計頭)      |(三郎兵衛)              |小林氏    |(備前守)
              |                    |       |
              +―信定                 +―娘     +―娘
              |(伊勢守)               |(松平輝高妻) (大久保教和養女)
              |                    |
              +―信興======輝貞         +―娘
              |(因幡守)   (右京亮)       |(松平信直妻)
              |                    |
              +―娘                  +―安藤直之
              |(秋元忠朝妻)              (伊予守)
              |
              +―堅綱
              |(頼母)
              |
              +―娘
               (松浦棟妻)

 胤忠は胤富を嫡男と定めた3年後、寛政元(1789)年閏6月18日に大番頭を辞任し、寛政2(1790)年2月20日、隠居が認められ、胤富が家督を相続。寛政3(1791)年10月12日、62歳で亡くなった。法名は素秋東觀院。

 胤忠は歴代の藩主の中でも、郡上藩三代藩主・遠藤備前守常友とならび、もっとも歌道に執心した藩主で、公卿の鳥丸光栄より古今伝授を授かった。東下野守常縁の末裔であることを強く意識していたと思われる。兄の胤将も三十年にわたって歌を詠み続けていた歌人大名であったことも、胤忠が影響された要因のひとつであったのだろう。家督を継ぐ以前の宝暦4(1754)年には『東家拾参代和歌愚案抄』を著し、その翌年の宝暦5(1755)年8月には『東家歌道教訓廿五ヶ条』を、宝暦7(1768)年には古今伝授についての資料をまとめた『歌道伝授目録』、『古今伝授』三巻(『古今伝授之巻』『伝授之巻・地』『東家二条家古今伝授之系図』)を著し、さらに古今伝授の資料を再編成した『東家古今伝授』を著した。歌人として詠草を数多くつくっており、次代の主膳胤富が養父である胤忠の歌集と詠草をまとめて『素秋君御詠』を撰した。

 明和5(1786)年春、胤富を嫡子として家治に謁見させる前後、松山円応が所持していた東常縁秘蔵にして宗祇が書写した『三代集目附和歌』を書写し、『常縁消息付三代集目附和歌』として現存している。

 歳のうちにはるのたちける心を
 
 くれてゆくとしよりはやく来る春もそらには見せはやまつ霞むらむ(『素秋君御詠』)

●遠藤胤忠の家臣●

家老 餌取六右衛門 遠藤五郎左衛門 
用人 垣見岡右衛門 餌取小左衛門 野田嘉右衛門
城使 野田嘉右衛門

遠藤胤忠嫡男

遠藤胤寿(1760-1781)


<名前> 胤寿(たねなが、たねたか)
<幼名>  
<通称> 兵庫
<正室>  
<父> 遠藤下野守胤忠
<母> 青木氏
<官位>  
<官職>  
<就任> 将軍目通り後、藩主就任以前に卒去
<役職>  
<法号> 心開院素練
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)

―遠藤胤寿事歴―

 三上藩三代藩主・遠藤下野守胤忠の次男。母は側室青木氏。通称は兵庫。

 胤寿の実兄・吉次郎は宝暦3(1753)年9月11日に亡くなり、秋光院殿慈天と謚された。代わって次男の兵庫胤寿が嫡男に定められ、安永9(1780)年3月1日、二十一歳の胤寿は十一代将軍・徳川家治に拝謁し、正式に三上藩の後継者として認められた。

 しかし、拝謁の翌年、天明元(1781)年10月19日、二十二歳で亡くなった。法名は心開院素練。

遠藤胤忠嫡男

遠藤胤相(1761-1814)


<名前> 胤相(たねあきら)
<幼名> 三郎七
<通称> 又次郎
<正室>  
<父> 酒井遠江守忠与(若狭小浜藩主)
<母> 西村氏
<官位>  
<官職>  
<就任> 将軍目通り後、藩主就任以前に卒去
<役職>  
<法号> 霊信院素淳
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)

―遠藤胤相事歴―

 三上藩三代藩主・遠藤下野守胤忠の養嗣子。実父は小浜藩主・酒井遠江守忠与。母は西村氏。通称は又次郎。

 胤忠は天明元(1781)年10月19日に嫡男・兵庫胤寿が亡くなった後、幼い末娘(光顔院円鏡)と譜代大名の名門である小浜藩主・酒井遠江守忠与の次男・又次郎を婿養子として迎える話をすすめ、12月25日、胤忠の養嗣子となって遠藤家に入り、胤相と称した。そして天明3(1783)年11月15日、将軍・徳川家治に拝謁した。

 こののち、胤忠の娘との婚儀が行われる予定であったが、彼女は天明4(1784)年11月7日、亡くなってしまう。さらに胤相も後を追うように天明5(1785)年6月18日、37歳の若さで急死してしまった。法名は霊信院素淳。

四代藩主

遠藤胤富(1761-1814)


<名前> 胤富
<幼名> 陽五郎
<通称> 主膳
<正室> 堀大和守親長の娘
<父> 松平伊豆守信復
<母> 小林氏
<官位> 従五位下
<官職> 備前守→左近将監
<就任> 寛政2(1790)年2月20日~文化8(1811)年6月22日
<役職> 竹橋御門守衛→大番頭→竹橋御門守衛
<法号> 自得院素行
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)
<歌集> 『素秋君御詠』

―遠藤胤富事歴―

 三上藩三代藩主・遠藤下野守胤忠の養嗣子。実父は三河国吉田藩主・松平伊豆守信復。母は側室・小林氏。妻は信濃国飯田藩主・堀大和守親長の娘。宝暦11(1761)年正月15日、谷中の松平家別邸に誕生し、幼名は陽五郎。

 天明5(1785)年10月12日、胤忠の養子となり、天明6(1786)年3月15日、26歳で十代将軍・徳川家治に拝謁した。

 寛政2(1790)年2月20日、義父の胤忠が隠居したため、三上藩一万石を相続。6月14日には江戸城竹橋御門の守衛となった。そして同年11月27日、従五位下・備前守に叙され、12月26日、大御番頭に昇進したため、竹橋御門守衛の役を免ぜられた。

 享和元(1801)年8月6日、左近将監に叙された。「左近将監」は遠藤家が祖と仰ぐ東下野守常縁が、亨徳2(1453)年7月26日にはじめ任官した官職で、幕府もこれを意識していたと思われる。

 享和3(1803)年6月7日、病のために大御番役を免ぜられるよう幕府に願い出てこれをゆるされたが、病が快方に向かったのか、翌年の文化元(1804)年5月2日には、竹橋御門守衛を命じられた。しかし、文化4(1807)年6月22日、病のためか御役御免を願い出て竹橋御門守衛役を辞し、文化8(1811)年6月22日、隠居を願い出て許され、家督は娘(恭寿院素静)の夫・ 直之進胤統が継承した。

 文化11(1814)年9月24日、亡くなった。法名は素行自得院。菩提寺の浅草長敬寺に葬られた。

●遠藤胤富の家臣●

家老 野田弥兵衛 遠藤五郎左衛門 松井縫殿右衛門 野田郡兵衛
用人 遠藤治郎左衛門 野田紋左衛門 伊藤三左衛門 今村五兵衛 餌取六右衛門 垣見岡右衛門 
城使 山本森右衛門 伊藤杢右衛門
添役 松井左兵衛

五代藩主

遠藤胤統(1793-1870)


<名前> 胤統(たねのり・たねつね)→胤緒(たねお)
<幼名> 直之進
<通称>  
<正室> 遠藤備前守胤富女(恭寿院素静)
<側室2> 藤堂和泉守高兌女
<父> 戸田采女正氏教
<母> 猿田氏
<官位> 従五位下→従四位下
<官職> 但馬守→民部大輔→中務大輔
<就任> 文化8(1811)年6月22日~文久3(1863)年10月7日
<役職> 田安門守衛→大坂城加番・大坂城玉造口定番他→若年寄・外国事務掛他
<法号> 敬武徳院殿顕文素中大居士
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)
<歌集> 『東家古今伝受並稽古方』(1815)

―遠藤胤統事歴―

 三上藩四代藩主・遠藤備前守胤富の養嗣子。実父は老中・戸田采女正氏教(美濃大垣藩主)。母は側室・猿田氏。妻は遠藤備前守胤富娘。寛政5(1793)年11月22日、呉服橋御門内にあった大垣藩邸で生まれた。幼名は直之進。老中・松平右近将監武元の孫であり、徳川家康の七世の孫にあたる。

 文化6(1809)年5月15日、十一代将軍・徳川家斉に拝謁。文化8(1811)年6月22日、妻の父で先代藩主・遠藤胤富が隠居したため、家督を相続し三上藩五代藩主となり、12月11日、従五位下・但馬守に叙任され、文化9(1812)年2月3日、江戸城の田安門守衛に任じられた。また、4月17日、日光東照宮の祭礼を取り仕切る祭礼奉行に任じられた。

 三上藩主は定府大名(参勤交代をせず常に藩主が江戸屋敷にある大名家)であったため、その後は、大坂城青屋口加番、江戸城馬場先御門守衛、大坂城雁木坂加番、大坂城玉造口定番といった幕府役人としての道を進んだ。

名前 役職
土井大炊頭利位 大坂城代 下総古河藩主
米倉丹後守昌寿 京橋口定番(大坂城北西) 武蔵六浦藩主
遠藤但馬守胤統 玉造口定番(大坂城南東) 近江三上藩主
土井能登守利忠 山里丸加番 越前大野藩主
井伊右京亮直経 中小屋加番 越後与板藩主
米津伊勢守政懿 青屋口加番 出羽長瀞藩主
小笠原信濃守長武 雁木坂加番 播磨安志藩主
菅沼織部正定志 東大番頭(大坂城南東) 交代寄合
北条遠江守氏喬 西大番頭(大坂城南西) 河内狭山藩主
堀伊賀守利堅 大坂西町奉行 旗本
跡部山城守良弼 大坂東町奉行 旗本

 天保8(1837)年2月19日、飢民の救済をもとめて大坂町奉行与力・大塩平八郎が反乱を起こした(大塩平八郎の乱)。このときの大坂城代は土井大炊頭利位(下総古河藩主)がつとめ、玉造口定番が遠藤胤統、京橋口定番は米倉丹後守昌寿(武蔵六浦藩主)が任じられていたものの、米倉昌寿はまだ着任していなかったことから、胤統が両口を統べることとなった。

大坂城跡
大塩平八郎の乱時の大坂城番
 大塩平八郎の軍勢は大坂の町各地に放火して、すでに各地が火の海と化していたため、城代・土井利位は、町奉行の堀伊賀守利堅・跡部山城守良弼ならびに目付の中川半左衛門・犬塚太郎左衛門に、大塩の逮捕と逆らうものは切り捨て苦しからずとの命を下し、一方で胤統以下四加番・両大番頭を召集し、それぞれの持ち場を固めるよう命じた。

 しかし、町奉行の堀利堅・跡部良弼は土井利位より命を受けたときから、大塩の軍勢には到底町奉行与力同心だけでは敵すべき用もないとし、鉄砲奉行・石渡彦太夫と御手洗伊右衞門から鉄砲同心を借り、その鉄砲隊を使って鎮圧をしようと試みたが、あえなく駆け散らされてしまった。堀・跡部両奉行は大坂城の次席である定番・遠藤胤統に組与力同心の派遣を求めた。

 胤統はただちに要請に応え、側近の畑佐秋之助を玉造口・京橋口両組の与力組に派遣して、おのおの同心支配投一人・平与力二人・同心三十人の出兵を命じた。与力は十匁筒、同心は三匁五分筒の携帯を命じ、畑佐は彼らを率いて東町奉行所の警固に赴いた。さらに胤統は鉄砲を玉造口に並べて守りを固めた。その後、各藩の兵が大坂に現れると、大塩の手勢は次々に四散し、大塩平八郎の逃亡によって乱は鎮圧された。

大坂城玉造口
大坂城南東玉造口
 しかし2月20日早朝、胤統のもとに玉造口の形勢が不利となり大塩の残党が再挙兵する動きがあるという報告があった。胤統はただちに東大番頭・菅沼定志(相馬祥胤の四男、菅沼定邦の養嗣子)に救援を求めるとともに、東大番組を玉造口の左側にある第一櫓・第二櫓に配置させ、もし玉造口残党が攻め寄せたならば、側面より鉄砲にて射撃するよう命じた。さらに玉造口与力同心の隠居、次男三男をすべて招集して城門の守りに配置し、別働隊の与力二十人、同心四十人を二隊に分け、城外の警戒を強めた。しかし、結局この報告は風説であったため、被害はなかった。

 胤統はその後、大坂での活躍が認められ、指図が万端に行き届いているのは日ごろの心がけが宜しいからであるとし、8月21日、畑佐秋之助とともに十一代将軍・徳川家斉から江戸城内に招かれ、老中・大久保加賀守忠真、松平和泉守乗寛、水野越前守忠邦の三老中連署の感状が贈られた。そして家斉からは胤統には鞍鐙を、秋之助には時服三両が下賜された。

 十一代将軍・徳川家斉と十二代・徳川家慶から大変な信頼を受けており、天保12(1841)年8月10日、大坂御城番職を転じて、幕閣の若年寄に就任した。そして屋敷を鍛冶橋御門内に与えられ、文久元(1851)年に退任するまで、10年の間、幕政に参与した。

 天保14(1843)年4月、十二代将軍・徳川家慶の日光東照宮社参に供奉し、嘉永5(1852)年7月8日には御勝手掛および西ノ丸造営奉行、海岸防御筋御用掛を仰せ付けられ、二千石が新たに加増。安政元(1854)年11月24日、江戸湾の台場を作事する台場築造御用掛に就任した。現在、港区台場のお台場海浜公園から見える第六台場を担当している。

 安政2(1855)年10月2日夜、江戸を大地震が襲った。「安政の大地震」と呼ばているが、町人七千人以上、武士も二千六百人が亡くなったという。大名屋敷も各地で倒壊、延焼するなど、江戸は壊滅状態となった。常盤橋御門・和田倉御門内の閣僚級の大名が屋敷を並べる「大名小路」の被害も甚大で、辰ノ口にあった三上藩邸も延焼し、東氏より連綿と伝えられてきた多くの文書が灰となってしまった。

 安政3(1856)年10月、胤統は蝦夷地開拓御用掛に就任、安政5(1858)年10月には徳川家定将軍宣下の御用掛を勤めた。そして翌安政6(1859)年7月には外国事務掛に就任。7月23日、酒井飛騨守忠毘(越前鞠山藩主)とともに品川沖に停泊していたロシア東部艦隊総督ムラヴィヨフと船上にて会見し、26日には芝の愛宕山下天徳寺にムラヴィヨフを招き、彼らの主張する「樺太はロシア領である」という主張をはねつけた。今も懲りずに続くロシアの南進は不凍港を求めるものだが、このころから侵略の手を伸ばしてきていたのだ。

 同年中、上屋敷(約4,850坪)を旧生実藩邸があった辰ノ口(丸の内一丁目)に移転している。

外桜田門
桜田門外

 ちょうどそのころ、京都と幕府の間で、孝明天皇の妹・和宮親子内親王と十四代将軍・徳川家茂の婚姻計画が進められ、公武合体の期待が高まっていた中、独断で開国に踏み切った大老の井伊直弼(近江彦根藩主)が万延元(1860)年3月3日、桜田門外で水戸脱藩士を中心とする尊皇攘夷派の浪士たちに暗殺されるという大事件が起こった(桜田門外の変)。

 井伊大老の首をとった薩摩藩士・有村次左衛門兼清は桜田門外の米沢藩上屋敷前で、追いすがる彦根藩士・小河原秀之丞宗親に斬られて重傷を負い、辰ノ口の遠藤家屋敷の辻番所前まで逃れたものの力尽き、大老の首を前に自刃を遂げた。大老の首はその後、遠藤家に引き取られ、井伊家に返還された。

 4月、胤統のこれまでの功績を賞されて、遠藤家の家格は「城主格」とされ、本丸造営御用掛に就任。5月には国益主法御用掛、外国貿易筋御用掛に就任。11月の和宮親子内親王の関東御下向には、婚姻大礼御用掛を勤めた。

 7月、68歳と高齢だったためか若年寄職を免ぜられ、文久元(1861)年4月16日、海陸軍備向、軍制御用掛に就任。これまでの功績が認められ、7月15日には異例の従四位下・民部大輔に叙され、7月19日、芝に屋敷が与えられた。従四位下は、柳沢家や堀田家など、老中格である十万石クラスの大名家に与えられる官位であり、一万二千石の遠藤家が叙されるのは異例中の異例だった。城内の席次も菊間面頬詰より雁之間詰に進むなど胤統の功績は幕府に高く評価されていた。

 文久3(1863)年10月7日、幕府に老齢を理由に隠居を願い出て許され、家督は嫡男・廸吉胤城に家督を譲って引退。元治元(1864)年、中務大輔に叙された。「中務」についても東家の代表的な官職であり、幕府はこれを尊重したものであろうと思われる。家斉・家慶・家定・家茂・慶喜の五代に仕えた幕末きっての能吏であった。

 明治3(1870)年9月25日、七十八歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。

●遠藤胤統の家臣●

家老 遠藤治郎左衛門 野田紋左衛門 
城代 松井与七郎 吉田孫作
用人 野田郡兵衛 吉田孫四郎 山本森右衛門 粥川小十郎 餌取太兵衛 山本匠作 野田平次 餌取権右衛門 餌取伝次郎 水谷収蔵 粥川鞆矢 餌取覚右衛門 山本小源太 兵藤嘉藤次 松井勘右衛門 松井鉄太郎 稲垣大弥太 福田賢次郎 稲垣鉄之助 垣見丹蔵
添役 餌取儀右衛門

●遠藤胤統の系譜

【初代将軍】 【水戸藩主】      【府中藩主】    【館林藩主】【大垣藩主】【三上藩主】
⇒徳川家康―――徳川頼房――松平頼泰――頼福―――頼明―――松平武元――戸田氏教――遠藤胤統――+―娘(花風院殿釈先春大姉)
(征夷大将軍)(中納言) (左門)  (安房守)(播磨守)(右近将監)(采女正) (但馬守)  | ∥
                                                | 胤昌
                                                |(邦之丞)
                                                |
                                                +―胤城
                                                 (但馬守)

 
遠藤胤統嫡男

遠藤胤昌(1804-1855)


<名前> 胤昌(たねすけ)
<幼名> 武之丞→邦之丞
<通称>  
<正室> 遠藤中務大輔胤緒女(花風院殿釈先春大姉)
<父> 松平中務大輔義和
<母> 某氏
<官位>  
<官職> 下総守→式部少輔 
<就任> 将軍目通り後、藩主就任以前に卒去
<役職>  
<法号> 直諒院素温
<菩提寺> 浅草長敬寺(本願寺塔頭)

―遠藤胤昌事歴―

 三上藩五代藩主・遠藤中務大輔胤統の養嗣子。実父は尾張藩支藩の美濃高須藩主・松平中務大輔義和。母は不明。文化元(1804)年10月4日、高須藩邸にて生まれた。幼名は武之丞。文化10(1813)年11月、邦之丞と改められた。10月23日、御袴着の儀が執り行われた。

 文政9(1826)年7月2日、二十三歳にして父・松平中務大輔義和に初めてお披露目がなされ、天保3(1832)年5月2日、遠藤家の婿養子となり嫡子に定められた。閏11月15日には初めて将軍・徳川家斉に御目見えを果たした。

 天保4(1833)年12月16日、敍爵して下総守となり、さらに天保11(1840)年正月16日、式部少輔に移った。しかし、義父の胤統は大坂城番をはじめ、若年寄という重責を担っていたため、胤昌はその後も家督を譲られることなく、三上藩嫡子として安政3(1855)年10月23日に48歳で亡くなった。一説には6月29日に亡くなったともされている(『尾張徳川家系譜』)。法名は直諒院素温。

 美濃高須藩は尾張名古屋藩の支藩だが、藩主・松平中務大輔義和は水戸藩六代藩主・徳川治保(権中納言)の子で、幕末の水戸藩主・徳川斉昭(権中納言)の叔父にあたる。その子・胤昌は幕末の尾張藩主・徳川慶勝(権大納言)や会津藩主・松平肥後守容保らの叔父にあたる。

 妻の遠藤中務大輔胤緒女は明治の夜明け間もない明治元(1868)年12月16日に亡くなった。法名は花風院殿釈先春大姉。

●美濃高洲藩系譜

【水戸藩主】       【府中藩主】    【館林藩主】【大垣藩主】【三上藩主】
⇒徳川頼房―+―松平頼泰――頼福―――頼明―――松平武元――戸田氏教――遠藤胤統――+=遠藤胤昌
(中納言) |(左門)  (安房守)(播磨守)(右近将監)(采女正) (但馬守)  |(邦之丞)
      |                                   |
      |                                   +―遠藤胤城
      |                                    (但馬守)
      |【高松藩主】  【水戸藩主】
      +―松平頼重――+―徳川綱条
       (左近権少将)|(権中納言)
              |
              |      【高松藩主】  
              +―松平頼侯――松平頼豊――――徳川宗堯―宗翰――治保―+―治紀―――――+―斉脩   +―慶篤
                     (左近衛権中将)(参議) (参議)(参議)|(左近衛権少将)|(権中納言)|(権中納言)
                                          |        |      |
                                          |        +―斉昭―――+―慶喜
                                          |         (権中納言) (刑部卿)
                                          |
                                          |【高須藩】          【尾張藩主】
                                          +―松平義和―+―義建――――+―徳川慶勝
                                           (中務大輔)|(左近衛少将)|(権大納言)
                                                 |       |
                                                 |       |【尾張藩主】
                                                 +―遠藤胤昌  +―徳川茂徳
                                                  (邦之丞)  |(権大納言)
                                                         |
                                                         |【会津藩主】
                                                         +―松平容保
                                                         |(肥後守)
                                                         |
                                                         |【桑名藩主】
                                                         +―松平定敬
                                                          (越中守)

 
六代藩主

遠藤胤城(1838-1909)


<名前> 胤城(たねき)
<幼名> 廸若→廸吉
<通称>    
<正室> 堀石見守親義妹・雅(教子)
<父> 遠藤中務大輔胤統
<母> 小谷氏
<官位> 従五位下→正三位(明治四十年、勅命により追贈)
<官職> 美濃守→備前守→但馬守
<役職> 大坂城青屋口加番→講武所奉行→三上藩知事→和泉国吉見藩知事
<就任> 文久3(1863)年10月7日~明治42(1909)年11月9日
<法号>  
<菩提寺> 長敬寺

―遠藤胤城事歴―

 三上藩六代藩主。遠藤但馬守胤統の三男。母は小谷氏。妻は堀石見守親義の末妹・雅(『堀親広親族書控』:「伊那2003年11月号」)。天保9(1838)年6月5日、大坂城内玉造口定番屋敷にて誕生した。幼名は廸若、廸吉。

大坂城玉造口定番屋敷跡
大坂城玉造口定番屋敷跡
 天保3(1832)年5月2日、胤城が生まれたとき、すでに義兄の遠藤邦之丞胤昌(美濃高洲藩主・松平中務大輔義和の五男)が養嗣子と定められていたが、胤昌に子がいなかったことから、胤城がその養嗣子となった。兄に亀若がいたが、胤城が生まれる前の天保5(1834)年12月22日に玉造口定番下屋敷で亡くなっていた(天華院殿幼光芳雪大童子)。

 胤昌が安政3(1855)年10月23日に亡くなると、11月15日、胤城は父・胤統とともに江戸城西ノ丸に登城して十三代将軍・徳川家定に謁見し(『藤岡屋日記』)、12月16日に従五位下・美濃守に叙せられた。こののち、備前守、但馬守と改められている。

 文久3(1863)年10月7日、父・胤統は老齢を理由に隠居を願い出て許され、胤城が三上藩六代藩主に就任した。そして、大坂城青屋口加番を経て、築地の講武所奉行に就任した。慶応元(1865)年5月、長州征討のために将軍・徳川家茂みずから出陣し、胤城もこれに随って大坂城に入った。そして慶応2(1866)年7月、胤城は兵を率いて安芸国広島にむけて出陣。備後国三吉に至ったとき、大坂城で将軍・徳川家茂が脚気によって病死した報告と、全軍引き上げの命が下ったため、ただちに兵をまとめて大坂城に戻った。

 幕府軍が長州戦に勝利を収められず引き上げたことは、幕府の弱体化を知らしめることとなってしまう。慶応2(1866)年2月5日、京都二条城で十五代将軍に就任した徳川慶喜は、これまでの幕軍の旧い体制を改革すべきことを第一条とし、幕府の軍備をフランス軍制に改革。軍備の近代化を目指し、幕軍の再編成と近代的な訓練を重ねた。このため、幕軍は見る間に精鋭となっていく。11月25日、大坂から江戸に戻った胤城は翌26日、陸軍奉行並に就任し、幕府陸軍の事実上のトップとなった。胤城は同じく陸軍奉行並の常陸国下館藩主・石川若狭守総管と明治初期、勧学義塾という私塾を遠藤家上屋敷近くの芝に開校している。

 翌慶應3(1867)年3月1日、陸軍奉行並から奏者番へ移った。

 慶喜の果敢な幕府の建て直し政策は、倒幕を画策していた薩摩藩・長州藩、それと手を結んでいた岩倉具視は危機感を抱き、早々に倒幕の勅令を手に入れる必要にせまられて倒幕の勅令を偽造。慶応3(1867)年10月13日夜、岩倉具視は天皇の外祖父であった中山忠能が岩倉の指示の通り、玉璽を幼い天皇(明治天皇)の手に持たせ、中山が手を副えて「倒幕の勅令」の下書きに御印を押させて「倒幕の密勅」が作られたという。

 しかし、この岩倉・大久保らの水面下での陰謀をいち早く察していた慶喜は、これよりも早く、13日昼に二条城大広間に在京の藩の重臣を召集して大政奉還を表明。岩倉らが押し立てようとした「倒幕の密勅」は、幕府が消滅した後に発せられたものであるため、無効とされた。

会津藩邸跡
会津藩邸跡(皇居外苑)

 岩倉たちは倒幕の密勅が用に足らなくなるとさらに奸謀を企て、「徳川家は大政を奉還したのであるから、その所領もすべて朝廷に返還されるべきである」(徳川家の辞官納地)とし、京都守護職や所司代、幕臣たちが怒りのあまり暴発することを狙った。

 このときの京都守護職は松平肥後守容保(会津藩主)、京都所司代は松平越中守定敬(伊勢桑名藩主)であり、幕府を重んじる人々であった。薩摩藩や長州藩を敵視する幕臣や所司代の兵はすでに暴発寸前となり、松平容保や松平定敬ですら抑えることができなくなった。

 慶応3(1867)年12月25日、江戸芝の薩摩藩邸で倒幕の謀議が行われていることを知った幕府は、ついに庄内藩中老・石原倉右衛門成知に薩摩藩邸を攻撃する命を下し、焼き討ちした。

 慶応4(1868)年正月1日、会津藩・桑名藩を主力とした幕府軍は大坂に集結し、上洛すべしとの勅命を旗に京都に向けて徳川慶喜は上洛した。このとき、京都周辺の道々は幕府と敵対していた長州藩、幕府を裏切った薩摩藩が守っていて、正月3日、幕府軍先鋒の滝川具拳が薩摩藩士が守る道を押し通ろうとして口論となり、薩摩藩は幕府軍に向けて突如発砲。鳥羽・伏見の戦いが起こった。

 戦いは一進一退が続いたものの、武器の質に劣る幕府軍は圧され、幕府軍総督・大河内豊前守正質や竹中丹後守重固ら幕府軍首脳の指揮のまずさも手伝って、幕府軍は敗れた。薩長憎しの気運高まる幕府軍を抑えきれなくなった徳川慶喜、松平容保、松平定敬ら幕府軍首脳部は正月6日、大坂から船に乗って江戸に逃れた。これ以上戦線を拡大させないためともいわれているが不明。

 翌正月7日、徳川慶喜追討令が発せられ、10日には慶喜以下27名の主だった人物の官位官職が褫奪され、幕府領は朝廷直轄領とされた。

 胤城は長州征討から大坂城に帰ったあと、慶応2(1866)年11月に江戸に戻り、翌12月に陸軍奉行並に任じられた。しかし、鳥羽・伏見の戦い敗れた幕府軍は壊走。胤城も三上藩の去就を迫られ、慶応4(1868)年正月10日に降伏を決意。近江国野洲郡の三上藩陣屋の留守居役に降伏の旨を伝えた。そして正月25日、近江国愛知川宿に駐屯していた東山道鎮撫総督・岩倉具定から三上藩留守居役に出頭が命じられ、正式に降伏恭順の意を示した。

 しかし、正月27日、東山道鎮撫総督は三上藩領召し上げの通達を発した。これは胤城が長州征討戦における幕府陸軍主将の一人であった上、降伏するのが遅かった罪が咎められた結果であった。三上藩領は隣接する水口藩(加藤能登守明実)・西大路藩(市橋下総守長義)が管理することとなった。

 胤城自身もは3月、武蔵国蕨宿に進軍した東山道鎮撫総督府に出頭し帰順した。総督府は胤城に蕨宿での謹慎を命じたが、すぐに謹慎は解かれて総督府付とされ、旧藩士八十五名とともに武蔵国戸田川の渡船場警固を命じられた。そののち総督府とともに板橋宿へ移り、板橋宿並近在取締役を仰せつかった。下級公家であった岩倉家の子に謙り、政府閣僚が渡し守や警察署長のような立場に降格になったわけだが、遠祖の東氏以来、朝廷と関わりを持ちつづけた遠藤家としてはそれもやむなしとの気持ちもあったのかもしれない。

 5月29日、戦わずして恭順したことや勤務が実直であったことなどの評価を受け、旧三上藩領一万二千石が胤城に返還された。そして7月10日、江戸芝の将監橋角にあった三上藩下屋敷に入り、5月の彰義隊と朝廷軍との戦いで荒廃した上野寛永寺内の警衛役に就いた。

 8月14日、山内警衛役を免ぜられると、8月17日、奥羽鎮撫総督府の正親町公薫(白河口総督)に随って会津藩追討の軍勢に加わり、旅中会計方を命じられた。9月8日、会津から東京に凱旋したのち、10月15日、天皇(明治天皇)より招かれ、東京城(旧称江戸城)に登城してはじめて天顔を拝した。

役職    
藩知事 遠藤胤城  
大参事 粥川小十郎  
権大参事 神山雪江 塚本九一郎
少参事 水谷榮三郎  
権少参事 餌取 傳  
 明治2(1869)年6月17日、朝廷は、諸大名が統治していた土地(版)・人民(籍)を朝廷に返上する「版籍奉還」を推進し、胤城も三上藩を朝廷に奉還し、6月23日、三上藩知事に就任。同時に公家や旧大名家、維新に功績のあった人物が「華族」という身分に統合された。そして、明治3(1870)年4月14日、飛領の和泉国吉見(大阪府泉南郡田尻町)に三上藩庁を移転した。ここに三上藩は吉見藩となる。

 しかし、明治4(1871)年7月14日、東京在住の各知藩事が召集されて「廃藩置県」の詔勅が出された。廃藩置県とは、それまでの藩を廃して代わりに県を置いて県令がこれを支配することであり、胤城は、藩知事を免ぜられた。新たに県令が任じられ、胤城は政治に関わる一切の権力を失った。

 明治11(1878)年正月22日、胤城は「遠藤」を遠祖の「東(とう)」に複氏したい旨を奏上して許され、「遠藤胤城」を「東胤城」と改め、明治17(1884)年、子爵となった。

 明治38(1905)年2月9日、夫人の教子(老中・堀石見守親寚娘)が亡くなった。そして、その四年後の明治42(1909)年11月9日、72歳で亡くなった。この日、特旨をもって正三位を追贈され、家督は三男の陸軍歩兵中尉・東胤禄氏が継承した。


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