下総高城氏

高城氏

 

 

トップページ > 下総高城氏 > 下総高城氏の歴代当主


原氏の嫡流千葉氏トップページ下総高城氏

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板高城氏歴代当主

高城氏出自の諸説高城氏の動向家康の関東下向と小金領

高城氏の起こり

 高城氏は『寛政重修諸家譜』によれば「藤原姓」の二階堂氏の流れと伝わっているが、別説によれば原四郎胤高の次男・越前守胤雅から始まると伝わるものもある(『小金城主高城氏之由来』八木原文書)。その出自については肥前高木氏との関わりなど他にも説があり、千葉氏の末裔であるという確実な系譜はない

 家紋は「裾黒に井桁」(『高城胤次申状下書』)「九曜」(『諸家系譜』)。替紋は「巴」「井」(『諸家系譜』)。幕紋は「葉桐鳳凰」(『諸家系譜』)。大纏は「笹二童子」(『諸家系譜』)。一族には「井桁に橘」「井桁に九曜」も伝わっている。

 高城氏の名がはじめて千葉氏被官として資料上に見えるのは、貞治5(1365)年に六歳で千葉介を継いだ竹寿丸(のちの満胤)の家臣に見える「高城越前守」である(『千葉大系図』)

 満胤被官として列挙されている人物は「円城寺式部丞、円城寺駿河守、鏑木十郎、多田平四郎、中村式部丞、深志中務丞、湯浅、鏑木備中、木内丹波、内山中務丞、行方平四郎、麻生淡路守、島崎大炊助、龍崎尾張守、高城越前守」などいずれも常陸行方一族であること、「下野守胤忠」から芦澤氏へ宛てられた書状から類推すると、高城氏は常陸国の豪族の可能性もある。ただし、『千葉大系図』は伝承も含めて様々な資料を集成して近世成立した系譜であるため、信憑性に疑問がある。そのほか、満胤の跡を継いだ千葉介兼胤の「長臣」として「円城寺・鏑木・牛尾・高城等、余略之」とある。また、『松羅館本千葉系図』の兼胤の項には「四家老、原・円城寺・牛尾・高城」ともある。

 なお『小金城主高城家之由来』には、千葉新介宗胤の子・新介高胤の二男「越前守胤雅」「肥前国高城城主」となって高城を称したとある。満胤の代は貞治5(1365)年~応永33(1426)年だが、「高城越前守胤雅」は正長元(1428)年まで「紀州新宮山中之孤城」にいたとされているため、満胤の後見人「高城越前守」と『小金城主高城家之由来』の「越前守胤雅」はまったくの別人となる。ただ『小金城主高城家之由来』『千葉大系図』ともに記述内容に多大な問題があるため、両者ともに史実として捉える事はできない。

★千葉介満胤の補佐人★(『千葉大系図』)

族臣 粟飯原弾正左衛門 大庭次郎 相馬上野二郎 大須賀左馬助  国分三河入道 東二郎左衛門入道 木内七郎兵衛入道 国分六郎兵衛入道 国分与一 国分越前五郎 神崎左衛門五郎 那知左近蔵人入道
家臣 円城寺式部丞 円城寺駿河守 鏑木十郎 円城寺大膳 多田平四郎 中村式部丞  深志中務丞 湯浅 鏑木備中
木内丹波 内山中務丞 行方平四郎 麻生淡路守 島崎大炊助 龍崎尾張守 高城越前守

 ただし、『千葉大系図』については記述に何らかの史実に基づいたものであるとすれば、高城氏は本来は千葉家被官で、原氏に付けられた寄騎的な存在であった可能性が高いだろう。その後、原氏の勢力伸張とともに原氏被官となり、東金酒井氏・土気酒井氏とともにその軍事力を支える「原に高城、両酒井」とうたわれた存在となった。また、高城下野守(諱は胤吉とされるが資料には遺されていない)千葉介昌胤の妹を娶っており、天文6(1537)年に高城氏が小金城を築いたときには、昌胤が祝いのために小金に赴いたという。

本土寺山門
本土寺山門

 高城氏は十五世紀半ばに現在の松戸市栗ケ沢の地に現れてから、原氏被官として勢力を拡大し、小田原北条氏の滅亡までの五十年にわたって下総国北西部に「金領」と称される広大な所領を有した。また、太日川の貿易河川を抑え、真間(市川市)の港町にも「安堵状」を発給した。そして、日蓮宗の大寺院である「中山法華経寺」「真間弘法寺」「平賀本土寺」とも深い関わりを持った。

 高城氏は戦国時代中期頃、原氏被官としてその名が現れてくる。その後、原氏は千葉宗家をしのぐ勢力を持つようになると、高城氏もその原氏の軍事力を担って成長し、下総西部の東葛地方一帯を支配する一大勢力に発展した。しかし、その出自についてはこちらのような説があって不明な点が多い。

 小田原北条氏が下総国に勢力を伸ばしてくると、従来の原氏との主従関係から、北条氏の他国衆の一員に変化し、北条氏の命を受けて各地を転戦した。天正18(1590)年の小田原の陣では、当主・高城胤則は居城・小金城を重臣に任せて、みずからは小田原城に入って豊臣秀吉の軍勢と戦っている。そして、小田原城が籠城戦空しく開城が決定すると、胤則は小金に使者を派遣して城を寄せ手に明け渡すことを命じ、小金の留守居は寄せ手の浅野長吉(のちの長政)らに城を明け渡した。こうして高城家百年の歴史は幕を閉じる。

高城氏の治世

根木内城
根木内城

 高城(高木)氏の名がはじめて現れるのが、永享9(1437)年6月19日に「クリガサワ」で亡くなった「高城四郎衛門清高」(『本土寺過去帳』)である。名字地に相当する地名が周辺にないことから、おそらく原氏の被官で原氏領の代官として赴任していたとみられる。『本土寺過去帳』に真実を見るとすれば、高城氏は永享年中にはすでに『本土寺過去帳』の上段に記載されるほど本土寺に何らかの関わりを持っていた氏族であると考えられよう。

 その後、「マバシ」「高城孫八」「アビコ」「高城和泉守・彦四郎」など見える。「クリガサワ」とは松戸市栗ケ沢、「マバシ」は松戸市馬橋、「アビコ」は我孫子市我孫子のことで、文明年間には松戸周辺から北上し、我孫子のほうまで勢力を広げたことがわかる。小弓原氏の原胤隆は天文5(1536)年7月11日、我孫子の西・相馬郡「布河」(利根町布川)で没しており(『本土寺過去帳』)、原氏の勢力拡大に伴って、原氏領の北西部を担当した被官高城氏も勢力をのばしていったとみられる。

■『本土寺大過去帳』に見られる高城氏

人名 法名 死亡年月 死亡地 現在地 続柄 その他
高城四郎衛門清高   永享9(1437)年6月19日 クリカサワ 松戸市栗ヶ沢    
高城四良右衛門   某年某月20日     高城清高と同一?  
高城周防入道悲母 妙林尼 文明6(1474)年6月16日 アヒコニテ 我孫子市我孫子 高城周防入道の母  
高城六郎左衛門   文明7(1475)年閏7月28日        
高城安芸入道   文明8(1476)年3月7日 間橋 松戸市馬橋    
高城孫八   文明8(1476)年3月21日 マハシ 松戸市馬橋    
高城彦四郎   文明8(1476)年4月2日        
高城和泉守御内方 妙泉尼 文明8(1476)年10月17日     高城和泉守の妻  
高城新右衛門   延徳2(1490)年閏7月19日     高城彦九郎父  
高城彦九郎         高城新右衛門の子  
花井六郎左衛門         高城彦六の父  
高城六郎左衛門   某年某月28日     花井と同一?  
高城彦六   延徳4(1492)年6月17日     花井六郎左衛門の子  
高城安芸入道 道友 明応4(1495)年4月1日 マバシニテ 松戸市馬橋    
高城周防守 雪叟入道光霊 弘治10(1497)年2月29日        
高城彦四郎 春谷霊位 永正10(1513)年1月9日        
高城周防守 実山宗真 永正11(1514)年7月27日        
高城和泉守 祖翁性高位 永正12(1515)年2月25日        
高城治部少輔   永正14(1517)年4月28日        
高城彦三郎   享禄4(1531)年9月1日 小屋島ニテ 不明    
高城下野守 関相玄酬居士 天正10(1582)年12月16日        
高城源次郎殿老母 妙星 慶長5(1600)年10月25日     高城胤則の母  
高城源二郎 玄白霊位 慶長8(1603)年8月17日 伏見ニテ 京都府伏見区    
高城下野守 輝叟玄楊 天文15(1546)年4月25日        
高城源左衛門成幸   某年7月5日        
高城民部少輔   某年某月11日、12日 フカイニテ打死 流山市東深井   討死同家風五十余人
高城下野守 玄心居士伝昭 某年某月12日        
御内室 桂林尼日庵 某年某月12日     高城下野守の室  
高城新左衛門           家中親父 継仙聖霊
高城勘三郎 宗光 某年某月23日        
高木刑部左衛門 道清入道 某年5月4日        

 文明2(1470)年、「高城」は日蓮宗の古刹「平賀本土寺」に制札を出している(『本土寺文書』)が、この「高城」が認めている花押は明らかに十六世紀半ばの当主・高城胤辰と同一であることからや、署名が「高城」のみで不自然であることから、この文書は胤辰が何らかの理由を以って文明二年の年季で発給した制札ではなかろうか。

 十五世紀半ばから十六世紀初頭にかけての高城氏の動向は、惣領家の特定も含めて困難であるが、伝承では亨禄3(1530)年、「高城下野守胤吉」が家老の安蒜浄意入道に命じて、居城・根木内城の西の大谷口(おおやぐち)に新城の縄張を開始。天文6(1537)年、七年の歳月をかけて巨大な城(大谷口城)を完成させたとも(『小金城主高城氏之由来』八木原文書)

 大谷口城は現在の常磐線北小金駅から新松戸駅にまたがる巨大な城郭である。天文6(1537)年9月25日、大谷口城の完成を祝って、高城下野守の義兄・千葉介昌胤が訪れ、饗応は縄張をした安蒜浄意入道が行ったという。

金杉郭
大谷口城金杉口

 天文19(1550)年の千葉妙見宮遷宮式の礼では、高城氏は原式部大輔胤清の「一門」として、両酒井・齊藤・菊間・加藤らとともに馬・太刀を奉納している(『千学集抜粋』)。しかし、永禄2(1559)年2月の『北条氏所領役帳』によれば、原胤貞とならび、両酒井氏・高城氏・成田下総守長泰らが北条氏の「他国衆」として記載されているため、独立した一人の大名(領主)として認められていたことがわかる。

 永禄4(1561)年7月、古河公方・足利義氏は古河・関宿の内紛などにより、高城氏の小金城に御移座が決まった。このことがきっかけで古河公方との接触を持つようになったのか、天正5(1577)年の新年参賀に高城胤辰が古河に赴き、この時の謁見で、胤辰は「下野守」を受領した。

*********************************

●高城氏の出自について●

 高城(高木)氏の名が公式な文書である『本土寺過去帳』に見えるのは永享9(1437)年6月19日に没した「高城四郎右エ門清高 永享九 六月 クリカサワ」が初めである。「クリカサワ」とは現在の松戸市栗ヶ沢周辺であり、栗ヶ沢から1.5kmほど北には、初期高城氏が築城した根木内城(松戸市根木内)があることから、根木内と関わりのある高城氏であったことは間違いないだろう。「高木」という名字を持つ「高木刑部左衛門道清入道」も『本土寺過去帳』に記載されているが、時代は不明。

 また、原氏に近い土地に存在した高城氏として、寛正6(1465)年に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とするものがある(『本土寺過去帳』)「山倉」は千田庄に隣接する現在の香取市山倉と思われる。「中野」は不明だが、高城雅楽助は「船橋陣」にて討死した様子がうかがえるので、原氏に属した高城雅楽助は、東下野守常縁ら幕府方勢力との戦いの中で船橋近辺で討死したのだろう。

 永正14(1517)年、足利義明による小弓城攻撃のとき、「原二郎」とともに「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」とある(『快元僧都記』永正十四年十月十五日条)。このとき逃れた「下野守」「下野守胤吉」とされている(『小金城主高城氏之由来』八木原文書)。しかし、ここに矛盾が生じる。

①『本土寺過去帳』 天文15(1546)年、「高城下野守当地頭 輝叟玄楊」が没している
②『胤次提出由緒書』 「玄楊」は「胤正」とされる
③『高城家世譜』 永禄8(1565)年、下野守胤吉=玄心居士が没している(「永禄八年乙丑六月十二日逝」)
④『本土寺過去帳』 某年某月12日、「玄心居士 伝昭 高城下野守 月庵 桂林尼同御内方」とある

 永正14(1517)年に小弓から逃れたという「高城下野守」「胤吉(=玄心居士)」であれば、天文15(1546)年に没した「高城下野守当地頭 輝叟玄楊」の存在が宙に浮く

・天文15(1546)年4月25日、「高城下野守当地頭 輝叟玄楊」=胤正(玄楊)
・永禄8(1565)年6月12日、「玄心居士 伝昭 高城下野守」=胤吉(傳照玄心大居士)

 つまり、「玄心居士(胤吉)」よりも以前に「下野守」を称した「下野守 玄楊」がいて、彼は天文年中まで小金の地頭であった。そして『胤次提出由緒書』にも同じく「玄楊」「玄心」が記され、どちらも「玄楊」「玄心」の順番で書かれている。もし、この『胤次提出由緒書』『本土寺過去帳』『高城家世譜』が正しければ、永正14(1517)年の小弓合戦で逐電した「下野守」は「玄心・胤吉」ではなく「玄楊・胤正」であると思われる。さらに、「玄楊」と「玄心」の没年には二十五年の開きがあり、父子の可能性がある。

 永正5(1508)年、「高城越前守(胤広)」は根木内城(松戸市根木内)を築いたが(『小金城主高城氏之由来』八木原文書)、越前守は原氏の「家郎」であったことから、小弓城に常駐していた可能性がある。留守を「下野守(胤正・玄楊)」が守っていたのかもしれない。永正14(1517)年、足利義明が小弓に攻めてきたとき「下野守(玄楊)」は根木内城から小弓に救援に駆けつけたものの、力及ばず小弓城は陥落。「高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」という事になったのかもしれない。

 永正18(1521)年8月、小弓公方・足利義明小金領へ侵入したものの、撃退に成功。さらに大永3(1523)年11月にも小弓公方は小金へ攻め込んでいる。実際にこの攻勢に対応したのは原氏と高城氏らであろうと思われるが、伝承では享禄3(1530)年に、居城の根木内城の西にある高台に新城の縄張りを開始し、天文6(1537)年に完成したとされており(大谷口城)、主である原氏が不安定な下総北西部一帯の状況を鑑みて、民政・防衛の中心となる大谷口城を新しく築城したのではないだろうか。

 その後、高城下野守胤吉は永禄7(1564)年、北条氏康と里見義弘の間で起こった第二次国府台の戦いに参戦し、子息・胤辰はじめ、弟・源六郎胤政四郎右衛門が活躍したという。

○諸書に見る高城氏○

『快元僧都記』
■■
原二郎の「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」
『高城家世譜』
■■
高城治部少輔胤忠玄東大居士)・越前守胤広玄安大居士)・下野守胤吉(傳照玄心大居士)
『胤次提出文書』
胤忠玄東)・胤広玄安)・胤正(玄楊)・下野守胤辰玄心)・下野守胤時玄酬
『高城家位牌』
玄東大居士 高城下野守胤忠
玄安大居士 高城越前守胤広
伝照玄心大居士 高城越前守胤吉
浄幽院殿関相玄酬大居士 高城下野守胤辰
深捜院殿庭室玄拍大居士 高城源治郎胤則
『本土寺過去帳』
高城治部少輔殿 番匠面ニテ被被 永正十四乙丑四月(1517年)
輝叟玄楊 高城下野守当地頭 天文十五丙午四月(1546年)
玄心居士 伝昭 高城下野守 月庵 桂林尼同御内方(1565年)
関相玄酬居士 高城下野守 天正十壬午十二月(1582年)
玄白霊位 高城源二郎殿 慶長八癸卯八月 伏見ニテ(1603年)
『里見系図』
■■
原ガ家司小金城主高城越前守・同左五右衛門父子ヲ討チ、同下野守ヲ追ヒ落ス
『寛政重修諸家譜』
二階堂胤行 山城守 紀伊国に住す
高城胤忠  治部少輔 下総小金に移る
越前守胤広 越前守 小金城主 大永7(1527)年 小弓合戦で原二郎胤栄を援けて戦死
下野守胤辰玄心) 下野守 永禄8(1565)年2月12日
下野守胤時玄酬) 下野守 天正14(1586)年 45歳で没する
源次郎胤則玄柏) 慶長9(1604)年8月17日 33歳で没する

 胤次提出の文書内にある「胤時 祖父高城下野守 玄酬」とあるのは、法名から見て「胤辰」であり、「胤時(タネトキ)=胤辰(タネトキ)」となる。そして「胤辰 玄心」は『本土寺過去帳』にある「玄心居士 伝昭 高城下野守」となる。おそらく、胤次は生まれる前に亡くなった祖父「下野守タネトキ」を聞いたまま「下野守胤時」だと思いこみ、「下野守胤辰」はその父親であろうと推測して、胤辰(胤吉)―胤時(胤辰)―胤則―胤次という系図を作って提出したと思われる。

 なお、『寛政重修諸家譜』は高城清右衛門胤次が旗本に任官しようと、伯父・佐久間安政(賎ヶ岳で活躍した佐久間盛政の弟)の推挙で提出した『胤次提出由緒書』をもととしており、『胤次文書』とほぼ同様の内容となっている。

●上記の諸書から考えた系図●

 高城治部少輔胤忠―高城越前守胤広―+―左五右衛門           +―下野守胤辰―――――源次郎胤則
玄東大居士)  (玄安大居士)  |(????-1517)          |(関相玄酬大居士) (玄白
(????-????)  (????-1517)  |                 |(1542-1586)
                  |                 |
                  +―下野守胤正――下野守胤吉――――+―胤政
                   (輝叟玄楊) (傳照玄心大居士) |(源六郎)
                   (????-1546)(????-1565)   |
                                    +―胤知(照誉上人)
                                     (1538-1634)

 下野守胤吉は『高城家世譜』によれば「永禄八年乙丑六月十二日逝」とされ、『下総旧事考』では、子は胤辰・胤政・胤知の三人の子がある。なお、末子・胤知は出家して照誉了学として小金東禪寺七代となり、寛永9(1632)年1月には徳川家御廟所である芝増上寺十七世となった。照誉上人は「兄」に当たる胤辰よりも四年前に生まれており、庶長子だった可能性がある。

○高城氏の出自の諸説○

①南家藤原氏二階堂氏説 (『高城胤次申状下書』)
②原氏の庶流説 (『小金城主高城家之由来』『千葉大系図』)
③木内氏の一族説 (『本土寺過去帳』)
④常陸の豪族説 (『千葉大系図』『芹沢文書』)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

①南家藤原氏二階堂氏説(『高城胤次申状下書』)
 ・元和2(1616)年、高城胤次(清右衛門重胤)が仕官のために幕府に提出した由緒書の冒頭

●『高城胤次申条下書』

 藤原氏

  本名二階堂大職冠ヨリ拾一代
  二階堂之元祖胤忠マデ拾六代
  是より高城名乗り申す
  家之紋すそ黒に井けた

→二階堂氏の祖から十六代目の胤忠が高城を称したとある。これは幕府に仕えるに及び、かつて徳川家と戦った千葉氏と同族であることを憚ったものとする説もあるが、江戸時代の旗本や町奉行与力などに千葉氏系の家々も登用され、臼井原家当主(原主水胤信)も徳川家康の側近に召されていることなどを考えると、妥当ではない。

 寛政11(1799)年に子孫の旗本・高城清右衛門胤親が幕府に提出した系譜に拠れば、以下のとおり。祖の高城清右衛門胤次(重胤)が幕府に提出した文書の下書『高城胤次申状下書』とも差異があり、系譜に抜けている人物もあることから、省略されているのだろう。

●『系譜』(『諸家系譜』所収より略譜)

  藤原鎌足―藤原不比等―藤原武智麿―藤原乙麿―藤原是公―藤原雄友――藤原弟河――藤原高扶―+
                                              |
                                              |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―藤原維幾―藤原為憲―藤原景隆―工藤景光――工藤資光――工藤行長――工藤景正――工藤行祐―+
                (工藤庄司)(三郎)  (山城守) (和泉守) (三郎)  |
                                              |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―工藤景信―――二階堂行広――二階堂胤行――高城胤忠―+―高城胤広――高城胤正――高城越前守
 (三郎左衛門)(山城守)  (山城守)  (治部少輔)|(越前守)
                            |
                            +―高城胤辰――高城胤時―+―高城胤則―+―娘
                            |(下野守) (下野守) |(源次郎) |
                            |            |      |
                            +―高城蔵人       +―権助   +―高城胤次
                                                 (清右衛門)

 二階堂氏説については、享保2(1717)年に奥州巡検使として東北から北海道を巡察した高城孫四郎清胤が認めた旅行記『奥州出羽松前巡見覚』に、同年8月14日、「梨崎村(宮城県栗原市金成梨崎)」に立ち寄った際、この地は「二階堂治部少輔古館在 高城先祖」と記し、さらに8月25日、仙台の北、景勝地松島の近くの「高城本郷」を通過した際、この地は「古館高城外記、山城之カミ館と云」と記している(『奥州出羽松前巡見覚』)。孫四郎の従者が認めた日記にも「高城郡 先祖御家所」とあり(『陸奥出羽並松前蝦夷巡見記並名所旧跡陸海道法細見』)、江戸期には先祖の「二階堂治部少輔」奥州梨崎村に住んでいて、高城保が名字地だったとの家伝が浸透していたことがわかる。ただし、栗原郡梨崎周辺を領した二階堂治部少輔維清は十六世紀前半の葛西氏被官であることや、子孫も同地にあることから実際には奥州二階堂氏との関わりは薄いと考えられる。高城氏が栗原二階堂氏を祖とした理由は不明ながら、高城の名字地を捜し求めて宮城郡高城保へたどり着いたことは想像できる。

 高城胤次が旗本仕官時に幕府へ提出した『高城胤次申条下書』「藤原胤辰」の項には「生国紀伊熊野」とあり、紀伊熊野との関わりも記載されていて、江戸初期の高城氏には先祖の明確な伝がなかったことがわかる。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

②原氏の庶流説(『八木原文書』『千葉大系図』)
 原氏の祖は千葉介満胤の子・胤高(四郎)といわれる。その嫡男が原氏を継いで胤親(式部少輔)を名乗った。次男の胤雅(越前守)が高城氏の祖といわれる。

→貞治4(1365)年正月、千葉介氏胤が美濃国で亡くなると、6歳の嫡男・竹寿丸(満胤)が跡を継いだ。足利義詮はこれに対して、先例によって一族家臣から補佐役を選ばせたが、その中の「家臣」の末尾に高城越前守という人物が見える(『千葉大系図』)。この越前守が満胤の孫・越前守胤雅(満胤の子・原四郎胤高の二男)であれば、孫が幼い祖父の後見人となり、系図に矛盾が生まれる

 『小金城主高城家之由来』は系譜的にも時代的にも多くの矛盾があり、史実とは言い難いものの、伝承として紹介しておく。

★『小金城主高城家之由来』(『八木原文書』)による高城氏発生の由緒★

※根本的な史実の誤りや世代のあわない記述が散見されるため、史実として見ることはできないが、他の資料に見ることのできない伝承もあるため、紹介する。

 千葉宗胤が建武2(1335)年に近江三井寺で討死し、その嫡男・大隅守胤貞は肥前千葉氏の祖となり、二男・新介高胤は父が戦死した後も南朝に味方して活躍したとある。しかし、九州南朝の棟梁的存在であった菊池氏が足利尊氏に敗れると、胤貞は尾張において没落し、三河に逃れた。新介高胤は正治3年【貞治3(1364)年の誤りか】になって嫡男・式部大輔親胤を連れて佐倉の千葉介兼胤を頼り、兼胤も哀れに感じて高胤を臼井城主として立てさせた。

 一方、二男の高城越前守胤雅は、南朝側の武将として楠木氏の旗下にあり、紀州新宮で南朝側の反撃の時を待っていた。しかし、楠木や新田勢が滅んでしまったため、ついに正長元(1428)年、嫡子・辰千代と二男・介二郎、一族郎党をともなって臼井の父兄のもとへ戻り、千葉胤直と康胤の争いでは原氏に荷担して活躍。その功績によって千葉領分地の生実城に移った。

 高城氏は日を追って繁栄し、「原ニ高城」と言われるようになる。辰千代は武蔵国石浜にあって越前守を受領して「胤充」を称し、介二郎は椎名に住んで椎名日向守胤俊を名乗り、のちに「安蒜」氏を称した。

 胤充の長子・辰千代越前守胤行といい、生実城にあって原式部大輔に属した。胤行には二人の子があり、長男は大隅守胤之、二男は下野守胤吉といった。このころ、京都では山名宗全と細川勝元との勢力争いが大きくなり、全国に飛び火して「応仁の大乱」が起こった。

 明応年中(1492-1501)、伊勢新九郎(のちの伊勢宗瑞)足利茶々丸の籠る堀越館を乗っ取ったことを皮切りに伊豆・相模・武蔵に勢力を伸ばした。その子・氏綱が継承して北条を称し、同じ平氏ということで千葉氏とよしみを通じた。そんなころ、古河公方足利高基の弟・左馬頭義明は性質姦悪で狼志虎踞の心ありとして高基から古河を追われて奥州を流浪したが、里見義弘がこれを招いて御所として奉戴し、北条氏と争った。

 足利義明はまず生実城に攻め込み、これを迎え討った「高城越前守」は生実城に籠って討死した。この戦いで生実に篭城した高城家の将士は、「高城越前守胤行、嫡子大隅守胤晁、同下野守、一族高城丹後守・安蒜日向守・同介二郎、座間信濃守・血矢二郎右衛門・田嶋刑部少輔・藤ヶ谷修理介・秋山久左衛門・吉野・高橋・戸部・池田・匝瑳・矢口・花島・鈴木・伊東氏」らで、高城越前守以下、多数が討死を遂げたという。

 下野守胤吉はこの戦いで外に討って出ていたが、五十騎にも足らず、城が落ちたことを聞くと涙を振るって「もはやこれまで。父や兄と同地で死んで、九泉の下で倶せん」と敵陣に突入しようとしたが、安蒜日向守「生きて仇を報ずるこそ孝行の第一」と諌めたため、寄手の一方を破って臼井の原式部大輔のもとへ逃れた。

 永正3(1506)年、下野守胤吉は一族近臣百人を引き連れ、原氏の所領・小金栗ヶ沢へ移り、千葉氏代々の妙見社を奉って勧進し、匝瑳・海上・戸辺・新井・相馬・日暮・斉藤・渋谷・佐々・綿貫・和田・大井・梅澤・林・吉田・花島ら諸将から足軽に至るまでの家臣と主従の盟約を交わした。

大勝院
遠矢山大勝院

 永正5(1508)年、胤吉は根木内城に一城を構えて移った。そして栗ヶ沢村に菩提寺として金竜山広徳寺を建立し、開山として大路和尚を招いた。また、根木内には遠矢山大勝院を建立して栄秀法印を開山とした。根木内城が完成したことに喜んだ千葉介勝胤高城胤吉と娘を結婚させて一族に列し、その吹挙によって胤吉は従五位下・朝散太夫に任じられた。

 その後、胤吉は父や兄の仇を報ずるため、北条氏綱と結んで国府台に出陣してきた足利義明勢と合戦し、嫡男・治部少輔胤辰、二男・源六郎四郎右衛門、一族・高木丹後守らとともに父兄の仇を報じた。

 享禄3(1530)年、胤辰は交通に便利で、守りにも非常に適した土地に新城を築くことを決め、根木内城の西二十余町にある高台を選んで、阿彦丹後入道浄意に縄張りを命じ、小金大谷口城を築城した。これを築いたとき、根木内の遠矢山大勝院を城の鬼門に移築し、菩提寺の金竜山広徳寺を栗ヶ沢から金杉村に移した。

 

②高城氏と紀州熊野との関わり

 高城氏は紀州熊野との関わりを示す伝承がいくつか伝わっている。

『小金城主高城家之由来』紀州新宮山中之孤城
『高城家略伝』 寛正元年庚辰歳、従紀州熊野新宮引率功臣、安蒜・鈴木・座間・田嶋・血矢・池田・田口之七騎…
『寛政重修諸家譜』(胤辰の)生国紀伊熊野

 熊野新宮実報院の米良家に伝わる『米良家文書』に熊野社との師壇関係を示す文書が残されていて、「下総国」の筆頭に「一、小金領」と記されていることから、高城氏と熊野神社は関わりが深かったと考えられる。高城氏が支配した領域に熊野神社が多く見られることや、鈴木・田嶋・座間など高城氏の重臣に「稲」紋を用いる家があること、高城氏の家臣に熊野神領の下総国匝瑳南条の千葉一族と思われる匝瑳氏がいることなど、熊野神社との関わり合いを感じることができる。

★『小金城主高城家之由来』

 通称は『八木原文書』。高城氏の宗族・安蒜丹後入道浄意の子孫である八木原五右衛門が正保3(1646)年正月に記したものを、延享元(1744)年10月に八木原順介が書き写したもの。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

③木内氏の一族説(『本土寺過去帳』)

→高城氏は原氏との関わりが深く、系譜上出自は同族とされている。また、高城氏と木内氏との関係、木内氏と原氏の所領の関係、小金近辺に住んでいた匝瑳氏がいることから、木内氏との関わりも考えられる。

(1)原氏と木内氏の所領について

 高城氏が発生した頃の原氏の所領は香取郡千田郷周辺であったと思われ、木内氏はそれに隣接する香取郡米野井蛇峰山香取市米野井)に建武3(1336)年から居住したと伝わる。

 康正元(1455)年、馬加康胤・原胤房が千葉宗家の千葉介胤直入道・千葉介胤宣に謀叛し、馬加・原の軍勢に追われた千葉介胤直入道、千葉介胤宣は香取郡千田庄に逃れて自害した。このとき円城寺尚任・池田胤相・円城寺因幡守・木内左衛門尉(胤儀)・高田胤行・大野小五郎(妙光)らがともに自害したが、円城寺・木内両氏はともに原氏と所領を接しており、原氏と円城寺・木内氏はもともと抗争があったのかもしれない。

(2)匝瑳氏と飯高氏・椎名氏

 文治年間(1185-90)、椎名胤光は匝瑳氏に代わって匝瑳南条に入り、柴崎城(横芝光町虫生字古城)を居城とした。また、旧領主だった匝瑳常広の三男・政胤匝瑳郡北条庄飯高郷に飯高城(旭市飯高字神の前)を築いて飯高を称し、椎名氏と争った。

 その後、飯高氏は匝瑳庄から追い出され、政胤の四代の孫・飯高泰高香取郡山倉郷に山倉城(香取市山倉字土道)を築城して移った。しかし、応永24(1417)年に起こった「上杉禅秀の乱」の翌年、飯高泰高の家臣・榛谷重氏が禅秀残党が起こした「上総本一揆」に加担したため、幕府側の押田氏・府馬氏に山倉城を攻撃され、城を府馬氏に明け渡した。

 康正2(1456)年、『本土寺過去帳』に「匝瑳新兵衛妙新」という匝瑳氏の名がはじめてあらわれる。千田庄で起こった原氏と千葉宗家との戦いに関わっている可能性がある。その後、匝瑳妙秀入道(将監)・匝瑳隼人佑(高田道胤入道)・匝瑳妙勘(勘解由)・匝瑳道高禅門(勘解由)・匝瑳蓮頂(将監入道)・匝瑳与五郎(妙向禅門)・匝瑳肥前守匝瑳大隅守(信利?)などが見える。匝瑳氏の名字地・匝瑳南条は熊野神領としても知られる。

(3)木内氏と高城氏 

 『本土寺過去帳』の二十一日項に「木内下野守 福徳元辛卯六月」が見える。「福徳元年(1491)」は「辛卯」ではないため「辛亥」の誤記だろう。

 『本土寺過去帳』の某年17日の項には「高暹尼 木内下野守母儀 蓮上坊ヲバ」とある。年代はわからないが、「高暹尼」が上記の「下野守」の母の可能性がある。また「蓮上坊」という人物の「ヲバ(伯母・叔母)」であることもわかる。「蓮上坊」という人物を探すと、『本土寺過去帳』の二十一日項に「木内下野守」とならんで「高城孫八 同八丙申三月 蓮上坊弟マハシ」とある。これは文明8(1476)年の事で、「マハシ(松戸市馬橋)」の「高城孫八」は「蓮上坊の弟」であることがわかる。これらを系図で表すと下記のようになる。

  木内某    
   ∥―――――――――木内下野守
   ∥         ・福徳元(1491)年辛卯6月21日没
+―高暹尼
|・某年某月17日  +―蓮上坊
|          |
+―□□□□―――――+―高城孫八《マハシ》
             ・文明8(1476)年3月21日没

④常陸の豪族(『千葉大系図』『芹沢文書』『戦国遺文』)

●千葉介満胤の家臣●

族臣 粟飯原弾正左衛門 大庭次郎 相馬上野二郎 大須賀左馬助  国分三河入道 東二郎左衛門入道 木内七郎兵衛入道
国分六郎兵衛入道 国分与一 国分越前五郎 神崎左衛門五郎 那知左近蔵人入道
家臣 円城寺式部丞 円城寺駿河守 鏑木十郎 円城寺大膳 多田平四郎 中村式部丞  深志中務丞 湯浅 鏑木備中
木内丹波 内山中務丞 行方平四郎 麻生淡路守 島崎大炊助 龍崎尾張守 高城越前守

 上記のうち、太字で書かれた人物は、いずれも常陸国の国人と思われ、「行方」「麻生」「島崎」は、行方郡の常陸大掾家一族だろう。「麻生」「島崎」は内海の港(津)である「麻生津・島崎津」を取り仕切った氏族と推測され、「龍崎」は下総国下河辺庄龍崎の豪族と思われる。常陸にゆかりの人物たちのあとに「高城越前守」とあることから、高城氏も常陸を出自とする氏族として認識されていたのかもしれない。

 高城氏と常陸大掾一族の芹沢家の交流がうかがわれる文書が残っているが(『芹沢文書』)「(高城?)下野守胤忠」から「芹沢殿」に出されたこの書状は、胤忠からの挨拶などが述べられている。この書状の年代は不明だが、『戦国遺文』によれば、天文15(1546)年という。しかし、胤忠が高城氏の祖とすれば、胤忠が天文年中に生存していることは考えにくく、天文15年と比定する根拠も不明である。この書状が天文15(1546)年のものとすれば、書状に見える「下野守胤忠」は、実名・花押が公式文書に見えない同時代の高城家当主「下野守胤吉(玄心)」とも考えられる。

*******************************

★家康の関東下向と小金領★

秋山虎康の墓
秋山虎康の墓

 小田原北条家が豊臣秀吉によって滅ぼされると、秀吉は北条家の旧領・武蔵・相模・下総・上総・伊豆・上野の六カ国二百六十万石徳川家康に与えた。関東に入った家康は、本拠地を江戸に定め、関東各地に家臣団を配分するため、重臣の榊原式部大輔康政に命じて知行割を作成させた。

 家康はかつて支配した信濃・甲斐の武田家旧臣や、駿河の今川家旧臣を積極的に家臣としており、北条家の遺臣に対しても同じ姿勢で臨んでいる。ただし、千葉家の旧臣は徳川家に召抱えられた者は少なかったようだ。その理由としては、徳川家康が千葉家を嫌っていたためとする説や、千葉一族の結束を恐れたためとする説があるようだが、実際のところは、戦国末期の千葉家は武田家や今川家とは異なり、宗家惣領はすでに同族集団を結束できるだけの力を持っておらず、惣領家自体も小田原北条氏からの養子という状態の中、小田原落城とともに千葉惣領家は解体されたと思われる。こうした中で、独自の勢力を持っていた六党や原氏などは千葉惣領家とは袂を分かちそれぞれ独自の道を歩き出す。惣領家が解体状態になったことから惣領家の直臣はそのほとんどが帰農することになったのだろう。千葉家直臣層が徳川家に召抱えられなかった原因は、実は千葉惣領家の状態にあったと推測される。六党の相馬家は大身旗本、国分家は水戸藩士や古河藩士、東家の流れは幕府医官、その他の千葉家旧臣では臼井原家や酒井家、鏑木家、高城家は旗本、森山原家は福井藩士、白井家は水戸藩士、手賀原家は南町奉行与力など、千葉一族も多く徳川家に召抱えられている

 家康は天正18(1590)年12月、高城氏の旧城地・小金三万石に五男の松平万千代信吉を配置した。信吉は武田信玄の従弟・穴山信君(梅雪斎)の養女(秋山幸・於都摩の方)を母として天正11(1583)年9月11日、遠州浜松に生まれた。穴山信君が天正10(1582)年に暗殺されて武田家嫡流の血脈が絶えたため、武田家所縁の万千代を武田家の継嗣と定め、家康に庇護されていた穴山信君の妻・見性院(武田信玄の次女)が養育の任に当たった。そして元服時に武田氏の通字「信」を与えて「信吉」とし、武田氏の遺臣を配して名実ともに武田家の当主と定めた。

 三条公頼―――娘
(左大臣)   ∥――――――見性院
        ∥      ∥
 武田信虎―+―武田晴信   ∥
(陸奥守) |(大膳大夫)  ∥       徳川家康
      |        ∥      (太政大臣)
      +―南松院    ∥       ∥―――――――武田信吉
        ∥――――――穴山信君====於都摩の方  (万千代)
        ∥     (陸奥守)
        穴山信友
       (伊豆守)

 信吉は天正18(1590)年12月、所領の小金に母・於都摩の方を伴って入封したが、於都摩の方は翌天正19(1591)年10月6日、二十四歳にして亡くなった。彼女の遺骸は小金殿平賀村本土寺の寺域外に埋葬され、墓の上に「日上之松」と呼ばれる松が植えられた。「日上」とは於都摩の方の法名である。

佐倉城
佐倉城本丸広場

 信吉も生まれながらに病弱であり、文禄2(1593)年、小金から佐倉に移され、関ヶ原の戦いでは異母弟の松平忠輝とともに江戸城留守居を務めた。戦後の慶長7(1602)年11月、佐倉から常陸国水戸二十万石に移封された。しかしそれも束の間、翌慶長8(1603)年に二十一歳の若さで没した。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。そのあとは、11月7日に異母弟・松平長福丸(のちの紀伊藩主・徳川頼宣)が入部し、その転封後の慶長14(1609)年正月5日、異母弟・松平鶴千代(のちの水戸藩主・徳川頼房)が入部した。

 松戸周辺は寛永10(1633)年ころから武田信吉の所縁か、水戸徳川家の御鷹場預所となり、徳川光圀もたびたび訪れた。貞享6(1684)年のあるとき本土寺を訪れた光圀は「日上の松」を見て、伯父・信吉の生母の墓所と知り、本土寺本堂の東側に於都摩の方の新たな墓を作らせ、「日上の松」の根本を人夫二十人と掘り返して遺骨の捜索したが、酸性土壌の土地柄かついに発見できなかった。光圀はやむなく松のふもとの土をすくって桶に入れ、これを於都摩の方の遺骨の代わりとして、新墓へ埋葬した。日上没後九十三年目のことだった。

 於都摩の方の実父・秋山越前守虎康もまた本土寺の旗本秋山家墓所に葬られている。現在も一般墓地の奥に墓石群の中にひときわ大きくそびえたつ「慶長七年」と刻まれた五輪塔が虎康の墓所である。これは本土寺で最も古い墓石である。

■高城氏のその後■

 高城胤辰は永禄7(1564)年1月2日の第二次国府台の合戦に一族郎党を率いて参戦し、その恩賞として北条氏康から「葛西・亀井戸・牛島・堀切・小曾根・新堀・飯島・行徳・舟橋」を知行された。また、天正7(1579)年2月9日、北条氏政は「遠山甲斐守」「遠山菊千代」「高城下野守」らに対して「葛西堤」を造ることを命じていることから、高城氏は江戸衆(遠山甲斐守政景は江戸衆筆頭)と密接な関係にあった。しかし天正10(1582)年には葛西・行徳・亀井戸・牛島などの江戸川西部は岩付衆の支配下になっており、高城氏の名は見えなくなっている。

広徳寺
金竜山広徳寺

 千葉家の筆頭家老の原氏は、室町後期には千葉惣領家に優る軍事力を持ち、高城氏はその原氏の家老として勢力を拡張していた。このときの下総の情勢を風刺した歌に「千葉に原、原に高城両酒井」というものがあり、千葉氏を支えているのは原氏であり、その原氏を支えているのは高城氏と両酒井(土気・東金)であるという意味である。

 以降、高城氏は天正18(1590)年5月の小田原合戦まで栄え、小田原合戦では高城源次郎胤則が小田原城に籠り、湯本口を固めた。しかし、豊臣秀吉勢の攻勢に小田原落城も時間の問題となったとき、胤則は居城・大谷口城で留守を預かっていた吉野・安蒜・高野氏らに開城を示唆する書状を送り、寄手の浅野長吉が城を受け取って大谷口城五十年の歴史に幕を閉じた。

高城胤親建立
広徳寺の高城氏墓所

 小田原落城後、胤則は蒲生氏郷にお預けとなり信濃国へ移された。その胤則に宛てて、旧臣たちが身の振り方の相談する手紙を届けていた。胤則はこれらに対して「おまえたちの嘆かわしい状況を聞き及んで、自分のことで苦労をかける。こうなっては、百姓となるにしても、いずれの家に仕官するにしても妻や子を大事にすることが肝心だ。しかし本当におまえたちの嘆かわしい様子には涙するばかりだ」との返書を送った。この書状には旧家臣たちを思いやる気持ちがよく顕されているが、結局彼ら旧臣たちは誰一人再仕官することなく、江戸時代を通じて高城氏と関わりを持ち続けた。江戸時代になっても高城氏は旧家臣たちに「官途状」を発給しており、その結び付きの強さが察せられる。高城氏が支配していた相馬郡柳戸村(柏市柳戸)の古刹・弘誓院に大正14(1925)年に残る鏧子には、「下総国鷲谷元高城七人衆治右衛門事染谷憲次胤承」とあり(『柏市史』)「高城七人衆」という家格が伝わっていたことがわかる。

 慶長9(1604)年8月、胤則は三十三歳の若さで病死し、嫡子の胤次(のち重胤)はわずか三歳だったことから、親戚の佐久間安次(重胤の母は柴田勝家の養女で、安次は勝家の姉の子)に養育されることとなる。

 元和2(1616)年6月、十六歳になった重胤は佐久間安次の推挙で旗本となるべく、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁し、由緒書きを作成して幕府に提出した。その後、旗本仕官申請が認められて二百俵取り、麻布市兵衛町に屋敷を賜った。そして二年後の元和4(1618)年12月、重胤は御書院番士になり、寛永10(1634)年に二百石の知行取りとなった。

 重胤の曾孫・高城清右衛門清胤は元禄7(1695)年、父・貞胤の遺蹟を継いだが、清胤の屋敷には旧家臣の子孫が小金からたびたび出入りしていたという。

 天保10(1839)年4月、胤親は遠祖・源次郎胤則の供養のため江戸から大谷口に出発した。4月7日早朝6時、麻布屋敷を出立して千住宿の先で昼食、金町から江戸川を渡って松戸宿に到着した。松戸では先祖ゆかりの風早神社に詣でて金百疋を奉納。拝殿前にある樫の巨木「なんじゃもんじゃ」を見学して、夕方4時に小金大谷口城下金杉村の菩提寺・金龍山広徳寺に到着した。

 この日は広徳寺に宿泊し、翌日は朝から広徳寺慶林寺(胤則の祖母・桂林尼の菩提寺)で法事を行い、旧臣末裔・安蒜五右衛門らの案内で大谷口城址の見学をしている。この日は宿所の広徳寺に多くの人が挨拶に訪れていたようで、その中には旧臣の末裔たちも数多くいたと思われる。翌日、胤親は麻布屋敷に帰っていった。

いぼ弁天
平戸弁天

 大谷口城の本城の真下にある「平戸弁天」は、別名「いぼ弁天」ともよばれているが、この弁天様には次のような言い伝えがある。

 元禄7(1694)年、高城家旧臣で小金に土着していた日暮玄蕃の一人娘は絶世の美女だったが、目の下にイボができ、これを苦に寝込んでしまった。彼女の母親が願掛けをしたところ、夢の中で「大谷口城の下の弁天祠によく頼むがよい」というお告げがあり、母親は二十一日間、弁天堂からわき出る水で娘のイボを洗い続けたところ、イボは次第に小さくなり、ついには消えてしまった。これを喜んだ日暮玄蕃は弁天堂を建て替えて新たに祀ったという。

 現在の御堂は、昭和34(1961)年に改築されたものである。


ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

原氏の嫡流下総高城氏高城氏の歴代

copyright(c)1997-2009 chiba-ichizoku all rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。