陸奥国中村藩六万石
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女(長松院殿) |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬敍胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬敍胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 不明 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 神戸氏 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 大貫氏(千代) |
■初代藩主(相馬家十七代)
(1580-1625)
<名前> | 虎王丸→三胤(石田三成より偏諱)→蜜胤→利胤 |
<通称> | 孫次郎 |
<正室> | 葦名盛隆娘(江戸崎御前。法名:花桂春公大姉) |
<正室2> | 徳川秀忠養女(実は土屋忠直の異父妹で、岡田山城守元次の娘) |
<父> | 相馬長門守義胤 |
<母> | おきた御方(長江紀伊守盛景娘) |
<官位> | 従五位下→従四位下 |
<官職> | 大膳亮→大膳大夫 |
<就任> | 慶長7(1602)年~寛永2(1625)年 |
<道号> | 月潭 |
<法号> | 二照院殿日璨杲公大居士 |
<墓所> | 小高山同慶寺(相馬郡小高町) |
●相馬利胤事歴●
父は相馬家十六代・相馬長門守義胤。母は長江紀伊守盛景娘(大慧山定林寺蔵『三分一所氏系図』)。幼名は虎王。天正8(1580)年、陸奥国行方郡小高に生まれた。伯父にあたる長江治部少輔勝景は早くから出家して長江月鑑斎を称し、伊達家の将として活躍したが、天正19(1591)年、伊達家を離反したため政宗に捕らえられて殺害されている。
+―長江勝景
|(月鑑斎)
|
+―矢本景重 奥山常義
|(筑前守) (大学)
| |
+―三分一所家景―渡辺親景==長江元景
|(左衛門) (讃岐) (主計)
|
→長江盛景―――+―妙高大姉
(紀伊守) ∥―――+―相馬利胤――相馬義胤―――於亀
∥ |(大膳大夫)(大膳亮) ∥
相馬義胤 | ∥
(長門守) +―慶雲院 ∥
∥――――佐竹義隆―――佐竹義處
佐竹義重―+―岩城貞隆 (右京大夫) (右京大夫)
(常陸介) |(忠次郎)
|
+―佐竹義宣
|(右京大夫)
|
+―佐竹義広
↓
葦名盛隆―+=葦名盛重
|(修理大夫)
|
+―江戸崎御前
∥
相馬利胤
行方郡小高城 |
天正18(1590)年2月、父・相馬義胤は関白豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられたものの、5月下旬に小田原へ着陣という失態を演じてしまった。このとき、石田三成の周旋によって特に咎めはなく済み、かえって秀吉の御前に招かれて、懇ろな上意を賜った。こののち、相馬義胤と石田三成と入魂になる。12月7日、秀吉から行方・宇多・標葉三郡四万八千七百石の朱印状を拝領した。
天正19(1591)年、義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し、上洛時の賄料として近江国大森村五百石が宛がわれた。同年、この地で虎王の同母妹、のちに岩城貞隆へ嫁いだ女性(慶雲院)が誕生している。彼女と岩城貞隆の嫡子・佐竹右京大夫義隆が出羽久保田藩二代藩主となった。
文禄元(1592)年、虎王の同母弟が誕生した。のちの相馬左近及胤である。
慶長元(1596)年、義胤はかねて親しく交際している石田三成を虎王の烏帽子親に頼み、虎王は三成の諱字「三」をもらい、「相馬三胤」を名乗った。その後、三胤と母は京都から小高城に下向し、葦名盛隆の娘で十二歳の江戸崎御前を妻に迎えた。「江戸崎」は葦名盛隆の跡を継いだ葦名修理大夫盛重(佐竹義重の子)が伊達政宗によって会津黒川城を追われたのちに移り住んだところで、江戸崎から嫁いだ彼女は「江戸崎御前」とよばれた。御前付老臣として坂地石見が葦名家から入っている。
行方郡村上城址 |
またこの年、義胤は居城の小高城の規模が小さく、本拠地としては適当でないとして、居城の移転を思い立ち、小高城から約三キロ南東の太平洋を望む丘陵地に城を築き始めた(村上城)。順調に進められていた普請であったが、完成間際になって建築中の殿舎より出火。火は瞬く間に広がり、建築用材をすべて灰としてしまった。こうして村上城築城は不吉であるとして途中で中断され、翌慶長2(1597)年には牛越城を拡げて小高城から居城を移した。この未完成のまま放置された村上城址には貴布根神社が建立されている。
慶長3(1598)年7月、三胤は秀吉の病篤いことを伝えられ、早速に上洛した。そして8月18日、真夏の盛りに太閤秀吉は波乱の人生を閉じた。享年六十三。形見として備前一文字の太刀が父・義胤に贈られている。義胤・三胤はそのまま大坂屋敷にとどまっていたが、翌慶長4(1599)年8月、義胤は小高へ戻り、三胤は留守居として大坂にとどまった。
慶長5(1600)年正月7日、陸奥国会津城主の上杉景勝が上洛すべしという上意に背き、在国を引き延ばしたことから、徳川家康は上杉家討伐の軍を起こした。一方、小高で知らせを受けた義胤は、領境に兵を集めて守備を固めた。6月16日、家康は大坂城を出陣。7月2日に江戸へ到着した。ここで家康は、三成の親友で水戸城主・佐竹右京大夫義宣の押さえとして、水谷伊勢守勝俊・皆川山城守広照を下野国鍋掛に起き、上杉景勝の押さえとしては結城三河守秀康を主将とし、伊達陸奥守政宗・最上出羽守義光らにおのおのの居城を堅く守るよう命じた。そして6月21日、徳川家康は江戸を出陣して下野国小山に着陣したとき、大坂で石田三成が挙兵したことが家康のもとに伝えられた。家康はただちに軍勢を江戸に戻すと、福島正則らを美濃国に進発させ、9月、自身も美濃国関が原に大軍を進め、石田三成率いる軍勢と合戦となった。この戦いを関が原の戦いという。
この年、妹(慶雲院)が岩城忠次郎貞隆に嫁ぎ、実弟・相馬越中直胤が誕生している。
石田三成挙兵の際、相馬家は徳川家・石田家両方からの誘いを受けているが、義胤は三成との旧交と家康の大義の間にはさまれて悩み、ついに親戚の佐竹義宣・岩城貞隆とともに戦いに不参加を決め込んでしまう。ただその後、義胤は徳川家の大義を大事とし、上杉領・月夜畑城(福島県安達郡東和町)に夜襲をかけてこれを攻め陥した(月夜畑の戦い)。そして、美濃関が原の戦いは、わずか半日で石田三成方が壊滅。徳川方の大勝に終わった。
慶長の役(関が原の戦い)ののち、相馬家には不幸が重なった。慶長6(1601年3月20日、三胤の叔父にあたる田中忠次郎郷胤が病死した。法名は陽山清公大禅定門。墓所は北郷鹿島村の田中山陽山寺。葬儀は小高村同慶寺の怡稟禅師が導師をつとめた。
5月15日には、三胤の妻・葦名氏(江戸崎御前)が享年わずか十七歳で亡くなった。法名は花桂春公大姉。小高村同慶寺に葬られた。
さらに、10月16日には祖父・相馬弾正大弼盛胤が七十三歳で亡くなった。伊達家との戦いに生涯を費やし、天正6(1578)年に隠居して以来、一通齋明節と号して義胤や三胤の後見をしていたが、その巨星も落ちた。法名は籌山勝公大居士。
7月24日、上杉景勝は謝罪のために上洛を果たし、徳川家康と対面。8月24日、景勝は赦免されたものの、会津百二十万石は没収となり、米沢三十万石へ転封とされた。そして、上杉家旧領・会津には家康の娘婿にあたる蒲生秀行(忠三郎)が入封し、義胤は秀行へ入封の佳詞を飯崎左近将監を使者として遣わした。
牛越城 |
しかし、慶長7(1602)年、家康は佐竹義宣・相馬義胤・岩城貞隆は先年の戦いにおいて石田三成に加担したとして、佐竹義宣は水戸八十万石から出羽秋田砥澤二十万五千八百石へ減封のうえ転封。相馬義胤・岩城貞隆は佐竹家一門として秋田へ移るべき旨を命じた。この年、義胤は牛越城にあり、5月12日、野馬追いの例祭が行われていたところに佐竹義宣より親書が届いた。
義胤はその書状を見て愕然となった。相馬家の所領没収と義宣からの「恩地ノ内壱万石可被分与」という報告だった。相馬氏存亡の最大の危機は、南北朝時代の北畠顕家による小高落城であったが、この報告はそれにも勝る危機であった。義胤はただちに一族・老臣を牛越城内に集めて事実を伝えたが、老臣たちはこれを聞いて言葉を失い、義胤もしばし思案ののち、「家の破滅の時至ると見へたり。この儀沙汰におよばず、秋田へ移るの他異議なし。いかがあるべきや」と居並ぶ重臣たちに問うが、重臣たちももはやなすすべなく、秋田に移るもやむを得ずという結果となった。このとき、三胤が父・義胤の前に進み出て、
「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」
と訴えた。義胤もこの嫡男の言葉に思い直し「三胤の深慮、評議に及ぶべし」と誉め、列する重臣たちも「実に心乱れば義を失うと云うことに候。三胤公の尊慮、諸士一同に感服至極の道理に徹し奉る」と考えを改め、評議は家康に訴状を提出して所領没収の撤回を願うことと決した。これは失敗すればお家断絶という危険な道であったが、佐竹家の麾下となるより滅亡の道を選ぶという、武家として潔さを尊重したものだった。佐竹義宣には礼状を送って一万石の申し出を辞退した上で、行方郡・宇多郡・標葉郡の三郡を返上し、義胤ら一行は入魂であった会津城主・蒲生飛騨守秀行に領内居住を申し出、秀行は三春領主の家老・蒲生郷左衛門郷成に義胤一族を預かるよう指示すると、6月2日、義胤は一族・家臣五十四人を引き連れて三春に入った。一方、三胤は家臣十四人とともに江戸へ向けて出立した。
その後、牛越城には家康の命を受けた水谷伊勢守勝俊、大田原備前守晴清、皆川山城守広照、岡本宮内少輔義保、福原安芸守資保が入って相馬家側から城の引渡しを受け、相馬家は鎌倉時代から所領をすべて失ってしまった。また、牛越城で生活をしていた堤谷御前(三胤の大叔母)は仙台城主・伊達陸奥守政宗の正室・愛姫の母であった関係で、伊達家へ引き取られた。
→相馬顕胤―+―相馬盛胤―――相馬義胤―――相馬三胤
(讃岐守) |(弾正大弼) (長門守) (孫次郎)
|
+―堤谷御前
∥―――――愛姫
田村清顕 (陽徳院)
(大膳大夫) ∥―――――伊達忠宗
∥ (陸奥守)
伊達政宗
(陸奥守)
三胤は牛越城を出立の際に、「蜜胤」と名を改めた。前名の「三胤」は石田三成からの偏諱である「三」があるため、はばかられたのである。蜜胤一行が標葉郡熊川村で休憩をしているとき、父に改易された鈴木金兵衛・志賀久内の両名が蜜胤を訪ね、「御家退転の時節なれば、御勘気免許においては、如何様にも軽きご奉公を務め、主君のご難儀を見届け、旧恩を報じ奉るべし」と訴えて同行を求めた。蜜胤はこの二人に妻子の事を尋ね、妻のいない金兵衛を召し連れていくこととし、久内にはその志は嬉しいが、決死の旅ゆえに妻帯者を連れて行くことはできないと、久内の申し出は断った。これを聞いた久内はただちに熊川村の妻のもとに帰ると、事情を説明して離縁したのち、蜜胤の一行に追いついて、門馬修理進経親に事の次第を訴えると、経親は感激して久内の同行を許した。
◎相馬利胤にしたがって江戸へ向かった家臣
門馬修理進経親 | 家老。のち甚右衛門。 |
門馬治右衛門 | 家老。門馬修理進の弟。 |
堀内半右衛門胤長 | |
原 近江 | |
杉 七左衛門 | |
岡田半左衛門長泰 | |
原 庄左衛門 | のち堀越庄左衛門。 |
半杭吉兵衛 | のち判野吉兵衛。 |
門馬吉右衛門泰経 | |
門馬長助元経 | |
鈴木金兵衛 | 父代に改易されるが、熊川で馳せ参じた。 |
志賀久内 | 父代に改易されるが、熊川で馳せ参じた。 |
弥内 | 小人。 |
関根長左衛門 | 馬医者。 |
祖栄 | 坊主。 |
叙真 | 坊主。 |
蜜胤の一行は標葉郡をさらに南下し、岩城郡をこえて白河通から下野国へと入った。その途中、鷹狩を行っていた家康の家老・本多佐渡守正信と会ったため、蜜胤は門馬修理進経親を使者として訴状を遣わしたところ、正信は「江戸において旗本衆をもって言上せらるべし。汝が姓名は」と問うたため、経親は「修理進」は官名であるので遠慮をし、とっさに「門馬甚右衛門」と答えた。彼はこれ以降、「門馬甚右衛門」を名乗っている。
蜜胤は江戸へつくと、まず馬喰町の感応院(現在の谷中慈雲山瑞輪寺)を宿所とし、正信に言われたように知る辺の旗本と連絡を取った。実は旗本の中に小笠原丹斎という人物があった。彼はかつて武者修行のために小高を訪れ、義胤の客将として四百五十石を与えられていた赤沢常重という人物である。数々の戦場で武功をあげたが、徳川家に召し出されて相馬を離れていた。蜜胤は彼に援けを求めた。
また、感応院住持の日瑞上人も蜜胤に協力して、入魂の旗本・藤野宗右衛門を紹介した。藤野宗右衛門はさっそく瑞林寺を訪れて蜜胤に面会し、「今御譜代衆に知己は無きか」と聞くが、蜜胤に他に知る旗本はなかった。
このとき、控えていた門馬吉右衛門泰経が突然何事かを思い立ち、陸奥国三春の義胤のもとへの下向を求め、吉右衛門はそのまま江戸を発って三春へ急行した。吉右衛門は義胤に知り合いの旗本衆について聞くが、義胤にも思い当たる人物はなかった。このとき、吉右衛門は天正19(1591)年夏の豊臣秀次の関白補任の式典の出来事を話した。
…吉右衛門は補任の儀で義胤の従者として天正19(1591)年夏の炎天下の中、白洲で式典を見守っていた。諸大名は自ら円座を持参して殿上に座っていたが、従者は下の白洲で控えていなければならなかった。そのとき、義胤は縁側に座っていたが、そのすぐ下で控えていたある武士が、白洲のあまりの熱さに顔をゆがめているのに気づき、彼にそっと円座を貸し与えた。この武士は義胤を拝して「忝く存じ奉る」と礼を述べ、「御名をお聞かせ給へ。自分は家康の家来、島田治兵衛」と名乗った…
吉右衛門は「この人、今、御執事に次いでの有司と承る。御書を遣され然るべき」と義胤に言上するが、義胤は「その覚えあり。さりながら秀次公関白補任は天正十九年の事、今年すでに二十余年におよび、その後音信もなく、如何か」と不審な面持ちであったので、吉右衛門はさらに義胤を説得、島田治兵衛へ宛てた書状を持って江戸へ戻った。
江戸へ戻った吉右衛門は義胤の書状を蜜胤へ渡し、蜜胤は藤野宗右衛門と小笠原丹斎老を呼んで書状を託した。宗右衛門は丹斎老と相談して御出頭・島田治兵衛の屋敷へ赴いて義胤からの書状を渡すと、治兵衛も過日の出来事を覚えていて、「疎意あるべからず」と、あくる日には瑞林寺を訪れて蜜胤と対面。蜜胤から懇願の書状を受け取ると、登城して本多正信に面会を求めた。
―蜜胤書状―
この書状・御神文の二通は10月、本多正信から家康・秀忠へ渡された。正信は相馬父子について、
「相馬大膳亮訴状の趣、私曲無きこと明白に申し上げ候事、神妙奇特なり。御憐憫これ有るにおいては、忠誠有るべき者なり。三成に親懇の趣意、謀反一身の志にも聞こへず、太閤への執付、三成計い謝し難く、入魂せしも理なり。相馬父子は勇気強勢と承る。淳朴直道をお察し、免許を蒙るにおいては、身命を軽んじ、忠義を励べし」
と家康・秀忠を説得した。家康・秀忠ももともと相馬家について悪い感じを抱いていたとも思われず、義胤を許した上で御目見えを許した。三春で知らせを受けた義胤は、妻子を伴って江戸へ赴き、蜜胤とともに両公に謁見して謝罪と御礼を述べた。こうして相馬家断絶の危機は脱し、旧領三郡(行方郡・宇多郡・標葉郡)は前のごとく相馬家へ返還されることとなった。この時、伊達政宗の口添えもあったことが『藩翰譜』(新井白石著)に記載されているが、これはまったくのでたらめである。反対に政宗はこの措置について、重臣の茂庭石見綱元へ宛てた書状の中で「相馬之事、是一のきとくなる仕合にて、もとのよしたねニ返し被下候」とあり、さらに政宗は慶長の役の褒賞として相馬領が下されるものと思っていた節が「子細もなく御知行を相馬あたりにて此度不被下、けつく相馬などに御かへし被成候は、ゆくすへすへ何かと御ようじんと見へ候」というところからもうかがえる(『相馬郷土』相馬郷土研究会)。
家康は義胤・蜜胤へ城と領地の請け取りをするよう命じ、義胤・蜜胤は牛越城へ下向。城御番・水谷勝俊らから城を引き渡された。領民たちも祭りを催して喜びをあらわし、旧領復帰の第一の功績は甚右衛門経親が本多正信と談判したものであるとして、彼に百五十石が加増(都合七百八十二石)され、島田治兵衛の伝手を探しあてた門馬吉右衛門泰経は五十石の加増(都合百十四石)が、その他の武士も加増され、熊川で一向に加わった鈴木金兵衛・志賀久内も、父の罪を許した上で五十石の新地が宛がわれた。その後、蜜胤は江戸へ戻っていった。
中村藩上屋敷跡(農林水産省敷地) |
義胤・蜜胤が江戸から相馬へ戻る際、世話になった瑞林寺の日瑞上人に、寺小姓の花井門十郎と、上人の甥・首藤嘉助を相馬へ引き取ることを申し出た。蜜胤は花井門十郎を泉藤右衛門胤政に、首藤嘉助を岡田八兵衛宣胤に預けて、それぞれ苗字を与えて一族にすべしと指示。花井門十郎は「泉縫殿助」、首藤嘉助は「岡田蔵人」となり、子孫は代々中村藩の家老職となった。
これら相馬家再興運動から相馬家は藤野宗右衛門(大坂の陣で功績をあげて千石の旗本)、島田治兵衛(号以柏)・島田彈正利正と親密な間柄となり、将軍・秀忠の信頼も得るようになった。慶長6(1601)年11月には、相馬家は江戸屋敷として旗本・犬塚平右衛門忠次(千葉一族)の桜田屋敷を借り受けており、その後の相馬藩邸となる。現在は農林水産省庁舎が建っている。
一方、相馬家とともに改易処分にされた岩城貞隆は実兄の佐竹義宣とともに秋田へ下り、金沢城(横手市金沢)にあったが、岩城家再興の願いを捨てきれず、ついに家臣四十二人とともに江戸へ出て、浅草を宿所として、天海大僧正を通じて岩城家の再興を願い出た。そして再興運動の結果、岩城家も相馬家と同じく中立に徹し、敵対していなかったことが認められ、元和2(1616)年に信濃国川中島一万石に封じられた。元和9(1623)年にはされに一万石が加増され、出羽国由利郡亀田二万石へ転封となったが、相馬家のように旧領安堵は認められなかった。
◎岩城氏周辺系図◎
岩城重隆―娘 +――伊達輝宗――――伊達政宗――伊達忠宗――→【仙台藩主】
∥ | (左京大夫) (中納言) (陸奥守)
∥ |
∥―――+――岩城親隆
伊達晴宗 | ∥――――――岩城常隆――伊達政隆――→【長谷堂領主】
(右京大夫)| +―娘
| |
| | +―葦名盛重==江戸崎御前
| +―佐竹義重 |(修理大夫) ∥
| (常陸介) | ∥
| ∥―――+ 相馬義胤―+―相馬利胤―――→【中村藩主】
+――――娘 |(長門守) |(大膳大夫)
| | 真田幸村―――娘
| | (右衛門佐) ∥
+―岩城宣隆 +―慶雲院 ∥――岩城重隆→【亀田藩主】
| ∥ ∥
| ∥―――+―岩城由隆==岩城宣隆
| ∥ |
+―――――――岩城貞隆 |
| (忠次郎) |
| |
+―佐竹義宣=======+―佐竹義隆――→【久保田藩主】
(右京大夫) (右京大夫)
小高城 |
慶長6(1601)年5月15日に蜜胤は正妻・江戸崎御前を失くしているが、その後、蜜胤は彼女の死を悲しんで妻を持たずにいたが、牛越から江戸へ戻っていた蜜胤は、秀忠より登城の要請を受けて江戸城にのぼり、秀忠に謁見した。秀忠は蜜胤が妻を失くしたことを聞くと、旗本の岡田元次(大和守)の次女(のち長松院殿)を娶わせようとし、執政・土井大炊頭利勝からその旨を蜜胤に伝えさせた。蜜胤も秀忠の御前で承諾して御前を退いた。
御前を退いた蜜胤に土井利勝が「上意ヲ自分失念不申達」とし、御前にて言い忘れたことを伝えた。実は秀忠は、岡田元次は旗本であり、その娘は蜜胤の妻には不釣合いであるが、彼女は家康の側室・茶阿局の養子で秀忠の側近でもある土屋惣三忠直の異父妹であること、さらに彼女を秀忠の養女としての婚姻であることを伝えた。当時、豊臣家大老筆頭として権力の頂点を極めていた徳川家の養女を妻に迎えることは大変な名誉であり、六万石の相馬家にとっては破格の待遇であった。こうして12月、婚姻の儀が執り行われることとなった。
◎相馬・徳川家関係図
西郷局
∥――――――秀忠=====長松院殿
∥ (征夷大将軍)(岡田元次娘)
徳川家康 ∥
(征夷大将軍) 相馬利胤
∥ ∥ (大膳大夫)
∥ ∥
∥ 阿茶方 +――神尾守世
∥(雲光院) | (刑部少輔)
∥ ∥ |
∥ ∥―――+――娘
∥ 神尾忠重 | ∥―――――+―神尾元珍
∥(孫左衛門)| ∥ |(若狭守)
∥ | ∥ |
∥ +==神尾元勝 +――娘
∥ (備前守) +=(西郷若狭守延員室)
∥ |
∥―――――――――松平忠輝 |
∥ (越後少将) |
∥ |
花井氏―茶阿方====+==長松院殿 |
+―(元次次女) |
| ∥――――+―相馬義胤===相馬忠胤
岡田元次 | 相馬利胤 (大膳亮) (長門守)
(大和守) | (大膳大夫) ↑
∥ | |
∥―――+――神尾元勝 |
∥ | (備前守) |
∥ | |
∥ +――岡田元直 |
∥ (竹右衛門) |
岡部長敬――娘 【上総久留里藩主】 |
(丹波守) ∥――――――忠直―――+―利直――――――相馬忠胤
∥ (民部少輔)|(民部少輔) (長門守)
∥ |
土屋昌恒 |【常陸土浦藩主】
(宗蔵) +―数直
(但馬守)
12月、土屋忠直邸において結納が交わされた。蜜胤から中村助右衛門隆政が使者として遣わされ結納品が進呈され、秀忠養女の異父兄の忠直からはご祝儀として小脇差が答礼として渡された。そして、相馬家仮邸の犬塚忠政邸の隣、一色頼母邸を借地し、借屋を補修して婚礼の儀に備え、婚礼の日の当日は、江戸城内より秀忠養女が輿にて見えると、蜜胤は屋敷を出てこれを迎え、将軍の代理として土井利勝、島田治兵衛が、奥年寄として稲垣左次兵衛義光が列席した。また、徳川家からは「十二ノ御手箱」「御屏風」が引出物として進呈された。
婚礼の後、蜜胤は土井利勝に頼み、土井家の通字「利」字をもらって「利胤」と名を改めた。また、婚礼によって徳川家と縁戚となった利胤は、12月18日、従四位下・大膳大夫に任じられた。そして、この月、土屋忠直(民部少輔)も上総国久留里二万一千石を賜り、大名に列した。
こうして相馬家は厚い待遇を受けることとなり、相馬家の江戸屋敷は婚礼で使用した犬塚平右衛門の屋敷が宛てられることとなり、犬塚家は替地を賜った。この江戸屋敷の建築については慶長8(1603)年はじめ、家康みずからが縄張りを行い、門馬源兵衛定経が奉行として屋敷の造作などが行われた。
後のことになるが、元禄年中、将軍・綱吉が桜田の相馬藩邸を移動しようと考え、老中・阿部豊後守正武が相馬家家老の相馬将監胤充にこの事を伝えたとき、胤充は桜田藩邸は「権現様御縄張ニテ拝領」と故事を引き出して藩邸替えを防いだという。
同年の江戸城普請には、利胤は桑折小左衛門・江井八右衛門を奉行として五百名の人夫(千石につき十人)を派遣して手伝普請を行った。
小高城瓦(鈴木佐氏提供) |
この年、国許では居城である牛越城が廃され、以前のように小高城が居城と定められた。牛越城は「御改易凶瑞ノ城」のためである。牛越城への移転後、義胤の弟・忠次郎郷胤、江戸崎御前(相馬利胤妻)、義胤の父・大膳大夫盛胤が相次いで病死していた。
そして、利胤の奥方(長松院殿)がはじめて小高に下り、姑である義胤妻も下向したため、利胤の弟・左近及胤が人質として江戸へ送られ、秀忠の小姓として召し出されることとなった。
また、秀忠は相馬家の所領は奥州という遠方にあって何かと不自由であろうから、江戸の近くヘ所領を移してはどうかという沙汰を土井利勝を通じて利胤に伝えた。これを聞いた利胤は、
「所替の事、家の大幸はこれに過ぐべからず。しかるといえども、奥州は文治五年、頼朝卿が藤原泰衡征伐の時、先祖の相馬次郎師常が軍功の忠賞に賜る地、今すでに四百年の旧領なり。これゆえに郡邑の士民ともに旧好の親しみ深く、いわんや今般、両大君より本国安堵の上意を蒙り、子々孫々までご高恩なんぞ忘れんや。これにより、士は申すに及ばず、彼の旧好の親しみ深し。農商の族までも事ある時は、この累代の旧地を安んずる公恩報酬の為には相ともに忠誠を抽んずべき義気を含めり。請ふ願わくは御前よろしく依頼万々」
と返答し、利勝もこれに納得して秀忠に言上した。秀忠もこの言葉を聞いて、
「旧領の地、誠に由緒有り。強いて移すべからず」
と関東への移封を撤回した上で、奥州から江戸への往来の際は放鷹を許可するということを利胤に伝えた。関東で放鷹を許可されることは大名家として非常に名誉なこととされ、さらにのちには、十万石以上の大名家に許可された「大鳥毛槍」の使用も許された。この沙汰ののち、相馬家は江戸へ出府する際は鷹と犬を連れていたが、五代将軍・徳川綱吉の「生類憐れみの令」によって放鷹が禁じられると、元禄4(1691)年、取り止めとした。
慶長9(1604)年、家老・新館彦左衛門繁治が病死した。跡は義弟の源助義治が継いだ。
この年、江戸城諸所普請があり、利胤は国元より家老・水谷式部胤重を大奉行として五百人の人足とともに招いたが、水戸まで出てきたとき、本多正信の計らいで水谷胤重は国許にて執政すべしとの指示があり、水戸より小高へ帰郷。岡田又左衛門胤忠、西内善右衛門胤宗、福留弥左衛門の三名が奉行として江戸に行き、普請を行った。
慶長10(1605)年4月、家康の奏上によって豊臣秀頼は右大臣にのぼり、同時に秀忠へ将軍職を譲った。そして家康は同年7月、家康は新たに築いた駿河の駿府城に移って江戸城を将軍秀忠へあけ渡した。
慶長11(1606)年、小高にあった義胤の奥方(利胤の母親)は人質として江戸へ出府し、桜田屋敷に入った。また同年、江戸城普請が行われ、利胤も門馬源左衛門経氏を奉行として人足五百人を派遣して事に当たった。
慶長12(1607)年4月1日、江戸城普請が大々的に行われたが、相馬家は天守台の石垣二十間四方のうち八間を任され、熊川五郎左衛門長重を奉行として六百人を派遣した。
慶長13(1608)年、利胤の奥方(長松院殿)が小高から江戸屋敷へ戻った。
慶長14(1609)年5月、利胤は大御所・家康に謁見すべく江戸を発って駿府に向かい、駿府城内で家康に謁見した。家康は将軍家とより親懇を深められるよう言葉をかけられ、手ずから杯をうけた。
江戸城に召された利胤は、秀忠の御前において盃を賜ったが、同じく同席した大名がひとりあった。父・義胤の宿敵であった伊達政宗であった。秀忠は利胤に「盃を政宗に与えよ」と命じたが、利胤はかしこまって席を中座し、執事・土井利勝に、
「上意違背は恐れ多しといえども、愚父義胤は政宗殿とは故あって不和なり。よって政宗殿へ勧盃の儀、了見に及び難し」
と退席の意図を伝え、利勝も言葉を選んで秀忠に言上したため事なきを得た。これは秀忠・政宗が謀って利胤を試す意図があったと伝えられている。戦国の中で育った武士の遺風をもつ徳川秀忠・土井利勝・伊達政宗、そして相馬利胤の気風を感じることができる。
中村妙見社への橋 |
慶長16(1611)年2月23日、利胤は高野山小田原眞徳院へ宛てて、前年のごとく相馬家の宿坊に相違ないという証文を送った。
同年、居城を小高から宇多郡宇多郷中村へ移すことを申請して認められ、7月より木幡因幡経清の嫡子・木幡勘解由長清を大奉行として中村城を改修し、12月に普請が完了して相馬藩の本城となった。中村城内妙見曲輪には小高妙見社を勧進して北斗山妙見寺を建立。城を「馬陵城」と名づけ、城下に家臣を移していった。ただし隠居・義胤は中村には移らずに、慶長17(1612)年4月、標葉郡泉田村に移り住み、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石が給された。
慶長18(1613)年正月、利胤は弟・左近及胤へ家臣三十三人を遣わした。同年9月27日、家康が駿府城から江戸城に入ると、利胤は登城して家康に謁見している。この後、利胤は江戸を発って新しい居城・中村城へと入った。また、この年に行われた江戸城の普請では木幡勘解由長清が奉行として采配を振るった。
慶長19(1614)年10月の「大坂冬の陣」では、利胤は将軍・秀忠の要請を受けて10月10日、中村城を発した。中村城より黒字に日の丸の旗を立て、木幡勘解由長清二十五歳を武者奉行とし、下浦修理常清を旗奉行に、中村助右衛門隆政を御持筒奉行と定め、進発した。江戸に着いた利胤は、弟・左近及胤を伴って大坂に軍勢を進め、下総佐倉城主・酒井左衛門尉家次の手に属して12月17日、大坂城玉造口前に陣を敷いたが、目立った戦いは起こらず22日に講和が結ばれたため、中村へ帰城することになった。その途中、義兄にあたる岡田竹右衛門元直の丹波篠山の屋敷に立ち寄った。この年、江戸屋敷において利胤の長女が誕生した。名は於千(岩松院殿)。
いったん結ばれた講和も、わずか五か月後の慶長20(1615)年3月に破れた。3月15日、京都の板倉勝重より家康・秀忠のもとに急使が到着した。大坂城では淀殿はじめ秀頼の側近がふたたび強硬な姿勢を見せ、京都に出兵したという報告であった。井伊掃部頭直孝、藤堂和泉守高虎、本多美濃守忠政、松平下総守忠明が東寺に陣取って禁裏を守護し、藤堂・井伊の両勢は淀川を越えて陣を張り、往来を改めた。報告を受けた家康は4月4日、駿河を進発し、4月10日、将軍・徳川秀忠は江戸を出立して大坂へ向かった。このとき利胤も秀忠に供奉して出陣している。
しかし途中の駿府城において利胤は急病に倒れ、兵を動かすことができなくなってしまった。報告を受けた秀忠は、陸奥中村の義胤に出陣を要請するよう利胤に命じ、利胤はただちに急使を送って、泉田村に隠居する父・義胤の出陣を仰いだ。しかし、当時義胤は隠居で手元に金がなく、やむを得ず秋田の佐竹家へ佐藤丹波を遣わしてその旨を伝えさせ、黄金百枚を拝借することに成功した。こうして六十七歳の剛将・相馬義胤は子の左近及胤・越中直胤を引き連れて大坂へと向かい、5月9日、近江国草津宿に着陣した。しかし、相馬勢が近江に到着する二日前の5月7日に大坂城は落城。5月8日には豊臣秀頼は自刃を遂げて戦いは終わっていた。義胤は大坂落城の報告を受けると、京都醍醐に陣を移して、佐竹義宣から遅参した旨を土井利勝に伝えてもらった。
こののち、駿府城で病の癒えた利胤も京都へ参着。二条城において義胤・利胤・及胤・直胤四人は家康・秀忠と面会したが、特に咎めの言葉はなく、そのまま帰国を許され、江戸の利胤の奥方も利胤とともに中村へ帰った。また、元和2(1616)年正月、御謡初のときから御盃台を将軍家に献じることが相馬家の慣例となった。
相馬義胤―+―利胤―――――…【中村藩主】
(長門守) |(大膳大夫)
|
+―慶雲院殿
|(岩城貞隆妻)
|
+―及胤―――――…【相馬将監家】
|(左近)
|
+―直胤
(越中)
近親の名 | 説明 |
奥ノ深谷女 | 利胤ら四兄妹の母。父は深谷の長江義景(左衛門大夫)。相馬義胤(長門守)の妻となった。中村藩成立後は利胤が江戸桜田にたまわった江戸屋敷にあり、同屋敷で没した。道号は月潭。 |
相馬左近及胤 |
利胤の実弟。大坂両陣では利胤に従って出陣した。江戸城に出て秀忠の近侍となるが、ゆえあって江戸城を退き、利胤からも勘当されて行方郡千倉庄に蟄居を命じられ、幕府には自害したと報告がなされた。しかし及胤は村を荒らす熊を退治するなど村人の尊敬を集めていた。万治3(1660)年9月10日に没し、同慶寺に葬られた。法名は関公。 その子・清胤(主計)も父と同じく蟄居の身であったが、その子・熊之介は一時、三代藩主候補に挙げられた。しかし、公儀には及胤の子はないことになっており、土屋家から勝胤が養子に入って三代藩主となった。こうして及胤の子孫は臣下となり、一門「相馬将監」家となる。 |
相馬越中直胤 | 利胤の実弟。初名は久胤。道号は心巌。江戸の桜田屋敷にあり、大坂の陣では利胤(夏の陣では義胤)に従って参陣を遂げるが、元和4(1618)年正月14日、桜田屋敷において19歳で病死し、標葉郡泉田村龍蔵院に葬られた。法名は宗徹。 |
慶雲院 | 利胤の実妹。京都北野千本において生まれた。岩城忠次郎貞隆(佐竹義重三男)の妻となり、出羽久保田藩主・佐竹義隆(修理大夫)を産んだ。彼女の曾孫・佐竹義珍(図書)は六代藩主・相馬叙胤(長門守)である。江戸の佐竹屋敷に移り住み、万治3(1660)年7月8日、70歳で亡くなり、葉芝総泉寺に葬られた。 |
元和2(1616)年正月3日、利胤は将軍・徳川秀忠に謁見し、新年の賀を述べ、御盞台を献上した。この約二十日後の22日、大御所・徳川家康が駿河国田中(藤枝市)にて急な病に倒れた。「御病症御食滞」とあることから、食事をとれない状況にあったことがわかる。24日、家康は駿府城へ運ばれ、江戸の秀忠のもとにも宿継ぎの急使が届いた。驚いた秀忠は、2月1日、江戸城を進発し、翌日駿府へついたが、家康の病状は篤く、京都から名医をあまた集めさせた。一方で秀忠は、朝廷に家康の位を進めるよう要請し、朝廷もこれを認め、武家伝奏の広橋大納言兼勝・三条西大納言実条の両卿が勅使として駿河に下向し、3月17日、家康に「大政大臣 従一位」の位記を伝えた。
29日、駿府城において広橋・三条西両卿の饗応が行われ、秀忠の異母弟で家康が手ずから教育した三人の子、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房がこれに陪席している。4月3日、勅使は京都へと戻っていった。そして4月17日、駿府城内において徳川家康は七十五歳の生涯を閉じた。増上寺の源誉慈昌国師を導師として駿河国久能山(静岡市根古屋)に葬られた。法号は安國院殿一品德蓮社崇譽道和大居士。
元和3(1617)年2月21日、家康に東照大権現の神号が宣下され、3月9日には正一位が与えられた。4月8日、江戸城の鬼門にあたる下野国日光山に廟所が設けられて久能山より改葬。14日には仮殿遷宮、16日には正遷宮が執り行われた。こののち、日光山は「東照社」と称される。さらに時代は下って徳川家光の代、東照社は改装され「東照宮」と呼ばれるようになった。
元和3(1617)年3月、家臣五百八十三名が知行役金の免除を請う連判状「知行役金免除願」を役所に提出した。これに怒った利胤は連判を押したものの知行を没収して追放した。
役金は大坂の両陣のとき、知行高十石につき金一分、百石につき二両二分がそれぞれ懸けられた。その後も、江戸城の手伝普請などによって苦しくなっていた藩財政を支えるために懸けられていたが、さらに知行百石につき三両一分の役金を納めることを義務づけた。はじめは慶長18(1613)年から元和2(1616)年までの三年間行われる予定だったが、それでも財政は立て直しができなかったため、元和3(1617)年、百石につき三両二分に役金の割合が上げられた。このため、領内の諸士のうち五百八十三名が立ち上がって藩へ減免を訴えることとし、小高郷・標葉郷の家臣は飯崎原へ、宇多郷・北郷・中郷の家臣は行方郡火矢野原へ集まって役金の免除をもとめる訴えを行った。
しかし、財政を立て直すことを第一と考えていた利胤はこの訴えを許さず、連判状に判を押した武士の知行はすべて召し上げとし、判を押さなかったけれども訴えに参加した家臣は減封とした。ただし、その後この減俸された家は、藩主より槍を賜り「三百一本槍」という家柄として続いている。
この年、利胤の長女・おやす御方が誕生した。また、元和3(1617)年当時の各郷支配老中は下記の通り。
宇多郷 | 門馬甚右衛門経親 |
北郷 | 木幡(因幡経清) |
中郷 | 岡田八兵衛宣胤 |
小高郷 | 富田備前隆資 |
標葉郷 | 堀内十兵衛胤泰 |
御隠居付 | 中村監物主次 |
元和4(1618)年正月14日、利胤の舎弟・越中直胤が十九歳の若さで亡くなった。法名は心岩宗徹大居士。泉田村の金田山龍蔵院に葬られた。
さらにその後を追うように8月11日、母親のおきた方(三分一所氏・深谷御前)が亡くなった。享年五十五歳。法名は月潭秋公大禅定尼。小高土器迫谷に葬られた。のち、菩提のために行方郡深野村(原町市深野)に秋月山千相院が建立された。8月22日には、母堂の菩提を弔う連歌興行が行われた。
元和3(1617)年、旗本の生駒修理が罪を犯したため、相馬家へお預けとなった。また、この年の高百石以上の分限帳が残っている。筆頭は岡田兵庫胤景の千百九十九石、続いて木幡因幡経清の八百九十六石。門馬甚右衛門経親の七百八十二石、新館源助繁治の七百十二石、泉縫殿助乗信の六百十石、富田備前隆実の五百九十八石、岡田左門長次、堀内半右衛門胤長、熊川左衛門長春、生駒左兵衛……と続いている。
元和5(1619)年正月21日、利胤の大叔母・堤谷御前(田村清顕正室、伊達政宗妻の実母)が仙台にて亡くなった。法名は玉質性金大姉。仙台城下の金剛寶山輪王寺に葬られた。
5月26日、秀忠が江戸を発って上洛する際、その供奉を命じられて上洛。利胤は八十五騎を引き連れた。宿所は宇治の代官・梶庄兵衛の屋敷が宛てられた。
中村城二之丸 |
そして、元和6(1620)年5月、国許の陸奥国中村において利胤の嫡男・虎之助が誕生した。のちの大膳亮義胤である。
元和8(1622)年8月、出羽国山形藩主(五十万石)・最上源五郎義俊が改易となった。最上家は家中が一族の楯岡・山野辺派と松根派によって分断して御家争いを演じており、もはや収拾がつかなくなり、重臣らの協議の結果、所領を幕府に返上するという非常に珍しい事態となった。このとき利胤は庄内亀ヶ崎城(松山城)の受取在番を命じられ、9月3日、江戸を発って出羽へ向かった。同月中、酒井忠勝(出羽鶴岡藩主)が亀ヶ崎城代として赴任したため、中村城へと帰還した。
◎最上家略系譜◎
最上義守―+―義光―――+―義康
(修理大夫)|(侍従) |(修理大夫)
| |
+―楯岡光直 +―家親―――――義俊―――義智―――…【幕府高家】
|(甲斐守) |(侍従) (源五郎)
| |
| +―山野辺義忠――義棟―――義堅―――…【水戸藩家老】
| (右衛門佐) (内蔵助)(土佐守)
|
+―中野義時―――松根光広
同慶寺の利胤墓 |
その翌年の元和9(1623)年6月の大御所・秀忠上洛に次いで、7月に将軍・家光の上洛が行われたが、利胤は家光に供奉して上洛。京都太秦の福祥寺を宿所とした。そして、秀忠・家光の宮中参内の際には、利胤は京都所司代・板倉周防守重宗の代理として二条城在番を命じられた。
精力的に活躍をしていた利胤であったが、寛永元(1624)年7月2日には、愛娘の於安がわずか八歳で亡くなるという事もあってか、慢性的な病が悪化。中村に帰国して療養していたが、翌年の寛永2(1625)年9月10日、中村城において亡くなった。四十五歳の若さであった。法名は二照院殿日璨杲公大居士。菩提寺の小高山同慶寺に葬られた。
利胤は家康・秀忠など将軍家の信頼も篤く、相馬家の危機をみずから乗り切って中村藩をうちたてた名君であった。その後も中村藩には藩を揺るがすような大きな事件もなく、幕末の動乱を迎えることになる。
◆利胤の御手伝普請◆
年号 | 奉行 | 人足 | 内容 |
慶長8(1603)年 | 桑折小左衛門 江井八右衛門 |
500人 | 江戸諸所ノ御普請 |
慶長9(1604)年 | 水谷式部 岡田又左衛門 西内善右衛門 福岡弥左衛門 |
江戸御城廻御普請 | |
〃 | 不明 | 不明 | 東海道並越後陸奥両国一里塚築、間合三十六間 |
慶長11(1606)年11月 | 門馬源左衛門 | 500人 | 江戸御普請 |
慶長12(1607)年4月 | 熊川五郎左衛門 | 600人 | 江戸城石垣御普請 |
慶長14(1609)年 | 不明 | 不明 | 海上郡御普請、関東銚子辺築出 |
慶長18(1613)年 | 木幡勘解由 | 不明 | 江戸三味線掘御普請、田安御門内 |
元和6(1620)年 | 不明 | 不明 | 江戸城御普請、大手御門石垣舛形、材木献上 |
寛永元(1624)年 | 岡田半左衛門長泰 半杭吉兵衛 |
不明 | 江戸城御普請 |
◎相馬家・佐竹家略系図◎
相馬義胤―+―利胤―――義胤――亀 +―昌胤====敍胤↓
(長門守) |(大膳亮)(大膳亮)∥ |(彈正少弼)(長門守)
| ∥――+
| ∥ | +―義明――――義敦――――義和――――義厚――――義睦====義堯↓
| 土屋利直――相馬忠胤 +―娘 |(右京大夫)(右京大夫)(右京大夫)(右京大夫)(右京大夫)(右京大夫)
| (民部少輔)(長門守) ∥ |
| ∥――+―義峯
| ∥ |(右京大夫)
+―慶雲院 ∥ |
∥ +―――義長 +―義道――+―義忠==== =義祗↓
∥ | (壱岐守) (壱岐守)|(壱岐守) (壱岐守)
∥ | |
∥――義隆―――+―義處 |
∥ (右京大夫) (右京大夫) +―義敏―――+―義恭――義純===義核===義諶===義理↓
∥ ∥ | | (壱岐守)(壱岐守)(壱岐守)(播磨守)
佐竹義重―+―岩城貞隆 ∥ | |
(常陸介) |(忠次郎) ∥ +―蜂須賀重喜+―義祗↑
| ∥ (阿波守) ∥―――義知
| ∥ ∥ (壱岐守)
+―佐竹義宣==義隆 ∥―+―↑相馬敍胤―徳胤―――恕胤――+―娘
(右京大夫)(右京大夫)∥ | (長門守)(因幡守)(因幡守)|
∥ | |
徳川家康―――結城秀康――松平直政―娘 +―義格 +―祥胤――+―樹胤――――佐竹義矩
(贈太政大臣)(侍従) (出羽守) (右京大夫) (因幡守)|(讃岐守) (中務)
|
+―益胤――+―充胤―――+―誠胤
(長門守)|(大膳大夫)|(讃岐守)
| |
+―佐竹義典 +―↑義理
|(山城) (播磨守)
|
+―↑佐竹義堯
|( 右京大夫)
|
+―岡田泰胤
(監物)