●郡上藩・三上藩遠藤家
郡上藩・三上藩の概要 | 美濃郡上藩主 | 近江三上藩主 | 郡上遠藤家 |
木越遠藤家 | 乙原遠藤家 | 和良遠藤家 |
●東氏の歴代
郡上東氏 | 郡上東氏歴代 | 東氏惣領家 | 須賀川東家 | 森山東家 |
土佐藩遠藤家 | 木曾遠藤家 | 田中藩遠藤家 | |
苗木藩東家 | 土佐藩東家 | 小城藩東家 | 医官東家 |
●郡上藩歴代藩主
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
初代 | 遠藤慶隆 | 1550-1633 | 1601-1632 | 従五位下 | 但馬守 | 遠藤盛数 | 東常慶娘 | 乗性深心院 |
―― | 遠藤慶勝 | 1588-1615 | ―――― | 従五位下 | 長門守 | 遠藤慶隆 | 三木良頼娘 | 明心大神院 |
2代 | 遠藤慶利 | 1609-1646 | 1632-1646 | 従五位下 | 但馬守 | 三木直綱 | 遠藤慶隆娘 | 至誠院乗雲 |
3代 | 遠藤常友 | 1628-1675 | 1646-1675 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤慶利 | 板倉重宗娘 | 常敬院素信 |
4代 | 遠藤常春 | 1667-1689 | 1676-1689 | 従五位下 | 右衛門佐 | 遠藤常友 | 戸田氏信娘 | 恵正院素教 |
5代 | 遠藤常久 | 1686-1692 | 1689-1692 | 従五位下 | ―――― | 遠藤常春 | 側室某氏 | 本了院素道 |
●三上藩歴代藩主
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
初代 | 遠藤胤親 | 1683-1735 | 1692-1733 | 従五位下 | 但馬守 | 白須政休 | 小谷忠栄娘 | 宝地院素吟 |
2代 | 遠藤胤将 | 1712-1771 | 1733-1771 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤胤親 | 久松氏娘 | 大心院素江 |
3代 | 遠藤胤忠 | 1732-1791 | 1771-1790 | 従五位下 | 下野守 | 遠藤胤親 | 田所氏娘 | 東覲院素秋 |
―― | 遠藤胤寿 | 1760-1781 | ―――― | ―――― | ――― | 遠藤胤忠 | 青木氏娘 | 心開院素練 |
―― | 遠藤胤相 | 1761-1814 | ―――― | ―――― | ――― | 酒井忠与 | 西村氏娘 | 霊信院素淳 |
4代 | 遠藤胤富 | 1761-1814 | 1790-1811 | 従五位下 | 左近将監 | 松平信復 | 小林氏娘 | 自得院素行 |
5代 | 遠藤胤統 | 1793-1870 | 1811-1863 | 従四位下 | 中務大輔 | 戸田氏教 | 猿田氏娘 | 敬武徳院素中 |
―― | 遠藤胤昌 | 1804-1855 | ―――― | ―――― | 式部少輔 | 松平義和 | 某氏娘 | 直諒院素温 |
6代 | 遠藤胤城 | 1838-1909 | 1863-1909 (藩知事含む) |
従五位下 (贈正三位) |
但馬守 (子爵) |
遠藤胤統 | 小谷氏娘 |
【美濃郡上藩主】 【近江三上藩主】
遠藤慶利 +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久====遠藤胤親―――遠藤胤忠――娘
(但馬守) |(備前守) (右衛門佐) (岩松) (但馬守) (下野守) ∥
∥ | ∥
∥ |【乙原遠藤家】 ∥
∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―+=遠藤胤貞 +―遠藤胤明――――――――遠藤常益――+=遠藤常寿――遠藤常栄―+―遠藤岩之助
板倉重宗娘 |(大助) (新九郎) |(六郎左衛門)|(右膳) (大之丞) |(式部) (鐘次郎) |
| | ∥ | | ∥ ?
| +―娘 +―遠藤縁福[和良遠藤家へ] +―娘 +―遠藤新六郎
| | |(隼人)
| | |
| +=遠藤常之――+―川窪信友
| (新六郎) |(喜一郎)
| |
| +―娘
| |(向坂主計政賀妻)
| |
| +―娘
| (山口出雲守直郷養女)
|【和良遠藤家】
+―山田常紀===遠藤常英―+=遠藤常実
(金兵衛) (源五郎) |(彦十郎)
| ∥―――――――遠藤常住―+=遠藤縁福 +―遠藤常章
+―娘 (源五郎) |(隼人) |(文次郎)
| |
+=遠藤常郷――+―遠藤常徳――遠藤鎮之助
|(三蔵) (熊之進)
| ∥
+―娘
|
|
+―遠藤常寿[乙原遠藤家へ]
(式部)
山田常紀(1638-1692)
<名前> | 慶紀→常紀(つねただ) |
<通称> | 金兵衛 |
<正室> | 渡辺丹後守吉綱娘(清光院殿日恵禅尼) |
<父> | 遠藤但馬守慶利 |
<母> | 板倉周防守重宗娘(清雲院殿妙恵日浄大姉) |
<官位> | 無位 |
<官職> | 無官 |
<法号> | 達生院殿玄清日相居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』) |
<墓所> | 法恩寺(池之端四丁目) ※現在は墨田区太平1に移転 |
和良遠藤家初代。父は郡上藩三代藩主・遠藤但馬守慶利。母は京都所司代・板倉周防守重宗の娘。通称は金兵衛。妻は渡辺丹後守吉綱娘(清光院殿日恵禅尼)。初名は慶紀。彼は生涯山田を名字とし、遠藤を称していない。
遠藤慶利 +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久【郡上藩主】
(但馬守) |(備前守) (右衛門佐) (岩松)
∥ |
∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―――遠藤常之【乙原遠藤家】
板倉重宗――娘 |(大助) (新六郎) (新六郎)
(周防守) | ∥
| 松平氏信―+―娘
|(民部少輔)|
| +―娘
| ∥
| 渡辺吉綱―+―渡辺方綱
|(丹後守) |(越中守)
| |
| +―娘
| ∥
+――――――――山田常紀===遠藤常英【和良遠藤家】
(金兵衛) (源五郎)
寛永15(1638)年、江戸で誕生した。正保3(1646)年6月20日、父・慶利が亡くなり、同年11月12日、兄・常友が郡上藩二万七千石を相続した際、兄の常昭は二千石、常紀は千石を分与された。その所領は子孫の「遠藤源五郎様御支配所高覚」にあるものとほぼ変わらないだろう。
12月5日、九歳にして初めて将軍・徳川家光に拝謁し、万治2(1659)年7月11日、御小姓組に列した。
延宝7(1679)年10月27日、亡くなった。享年四十二。法名は日相。谷中の平河山法恩寺に葬られた。法恩寺はその後、本所(墨田区太平1)に移され、次代の源五郎常英以降は移転地に埋葬された。
●遠藤源五郎様御支配所高覚(『和良村誌』)
村名 | 石高 |
宮代村 | 215.9石 |
下沢村 | 170石 |
下洞村 | 160石 |
小地方 | 100石 |
乙原村 | 176.2石 |
そしの村 | 170.2石 |
戸川村 | 94.2石 |
法師丸村 | 10.3石 |
清八分 | |
合計 | 1,096.8石 |
●遠藤常友の家中抜粋(『郡上藩分限帳』:『郡上八幡町史』所収)
石高 | 役職 | 氏名 |
2,500 | 常友実弟 | 遠藤大助常昭 |
1,300 | 常友実弟 | 山田金兵衛常紀 |
100 | 常友母親? | 敬勝院 |
10人 | 常友伯母 | 伯母 |
10人 | 常友伯母 | 伯母 |
10人 | 常友娘?妹? | 女中 |
~家中城代家老~ | ||
500 | 遠藤十兵衛(朝慶) | |
500 | 仕置家老 | 遠藤新左衛門・遠藤杢之助(正英) |
500 | 無役 | 遠藤主馬助 |
450 | 月番家老組頭 | 池田六左衛門(吉久か) |
350 | 月番家老組頭 | 遠藤市右衛門(正明) |
300 | 月番家老組頭 | 松井縫殿助(宗従) |
300 | 無役 | 野田覚右衛門(慶明) |
200 | 無役 | 粥川小十郎・石神太兵衛 |
300 | 物頭 | 餌取六右衛門 |
250 | 物頭 | 村山三右衛門・石井藤右衛門 |
200 | 物頭 | 高屋権太夫 |
150 | 物頭役領扶持 | 遠藤善左衛門・松井覚兵衛 |
150 | 寺社奉行 | 松井弥五左衛門 |
100 | 鑓奉行役領扶持 | 遠藤治部右衛門 |
150 | 町奉行役領扶持 | 吉田作左衛門 |
200 | 郡奉行 | 遠藤金左衛門・武光伝左衛門 |
200 | 目付 | 粥川半兵衛 |
100 | 目付 | 野田九右衛門 |
150 | 聞番役二十人扶持 | 澤部治部左衛門 |
100 | 奥家老 | 宮田兵右衛門・豊田源五兵衛 |
150 | 馬乗り | 三浦四方助 |
150 | 馬医者 | 鷲見八右衛門 |
~御馬廻~ | ||
300 | 粥川孫左衛門 | |
250 | 小池孫右衛門 | |
200 | 武光吉左衛門・豊島弥左衛門・遠藤久右衛門・松井勘右衛門・豊田武兵衛・佐藤治兵衛 | |
150 | 遠藤七郎左衛門・遠藤助太夫・畑佐覚左衛門・豊田儀左衛門・山田又兵衛・桑原五兵衛・池田幸右衛門・垣見伊右衛門・角庄右衛門・池戸善右衛門 | |
100 | 遠藤武太夫・野田弥兵衛・遠藤弥市右衛門・桜井宇右衛門・餌取八郎右衛門・伊東一拾・伊藤関三郎・三木竹之助・池戸求馬助 |
遠藤常英(1665-1736)
<名前> | 常英(つねふさ) |
<通称> | 三四郎→源五郎 |
<正室> | 伊東九郎左衛門祐信娘(光長院殿妙恵日道大姉) |
<養父> | 遠藤金兵衛常紀 |
<実父> | 能勢惣十郎元之 |
<母> | 長谷川三左衛門守勝娘 |
<官位> | 無位 |
<官職> | 無官 |
<法号> | 時正院殿秋岸日終居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』) |
<墓所> | 法恩寺(墨田区太平1) |
和良遠藤家二代。養父は山田金兵衛常紀。実父は能勢惣十郎元之。母は長谷川三左衛門守勝娘。通称は三四郎、源五郎。妻は伊東九郎左衛門祐信娘。「山田」を「遠藤」に改める。
寛文5(1665)年、江戸に誕生した。延宝7(1679)年12月11日、十五歳で山田常紀の家督を相続。役はなく小普請組。元禄9(1696)年7月5日、御小姓組に列し、享保2(1717)年2月15日、松平与左衛門忠一とともに中国地方の巡察を行なった。
享保19(1734)年4月6日、七十歳にして職を辞した。このとき黄金二枚が下賜されている。慰労の意味があるのだろう。元文元(1736)年8月19日、七十二歳で亡くなった。法名は日終。
遠藤常住(1717-1786)
<名前> | 常住 |
<通称> | 文次郎→内匠→源五郎 |
<正室> | 河野仙寿院通休娘(信受院殿妙持日行大姉) |
<父> | 遠藤彦十郎常実 |
<母> | 遠藤源五郎常英娘 |
<官位> | 無位(布衣) |
<官職> | 無官 |
<法号> | 是法院殿常住日演居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』) |
<墓所> | 法恩寺(墨田区太平1) |
和良遠藤家三代。父は遠藤彦十郎常実。母は遠藤源五郎常英娘。通称は文次郎、内匠、源五郎。妻は河野仙寿院通休娘。
河野通房―+―河野通休―+―河野通頼
(松庵) |(仙寿院) |(仙寿院)
| |
+―遠藤常実 +―娘 【乙原遠藤氏】
(彦十郎) ∥―――――――遠藤常寿
∥ ∥ (式部)
∥ ∥
∥――――――遠藤常住====遠藤常郷
遠藤常英―――娘 (源五郎) (三蔵)
(源五郎)
元文元(1736)年11月4日、祖父・源五郎常英の遺跡を継ぎ、寄合に列した。そして12月11日、将軍・徳川吉宗に初めて拝謁し、延享2(1745)年9月13日、御小姓組となる。
宝暦元(1752)年6月11日、大御所吉宗が江戸城にて薨去。22日、常住は吉宗への院号ならびに従一位太政大臣の贈位についての使者として朝廷に遣わされた。
宝暦4(1755)年正月11日、御使番となり、12月28日には布衣を許された。その後、明和3(1766)年正月11日に御先鉄砲組頭に転じ、9月8日、火付盗賊改に就任した。しかし、翌明和4(1767)年8月7日、前任の火盗改の細井金右衛門正利が捕らえていた容疑者を勝手に釈放する失態を犯した。この容疑者は、町奉行・依田豊前守政次から吟味すべきことがあるとして以前から常住へ伝えられていたにもかかわらず、常住が独断で召し放ったため、常住は「越度の至り」として出仕停止を命じられた。9月9日、出仕は許されたが、翌日には火盗改を解任されている。
安永5(1776)年4月、将軍・徳川家治の日光社参に供奉した。
天明6(1786)年12月11日、七十歳で亡くなった。法名は日演。
遠藤常郷(1744-1794)
<名前> | 常郷 |
<通称> | 熊之進→三蔵 |
<正室> | 遠藤源五郎常住娘 |
<養父> | 遠藤源五郎常住 |
<実父> | 堀大和守親蔵(信濃飯田藩主) |
<母> | 某氏 |
<官位> | 無位 |
<官職> | 無官 |
<法号> | 日雲 |
<墓所> | 法恩寺(墨田区太平1) |
和良遠藤家四代。養父は遠藤源五郎常住。実父は信濃飯田藩主・堀大和守親蔵。母は某氏。通称は熊之進、三蔵。妻は遠藤源五郎常住娘。
遠藤源五郎常住に嫡子がなく、飯田藩主・堀家から熊之進が養嗣子として迎えられ、明和3(1766)年12月21日、将軍・徳川家治に初めて拝謁を果たした。安永3(1774)年、養父の常住に実子の栄次郎が誕生するが、常郷の惣領の地位は変わらず、栄次郎は同族の乙原遠藤家に養子に出され、遠藤式部常寿となる。
安永5(1776)年12月19日、御書院番に列した。天明7(1787)年3月7日、養父・遠藤常住の遺跡を継ぐ。常住には養子として、一族の乙原遠藤新六郎常之の四男・遠藤隼人縁福を養嗣子に迎えていたが、宝暦9(1759)年6月7日に二十二歳の若さで亡くなっていた。
寛政元(1789)年12月29日、御書院番を辞して小普請山口勘兵衛組となり、寛政6(1794)年8月21日、五十一歳で亡くなった。法名は日雲。
遠藤常徳(1783-1853)
<名前> | 常徳→常紀 |
<通称> | 熊之進→源五郎→求馬 |
<正室> | 滝川氏(久成院)? |
<父> | 遠藤三蔵常郷 |
<母> | 某氏 |
<官位> | 無位 |
<官職> | 無官 |
<法名> | 堅樹院殿同光日良居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』) |
<墓所> | 法恩寺(墨田区太平1) |
和良遠藤家五代。父は遠藤三蔵常郷。母は某氏。通称は熊之進、源五郎、求馬。
寛政6(1794)年閏11月5日、十二歳にして家督を相続。小普請山口勘兵衛組となり、寛政12(1800)年8月22日、御書院番安藤伊予守組へ転じ、組頭は追々替わりながら、天保13(1842)年正月12日、菅沼伊賀守組となった。
嘉永6(1853)年3月21日、亡くなった。享年六十九。法名は日良。
遠藤鎮之助(????-????)
和良遠藤家六代。父は遠藤求馬常徳。母は某氏。通称は鎮之助。兄の遠藤熊五郎(実成院殿法遠日久居士)は天保10(1839)年6月13日に亡くなっており、鎮之助が嫡男とされたのだろう。
安政2(1855)年、御小姓組土屋国之允組となる。
明治元(1868)年、鎮之助は一族の遠藤新六郎(乙原遠藤家)とともに江戸から郡上に帰領し、和良村内に謹慎しつつ、官軍に対し降伏を願い出た。これに対し、官軍は両遠藤家の降伏を認めると、旧領民は徳川家旧臣の遠藤家支配が続くことを嫌い、天朝領となることを求めて7月3日、一斉蜂起した。
鎮之助は事の重大さに遠藤新六郎と連絡し、鎮之助用人の高田庄兵衛、新六郎用人の畑佐鼎の両名が旧領民の説得に当たったが、聞き入れようとしなかったため、すでに采地奉還しているにも関わらず、高田・鼎両氏は旧領民を現在も遠藤家領民であるとして強行的に鎮定しようとしたため、事態は悪化。郡上郡旧旗本領の支配を任されていた尾張藩兵が出動して、一揆は鎮圧された。
鎮之助のその後は不明。