(1427?-1495?)
郡上東氏九代。東下総守氏数の嫡男。通称は三郎、中務丞。号は素通。室は某氏(慈永大姉)
応永34(1427)年生まれとされるが、十年ほど後年の生まれと考えられる【このページの当主の時系列】 。通称「三郎」は、父・東三郎氏数の名乗りを継承していると思われる。
■東氏想像系図■
東益之―+―東氏数――――――東元胤
(下野守)|(下総守) (下総三郎)
| ∥―――――――東尚胤――――東素山
| ∥ (下総守) (寿昌院)
| 慈永大姉
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| +―東頼数―――――東氏胤
| |(左近将監) (宮内少輔)
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+―東常縁――――+―東常和―――+―東常慶――――東常堯
|(下野守) |(下野守) |(下野守) (七郎)
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+―正宗龍統 +―東胤氏 +―東素経
(建仁寺住持) |(最勝院素純) (最勝院)
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+―常庵龍崇
(建仁寺住持)
「古伊勢真蓮入道(伊勢貞国)」がまだ政所執事であった頃、幕府高倉御所において、「東」を「白次(申次)」に選んだ(『蔭涼軒日録』長享元年十二月十四日条)。申次衆は幕府官僚機構の中でも将軍との関わりが強い役職であることから、優遇政策とも見て取れるが、「東」はすでに自身が「法体」であること、子息が「幼稚」であることを理由にこれを固辞した。ところが伊勢真蓮入道はこれを認めず、代わりに「東之舎弟」を「白次」とした。この「東之舎弟」は「安東」氏の養子となっており、文安3(1446)年正月4日の常光院堯孝の歌会に列した「藤原氏世(安東遠江守氏世)」のことである(『堯孝法印日記』)。また申次を辞退した「東」は、同じく歌会に列していた「下総入道素忻(東下総守氏数入道素忻)」であることがわかる(『堯孝法印日記』)。このとき、伊勢真蓮入道が氏数入道の申次固辞を認めようとしなかったのか、その理由は不明といわざるを得ないが、霊泉院の正宗龍統(氏数弟)が語るには、「我族東也、与千葉同氏、平氏也、為伊勢守為敵流」と述べている。東氏は千葉氏の同族で故に伊勢守とは敵流となる、ということであるが、その謂れは記されない。伊勢氏は平忠常(千葉氏祖)追捕の支援に遣わされた上総介平維衡(伊勢平氏祖)を祖とすることから、その因縁を受けての言葉か。
●『蔭涼軒日録』-長享元年12月14日条-(「白次」とは「もうしつぎ」)
伊勢貞国が政所執事職にあったのは応永17(1410)年から宝徳元(1449)年4月までであるが、氏数が法体となったのは嘉吉3(1443)年2月から文安3(1446)年正月(『堯孝法印日記』文安三年正月四日条)までの間であり、つまり、氏数入道が申次に選ばれて辞退したのは、嘉吉3(1443)年2月から宝徳元(1449)年4月までの六年の間となる。そのころ氏数入道の子である元胤はまだ「幼稚」であったとあるが、宝徳元(1449)年8月にはすでに元服して「下総三郎元胤」を称していることから、元胤が生まれたのは永享7(1435)年あたりであろうか。
伊勢貞国――+―伊勢貞親 今川義忠
(伊勢守) |(伊勢守) (上総介)
| ∥――――――今川氏親
+―女 +―女 (上総介)
∥ |(北川殿)
∥ |
∥―――――+―伊勢盛時
伊勢盛定 (伊勢宗瑞)
(備中守) ∥――――――伊勢氏綱
∥ (左京大夫)
小笠原持長―――小笠原持清―――小笠原政清―――女
(備前守) (民部少輔) (民部少輔)
父・氏数入道は法体となった際、郡上東氏の惣領をまだ幼稚の実子・下総三郎元胤ではなく、異母弟の左近大夫常縁を指名した。これは、氏数、常縁の弟・正宗龍統が記した『故左金吾兼野州太守平公墳記』の記述の一「常縁、今之所宗也、氏数擢之為後継」から読み取れる。いまだ「幼稚」であった元胤に領地経営と在京での宮仕えを両立させる不安に加え、二條流歌道を伝えてきた家の当主としては経験も年齢もあまりに未熟であったことが大きな理由であったのだろう。
ちょうど伊勢貞国が政所執事を辞した同年の宝徳元(1449)年8月28日、八代将軍・足利義成(のち義政)の初参内に随った帯刀十三番の中に「東下総三郎元胤」の名があり、この頃には帯刀として幕府に出仕していたことがうかがえる(『經覺私要鈔』、『将軍義政公御参内始記』「康富記」所収)。
赤松有間小三郎 豊則 | 赤松有田八郎 豊忠 |
伊勢八郎 貞藤 | 同八郎左衛門尉 盛經 |
伊勢因幡守 貞仲 | 同次郎左衛門尉 貞枝 |
二階堂六郎左衛門尉 忠政 | 朝日因幡守 持長 |
宮下野守 元盛 | 同五郎左衛門尉 盛長 |
東下総三郎 元胤 | 屋代四郎 貞昌 |
松田上野介 信朝 | 同三郎左衛門尉 賢信 |
小早川備後守 熈平 | 小串新次郎 |
土岐肥田伊豆守 持重 | 同石谷孫九郎 行久 |
土岐外山孫九郎 康明 | 同今峯三郎 益光 |
佐々木黒田兵庫助 清高 | 同黒田掃部助 信秀 |
佐々木大原越前守 信業 | 同大原新次郎 持頼 |
佐々木加賀守 教久 | 同治部少輔 秀直 |
『永享以来御番衆』(1450~)の番衆四番のなかに「藤下総入道」「藤三郎」「安東遠江守」が列記され、また、同じ頃の時期と思われる『久下文書』の番衆四番には「東下総守」「東三郎」「安東遠江入道」「東左近大夫」の名が列記されている(『久下文書』:「東山殿時代大名外様附」今谷明著・「史林」第六十三巻六号)。このうち「藤下総入道」「東下総守」とは氏数のこと、「藤三郎」は東三郎元胤、「安東遠江守」「安東遠江入道」は安東遠江守氏世(氏数次弟)、「東左近大夫」は東左近大夫常縁のことである。
※「東山殿時代大名外様附」の東氏の記述については、東氏数が出家していない時期に安東氏世が出家している点で信憑性に疑義があり、番衆帳の寄集めかもしれない。
宝徳3(1451)年2月18日、元胤は叔父の安東氏世・常縁とともに仁和寺の常光院堯孝法印が開いた北野天神の歌会に出席した。元胤はこののち堯孝へ弟子入りをしている(『東野州聞書』)。堯孝は二條流歌道の正統を継ぐ大歌人であり、父・氏数入道や叔父・氏世とも親しく交流があり、こうした経緯によって元胤も和歌の道の本格的な修行に入ったとみられる。
●二条流歌道の略系譜
二条為世―+―後宇多天皇 +―経賢―――堯尋――堯孝―+―東常縁――+―宗祇―――+―三条西実隆―+―東素経
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+―二条為通 +―二条良基(摂関家) | | +―東素純 +―東氏胤
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+―頓阿――――+―足利尊氏 | +―東頼数――――東素純
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| +―東常和――――東氏胤
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| +―東素純
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| +―大坪基清
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+―堯恵―――+―東頼数
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+―一条兼良 +―東常和――+―東氏胤
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+―東元胤 +―木戸範実(二條冷泉合流)
応仁2(1468)年9月、郡上東氏の居城・篠脇城に、土岐成頼の守護代・斎藤妙椿が攻め寄せ、父の「平宗玄(東氏数入道宗玄)」は、惣領で弟の東左近大夫常縁が関東に従軍下向していたため、留守していたが、少ない軍勢を指揮して戦うもついに落城した(『尊星王院鐘銘』)。
●『尊星王院鐘銘』(『郡上町史』:東家史料提供)
このときの元胤の所在は不明だが、奉公衆として在京か。
篠脇城と東氏館跡 |
その後、文明元(1469)年2月に当時下総国で千葉陸奥入道常義、原越後守胤房と戦っていた叔父・東左近大夫常縁と齋藤妙椿の間で城の返還について和歌のやり取りが行われ、同年4月21日、常縁は子・縁数を下総国に残して上洛の途に就き、5月12日、斎藤妙椿と会見して正式に篠脇城は返還された。このとき、父・氏数入道も恐らく篠脇城に戻ったと思われるが、二年後の文明3(1471)年5月8日、亡くなったと伝わっている。
その後、しばらく元胤の動向は不明となるが、文明16(1484)年9月11日、三条西実隆は『打聞集』の編纂の過程で「平常顕哥前下野守東 平元胤東 素明法師東 道空細川讃岐守入道」の詠草中から百首を選んでいる。元胤は三條西実隆の撰の候補となるほどの歌人として成長していたことが窺える。
なお、常光院堯孝法印は、元胤が弟子になってわずか四年後の康正元(1455)年7月5日、六十五歳で示寂し、仁和寺常光院は清水谷実久が継承。さらに堯孝の俗弟・堯憲(清水谷公知子)が継いだ。
文明16(1484)年3月、叔父の惣領・東下野守常縁が亡くなると、約一年後の文明17(1486)年6月17日、「右近将監平頼数」が東氏重代の藤原俊成女筆『古今和歌集』を長滝寺白山権現に寄進して、東氏と歌道の隆盛を祈願している。そしてその年の秋、法印堯恵(常縁同門)が常縁の子息たちに古今伝授するべく三浦半島までの旅の中で、「美濃国、平頼数東野州一男知る所濃州郡上」に訪れている(『北国紀行』)。「平頼数知る所」の「濃州郡上」を訪れており、常縁の跡は子・頼数に継承されたことがわかる。
同文明17(1486)年9月12日、将軍・足利義尚(義煕に改名)が近江守護・六角高頼を攻めるため、直々に出陣した際に「東三郎」が供奉している(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)。すでに
長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』の記述によれば、建仁寺霊泉院先住の正宗龍統が相国寺蔭涼軒亀泉集證を訪ねて、「美濃国下田郷(郡上市美並町)」の代官職の事について話しているが(『蔭涼軒日録』長享元年十二月十四日条)、この下田郷は妙心寺領で「我俗姪東之三郎本領相隣」とある。この「我俗姪東之三郎」は前年文明17(1486)年9月に近江へ参陣した「東三郎」と同一人物と考えられ、おそらく元胤であろう。
その二年後の長享3(1489)年10月26日、建仁寺住持の正宗龍統が蔭涼軒の亀泉集證とともに清水寺に赴き、その際の茶話で、正宗龍統は、「濃州知行」の「我俗姪東中務」が「国方(守護・土岐勢か)」から攻められて「生害」に及んだか、と話している(『蔭涼軒日録』延徳元年10月26日条)。この「東中務」は系譜に該当する人物はないが、おそらく元胤であろう。「東中務」は土岐氏の攻撃を受けて自害した風聞があったものの、実際は生き延びており、二年後の延徳3(1491)年8月6月、「東中務」の命を受けた者が、京都四条道場(金蓮寺)前(京都市下京区奈良物町)で、「東中務被官遠藤但馬守、同名二人、厩者一人、以上四員」を討っている(『蔭涼軒日録』)。
没年は明応4(1495)年5月9日と伝わるが不詳。法名は栄樹院道潤了源。
正室と思われる某氏・長空慈永は永正3(1506)年2月に川栗城の北方の草庵で亡くなり、その葬礼に際して、一族の名僧・常庵龍崇が祭文を捧げている(『祭慈永大姉文』)。現在は東常縁夫人として木蛇寺跡(郡上市大和町牧)に祀られ、彼女の墓と伝わる宝筐印塔(室町期)が遺されている。
この祭文の中で、長空慈永は「中歳先君、既埋九京、薙髪為尼、独灯守貞」とあることから、夫の東元胤が「中歳(六十歳頃か)」で亡くなった後、髪をおろしたのだろう。学問に励み、仏教をたしなみ、風流もある女性だったようだが、「逆虜伺隙、数襲吾城、大姉一笑、不揺心旌、軍中独得、女丈夫名、頃設籌幄、外討賊兵、民徳帰厚、交頌河清」とあるように、敵が城に攻め寄せた際にも落ち着いており、「女丈夫」とされ、策を以て敵兵を打ち破ったという。
その薨じた年齢については「耳順漸過、古稀未盈」とあり、六十代前半であったと思われ、生年は嘉吉3(1443)年ごろで、頼数と同年代となる。「就枕両月、微恙云嬰、百剤不効、半夜告行、座脱如睡」と、二月余り病に伏して眠るがごとく亡くなったという。この薨去を聞いた常庵龍崇は「予時帰省、親哭両楹、涙盡無従、七々俄更、況母子間」と、郡上に帰国してその死を嘆いている。
●『祭慈永大姉文』(『続群書類従』所収)
文明12(1480)年頃の御相伴衆走衆の中に、「藤民部中務少輔(政盛)」の名があり、足利義政の東山御移にも付き従っている。長享元(1487)年、六角高頼を討つために近江国へ出陣した足利義尚に従った人物に「藤民部又三郎政兼」があった。彼らは将軍家の「走衆」として供奉する一族である。「藤(東)氏」との関わりがうかがわれたが、幕府が康正2(1456)年に内裏造営のための段銭を課付した際、「藤民部又六郎殿」は「尾州田中庄」の段銭課付が命じられていることから、郡上東氏とは関係のない家である。
「藤民部」という一族は、文和4(1355)年2月25日『足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状』にはじめて名を見せる。前年12月、南朝に寝返っていた足利直冬・桃井直常・山名時氏らが京都をうかがい、尊氏は後光厳上皇を奉じて近江へ逃れたが。そして1月、直冬・直常・時氏らが京都へ入ると、播磨の嫡男・足利義詮の軍勢を京都へ向かわせ、尊氏勢と挟み撃ちの形となり、3月、直冬勢は摂津天王寺へ退却していった。『~連署一揆契約状』はこの一連の戦いにおいて、尊氏近習が一揆して強いきずなで結ぶために認めた連判状と思われる。
○文和4(1355)年2月25日『足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状』
(『越前島津家文書』:『兵庫県史』所収)
●元胤の生没年について●
(1)永享12(1440)年~???? |
(2)応永34(1427)年~明応4(1495)年5月9日(『東氏系図』) |
(3)???? ~享禄元(1528)年8月10日 |