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東中務丞胤行の四男。通称は四郎。兄・東図書助泰行と同じく幕府に出仕した。
建長3(1251)年1月20日、将軍家二所詣の隨兵に「東四郎義行」の名が見える。そのほかに具体的な活動はみえない。義行も兄「泰行」同様に上位者からの偏諱がうかがわれる。
●二所詣供奉隨兵(『吾妻鏡』建長三年一月二十日条)
先行 | 葛西七郎時重 | 野本二郎行時 | 佐貫七郎広経 | 江戸八郎 |
佐野八郎清綱 | 山上弥四郎秀盛 | 肥前太郎資光 | 佐貫次郎太郎泰経 | |
豊嶋平六経泰 | 山田四郎通重 | 千葉七郎次郎行胤 | 東四郎義行 | |
御輿 | 藤原頼嗣 | |||
輿側 | 三村新左衛門尉時親 | 肥後四郎兵衛尉行定 | 式部八郎兵衛尉 | 内藤豊後三郎 |
武藤二郎兵衛尉頼泰 | 藤倉三郎盛義 | 梶原右衛門三郎景氏 | 小野澤二郎時仲 | |
渋谷二郎太郎武重 | 山城次郎兵衛尉信忠 | 平右近太郎 | 土屋新三郎光時 | |
摂津新左衛門尉 | 兼仗太郎 | 平井八郎清頼 | ||
御後 | 尾張少将 | 中御門少将 | 武蔵守 | 相模右近大夫将監 |
陸奥掃部助 | 相模式部大夫 | 北條六郎 | 越後五郎 | |
遠江六郎 | 武藤四郎 | 相模八郎 | 相模三郎太郎 | |
足利三郎 | 新田三河前司 | 内蔵権頭 | 遠山前大蔵少輔 | |
大隅前司 | 内藤肥後前司 | 伊賀前司 | 伊勢前司 | |
上野彌四郎右衛門尉 | 同三郎兵衛尉 | 大曾禰次郎左衛門尉 | 遠江二郎左衛門尉 | |
梶原右衛門尉 | 和泉五郎左衛門尉 | 出雲五郎右衛門尉 | 波多野小次郎 | |
信濃四郎左衛門尉 | 筑前次郎左衛門尉 | 武藤左衛門尉 | 和泉次郎左衛門尉 | |
出羽三郎 | 出羽四郎左衛門尉 | 山内籐内左衛門尉 | 隠岐三郎左衛門尉 | |
阿曽沼小次郎 | 紀伊次郎右衛門尉 | 鎌田次郎兵衛尉 | 近江大夫判官 | |
後陣隨兵 | 阿曽沼四郎次綱 | 木村六郎秀親 | 清久彌次郎秀胤 | 高柳四郎三郎行忠 |
国分二郎胤重 | 椎名六郎胤継 | 小栗弥次郎朝重 | 善右衛門次郎康有 | |
真壁小次郎 | 麻生太郎親幹 | 長江七郎景朝 | 足立左衛門三郎元氏 |
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東四郎義行の嫡男。通称は六郎。鎌倉後期から南北朝前期にかけて活躍。称名寺との所領争いや押領事件を起こすことで名が知られていた。
乾元2(1303)年、所領のうち十二町の田畑を質に入れ、正和3(1314)年、八反半が海上行胤(中務入道)の娘・蓮一尼に沽却された。しかし、盛義は文保2(1318)年、元応元(1319)年の2回にわたって幕府から所領を没収され、蓮一尼も八反半の所領を称名寺雑掌・源光信に押領された。
東胤頼―――東重胤―――+―東胤行――東義行―――東盛義
(六郎大夫)(太兵衛尉) |(中務丞)(四郎) (六郎)
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+―海上胤方―船木行胤――蓮一尼
(次郎) (中務丞)
元亨元(1321)年6月22日、北条高時・金沢貞顕は、常陸国北郡内にあった金沢称名寺領五十余町の替地として、小笠原彦二郎入道・東六郎盛義から没収した所領を称名寺に分割宛行した。『金沢文庫文書』の「蓮一申状」によれば、盛義は「罪科に依りて」所領のうち「三分之一」を没収されて、称名寺へ寄進されたとある。つまり、盛義は何らかの罪によって所領を没収されて寄進させられたという事になる。そして正中元(1324)年に3度目の所領の没収を受けた。
常陸国北郡はもともと国衙領で、常陸大掾家が管理していた。そして建久4(1193)年、頼朝は大掾氏の一族・馬場資幹にこの地を与え、代々馬場氏が領主をつとめていた。しかし、その子孫・馬場経幹は徳治2(1307)年、ゆえあって所領を没収されて、称名寺に寄進されていた。これに経幹は、没収は不当だと訴訟を起こし、北郷は称名寺の手から馬場氏のもとに戻ったが、称名寺側の穴埋め分が必要になり、それに宛てられたのが、小笠原彦二郎と東盛義の所領だったのだ。
しかし、盛義旧領で称名寺へ寄進された土地は上代郷三分一でわずか九町三段。称名寺が取り上げられたの五十余町であり、「四分の一にも及ばず」として、さらなる代償を求めた。そして、嘉暦元(1326)年には上総国周東郡内一部を、元徳元(1329)年には因幡国千土師郷東上方村が称名寺分として寄進された。しかし、盛義はすでに沽却分であると主張する所領、娘(尼明通)に譲った分などは寄進する対象外であると主張して、実際に称名寺へ渡されたのは十町七段に過ぎなかった。
これに怒った称名寺は、同年の元徳元(1329)年に、沽却分の不当性と盛義が密かに開墾した土地があることを主張して、訴訟をおこした。そして翌年、(1)沽却分とする所領は不当である。(2)隠田はすべて盛義の所領である、として称名寺に寄進する「三分一」の計算に含める旨が命じられた。
⇒千葉介常胤―東胤頼―――重胤―――――胤行――+―泰行 +―胤義
(千葉介) (六郎大夫)(平太兵衛尉)(中務丞)|(図書助) |(弥六)
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+―義行―――――盛義―+―重義
|(四郎) (六郎)|(七郎)
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+―行氏 +―尼明通
(六郎左衛門尉)
元亨2(1322)年6月6日『尼妙観田在家売券』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
嘉暦2(1327)年12月16日『関東下知状』(『鎌倉遺文』所収)
嘉暦4(1329)年4月13日『金沢称名寺雑掌光信請取状案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
元徳元(1329)年12月2日『関東下知状案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
元徳元(1329)年12月2日『伊勢宗継請文案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
元徳元(1329)年12月4日『平盛義請文案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
某年『金沢称名寺雑掌光信申状案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
正慶元(1332)年12月2日『関東下知状案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
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東六郎盛義の嫡男。通称は弥六。
父・盛義の没後、東四郎家の家督を継いだが、東氏と称名寺との所領争いは、鎌倉幕府が滅亡した後もつづき、胤義は混乱に乗じてかつての所領を取り戻そうと強引な行動に出た。元弘3(1333)年、胤義は上総国周東郡の称名寺領にが攻め込んで濫妨狼藉をはたらいた。元弘3(1333)年9月10日『上総守護足利高氏書下案』によれば、金澤称名寺領である「上総国波多澤」「子安」「馬籠」「南東」「深谷」「胡麻窪」に「東弥六以下輩」が濫妨したと記されている。
建武2(1335)年、上総国守護代・伊勢弾正忠宗継は胤義の押領を不当として、家臣・伊北三郎常信を現地に遣わして、所領を寺側の代官に引き渡した。しかし、常信が去ると胤義は再び領内に侵入して乱暴狼藉を働いた。
康永2(1343)年には、胤義は弟の東七郎重義を引き連れて周東郡内の旧領を押領。さらに貞治4(1365)年、胤義は海上八郎公胤入道とともに称名寺領となっていた東庄上代郷内の土持・河嶋・原井・渡野邊源内兵衛入道等跡地に侵入してこれを押領した。
幕府は千葉介満胤の後見人・大須賀越後守宗正と国分遠江守胤氏のふたりを守護代として上総国に派遣し、胤義の乱暴を停めている。
○某年『金沢称名寺雑掌明源陳状案』(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)
■上代東氏末裔?
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上代東氏の末裔? 上代東氏は上総国周東郡内の所領について、金沢称名寺と論争していることが知られる。また、美濃郡上東氏は上総国出身の家臣(大坪氏)がいたことが知られ、郡上東氏とゆかりの深かった上総国の住人・大坪治部少輔基清は東下野守常縁から古今伝授を受けた歌人でもあった。
「東大和守」は弘治3(1557)年5月2日に北条氏康から書状を受けており、さらに大和守には「修理亮」を称する子息がいて、安房の里見氏と上総国で戦って戦功を挙げていることが確認されている。その後、子息・修理亮は恩賞として「周西郡之内、中津美村」が与えられている。
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東大和守の子。通称は修理亮。
「東大和守」は弘治3(1557)年5月2日に北条氏康から書状を受けており、子の「修理亮」が、里見氏の家臣・秋元氏を上総国小糸城(君津氏小糸大谷)に攻めた活躍に対しての謝意が述べられている。さらに、この功績によって、東修理亮には「周西郡之内、中津美村」が与えられている。