○彦根藩相馬家○
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下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。
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近江彦根藩相馬家【一】
相馬胤直(????-????)
十六代相馬家当主・徳誕蔵主の三男。通称は彦左衛門、刑部太夫。
胤直の孫、刑部大輔胤利(彦左衛門)は、相馬治胤の娘を娶り、その子孫は相馬彦右衛門家として、彦根藩井伊家の家臣となった(『相馬当家系図』)。しかし彦根藩の相馬家の申状からは、守谷相馬家との関係はうかがえない。
相馬胤用(????-1662)
父は不明。通称は浅賀九兵衛。のち与右衛門。『相馬当家系図』によれば守谷相馬一族の刑部太輔胤直の子孫が彦根藩相馬家となったことが記載されており、胤用はおそらく胤直の子孫だろう。
井伊家に仕えた相馬家の初代・浅賀九兵衛胤用が浪人して芝の海禅寺にいたころの慶長15(1610)年、井伊掃部頭直孝の同寺参詣があり、その縁がもとで井伊家の江戸屋敷へ召し出された。その後一年は浪人分として仕えることとなり、母も呼び寄せ、四人扶持を与えられた。そして慶長16(1611)年、二百石を与えられて正式に士分として取り立てられることとなり、その際、これからは本名を名乗るよう命じられたため、「相馬与右衛門」と改めた。
胤用は小納戸役、祐筆などを勤め、井伊直孝の伏見城在番に供奉し、大坂両陣にも出陣して活躍。元和元(1615)年には百石を加増され、都合三百石となる。幕府体制も比較的落ち着いてきた正保元(1644)年、江戸城本丸番足軽として勤務。
慶安3(1650)年に隠居した際に、藩は相馬家知行三百石のうち二百石を嫡子・彦右衛門胤貞へ、百石は隠居料として胤用へ下した。
寛文2(1662)年に亡くなった。
相馬胤貞(????-1671)
相馬与右衛門胤用の嫡男。通称は彦右衛門。
寛永9(1632)年、藩主・井伊掃部頭直孝の中小姓として出仕し、江戸屋敷詰となる。正保元(1644)年、新規に百五十石を加増された上、家督相続として二百石が継承され、都合三百五十石を知行する。
寛文10(1670)年、藩主・井伊掃部頭直澄(幕府大老)の召によって若君・直興付とされたが、翌年亡くなった。
相馬胤程(????-1717)
相馬彦右衛門胤貞の嫡男。通称は彦右衛門。
寛文11(1671)年、家督相続。郷中御見役、彦根城中の各御番を勤務。元禄4(1691)年3月、相馬家由緒書を認めた。
元禄8(1695)年正月28日、御金奉行を拝命。さらに元禄10(1697)年閏2月15日、幕命として各藩に命じられていた「国絵図改正」につき、胤程は御国絵図町間御役に任命された。9月1日には、御金奉行も兼任した。さらに元禄12(1699)年4月19日には、江戸屋敷の御金奉行も兼任することとなった。
元禄14(1701)年4月26日、江戸御金奉行職は御納戸役人の兼帯とされたため、彦根御金奉行のみの勤務に変更され、宝永元(1704)年8月27日、彦根藩勘定奉行に昇進した。
正徳3(1713)年3月15日、江戸詰だった胤程は、藩主・井伊掃部頭直興に召され、御金奉行や勘定奉行としての年々の苦労をねぎらわれた上で、直興がまだ部屋住み身分だったとき、胤程の父・彦右衛門胤貞が、亡くなるまでのわずかな期間ではあったが奉公してくれたことの感謝として、胤程へ五十石が加増された。その後も、胤程は藩主からの覚えがめでたく、褒美として井伊家の家紋のついた小袖が下されている。
享保2(1717)年正月20日、藩主・直興に召され、永らく過ちもなく御金奉行や勘定奉行をつとめあげたことを賞され、もはや老年となったことを労わられて、京橋口御門番頭へ遷任となる。そしてその三年後の享保5(1720)年正月22日に亡くなった。
相馬胤将(????-1742)
相馬彦右衛門胤程の嫡孫。父は相馬小平次。通称は三之丞、小平次、彦右衛門。
享保5(1720)年3月11日、養父(実祖父)の相馬彦右衛門胤程の跡目を相続し、知行三百五十石のうち二百石が下された。相続にともない、4月6日に名を「三之丞」から「小平次」と改め、享保19(1734)年5月22日に「小平次」から「彦右衛門」と改めた。
その後の胤将が就いた具体的な役職は不明だが、おそらく父と同様に各々奉行職を歴任したのだろう。寛保2(1742)年2月26日に亡くなった。
相馬胤清(????-????)
相馬彦右衛門胤将の嫡男。通称は小平次、彦右衛門。
寛保2(1742)年4月17日、相馬家二百石を相続し、宝暦2(1752)年11月2日には、代々の通称である「彦右衛門」を襲名した。
しかしそんな矢先の宝暦5(1755)年2月3日、居宅から失火したため自ら謹慎していたところ、7日には藩家老から、赦免するから早々に出仕するよう下命された。
宝暦10(1760)年11月15日、藩主在京時や道中での勤めを賞され、佐野錦二把が下された。下野国佐野は彦根藩領で、佐野錦は佐野からあがる年貢の一つであった。そして明和4(1767)年3月1日、城中着到付役を拝命。安永2(1772)年3月5日には城中着到付・十一口着到付両役を兼帯、2年後の安永4(1774)年5月3日には、普請着到付役へ役替がなされ、彦根城の山崎・東中嶋の石垣普請の人足を管理した。そして安永5(1775)年12月28日、石垣普請の功績を賞され、錦二把が下された。さらに翌年7月10日には大洞奥院の普請がなり、遷宮が済んだことを賞し、褒美・祝儀として錦二把が下された。この年の11月24日、騎馬徒として嫡男・小平次胤邦が出仕をはじめている。
安永7(1777)年10月15日、藩主・井伊掃部頭直幸に召され、鳥毛中間頭に役替となった。そして天明元(1781)年9月16日、鉄砲奉行に就任し、翌年10月15日、藩主・直幸に呼ばれて、老年となったことへの労わりから高宮口御門番頭へ遷任された。
天明5(1785)年10月28日、隠居して胤邦へ家督をゆずって引退した。
近江彦根藩相馬家【二】
相馬彦右衛門胤用の末裔と伝わる家。初代の中村勘六郎は中村庄左衛門の嫡男。兄に庄左衛門がいたものの早世。勘六郎は祐筆、御書留役などを歴任。延享2(1745)年正月2日、相馬庄左衛門と名を改めた。家紋は九曜。
延享5(1748)年3月、嫡子・右平次は父・庄右衛門から家督を相続し、藩主井伊直幸の世子・直富の御伽役に就任。安永4(1775)年、知行五十石にあらたに五十石を加増され百石取となった。
しかし天明元(1781)年8月3日に病を理由に役を辞し、天明4(1784)年2月11日に若くして亡くなった。同年3月8日、嫡男・相馬右膳専胤が家督を相続し、城使、江戸中屋敷留守居役、目付役などを歴任、文化3(1806)年、さらに五十石が加増されて百五十石取となる。
その嫡男・相馬三平吉胤(宇平次)は「槍の三平」とよばれる槍の名人で、家督を継ぐ以前に出仕し、文化11(1814)年2月に御騎馬徒に就任。二十六俵三人扶持を給された。
専胤が文化14(1817)年に没すると、吉胤が家督を継承し、百五十石を知行した。。文政4(1821)年4月29日、隼人と改名する。
吉胤は御使番→江戸下屋敷御留守居加役→中屋敷御目付役と歴任し、そして天保12(1841)年には御城使(江戸留守居)にまで昇進した。しかし、弘化3(1846)年7月に、吉胤は俄かに勘気を被って彦根へ退去を命じられ、知行も二十石減の百三十石とされた。その後許され、嘉永3(1850)年12月7日、相模国御供場詰の命を受けて相模国三崎(三浦半島の先端部)へ移り住んだ。
安政7(1860)年3月3日の大老職を務めていた藩公・井伊掃部頭直弼が、江戸城へ登城途中に、桜田門外において、水戸浪士らの襲撃を受けて討たれる事件が起こった。「桜田門外の変」という。幕府へは「拙者儀、捕押方等指揮致し候処、怪我致し候」と報告し、形式上は負傷ということで処理されている(井伊直弼は継嗣を定めていなかったため、法に拠れば無嗣断絶となり、彦根藩は取潰しとなる)。翌3月4日、「井伊掃部頭 岡本半介」と「相馬隼人」は、幕府に対し井伊直弼を討った犯人を「御捕押ニ相成候者共御渡ニ相成、家来之者共子細柄相心得度旨一同懇願仕候」と、彦根藩への引渡しを求めた(『彦根藩嘆願書案』:「彦根市史」)。
吉胤の嫡男・相馬三平高胤(宇平次)は文政11(1828)年3月28日、父が御目付役としてあった彦根藩赤坂中屋敷で誕生。吉胤の家督を継いで宇平次を称し、御供場詰の任を継承した。高胤も武芸に優れており、彦根藩三崎手御人数に加わり、鉄砲奉行の任に就き、ペリーの久里浜上陸に対する警衛にあたった。
しかし、文久2(1862)年、彦根藩は幕府に十万石没収されたことから、家臣たちはすべて旧録の2/3の支給となり、相馬家も例に漏れず百石に減知となった。高胤の嫡子・相馬信一郎永胤はのち専修大学創始者の一人となった。大正13(1924)年に惜しまれつつ亡くなった。七十三歳。墓所は港区青山霊園。青山霊園には永胤とは遠い一族にあたる相馬中村藩主家の墓所もある。
高胤の次男・鏡次郎はのちの海軍少将・荒西鏡次郎。明治31(1898)年6月30日に成立した第一次大隈重信内閣の司法大臣・大東義徹は彦根藩鉄砲隊士であり、高胤の部下である。
●彦根藩・相馬彦右衛門家系図
相馬胤広―+―胤貞―――晴胤―+―整胤―――…【旗本相馬氏】
(因幡守) |(小次郎)(左近)|(小次郎)(彦右衛門)
| |
| +―娘 +―小平次―――胤将
| ∥ | (三之丞)
? 高井治胤―娘 |
| (左近) ∥――…―胤用――――胤貞――――胤程――+=胤将――――胤清―――+
| ∥ (与右衛門)(彦右衛門)(彦右衛門)(彦右衛門)(彦右衛門)|
+―胤直――――胤方――――胤利 |
(刑部太夫)(刑部太夫)(刑部太夫) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―胤邦――+―胤良
(小平次)|
|
+―勘次
|
|
+―小平次
●彦根藩・相馬宇平次家系図
相馬胤用―?…中村庄右衛門―+―庄左衛門
(与右衛門) |
| 【専修大学創始者】
+―庄左衛門―宇平次――専胤―――吉胤――高胤――+―永胤
(宇平次)(隼人)(宇平次)|(信一郎)
|
|【海軍少将】
+―荒西鏡次郎
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茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
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