大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀胤氏(????-????)

 大須賀家三代惣領。父は大須賀通信。母は不明。通称は左衛門次郎。官途は左衛門尉。

 父・通信の死後、胤氏が大須賀家の惣領を継いだと思われるが、暦仁元(1238)年2月17日の時点では「大須賀左衛門次郎」と称していて、まだ任官していないことがわかる。この日の子の刻(午後十時頃)、頼経ら幕府一行は京都へ到着。六波羅に新造された御所へ入った。このとき「駿河前司随兵 以家子三十六人為随兵」のなかに「大須賀八郎」の名が見える。大須賀八郎は胤信の八男・成毛八郎範胤のことで、兄・大須賀七郎重信とともに三浦氏と結びついていた形跡がある。

 仁治2(1241)年1月14日、将軍家の鶴岡八幡宮への参詣に供奉した諸士の中に「大須賀六郎左衛門尉」の名が見えるが、胤氏の弟の大須賀六郎左衛門尉為信か。8月25日の北斗堂供養では、最末に列した随兵十二騎の一人として「大須賀七郎左衛門尉重信」の名が見える。

 寛元2(1244)年8月14日、鶴岡八幡宮の放生会に際して、大殿・藤原頼経、将軍・藤原頼嗣に供奉した御家人の中に、「大須賀左衛門尉胤氏」があり、暦仁元(1238)年2月17日の上洛以降、鶴岡八幡宮放生会までの6年の間に「左衛門尉」に任官したことがわかる。さらに絞り込むと、仁治2(1241)年11月4日、将軍・頼嗣は武蔵野開発の御方違えのため、秋田城介義景の武蔵国鶴見庄の館に移った。その際の供奉人として「大須賀左衛門尉」が見えるが、彼が胤氏だとすると胤氏が左衛門尉に任官したのはこの年までということになる。

 寛元3(1245)年10月16日、漏刻博士泰継という殺人犯が、去る9月26日から上総権介秀胤に召し預けられていたが、今日上総国に下された。また、同類の大膳権亮孝俊は、大須賀七郎左衛門尉(重信)が相具して下野国に召し連れられた。

 11月3日の将軍・藤原頼嗣の上洛時にも、上総権介秀胤・千葉次郎泰胤・相馬五郎義胤・東素暹入道ら一族とともに随兵として参列した。

 北条氏と三浦氏との戦いである「宝治合戦」では、三浦方とされた秀胤(三浦泰村の妹聟)の追討も行われることとなり、宝治元(1247)年6月6日、胤氏と東素暹入道にその追討が命じられた。胤氏・東素暹からみれば、秀胤は宗家に近い一族であり、幼い宗家・頼胤の後見人筆頭、さらに東素暹とは縁戚関係でもあったため、あまり士気も上がらなかったと思われるが、軍勢を率いて上総国一宮の大柳館を囲んだ。

 秀胤はかねてから館の外に薪を積み重ねており、館を囲まれるや薪に火を放ち、その猛火は人馬も通れないほど灼熱の空間を作り出した。上総国の豪族も胤氏・素暹の軍勢に加わっており、数百騎にも及ぶ軍勢であったと考えられるが、その炎が熾(さかん)であったために手出しができず、胤氏らはときの声をあげて矢を射かけた。これに館内の馬場から返しの矢が射られるといったさしたる戦いもないままに、秀胤一族は読経して自害して果てた。さらに館に火をかけたため、館内外の炎に煽られた幕府勢はそのまま数十町先まで退き、敢えて首を取ることはないと、そのまま鎌倉へと帰還した。

●宝治元(1247)年6月6日、7日『吾妻鏡』(『全訳吾妻鏡』)

六日 丁亥
上総権介秀胤を討ち捕らふるべきの旨、大須賀左衛門尉胤氏、東中務入道素暹等に仰付らる。秀胤は泰村が妹聟たるによつて也、また、武蔵国六浦庄内に餘党人等群居の由、風聞するの間、領主陸奥掃部助実時に仰せ、家人等を差し遣はすの上、薩摩前司祐長、小野寺小次郎左衛門尉通業、同じく御旨を含みて、これを追捕せんが為に行き向ふと雖も、その実無きによつて、各々帰参すと云々
今日、逆党の首級実検に及ぶと云々、光村、家村が首、頗る御不審ありて未だ一決せられずと云々、また大倉次郎兵衛尉、武蔵国に発向す、残卒の隠居する処を尋ね求めんが為なり

七日 戊子
胤氏、素暹等、秀胤が上総国一宮大柳の舘を襲ふ、時に当国の御家人、雲霞の如く起こりて合力を為す。秀胤、兼ねて用意するの間、炭薪等を舘の郭外の四面に積み置き、皆ことごとく火を放つ、その焔、はなはだ熾にして、人馬の通るべき道にあらず、よつて軍兵轡を門外に安んじ、わづかに時の声を造りて矢を放つ、ここに敵軍馬場の辺に出逢ひて、答の箭を射る、この間、上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、心静かに念仏読経等の勤めに凝らし、各々自殺す、その後、数十宇の舎屋に同時に放火す。
内外の猛火混じて半天に迸る、胤氏以下の郎従等、その熾なる勢に咽び、還つて数十町の外に遁避し、敢へてかの首を獲るにあたわずと云々、また下総次郎時常、昨夕よりこの館に入り籠りて、同じく自殺せしむ、これ秀胤が舎弟なり、亡父下総前司常秀が遺領垣生庄を相伝するの處、秀胤が為に押領せらるるの間、年来鬱陶を含むといへども、この時に至りて、死骸を一席に並ぶ、勇士の美談する処なり、そもそも泰村誅罰のこと、五日午刻、当国の聴に通ずと云々。

◆宝治合戦時の千葉氏略系譜(■:宝治合戦で幕府方、■:宝治合戦で三浦方、■:東素暹によって助命された子ども)

千葉介常胤─+─千葉介胤正──+─千葉介成胤 +─埴生時常─────男子(4歳)
      |        |       |(次郎)    
      |        |       |        
      |        +─堺常秀───+─千葉秀胤───+─千葉時秀    +─男子(5歳)
      |         (平次兵衛尉) (上総権介)  |(式部大夫)   |
      |                         |         |
      +─大須賀胤信──+─大須賀通信───大須賀胤氏  +─千葉政秀────+─男子(3歳)
      |(四郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)(次郎左衛門尉)|(修理亮)
      |        |                |
      |        +─大須賀重信          +─千葉景秀
      |        |(七郎左衛門尉)        |(六郎)
      |        |                |
      |        +─大須賀範胤          +─男子(1歳)
      |         (八郎左衛門尉)        |
      |                         +─千葉泰秀
      |                          (五郎左衛門尉)
      |                           ∥─────────男子(1歳)
      +─東胤頼──────東重胤──────東胤行─────娘
       (六郎大夫)   (平太)     (素暹入道)

 東素暹入道は娘を秀胤の三男・上総泰秀に嫁がせていて、その間に一歳になる男の子があった。6月11日、素暹は執権・北条時頼のもとへ出向いて、みずからの功績に代えて自らの孫のみならず、秀胤の孫や甥sの助命歎願をし、17日にはその必死の訴えが実を結んで子どもたちは幕府へ召還され、時頼の実検ののち、千葉一族に預けられた。

 この翌年、泰秀の子が2歳になると、陸奥国五戸郷鹿内への流罪が決まり、その護衛として大須賀七郎景氏・国分行泰らが従ったというが不明。彼らの子孫は現在も青森県内に続いているという。

 一方、宝治合戦では三浦氏の「家子」となっていた大須賀重信・大須賀範胤(三浦氏の家人)の両名が三浦方に属しており、重信・範胤両名は6月5日に法華堂合戦から行方をくらまし、重信はそのまま逐電、範胤は6月13日に捕らえられたが、おそらく赦されており、子孫が続いている。

 建長4(1252)年4月3日、御格子番の五番に「大須賀次郎左衛門尉胤氏」として名を連ねている。

●御格子番

足利三河前司頼氏 安達城九郎泰盛 相模八郎時隆 足利上総三郎満氏 長井蔵人泰元
二階堂隠岐三郎左衛門尉行氏 伊賀次郎左衛門尉光房 薩摩七郎左衛門尉祐能 大須賀次郎左衛門尉胤氏 豊後三郎左衛門尉忠直
山内首藤左衛門尉成通         

 同年9月25日の鶴岡八幡宮の仁王会に供奉人として参列。同列に「東中務丞胤重」が連なっている。同年11月11日、将軍家が新御所へ移る際にも供奉人として参列。おなじく海上弥次郎胤景が列した。同20日には、将軍家の北条陸奥守重時の屋敷への御渡には、相馬左衛門尉胤村、武石四郎胤氏とともに参列、同年12月17日の将軍家の鶴岡八幡宮への参詣に際しては、海上胤景とともに供奉した。

 建長8(1256)年8月15日、将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮放生会御参に「大須賀左衛門四郎」なる人物が参列している。後陣には千葉介頼胤・大須賀胤氏・武石胤氏らが参列している。大須賀左衛門四郎は、おそらく胤氏の四男のことであろうと考えられるが、実名は不明。

 弘長3(1263)年、胤氏入道信蓮は「神四郎法師了義(諏訪氏?)」へ「大須賀保内毛成・草毛両村」を沽却したが、彼はこれ以前に両村を「本間四郎左衛門尉」に二十年を限って質入していた。この事実を知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏入道は翌文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。しかし約束の二十年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉は毛成村を、胤氏入道が沽却した相手・了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進した(『円覚寺文書』)。

 両村の替地として法師了儀には好嶋荘内紙谷郷が与えられたにも関わらず、了義は好嶋荘内紙谷郷と引き換えに手放したはずの「大須賀保内毛成・草毛両村」を自らの所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、子孫の大須賀時朝と円覚寺雑掌が相論をしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで続いた。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   建治2(1276)年 次郎左衛門尉 修福院殿實性信蓮大居士
『寶應寺大須賀系図』     次郎左衛門尉 信蓮
『大須賀家蔵系図』 元久元(1204)年 安貞元(1227)年 24歳 次郎左衛門尉 信蓮居士

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