大須賀氏

大須賀氏

【大須賀氏について】

【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 【千葉氏の一族】

●大須賀惣領家想像系図

 千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介)  (四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                                  |
                                  +─時朝──────宗朝──+
                                   (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                                |
+───────────────────────────────────────────────+
|
+─宗時       +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)


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大須賀憲宗(????-????)

 大須賀家9代当主。父は大須賀越後守宗信。母は不明。通称は不明。官途は左馬助。臼井上総介胤盛と並んで下総国守護代。

■大須賀家想像略系図

 大須賀胤信──通信──────朝氏───+─宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +─時朝──────宗朝──+─宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +─宗信───憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

 憲宗は、貞治4(1365)年の竹壽丸(千葉介満胤)の家督相続のとき、竹壽丸がまだ6歳と幼少であったため、鎌倉公方・足利氏満の命を受け、その後見人となった。憲宗の「憲」は関東執事・上杉憲顕(民部大輔入道道昌)からの偏諱かもしれない。

 このころ、大須賀憲宗ら鎌倉以来の千葉一族と、竹壽丸を擁している千葉家の直臣・中村氏などの対立が表面化した。千葉家の直臣・中村式部丞胤幹の父・入道弥六入道性阿は、かつて千葉介貞胤の代官として香取神領の奉行を務めていた人物であった。しかし、千葉介の権勢を背景に中村氏は次第に香取神領を押領。その子・中村胤幹は、香取大禰宜家と対立する香取社の神官を抱き込んで香取神宮を攻めたり、火を放ったりといった狼藉を行うようになった。こうした千葉介の権威を笠に着る千葉家直臣層に対抗するべく、満胤の後見人は「一族一揆」を結び、香取神社と組んだ。

名前 実名 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康?(孝山誓阿)
⇒これまで粟飯原清胤とされてきたが誤り。
────────
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 不明 木内七郎兵衛入道(?)
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) 大須賀左馬助(聖応の子・憲宗)

 その一族一揆の代表者五人が、沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応だったたが、「沙弥聖応」こと大須賀宗信はすでに亡く、嫡男・左馬助憲宗がこれにかわって一族一揆に加わった。応安7(1374)年8月9日、鎌倉府は千葉介満胤の香取神領押領に関して、千葉一族にこれを退けるよう命じている(『鎌倉府執事奉書』)。この中には十一名の一族一揆のメンバーが記されており、下総国でかなり大きな力を持っていたことがうかがえる。

名前 法名 実名
木内七郎兵衛入道   ?
大隅次郎   千田義胤か?…木内胤康の義弟
相馬上野次郎 茂林 相馬左衛門尉胤宗か?
大須賀左馬助   大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分六郎兵衛入道   国分小六郎胤任?
国分越前五郎   国分越前五郎時常
国分与一   国分与一氏胤?
東次郎左衛門尉入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
神崎左衛門五郎   神崎左衛門五郎秀尚
那智左衛門蔵人入道 沙弥禅広? ?

 応永4(1397)年12月23日『足利氏満書状』には、法華寺・本妙寺、弘法寺の寺領として日暹が申し出ている『日尊譲状』『埴谷重義避状』の旨通りの知行地が実際に支配されているかどうか、「大須賀左馬助憲宗・臼井上総介胤盛」の両名を派遣して調べさせたところ、証文通り相違なく知行されていたことを認め、安堵したことが記されている。大須賀憲宗・臼井上総介胤盛は「守護代」としての任務に携わっていたと考えられ、国分氏とともに大須賀氏が巡察に命じられていたこともあった。「臼井上総介胤盛」は臼井氏中興の祖・臼井左近将監行胤の孫にあたる人物で、臼井六郎尚胤の次男である。

●応永4(1397)年12月23日の下総国八幡庄法花寺・本妙寺・弘法寺の免田

知行地名 知行形態 現在地
下総国八幡庄谷中郷 田畠在家  
         北方村 田畠在家 市川市北方・北方町・本北方
      曽谷郷 田畠在家  
         秋山村 田畠在家 松戸市秋山
   臼井庄神保郷小室村 田畠在家 船橋市小室町
         伊毛窪 田畠在家 船橋市神久保
         嶋田 田畠在家 船橋市島田
         平戸 田畠在家 船橋市平戸
         真木野 田畠在家 船橋市真木野
   千田庄原郷 所々堂免 香取郡多古町多古
      中村郷 田畠在家 香取郡多古町北中・南中
         三谷村 田畠在家
      金原郷 阿久山堂免 八日市場市阿久山
   千葉庄堀籠郷 屋敷一ヶ所  
   葛西御厨篠崎郷 田畠在家 江戸川区篠崎町・上篠崎・西篠崎・南篠崎・東篠崎
上総国周東郡末利上村中嶋 田畠在家 君津市中嶋

応安5(1372)年11月14日『将軍家御教書』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

   香取社大禰宜長房申条々
 
 一 当社造替、千葉竹壽丸并大須賀左馬助等無沙汰事、
 一 常陸下総両国海夫事、
 一 実秋、実持并中村式部丞胤幹等、対于神輿及狼藉、神人殺害、社宇放下以下事、
   以前条々、関白家就被執申、所有吹嘘也、神訴異于他歟、早厳密且被遵行之、
   且可被申左右、更無遅怠様、殊可有其沙汰之状、依仰執達如件、

    応安五年十一月十四日  武蔵守(花押:細川頼之)
      上椙兵部少輔入道殿(上杉能憲)
 

応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、
    応安七年四月二十五日     沙弥(在判)

     大須賀左馬助殿
国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿四通同前、

応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

下総国香取社警固事、先立 神輿御帰座時被仰了、所詮神領静謐之程、可被致警固之状、依仰執達如件、

   応安七年六月五日     沙弥(在判)

   大須賀左馬助殿   国分三河入道殿
   東次郎左衛門入道殿 木内七郎兵衛入道殿四通同前

応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、

   応安七年八月九日     沙弥(在判)

    木内七郎兵衛入道殿

※大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、国分六郎兵衛入道、国分越前五郎、国分与一、東次郎左衛門尉、木内七郎左衛門入道、野崎左衛門五郎、那智左衛門蔵人入道に同文書 

応永4(1397)年12月23日『足利氏満書状』(『中山法華経寺文書』)

 治部卿大僧都日暹申、下総国八幡庄法花寺本妙寺弘法寺等免田
谷中郷并北方村内田畠在家、同庄曽谷郷田畠在家、同郷秋山村内田畠在家、臼井庄神保郷小室村、同伊毛窪嶋田平戸真木野等村々田畠在家、同国千田庄原郷内所々堂免、同庄中村郷内田畠在家、同三谷村内田畠在家、金原郷内阿久山堂免以下千葉庄堀籠郷内屋敷壱ヶ所、葛西御厨篠崎郷内田畠在家、上総国周東郡末利上村中嶋内田畠在家等、任師匠日尊譲状并重義避状之旨、相伝当知行実否可支申仁有無被尋、証人大須賀左馬助憲宗、臼井上総介胤盛之處、證文無相違之上者、安堵事可有申沙汰候哉、恐々謹言

    応永四年十二月廿三日     氏満(花押)
     右衛門督入道殿

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   応永17(1410)年 左馬助 憲章院殿 明應聖哲大禅定門
『寶應寺大須賀系図』     左馬助 聖哲居士
『大須賀家蔵系図』 至徳3(1386)年 応永20(1413)年 28歳 右馬助 聖哲大居士

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