【大須賀氏について】
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●大須賀惣領家想像系図
千葉介常胤──大須賀胤信──通信──────胤氏────朝氏───+─宗胤
(千葉介) (四郎) (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
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+─時朝──────宗朝──+
(次郎左衛門尉)(下総守)|
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+───────────────────────────────────────────────+
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+─宗時 +─宗正───憲康────常康────朝宗────常正────政常────政朝───政氏
|(下総次郎) |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
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+─宗信───憲宗──+─宗幸───朝信────直朝────朝胤────朝宗────胤朝
(越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)
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大須賀家20代当主。父は大須賀尾張守政朝。母は月窓院殿玉林芳桂大姉。通称は弥六郎。妻は矢作国分氏の娘・荘観院殿花林春公大禅定尼。妻の花林春公は天正16(1588)年に亡くなった。
小田原の戦いの際、父・政朝とともに小田原へ入ったとされるが、実は松子城の守りにあったとも伝えられ、徳川勢が松子城を囲んだ際にはその勧告に従って城を明け渡して浪人となり、常陸国府中へと移り住んだ。その後、ふたたび松子へ戻り、菩提寺・宝応寺内に居住し、寛永2(1625)年7月11日に没したという。法名は眞廣院殿大顕養樹大禅定門(『宝応寺過去帳』)。
母の玉林芳桂は、寛永8(1631)年7月17日に亡くなり(『宝応寺過去帳』)、妻の花林春公(華林幽春)は天正16(1588)年正月8日に亡くなっている(『宝応寺過去帳』『本土寺過去帳』)の両方に記されている。華林幽春は「矢作殿息女」で矢作妙真寺の開山であった(『本土寺過去帳』)。
| 書名 | 生年 | 没年 | 通称 | 法名 |
| 『宝応寺過去帳』 | 寛永2(1625)年 | 弥六郎 | 眞廣院殿 大顕養樹大禅定門 | |
| 『寶應寺大須賀系図』 | ----- | ----- | ----- | ----- |
| 『大須賀家蔵系図』 | ----- | ----- | ----- | ----- |